大早川美鶴

 

 日が暮れるまで、小鞠とドリブルと一対一の練習をしていた。

 冬に比べて陽は長くなりはしたが、それでも六時すぎには沈んでしまう。小鞠は少しばかり物足りない表情を浮かべていたが、朝からやっていたことを考えれば充分すぎる練習時間だろう。事実、昼前から参戦した私ですら、疲労困憊でへとへとになってしまっていたのだから。

 帰宅した私を一番に迎えたのは、香ばしい揚げ物の匂いだった。

「お帰りー! お姉ちゃん。からあげ、作っといたから食べていいよ!」

 匂いに続くようにして、キッチンのほうから花鶏の声が聞こえてくる。

 汗でびしょ濡れになった衣類を洗濯機に放り、手洗いうがいを済ませてから、テーブルに向かう。すでに夕食の準備が済んでおり、大皿には山のようにからあげが盛られていた。

 ……確かにからあげは私の好物だけどよ。

 それをこのタイミングで出してくる意図が掴めず、花鶏のほうを見やる。

 彼女もまた様子を伺うように、ちらちらと私を盗み見ているようだった。

 互いが互いを探り合うような、居心地の悪い沈黙がおりる。

「……食べていいなら食べちまうからな」

 先に沈黙を破ったのは私のほうだった。

 おとなしく席に着いて、からあげと白米を一気に頬張る。からあげなんて『だれが作ってもそれなりに美味い』の代名詞だと思っていたが、やはり花鶏が作ったそれはひと味も、ふた味も違うようだ。それを意識してやっているのかはわからないが、そのからあげは私が今まで食べたものの中で、間違いなく、一番美味しいと思えてしまう代物だった。

 無心かつ無言でからあげを突いていると、辛抱堪らなくなったように花鶏が口を開いた。

「ねぇ、お姉ちゃん。なんにも言わないの?」

「美味いぞ」

「いや、そういうんじゃなくて――」

 花鶏の言わんとしていることは理解できたから、もう少しからかってやろうかとも思った。だが、私も私で完全に気持ちの整理ができたわけでもない。少なくとも今はまだ、小鞠や木実と行うような軽口や冗談の応酬を、妹と行えるとは思えなかった。

「とりあえず今後、私のこと縛り上げたり、私のフリしたりしたら縁きるからな」

 だから最低限、今朝の件については釘をさしておくことにする。

 こいつは今朝、家を出る直前の私を襲って、どこから用意してきたのかもしれないロープで縛り上げた挙句、私のフリをして小鞠を騙すという凶行に至ったのである。

「それは……ごめんなさい」

 今朝のことについては彼女自身も反省はしているのか、素直に謝罪の言葉を口にした。

 だが他の点――妹が小鞠に尋ねた件については、こちらから触れたいとは思わなかった。

 どうして妹が『大早川美鶴がバスケをする理由』なんてものに興味を持ったかはわからないが、どうせ、ろくでもないことが理由であることだけは、確かだろうから。

「あの子……お姉ちゃんのなんなの?」

 これ以上、私から会話を広げるつもりがないと気づいたらしく、花鶏のほうから話題を振ってくる。だがその問いかけはひどく漠然としたもので、なんと答えるべきか私にはわからなかった。それこそ『後輩』という回答くらいしか思い浮かばなかったくらいだから。

「お姉ちゃんが入れこんでるから、ちょっとちょっかいかけてみたんだけど、バスケもヘタだし、べつに特別可愛いってわけじゃないし……お姉ちゃん、ああいうのが好みなの?」

「好みって……ちげーよ。小鞠はただの後輩。私はあいつのこと応援してやってるだけだ」

「応援……? 応援ってどういうこと?」

 小鞠の事情を吹聴する気にはなれなかった。

 それは後輩に対する義理と言うわけではなく、むしろ――

「お前には怖くて立ち向かえないって気持ちが理解できねーだろうな」

 花鶏には小鞠や私の想いなんて理解できないと、そう思ってしまったからだ。

 それでも妹は私の言葉からなにかしらを受け取ったらしい。ただしく私の想いを理解できているとも思えなかったが、少なからず彼女は、その表情を顰めてみせていた。

「私はさ、お姉ちゃんさえいてくれれば、それで良かったんだよ?」

 からあげへと伸ばしかけていた箸が止まる。

 あらためて花鶏の顔を見てみれば、その顔は悲痛に彩られていた。

 思いだしてしまったのは、あの日、妹が私に言ったあの言葉だった。

「なにを勘違いしてんのかは知らねぇけど、私はお前を見捨てたつもりなんてねぇよ」

 だから、あのときは返せなかった言葉を、今さら口にする。

「私はただ……お前を追いかけるのに疲れちまったってだけだ」

 花鶏に追いかけられ、追い抜かれることにも疲れてしまっていた。

 花鶏は私によく懐いていた。

 それは双子だからというのもあるのだろうが、なにより私以外、花鶏と対等にやりあえる人間が近場にいなかったからだろう。妹にとって、私が唯一の遊び相手で、世界だった。

 しかし私と妹の能力の差はあまりに歴然としていた。

 妹と比べられることに私が辟易してしまう程度には。

 だから私は本気を出すことに対して脅えを抱いて生きてきた。いつだって花鶏の同行を気にして、妹が私に近づいてこようものなら、すぐさま逃げだした。妹が『私さえいればそれで良かった』と言ったように、私も知らず知らずのうちに彼女を世界の中心にしてたのだ。

 私も小鞠や木実に負けず劣らず、不健全な精神構造をしていたわけだ。

「結局……私には今も昔も、お前の姿しか見えてなかったんだ」

 だから私は今まで触れてきた中で比較的マシだったバスケを適当にやることにした。

 花鶏に負けたところで『テキトーにやってたんだから仕方ねぇ』と言い訳ができるように。それはある意味で、私が見つけた『花鶏と対等であれる唯一の方法』だった。

 だからそれを見捨てたと評されるのは、あまりにも不本意だ。

 私の中に根を張っていた劣等感のせいで、そんな落とし所を見つけたところで、姉妹らしい会話やコミュニケーションなんて、まったく行えるようにはならなかったのだが。

 ……時間が解決するっつーのは、やっぱり幻想だったのかもしれねぇな。

 それを薄々感じとっていたから、私は花鶏に立ち向かうためのなにかを求めていた。

 勇気でも嫉妬でも羨望でもなんだって良かった。花鶏の目を見ることができるなら。

 私はその方法を、小鞠を通して知れるんじゃないかと、そう思っていたのだ。

「さっきの質問の答え、ちょっと変えるわ」

「質問て……どれ?」

「小鞠が私のなんなのかって質問。あいつは私の後輩だけど、たぶんそれ以上に、私のお師匠様みたいな存在だよ。がむしゃらで、意固地で、なのにちょっと背中を押されただけでその気になっちまうバカで……ああ、やっぱりあいつは、私にとってライオンみたいなやつなんだ」

 私は小鞠が牝鹿ちゃんに立ち向かう姿を見て、きっとなにかを貰おうとしている。

 絶対に適わないと知っているものに立ち向かうには、玉砕する覚悟が必要だから。

「ライオンって、なに言ってるの。結局、私は、見捨てられたって話?」

 声は静かだったが、その感情は明らかに高ぶっていた。

 勢いのあまり立ちあがりそうになっていた花鶏を制止して私が立ちあがる。

「焦るなよ。ひとつずつ蹴りをつけてくつもりなんだ。そして、お前はあくまでラスボスなんだよ。今は私も経験値溜めてる最中なんだから、そこでちょっと待ってやがれ」

 食器を重ね、台所へ持ってゆく準備を済ませ、最後にもう一度だけ口を開く。

「今度は逃げねぇし、見捨てもしねぇよ。お前は――私のたったひとりの妹なんだからな」

「お姉ちゃ――」

 花鶏の呼びかけを無視して、私は逃げるように台所に向かった。

 なぜか異様に目頭が熱くて、バカになったみたいに体が震えていた。どうしてこんなに熱いものが目からこぼれ落ちるのか、私にはこれっぽちも理解することができなかった。

 

 

 対決の前日は午前中に軽い練習を行って、午後からは休みにすることにした。

 そこまで本格的に体調を整える必要があるかは疑問だったが、どうせやるなら勝ちにいきたい。なにより負けたときの言い訳を作らないために、万全を期する必要もあった。

 ……牝鹿ちゃんの実力がわかんねーから、なんとも言えないが。

 それでもこの二週間ちょっとで小鞠は目に見えて成長しているはずだ。

 やれることはやった。そう胸を張ることはできる。なにより相手には一ヶ月ちょっとのブランクがあるはずで、そのアドバンテージを考えれば、勝てる見込みは充分にあった。

 まあ、私が悩んだって仕方ない。

 泣いても笑っても勝負は明日行われるのだ。

 そして戦うのは小鞠自身なのだ。

 外野にすぎない私がいくら慌ててみたところで意味なんてない。

「私はこれからフラジール行くつもりだけど、小鞠はどうする?」

 運動後のストレッチをしながら、気分転換がてら小鞠にバスケ以外の話題を振ってみる。

「そうですね……今日は家でゆっくり休んで、明日に備えようと思います」

 前屈で脚を伸ばしながら小鞠が答える。

 その回答があまりにも気のないものだったから、小鞠の考えていることがなんとなくわかってしまう。口角が不本意な形で吊り上がるのを自覚しながら、私は後輩に問いかけていた。

「お前……私がいないからって練習とか続けようとすんなよ?」

「そ、そんなつもりないですよ」

 小鞠はさっと背後へと視線を逸らす。

「あからさますぎんだろ。気持ちはわからなくもねぇけど、そんなことしても自分の首を締めるだけだからな。お前が負けたときの言い訳を作りたいってんなら止めやしねぇけど」

「うっ……わかりましたよ。そこまで言うなら、今日はきちんと休みます」

「ついでに長風呂は控えるのと、寝る三時間前から腹にものは入れるなよ。あとできるだけ早寝して、早起きしろ。あとは勝負の六時間前には起きて、体を温めとくのがベストだな」

「それ『ついでに』って量じゃないですけど、どこのアスリートの生活ですか」

「まあ、やれることはやっておけって話だよ」

 今のは冗談が半分で、本気が半分だった。体調を整えるのは大事だが、それ以上に『自分は体調を整えた』と自分に言い聞かせることで得られる精神的な安定が大事なのだ。緊張やプレッシャーのせいで、本来の実力を出せないなんて話、枚挙にいとまがないのだから。

 帰り支度を済ませ、公園前の自転車置き場へと向かう。

 自転車に乗る段になって、小鞠はおもむろに足を止め、私へと振り返った。

「美鶴先輩――」

 小鞠は私の名前を呼ぶ。しかし続く言葉は、唇の震えによって掻き消された。その表情は迷いと葛藤を示すように揺れ動き、最終的に行き着いたのは、覚悟を決めたような笑みだった。

「いえ、なんでもないです。明日、私、絶対勝ちますから。見ててくださいね」

「ああ。私もお前が勝つのを楽しみにしてるよ。そしたら、明日、頑張ろうな」

「はい。頑張ります。それじゃあ先輩……また明日」

 言って、小鞠は自転車に跨がり、家を目指して走っていった。

 ……小鞠のサドル、下がってたな。

 いつの間にサドルを下げたのだろう。ついこのあいだまで爪先がつくのでやっとだったはずなのに。今日の彼女のサドルは、体格にフィットしたものだった。

 そんな小さな変化に気づいてしまう自分が、なんだか気持ち悪くて笑ってしまった。

 

 

 フラジールにひとりで現れた私に、木実はなんとも渋そうな表情と、胡乱な視線を向けてきた。そんな彼女の無礼な態度を無視して、私はカウンター席の一番端に腰をおろす。

 ゴールデンウィークのなかばということもあってか、店内はほどよく賑わっていた。

 相変わらず客層はお嬢様然としたもので、女の子らしさというものから掛け離れた私は、どこか場違いな気がしてしまう。苦し紛れに自宅で私服に着替えてきたものの、パンツに白のカッターシャツという組み合わせは、居心地の悪さを助長するだけのような気もした。

「小鞠ちゃんについててやらなくていーの? 不安なんじゃない?」

 テーブルにカップを運んだ木実が、カウンターの向こう、私の正面に腰かける。

「小鞠だってガキじゃねぇんだ。あいつだってひとりで考えたいことぐらいあるだろ」

「ふぅん? まあ……少なくとも美鶴さんが逃げてるってわけじゃなさそーね」

「……なにが言いてぇんだよ」

 木実の言い回しにカチンときて目頭が熱くなり、心持ち声が低くなってしまう。

「美鶴ちゃん、いつものでいいの?」

 カウンター奧に並んでいるカップを手に取りながら那月さんが尋ねてくる。

 木実は私の問いに答える気もなさそうだったので私は那月さんに頷いてみせた。

 那月さんがコーヒーを作っているあいだ、私たちのあいだに会話はなく、木実は気のない様子で店内を見回していた。私はいまだに熱を帯びている目頭を冷ますために目を閉じた。

 はい、いつもの。そう囁きながら、スッとカップが私の前に差しだされる。

「戦うのは小鞠ちゃんなんだから、美鶴ちゃんがそんなに緊張することないんじゃないの」

 そして沈黙をゆっくりと切り裂くようにして那月さんが告げる。

「緊張なんか……」

「じゃあ、苛立たしげに指でテーブル叩くのはやめてね」

 那月さんの指先が私の手元に突きつけられる。

 どうやら知らず知らずのうちに、指で拍を刻んでしまっていたらしい。

「それに呼吸が止まってる。コーヒー飲む前に、落ち着いて深呼吸でもしたら?」

「うっ……」

 言われて始めて、私は自分の息苦しさに気づく。

 貪るように深く息を吸うと、少しだけ焦りにも似た苛立ちが霧散してくれた。

「……そうですね。緊張してなかったら、今日ここに来ることはなかっただろうし。あー、それと木実、さっき妙な突っかかりかたして悪かったな。どうにも落ち着かなくてよ」

「べつに私は怒鳴られようが殴られようがかまわないんだけどさ」

「いや、せめてそこはかまえよ」

 本人は冗談のつもりだろうが、この女がそれを言うと冗談に聞こえないし、体育の着替えのときに見た肌のことを思いだしてしまいそうになるからやめて欲しかった。

 しかし木実のブラック寄りジョークのおかげで多少たしよう余裕が出てきてくれる。

 ……こんな気持ちになったのはいつ以来だろうな。

 勝負の直前の血管に針をぶち込まれたような、肌がひりつく感覚。そんな痛ましい感覚、小学生のとき――それこそ花鶏を追いかけるのをやめたあの日から感じたことはなかった。

 私は胸の痛みから逃れるため、コーヒーを鼻先に近づけて匂いを嗅ぐ。

 そのままコーヒーを口に含むと、肩に入っていた力がスッと抜けるような心地がした。

 しばらくしてドアベルの音が鳴り響き、木実と那月さんの視線がそちらに向かう。ただ客が入ってきただけで、わざわざ振り返るのもバカらしかったので私は大きく顔を動かしはしなかった。ただ視界の端で木実が心なしか驚いたような表情をしていたのが気掛かりだった。

「木実先輩、こんにちは。那月さん、おひさしぶりです」

 続いてドアのほうから聞こえてきたのは、ハキハキとした礼儀正しそうな声。

 その声に聞き覚えはなかった。

 だけど室内に響き渡るような、やけに通りのいいその声は運動部のそれを彷彿とさせるもので、この喫茶店に場違いなその声に、私の想像力はひとつの結論を打ち出してしまう。

「あら、牝鹿ちゃんじゃない」

 私の結論を裏づけるように那月さんは言った。ここまでくれば、さすがに振り返ざるを得なかった。ドアの前に立っていたのは、ドアベルに頭が届きそうなほど長身の女子だった。

 ……たっけぇ。

 目算だが、一八〇センチぐらいタッパがあるように思われた。女バスのインターハイ出場校の最高身長が一九〇であることを考えると、その体格だけでひとつの才能と言えるレベルだ。小鞠は単に牝鹿ちゃんのことを『背の高い幼馴染み』としか紹介しなかったが、これは少し話が変わってくる。小鞠が自分の小柄さをコンプレックスにしてしまうのもわかる気がした。

「ほら、美鶴」

 横に立っていた木実に肘で小突かれ我に返る。

 いつの間にか目の前に牝鹿ちゃんが立っていて、私のことを訝しむようにして見つめていたのだ。どうやら木実と那月さんを介して、軽い自己紹介を行おうとしていたらしい。

「あー……バスケ部の二年で、南羽小鞠さんの先輩をやってます。大早川美鶴です」

 無意味に急かされ焦ったせいで、完成度できの悪いギャグみたいな挨拶をしてしまう。

 少なくとも後輩にする類の挨拶ではない。

 事実、牝鹿ちゃんも面を食らったような表情を浮かべていた。

「えっと、放送部一年、南羽小鞠さんの幼馴染みの心塚牝鹿です。よろしくお願いします」

 牝鹿ちゃんは牝鹿ちゃんで、善意のつもりなのかは知らないが、私の挨拶をマネしながら、ぺこりと頭を下げてくる。かえって恥ずかしくなるからやめて欲しかった。

「つーか牝鹿ちゃん、またそんな格好してんのな」

 指摘しながら、木実は牝鹿ちゃんの上から下までを指さす。

 その『長身』と『元バスケ部』という要素に引きずられて、今までまったく疑問に思わなかったが、言われてみれば彼女はウィンドブレーカー姿という、私以上に場違いの格好をしているのだった。部活帰りにコンビニに寄るような感覚で、この喫茶店に立ち寄ってるみたいだ。

「明日、小鞠と一対一なんだなって思ったら、ちょっと、じっとしてられなくて……それで、その……無我夢中で走ってたら、気づいたら学校にいて、だったらついでにと思って」

「……それ、牝鹿ちゃんが初めてここに来たときと同じパターンじゃない」

 那月さんはため息混じりに呟きながら、今回は奢らないからねと釘をさしていた。

「大丈夫ですよ。今日はさすがにおサイフ持ってきてますから」

 牝鹿ちゃんはキャラ物の小銭入れを取り出しながら得意気に言う。

「そういう話してんじゃないけどな。やっぱり牝鹿ちゃんは天然入ってるって」

 今のはさすがにボケですからと一頻り笑った後、牝鹿ちゃんは私に視線を移してきた。

「大早川さん、隣いいですか?」

「ああ。それと大早川さんは野暮ったいから美鶴でいいよ」

「なんだかそんな気がしてました」

 そんな奇妙なことを言いながら、牝鹿ちゃんはスッと私の横に腰かけた。

 当然のことながら、座ってなお彼女の身長は私より頭ひとつ分は高い。完全に部外者であるはずの私ですら『バスケ辞めちまったのもったいねぇな』と感じてしまうほどの財産を彼女は持っているのだった。彼女はカフェモカを注文し、運ばれてきたそれを両手で抱え、美味しそうに口へと運んでいた。そんな所作と身長のギャップが、なんとも可愛らしく、微笑ましかった。牝鹿ちゃんに追随するように、私も一口カプチーノを飲んでから口を開く。

「悪いな、牝鹿ちゃん。いきなりこんなことに巻きこんじまって」

「こんなことって、どのことです?」

「小鞠との勝負だよ」

 ああ、と合点がいったように、牝鹿ちゃんは声をこぼした。

「いいんです。私も、こういう機会が欲しいって、そう思ってたんで」

「あ、ちなみにバスケで決着つけたらって提案したのはあたしだかんね。ヘタしたら牝鹿ちゃん、小鞠ちゃんと殴り合いさせられるところだったんだから。那月のせいで」

 木実の発言に那月さんが横からツッコミを入れている。私はそのやりとりを苦笑しながら見つめていたが、牝鹿ちゃんからの応答がないことが気にかかり、彼女の横顔を盗み見る。

「……決着」

 ちょうどそのとき、牝鹿ちゃんがぼそりと、そう呟いたのが聞こえた。

 その言葉が彼女のどのような想いを湛えているのかはわからなかった。

 それでも彼女が小鞠との関係について、今まで悩み続けてきたことはわかったし、その懊悩が彼女から小鞠へ向けられた想いの強さであることも理解できた。

「牝鹿ちゃんはさ、小鞠のこと好きなんだな」

「好きですよ」

 私の唐突な質問にも、牝鹿ちゃんは迷いなく答えた。

 小鞠に同じ質問をしたならば、彼女はどう答えるだろう。迷い、悩み、考えあぐねた挙句ではあるだろうが、きっと彼女も同じ答えに行き着くのだろうと確信できた。

 たったひとりの親友だったからこそ、話がややこしくなってしまっただけなのだろう。

「小鞠はいい友だちを持ってるんだな」

 直線的な牝鹿ちゃんの発言にあてられて、私もついそんなことを呟いてしまう。

 私の呟きを聞いた牝鹿ちゃんは、ぷっと失笑を漏らした。

「あ、ごめんなさい……なんだか美鶴さん、さっきからお父さんみたいなことばっかり言ってるなって思って。最初も『どうも、小鞠の父です』みたいな感じでしたし」

 わざわざ声を低めて、牝鹿ちゃんは呟き、それを聞いた木実まで笑い始める。

 あらためて自分の言動を思い返し、一気に恥ずかしくなってくる。

 ……にしたってお父さんはねぇだろ。

 お母さんと言われたら、それはそれで複雑だったろうが父よりはマシだった。

「小鞠は……その、バスケ部でどんな感じですか?」

 私の反応を気にしてか、牝鹿ちゃんが話を切り替えるように問うてくる。

 もしかしたらそれが彼女にとっての本題なのかもしれなかったが。

「どんな感じ……か」

 ――牝鹿ちゃんのせいで、ぶっ倒れるまで練習してたんだぞ。

 そんな答えが頭に思い浮かぶが、たとえ事実であっても、それを牝鹿ちゃんに伝えてしまうのは酷なような気がした。だけどそれ以外で特筆、語るべき点も見つからない。

「まあ、生真面目にすぎるよな。うちのバスケ部――とくに三年生はテキトーに流してやるって感じだから、ひとりで頑張ってる小鞠はちょっと浮いちまってるな」

「やっぱりそうですよね……部活動紹介のときも、ちょっと雑だなって思ってて。だから小鞠がうまくやれてるか心配だったんですけど……案の定って感じですね」

 そう呟いて牝鹿ちゃんは苦笑を浮かべた。

 だけどその苦笑はどこか愛おしさが滲むものだ。

「小鞠、中学のときも一回、先輩と衝突してるんですよ」

「へえ……?」

 続きが気になった私は、目線で牝鹿ちゃんに続きをうながす。

「スタメンは実力主義であるべきだって。どうして三年生の思い出作りに私たちが付き合わされなくちゃいけないんだって。やるからには勝ちにいくべきなんじゃないかって言うんです」

「まあ……正論っちゃ正論だな」

 だがそれを口に出して指摘しまうのは、どう考えても的外れだった。だけど上級生相手に啖呵を切っている小鞠は、なんだかとても『らしくて』私は思わず笑ってしまう。

「正面だって衝突は避けてるみたいだから……小鞠も成長したってことか」

 今のバスケ部も似たようなものだから、きっと小鞠も内心では苛立っているはずだ。もしかしたら牝鹿ちゃんとの問題で手一杯で、そちらに気を割く余裕がないだけかもしれないが。

「成長って呼べるのか微妙な気がしますけどね」

 私につられて苦笑をこぼしながら牝鹿ちゃんが呟く。

 そしてコーヒーをちびりと舌で舐めてから続けた。

「でも、小鞠に先輩がいてくれて良かったです」

「私は……小鞠になんにもしてやれてねぇよ」

「毎朝早くから遅くまで練習に付き合ってくれてるってだけで充分すぎると思いますけどね。それ以上に、たぶん美鶴さんは小鞠の心のささえになってくれてると思います」

 私は黙って、牝鹿ちゃんの言葉に耳を傾ける。

「小鞠、私とは話してくれませんけど、それでも……最近、ちょっとだけ明るくなってきたような気がするんです。入学したてのころは、こんなんで高校生活やっていけるのかなって、私のほうが心配しちゃうくらいだったんですけど。最近クラスで友だちもできたみたいだし」

 牝鹿ちゃんの横顔はホントに心配そうで、同時に安堵が滲んでいて。

 そんな表情を見てしまった私は自分の心が緩みそうになるのがわかった。

「私からすれば、牝鹿ちゃんほうが、よっぽど小鞠のお父さんみたいだけどな」

 それは先ほどの仕返しではなく、こぼれ落ちた本心だった。

「それじゃ私たちが保護者なんじゃなくて、小鞠の娘感むすめかんが強すぎるんですね」

 ああ、と牝鹿ちゃんの冗談に納得する。

 確かにあれは見ていると庇護欲をそそられる、そういう存在なのかもしれなかった。体の小ささにしても、いろいろなことに対して直向ひたむきで必死名姿勢にしても、そうだ。

「なあ、牝鹿ちゃん。明日の小鞠との勝負、怖いか?」

「怖い……っていうのとは、少し違うような気がします。ただ、きちんと小鞠と仲直りできるのかなって不安はありますよ。やっぱり……私は小鞠のことが大好きですから」

「うん……やっぱりそうだよな。牝鹿ちゃんでも、不安にはなるよな」

 それはひとえに『大好きだから』が理由なのだ。

 胸中に広がった言い知れない感情を中和させるように、カップに残っていたカプチーノを飲み干す。底に沈んでいた甘さのかたまりが舌を犯し、思わず頬が引き攣るのがわかった。

「そしたら、私はそろそろ行くよ。那月さん、会計お願い」

 木実と牝鹿ちゃんにも別れを告げ、店を出る。

 店先に停まっていた場違いめいた自転車のカギをハズして、手で押しながら歩き始める。

 そんなに焦る必要はない。

 べつに家に帰ってからでも問題はないはずだ。

 そうは思うものの気づくと私の手はポケットへと伸び、スマホを取りだしていた。