南羽小鞠

 

 今まで漠然とシュート練習を行っていたが、打倒牝鹿という目標が打ち出されたおかげで、皮肉にも前よりも練習に精が出るようになっていた。美鶴先輩の指示に従って、ドリブルとシュートの精度を上げるための練習を行う。試合を意識するならば、ここにパスも織り交ぜるのだが、今は一対一という特殊な状況を意識した練習だ。とにかく個人プレイの精度を上げてゆくしかない。そして練習の成果を確かめるように、合間合間に先輩とも一対一を行う。

 パン!

 とボールが弾かれる音がコートに響く。

 私のシュートが先輩によってブロックされた音だった。

 先輩との一対一は都合二〇回目くらいになるが、今日は一度も先輩から点を取れていなかった。悔しさと焦りをごまかすように、私は額の汗を乱暴に拭い、スポドリを飲み干した。

「小鞠さ。どうして私から点を取れないか、考えたことあるか?」

 私と同様にペットボトルを傾けていた先輩が、横に並びながら尋ねてくる。

「そりゃあ考え続けてますけど……単純に練習量が足りないことぐらいしか」

 先輩は私よりすべてのステータスが高い。

 だから数を重ねれば負けが嵩むのも当然の摂理だ。

 そんな私を見て、先輩は苦笑を浮かべ、肩を落としていた。

「一昔前のスポ根じゃねぇんだからよ。もう少し理知的にいこうぜ」

「理知的……ですか?」

「そう。理知的だ。一対一で大事なのは、やっぱり決定力なんだよ」

「決定力って……つまり点を入れる能力とか、確率の高さのことですよね」

「そうだな」

「それ、要は『点を入れれば勝つ』って言ってるようなものですよね。私以上に脳筋じゃ」

 理知的なんて単語を使うぐらいだから、どんな頭脳派な発言が飛びだしてくるのだろうと身構えていたのに。そんなルール以前の問題をあらためて指摘されてしまっては肩透かしもいいところだ。胸中でそう考えていた私に、先輩はちっちっち……と指を左右に揺らしてみせた。

「理知的って言ったって、私も小鞠も試合中に細かいことを考えてる余裕なんてないだろ? だからこそ、物事をとにかく単純化してゆく必要があると美鶴さんは考えたわけだ」

 いいか? そう呟いて、スリーポイントラインに立ち、ゴールのほうを指さす。

 どうやら私にディフェンスをやれと言っているらしい。

「ジャンプシュートが決まらない選手って、正直まったく怖くないんだ。試しに『私は絶対にジャンプシュートを打たない』って条件下で一対一やってみようぜ。それでわかるから」

 先輩が私にワンバウンドのパスをして、今度は私がそれを先輩に返す。

 先輩がボールを受け取ったタイミングで、ふたりとも膝を曲げ、重心を下げる。

 一対一の直前に行う儀式のようなものだった。

 姿勢が下がった瞬間から、一対一が開始する。

 私は先輩にドリブルで抜かれないように一定の距離を置いてディフェンスする。

 先輩のドリブルの動きを見てから、そちらに回りこむようにしてゴールを守る。

 ……ジャンプシュートを打たないってわかってるからドリブルだけ警戒できるんだ。

 本来、ディフェンスはジャンプシュートを警戒するため、片手が届く距離に待機するのが基本だ。しかし相手がドリブルしかしないとわかっているなら、いくらでも距離を置ける。

 結果、相手の行動を観察したあとにディフェンスに回れるから抜かれる心配もない。

 最終的にコートの端、角の部分まで追いこまれた先輩が諦めたように両手を挙げた。

「ほらな。バスケにおいてジャンプシュートが打てないってのはお話にならない。ジャンプシュートが打てないやつが相手なら、究極、ゴール下で突っ立ってればいいだけなんだからな。まあ、どんだけシュートが苦手な選手でも、ゴールに近づけば近づくだけ精度は上がるんだから、今のは有り得ない仮定だけどな。今回はわかりやすさ重視でいこうぜ」

「先輩の言いたいこと、わかったような気がします」

 ジャンプシュートの決定力があれば、それだけ相手を警戒させることができる。

 それでも私のシュートの決定力は決して低いほうじゃない。スリーポイントラインの内側で五割、そこから一歩近づくたびに六割、七割、八割と精度を上げられる自信はあった。

 なのにどうして私は先輩から点を取れないのだろう。

「わかったような気がするのに、なんだか納得できなさそうな顔してんな。だけど今のは話の前半部分だ。これは逆についても同じことが言えるっつーのが大事な点だ」

 だむだむだむ――と両手でボールを弄び、先輩はその場でドリブルをし始める。

「いくらジャンプシュートが決まっても、ドリブルで抜く力がないなら怖くない」

「あっ……そっか」

 言われてみれば当前の話だ。

 今の話を逆にするなら、ジャンプシュートしか打てない選手がいるなら、とにかく密着し続ければいいという話になる。ドリブルができないなら、抜かれる心配もないのだから。

「小鞠はどっちかって言うとこのタイプだな。何回も一対一やってるから、クセもなんとなくわかってフェアじゃないけど、今のお前、最初から私を抜く気がないってわかっちまう」

 ドリブルはヘタだけどジャンプシュートにはそれなりの自信を持っている。

 その結果として、どうしてもシュートに頼ってしまう傾向があった。

「いいか、一対一は相手に対して無限に二択を突きつける遊びなんだ」

「無限の二択」

「そうだ。ドリブルかシュートか、ドリブルなら右か左か、それをどれだけ瞬時に決められるか、ただそれだけのゲームだ。必要以上に小難しく考える必要なんてねーんだよ」

「それが……先輩の言ってた単純化……ですか?」

「そういうこと。メチャクチャわかりやすいだろ」

「わかりやすいですけど単純だからこそ難しいですよね、それ」

 やっぱり言ってることは『基礎値』を上げろという話なのだ。

 結果的に『練習量を上げる』という解決策しか私には思い浮かばなかった。

 そんな私に、先輩はまあまあと告げながら今度は自分がディフェンスの位置に立つ。

「ほら。試しに攻めてみろよ」

 ボールを往復させ、私はオフェンスの構えを取る。今さらのことながら、先輩のディフェンスは、距離を異様に詰めていることに気づく。距離を詰められるとジャンプシュートが打てないことはもちろん、ドリブルが苦手な私は、その威圧感のせいで初動が遅れてしまう。

 今までなら、このタイミングで先輩は一瞬、気でも緩んだように私との距離を離していた。

 ――それこそが先輩の罠だったのだ。

 ジャンプシュートに固執していた私は、焦ってシュートを打とうとして、結果として先輩にシュートをブロックされてしまっていたのだ。先輩は端からそのブロックを目的としていたのに。そして今回も、これまでと同じように、先輩は私から距離を置いてみせた。

 私は一瞬、ゴールに視線を移し、ボールを手に持つ――フリをする。

 私のシュートを警戒していた先輩はジャンプシュートをブロックするため跳びあがる。私はその横を苦戦しながらではあるが通り抜け、一気にドリブルシュートを決めることができた。

「や、やった!」

 ひさしぶりに先輩から一点を奪えたことが嬉しくて、私はその場で跳びはねてしまう。

「な? うまくいっただろ?」

 ともに喜ぶように先輩は私の肩をぽんぽんと叩いてくる。

 その悔しがりもしない表情を見て、私は自分が踊らされていたことに気づく。

「と言うか……先輩いまの、わざと引っかかってくれましたよね?」

 さすがに今の流れでシュートを打つのは有り得ないと小学生で想像がつくはずだ。だったら先輩があんなに盛大にフェイントに引っかかったのは、わざとだからとしか思えない。

「いやいや、さっきのはお前の実力だよ」

 なのに先輩は白々しくもそう宣言する。

 ウソだとわかっていても、そう告げられて悪い気はしない。

 そんな私を説き伏せるように、先輩は続く言葉を口にした。

「小鞠はさ、もともとジャンプシュートが得意だろ? すると必然、ディフェンスはそっちに意識を割かざるを得なくなる。だって、ちょっとでも気を緩めたら、ひょいっとシュートを決められちまうわけだからな。得意なものがあるってのは、それだけでブラフになんだよ。だから人並にドリブルができるようになるだけで、お前は今の三倍はバスケがうまくなるぞ」

 先輩の言葉がいささか誇張されたものであることは、私にもしっかりとわかった。

 だけどその言葉は私を鼓舞するには充分すぎるだけの威力を持っていたのだった。

「わ、わかりましたよ……私、もう少し、ドリブルを頑張ってみることにします」

 そのようにして、私は本格的にドリブルの特訓を始めたのだった。

 

 

 ゴールデンウィーク前半戦の最終日。

 明日から二日間の平日を挟んで、ゴールデンウィークは後半戦に突入する。

 ……私と牝鹿が戦うのは、ちょうど一週間後か。

 美鶴先輩は『明日と明後日に有給を使って九連休にしてぇ!』とぼやいていたけど、あのひとならそのまま自主休校して、力技で九連休を作り出してしまいそうだった。

 私が入部したての頃は、もう少しきちんとした印象だった気がするんだけど、こうしてふたりで自主練をするようになってから、徐々にものぐさ具合が頭角を現し始めていた。実際、どうして先輩が私との練習に付き合ってくれてるのかも、わからないくらいだ。

 最初はただ、マジメな先輩なんだと思ってた。

 だけど先ほども述べた通り、あのひとは基本的にものぐさの類なのだ。バスケだって今まで本気でやってきたわけではないことぐらい、一緒にいればなんとなくわかってしまった。

「不思議なひとだよな」

 バスケを通して、まるで別のなにかを見ているような、そんな気さえしてくる。

 もしかしたら先輩もまた、バスケという競技に対してなんらかのコンプレックスを抱えているのかもしれない。だとしたら私も先輩の力になってあげたいと、そう思ってしまう。

 まあ、先輩に話したところで『自分のことに集中しろ』としか言われないだろうけど。

 実際その通りだと、想像上の先輩に同意してしまう。

 今の私は他人の心配なんてせず、牝鹿との勝負に注力するべきなのだ。だから先輩から課題として与えられていたドリブルの練習をするんだけど、どうにも集中できない。

「……先輩、遅いな」

 普段なら八時半、遅くても九時には現れるのに、今日は一〇時前になっても来てくれない。フェンス脇に置いてあるバッグからスマホを取りだしてみるが連絡も入っていない。

 ……体調不良? でもそれなら連絡くれるはずだし。

 連絡すらできない状況なのだとしたら、もしかしたら緊急性の高い事故かもしれない。

 そんなことを悶々と考えていたせいで、どうにも練習に身が入らなかった。

 一度、電話でもしてみようと、あらためてバッグからスマホを取りだしたときだった。

「ひん!」

 背後からポンっと肩を叩かれ、全身に電撃が走ったように驚いてしまう。

 慌てて振り返ると、目を丸くして私を見つめる美鶴先輩の姿があった。

「よっ、小鞠。悪ぃ、遅くなっちまった」

 先輩は軽々と片手を挙げながら、いつも通りの挨拶をしてくる。

「驚かせないでくださいよ! 来るの遅かったから……心配したんですから」

 私の心配をよそに先輩は悪い悪いなんて、悪びれる様子もなく呟いている。

 じぃっと責めるように先輩を見つめていると、ん? と、歯の隙間にものでも挟まったような心地になってくる。わずかな居心地の悪さがまとわりついてくるけど、それをうまく言語化することができない。その違和感と遅刻は、なにかしらの関係があるのかもしれなかった。

「でも先輩が遅刻なんて、なにかあったんですか?」

「んー……ちょっと飼い犬に手を噛まれたっつーか、飼い猫に舌を噛まれたっつーか。まあ、小鞠には関係ねーよ。これは私の問題だから、そんな心配そうな顔するこたぁねーよ」

「そ、そうですか……?」

 先輩のたとえの意味はわからなかったが、頭をぽんぽんと撫でられ、にっと歯を見せて笑われたせいで、心臓が妙な跳ね方をしてしまい、なんだかうやむやにされてしまった。

 ……なにかいいことでもあったのかな。

 普段の先輩はそんな顔で笑うひとではないし、そんな形のスキンシップを取ってくるひとでもなかった。肩を組んだり、胸を叩いてきたり、そういう無骨な触れ合いが多かったから頭を撫でられたのも、その子どもっぽい笑みも不意打ちで、私はどきりとしてしまう。

 ちょうどカバンからスマホを取りだそうとしていたところだった私は、代わりにスポドリを手に取り、バツの悪さをごまかすように、それを口に含み、乾いた舌を湿らせた。

「そうそう。小鞠にひとつ、聞きたいことがあったんだよ」

「なんですか、畏まって」

 バスケの練習の件だろうか。

 最近の私たちの話題と言えば、そこから大きく外れることはない。

 ボトルを傾けながら、なんの気なしに先輩の言葉に耳を傾けていた。

「なあ、お前……私のこと好きなのか?」

 ぶっ――と口からスポドリが噴き出し、コートに小さなシミを作る。

「えっ……はっ、な、なんですか藪から棒に」

 今までの『奇妙さ』と『違和感』の積み重ねがあったせいで、こちらも妙な反応をしてしまう。先輩はただ『好きなのか?』と聞いただけだ。そこに他意はないはずだ。

 そう自分に言い聞かせ、平静を装いながら、あらためて先輩へと口を開いた。

「そりゃあ好きか嫌いかで言ったら好きですけど」

「そういうんじゃなくてよ、私が言ってるのは恋とか愛とか、そういう話だよ」

 言葉の意味を掴み損ね、私は先輩の顔をまじまじと見つめてしまう。だが先輩の表情はあくまで真剣そのもので、おふざけやたわむれの類ではないことはすぐにわかった。

「なに……言ってるんですか?」

 一度、落ちつきを取り戻せたおかげで、先ほどみたいに慌てはしなかった。

 そのせいか戸惑いの代わりに私の胸中に満ちたのは、怒りにも似たなにかだった。私と牝鹿のことを知っている先輩が、そうした問いかけをしてくることが、ひどく無神経な行為に思えてならなかったのだ。それが八つ当たりだとわかっていても私は感情を抑えきれない。

「あー、いや……なんでもない。今のは忘れてくれ」

 私の反応に決まりの悪さを覚えたのか、先輩は呻きにも似た声を漏らしながら頬を掻いた。

 そして暗く沈みかけていた空気を払拭するようにパンと手を打ち鳴らした。

「それで今日はなんの練習する?」

「ずいぶんと早い身替わりですね……」

 私としては、先輩の奇妙な言動を問い質したかったけど、これ以上、今の先輩と会話を重ねたくないという想いが強かった。だから私は練習のほうへと意識を向けることにする。

 えーっと……そう呟きながら、私も頭をバスケのモードに切りかえる。

「さっきまでドリブルの練習してたんですけど、やっぱり相手がいたほうがやりやすくて」

「なら、私がディフェンスやろうか?」

「お願いできますか? いろいろ、試したいこともあるんで」

 ほいほいと相変わらず軽々しい返事を寄越しながら、先輩は私の前でディフェンスの構えを取る。そんな先輩にワンバンのパスを渡し、返ってきたところで一対一を開始する。

 先輩は私と片手分の距離を取る。

 その場でシュートを狙いつつ、先輩が一歩、こちらに距離を詰めたところで一気にドリブルをしかける。先輩が慌てて回り込もうとしたところを、さらに左右の切り替えで抜き去る。

 ――やった! 思った通りのプレイができた!

 一対一の場合、ドリブラーはディフェンスの横に並んだ時点で、実質、勝利と言っても過言ではない。だから私の心中も、すでに勝利の味を噛み締め始めていた。なのに――

「えっ――」

 私の口から漏れたのは、情けない困惑の声だった。

 だって気づいたら私の手元からボールが消えていたのだ。ドリブルで戻ってくるはずのボールが手元になく、掴み損ねたかと足元を見ても、どこにもボールは存在しなかった。

「ほいっと」

 そんな声に引かれるように振り返ると、消えたボールは当然のように先輩の手に収まっていた。ボールの所有者がだれであるかを示すように、指先でくるくると回転している。

「体でボールを守れてない。そんなの奪ってくださいって言ってるようなもんだ」

 ほら、もう一回。そう言って、先輩はもう一度、私にボールを投げ渡してくる。

 だけど何度やっても結果は同じで気づくとボールは先輩の手中に収まっていた。

 ……今日の先輩、やっぱりおかしいな。

 今日の先輩は、その言動以上に、おかしなプレイングを行っていた。とげとげしく、それでいて機敏で、普段の堅実な動作からは想像もつかないような、曲芸じみた動きを披露していたのだ。まるでひとが変わったような急変ぶりに、私は対応することができない。

 結局、私は先輩から一点も奪えないまま、休憩に突入してしまったのだった。

 今日の先輩は、気分がいいのか、悪いのか、それすらもわからない。

 いつも以上に掴み所がなくて、なんだか雲や空気でも相手にしているみたいだった。水分を補給しながら、どう言葉を投げかけようかと迷っていると、先輩のほうが先に口を開いた。

「小鞠はさ、なんでバスケやってんの?」

「それ……前におはなししませんでしたっけ」

 そう答えてはみたけど、正直、そこまで記憶に自信はなかった。あのとき話したのは『バスケを始めた理由』で『続けてる理由』ではなかったような気もしてくる。だけど記憶があやふやだったのは、先輩のほうも同じだったらしく、先の言葉で納得してしまったらしかった。

「……じゃあさ、どうして私はバスケなんてやってんだと思う?」

「先輩がどうしてバスケをやってるか……ですか?」

 自然と言葉尻が濁り、それ以上に思考が混沌を描くのがわかった。もともとおかしいとは思っていたが、ここまで奇妙な発言をされると、いろいろと心配してしまう。

 私が疑問を返したのは言葉数がたらなかったからだと思ったのか、先輩は再度口を開く。

「私はさ、今までなにかに本気になったことって、なかったんだよな。テキトーにやってるだけで、それなりの結果を残せたから、それで満足してた。まあ……本気を出すのが怖かったってのもあるんだが――そんな私がこんなふうに毎朝、なにかのために早起きしてるってのは、それは快挙みたいなもんでさ。だから……それがどうしてなんだろうって思ってさ」

 奇しくもそれは、先輩が来るまで、私が考えていたことでもあった。

 だからと言って、私はそこに答えを見つけられたわけではない。

「先輩にわからないこと、私にわかるはずないじゃないですか」

 ただ先輩にそこまで語らせておいて『わからない』が答えなのも芸がない気がした。

「でも私……先輩とこうやって練習してる時間、その……けっこう、好きなんですよ」

 しかし必死になって考えた私のセリフはどうにも見当違いなものになってしまった。

 事実、質問を投げかけてきた先輩も、目を丸くして苦笑していたくらいなのだから。

「なにそれ。ぜんぜん答えになってない」

「ご、ごめんなさい……でも、好きなのはホントですよ」

 その言葉は紛れもない真実だったから強調するところは強調しておく。

 先輩も私との時間を、楽しんでくれていればいいなと、そう願いながら。

「なんか聞いてるのかなって思ったけど、ぜんぜん見当違いだったみたい」

「聞いてるって……私がですか? だれに……と言うか、なんの話をしてるんですか?」

 先輩はすでに私への興味を失ってしまったみたいに、こっちの話、なんて呟いている。

 完全に自己完結してしまったみたいで、こちらとしては、いい気分はしなかった。

「小鞠ちゃんが私を変えたのは事実みたいだし――ひとつ、ご褒美をあげましょう」

「ご褒美?」

 なにか差し入れでも持ってきてくれているのだろうかと、そう思い、私は先輩を見やる。

 だけど彼女はどう見ても手ぶらで、そんな状態のまま私へと歩み寄ってくる。

 そしてさっと私の前髪を掻き上げると、むき出しになった額に口づけをした。

 ――あっ、メチャクチャ汗かいてるのに。

 一番に浮上してきたのは、そんな見当違いな思考だった。

 そして一拍、二拍、三拍と間を置き、静止していた思考が、加速度的に巡り始める。しかし急発進した思考は、それはそれで明確な目的地に辿り着けないまま、好き勝手に回り続ける。

 ぱくぱくぱく――口から漏れるのは、用途不明の熱っぽい吐息だけ。

 そして私が返答を打ち出すよりも、先輩が次の動作を始めるほうが先だった。

 先輩は私の背後をちらりと見やると、おっと! と奇妙な声を漏らしたのだ。

「それじゃあ、そろそろおいとまするね。また会うことがあったら今日の続き、しようね」

「お暇……それに続きって……いやいや! せ、先輩、今日の練習、どうするんですか!」

 私の叫びへの返答はおろか、自分の荷物すら放ったまま先輩は去ってゆく。私まで荷物を放っとくわけにもいかなかったので、小さくなってゆく背中を見送ることしかできなかった。

 ……今日の先輩、変だったな。

 そして『変な先輩』に慣れたあたりで、最後にトドメを持って来られて、まったく、これっぽっちも、意味がわからなかった。そこで先ほどの先輩の奇行を思いだし、顔が熱くなる。

 額に浮かんだ汗を拭おうかと思いかけるが、なんだか今だけは額に触れたくなくて。

 私はそのまま、こもりそうになる熱を放置するしかなかった。

 ……と言うかあのひと、なにを見つけて血相を変えて逃げていったんだ。

 そう思い振り返った私は、たぶん、先ほどの先輩以上に度肝を抜かれた。

「せ、先輩!?

 先輩が消えていった方角とは真逆から先輩と瓜二つの女性が現れ、私は今度こそ心臓が止まるんじゃないかってくらい驚いてしまう。公園をぐるっと回ってきたにしては時間が早すぎるし、そもそも、そんなことをする意味がわからない。えっ、なに? 怪盗かなにかなの?

 バッカモーン! とか言われてしまうのか?

 と思考が飛び散る。

「そ、その顔を見るに……どうやら、手遅れだったみたいだな」

「なんですか。私、大事なものでも盗まれてしまったんですか?」

 私の思考と先輩の発言が妙な形でマッチして、さらに思考が明後日に飛んでいった。

「……なに言ってんだ、小鞠。つか、ぜんぜん気づかないもんなんだな」

「気づかないって……なにがです?」

「さっきまでここにいた私は……私じゃなくて、花鶏っつー、双子の妹だったんだよ」

「うぇっ……!?

 口から奇声が漏れる。いくら双子といえども、あまりに似すぎてしまっていたから。

 多少の違和感はあったが、それは『このひとは別人なのでは……?』という可能性に思い至れるほど大きなものではなかったから、変装としてはたいしたものなのだろう。

 もしかしたら私が愚かなだけかもしれないけど。

 その可能性についてはなるだけ考えないことにした。

「あっ、でも言われてみれば……なるほどって感じですね」

 今日の一連の不可解な言動の正体に気づけて、私はやっともやもやを晴らすことができた。しかし私の心の晴れやかさと反比例するように、先輩の顔は曇り空を湛えていた。

「あいつ……なんか変なこと言ってなかったか?」

「変なこと」

 そう言われてまっ先に思い浮かぶのは、別れ際にされた額へのキスだ。

 せっかく意識の外に追いやることができていたのに、無理やり相対させられる。目の前に私にキスをしてきたのと同じ顔があるせいで、余計に鮮明に記憶が蘇ってきてしまう。

 堪らず私は先輩から視線を逸らす。

「……やっぱりあのバカに妙なこと言われたんだな」

 私の行動をどう受け取ったのか先輩はため息とともに苦々しく吐きだした。

「いやいやいや、べつに、そういうわけじゃなくて」

 妹さんにキスされましたと言うわけにもいかず、私は慌てて否定をくり返す。

「ただ……どうして私はバスケをやってるんだろうって、そう聞かれましたね」

 とりあえず本日の言動の中で、一番、奇妙だったものを取り上げてみる。

「それは……小鞠がってことか?」

「それも聞かれましたけど、先輩自身が……って部分も、聞かれましたね」

 なんだそりゃと呟いて、先輩は眉間に深いシワを刻みこんだ。彼女がここまで如実に不機嫌さを表現するのは珍しかったから、私は先ほどとは違う戸惑いを覚えるのだった。

 ……妹さんのことになると、さすがに態度が変わるんだな。

「そりゃあ花鶏自身のことを聞いてたってわけじゃなさそうだな」

「話の流れ的に……たぶん先輩がバスケをしてる理由を聞きたかったんでしょうね」

「……わけわかんねぇな」

 しばらく、うーんと悩むようなポーズを取っていた先輩だったが、最終的に行きついた結論は私と同じだった。まったくもって意味も理由もわからない。それが答えだった。

 だけど私個人としても、その答えが気になっていることもまた、事実だった。

「でも……先輩はどうしてバスケ、やってるんですか?」

「始めたのも、今日まで続けたのも、答えは『なんとなく』だよ」

 質問から回答までに思考を挟むような間は存在しなかった。その回答までの距離の短さが、前もって用意していた答えであるかのような印象を私に与えたのだった。

「始めはなんとなくだったのに、今ではちょっとだけ本気になってるんですよね」

 だから私は一歩分、先輩との距離を縮めてしまう。

 先輩が引いていた不可侵の線分を乗り越えてしまう。

 彼女は探るような目つきで私を見つめていたが、最終的にその目は伏せられた。

「それ、花鶏から聞いたのか?」

「はい。快挙って言ってました」

 快挙ねぇ……そう呟いて、先輩は遠くを仰ぎ見るように、視線を空へと向けた。

 ここではないどこか。

 私でも先輩自身でもないだれかを羨望するような、そんな視線だと、そう思った。

「どうしてバスケをやってるんだろう、か」

 呟かれた声は吹き抜けた風に飲まれ、それでも、しっかりと私の鼓膜を震わせる。

 空をさまよって、雲間を飛んでいた視線が地上へおり立ち、私のもとで結ばれる。

「さてね……その『どうして』を見つけたいだけだよ」

 自信なげな声で、不確かな感情と思考を象るように。

「もう少しで手が届きそうな気がするから、ちょっと必死になっちまってるだけだ」

 ゆっくりと、手触りを確かめるように、先輩は言葉を選びながら続けた。

「だからよ、小鞠――牝鹿ちゃんに勝ってやろうぜ、絶対にな」

「えっ」

 この流れで自分と牝鹿の勝負を持ち出されるとは思ってなかったからマヌケな声が出る。

 今日だけで何度、この声を漏らしたことだろう。

 どうやら驚きの連続で、私の口元は相当ゆるくなってしまっているらしい。

「なんだ、その返事。小鞠、お前やる気あるのか?」

「あ、あるに決まってるじゃないですか!」

「よし。だったら、さっさと練習始めようぜ。こんな与太話してる場合じゃないんだからよ」

 そして先輩は私の返答を待たないまま、テキパキと練習の準備を進めてしまう。それはまるで、先ほどの話題を続けることから逃げだそうとしているかのように私には見えたのだった。