南羽小鞠

 

 次の日、私は朝練をサボってしまった。あくまで朝練は、私と美鶴先輩が個人的に行っているものなのだから、サボってしまったとしても問題はないはずなんだけど。先輩と個人的に行っているものだからこそ、私はより大きな罪悪感に見舞われているらしかった。通常の部活の練習をサボったところで、ここまで強い自責の念には襲われなかったはずだ。

 ……牝鹿の件と先輩はなんの関係もないってことぐらいわかってる。

 だけど昨日のことがあったせいで、まともに先輩の顔を見られる気がしなかったのだ。

 朝ご飯至上主義の母親が作る重めの朝食を平らげ、日課の牛乳を飲み、制服に着替えて家を出る。普段はなにも感じないのに、心が弱っているせいか胃の重さがやけに気になった。

 そして外に出たところで、自分がバスケ用のバッグを抱えていることに気づく。今日の放課後練習は休みだから、朝練をサボった時点で、このバッグには用なんてないのに。

 ……完全にクセになってるんだな。

 そんな自分が少しだけおかしかい。

 私の口から漏れたのは、ただ自嘲するような笑みだけだったけど。

 自転車に跨がったタイミングでイヤホンを装着し、ランダムに設定した音楽を爆音で流す。音楽を嗜みたいわけではなく、日常と思考――そうした雑音を音で塗り潰したかったのだ。自然では存在しえない大音量に、始めの数秒は脳が頭痛を訴えてくる。だがサビに入るころには耳も慣れてきて、激しく打ち鳴らされる楽器の音が、私の頭から雑念を散らしてくれた。

 そんな状態で街中を走行する。

 入学して一ヶ月たらずで新鮮味を失ってしまった通学路は意識せずとも踏破できる道のりになっていたらしく、気づくと私の体は学校の敷地に辿り着いていて、多少の驚きを受ける。

 まったく周囲の光景が目に入っていなかったのだ。

 よくも事故らなかったものだと、自分の幸運に少しだけ感謝した。

 ……まあ、いっそのこと事故ってくれという精神状態ではあったんだけどな。

 道中、美鶴先輩と出くわさなかったことに安堵しながら、さっさと教室に避難してしまおうと小走りで廊下を抜けようとする。そんなタイミングで、私の所属する一年一組の教室から出てくるふたつの影。その姿を見つけて、私の心臓が止まりかける。

 ひとりは全体的に髪の毛が長く、某映画の貞子みたいになってしまっている女子で、その隣に立っていたのは、私が今もっとも会いたくなかったはずの人物――心塚牝鹿だった。

 ……どうしてお前がこんなところにいるんだよ。

 気づかないフリすれば良かった。

 そうと思ったときにはすでに遅く、私の体は不自然な強張りとともに急停止してしまっていた。それは牝鹿にしても同様で、彼女にしては珍しく挙動不審な様子で私を見おろしていた。

 仕方なく私はイヤホンを外す。爆音で麻痺した鼓膜は、なかなか周囲の音を拾ってくれず、私の体が静寂に包まれる。そのタイミングを見計らって、牝鹿が口を開いた。

「あ、お、おはよ、小鞠」

 口元に引き攣ったようなヘタクソな笑みを浮かべて牝鹿が言う。

 BGMが消えてしまった世界の中で、なぜか彼女の声だけは鮮明に聞こえた。

「おはよう、牝鹿」

 彼女のほうがわかりやすく動揺していてくれたから私は逆に冷静を気取れた。

 内心、穏やかではないのは、きっと私のほうに違いなかったけど。

「牝鹿……さ」

 最低限、挨拶は済ませたのだから、さっさと横を通りすぎてしまえばいい。そう思うのに、私の体は一向に動きだしてはくれず、それだけではなく口が勝手に動いてしまう。

「ん? どうしたの小鞠」

 私の呼びかけに反応して、牝鹿は一瞬その顔を華やがせた。そんなふうに無邪気に笑う顔を見て、私の心に満ちたのは喜びではなく、ほの暗い嗜虐心めいた感情だった。

「放送部の先輩と……仲良しなんだって?」

 その問いかけを受けて、牝鹿の顔に浮かんでいた笑みが霧散した。

 ……なんて顔してんだよ。

 彼女にそんな顔をさせたのは私であるはずなのに、なぜか異様に腹が立つ。

 彼女は表情を失った顔を隣の生徒へと向け、戸惑いを隠しきれていない声音で告げた。

美紗季みさき、ごめん。ちょっと用ができちゃったから、先、行っててくれる?」

「あ、う、うん……わ、わかった」

 美紗季と呼ばれた生徒はが教室に消えるのを待ってから牝鹿はあらためて口を開いた。

「……小鞠、聞いたんだ」

「うん。昨日……フラジールって喫茶店で、バイトやってるって先輩からな。牝鹿と放送部の先輩が付き合ってるって……つまり、あの放送は、牝鹿に宛てた放送だったんだな」

「まあ、そうだよね。小鞠もあの放送……聞いてたよね」

 そうだよ、と牝鹿は震える声音で答えた。彼女の態度は罪悪感に彩られたように薄暗く、背の低い私からでもその表情が覗えないほど、彼女は視線を下へと向け、うつむいていた。

「小鞠には……きちんと話そうと思ってたんだ」

「べつにいいさ。言いたくても言えないもんな。同性の先輩と付き合ってるなんて」

 トゲのついた嫌味っぽい言い方になってしまう。

 だけど牝鹿に刺すはずだったトゲが私にも突き刺さり、そこからじわじわと毒が広がる。

 感情がどす黒く塗り潰されてゆくのがわかった。

 嘲笑めいた笑みが口からこぼれ、それに続いて言葉が漏れかける。私は今、どんな表情をしているのだろう。鏡を見てしまったら、あまりの醜さに吐き気すら催してしまう気がした。

「だってそんなの――」

 やめろと理性が制止する。その続きを口にしてはいけないと騒ぎ立てる。だけど猛毒に侵され赤黒く爛れてしまった私の心を、理性なんて手綱で御しきれるわけがなかった。

「――気持ち悪いもんな」

 下がっていた牝鹿の視線が私のもとへと引き上げられる。驚いたような牝鹿の目――その目に浮かぶさざ波を直視できず、今度は私が視線を逸らしてしまう番だった。だったらそのまま口すらも噤んでしまえればいいのに、その口だけは別の生き物みたいに動き続ける。

「女同士で恋愛ってなに……? そんなごっこ遊びのために牝鹿はバスケを辞めたのか?」

 自分の爪先が震えて見えるのは、私の体全体が震えているからだろうか。

 感情がぐちゃぐちゃになっていて、自分がなにを望んでいるのかすら定かではない。ひとつだけ確かなのは、私はこんなことを言いたかったわけではない、ということだけ。

 こんなこと、心の中で考えてみたって、言い訳にすらならないけど。

 だけど思い通りに動いてくれないこの口では満足に謝罪することすらできなくて。

 ……私、牝鹿にどんな顔させちまったんだろう。

 もしかしたら泣かせてしまったのでは……? 泣いている彼女の顔を見てしまうのが怖かった私は、蛍光灯の光を浴びてきらきらと輝く床面を見つめるのでやっとだった。

 そんなことを考えていた私の頭頂部に、牝鹿の声がまるで冷水のように降りかかった。

「ごめんね、小鞠」

 それは私の予想に反して心の底から申し訳なさそうな謝罪の言葉だった。

 意味も理由もわからなくて、反射的に私は牝鹿の顔をにらみつけていた。

 彼女は今にも泣きそうな顔をしていて――だけどそれは、傷ついた末の表情ではなく、きっと自分自身の内側から湧き起こる、後ろめたさからくる悲哀に違いなかった。

 だって彼女の表情は怒りを感じさせるものではなかったのだから。

「はっ」

 なんでお前が――牝鹿が謝るんだよ。

 ――怒れよ。なんで、そんな顔して私に謝ってんだよ。

 なんでそんなこと言われなくちゃなんねぇんだ! って怒る場面だろうが。

 浴びせられた冷や水のせいで、思考力や熱が根こそぎ奪われてしまう。

 恐怖心や怯えの代わり、私の頭の内側を支配したのは純粋な怒りだった。

 牝鹿の『ごめんね』という言葉が、頭の中で巡りめぐって沸騰する。

「わけわかんねぇ」

 思い通りに動かない口は、そんな悪態を吐き捨てるのでやっとだ。

 怒りで震える脳のせいで、視界が潤んでいた。

 どうしてお前は怒ってくれないんだよ。

 どうしてそんな顔で私を見てるんだよ。

 なんだよそれ。それじゃあまるで私のほうが憐れまれてるみたいじゃねぇか。

 牝鹿がとてつもなく遠くに行ってしまったようなそんな錯覚をおぼえた。

 それらの錯覚がさらに私の思考と感情をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。

「小鞠、私――」

「聞きたくねぇよ!」

 それ以上、利巧な言葉なんて聞きたくなかった。

 だって今の彼女は私と同じ土俵に上がることすら拒否してしまっていた。

 もう完全に、私とは別世界の人間になってしまったみたいで。

 その口から放たれる言葉すべてが不愉快で堪らなかったから。

 聞きたくない。

 私がそう言ったからなのかはわからないが牝鹿は口を噤み、ただ黙って私のこと見つめていた。その自分とは異なる色をした瞳すら気にいらなくて、私は踵を返す。私の目的地――教室があるのはすぐ目の前であるはずなのに、それにすら背を向け、来た道を戻ってゆく。

 背中に牝鹿の視線が突き刺さるのがわかる。

 だが彼女はなにも言わず、私の背中を見つめるだけだった。

 ……クソ、クソッ……クソッ!

 どうしてこんなに腹立たしいんだ。

 それでも牝鹿が視界から消えてくれたおかげか、ほんの少しだけ冷静さが戻ってくる。

 今日まで私は意図的に牝鹿を避けてきた。それは自分の身を守るためではあったけど、それ以上に顔を合わせてしまったら、彼女のことを罵倒してしまうことがわかっていたからだ。

 私は堪え性がない。

 言いたいと思ったことはすぐに口にしてしまう。

 だからムダな諍いを減らすには、相手を避けてしまうのがてっとり早い手段だった。

 私は昔から、こうやって数少ない人間関係を斬り捨てて生きてきた。関係性の薄いやつらなら、そんな乱雑な方法でも、ほとぼりが冷めるまで逃げ切ることができたから。

 だけど牝鹿にまで同じ方法を使ったのはどう考えても失敗だった。

 だって私が彼女から逃げ切ることなんて、どう考えてもできるはずがなかったのだ。

 私たちは同じ一年だからクラスが違っても、顔を合わせることは少なからずあった。

 世間話程度ならなんとか取り繕って行うこともできた。

 だけど昨日の話があったせいで、糸が切れてしまった。

 ……私、あんなこと言うつもり、なかったのに。

 一匙の冷静さとともに私を襲うのは大きな虚無感と、とてつもない後悔だ。

 しかしもう一度、彼女のもとに戻って謝ろうとは思えない。

 プライドばかりが肥大化した私は、素直さと真逆の場所に立っていたから。

 ……学校、どうすっかな。

 ぐるりと校内を回って、あらためて教室に向かうのもバカらしかった。

 足を前へ進めるたび、自分の愚かさに感じ入ってしまいそうだったし。

 そもそも私の心はすでに、教室へ向かう意志を失ってしまったらしい。

 その足は来た道を真逆に辿り、最終的に昇降口で上靴からスニーカーに履き替えていた。履き潰したスニーカーのかかとを踏み、駐輪場を目指してゆらゆらと煙みたいに進む。

 駐輪場から昇降口へと向かう多数の生徒たちが、流れを逆行する私を訝しむように盗み見てくる。だけどすぐに興味を失ったように視線を逸らし、小走りで通りすぎていった。

 始業時間が近いためだろう。

 だれも傷心の一年生になど気にも留めない。

 私の価値は一生徒いちせいとの遅刻よりも軽いものだ。

 ……べつに心配して声をかけて欲しいってわけじゃないけどよ。

 実際、声なんてかけられたところで、私はそれを鬱陶しく思うだけだろう。

 だけどそんなふうに、まるで空気みたいに扱われてしまったら、心なんて簡単に萎み、霞んでしまう。ひどく利己的でワガママなそれは、自分勝手に傷ついてゆくのだ。

 ひどく不確かな足取りで、それでもやっと駐輪場に辿り着く。

 駐輪場に残っていた最後のひとりの生徒が、私には目もくれないで昇降口に走ってゆく。その生徒が玄関に辿り着く前に、無情にも始業のチャイムが鳴り響いてしまう。

 そんな私の目の前をもの凄い勢いで自転車が通りすぎた。

 ……どうせ遅刻なのに、そんなに急いでどうするんだか。

 そう思っていると、自転車は駐輪場に停めるにしては中途半端な位置で停止した。そして自転車に乗っていた生徒が、ひどく慌てた様子で振り返り、狼狽した顔を私に向けた。

「おい小鞠。お前こんなところでなにやってんだ」

 その声は叱責するような、困惑するような、独特の色を帯びながら、私の鼓膜を揺らす。

「大早川……先輩」

 先輩の顔を見た瞬間、私の体は一気に脱力してしまった。体を支えていた一本の芯が、スッと音もなく溶けてしまったかのように、私の体はふらりとくずおれそうになる。

「お、おい小鞠!」

 先輩は自分の自転車を投げ捨てて走り出すと、私の体をささえてくれる。

「朝練の無断欠席は……まあ、昨日の件があるから理解っつーか、予想できたんだけどよ。どうしてこんな所で、今にもぶっ倒れそうな顔で突っ立てたんだよ。なにがあった?」

 その問いかけは私を心配するものであると同時に、ある程度の怒りの感情を湛えていた。

 そのどこに向けられているのかも知れない怒りが、今の私には無性に嬉しく感じられた。

 いや、安堵したというほうが正確か。

 彼女が私へと向けてくれた感情がとにかく愛おしくて、抱きしめたくなる。

 とにかく私は、そんな彼女の反応を見て、たがが外れてしまったらしかった。

「私……牝鹿に最低なこと言った。取り返しのつかないこと言っちゃった!」

 勢いよく溢れだした感情に飲みこまれた私に、理路整然とした説明などできるはずもなく。美鶴先輩はそんな私を落ちつかせるため、とある場所へと移動させたのだった。

 

 

 そのとある場所のマスターは、店にやってきた私たちを見て呆れ顔をしていた。

「……サボり学生がふたりそろってどうしたのよ。不良って呼ぶわよ、不良って」

 不機嫌そうな声をしてたけど、それがポーズであることはなんとなくわかった。

「もとスケバンの那月さんには言われたくないです」

 開店直後のためか店内には私たち以外に客の姿はない。

 だからか先輩は遠慮せず、声を落とさぬまま言う。

「スケバンではねーよ」

 スケバン『では』なかったとしたら、いったいなんだったのだろう。

 傷心気味なのに、そんな些細な点が気になってしまう自分がおかしかった。

 美鶴先輩は昨日と同じようにカウンター席に座って、その隣の席に荷物を置いた。

 ドアの前で突っ立っているわけにもいかずに、私もその隣に腰をおろした。

 釈明でも求められるのだろうか。

 そう内心で恐々としていた私だったけど、先輩はなにかを尋ねることはおろか、口を開くことすらしなかった。ただ席に座って、カウンターの向こうで作業する那月さんの手元を見つめていた。そのせいで私は逆に居心地が悪くて仕方がない。どうせなら根掘り葉掘り尋ねてくれればいいのに――沈黙のせいで思考が四方八方に散りぢりになりながら私を責め立てる。

 そんな私の思考を遮ったのは、差し出されたカップだった。

 顔を上げると、那月さんが人懐っこい笑みを私へと向けていた。

「ほら、可愛い常連さんへのプレゼントだよ」

 カウンターに置かれたのは昨日と同じカプチーノで、上にはチョコレート色をした斜線が描かれていた。漂ってくるコーヒーの香りで、昨日、先輩と一緒に飲んだ風味を思いだす。

 ……正直、今はあんまり飲みたくないな。

 美味しくなかったわけでも、舌に合わなかったわけでもない。

 ただ舌の根元に残るような苦味を、今は感じたくなかったというだけ。

 そんな私の反応のどこが面白かったのか、那月さんは苦笑を浮かべた。

「そんな顔しなさんな。今日のカプチーノには魔法をかけといてあげたから」

 たぶん昨日のより美味しいと思うよ。

 そう微笑みとともに告げられ、なにを言っているんだと正直思う。

 今どき幼稚園児でもそんな子供騙しにほだされたりはしないだろう。

 それとも表面にかかっているチョコレートのようなものが魔法の正体なのだろうか。

「味のほうはこっちで調整してあるから、砂糖を入れる必要はないからね」

 那月さんに注視され、根負けした形で私はコーヒーをかき混ぜる。スプーンをくるくると動かしてゆくと、昨日みたいに白と黒が混ざってゆき、柔らかい飴色に変化する。

 カプチーノは我ながら綺麗に泡立ったが、昨日となにが異なるのか傍目からはわからない。

 半信半疑の気持ちとともに、私は液体を口に含んだ。

「あれ、甘い……?」

 瞬間、なによりも先に口に広がったのは甘さだった。

 昨日みたいに砂糖によって生み出されたわざとらしい甘さではなく、柔らかく苦味や酸味全体を包みこんでくれるような、とても優しげな甘味が舌に、そして口全体に広がって驚く。

 身構えていた体の強ばりが解かれるような心地がして、ほっと脱力してしまう。

「それね、ミルクの代わりに生クリームが入ってるんだよ」

 那月さんはイタズラに成功した子どもみたいに混じりっけのない笑みをその顔に浮かべた。

「……生クリーム?」

「ちなみに上に乗ってたのはキャラメルね。そっちはちょっと苦めに調節したから、バランスは取れてたと思うけど。うんうん。反応も昨日よりぜんぜんいいし、私は満足したよ」

「そ、そんなにわかりやすい顔……してましたか」

 昨日の私にしても、今日の私にしても、そうだ。

 そんなわかりやすい表情をしていたつもりはない。

「こう見えて思春期の娘と三年間も一緒に暮らしてたんだよ? それに職業柄、女子高生と話すことも少なくないからね。女の子の心やら気持ちについてなら私は専門家ってわけ」

「その割に木実については、だいぶ手間取ってるような気がしましたけど」

 美鶴先輩の横槍を、那月さんはひと睨みで黙らせてしまう。

 ただ先輩も先輩で、おーこわっ、なんて軽口を叩いてる始末だったけど。

「あとは一応コーヒーの専門家だからね。その子に合うコーヒーを選ぶ能力くらいはあると自負してる。これでおまんま食ってるんだから、これぐらいできないとね」

 にししと笑う那月さんは年齢よりも幼く見えて。

 ヘタに大人びようしている同世代の子よりよほど魅力的に見えた。

「コーヒーの美味しさって苦味だけじゃないんだよ」

「えっと……そうなんですか?」

 コーヒーといえばメインは苦味なのだと、私はそう思っていた。

 だって甘いものを飲みたいなら別のものを頼めばいいのだから。

「コーヒーだけに言えることじゃないけどね」

「どういう……ことですか?」

「なんだってそうだってこと。苦味とか苦しみっていうのはさ、それが過去のものになって、落ちついて振り返れるようになって、『ああ、意外と悪くなかったんだな』って思えるようになって、そこで初めて美味しいって感じるようになるんだって、私はそう考えてるんだよね」

「未来になってみて初めて……?」

「大人は子どもに『若いうちの苦労は買ってでもしろ』って、そう言うけどさ。それって自分がしてきた苦労が、意外と悪いものじゃなかったって、そう思えるようになった証拠なんだって私は思うんだよね。べつに子どもたちを苦しめてやろうと思って、そういうことを言ってるわけじゃないんだよ。いろいろなものが積み重なって、子どものころは大嫌いだった苦いものが好きになってゆく。それをひとは『大人になった』って言うんじゃないかなって」

 だから今、苦いものをムリに美味しいと思おうとする必要なんてないんだ。

 諭すような口調で那月さんは告げる。

「子どもは甘いものが好きでいいんだ。苦いものなんてイヤでも口に入ってくるんだからさ」

 その言葉を聞いて、なんだか私は、憑き物が落ちたような心地がした。熱くなったり、冷たくなったり、津波のように荒れ狂っていた感情が、ただ静かに凪いでくれていた。

「とりあえず落ち着いてくれたようでなにより」

 これまで沈黙を保っていた先輩が、波風を立てず軽やかな調子で口を開いた。

「牝鹿ちゃんに酷いこと言ったって、そう言ってたけど、学校でなにがあったんだよ」

 先輩の言葉に触発され、私の頭に先ほどの光景と感情が思い起こされる。

 ただ心が冷静さを取り戻してくれていたおかげで、その感情と一定の距離を置きながら接することができた。どうしてあんなことを言ってしまったのか、自分が恥ずかしくて堪らない。可能ならば、先ほどの出来事はそのまま胸の内に秘めておきたい――そんな思いが強くなってくる。だけどこんな騒ぎを起こしてしまった以上、黙秘権は認められないだろう。

 観念した私は先ほどの出来事を訥々とふたりへと語った。

 ……軽蔑されるかもしれないな。

 そう考えるほど口が重たく、舌の回りが遅くなってゆく。

 しかし意外なことにふたりは、とても真摯に私の言葉に耳を傾けてくれていた。

 那月さんは自分と先輩の分のコーヒーを淹れながらだったけど、それでも相づちの打ち方から、きちんと私の言葉に耳を傾けてくれていることは理解できた。だから私も途中で挫けることなく、先ほどの出来事と、それに伴う自分の想いを素直に吐きだすことができた。

 私が語り終えてしばらく、ふたりは口を噤んだままだった。

 その顔を交互に見やると、ふたりとも真剣な面持ちで、なにかを考えているようだった。

「……ねえ、小鞠ちゃんはさ、牝鹿ちゃんとケンカとかってしたことある?」

 スッと先輩へとカップを差しだしながら、那月さんは返答の代わりに問うてきた。

「ケンカですか……? たぶん、今回のこれが、初めてだと思います」

「言いたいことはわかるけど、残念ながらこれはケンカとは呼べないよ。ケンカはね、一方的に感情や想いをぶつけるんじゃなくて、互いにそれをぶつけ合うのが大事なんだよ。小鞠ちゃんは牝鹿ちゃんに暴言を吐いたけど、牝鹿ちゃんからはなにも言われてないでしょ? まあ、ふたりの雰囲気を見るに、そんな気はしてたけどね。ケンカとか無縁そうだったし」

 なんでも初めては早いうちに済ませておかなきゃ面倒なことになっちまうね。

 自分もまたコーヒーで口を湿らせながら、那月さんはそうつけ足す。

「どういうことですか……?」

「他人と他人が本気で付き合っていこうと思うなら、そういう衝突ってのは、絶対、避けられないことだと思うんだよね。これまで何年も友人としてやってきて、一度もそういう事態にならなかったのが異常なんじゃないかなって……いや、今の子ってもしかしたら、そういうのとか意図的に避けちゃうのかもしれないけどさ。木実とかも、割とそういうタイプだし」

 那月さんの言葉に触発され、思考がそちらに傾いてゆく。

 果たして私と牝鹿はどうなのだろうか、と。

 ケンカや衝突を意図的に避けてきた実感はない。

 私と牝鹿のあいだにはバスケがあって、それを見ていれば、同じ方向へと進んでいられたから、あえて価値観を摺り合わせたり、確認したりする必要がなかったからかもしれない。

 ――いや、自分にくらい正直になろう。

 違和感めいた恐怖心は、最初からあったのだ。

 私と牝鹿は小学四年生から中学三年生までの六年間、ともにバスケをやってきた。

 だから休みの日も顔を合わせ、半日以上一緒にいることがほとんどだった。

 それでも長期休暇を挟めば、家の都合で二、三日ほど顔を合わせない日があったりする。

 そんなとき彼女は驚くほど別人の様相を呈していたりした。

 まるでひとりだけ大人になったように、表情が大きく変わってしまうのだ。

 それは決まって彼女が新しいものに出会ったときや面白いものを発見したときだった。

 たったそれだけのことで変わってしまう牝鹿が私は怖かった。いつか牝鹿が、私のまったく知らない牝鹿になって、私を置いてどこかに行ってしまうんじゃないかって怯えていた。だけどそれを確かめる勇気は私にはなかった。自分をごまかし、気持ちをなあなあにしたまま、私は牝鹿を見ないようにして、バスケだけを見つめて――ただ不安から目を逸らした。

「思い当たる節があるって顔してるね」

「そう……ですね。たぶん、私は、牝鹿と向き合うことを怖れてたんだと思います」

 私の回答に那月さんは満足したように頷く。

「だけど譲れない部分ってのはだれでも持ってるわけじゃん。それを相手に見せないようにして、敏感な部分を隠して、そこに近づかないようにするのは違うんじゃないかなって。それって本当の友だちって呼べるのかなって……お姉さんとしてはそう思うわけ」

「だったら……どうすればいいんですか? 私と牝鹿は、もう手遅れなんですか?」

「たぶんだけど、もう話し合いでどうこうできる段階ではないと思うよ」

 私の疑問に対する那月さんの答えは、あまりにも無慈悲で容赦のないものだった。

「それじゃあ――」

 せっかく上げられた顔を、両手で覆いたくなるような、そんな気持ちになる。

 死刑宣告をされた被告人は、こんな気持ちなのかもしれない。

 なんだか頭が重くなってきて、私はそのまま項垂うなだれそうになってしまう。

「まあまあ、そう絶望した顔しないの」

 下がっていた顔を両手でがっちりと挟まれ、那月さんの瞳と無理やり相対させられる。

 目やら頬やらが異様に乾いて、ただずっと目を瞑っていたかった。

 だけど那月さんの力強い眼差しがそれを許さない。

「私が言ったのは『話し合いじゃ解決できない』ってことだけ。絶望するのはまだ早いって。あのさ、話し合い……と言うか言葉って、小鞠ちゃんが思ってるほど万能じゃないんだよ」

 言葉とともに頬を摘まれ、むにむにと動かされる。

「これは『言いたいことが言えない』とか、そういう感情的な話じゃない。もし口にできたとしても、その想いはほとんど伝わらなかったりするっていう、言葉の根本的な欠陥の話なの。それだけじゃなくて、なぜか伝えたかったはずの想いの真逆のことが伝わってたりするんだよね。だから、なんでもかんでも言葉でお上品に解決する必要はないと私は考えてる。取り繕うのなんてやめて、感情の趣くまま暴言を吐きまくって、殴りあえばいいんじゃないかなって」

 すごく朗らかで素敵な顔で、いったいこのひとはなにを言っているのだろう。

 前半からの流れで危うく頷きかけて、そのまま殴り合いをさせられるところだった。

「やっぱりスケバンじゃねぇか」

 言いたかったことは美鶴先輩がツッコんでくれたから、私は顔を顰めるだけだったけど。

「殴り合えってのは冗談だけどさ、このまま放っといても自然消滅するだけでしょ? それが気持ち悪いのはだれでも一緒。それなら壊れるにしろ修復するにしろ、一回メチャクチャにしちゃったほうがいいんじゃない? それで終わってしまう間柄なら最初はなからそれまでだし」

「だけど……私、牝鹿にあんなこと言っちゃって……」

 話し合いはおろか、その『殴り合い』にすら、牝鹿が応じてくれる保証はない。

 なのに那月さんは自信満々といった雰囲気を崩そうとはしない。

「それじゃあ小鞠ちゃん自身はどうなの? 今、あなたは親友の牝鹿ちゃんに裏切られたと感じてるわけじゃん。それで傷つけられたわけだけど、もう、牝鹿ちゃんと仲良くしたくないなんて思う? もう二度と話したくないって思ってるわけ?」

「それは――」

 どうなのだろうと考えてみる。

 だけど考えるまでもなく、それがムダな行為だと気づく。

 だって私の中には始めから答えが存在していたのだから。

「そんなこと有り得ません。私はまた、もう一度……牝鹿と仲良くしたいです」

「それが答えなんだと私は思うよ」

「牝鹿も……同じことを考えてくれてるんでしょうか」

「あの子も大概バカ……いや、不器用だからね。そうと言えないだけで、思ってることは一緒だって、私はそう思うんだよね。だからさ、一回、本気でやりあってみなよ」

「……殴り合うんですか」

 自分と牝鹿が本気で殴り合っている様子を想像してみる。

 体格差のせいで、一方的に自分が殴られている様しか思い浮かばなかった。

「それはあくまでたとえだろ」

 混乱した頭を巡らせる私に、先輩が横から助け船を出してくれる。

「なんだか那月さんにお膳立てされたみたいであれだけど、私からひとつ提案があるんだよ。まあ、これも木実の――昨日の店員の受け売りなんだけどな」

 他人の受け売りであることが、そんなにバツが悪いのか、先輩はぽりぽりと頬を掻く。それから自分を落ちつかせるためかコーヒーを口に含んで、私へと問いかけてきた。

「バスケで決着つけたらどうだ?」

「バスケ……で?」

 まさか殴り合いからバスケに飛躍するとは思ってなかったから生返事が漏れる。

「それで具体的になにが変わってくれるってわけじゃないかもしれないけどよ。今までふたりを繋ぎ止めていたバスケで牝鹿ちゃんに――そしてなにより仲違いの原因であるバスケに対して、小鞠は決着をつけるべきなんじゃないかって、木実の話を聞いてて思ったんだ。そうしないと、お前はいつまでも、そのふたつに縛られたままなんじゃないかって」

「な、なるほど」

 牝鹿に対してケジメをつける以上に、私はバスケに対して、出すべき答えがあるのかもしれない。だけどバスケで牝鹿と勝負すれば、私の中のモヤモヤは晴れてくれるのだろうか?

 彼女との勝負を通して、自分がコテンパンにやられることが、私はとても怖かった。バスケを選んだ私が、バスケを捨てた彼女に負けてしまっては、それこそ目も当てられない。

 そんな私の顔を覗きこんでいた先輩が、どん! と勢いよく背中を叩いてきた。

「お前は牝鹿ちゃんを神聖視しすぎなんだよ」

 痛みと驚きで呼吸が止まりかけていた私に、先輩は発破をかけるように告げる。

「お前はずっと牝鹿ちゃんの背中を見て、生きてきたんだろ? その背中が、急に明後日の方向へと動きだしたから困っちまってる。迷子になっちまってる。ただそれだけだ。牝鹿ちゃんとバスケは別物で、牝鹿ちゃんはバスケの神様でもなんでもなくて、お前はひとりでも歩いてゆける。彼女の背中を追い越して、ただの人間なんだって思い知ってしまえばいい」

 肩が組まれる。

 ぽんぽんと、怖じ気づきそうになる私の肩を、先輩の手が優しげに包む。その体温がやけに高かったおかげで、凍えそうになっていた私の心が、自然と絆されてゆくのがわかった。

「大丈夫だ。私がついてる。私がお前をささえててやるよ」

「そう……ですね。先輩がついてくれているなら、なんだか、大丈夫な気がしてきました!」

 私は先輩の勢いに乗っかるようにして、少し大袈裟な声で告げる。

 ホントは不安で仕方がなかった。

 今にも震えてしまいそうだった。

 それでも――

 その震えを先輩が止めてくれるのならば、私は牝鹿にも立ち向かえるような気がした。そんな根拠のない自信と、理由のない勇気を持ったのは、産まれて初めてかもしれなかった。