大早川美鶴
……教科書忘れてきた。
教室について、ショートホームルームを終えて、一時間目の授業の準備をしようとカバンを開けた結果がこれだった。我ながら珍しいこともあるものだと驚く。
原因は考えるまでもなく、昨晩の花鶏との会話と、小鞠とのやりとりのせいだろう。
その件で悶々としていたせいで、時間割にまで気が回らなかったのだ。
ちらりと木実の席を見やと空席だった。平楽先輩との問題が解決したはずなのに、彼女のサボり癖は依然として改善されていない。もともと彼女はサボり魔だったということだろう。私は彼女の机の中を覗き込み、とりあえず自分が忘れた分の教科書を根こそぎ拝借する。
どうせ来ないなら私が有効活用するべきだろうし彼女も文句は言わないだろう。
ほどなくして一時間目の授業が始まったのだが、木実の教科書を拝借してきたにもかかわらず、私は授業に集中することができなかった。それでも無意識のうちにルーズリーフには板書を書き写しているのだから、無意識と習慣の力はすごい。そのあいだにも意識は妹と後輩を行ったり来たりする。今は昨晩、妹が私に言ったセリフを思い返していた。
『お姉ちゃんにすら見捨てられた私は、なにを生甲斐にすればよかったんだよ』
そうと告げたときの花鶏の、悲しみに彩られた表情が脳裏に焼きついて離れない。
――私が花鶏のことを見捨てるだって?
そんなバカなことがあり得るはずがない。
私が花鶏を捨てるなんてできるはずがない。
強いて言えば立場は逆だ。花鶏が所有者であり、私が見捨てられる側。
私はきっと同世代の人間の中では、それなりに器用な存在なのだと思う。だけどそれは『なんであれ、それなりにこなすことができる』という意味であり、ただの器用貧乏だった。
それに対して花鶏は天才であり、神童と称される存在だった。
木実には話したことがあるが、私は物事に対して本気を出すことができない。
その理由はとても単純明快で、本気を出してもなんの得にもならないからだ。
私が本気を出しても疎まれるだけで本当に勝ちたい相手には絶対に届かない。
そもそも私と花鶏は一卵性の双子だった。
それならば遺伝的には完全に同一の存在であり、その能力値も同等であるはずだ。
しかし、一卵性の双子は、どちらか片方に能力が偏ってしまう場合があるらしい。
それは眉唾話で、もっともらしいウソなのだとは思う。
だが私たちにはそのウソが当てはまってしまっていた。
私と花鶏の能力は体感で7:3程度の割合で妹に傾いていた。
だから私は産まれながらに才能を持ち、産まれながらに挫折を知る人間なのだ。
絶対的な才能を前に潰される感覚を幾度となく味わってきた。
そんな私が他者へと才能を振りかざすような真似、できるはずがなかったのだ。
「痛っ」
授業中だというのに、なぜか頭を叩かれるという不本意な形で意識が覚醒する。
なんだと顔をあげると、なぜかそこには木実の顔があった。
……夢でも見てんのか?
「なんですかーその顔。言っとくけど、授業はとっくの昔に終わってますからねぇ。他人の教科書勝手にかっぱらっておいて、その上で授業聞いてないとか、最悪すぎるでしょ」
あ? とこぼしながら周囲を見回すと、休憩時間の喧しいまでの雑音が耳に入ってくる。どうやら考え事に集中するあまり外部の情報を完全にシャットアウトしていたらしい。
「いつの間に来てたんだよ、お前は」
バツの悪さをごまかしたくて、木実自身の話題を振っておく。
「いつの間にもなにも、一時間目にちょっと遅れただけだっての。来てみたら教科書ないし、なんだなんだと思ってたら委員長があんたが持ってったって教えてくれた」
「あー……はい、教科書なら返すぞ」
そこまで言うならと机の上に置いてあった教科書を木実に投げ渡す。
「たった今終わった科目の教科書なんて要らねーし。と言うか美鶴、教科書忘れたの?」
「うん、根こそぎ家に置いてきたみたい」
なかば予想していたはずの回答であるはずなのに木実はその目を丸々と見開いていた。
「珍しいこともあるもんだ。ぽけーっとしてる点も含めて」
「そうか? 私はいつもそれなりにぼけーっとしてるだろ」
そして唐突に始まるにらめっこ。
木実のほうは笑わせることが目的ではなく、私の本心を探ることを目的としているようだったが。それも一〇秒ほどで飽きたのか、この一週間で格段に数の減ったため息をついた。
「つーか残りの教科書も返せっつーの」
「あー、はいはい。すっかり忘れてた」
「うそつけ。あわよくばそのまま授業受けるつもりだっただろ」
図星を突かれたので拝借していた教科書はすべて返却しておく。
「あんた……本当に全部持ってってたのな」
腕にずっしりくる教科書の束を受け取り、呆れ半分、驚き半分といった調子で木実が呟く。受け取った教科書を自分の机に入れ直した彼女は、律儀に私のもとへと戻ってきた。
なにか話題でもあるのかと待ってみるが木実が口を開く気配はない。
……帰巣本能でも働いてんのか。
私のそばを巣にしてくれるのは、嬉しいような、むず痒いようななんとも言えない感じがする。私はそのこそばゆさをごまかしたくて今朝から考えていたことを漠然と口にした。
「あー、そういえば今日、バイトの日か?」
「んー、そうだけど、それがどうかした?」
「それじゃあ今日、後輩でも連れて遊びに行くわ」
「いつにも増して唐突。いや、いいんだけどさ。あっ、その後輩って可愛い?」
突然スケコマシみたいなことを言われて、眉根が寄ってしまうのがわかった。
……木実って、こういうこと言うタイプだっけ?
那月さんと過ごすうちにダメな部分が
「……やらねぇぞ」
「いらねぇ……って、そうじゃなくて、那月がさ、いい
つまりこの女は私の後輩を
「でも、こないだ先輩連れてったって……あ、あのひとは可愛くな――」
「センパイはすごい可愛いから」
私の言葉を遮って木実が言う。
怒るでもなく、哀しむでもなく、ただただ大真面目で平静なトーンを保っているのが、なんだかメチャクチャ怖くて、私はそれ以上言葉を重ねることができなくなってしまう。
ヘタなことを言おうものなら、無言でビンタでもしてきそうだったし。
「冗談は置いといて、そんなわけだからよろしく頼むわ」
これ以上、この会話を続ける理由も見つけられず、雑に締めることにする。
「……そんな適当によろしくされても、べつにサービスとかはしないかんね」
「木実がサービスしなくても、可愛い子を連れてきゃ那月さんがサービスしてくれんだろ」
「はい。私にはその可能性がまったく否定できません」
急に和訳した英文みたいな喋り方をしだした彼女の顔は、とても味わい深い彩りを持っていた。那月さんの女の子好きは今に始まったわけではないが、もしかしたらそれは、悪化の一途を辿っているのかもしれなかった。ちらりちらりと木実の顔を観察してしまう。
……まさか、な。
頭に湧いてきた不愉快な可能性を、ぎゅっと握り潰し、手のひらに残った粉のような不快感もふっと息を吐いて散らした。さっさと気持ちを切り替えて、小鞠にLINEを送る。
『今日の放課後練習は中止して休みにしようぜ』
授業が始まって三〇分ほどで小鞠から返信がくる。
『わかりました。今日はひとりで練習しますね』
……いや、なんもわかってねぇだろ。
私が伝えたかったことにしても、今朝の話にしても、まったく理解されていなかった。小鞠も頭では理解しているつもりなのかもしれないが実践に移せないのでは意味がない。
『ちげーよ。今日は小鞠も休むんだよ。いいとこ連れてってやるから』
『わかりました。お願いします』
簡素な文面だけの返信が昨日までの能面めいた彼女の顔を思い起こさせる。
……どこに行くかも聞いてこねぇんだもんな。
ホントにわかってくれたのか
放課後、待ち合わせ場所に指定した昇降口前にはすでに小鞠の姿があった。
肩に斜めがけしたエナメルバッグのショルダーベルトを、両手でギュッと握りこみ、つるつると光を反射する床を注視している。十数秒おきに息継ぎでもするかのように顔を上げ、ぐるりと周囲を見回して、再び床へと視線を移す。獲物を狙っている大型魚か、それとも単に酸素がたりなくなってしまっただけの金魚か……まぁ、後者だろうなと思いながら歩み寄る。
「悪い、待たせた」
私を発見してパッと表情を華やがせる小鞠。たかだか校内での待ち合わせに、なにをそんなに緊張しているのだろう。もしかしたら彼女にとって、バスケ部だけではなく教室――果ては校舎全体が、アウェイで息苦しい空間になってしまっているのかもしれなかった。
そう思わせる程度に先ほどまでの彼女の表情は沈鬱なものだったのだ。
「私もいま来たところです」
フォローのつもりなんだろうが、デートに早く着きすぎた恋人みたいなセリフになってた。
……木実のせいで、思考がそっちに寄っちまうな。
「で、美鶴先輩の言ってた『いいところ』ってどこなんです?」
「南羽後輩。それは着いてからのお楽しみにしようじゃないか」
やっと尋ねてくれたその問いに、前もって用意しておいた回答を投げ返す。小鞠は一瞬、鼻の上にシワを寄せたが、そういうことならと深く追求はしてこなかった。それから時間割を完全に忘れていた話をしながら、いつも通り自転車に跨がって、ふたりで校門を出る。
四月の下旬、並木道の桜はだいぶ蕾を膨らませ、開花の香りを匂わせている。
早くて来週中にでも見頃を迎えるかもしれない。
「先輩、よそ見してると危ないですよ」
「ああ、悪い」
桜になんて興味はないのか、小鞠は空を遮る枝々には目もくれなかった。
まあ私も、去年の出来事がなければ、意識することもなかっただろうが。
だからこそこうしてあそこに後輩を連れていけるのだと思うと感慨深い。
無言で自転車をこげば、あっという間に目的地の喫茶店が見えてくる。だけど、まさかその店が目的地だったとは思わなかったらしく、私が店の前で停まったあとも、小鞠は一〇メートルほど自転車をこぎ続けていた。そんな彼女が私の不在に気づき、自転車を停めると、サドルを高くしすぎたせいで爪先がつくのがやっとな状態で振り返ってきた。
「先輩、どうかしたんです?」
「いや、ここだから、目的地」
小鞠は訝しげに目を細め、私と店の看板を交互に見つめる。ペダルに足を乗せず、ぷるぷると震える爪先をペンギンみたいに動かしながら、ことこと私の所まで戻ってきた。
「……フラジルですか?」
そして店の看板としばらくにらめっこをしていた小鞠は意を決したように尋ねてくる。
「フラジールな」
フラジール……と慣れない語句を味わうように呟き、小鞠は外装を見つめる。
「ここが美鶴先輩の言ってた『いいところ』なんです?」
「なんか狐につままれたような顔してるけど大丈夫か?」
「先輩がこんなオシャレな店に通ってるのが意外で……騙されてるんじゃないかなって」
「その場合はだれがだれに騙されてんだよ」
店の雰囲気に圧倒されているのかと思ったら、そんな失礼なことを考えてたのか。
「私の目の前にいるのは先輩ではないのかもしれない」
「そこかよ……どんだけ私の感性は信用がないんだ」
「先輩は喫茶店よりラーメン屋の人間だと思ってました。それかバッティングセンター」
「喫茶店とラーメン屋を同列に語るセンスのが理解できないぞ、私には」
いったいどこの世界の女子が、そのふたつを横に並べて考えるのだろう。いや確かに私は、ラーメンだってそれなりに好きだけど、どっちに行くかで悩んだりはしないだろ、普通。
それに私はバッティングセンターにも行ったことがなかった。
なんなんだ、私のイメージは。
「白状すると、ここは友だちの親が経営してる喫茶店なんだよ。だからそう緊張しなさんな」
「べ、べつに緊張はしてませんけど」
あからさまに不機嫌そうな顔で呟いて、小鞠はむむむと唇をとがらせた。
そんな彼女の反応に苦笑を浮かべながら、私はフラジールへと入ることにした。
学校が終わってすぐにやってきたせいか、店内には高校生の姿はほとんどない。
勢い良く自転車をこいでやってくる女子高生なんて存在しないからだろう。
代わりに女子大生と思しき姿がちらほらと覗える。
中でも目を惹いたのが、カウンター席に座って、那月さんと談笑を嗜んでいた女性で、モデルかと見紛うほどの美貌の持ち主だった。那月さんだって顔だけは優れている人間だから、そんなふたりが並んでいるだけで、映画のワンシーンみたいな非現実を演出していた。
「あら、美鶴ちゃん。木実抜きで来るなんて、珍しいこともあるもんだ」
那月さんに言われ、この店に来るときは大抵、彼女と一緒だったなと自分の行動を顧みる。それこそ私がひとりでこの店を訪れたのは、一年前のあの日くらいなものだ。
私の影からぬっと顔を覗かせた小鞠に、那月さんとカウンター席の客の視線が集中する。
「この子は後輩の南羽小鞠です」
肩やら足やらが強張っている小鞠に代わって、私が彼女を紹介する。
小鞠は、ど、どうも……なんて、ひどく恐縮した様子でぺこりと頭を下げていた。
「私はフラジールの店長をしてる神代那月。よろしくね」
「ちなみに私は鈴蘭大の
ちゃっかりカウンター席の女性にも挨拶をされたので、こちらも頭を下げておく。
「どうも……月野さんですね」
……月野?
と一瞬、記憶がひっかかれるような心地になるが、どこでその名前を聞いたのか、私は思いだすことができない。それこそホントにモデルかなにかなのかもしれなかった。
「あら、つれない。まあでも、さすがに開栄高校にまで私の名前が知れ渡ってるわけないか」
「月野さんって有名人なんですか?」
「一部の人間のあいだではそれなりに。私は顔がいいらしいから」
「なんですか、それ」
「そんなわけで、高校生が集まって来る前に、私はおいとますることにしましょうかね」
なにがどう『そんなわけ』なのか、いまいち判然としなかったが、月野さんは本当に会計を済ませると、さっさと店から出ていってしまった。まるで私たちが追いだしてしまったみたいで気が退けたが、だったらなんのための自己紹介だったんだと訝しんでしまう。
……まあ、悩んでも詮なきことってか。
先ほどまで月野さんが座っていた席に私が、その横に小鞠がちょこんと腰を落ちつかせた。
「しかし美鶴ちゃんが連れてきたとは思えないほど可愛らしい子ね。ナンパでもしたの?」
「ちげーよ。部活の後輩です」
小鞠を見やれば、警戒心の強すぎる猫みたいな目つきで那月さんを見つめてた。
ひさしぶりに見せる手負いの獣じみた雰囲気に苦い笑いがこぼれ落ちる。
彼女が私に対して、それなりに心を開いてくれてたことに気づけて嬉しくもあったが。
「まあ、こんな感じのひとだけど、悪いひとじゃないし、淹れるコーヒーは本物だから」
「どうも、本物のコーヒー屋さんです」
そんな冗談に小鞠は、どうも……なんて、どこかズレた返答をしていた。
小鞠がこの空間に慣れ親しめるのにはもう少し時間がかかりそうだった。
「美鶴ちゃんの後輩ってことはバスケ部の一年生?」
「そうですけど……なにかありましたか?」
「最近ちょっと似た表情した女の子が店に迷いこんできたなって思ってさ」
「……なんですか、それ」
那月さんへ胡乱げな視線を送りながら小鞠は問う。
「いやいや、こっちの話。だけどやっぱり高校生はいいね。青春するのが仕事って感じがしてさ。お姉さんみたいに歳を食っちゃうと、青春したり悩んだりする体力も残ってないからね。小鞠ちゃんみたいな子の顔を見てると、英気が養われてゆく気がするな」
じっと那月さんは絡みつくような視線を小鞠へと向ける。
「セクハラですよ、それ」
「今のをセクハラだって思える神経のほうがだいぶセクハラじみてると思うけど。雑談はこの辺にして、本物のコーヒー屋さんらしく、職務をまっとうさせていただきましょうかね」
そう告げ、那月さんは手と手を打ち鳴らす。
「小鞠ちゃんは苦いの――と言うかコーヒーとか好き?」
「え、えっと……その、はい。嫌いじゃないと思います」
しどろもどろになりながらも小鞠は答える。
そしてその回答を受けて、那月さんはその表情をゆがめた。
「そう? まあ、私はそっちのほうが好きだけど」
那月さんの言う『そっち』が一瞬コーヒーのことかと思ったが。
少しばかり文脈が繋がっていないことに一抹の違和感を覚える。
だがその気持ち悪さの正体を、ここで突き詰めてやろうとは思わなかった。
私は無難にカプチーノを注文する。
そしてエスプレッソを注文しようとしていた小鞠を制止して同じものを注文させた。
……那月さんがなにも聞かずに注文を受けようとすんのは珍しいな。
フラジールは開栄高校と鈴蘭女子のふたつの高校に挟まれる形で建っている店だ。
だからその客層は喫茶店にしては珍しく女子高生が多い。
それゆえ那月さんは新しい客に対してのコーヒー選びはていねいに行うことが多かった。なにせ多くの女子高生たちは、この店でコーヒーデビューを果たすことになるからだ。
――人生で初めて出会ったコーヒーが、その後の人生を左右する。
それが那月さんが掲げている座右の銘だと聞いていた。
『確かにコーヒーは苦味が主体だけどね、だからこそほんの少しの甘さが際立つんだよ。つらかったり、苦しかったりするとき、ちょっとした優しさで泣きそうになる感じ、あるでしょ。コーヒーはそれを疑似体験させてくれる。一杯のコーヒーは小さな優しさでできてるんだよ』
ひとを救うには一杯のコーヒーがあれば充分なんだ。
初めてこの店を訪れたとき、那月さんはそう言って、私にコーヒーを出してくれた。
なんてことを考えてる間に、現実の私たちの目の前にもカプチーノが差しだされた。
カップの表面には泡だった白いふわふわが乗っかっていて、小鞠はその泡とにらめっこを始めていた。その視線には物珍しさと不安が滲んでいて、やっぱりどこか猫みたいだった。
「これ……どうやって飲むんですか?」
小鞠はこっそりと私の耳元に顔を寄せて囁いてくる。そんな彼女の内心を想像すると、ちょっとだけ可愛らしくて、油断すると笑みがこぼれそうになってしまう。
笑ってしまったら、このまま耳でも噛まれそうだったから堪えるしかなかったが。
「普通に泡の上に砂糖かけて、かき混ぜればいいんだよ」
スプーンで上下にかき混ぜたりしたら空気が入って美味しいとか、そんな感じの豆知識があるらしいけど、詳しくもない私がそんな知識を披露しても滑稽なだけだろう。
口頭の説明だけでは不安らしく、小鞠は私がコーヒーをかき混ぜる様子を観察しながら、それをマネるようにして、やっとカプチーノをかき混ぜ始める。コーヒー全体がふわふわと泡だってゆく感覚が不思議なのか、小鞠は夢中になってスプーンを回していた。
「そろそろいいだろ」
教えてやらないと、延々とかき混ぜていそうだったから、横から指示を出してやる。
そして恐る恐るといった調子で、小鞠は小さな唇をカップの縁につけ、ずず……と啜るように一口を含んだ。その肩肘が無闇に張っていたせいで、私まで緊張してしまいそうだった。
「あ、美味しいかも」
ほっと熱っぽい吐息をこぼしながら呟く小鞠を見て、私もやっと人心地ついたのだった。
ちらほらと他の制服姿の客が増え始めたころ、ウェイトレス姿の木実がやってきた。
普段はそれほど意識しないが、こうして並んでいる姿を見ると、木実と那月さんは似ていると思う。伯母と姪の関係らしいから、容姿はそこまで似通っていないはずなのだが。
その飄々とした雰囲気やたたずまいのせいか歳の離れた姉妹のようにも見えた。
「この子が美鶴の言ってた後輩? 美鶴の後輩とは思えないくらい可愛いじゃん」
「それ、私がもう言ったから」
那月さんのツッコミに、げぇっと表情を顰める木実。
……こういうところまで似てるんだよな。
伯母と姪の関係で、毎日のようにバイトで顔を合わせていて、一時期は同居までしていたらしいから、ある
私がそんなことを考えているあいだに小鞠と木実が自己紹介をしていた。本日三回目の自己紹介だからか、それとも単に年齢が近く、私の友人という安心感からなのか、小鞠の挨拶は、これまでで一番流暢なものだった。店の雰囲気にも慣れてきてくれたのかもしれない。
――これで少しでも小鞠の気分転換になってくれりゃあいいんだけどな。
そんな私の淡い期待は、だれも予想していなかった形で、裏切られることになった。
だって、その発端となるのが木実だなんて、予想できるはずもないだろう。
「そういや、ここに来る直前に牝鹿ちゃんに会ったんだよ」
木実は軽い世間話のようなノリで那月さんに話しかけた。
その名前に覚えがなかった私は、その話題への興味を早急に失っていた。
だから小鞠とバスケの話でもするため、そちらに意識を向けようとしていたのだ。
しかし肝心の小鞠がなぜか木実の顔を食い入るように見つめていたのだ。
今にも跳びかかって、首元に噛みつきそうな、そんな猛獣じみた表情をして、だ。
「あの子、私が休んでたときに店、来てたんだってね? 私がバイトしてるって言ったら、すごい驚いてたよ。那月によろしく言っといてって。今度、恋人の先輩を連れてくから――」
「――牝鹿が言ってたんですか?」
そう尋ねたのは、私の横に座っていた小鞠だった。まさか小鞠が木実の話を遮るとは思ってもみなかったから、私は彼女に対して、うまく対応することができずにいた。
「はっ?」
そして木実は木実で、明後日の方向から問が飛んできたせいか目をぱちくりさせていた。
「牝鹿が……その、恋人が、先輩が……その、紹介するって、そう言ってたんですか?」
混乱のせいかひどく乱れた日本語で小鞠は問う。
その横顔が見るからに焦燥していたものだから、胸中にイヤな予感がじわじわと広がってゆく。木実が助けを求めるように私のほうを盗み見てくるが、私も事態を正確には把握できていないせいで、フォローを入れることはおろか、会話に参加することもできない。
これ以上沈黙を重ねることができないと判断したのか、木実がゆっくりと開口した。
「小鞠ちゃんが私の話のどこに疑問を持ったのかわからないけど今の話はホントだよ」
「その……それ、先輩って放送部の先輩のことですか?」
放送部という単語が、私の胸中で反響する。
……放送部って、小鞠の幼馴染みが入った部活だよな。
私たちのあいだに再び沈黙がおりるがそれは長続きしなかった。
「そうだね」
「放送部の先輩って、確か……女のひとしかいませんでしたよね」
「そうだね。つまり……小鞠ちゃんが想像してる通りだと思うよ」
「そうですか」
その声は感情を失ってしまったように単調で、周囲の喧噪に飲みこまれそうなほどか細い声だったが、その発信源である彼女自身、今にも空気に溶けて消えてしまいそうだった。そのまましばらく、カップに残っていたコーヒーを凝視していた小鞠だったが、ふと思い立ったように立って私を見おろした。彼女は見ているだけで温度が失われそうな青白い顔色をしていた。
「ごめんなさい、先輩……私、今日はお先に失礼します。コーヒー、美味しかったです」
あとこれ、コーヒー代。
そうぶつ切りの日本語で告げると、小鞠は不確かな足取りで店から出ていった。きちんと自転車に乗って帰れるか不安になるような足取りだ。家まで送っていってやるべきかと迷うが、私は私で、木実たちにいくつか確かめなければいけないことができてしまっていた。
とりあえずのところ――
「那月さん、なにか知ってそうな顔してますね?」
なにやら複雑そうな表情で事態を静観していた那月さんに私はそう問いかけていた。
そうして明らかになったのは、世間の狭さを実感させてくれる事態だった。
「途中からなんとなく察してたけど……高校に入って喧嘩別れをした小鞠の親友ってのが心塚牝鹿ちゃんってわけね。それが偶然にも木実と那月さんの知り合いだったと」
そしてその牝鹿ちゃんの心を射止めたのが放送部のお姫様である緒輪島紗和。
放送部ふたりが結ばれたことによって、その親友たちが居場所を失った。その片方が木実の想い人だった平楽初海であり、もう片方が私の後輩である南羽小鞠だったわけだ。
あの放送は私が思っていた以上に、多くの人間に影響を与えていたらしい。
「今度は私たちの番……ってか?」
私もまたあの日、たまたま耳にしてしまった放送が気になって仕方がなかった人間なのだ。それを踏まえて考えてみれば、この巡り合わせもまた必然であったのかもしれないが。
「木実には相談しようと思ってたんだけどな――」
こうなったのもなにかの運命だと居直った私は、木実にこれまでの経緯を――小鞠を取り巻いている現状について話した。互いが持っていた情報がピタリとハマってしまったせいか、木実は当初の戸惑いよりも、納得のほうが上回ってしまったようだった。
「……小鞠はどうしたらいいんだろうな」
私はそう話を締めくくる。
ついこのあいだまで、互いが互い関係性について悩んでいた木実なら、なにかヒントになるようなことを教えてくれるのではないかと思っての言葉だった。そんな私の期待通り木実は、これはあくまで私とセンパイの個人的な経験だけど、と前置きしてから口を開いた。
「結局、当人同士の問題は、当人同士で解決するしかないんだと思うんだよね。それは別の場所に答えを求めても無意味でさ。時間が解決してくれるっていうのは、確かにその通りなんだろうけど……それって健全な人間だけに許された手段なんだなって、私は痛感した」
「健全ってのは?」
「たくさんの好きなものがあって、代わりを用意できる人間ってこと。なにかひとつのことに固執して、それを失ったら倒れてしまうような人間は、どれだけ時間がたったところで、自分のクビを絞めることにしかならない。まあ、私が言いたかった健全ってのはそういうこと」
「小鞠は……まさにそういうタイプだな」
彼女のこれまでの人生はバスケ――そして牝鹿ちゃんに傾倒したものだった。
そのふたつの存在は彼女にとって、自分と人生を支える柱だったに違いない。
「私と那月は牝鹿ちゃんと話したことがわかるけど、あの子もすごく悩んでたんだ。だけどその悩みっていうのは、小鞠ちゃんの場合とは違うんだよね。牝鹿ちゃんには選択肢があったんだ。『放送部と先輩』か『バスケ部と小鞠ちゃん』かっていうさ。どちらを選ぶかで悩んでたってわけ。それは当人にとっては人生の岐路に違いないだろうけど……メチャクチャ贅沢な悩みなんだよね。だってどちらを選んでも、間違いなんてないんだからさ」
その声音はやけに真に迫ったものだった。
もしかしたら木実もまた自身の苦悩を、小鞠に重ねてしまっているのかもしれない。思えば木実の苦悩にもまた、選択肢なんて贅沢なものは存在しなかったのだろうから。
「でも小鞠ちゃんは……選択肢なんてないわけじゃん。バスケから逃げられれば楽だったんだろうけど、彼女にとって、その代わりになるようなことなんて、なかったわけでしょ? それこそ、バスケを嫌いにならなくちゃ自分を保てないくらい追い詰められてるわけじゃん」
あの夜の小鞠の顔を思いだす。
ひどく疲れたような表情をして、
なにかを諦めたような声をして、
陰鬱に濡れた言葉を呟いた彼女。
だけどそこまでしていたのに、彼女がバスケを嫌いになれることはなかった。
それだけではなく、彼女が牝鹿ちゃんを嫌えてしまえることもなかったのだ。
このまま時間の流れに身を任せたところで、彼女の心は疲弊してゆくだけ。彼女の小さな心は時間の流れの川底で摩耗する間もなく、砂粒のように消え失せてしまう気がした。
「だから小鞠ちゃんは決着をつけるしかないんだと思うよ。牝鹿ちゃんとバスケに対してさ」
そして木実は、決着をつけるための手段を私に提示してくれた。
木実の提示した解決策はある意味でもっともわかりやすく、それゆえに――。
もっとも残酷な選択肢だと、私からしてみれば、そう感じられるものだった。