南羽小鞠

 

 今日は四月最後の木曜日だ。

 明後日からゴールデンウィークに入るんだけど女バスは一日しか練習が入っていない。

 もともと開栄高校は体育館がさほど広くなくて、そのくせ体育館を使う室内系の部活が多いという問題を抱えているらしかった。バスケ部にバレー部、それにバド部、それぞれの部活に男女があって、もともと体育館の使用権を巡って、たびたび諍いが起きているらしい。

 今のところ強いチームには優先的に体育館利用が宛がわれている状況だった。

 適当な練習をしている女バスに体育館を与えるくらいなら、他の部活に回したほうが全員が幸福になる。女バスに所属している私ですら思う。そもそもゴールデンウィーク中のたった一日の練習ですら、女バスの先輩たちは『要らない』と一笑に付していたくらいだし。

 こんな部活、本当にあっていいのかなと、疑問になったりもする。

 部の雰囲気もあるとは思う。今の三年生は全体的に不真面目なひとが多いから、下級生たちはイヤでもその空気に従わないといけない。実際二年の先輩はそれなりにマジメなひとが多い印象だ。とくに美鶴先輩は私のワガママにつき合ってくれる程度にはバスケの練習にも熱心に取り組んでいる。しかしどれだけ私たちがマジメに練習をやったところで、結果が残せなければ体育館は使用できないという状況に変わりはない。

 そんな事情から、私は高校ではなく、公園を目指していた。

 住宅地から少し離れたところにあるその公園は、野球場とテニスコート、バスケのゴールまで完備している、そこそこ大きいものだった。そこで私たちは毎朝、練習を行っている。

 私が公園につくと、駐輪場にはすでに先輩の自転車が停まっていた。私もその横に自転車を停め、朝露と芝生の匂いが染み込んだ木々の隙間を抜け、コートをに向かう。

 ドリブルの音とボールがリングに衝突する音が聞こえてくる。

 コートでは美鶴先輩がシュート練習に励んでいるところだった。

 ドリブル、急停止、ゴールと対面し、とんと跳ねながらシュートを打つ。

 ボールは綺麗なアーチを描き、ネットを揺らさないままゴールを決める。

 シュートのお手本のような動作だった。

 思わず見とれてしまい、私は声をかけることすら忘れてしまう。

 ――先輩のシュートってこんな綺麗だったっけ?

 普段は自分の練習で手一杯で、他人にまで気を回している余裕がなかったからだろうか。そういえば、こんなにまじまじと先輩のシュートを眺めるのは初めてだった。こんなにも綺麗なお手本が自分のそばにいただなんて、その事実に気づかなかった自分が信じられない。

 ……昨日の会話がなかったら、もしかしたら一生、気づかなかったかも。

 あの会話があらためて、美鶴先輩という存在を、私に意識させてくれたのかもしれない。

「先輩、今日は早いんですね」

 コートに入りながら声をかけると、先輩は大きく身体を震わせた。

 どうやら周囲の物音すら耳に入らないほど、シュートに集中していたらしい。

 ……これじゃあ、普段と立場が逆だよね。

 そう考えるとなんだか面白くて笑いそうになる。

「おはよ、小鞠。昨日あんな会話しちゃったしな、じっとしてられなくてよ」

「先輩が気にする必要なんてないのに」

 昨日の会話と言えば、私が一方的に牝鹿のことを語っただけだ。

 その会話のどこに先輩をその気にさせる要素があったのだろう。

「私はそういうの、いちいち気にしちまう性格なの」

「じゃあ先輩は練習をしに来たというより、私を心配して早く来てくれたんですか?」

「それが七割ってとこ。だから小鞠はなるべく心私に配かけないようにしてくれよ」

「心配はかけないようにしますけど……残りの三割はなんなんですか?」

「んー……内緒」

 ぷいっと視線を逸らし、先輩はシュートを打つ。体が流れてしまっていたせいか、フォームは先ほどよりも乱雑で、当然の結果としてボールはリングに弾かれて跳んでいった。

 ……内緒にされると余計に気になるんだけど。

 先輩と後輩という関係があいだに横たわっているせいで、彼女の内面にどこまで踏みこんでいいのかわからなかった。先輩はボールを拾いあげながら、私より先に口を開いた。

「まあ、『心配かけるな』なんて言ったら、小鞠は余計にムリしそうだからな」

 そこで言葉を句切り、間を保たせるようにドリブルをする。

 だむだむだむだむ……というバウンド音が、コートに響く。

「だからさっさと、その問題を解決しちまえよ。私も協力してやるからさ」

 告げて、シュッ――と先輩はシュートを打つ。

 力みすぎたのか、ボールはゴールの根っこに弾かれて、綺麗に先輩の手元へと戻ってきた。

「……締らないですね。それに問題を解決って……なんか横暴って感じがします」

 解決しよう! と思って解決できるような問題なら、さっさと手を打っている。

 私だってムダに手をこまねいているわけではない。

「だけど私の協力ほど頼もしいものはねぇだろ?」

 ガッとなにかを奪うような勢いで私の肩に腕を回しながら、先輩が問いかけてくる。

 柔らかさより筋肉質な固さが先行しているのに、その匂いだけはしっかりと女の子で。軽い運動でわずかに強まったその香りとのアンバランスさに、少しどぎまぎしてしまう。

「まあ……そうですね。美鶴先輩、強そうですし」

「……いや、強そうってなんだよ。強そうってさ」

「褒めてるんですよ、たぶんですけど」

 私の軽口だか、冗談だかつかない言葉に、なんだそりゃなんて言いながら先輩は笑う。

 その笑顔が一転して真剣みを帯びたものに変わるものだから、思わず身構えてしまう。

「それじゃあひとつ、前々から気になってたんだが――」

「は、はい」

 協力してくれるのは嬉しいし、頼もしいのもホントだったけど。まさかそんな急展開になるだなんて思ってもみなかったから、どうしていいのかわからなくなる。

 意味もなく目をつむりそうになる程度に私は混乱していた。

「なんでそんなぶたれる直前の子どもみたいな顔してるんだよ」

 からからと先輩は笑うけど、心象的にはまさにそんな感じだったから私は笑えなかった。

「そう緊張すんなって。べつにたいした話でもねぇからさ」

 私の緊張と強ばりを解くように、先輩はぽんぽんと私の肩を叩き、その言葉を口にした。

「小鞠はシュートフォームを変えたほうが伸びると思うぞ」

「えっ?」

 私はシュートフォームを変えたほうが伸びると思う?

 ……このひとはなんの話をしてるんだ。

 私が用意していた枠組みの外の話題を出され、頭が疑問符で充ち満ちてゆく。

 そんな私の顔を見て、先輩の小首を傾げる勢いで不思議そうな顔をしていた。

「ん? だから、シュートフォームを変えたほうが――」

「ちょっ、ちょっと、なんでバスケの話をしてんのさ!?

 この流れでバスケの話をぶち込まれるとは考えてもみなかったから声と言葉が乱れる。

 ……私の抱えてる問題って、シュートフォームだったのか?

 いやいやいや。私は昨日、牝鹿の話をこのひとにしたはずだ。

 このひとがよほどのトンチンカンでもないかぎり、それは理解しているはずで――

「まあまあまあ。小鞠の言いたいこともわかるけどな。それはどうしようもないだろ」

「な、投げ捨てられた!」

 確かにどうしようもない内容なんだけど。

 ヘタに力んでいた分肩の力が抜けてしまう。

「だったら当面は、思いきりバスケを楽しむのが、その友人への復讐になると思うんだ」

 ほら、バスケは楽しいんだぞ、とでも言うように、先輩はだむだむとボールを鳴らす。

 残念ながら上下に行き来するボールを眺めるだけで心が踊るほど私の精神は幼くない。

 それより今の先輩の言葉には、なんとも不穏な響きの単語が混ざっていた。

「復讐……ですか?」

「そうだ。復讐だ!」

 びしぃ! と先輩の人差し指が、私の胸元に突きつけられる。

 ちょうど心臓の辺りを突かれ、文字通り、私の心臓が跳ねた。

「小鞠はその友だちに、バスケと一緒に見捨てられたような、そんな気持ちなんだろ? 自分ばっかりそいつのこと気にして、だけどそいつは自分に見向きもせず、新しく見つけたものに夢中になってたんだ。そんなの、メチャクチャつまんねぇよな。その気持ちはわかるぞ」

 その言葉にはやけに感情がこもっていたような気がしたから。

 だから私は相づちを打つことはおろか口を開くこともできず黙って頷いた。

「だけど、そのせいでお前までバスケを嫌いになっちまうのは、もっとつまんねぇし、くだらねぇし、有り得ねぇことだと私は思うわけだ。だからもういっそ考え方を変えちまったほうがいい。そいつにお前が見捨てたバスケはこんなに楽しいんだぞって思わせて『どうして私はあんなに簡単にバスケを辞めちまったんだろう!』って後悔させてやればいいじゃねぇか」

「それは――」

 確かにそうだと、そう思った。

 だけど先輩の言葉に私は気圧されてしまって、うまく返答ができない。

 心臓が妙な脈打ち方をしていた。

 先輩の言葉には随所に毒が仕込まれていた。

 きっとその毒が強心剤のように、私の心臓を圧迫していた。

「そう……ですね。私、とりあえずバスケの練習、頑張ってみようと思います!」

「頑張るんじゃなくて、楽しめって言いたいんだよ。私はさ。肩の力を抜こうぜ」

 私の両肩を掴んでぶらぶらと上下左右に揺すられる。腕から肘、手首から指先にかけてが一時的に脱力し、軟体動物みたいに揺れる。先輩の言いたいことはわかった。

 それこそ『ムリをするな』ということなのだろう。だけどこの一ヶ月、バスケに対してそういった向き合い方をしてこなかった私には、それこそ無理難題に近かった。

「小鞠ってばすげぇ渋い顔してんぞ……今のお前にそういうのが難しいてのはわかった」

 私はそんなにひどい顔をしていたのか、今度は眉間やら頬やらをぐりぐりされる。

 そしてしばらくして、堪えきれなくなったみたいに先輩は破顔した。

 ……ひとの顔を見て笑うのはやめてもらいたいんだけど。

 それでも先輩があまりに楽しそうだったから私もつられて笑ってしまった。

「小鞠はさ、スリーポイントの成績はそこそこだったよな」

「練習で四割……中学のころの試合で二割前後……くらい、ですかね」

 調子がいいときと悪いときの落差が激しいけど、入るときは試合でも四割くらい決まったりする。そういうときのシュートは本当に気持ち良くて、柄にもなく万能感に酔ったりもした。

「うん、そんだけ入れば、とりあえずは充分だ。ただ、他の点はいまいち……つったらあれだけど、シューターとしての腕前に釣り合うんじゃないよな。シューターがひとりいるだけで、ゲームは動かしやすくなるけど、シューターが動けるに越したことはない」

 なるほど……と先輩の言葉に頷く。

 もともと全体の動きを見て、フリーになったところでボールを貰い、シュートを打つ場面が多かった。だけど後半になって相手に動きが読まれ始めると途端に決まらなくなってしまう。それは先輩の言う通り、シューターの私が機動力に欠けていたからなのだろう。

「で、スリーより前でシュートを打つなら、ボスハンドよりワンハンドのほうが絶対にいい」

 慣れない単語に一瞬、混乱するが、ボスハンドが両手で、ワンハンドが片手のシュートだ。女バスは基本的にボスハンドが多いけど、背が高かったり、筋力のある生徒はワンハンドでシュートを打っていたりする。うちの女バスでやっている選手は、それこそ先輩以外いない。

「……私、片手でシュート打てるほど筋力ないです」

 何度か挑戦したことがあるけど、力みに力んでやっとリングの手前に触れるくらいだ。仮に筋トレをして届くようになったとしても、そんなに力んでいては入るものも入らない。

「だから、スリーポイントは両手で打てばいい。スイッチシューター……は左右で切りかえるんだったか。だけど両手と片手、両方使えるんだったらそれに越したことはないと私は思う。練習量は倍になるけど、そもそもツーポイントとスリーポイントは勝手が違うしな」

「……そんなの有りなんですか?」

「女バスなら両手と片手の使い分けは珍しくないぞ。さっきの話とは逆になるけど、スリーに関してはボスハンドのほうが決まりやすいって断言してるプレイヤーもいるくらいだしな」

 へえ、と先輩の豆知識に、私は普通に感心してしまう。

 そういうふうに言われてみると、とりあえずやってみようかなという気になった。

 それから先輩は口を開きかけたけど、自分の迷いを打ち消すように手を鳴らした。

「まあ、能書きなんてどうだっていいからよ。一回やってみようぜ」

 ……たぶん説明すんのが面倒になったんだろうな。

 私にしてみてもそちらのほうが好都合だ。説明で頭がいっぱいになるより、実践の後に修正をかけるスタイルのほうが私には向いていると思うから。そんなわけで私は先輩の指導のもとで、ショートからミドルレンジにかけてのワンハンドシュートの練習を開始したのだった。

 だがしばらく模索してみても、やはり片手でのシュートは初めてだから勝手が掴めない。

 先輩に指導を仰ごうかと、彼女のほうを向く。ちょうど彼女もシュートの練習をしていた場面だったので、少し観察してみることにしたのだが――あれ……? と違和感に襲われる。

 綺麗なシュートだった。

 だけどそれだけ。綺麗なだけ。

 ――あのときのシュートとぜんぜん違う。

 私がコートに来たときに見たシュートは、今のとは比べものにならないくらい美しかった。なにが違うのかよくわからないけど、それが違和感になって私を襲った。そのせいで私は先輩にコツを尋ねそびれてしまい、その上、あまり練習にも集中することができなかった。

 そうして気もそぞろの状態で本日の朝練は終了したのだった。

「小鞠!」

「はっ、はい!」

 怒鳴るような声で名前を呼ばれて私は我に帰る。なんだなんだと思う前に、『ああ、もう時間なのか』と思い至れる程度には、私と美鶴先輩のつき合いは長いものになっていた。

 時計を確認すると案の定八時すぎだ。ここから学校まで一〇分程度で着くけれど、着替えやらを考えると少しギリギリかもしれない。私たちは荷物を持って公衆便所へ向かった。

 この公園のトイレは男女のそれと、バリアフリー仕様の三つから成りたっている。中には乳幼児の子ども用のベビーベッドがあるので、そこにカバンを置いて、着替えを行う。

「シュートどうだった?」

 タオルで汗を拭い、制汗スプレーを体に噴きかけながら、先輩が聞いてくる。

「うーん……もうちょっとやってみないと、わかんないです。実戦で使えるのかどうかも」

「そうだよな。でも今年は三年があれだから、一年が試合に出れるのなんて夏休み入ってからだろうし、ゆっくり試してみればいいんじゃねーの。私もワンハンド始めたのは高校のバスケ部に入ってからだし。慌てなくても大丈夫だって」

「そうだったんですか?」

 ずいぶんと綺麗なフォームだったから、昔からそれ一本でやってきているものだと思っていた。高校に入ってからということは、一年ほどしか練習を積んでいないことになる。

「中学のころから、おね――いや、『お前はそっちのほうが向いてる』って言われ続けてたんだけど、意固地になっててな。で、高校で試しに挑戦してみたら、しっくりきちまった」

 先輩は少しだけ悔しそうな表情を見せていた。

 その表情の意味合いを私は掴み損ねてしまう。

 しっくりきたなら、それに越したことはないじゃないかと、そう思ってしまったから。

「そんなわけだから、小鞠も少し練習すれば決まるようになると思うぞ」

 ずいぶんと雑なまとめ方だと思ったけど、先輩のお墨つきは正直に言うと嬉しかった。

 それから私たちは急いで着替えを済ませ、高校へ向かったのだった。