大早川美鶴
その後輩を見て『ずいぶんと熱心な子が入部してきたな』という感想を抱いた。
練習にはだれよりも早く顔を出す。
練習が終わってからも自主練を欠かさない。
練習中、動物の尻尾みたいにぴょこぴょこと揺れるショートポニーがチャームポイントの後輩は南羽小鞠という、その小動物めいた容姿にぴったりの名前をしているのだった。
ただ彼女の眼光はやけに鋭く、気迫めいたものを周囲に振りまいていた。それが原因で可愛らしい容姿が台無しになっていて、小さなライオンじみた空気を身にまとっている。
そんな彼女に引きずられるようにして私の自主練の時間も日に日に伸びていった。
だがバスケ部の全員が全員、部活に対して情熱を燃やしているわけではない。
それが結局、『ほどほどに頑張る』という上級生が掲げていた暗黙の了解を引き裂いてしまって、気づくと一ヶ月たらずで私と小鞠は部での居場所がなくなってしまっていた。
――べつに居場所を求めて部活をやってたわけじゃないけどよ。
それでも今の息がしづらい状況は、ひどく居心地が悪いものだ。
酸素を求めて水面から何度も顔を出す金魚をこの一週間で何度も思いだしていた。
……いっそぱっくりと食らっちまえばいいのにな。
そうは思うものの、部員たちはじりじりと私たちから酸素を奪うばかりで、なにか直接的な行動に移す気配は感じられなかった。その焦れったさに、思わずこちらから食ってかかりそうになってしまったほどだから相当だろう。私が問題を起こせば、小鞠も連帯責任を負わされるのは目に見えていたから、なんとか堪えることができたが。
ふと時計を見やると時刻は午後の八時半だった。
そろそろ切りあげ、帰宅しないと叱られてしまう。
小鞠に視線を移す。両手でボールを掲げ、そのままゴールリングにパスをするみたいにシュートを打つ。ぴょんと跳ねる動作に合わせ、上下に動く尻尾に視線が奪われる。
だがボールはリング奧、根っこの部分に当たって弾かれる。
明らかに力みすぎだった。
さすがに疲労も溜まっているのだろう。
「小鞠、そろそろあがらないと藤沢先生に叱られちまうぞ」
「……………………」
小鞠は答えない。黙々とスリーポイントシュートの練習を続けている。
これはいつものことだった。
彼女が一度の呼びかけで反応を返してくることのほうが稀だ。始めは先輩の呼びかけを無視するなんて、と思っていたが朝から晩まで一緒に練習をやっていればイヤでも慣れる。
「小鞠ちゃーん?」
「………………………………」
二度目の呼びかけも同様。
ここまでは予定通り。
許容範囲内だ。
「小鞠!」
シュートをうち終わったタイミングで、肩をトンと叩く。完全にシュートに意識を集中していたのだろう。彼女の身体が大きく跳ねて、つられて尻尾もぴょこんと跳ねる。
「そろそろ時間だ。帰りの準備、始めようぜ」
「あっ、はい……わざわざすみません」
律儀に謝られると、なんだか私が怒っているみたいでイヤになる。そういうつもりで言ったわけじゃないと私は笑うが、小鞠は困ったような微笑をその顔に浮かべるだけだった。
体育館にはすでに他の部員の姿はない。
というか『すでに』もなにも、あいつらは規定の練習時間が終わると同時に帰宅した。
居残って練習するという概念が他の部員には存在しないのだ。
どうせ私たちが片づけるだろうと踏んでか、道具はすべて放ったらかしだ。べつに片づけは嫌いじゃないし、ひとりじゃないからムダに精神が磨り減ることもないんだが。
だからといって気分がいいのかと聞かれれば、答えはどう考えても否だった。
――だけど今のとこ、そんなことに目くじら立ててる余裕もないんだけどな。
なぜなら目下の悩みの種は、ともに片づけをしてる小鞠だったりするのだ。
とは言ったって、べつに木実に言われたような、色恋沙汰の問題ではない。
ただ私には、小鞠がこんなに熱心に練習に励む理由がわからないのだ。
そんな小さな疑問が私の中で肥大化し、悩みにまで発展してしまっていた。
最初は純粋にバスケが好きなのだろうと思った。
だけど練習中の彼女の表情は、バスケを楽しんでいる人間のそれには見えなかった。
その顔に浮かんでいるのは苦痛だけで、あまりの痛ましさに見ているこちらがつらくなってくる始末だった。今の小鞠を見ていると、努力のために努力をしているような、練習にのめりこむことが目的だとでも言うような、そんな危うい印象を受ける。それはきっと小鞠の表情が思い悩んでいるときの木実に似ていたからで。図書室で会ったときの平楽先輩に似ていたからだ。だから私にとって『小鞠がなにかに悩んでいる』という思考は確信に近いものだった。
「美鶴先輩。用具室のカギしめたんで、着替えましょう?」
「ああ、そうだな」
ふたりでの片づけにも慣れたもので、他の部員の手を借りるよりスムーズな気がしてくる。僻みなどではなく、現実問題として去年の片づけより時間は大幅に短縮されていた。
三階の更衣室でウェアを脱いで、下着も着替えてしまう。
さすがに汗でぐちゃぐちゃになった下着をそのまま着続けてはいられない。
ちらりと小鞠のほうを見やる。
私以外の部員がいないからか、彼女の着替え方はだいぶ乱雑だ。
着替えはプライベートな行動だから図らずも素がでてしまうのかもしれない。彼女は子どもがそうするように、脱いだものを足元にとっちらかして、明け透けに肌を露出させている。
――ずいぶんと痩せたな。
背中側から見てわかるほど、小鞠の線は細く、肩胛骨や背骨が浮かびあがっている。思わず触れて、指を這わせたくなるくらいに綺麗な体つきなのだが、健康的な輪郭からはかけ離れていた。ましてや部活動に勤しむ子の体つきであるはずもなく、見ていて複雑な思いだ。
そりゃあ練習中に倒れるのも頷ける。
――ちゃんと飯、食ってんのか?
なんて言いかけて、私は小鞠のなんなんだよ、と自問する。
彼女の身体のことなんて、彼女自身が一番よくわかっているはずだ。
そこに他者の言葉が投げかけられたとしても有難迷惑なだけだろう。
だけどやっぱり心配なものは心配だった。
「小鞠……体調とか大丈夫か?」
「体調ですか? はい……とくに問題ないと思います」
そんなわけないだろうが。
問題ないやつは部活中に倒れたりしないんだよ。
だがそう答える小鞠には内心を隠しだてするような様子は覗えなくて。だからもしかしたら彼女にとっては、自分の体調なんて至極どうでもいいものなのかもしれなかった。
「まあ、しっかり飯食って、しっかり寝ようぜ。それでだいたいは事足りるだろ」
小鞠からの返事はなかった。
もしかしたら聞こえていなかったのかもしれない。
着替えを終えて、体育教官室に用具室のカギを返却してから一階へおりる。体育館の真下はピロティになっていて、階段からなんの境もなしに外へ繋がっている。小鞠は私の背中を追って、とぼとぼと歩いてきている。完全に上の空だ。このまま校内をぐるぐる徘徊したら、小鞠はなんの疑いも持たず私を追ってくるんじゃないだろうか。それはそれで面白そうだったが、これ以上、高校の敷地内にいるわけにもいかない。私たちは校舎を回って北側の駐輪場を目指して歩く。部活で疲れた身体には、たかが歩行でもそれなりに堪える。会話でもできる相手がいれば気は楽なんだが、小鞠はあまり雑談を楽しむほうではないらしい。単に彼女が私に心を開いてないだけなのかもしれないが。だとするといつになれば、その心は開かれるのか。
結局は歩み寄る意志の問題なのだろう。
小鞠の態度に合わせて、私まで黙りこんでいては、一向に距離感は縮まらない。
小鞠だってべつに私を拒絶しようとしているわけではない……と思う。
だから私は今まで取ってきた距離感を少しだけ縮めようと試みてみる。
「小鞠はさ、どうしてバスケ始めたんだ?」
振り返った私をちらりと小鞠は見あげた。
その瞳の仄暗さに私は一瞬どきりとするが、周囲の薄暗さの問題だと自分に言い聞かせる。彼女はそのままスッと視線を下げ、順番に動く自分の爪先とにらめっこを始めた。
「……小学校のころ、友だちに誘われて……だったような気がします」
数秒の沈思の後、小鞠はそんな当たり障りのない回答を寄越した。
だけどそんな、どこにでもありそうな回答が少しだけ面白かった。
失礼な話だが小鞠が友人とどんなふうに話しているのか想像できない。
小学校のころの彼女ともなればなおさらだ。小学生なんて幼いころから、今みたいに小難しい表情を引っさげて、眉間にシワを刻んで生きてきたわけではないだろう。
「その友だちとは仲よかったのか?」
「……………………」
今度の沈黙は回答に繋がらなかった。
小鞠が答えるよりも先に私たちは駐輪場に着いてしまったから。
一年と二年は区画が区切られているから、私たちの距離は一瞬開いてしまう。
最初の問には答えられて次の問には答えられない。その理由はなんだろうか。自転車のカギを外し、カゴに荷物の半分を放り、もう半分を荷台に乗せて、自転車を押しながら考える。
――その友だちとなにかあったって考えるのが妥当なんだろうな。
小鞠と合流してから自転車に跨がって、正門を目指してだらだらとペダルを回す。
「……仲はよかったです」
ぼそりと呟かれた言葉。
数秒ほど小鞠がなにを言っているのか理解できなかった。
ややあって先の私の質問の答えだと理解する。
仲はよかった――それは決して明るい声色ではなかった。
だからこその過去形なのだろうか。
「その子とは別の高校になっちまったのか?」
きっと今の私は地雷原を突き進むようなマネをしている。ヘタをすればこの足は地雷を踏み抜き、私たちの関係性は修復不可能なものになってしまうかもしれない。
普段の私なら、こんな冒険はおろか地雷原に近づくようなマネもしなかっただろう。
……なんでか最近、調子が狂うんだよな。
その原因の一端を担っているのは間違いなく真倉木実だった。あの女のせいで私は慣れない役回りを押しつけられた。あの図書室でのやりとりから私の中の歯車が狂ってしまったのだ。それだけではなく、やはり私の中には小鞠に対しての強い好奇心があるらしかった。
――できることなら、小鞠の笑顔を見てみてぇな。
そんな自分でもよくわからない好奇心ってやつが。
だから踏みこむ。
たとえ無数の地雷が待ち受けていようと私は怖れず突き進む。
「いえ、同じ高校ですよ。その子も……ここに通ってるんです」
「へえ?」
その答えは少し意外だった。
彼女の浮かべている表情は、まるで遠くにいるだれかを想うような、故郷でも仰ぐような、そういう、ここではないどこかに想いを馳せる人間のそれのように感じられたから。
――だけど過去形のその子も、この学校にいるのか。
だったらその子もバスケ部に入っているのだろうか。
新入部員の姿を思い浮かべてみても小鞠と仲がよさそうな素振りを見せている子はひとりもいない。高校に入って不仲になったから先の小鞠の発言も過去形だったのだろうか?
そう考えるにはいくつか違和感がある。
だがその違和感に明確な形を与えるには、私の情報量は圧倒的に不足していた。
「ふふっ、あはははっ」
そんなふうに考えこんでいた私を小鞠の笑い声がとめた。
「きゅ、急に笑いだしてどうしたんだよ」
その笑い声はあまりにも突然だったし、会話の流れにふさわしいとは思えなかったから、私に深入りされたせいで、気でも狂ってしまったのではないかと心配してしまう。
「センパイ、足、止まってますよ」
「え? あっ、ほんとだ」
小鞠の言う通り、自転車をこいでいた私の足は、並木道のなかばで静止してしまっていた。
「それにすごいマジメな顔してるし。いつもはもっと、だらしない顔してるのに」
「急に失礼なこと言い始めるな、お前は」
「だって先輩、私のこと気にしてくれたんですよね」
小鞠にしては柔らかな口調でそう呟きながら、その顔に笑みを重ねる。
「一生懸命考えて、それを隠せなくなって……なんか変なひとだなって」
「お前が倒れるたびに介抱させられる私の身にもなってくれよ。心配くらいするだろうが」
単なる憎まれ口のつもりだったが、今の彼女に言うべき冗談ではなかったかもしれない。
そう心配になっていると、再び小鞠が笑いだして、私はいよいよ混乱してしまう。
ひとしきり笑い終えてから、彼女は行きましょうと告げて、自転車をこぎ始めた。
今度は私が彼女の背中を追う形になる。
「すみません。先輩……疲れてますよね」
「そりゃあ、こんな時間まで部活やってりゃあ人並みに疲れるけどよ」
「そうじゃなくて。私の練習につき合わせて、介抱までしてもらって」
「一応言っとくが、さっきのは冗談だからな」
わかってますと答える彼女の声は疲労を忘れたように軽やかなもので。
だから私は、自分がだれと話しているのか、忘れそうになってしまう。
今の小鞠は、この一ヶ月、横で見てきた彼女とはかけ離れていたから。
「でも今日の先輩、すごく顔に出て、わかりやすすぎて、面白いです。さっきもたぶん……自分の言葉で、私が傷ついたんじゃないかって、そんなこと考えましたよね」
「考えてねぇよ」
思考が筒抜けで、完全な図星だったせいで、そんな返事をするので精一杯だった。子どもっぽい不機嫌に見舞われている自分が情けなくて、なんだか少し腹立たしかった。
気持ちを切り替えるために深呼吸をする。
……なにがどういうふうに転ぶかなんて転がしてみないとわからないもんだな。
まさか私の発言やら態度がこんな形で、小鞠の心に作用するとは思わなかった。
小鞠はしばらく無言で自転車をこいで、風に尻尾を靡かせて、赤信号に捕まって、行き来するヘッドライトにしばし見とれ、手持ちぶさたになったように会話の続きを語り始めた。
「その友だちはバスケ部入らなかったんです」
「どうして……ってのは聞いても大丈夫か?」
「大丈夫です。だって……私にもよくわからないんですから」
そう語る小鞠の声は哀しげで、それでいてどこか、投げやりな印象を受けた。
「友だちは私よりバスケがうまくて、中学の頃はエースだった子なんです。小学校と中学校とずっと一緒にバスケをやってきてて、ずっと隣でその子のプレイを見てたんです、私」
左右に行き交う自動車のライトが、小鞠の横顔を不規則に照らす。
彼女はその無遠慮な明るさから逃れるように夜空を仰ぎ、欠けた月をぼうっと見やる。
「だから……高校でも、一緒にバスケやるんだって、私は漠然と、そう思ってたんです」
「でも、そうはならなかったわけだ」
ずっと――永遠に続くと想っていたものが、ある日突然のように途切れてしまう。それはまるで交通事故かなにかみたいに小鞠に心をバラバラにする衝撃を与えたに違いない。
私にも覚えがあるからわかる。
……私の場合その事故は、何年もの長い時間をかけての衝突事故だったわけだが。
いや、私のことなんてどうでもいい。
自らの過去へと向かいかけていた思考を握り潰し、小鞠の声に意識を集中させる。
「バスケよりも大切なものを見つけたらしいんです」
「つまり、他の部活にでも入ったのか?」
「放送部に入るって、そう言ってました」
「放送部? んっと……放送部……ねぇ」
バスケ部から放送部への転向は予想外にすぎて、思わず小鞠を二度見してしまった。
そのタイミングで信号が青に切り替わり、私たちはどちらともなく走行を再開する。
……にしたって放送部か。
その単語で思いだすのはいつだったか行われた放課後の放送だ。
あの放送はホントの告白だったのではないかというのが私の結論だが、木実の言っていた『演劇部の行った声劇だった』という説が生徒たちのあいだの共通認識だったりする。最近の演劇部の動向が不審なことを鑑みるに、そちらの説のほうが有力なのは私も理解している。
ただ私が個人的に、あの放送が同性への告白だったと信じたいだけ。
あの放送が流れたとき私たちは体育館を使って練習をしていた。
だから小鞠だって、あの放送に耳を傾けていたはずなのだ。
小鞠はあの放送を聞いてどう感じたのだろう。
そして私の中にもうひとつ、方向性の違う疑問が生まれた。
「えーっと、小鞠は……その、なに? その友だちの、ことが、好き、だったりしたのか?」
恋愛的な意味で、とつけ加える。
どうやら私は、この手の話題への興味が、他の生徒より強いらしかった。
普段は隠しているつもりだけど、知人のそういう話題には首を突っこんでしまいそうになるのだ。普通の恋愛が、どういうものなのか、私は知りたがっているのかもしれなかった。
「そういうのじゃないですよ」
心なしか冷やかな声色で、小鞠は答えた。
それは安易に恋愛事へと結びつけた私への断罪だったのか。
それとも、まったく別の感情を湛えていたのかまでは、私にはわからない。
「ただ自分が大切にしてたもの……バスケとか、友だちとか、友情とか。そういうものって、全部、その友だちが中心になってたものだから――こうも軽々しく扱われちゃうと、相手にとっては、そうでもなかったのかな……とか、私だけだったのかなとか、考えちゃって」
「……そうか」
それは返答と言うよりもただの相づちで、ひどく空虚な響きをもって鼓膜を震わせた。
――そこは難しいところだよな。
なにかを見て、なにかしらの感情が喚起されることがある。だが複数の人間が同じものを見た場合、その全員がまったく同じ感じ方をしているとはかぎらない。そこには細かな差異があるばかりではなく、もしかしたら真逆の想いを抱いている可能性だってあるわけで。
ならば、物事――関係性に対する執着や判断だって、同じわけがない。
とくにそれが形ないものであれば、なおさら、この問題は難しくなる。
だからこそ部外者である私に、小鞠の哀しみを正確に推し量ることだって不可能なのだ。私たちはいつだってわかったフリをして、仮定の中で恐るおそる歩みを進めるしかない。
「いっそ単純に恋だったって割り切れるようなものだったら楽だったのかもしれないな」
知ったような口を聞いてるな、と自分の言葉ながら笑ってしまう。
だけど、もしも本当にそれが恋だったなら――好きだと叫ぶだけで事足りてしまうなら、それほど単純な話も存在しないだろう。恋には恋の懊悩があるのは理解できるが、ゴールがはっきりしているならば、そこを目指すしかない。ただ、それだけの話なのだと思う。
しかし小鞠が抱えている問題にはゴールがない。
それだけではなく明確な答えも存在しないのだ。
こうした問題は彼女が自分なりに噛み砕いて、消化して、答えを作りあげるしかない。
そんなとき私の中にふとした疑問が浮かんでくる。
「小鞠はバスケを嫌いになりたいのか? だからあんな無茶な練習をくり返すのか?」
「違う……と思います。そういう、小難しい考えとかがあるわけじゃなくて。ただ単に、なにかに一生懸命になったり、全力で動いてるあいだは……イヤなことを考えずに済むから」
確かに小難しいことなど一切ない、非常にわかりやすい行動原理だった。
その最果ては気絶するように、意識をなくすことなのだろう。
「だけど……そうですね、もしかしたら、そうなのかも。私は自分がバスケを嫌いになるのを待ってるのかもしれません。そうなれたら……たぶん、とっても楽だと思うから」
……余計なこと言っちまったな。
私の一言が妙な天啓を与えてしまったらしかった。
これだから軽はずみに適当なことを言うものではないと反省する。
「そんな寂しいこと言うなよ。介抱はこりごりだけど、小鞠との練習は気に入ってんだ」
「冗談ですよ。私はバスケを嫌いになんてなれないですから」
そう呟く小鞠の声色や表情は、やはり明るいものではない。
だけどそれは今までの無表情に近いそれとは違って、感情を湛えた暗さだ。
どうやら彼女はやっと、私に感情を見せることを許してくれたようだった。
「……そういうものに出会えたってのは、素晴らしいことだと思うぞ。私は」
そして同時に、とても哀しくて、寂しいことだとも思う。
なぜならそうした感情は、束縛にも似たものだから。
それから一〇分ほど私たちは無言で自転車をこいでいた。
今日までの私たちがすごしてきた時間は、無言の時間のほうが長いものだったから、沈黙はむしろ自然で、それほど苦にならない。今日はもうお互い、会話を続けることにすら疲れてしまっているようだった。そうこうとしているうちに私たちが別れるポイントにさしかかる。
「じゃあな、小鞠」
「それじゃあ先輩、また明日です」
いつもより少しだけ明るい別れの言葉を残し、小鞠は宵闇の中に消えてゆく。
ただの小動物だった私の中の小鞠が人間としての輪郭を形作った瞬間だった。
……小さいライオンだと思ってたら、臆病なウサギだったって感じだな。
なぜか私は理由もなく泣きそうになる。小鞠に引きずられて感傷的になっているのかもしれない。家に帰って、飯を食って、風呂に入って、さっさと眠ってしまうことにしよう。
懊悩は青春の特権で義務だとだれかが言っていたのを思いだす。
どこのだれがそんな無責任なことを言って、こんな重たいものを私たちに押しつけたのだろう。こんなもの、まともに向き合って背負おうとすれば、その重さに押し潰されてしまう。
……だから世の中には適当な人間ばかりが生き残ってるんだろうな。
そして生真面目だった人間も、そのくだらなさに辟易して、流されてゆく。
かく言う私だって似たようなものだ。
九時すぎの帰路はいつも以上に暗く感じて、私の脚を重くさせるのだった。
ガレージ横に自転車を停め、二重にカギをかける。
玄関に入り、靴を脱ぐ前に重たい荷物を地板の部分へ投げだす。ドアの開閉音か、荷物が投げだされる音かに反応して、リビングから双子の妹――
「あ、お姉ちゃん。お帰りなさぁい」
「ただいま」
気のない返事をしながら、部活で使った衣類をまとめて洗濯機に放りこむ。
そのままシャワーを浴びてしまいたかったが、夕食があまり遅くなっても具合が悪い。
仕方なく私は夕食を先に済ませてしまうことにした。
リビングのソファには花鶏が座っていて、つけっぱなしのテレビからは俳優の熱っぽいセリフが聞こえてくる。わざとらしく過剰気味の演技に軽く胸焼けしてしまいそうになる。
どうせ花鶏も見てはいないだろうと電源を落としてしまうことにした。
「花鶏、あのひとたちは?」
「今日も仕事で遅くなるって。遅くなるってゆーか、帰れないかもって言ってたけど」
「そう」
とくに思うところはない。尋ねることが日課になっているから尋ねただけで『もう帰ってるよ』なんて返事を聞いてしまったときのほうが、居心地が悪くなるくらいだ。
「あっ。晩ご飯ならアトリが温めてあげるから、お姉ちゃんは休んでてよ」
キッチンに立とうとしていた私を制止して、花鶏が鼓膜に絡みつくような声で言った。普段であれば断るところだが、今日はそれなりに疲れていたから、お言葉に甘えておく。
「じゃあ頼むわ」
私の返答が意外だったのか、花鶏はえっと驚きの声を漏らす。
「お姉ちゃんがアトリにお願いなんて珍しいね。断られる前提で提案してたんだけど」
「……じゃあ自分でやるからいいよ」
「いやいやいや! やりますやります、やらせてください! アトリが腕によりをかけて、とっておきの手料理を披露してあげるからねぇ。お姉ちゃんはそこに座ってていいから!」
叫ぶように告げ、花鶏はてきぱきと夕食の支度を始めた。
大早川家は放任主義だ。
必要な金は渡すから、あとは自分たちでなんとかしろというのが
……つーか、花鶏が作ってくれんなら、先にシャワー浴びてくりゃあ良かった。
そうと気づいたときには中途半端な時間になってしまっていた。
もう数分もすれば料理も完成する。そんなことを考えていたら、いつの間にか居眠りしていたらしい。花鶏の声に揺り起こされると、テーブルの上には食事が並んでいた。
「可愛い妹に食事の準備をさせて自分は居眠りとは横暴な姉でございますねぇ」
「お前がやらせてくださいって頼んだから作らせてやったんだろ」
そんなくだらないお小言を言われる筋合いはない。
「まあ、感謝はしてるさ。いただきます」
中身を抜いたフランスパンに注がれたビーフシチュー、その横にはやけに凝った見た目をしたオープンオムレツ、既製品かと思ってしまいそうなハンバーグが並んでいる。花より団子の私にはもったいない見た目をしていた。寝惚け眼の私は、それらの料理を無理やり口に詰めこむ。そして一気に掻き込んだことを後悔する。私が作ったものの数倍は美味しい料理だ。
花鶏は基本的に私よりスペックが高い。
いや、スペックという意味合いにおいて、彼女より優れた人間を私は見たことがなかった。それはもう、比べることすらバカらしくなるほど、あまりにも圧倒的なものだ。
ふと花鶏を見やると、妹はじっと私を見つめていた。どうやら観察されてたらしい。
私と
「んだよ。飯食ってる相手の顔をじろじろ見つめんなって親に教わらなかったのかよ」
「アトリには親なんていなかったからなぁ」
「……私の親を勝手に殺してんじゃねぇよ」
放っといても勝手に過労死しそうなふたりだし、生きてようが死んでようが、私たちの人生に与える影響は変わらないだろうけど。花鶏が言うと冗談には聞こえなかった。
「お姉ちゃんがそんなに疲れてるのは珍しいなって思ってさ。木実ちゃんの件?」
花鶏に学校での交友関係について話をしたことはない。にもかかわらずこの妹は、どこかで私の交友関係を入手しているらしかった。私と花鶏は高校が違うにもかかわらずだ。始めは驚いたものだが、一年もこうした生活を続けていれば、イヤでも慣れてしまうものだった。
……人間、時間が許せばなんにでも慣れちまうもんだな。
「ちげーよ。単にバスケ部の練習がキツかっただけだ」
「でも開栄高校の女バスって弱小じゃん」
斬って捨てるを体現するような口調で花鶏は言った。
「弱小とか関係ねぇの。弱小だからこそ練習すんだよ」
「物好きだねぇ、お姉ちゃんも。もしかして自分の力で全国目指しちゃうみたいな?」
「んなスポーツ根性が私にないのは、お前が一番わかってんだろ」
告げ、ビーフシチューに入っていたジャガイモやらニンジンやらを乱暴に噛み砕く。ホクホクと柔らかい野菜を噛んだところで思ったような刺激は得られず、不完全燃焼になる。
「根性はなくてもセンスはあるじゃん」
「お前に言われるとすっげぇ腹立つな」
妹の発言に対し、いまだに腹を立てられる自分がいることに少しだけ驚く
「でもお姉ちゃんがそんなにバスケ楽しんでるなら私もやってみよっかなー」
「……バスケは飽きたんじゃなかったか?」
私と花鶏は中学まで同じ部活でバスケをやっていた。私は卒業までずっとバスケを続けていたが花鶏は三年最後の中体連の直前に『飽きた』と言い残して部活を辞めた。大会直前にエースを失った我がチームはその穴を補填する術を見つけられないまま惨敗したのだった。
「そんなに興味ないんだけどね、お姉ちゃんが一生懸命やってるなら私もやろうかなって」
次の休日の予定でも決めるような軽々とした口調で花鶏は呟く。
「高校別々になってから、お姉ちゃんとぜんぜん遊べてないから、アトリは寂しいのです」
同じ顔と同じ声で甘ったるく囁かれ、生理的な嫌悪感が巻き起こる。
「そんな理由でバスケ始められても、まわりが迷惑だろうが。つーかお前、一年の頃、一回バスケ部に入ってたんじゃないのかよ。そんなに出たり入ったりしていいもんなのか?」
「アトリが入ってくれれば、女バスだって嬉しいに決まってるでしょ?」
私の問いかけに対する花鶏の回答は、単純で、明快で、邪気がないものだった。
胸がざわつく。これ以上、この鏡の前にいたくないと、強くそう思った。
「それに『そんな理由』って言うけど、どんな理由だったらスポーツを始めていいの?」
花鶏の質問に私は答えられなかった。
学生の部活なんて、そんな大層なものではないと知っていたから。
だけど中には、そんな小さくてちっぽけな世界しか持ち合わせていない人間もいるはずで。そうした人びとが、花鶏みたいな物見遊山に世界を破壊されるのはあまりにも忍びない。
「お姉ちゃんは優しいんだね」
沈黙を続けていた私に、花鶏はトンチンカンなことを言う。
優しい? 今の会話のいったいどこに、優しい要素などあっただろうか。
「お姉ちゃんはアトリのせいで潰れちゃった子たちのこと考えてるんでしょ?」
「それは――」
そう反射的に口にしたはいいものの、続く言葉が口から出てくれない。
それならいっそ、沈黙を守っていたほうが何倍もマシだった。
案の定、花鶏は私と同じ口角をイヤらしく喜悦にゆがませた。
「でもね、アトリに才能を見せつけられた程度で潰れちゃうんなら、そのひとは遅かれ早かれ挫折してた運命なんだと思うよ。どうせ諦めるなら早いほうがいいと思わない?」
花鶏の言葉はどこまでも正論で、だからこそ私は素直に同意を示すことができなかった。
時間は有限で、とくに学生時代なんてものは、あっという間に過ぎ去ってゆく。そのかぎられた数年間を部活動に割くのであれば、なるだけ効率よくと考えるのは当然だろう。
だけど、そこで得られるのは――果たして結果だけなのだろうか。
濁した言葉の先をいまだに見つけられない私を見つめて、花鶏は笑った。それは普段の天真爛漫を演じた妹の笑みではなく、十七歳――高校二年生の悲しみが滲んだ笑みだった。
「じゃあさ、別の質問するけどさ――私はいったいどうすればよかったのさ」
その声は妹にしては珍しく、かすかな湿り気を帯びていて。
その湿気にやられたように手のひらが小さく震えてしまう。
「お姉ちゃんにすら見捨てられた私は、なにを生き甲斐にすればよかったんだよ」
断罪でもするような花鶏の問いかけに、やはり私は、うまく答えることができなかった。