平楽初海

 

 本当に眠りやがったぞ、こいつ。

 涙と汗で顔をぐちゃぐちゃにして、それでも安心しきったように眠る木実の姿に笑ってしまう。心中で燻っていたものを吐きだしたからだろうか。ずいぶん晴れやかな表情をしている。きっと、いい夢でも見ているんじゃないかなって、そう思うことができた。

 木実の利己的な振る舞いで、私はそれなりに傷ついた。

 けれど、結局、それはお互い様だった。

 だから私は彼女のことを責められないし、きっと彼女もその点については同様だった。ただ、そうした点を抜きにしても、こちらにだって吐きだしたい想いはあったわけで。私がそれを口にする前に木実が眠ってしまったものだから、こちらとしては不完全燃焼だった。

「せめて着替えてから眠りなさいって言ったのに」

 彼女が着ていたのは昨晩と同じパーカーで、大量の汗を吸ってか、色が倍近く濃くなってしまっていた。このままにしておくわけにもいかず、私は彼女の服を脱がすことにする。意識のない人間の、しかも汗で肌に張りついたそれを脱がすのは一苦労だったが、生憎と時間に追われている身ではないから、いくらでも時間をかけることができた。

 結局、三〇分近くかけて、木実の着替えは完了した。

 疲労困憊とはまさにこのことだ。その疲労が肉体的なものだけではなく、精神的なものまでふくまれているのだから、まったく救われない。それもこれも木実の裸体が悪い。

 ……べつに木実の裸に欲情をしたわけではなく、だ。

 その身体には無数の傷が刻まれていたのである。

 幾重もの傷痕を見て私は、あらためて木実のことをなにも知らないのだと思い知らされた。それらの傷は、彼女の過去の凄惨さを物語るもので、私がおいそれと触れていいものには思えない。それでも私は、彼女が抱えているものを少しでも一緒に背負えるだろうか?

 木実は私が背負うことを許してくれるだろうか?

 まあ、そうした点について考えるのは、目先の問題を解決してからだろう。これから、私たちの関係がどう転がってゆくのか、それすらも、わかったものではないのだから。

 ……だけど今日はおとなしく引き下がろうかな。

 食料になるものは買ってきておいたから、私がいなくても大丈夫だろう。そう思い、私は立ちあがり、荷物を持って帰ろうとした。そんな私の背中に、投げかけられる声があった。

「行かないで……もう、ひとりには……しないで」

 振りかえるけれど木実は起きてなどいなかった。

 眠りながら、夢の中のだれかに対して、行かないでと懇願しているらしい。その言葉が私にかけられたものでないことぐらいわかっている。それでもこんな部屋でひとりで暮らす彼女だから、私はその一言にこめられたものや、こめられていないはずのものまで、いろいろ連想し、感じ取ってしまう。それが要らぬ同情だとわかっていても、せずにはいられなかった。

「はあ……わかったわ。こうなったのが私のせいだと言うのなら最後まで責任はとるわよ」

 私はベッドのそばに腰かけて、木実の手を取る。

 すると、木実ははその手をぎゅっと強く握りかえした。

 たったそれだけのことで、彼女の涙はスッと止まって、寝息は安定したものとなる。

 彼女の手は火傷してしまいそうなほど熱くて、だけど、それが不思議と心地良くて。

 だからだろうか。気づくと私もまた、眠りに落ちてしまっていた。

 手の温もりのおかげかどうかはわからないけれど私にしては珍しい安眠具合だった。

 

 

 そうして長かった夜は、案外、あっさりと明けてしまう。

「おはよう」

「あ、どうも」

 目が覚めたらしい木実に挨拶をする。もう少し慌てふためくと思っていたのだけれど、彼女の対応は意外と淡泊なものだった。昨日のことなんて覚えていないのかもしれない。

 それならそれでかまわないと思う。

 だからといって逃げだすわけではないけれど。

 木実は私の顔を見て、それから服装を見て、やっと驚いたような顔をした。

「どうしてあたしの服着てるんすか」

 そこかよと思わずツッコミを入れたくなるけれど、私の口から漏れたのは苦笑だった。

「サイズちょうどだったし、制服のままってわけにもいかなかったし。ああ、下着はさすがにつけてないわよ? 自分で着てたの、軽く手洗いして、干して、それから履いたから」

「そうじゃなくって……いやうん。もういいです、もう」

 それから、少しの間、木実はぽけーと虚空を見つめた。

 その後また、驚いたような顔をする。

 ころころ忙しい表情だった。

「……泊まってたんですか?」

「迷惑だったかしら?」

「迷惑というか……さすがに、気とかつかいます」

「あなたが気をつかっているのは、いつものことじゃない」

 なんだかこのまま会話を続けていたら妙なテンポで堂々巡りを始めそうだったから、こちらから話を進めることにする。さすがにもう寝惚けているってことはないだろうから。

「お味噌汁は作ったんだけど……朝ご飯はどうする? 普通に食べられそうかしら」

「えっと……はい。食べれます。おなか……減ってます」

 今さら空腹ごときに恥じらいを覚えているのだろうか。

 だとしたら笑うしかない。

「センパイ……なんでにやにやしてるんですか?」

「おなか減ってるんだなって、そう思っただけ。あなたこそ、なにを赤くなってるのよ」

「いや……ただ、センパイってば夫って言ってたのに、お嫁さんみたいだなって思って」

 そんな細かいことを覚えてるなんて、この子はバカなのだろうか。今度は私が赤面する番だった。そんな自分の反応が恥ずかしくて悔しくて、私はごまかすように背を向ける。

「なにバカなこと言ってるのよ。ご飯食べるなら待ってなさい、準備するから」

 言ってから、これじゃあ嫁どころか母親みたいだと笑いそうになる。

 ご飯はすでに炊いてあるから、あとは適当におかずを作るだけだ。

 冷蔵庫にはタマゴとソーセージくらいしか入っていなかった。

 普段なにを食べているのか疑問だったが、今日のところは説教なんて無粋な真似はやめておこう。最悪、私が作ればいい。昨日と同じようにキッチンに立ち、今度は鍋ではなくフライパンを握る。スクランブルエッグでも作ろうかとバターを溶かしていると、これまた昨日と同じように背中越しに木実が話しかけてくる。私はタマゴを溶きながら彼女の言葉を聞いた。

「……初海センパイ、どうして来てくれたんですか?」

「あなたそれ、昨日も同じこと聞いてたわよ。もしかして昨日のこと覚えてないの?」

 昨日の様子を鑑みるに、その可能性は充分に考えられた。

「大変不本意なんですが全部覚えてますよ。美鶴に言われて、来てくれたんですよね」

 自分の言動を思いだしてか、木実の声はどこか羞恥を感じさせるものだった。

「だけど美鶴から説教されたからって……センパイがあたしの所に来てくれる義理なんてないじゃないですか。あたしなんて放っておけたのに……どうして?」

「いろいろと話したいことがあったのよ。いいことも、悪いことも、いろいろと」

「いいこともあるんですか?」

「さあ。なにがよくて、なにが悪いのかなんて、もうわからなくなってしまったけれど……きちんと向き合おうと思ったのよ。あなたとも、自分の想いとも、曖昧にしてたものとも」

「向き合って、そしたらどうなるんです? あたしはもう要らないんじゃないですか?」

「今までのような関係はもう不要だわ。いえ、不要になるように努力する。だけど――」

 作り終えたスクランブルエッグを皿に移し、それからソーセージを焼く。

「――そうね……つまり、私は、あなたとは恋仲にはなれない」

 パチパチパチ――と油が弾ける音がする。

 木実は口を開かない。

 言葉が喉に詰まる。

 深呼吸で一度、言葉をおなかのほうへと落とし込み、整理する。

「だけど私はね、あなたと離れたくないの。あなたといるのは、とても心地いいから」

「……それって、どういう意味なんですか?」

「わからない」

 素直にそう伝えることが、今の私にできる唯一の誠実だった。わからないことをわからないと告げる。ただそれだけのことが、こんなに難しいことだなんて、知りもしなかった。

「友だちとか、親友とか、恋人とか、家族とか、私はあなたを上手に分類することができないのよ。だから――あなたが望んだものに無理やり当てはめるしか私には方法がなかった」

 ソーセージの表面が少し焦げる。

 私はこれくらいが好みなのだけど木実はどうなのだろう。

「自分が……あなたが、よくわからないもの変わってゆくのが怖かった」

 皿に移し終えて、テーブルに運ぶ。

 キッチンに戻って、茶碗にご飯をよそう。

 なに気なくふたり分の量で計算していたけど、この家の食器は完全にひとり分しか準備されていなかった。だから私は自分の味噌汁をマグカップに注ぐはめになってしまう。こんな状態でマジメな話をしているのがバカらしくなるけれど、そんなものだろうとも思う。

 私たちみたいな出来損ないにはお似合いのシリアスだ。

「それって、どういうことですか?」

 木実に答えを急かされてしまうが、私にもまだ言葉にできない。

 順を追って吐きだすことでしか、私はなにも木実に伝えられない。

「私はね、後輩としてのあなたは嫌いじゃなかった。放課後の図書室で軽口と憎まれ口を叩くのも、木実が眉間にシワを寄せて児童文学を読んでいるのを眺めるのも、文化祭でなにをするでもなくふたりで並んで座ってた時間も、そういうの、全部全部、嫌いじゃなかった」

 スッと息でも吐きだすように自然に、そうした記憶が出てくるということは、自分で想像していたよりもこれらの記憶は、私の中に、大切に保管されていたということだろう。

 ならば嫌いじゃないという言葉は正確ではないかもしれない。

「そうした時間が――好きだったのよ」

 だけどそれは恋とはほど遠い感情で。

 言うなれば自分だけの居場所――安心感と呼ぶにふさわしい想いだった。

「だから私は木実に告白され、キスをされ、好かれているのだと自覚することが怖かった」

 まるで自分の居場所がなくなってしまったみたいだったから。

 繭のように居心地の良かった図書室が、別のなにかになってしまったようで恐ろしかった。なにより、相手がそんな木実だったからこそ、余計に好意を寄せられることが恐ろしかった。なぜなら好意とは永遠のものではない。いつか綻び、その感情は裏返る。かつては好意だったものが、悪意となって振りかざされる可能性があることを、私は身をもって知っている。好意が喜ばしいものであればあるほど、それが裏返ったときの絶望は大きくなる。

 だからこそ私は、もう、だれからも好かれたくなんてなかった。

 嫌われたくないと、萎縮してしまう自分が嫌いだったから。

 それゆえに私は露悪的な態度を徹底し、自ら相手に嫌われるような振る舞いをした。もし仮に嫌われたとしても、それが意図的に引き起こされた結果なら、まだ納得できたから。それが歪んだ自己防衛であることくらいわかってる。それでも、その歪みが他ならぬ私だった。

 私は居場所を奪われたくなかった。

 だけど木実の好意を受け取るのも同じくらい怖かった。

 そんな板挟みがあったからこそ私は余計に、どうしていいのかわからなくなった。

「なにが正解なのか、わからなかった。ただ断ってしまったら木実が遠くに行く気がした」

「……だから、あたしと恋仲になるって言い出したんですか?」

「そうね。紗和が遠くに行って……あなたまで消えてしまうのは耐えられなかったから」

 だから私はあの図書館という温かな繭を無理やり破るしかなかった。

 羽化を待たずに破かれた繭の中身は、青春や思春期の未成熟な想いでドロドロとしていた。

 私はその不定形の汚泥を、どう処理してしいのかわからなかった。だから――

 ――私はあなたを好かないし、恋なんてしないし、愛さない。

 そんなズルい前置きを用意して、告白への回答を曖昧にしたまま、ただ木実と恋愛のごっこ遊びを行った。木実の好意と恋心を利用して、自分の傷心を癒やそうと躍起になっていた。

 今にして思えばそれは、ひととして最低な行いなのだろう。

 だけど、そんな最低な私にも、ひとつだけ言えることがある。

「だから始めから……私にとって、紗和と木実は、別物だったのよ。あのとき、私が求めていたのは、紗和ではなく確かにあなただった。あなたはそれを……曲解したみたいだけどね」

 そもそも紗和と木実では頭から、爪先までなにもかもが異なるのだ。

 いくらバニラの香りを身に纏ったところで、それが変わることはない。

「だけどもう、私は自分のために、あなたを傷つけるのはやめようと思う」

「それで……恋仲は解消だって、そういうことっすか」

「私の都合で振り回してしまって申し訳ないけれど、そういうことになるわね」

 一瞬、木実はくしゃりと表情を崩した。

 困ったような、だけど今にも泣きそうな、その上から笑顔を貼りつけたような表情。

「あーあ……あたし、センパイにとって都合のいい女になりたかったんすけど」

 私たち、どこで間違ったんでしょうね?

 子どもみたいな顔で木実は問いかけてくる。

「それはわからない」

 強いて言うなら、私たちは出会う前から間違っていた。

 それは関係性以前の個々の問題だった。

 口には出さなかったけれど、きっとそれが正解だった。

「でも間違ってしまったものは、もう壊すしかないと、そう思ったの」

「そう……ですか」

 泣かれるだろうか? そう思ったけれど、それは自意識過剰だった。

 木実は泣かなかったし、むしろ、その表情を喜悦にゆがませた。

 清々しさとはかけ離れていたけれど、それは確かに笑顔だった。

「でもセンパイ。さっきの話しぶりだと、まだ私にも脈はありそうな気がしたんですけど」

「なにを持って『脈あり』とするのかわからないけど……その可能性は否定できないわね」

 もしかしたらバニラよりも苺が好きになる日がくるかもしれない。いや、非常に残念なことに私の気持ちはすでに、この子へ傾いているのかもしれない。そしてその可能性を考えたとき、大きく心が揺れた。なにもしていないのに思わず泣きそうになる。そんな感情の震え。

 ――ああ、どうしようかしら。

 過去の私なら、この言葉を口にしようか迷った挙句、結局、沈黙を決め込んでいたかもしれない。だけど私はもう、すべてを木実に話そうと決意したあとだったから、口を開いた。

 それが私のわがままだとわかっていても、伝えなくちゃいけないと、そう思ったから。

「だからそれまで……私のことを、嫌いにならないで欲しい」

 私の声が震えていたためか、木実は不安気に私の名前を呼んだ。

「――それって、どういうことですか?」

「私はだれよりも性格が悪いわ。趣味も悪いし、意地も悪い。それこそ木実の言う通り、私が他者に誇れるのは、多少見られる程度の顔しかないのかもしれない。周りの人びとは皆、私と触れ合えば触れ合うほど、私のことを嫌いになっていった。私を避けるようなった」

 もともと私の性格に問題があった。それはわかっているけれど、しかし、腫れ物のように扱われた結果、私の性格が余計に歪んでいってしまったのは仕方のない話だと思う。

 だけど、それでも木実は、そんな私を好きだと言ってくれた。

 始めはその好意に恐怖を覚えた私だけれど――今でも、その好意と向き合うのは恐ろしいけれど――それでも私、木実のために、その好意を抱きしめたいと思った。彼女のためならば私は、恥と恐怖を乗り越えて、変わることができるんじゃないかと、そう思ったのだ。

「私は変わりたいと、そう思った」

 この空を飛んでみたいと、そう思ったのだ。

 だからこの感情をもう一度、繭に戻して、育てなおしてあげたかった。

 この想いが蝶になるのか、蛾になるのか、はたまた完全な別物になってしまうのか。それはまだわからないけれど、それでも私はこの未成熟な想いを大切にしてあげたくなったのだ。

「だけどもしかしたら、結果的に、もっと面倒臭い人間になってしまうかもしれない。もっと醜くなってしまうかもしれない。それでも、こんな私を好きでいてくれる? 嫌いにならないって約束してくれる? 私の事を……見捨てないでいてくれるの?」

 私の精一杯の言葉に、木実は真正面から私の顔を見て、にししと笑った。

 化粧を施していない彼女の顔は子どもみたいにあどけなくて抱きしめたくなる。

「あたしはね、そういうめんどくさいセンパイに恋してるんですよ。嫌いになんてなるわけないです。嫌いになれるなら、もっと早い段階で嫌いになってるはずですしね。こんな状況になっても、いまだにセンパイのこと好きなくらいですから……あたしは筋金入りですよ。だから待ちます。今度はしっかり、焦らないで、待ちます。センパイがちゃんと、その想いに名前をつけてくれるまで。ずっとずっと、センパイのことを、好きなままで、待ってますから」

 木実の言葉は自信に溢れていた。

 そんな彼女を見ていると、私の中にあった人間不信なんて、簡単に消えてしまいそうだ。

「ありがとう」

 だから私も、素直に、そう返すことができた。

 自然と笑みがこぼれて、胸の内が温かくなる。

 十七年も生きてきて、こんなふうに心が温かくなったのは初めてだった。

 だけど――

「……それじゃあまるで、私がすでにあなたに恋してるみたいじゃないの」

 ――そこだけは気にくわなかったから、訂正を入れておく。

「違うんですか? センパイってば、認められないだけなんだと思ってました」

「あなたのそういう図々しいところは好きよ。でも恋とはまた別問題じゃない」

 私の言葉に、木実はしばらく沈黙した。

 そして私をからかうような、笑みを浮かべながら、口を開く。

「あたし気づいたんすけど、そもそもセンパイが相手に感情を表現すること自体、デレデレの証拠で、その関心自体、センパイにとって好意なんじゃないかなって。だからセンパイの『嫌い』は『好き』だし、『好きじゃない』は『大好き』だし。だったら――」

 ――センパイの『好き』ってなんなんですかね?

 そう言って、木実は笑う。もうすでに勝った気でいるのだろう。

 彼女が上機嫌に笑うものだから天邪鬼の私は反比例して不機嫌になる。

 こういうところが、性格が悪いと言われるゆえんなのだとは思うけど。

 こればかりは一朝一夕でどうにかなる問題じゃない。

 だけどしょうがないので今だけは、私が思っていることを教えてあげることにした。

「私、やっぱり――木実は化粧していないほうが可愛いと思う」

「なんですと!? い、いや、センパイ、この流れでそれを言われると、ホントかウソかわからないんですけど、って、なんで味噌汁飲んでるんですか! センパイ、聞いてるんで――」

 ずいぶんと喧しい口だと、そう思った。

 だから私は木実の言葉を遮ろうとする。

 だけど私はもう、今までのように彼女の口を塞ぐ手段なんて持っていない。

 だから、仕方なく、ちょこんと。

 唇と唇ではなく。

 ただ彼女の口元に指先を当てる。