真倉木実
自分で考えていた以上に、あたしは無茶をしていたらしい。いつもギリギリになっても気づかず、こうして、ダメになってから自身の状況を知るのだ。まあ昨日、雨に濡れたのが決定打になったわけで、あたしがもう少し利口であればこんな展開は避けられたんだろうけど。
……成長しないなぁ。
あのひとたちを家族と呼ぶのは抵抗があるけど、あんなひとたちでも、私がこういうふうにダメになってしまったときは最低限、助けてくれていたんだなぁ、と、ひとり暮らしをして、完全に身動きがとれなくなって、あたしはやっとその事実に気づいた。
枕元で石炭でも焚かれてるみたいに、呼吸がしづらいし頭も痛い。
ホントは考えることすら怠いんだけど、睡眠に飽きた身体は横になることしか許してはくれない。このまま苦痛に溺れながら、気絶するように意識が落ちるのを待つしかないようだ。
――うはぁ、ひとり暮らしつれー。こういうときホントつれーわ。
熱湯の水底に沈められたような身心に鞭打って、枕元のスマホを確認する。時刻は四時半で、だれからも連絡はなかった。ひと付き合いを絶って生きてきたツケが回ってきたようだ。美鶴は今日も八時すぎまで部活だから、こられるのは九時ごろになると言っていた。彼女に気をつかわせるのもイヤだったので、自分の病状については伏せておいた。だからあと三時間は身動きすらとれない状況を満喫するしかない。
美鶴のことを考えて、あのひとのことを考えないようにする。
今、あのひとのことを考えたら、あたしなんて、簡単に壊れてしまいそうだったから。
――普段ですらあんなにつらいのに。
心が弱っているときに、あのひと――そして昨日の出来事を想ったりしたら軽く死ねる。
今もたぶん、あたしの精神は四回くらい死んでしまった。
残機はどれくらいなんだろ?
もしかしたらもうゲーム・オーバーで、ここは人生のお仕置き部屋なのかもしれない。
わははははは! と無理やりすべてを笑いとばそうとしたら咽せた。
喉が痛くて泣きそうになる。
私はホントになにをしてるか。
「あー……もう、死んじゃいたい」
もういっそ……という心境だった。
このまま生きていても、生き恥を晒すだけだろうし、つらいことしかないように思えてしまう。こんな希死念慮に支配されたのは、それこそ、あのひとたちと暮らしていたとき以来だ。今以上の苦しみに襲われたら、ホントに、いよいよ耐えきれなくなってしまいそうだ。
――どうして私の人生って、いつもこうなんだろう。
自分が惨めになって涙がこぼれてくる。
手の甲で涙を拭うけど、すでに汗でぐじょぐじょで、かえって顔が汚れてる気がする。なにをしているのか自分でもわからなくて、そんな有り様がイヤで、涙が止まらなくなる。
「ううう……っ、せんぱぁい……、せんぱい、せんぱいのばかあろぉ……」
『……あなたは本当に――なにをしてるのよ』
自分の思考が、センパイの声を持って、頭上から聞こえてきてビビる。
さすがに死ぬ前兆なんじゃなかって焦る。
ネロとパトラッシュを迎えにきた天使みたいなものだろうか。
あたしもあのラッパを手にしたまっぱのショタたちに天へと運ばれてしまうのだろうか。あれ、ラッパ持ってなかったっけ? しかし今の声はセンパイに似てたなぁ。
と、そんなことがちょっとだけ嬉しく思う。
「……センパイが裸で迎えにきてくれるんなら、悪くないかも……」
『なにキモいこと言ってんのよ、病人だからって手加減しないわよ』
また頭上から声が降ってきた。
熱で朦朧としているせいか、センパイのキャラ設定が若干ブレてしまっていた。目を開けたらセンパイの声が消えちゃいそうで、あたしは目を開けないでいた――ぺちーん!
「い、痛い!?」
まさか幻聴に叩かれるとは思わなかったから、あたしは反射的に上体を起こしてしまう。遅れて体の節々が痛み、視界が朦朧とするけど、正直それどころではなかった。
「ひとがせっかく見舞いにきてあげているのに、その態度はないんじゃないかしら」
だって、どうしてか、枕元にセンパイが立っていたのだから。
「えっ……ほ、ほんものですか?」
「ちゃんと制服着てるでしょ」
センパイは襟をひらひらさせながら言う。
あっ、なに? ずっといたわけ? センパイ?
ちょっと、ほんとに、いろいろと朦朧としすぎてて、虚実も夢うつつも入り交じってよくわからない。でもやっぱり、最低限の言い訳はしておいたほうがいいかもしれない。
「えっと、べつに……ですよ? 思い描いてたのは、えっちなセンパイじゃないんですよ?」
「まず第一にあなたの言うセンパイってなんなのよ」
「初海センパイは勘違い、してて……センパイが裸なのはえっちのためじゃなくて、神聖な、その……なに? とにかくこう……神聖なことをやろうとしてたから、なんですよ」
「かえって卑猥になってると思うのだけれど……」
「だから、裸のセンパイがわらわらーってたくさんやってきて、あたしを連れてくんですよ」
「地獄絵図よね、それ。あー……うん、わかった。とにかくあなたがヤバいのはわかったわ」
センパイはバツの悪そうな表情を浮かべて頬を掻く。
それから手に持っていたビニールをいじいじする。
「とりあえず起きたついでに飲んでおいたほうがいいわ」
センパイは袋からポカリを取りだして、そこに粉末をふた摘みいれた。
「塩よ、塩。たぶん、軽い脱水でもおこしてるんだと思う。はい」
センパイは説明をほどこしながらボトルを振り、そのあと手渡してくれる。
「ストローとかいるかしら?」
「あっ、はい、じゃあ貰っちゃおうかな……」
じかに口をつけても支障はなかったけど、センパイの前で汗だらけの顎先をさらしたくはなかったりして、だから、おとなしくストローをうけとってちゅーちゅーしておく。結果、こっちのほうが良かったと安心する。じか飲みしてたら、水分を求めすぎた身体が慌てて、飲料をこぼしてしまっていただろうから。それはさすがにみっともない。
ふと視線をセンパイにもどすと、真正面から目が合ってしまう。
予期せぬ視線の正面衝突に意識が飛びかける。
というか軽く咽せた。
「そんな慌てなくてもまだあるから、安心しなさい」
センパイは苦笑しながら、ビニル袋の中に入っていたポカリを見せつけてくる。そうじゃないんだけど、事情を説明したところでケガを負うのはあたしなので黙っておくことにした。
「聞くまでもないとは思うのだけれど……あなた、食事は?」
「昨日の昼から食べてないです」
弱った頭に自制するだけの余裕はなく、反射的にそう応えていた。
「そう。じゃあ……おかゆでいいかしら」
「はい……いいですけど……いいんですけど、その、悪いです……」
「どっち?」
「おかゆは好きだし、作ってもらえると嬉しいけど……迷惑じゃないかなって」
「迷惑じゃないわ」
センパイはきっぱりと言いきった。一切の言葉や抵抗を切り捨てるようで清々しい。
昨日までのセンパイじゃないみたいだ。だけどそれは、あたしが初めて会ったときのセンパイみたいで、これがホントに現実なのか、あたしは再度、わからなくなってしまう。そんな混乱などおかまいなしに平楽初海の姿をしたセンパイはキッチンに向かってしまう。
「あなたの家、お米はある?」
「あります……きっちんの、下の、棚のとこ……」
「そう。冷蔵庫の中のもの適当に使うけれど構わないかしら」
「はい……どうせこのままじゃダメになっちゃうだけなんで」
わかったわと言い残し、センパイはキッチンへと向かう。
バッ、バッ、バッと一度、すべての戸を開け放たれる。
なんだか普段は見られない部分を見られて恥ずかしい――とか思うけど、そういえば今のあたしは汗だらけだし、化粧もしてないし、部屋着だし……と最悪づくしだった。
……シャワー浴びて着替えて化粧していいかな。
んなことできれば始めから苦労しないんだけど。今なら無理やりできるような気がした。でもそんなことしてたら本格的にセンパイに殺されそうだったのでやめておく。
あたしはいろいろなものをセンパイに丸投げして身体をだーっと布団に投げだした。というかどうしてセンパイがあたしの部屋にいるんだろ。そんな疑問に今さら思い至る。
「センパイ……こんなところでなにしてるんですか」
キッチンに立つセンパイの背中に言う。
「また寝惚けてるの? おかゆを作ると言ったはずだけれど」
「そうじゃなくて……どうして、きてくれたのかなって。委員会とかは?」
「あなたのお友だちから説教されたのよ。それで委員会はサボってきたわ」
「友だちって、あー……美鶴……あのバカ……」
詳しいことは話してなかったけど、そうか。
……あいつ、昔から察しだけはいいからな。
隠せてるつもりだったのは私だけで、美鶴からしてみれば、すべて筒抜けだったのだろう。私も本気で隠そうとしていたわけではないから、知る手立てはいくらでもあったはずだ。
「あの子に、なに、言われたんですか?」
「病人に言うべきことではないのかもしれないけれど……あなたが風邪を引いたのは私のせいだって言っていたわ。私がズルいから、あなたが苦しんでるって、説教された」
「あたし……センパイのためなら、いくら傷ついても、いいんですよ」
あなたが私のそばから離れず、この手を握ってくれていれば、それで良かった。
「そう。でも、私にはもうそういうのは不要だわ」
「そう……ですか。もう要らないんですか」
ああ、そうか。
要らなくなっちゃったのか。
だからこそセンパイはここにいるのか。
もうなにも想うところがないから、この部屋に来られるようになったのか。
それはとても哀しいことだった。
ここで美鶴のことを恨むのはお門違いなのだろう。
だけど余計なことをしてくれたなぁ、という思いはどうしようもなくて。
だけど美鶴が手をくだすまでもなく、あたしたちの関係はすでに終わりきっていた。
なにが悪かったんだろうなって、もう何十回も考えたことをまた考えそうになって。
もう失うものなんてなにもないんだなって気づいて、あたしは口を開いていた。
「初海センパイ」
「なによ」
「あたし……ホントに、センパイのこと、好きだったんですよ」
顔が見えなくて、意識が乖離していて、とにかく現実味がない。だからだろうか。普段なら言えないそんな恥ずかしい言葉を、あたしはストレートに告げることができた。
「
作業をこなす一環のような単調さで、センパイは答える。
「あなたは……こんな私のどこを気に入ってしまったの?」
だけどそれに続く言葉は、少しだけ震えていた。
「綺麗だなって……思った」
「私は顔で惚れられたの?」
「顔っていうか……雰囲気……かな。触ったら壊れそうな感じとか、すごく、いいなって思ってた。ガラスでできた彫像みたいで……綺麗で鋭くて、触るとケガ……しそうで」
「壊したかったのかしら」
「ううん……違くて、大事にしたかった。大事にして大事にして、それでも壊れそうだったから。そしたらまた、もっと、綺麗になるんだろうな……って、よくわかんないです」
「言われた私はもっとわからないんだけど」
そう。私たちはわからないだらけなのだ。
自分のことも。
相手のことも。
人間関係のことも。
まったく理解していない。
「あたし……考えたんですよ、どういうふうにセンパイが好きで、どうしてセンパイのこと、いじめちゃうのか……傷つけるようなこと言っちゃうのか。好きだからなんですよ。あたしはセンパイのこと大好きなのに……センパイはあたしのこと、好きじゃないから」
「わかったから、寝てなさい。今はそんなこと話したってしょうがないわ」
「あたし、センパイに好かれる自信なんてなかったんです。なんにも持ってないから。勉強もできないし、友だちもいないし、性格だってよくないし。嫉妬ばっかりしちゃうし。だから、センパイと一緒にいるには、こういう手段、使わないとダメなんだって、思ってて……」
口に出しているとなんだか悔しくなってきて、とまっていた涙がまた出てきた。
自分がなにを言っているのかもわからないまま、あたしは口を動かしてゆく。
ただ、そう。自分で言っていて、初めてわかったことがある。
あたしはただ、センパイに――
――姫様よりあたしのほうが好きだって、言ってもらいたかっただけなんだ。
「わかった。わかったわ。あなたが私のことを大好きなのはわかったから、静かにして。それからおかゆを食べて、それから着替えて、それから今日はゆっくり眠りなさい」
それでもあたしがぐずっていると、センパイがレンゲに粥を掬ってさしだしてくれた。さすがに『あーん』とまでは言ってくれなかったけど、あたしが機嫌を直すには充分すぎた。
「……しょっぱい」
「言っとくけどそれ、自分の涙の味よ。なにベタなことやってんのよ……ほんとに」
レンゲがあたしの口と椀をいったりきたりする。
センパイの吐息で適温に冷まされた粥は食べやすくて、あっという間に完食する。
そうして腹が膨れると今度は眠くなる。
なんだか急に生きてる感じがしてきた。
「……寝る」
「寝るのはけっこうだけど、せめて着替えてから――って、ちょっと、なに寝息たてて――」
センパイの慌てる声が聞こえたような気がするけれど、今のあたしは泣き疲れてしまっていて、どう頑張ってもそれ以上意識を保てそうになかった。おなかが膨れると不思議と安心してしまうものだなぁ。なんて、現金なことを思いながら、あたしは夢に意識をひたした。