平楽初海
頭に両手を突っこまれて、ハンバーグのタネでも捏ねるように、ギュッギュッと体重をかけて潰されているみたいな、そんな鈍い痛みが定期的に頭の内側を襲っていた。痛くて、重たくて、全身から血の気が引いてゆくのがわかった。どこでもいいから横になりたい。
いっそひどい風邪でもひいてしまったほうが楽だった。
心も体も働かせる余地がないくらい、こっぴどいやつがいい。
だけど現状、ムリをすれば心も体も動いてしまう中途半端ぶりだった。
理由はわかりきっていて、普段よりも早く始まったあれが原因だった。
……女友だちと一緒にいたりしたら感染るって、本当だったのかしら。
でも紗和と一緒にいても、周期が同じになることなんてなかったのに。
なんて考えてみても、頭痛も腹痛もとまらない。
家にひとりでいるとイヤなことばかり考えそうだったから、無理やり学校に来たのはいいけれど、正直座っているのもやっとの状態で、授業すらまともに受けられそうにない。
「おはよ……って、だ、大丈夫? 初海ちゃん、すっごい顔色悪いけど」
私が教室に入るのと同時、紗和がとことこと駆け寄ってくる。またか可愛い後輩の話でもあるのだろうか。反射的にそう考えしまい、余計に気分が悪くなってきて笑いそうになる。
「大丈夫よ。ただちょっと……あれがキツいってだけだから」
「あれって……あっ、そっか、うん。なにか温かいものでも買ってこようか?」
紗和は心の底から心配そうで、善意でそう言ってくれているのはわかった。
だけど今の私にはその善意を、真正面から受け取れるだけの余裕はない。
「いらないわ……心配しなくても大丈夫だから」
「ホントに……? だけど声も震えてるし、一回、保健室にでも……」
「厳しかったら学校なんて休んでるわよ。だから大丈夫」
彼女が言葉を重ねるごとに――その声を聞くたびに、心の底に
「で、でも――」
「うるさいわね! 大丈夫だって言ってるじゃない!」
あんなに好きだった紗和の声があまりにも耳障りで、私は声を荒げてしまう。
朝一だったおかげで教室にいる生徒がさほど多くないのが唯一の救いだった。
だけど今のはさすがに目立ちすぎた。数少ないクラスメイトの視線が私へと突き刺さる。その絡みつくような視線を受けてもなお、今の私は、自分を制するのが難しそうだった。
「は、初海ちゃん……?」
紗和がおどおどと震えた声で私の名前を呼ぶ。それがあまりにも不愉快だった。
――どうして私は、こんな関係を続けてるのかしら。
なんだかんだと言いながら、私はこの子への執着を捨てきれていなかったのだろう。
――そうよ。こんな中途半端な関係を続けてるから面倒なことになる。
やっぱりあの日、さっさと断ち切っておくべきだったのだ。
「……紗和。お願いがあるの」
「な、なにかな?」
お願いという言葉を聞いて、パッと紗和の表情が華やぐ。その子どものような無垢さを受けて、わずかに胸が軋むが、その痛みこそが毒なのだと、私は自分を叱咤した。
「私にできることなら、なんでも――」
「私に話しかけないで」
そうきっぱりと告げてやると、紗和の表情に絶望の色が広がった。
それが私の嗜虐心を満たしてくれる。
だがその瞳から完全に意志の炎が途絶えることはなかった。
「ご、ごめん……そうだよね、初海ちゃんは、調子が悪いのに――」
――この期に及んで、まだそんな勘違いを。
わざとやっているのでは? そう思ってしまうほど、彼女の心は鈍感にすぎる。
もしかしたら、それこそが彼女の得た強さなのかもしれないけれど。
「そうじゃなくて、二度と私に近づかず、話しかけず、できれば姿も見せないで」
「そ、それってどういう――」
彼女の遅々とした語りを待ってあげられるだけの余裕は、今の私にはなかった。
だから途中で言葉を遮ってしまう。
「私は――あなたにまとわりつかれて迷惑してた。自分の好き勝手な話題ばかり私に振って、都合よく助言を求めようとして。そうやって私を利用しようとするあなたのことが大嫌いだった。少しは自分の頭で考えなさい。そうすれば、私がどう思ってるかだってわかったはずじゃない。もう私は、あなたの子守をするのはこりごりなの。だからもう私に近づかないで」
「……………………」
一拍の沈黙の後、その目がじわりと滲む涙で縁取られてゆく。
私はそんな彼女の顔を直視できずに視線を逸らしてしまう。
頭蓋の中に膿でも溜まっているのではないかと不安になってくるほど、じくじくとした粘着質の痛みが頭全体を支配していた。私はその痛みから逃れるように、スッと目を閉じる。紗和が去ってゆくのを気配で感じとりつつも、私はそのまま目を開くことができなかった。
そんな私に追い討ちをかけるように一時間目の授業は体育だった。私の体調が悪いのは傍から見ても明らかだったのだろう。教師はすんなり見学を許可してくれた。ただ決まりだかなんだか知らないけれど、見学するならせめて立っていろということで、私は体育館脇に立たされているのだった。今年は例年より気温が低いらしく、グラウンドには疎らに雪が残っている。それが原因かはさだかではないが、五月上旬までは室内で行える球技をやる予定らしい。
……だけど、よりにもよってバスケなんて。
べつにバスケ自体は好きでも嫌いでもないが、今はボールが立てるその音が、喧しくて仕方ない。だむだむ――とボールの弾む音が四方八方から響いて、私を蹂躙し、頭痛を助長する。
コートを見回すと、紗和がぎこちない動作でシュートの練習をしていた。両手でボールを構えて、バンザイでもするみたいに真上にボールを放り投げ、それに遅れる形で両脚がピョンと跳ねる。すべての動作がバラバラで、類い希な運動神経のなさを披露していた。当然、ボールはゴールに届かず、彼女とゴールリングのあいだで失速し、ごろごろとどこかに転がっていってしまう。昔から変わらない彼女の姿を見て、心が少しだけざわついた。
彼女を見ていると、余計なことばかり思いだしてしまう。
先ほどの会話にしてもそうだし、昨日の出来事にしてもそうだ。ちらりと彼女がこちらを見た拍子、目が合いそうになってしまったので、私はそのまま彼女から目を逸らした。
目を開いていると、視界がチカチカと点滅して嘔吐してしまいそうだったので、私はそっと目を閉じ、心を鎮めるために深呼吸をくり返した。どす黒い靄のような思考が浮かんでくるたびに、私はそれを無理やり塗り潰そうとする。だが『考えるな』と言い聞かせれば言い聞かせるほど、思考は明確な形を持って、彼女たちのことを描きだそうとするのだった。
しばらくそうしていただろうか。
突然、どこからか響いたその声が、私を現実へと引き戻した。
「初海ちゃん、危ない!」
「は……?」
それはやけに切羽詰まった紗和の声だった。
目を開けると、明度の差に、視界が白く塗り潰される。
その中央には黒点があって、その点が次第に大きくなってゆき――
――ああ、なんだボールか。
このままだと顔に当たってしまうが、騒ぐようなことでもない。
だってそのボールは私の動体視力でも、ぎりぎり追える程度の速度だったのだから。
だけど予想外の衝撃が明後日の方向から私を襲った。
どん! だれかに強く肩を押され、そのまま巻きこまれるように、そのだれかとふたりで転倒したのだ。痛みと衝撃に私の頭がついていけず、そのまま意識が遠退いてゆく。
薄れゆく意識で聞こえたのは、
「緒輪島が平楽を押し倒した!」
という意味不明な悲鳴だった。
そんな悲鳴に触発されたのかはわからないけれど、なんだか奇妙な夢を見た。
そこは鬱蒼と生い茂る森の中だった。
太陽の光も届かないような薄暗い森。
私はその森を切り裂くように伸びる一本道を歩んでいた。
とぼとぼと重たい足を引きずるように、根っこが蔓延り、でこぼこした道を進む。
そんなとき、どこからともなく可愛らしい鳴き声が聞こえてきた。
それは一本道の先ではなく草木が生い茂る林のほうから聞こえてきているようだった。
その声に導かれるように、私は林の中へと足を踏み入れた。
ほどなくして見えてきたのは豪奢な鳥籠。
その中では可憐な鳥が羽根を休めていた。
なんて綺麗なんだろうと私はそう思った。
ずっと籠に守られて生きてきたのだろう。彼女の身体は傷ひとつなく、その羽根は処女雪のように純白で、触れることすら憚れてしまいそうなほど、きらきら輝いて見えた。
私はその鳥を、籠の中にずっと閉じこめておきたいと、そう思った。
だから私は協力するフリをして鳥が外へと羽ばたこうとするたびに邪魔をした。
悩み事を聞き、その解決策を提示すると見せかけ、鳥籠により強く縛りつけた。
私の思惑は予想以上にうまく機能して、籠の中は私と鳥の小さな楽園になった。
だけど鳥の鳴き声に導かれて、もうひとりの少女がやってきて、すべてが狂った。その少女は私とは違い、彼女を籠の外へと連れだせてしまうだけの力を持っていた。手遅れになってしまったことを察した私は、鳥の幸せを願うフリをして――彼女を籠の外へと追いだした。
籠に残された私は、どうすることもできないまま羽毛のベッドで丸くなる。
そんな私を揺り起こそうとしていたのは――折れた羽根を持った蝶だった。
まぶたが震える。睫毛の向こう、やけに白々とした世界が見える。白いシーツとカーテン、そして蛍光灯、純白を基調とした世界に、一瞬夢の中のそれが重なって私は混乱する。
だけどどうやらそこは、保健室のベッドの上らしかった。
そばにひとの気配を感じ、そちらに意識を向けようとする。
……木実?
私の意識に浮上したのは、なぜか木実の名前と、その傷ついたような笑顔だった。だが私がそちらに首を向けようとした瞬間、ぎゅむっ……と上半身が柔らかな感覚に包まれた。
「よ、良かったぁ! 初海ちゃん、目ぇ覚ましてくれて」
反射的に身を固くしてしまうけど、不思議と頭痛や腹痛はなりを潜めているようだ。
「良かったもなにも……全部、あなたに押し倒されたのが原因だったと思うのだけど」
紗和――と名前を呼んでやると、彼女の体が小さく震えた。
「だって初海ちゃん、ただでさえ体調の悪かったのに……ボールが頭に当たったりしたら死んじゃうんじゃないかって心配になって……名前呼んでも、動こうとしなかったし……」
「それで私を助けるために押し倒したの? ボールでひとが死ぬわけないじゃない」
私が責めるようにして告げると、紗和は納得がいかなそうに唇をとがらせていた。
「と言うか……どうして紗和がここにいるの。もう顔を見せないでって言ったじゃない」
いくら紗和でも今朝のやりとりを忘れてしまうほど記憶力が弱いわけではないだろう。
その証拠に紗和の瞳は恐怖を湛えたようにか細く震えていた。
その目を見つめてやれば、すぐに彼女は折れてしまうだろう。
そう思っていたのに、彼女はなにかを決意したように、私を強く見返してきた。
「……なによ。言いたいことがあるなら、ハッキリ言いなさい」
「うん。そうだよね……私、初海ちゃんに、言わなきゃいけないこと、あるんだ」
紗和の口から漏れた素直な肯定の言葉に、私は多少なりとも驚いていた。
前までの彼女であれば、このタイミングで口を開くことは絶対になかったから。
「私ね、あの日――あの放送の日から、ずっと悩んでたんだ。いや……違うのかな。初海ちゃんがなにかに悩んでるのに、ずっと気づいてて、どうしたらいいのか……考えてたんだ」
そこで紗和は、私の反応を確かめるように間を置いた。
私は口を開かず、続きを促したりもしなかったけれど。
「私はバカだから、うまく言えないけど……初海ちゃんにありがとうって言いたかったんだと思う。今まで何回も私のことを助けてくれて、何回も私に助言をくれて。だから、初海ちゃんが迷惑がるのも仕方ないなって思った。だって私はずっと助けられっぱなしだったから」
並べられた言葉に、私の心に靄がかかる。
――それは違う。
だって私はなにもしていない。
私はただ、籠の外に出ようとするあなたの邪魔をしただけ……だから感謝なんかしないで。だったら真実を口にすればいいのに、私の口は、震えるばかりで言葉を紡いでくれない。
「初海ちゃん、またその顔してる」
スッと紗和の手が私の頬へと伸ばされ、暖かな指先が頬を撫でた。
伸ばされた手に反射的に体が身構え、上半身の筋肉が強張ってしまう。だけど、その強ばりを取り除くように、紗和の指先は優しく、慈しむように私の顔を撫でてくれる。
「あの日も……あの放送をしたときも、初海ちゃんは同じ顔してたんだよ」
たったそれだけで、体だけではなく心の強ばりまで好転してゆくような気がした。
柔らかくなった心が想いの丈を、情けなくも暴露してしまいそうになる。
「紗和、私は……私は――」
「初海ちゃんはね……私のことを守ってくれていてくれたんだよ?」
紗和は私の言葉を遮って、そう、勘違いで満ちた言葉を口にした。
それ以上優しさと感謝を向けられることに耐えきれず、私は叫ぶ。
「違う! そんなんじゃない……私はあなたの――」
「もうなにも言わないで」
頬へと伸びていた手が私の後頭部へと回りこみ、そのままぐっと頭を抱き寄せられる。
紗和の小さな身体――その胸元に、私の額が、押しつけられていた。
彼女の体が――声が震えていたことに私は密着したことで初めて気づいた。
「初海ちゃんは、あの放送室を鳥籠だって……そう言ったよね」
――言った。
そう答えたつもりだったけれど、胸元に顔があるせいで、うまく喋れた自信はなかった。
「その通りだなって、そう思ったんだ。あそこは私を閉じこめている鳥籠で……そうであると同時に、私を守ってくれる場所でもあったんだって。すごく的を射てる表現だと思った」
言葉数が増えるにつれて、紗和の声の震えが大きくなってゆく。
すんっと彼女の鼻が鳴って、かすかに上下した胸が私の顔を押す。
「だけど……鳥籠に閉じこもっていたのは、他ならぬ私の意志なんだよ。強いて言うなら、初海ちゃんの厚意に甘え続けてた私が悪いの。だから……初海ちゃんが責任を感じる必要なんてない。そう、きっと私もまた、鳥籠にあなたのことを、閉じこめてしまっていたんだと思う」
ぽたりぽたりと、私の頭に、しずくが落ちる。
それは言葉と同じ熱を帯び、その熱が私に伝わってくる。
「初海ちゃん。私はね……あなたがずっとそばに寄り添っていてくれたから、籠の外に出ることができたんだよ。きちんと空を飛ぼうと思うことができたの。今の私があるのは全部、初海ちゃんのおかげなんだよ。だから、あなたが悲しそうな顔をしていると……私も悲しくなる」
紗和から伝わったその熱が――私の目からも溢れだしそうになる。
「私が目障りだって言うなら、もう、私から話しかけることはないから。でも、私は思うんだ。もしも初海ちゃんが鳥籠に囚われ続けているのなら――あなたにも解放されて欲しいって」
涙がとまる。
「私はずっと初海ちゃんのこと大好きだから」
そして言葉もとまった。
ふたり分の嗚咽だけが、どこからともなく漏れだして、空気へと溶けてゆく。
――行かないでって、
――私も大好きだったって。
ただ、そう言いたかった。そう言ってしまえば良かった。
だけど見栄っぱりな私は、やっぱりうまく言葉を操れなかった。
わかって欲しい。
わかって欲しい。
わかって欲しい。
そう思うばかりで口にしなかったから、失敗してきたのだと私はやっと理解した。
だけど、それを今さら口にしたところで、すべては手遅れになってしまったあと。
――だからそう。
――私は、もう。
――紗和とは別の道を歩いてゆく決意をする。
それはどこまでも独りよがりの決意だけれど。
鳥籠から放たれた彼女を羨むのではなく、私も自分の羽根で飛んでみたいと、そう思ったから。だから私が向かうべきは紗和のもとではなく――もうひとりの蝶のもとだ。
「ねぇ、紗和」
「なに、初海ちゃん」
「今はまだ、うまく飛べる自信がないけれど……私のことを、待ってて欲しい」
「大丈夫だよ。言ったでしょ。私はずっと、初海ちゃんのことが、大好きだから」
その『好き』は響きは同じなのに、私が求めていたものとは大違いで。
だけど、それでも、その残酷な響きだけで、私は前へと進んでいける。
「それじゃあ……授業があるから、私、先に戻ってるね」
そう告げて、怖ずおずといった調子で紗和は立ち上がる。
「私も、もう少し休んだら戻るわ。もう心配はいらないから」
私は別れを告げて、カーテンの向こうへと消えてゆく紗和を見送った。
……そういえば、ここって保健室だったわね。
ということは、保健室の番人である杉菜が控えていたはずでは……? と先ほどの会話が筒抜けであった可能性に背筋が凍る。だがその杉菜は、どうやら紗和と入れ替わりになる形で、保健室へと入ってきたらしい。会話のあいだは留守にしていたことを知り、私は安堵する。
つかつかとい鋭い足音がベッドに近づいてくる。
「ふむふむ。どうやら青春談義は終わったみたいねー」
しゃっ! と勢いよくカーテンを開けられる。カーテンの向こうがわには、これ以上ないほど『ニヤニヤ』という表現が似合う笑みを貼りつけた白衣姿の女が立っていた。
「で、飛ぶとか羽ばたくってなんの話?」
「どうしてばっちり聞いてるんですか」
「そりゃあ扉の外で聞き耳立ててたから」
保健室の扉に耳をあてて、中の会話を盗み聞きする養護教諭の姿を想像する。
それだけで会話を聞かれた羞恥心より、哀れみのほうが強くなってきてしまった。
「……今、何時ですか?」
だから私は杉菜先生の問いかけを無視して尋ねる。
「十一時半かな。平楽さんはきっかり一時間半寝てた計算になるわね。ちなみにもう三〇分はさっきの恥ずかしい会話に費やしていたわけだけど、飛ぶとか羽ばたくとか――」
「つまり三時間目の途中ですね。私も教室に戻ります」
「なんでそんなつれないこと言うのー! 私、ヒマでヒマでしょうがないんだけど」
「いや、知らないですって」
自分のことだけで手一杯なのに、どうして養護教諭の面倒を見なくちゃいけないんだ。
「そんなこと言う子には保健室の利用カード渡さないぞ」
珍妙なことを言いながら杉菜先生は指に挟んだ用紙をひらひらと振る。
「……横暴すぎるでしょ」
まさかこんな形で養護教諭に脅される日がこようとは思わなかった。一年、二年と私はそこそこの頻度で保健室を利用していたから、杉菜先生とはそこそこの面識がある。このひとは一度こうなったら話を聞かないから、こちらが折れるしかなさそうだった。
養護教諭とか以前に、ひととしてどうなんだって感じだ。
このひとがそこそこ生徒に人気があるのは、ひとえにその顔が原因だろうと思う。
「わかりましたよ……ちょっとだけですからね」
「やりぃ! じゃあさ、じゃあさ、姫様とはなにがあったわけ?」
「先生まで姫様って呼んでるんですか。あの子、その呼ばれ方イヤがってるんですよ」
「えっ、そうなの? 綴が名づけたって聞いたから公認の渾名なんだと思ってたけど」
綴……? と疑問に思うが、放送部の顧問の鎌村先生のことだと思い至る。あのひともあのひとで教師の中では不良気味で、たびたび保健室でサボって杉菜先生と談笑しているのを見かけたことがある。つーか、あいつ、部の生徒になんつー適当な渾名をつけてるんだよ。
「その姫様なんだけどさ。ずぅーっとアンタの手を握って、深刻そうな眼差しで見つめてたのよ。見てるこっちが、平楽ってもしかして危篤状態なんじゃ……とか勘違いしちゃうくらい」
「そういうの追い返すのも養護教諭の仕事じゃないんですかね」
そのおかげで、紗和との会話する機会を得られたのだから強く否定はできないけれど。
それでも彼女が職務をサボっていたことに違いはない。
「そりゃそうなんだけど。でも姫様ってばヘタな体調不良の子よりも調子悪そうなんだもの。あれはたぶん相当あなたのことを心配してたわよ。それも今日一日って話じゃないみたい」
ここ数週間の自分の行動を思い返し、恥ずかしくなる。私はひとりで拗ねて、紗和のことを冷たくあしらってしまっていた。たぶん彼女の心労の原因の何割かは私にあるはずだ。
自分のワガママで紗和を振り回してしまった。
にもかかわらず、紗和は私のことを心配して、私のそばにいてくれた。
そんな紗和の純粋な優しさに触れていたから私は自分の過ちに気づけた。
「それでさっきの意味不明な会話に繋がるわけじゃん? 私としては、開栄高校至上トップテンに入るような青春劇を期待してたってわけ。そこんところどうなの?」
「トップテンかどうかは知らないですけど、青春は……してたんじゃないですかね」
肯定するのも恥ずかしかったが、否定しても、くどくどと面倒なことになりそうだった。だから適当な落としどころを見つけて、さっさと保健室から逃げだすことにした。
「あら、平楽さんがそんなことを言うなんて珍しいわね。雪でも降るんじゃないかしら」
「四月の札幌なら、まだ雪が降っても許されますよ。まあ、そんなちょっと珍しいものが見れたんですから、今日はそれで満足してください。それじゃあ、私は行きますから」
目を丸くしていた杉菜先生の手から保健室の利用カードを引ったくる。
「ああっ、もう平楽さんはしょうがないわね。今日のところは見逃してあげる」
また来てねーと間延びした挨拶をする杉菜先生を無視して廊下に出る。保健室の中で悩みの種がひとつ解消されたおかげか、今朝方よりも足取りは軽やかなものだった。
……あとはもうひとつの問題をどう解決するか、ね。
廊下を歩きながら、彼女――真倉木実について考える。
――なにをしたいのかがわからない。
そう告げたのは私と彼女、いったいどちらだっただろう。
どちらともなく、というのが、真相だったかもしれない。
ともあれ私たちの関係は意味不明なものに成り果てていた。
私はただ綺麗な顔をした木実を傷つけてやりたかっただけ。
――綺麗だったその羽根を手折ってしまいたくなっただけ。
だけどそれもきっと後づけの理由でしかなかったのだろう。
本当はただ――私はひとりになりたくなかっただけなのだ。
寒がりだから、適温に温めてくれる他者を求めていただけ。
私が求めていたのはきっと恋人としてではなく、友人としての距離感でしかなかった。
そう。
彼女が親しき友人としてそこに立ってくれていれば、私はそれで満足だった。
でも世の中はうまく回ってはくれないものだ。
木実は私に告白をしてしまった。
私はそれに対する答えを出すしかなくなってしまい、孤独を恐れた私が出せる答えは、ひとつしかなかった。そこからすべてが狂い、矯正されないまま今に至ってしまった。
難しいな、と思う。
「ちょっと寄り道でもしようかしら」
だれにともなくそう呟いて、私は屋上の緑地へと歩きだした。
あそこは絶好のサボりスポットだと木実が言っていたから。
もしかしたら、そこに、彼女の姿もあるかもしれないから。
「それにしても……難しいわね」
欲しいものを欲しいと口に出せる人間が、世の中にはどれくらいいるのだろうか。
少なくとも私は自分の欲や願いをうまく言葉にすることができない人間だった。言葉にしようとすると、喉のつけ根で言葉が詰まってしまい、うまく言葉を発せられなくなってしまう。
欲しい。
そう口に出したところで、欲しいものが手に入るわけでもない。
そのくせに『欲しい』という明確な形を得てしまった欲は、より輪郭を濃くし、存在感を強めてしまう。手に入らなかったときの哀しみばかりが大きくなる。
だから簡単に欲しいなんて口に出せなくなってしまう。
だけどそうやって、自分の欲望に蓋をして、見ないフリを続けて、そんなものなんて存在しないかのような振る舞いを続けていたら、自分が本当はなにを望んでいたのかさえ、わからなくなった。なにが自分の欲望で、それをどうやって相手に伝えるべきなのかもわからない。
そんなことを考えていると、屋上に辿り着いてしまう。
「……寒いわね」
昼休みでもないのに屋上への扉が施錠されていないことに驚くが、生徒を信頼してのことかもしれない。それとも単に、休み時間のたびに開け閉めするのが面倒臭いだけなのか。
ぐるりと屋上を見回ってみたけど、シートを敷いて寝転ぶ木実の姿はなかった。
「まあ、べつに見つかったところで生活指導されるだけだし……」
地べたに座る気にもなれず、私はそのままベンチに座って、考えごとを続けることにした。
あの子はどうして執拗に、私のことを傷つけようとしてきたのだろう。
あのときの私は、紗和のことなど思いだしたくもなかったのに。
その上から蓋をして厳重に封をしてしまいたかったのに。
もしかしたら木実もまた、自分の感情に意味不明な装飾を施してしまっていたのかもしれない。だけど彼女がなにを考えていたのかすら、言葉にされなければわからない。私なんてとくに他人の感情を推し量るのが苦手だから、彼女が私になにを求めているのかがわからない。
ならば、そうと、尋ねるしかない。
そして私も自分の想いを伝えるしかないのだ。
それが今の関係を続けることより残酷な選択だとしても。
それで木実が私のそばから離れてしまうことになったとしても。
伝え、尋ねるべきだろう。
私の想いと、彼女の想いを。
ひとがふたりいたなら、違う方向を向いているのは当然だ。
だからと言って、ムリに同じ方向を見ることはないと思う。たとえ違う方向を向いていたとしても、そこから見える景色を相手に伝えることができれば、それで充分なのではないか。
それがきっと『ふたりで生きてゆく』ということなのだ。
先ほどまでの私とは真逆の発想に我ながら驚いてしまう。
――なんて、紗和に悪い影響を受けたのかしら。
ぐっと伸びをしながら、空を仰いだりしてみる。
普段、木実はこの空を、どんな想いを抱きながら眺めているのだろうか。もしも次の機会があったなら、そんなことを尋ねてみたいと、漠然とそう思うのだった。
火曜の放課後は私がカウンター業務の当番だった。
本当はもうひとり、相方がいるはずなのだけれど、サボりなのかなんなのか、姿を見せることはなかった。私もひとりのほうが気が楽だから、口うるさく注意するような真似はしない。慣れない相手と一緒に無言の時間をすごすくらいなら、仕事量が増えたほうがマシだから。
いつもなら一〇分ほどで木実が現れて、
『またひとりなんすか? そんな無愛想だから、相方が逃げちゃうんすよ』
なんて軽口を叩きながら手伝ってくれるのだけれど今日は姿を見せない。
さすがに昨日の今日だからなのか、それとも他に理由があるのか。
彼女にLINEを送ろうと何度か思ったが、内容が思い浮かばなかった。
どうせ放課後になれば委員会があるから。
なんて考えていたのだが、この有様だった。
机の陰でスマホのホーム画面を確認するが、木実からのメッセージなんて都合のいいものは届いていなかった。さすがにここは私から送るべきなんだろうな、と、彼女に送るべき文面を想定していると、図書室の利用者らしからぬ生徒が入ってきて目を惹かれた。私がそう感じたのは、その生徒がバスケ用のウェアを着ていたからだ。予想通りその生徒は図書室に入ると、本を探すような素振りを見せないまま、まっすぐにカウンターへと歩いてきた。
女生徒は私の顔を見てハッとしたような表情を浮かべたが、それは私も同様だった。なぜなら彼女は先日、倒れていた一年生を介抱していた女バスの子だったから。だけれど、彼女の様子から察するに、あのときのお礼を言いに来た雰囲気ではなかったから、私は身構える。
「平楽初海先輩ですか?」
「そうだけど。そういうあなたは……大早川さんだったかしら。どうかしたの?」
「木実について話があります」
屹然とした態度で言い放たれ、私は状況を漠然とではあるが理解する。
「真倉さんのなにについて話があるのかしら」
「木実は今日、学校を休みました」
それだけのことを告げるだけなのに、大早川は必要以上の敵意を放っていた。
「だからなに? 私はあの子の休みの理由なんて知らないけれど」
「それはウソですよ」
「どういうこと?」
「だって木実、あなたが原因で休んでるんですよ? 気づいてないわけ……ないですよね? あ、木実から聞いたわけじゃないですよ。あの子、ああ見えてけっこう義理堅いですから」
「そんなことぐらい、わかってるわよ」
大早川はしばらく私のこと睨み、黙考していたけれど、ふとその視線のトゲが和らいだ。
「平楽先輩、あいつ……バカなんですよ。あんな顔して人並みに傷ついてたりするんですよ。それでそのしわ寄せが私のところにくるんです。ほんと迷惑なんでやめてもらえますか。私はあの子と……今の距離感で接するのが気持ち良かったのに。こんなことしたら、次からどんなふうにして接していいのかわからないじゃないですか。ほんと、いい迷惑ですよ」
「迷惑しているのは私のほうなのだけれど」
目の前で意味不明を宣っている下級生にしてもそうだし。
人のことを好き勝手に傷つけて、被害者みたいな顔をする彼女にしてもそうだ。
だけど大早川は、私の言葉を受けて、一際不機嫌そうな表情をして私を睨んだ。
「じゃあ拒絶すればよかったじゃないですか」
「……………………」
「それで私も、平楽先輩も、木実もみんな平和じゃないですか。違いますか?」
「勘違いしているみたいだけれど、それを望んでいるのは真倉さんのほうよ?」
「笑わせるなよ。お前は、自分の感傷に木実の好意を利用してるだけだろうが」
「な、なによそれ――」
「違うなら違うって言えよ。あ? 言えないんだろ?」
大早川の態度は変わらない。
ただ激高した感情が理性を上回って、口調が乱暴になってしまっているだけ。
「いつまでセンチメンタル気取ってんだ。それは他人を傷つけるための免罪符じゃないだろ」
大早川さんの必死な様子に、思わず笑いだしてしまう。
そんなことは、言われずともわかっていた。
この子は少しだけ、タイミングが遅かった。
木実にこんな素晴らしい友だちがいるように。
私にもまた、素晴らしい
それに気づくのに、ずいぶんと長い時間がかかってしまっただけ。けれど、今の私に唯一たりなかった勢いをつけるには、この子の叱咤はちょうどよかったかもしれない。
「……彼女は――木実は今日、学校を休んでるのよね?」
そうして今日、私は生まれて初めて図書委員の仕事をサボることになった。