平楽初海

 

 バスをおり、並木道を行く。

 空を見あげると、ずぶ濡れの鼠みたいな色をした雲で塗り潰されていた。

 明け方に降った雨のせいか、空気が重たく湿り気を帯びていて、頭が痛くなってくる。

 週明けの月曜日、朝からこの曇り空、学校へ向かう生徒たちの足は、水にでも浸かっているみたいに重たげだ。片手から垂れる傘の先が、力なくアスファルトを擦っていた。

 教室にはすでに紗和の姿があった。彼女はなにをするでもなくぽけーっと時間を潰しているようだったけれど、それがいつも通りの姿だ。彼女は私に気づき、片手をあげながら、

「おはよっ」

 と弾むような挨拶をしてきた。私もそれにおはようと返す。

 それだけで私の憂うつはさらに深まった。

 紗和の話を上の空で聞き流していると、朝のHRの時間になっていたらしく、担任教師がやってきた。今日が提出期限の進路希望調査の用紙を回収している。私は進学と書いて、先週中に提出してしまっていた。来年の今頃はもうこの学校にいないのだと思うと、足場を失ってしまったような心地になる。将来の自分が何をしているのか想像もできない。

 なにせ今この瞬間すら、私という存在は曖昧だから。

 そうやって不確かな未来に具体的な形を与える作業は、私に不安しかもたらさなかった。

 授業の合間の休憩時間、紗和は基本的に進路の話題を私に振った。お昼休みは私のほうから仕事があるからと彼女をかわしてしまったので、今日の私の心はそこまで廃れずに済んだ。こうした日常のあまりの空虚さに、私の身体は外圧に押し潰されそうになってしまう。

 前々から生きづらいとは感じていたけれど。私の世界はこんなに空っぽで、息のしづらいものだっただろうか。だれがこんな世界を望んだのか。どうしてこんなことになっているのか。

 もう、私にはわからなかった。

 帰宅して、勉強して、眠ってしまおう。

 そうすることで感情が薄れてゆくのであれば、好都合だ。

 空虚さを思い返すことができなくなるくらい知識を詰めこんでしまえばいい。

 私は放送室へと向かう紗和を見送って、自身も昇降口へと向かうことにした。

 昇降口はいかに迅速に帰宅するかに命を賭けている生徒たちで賑わっていた。

 さすがにその波に飛び込むのはバカらしく、しばらく掲示板の前で待機する。

 どうして彼らはあんなにも早く帰りたがっているのだろうか。

 あんなにも夢中になれるものを彼らが持っているのだろうか。

 そう考えると、バカにしか見えなかった彼らが途端に羨ましくなってしまう。

「あれ、初海センパイってばこんなところでなにしてるんですか?」

 気づくとそばに帰宅の寸前だったらしい木実が立っていた。

「人波に飲みこまれたくなかっただけよ。嵐が去ったら帰るつもり」

 昇降口に殺到する生徒を見やりながら告げると、木実も、ああと納得する。

「そういう木実は図書室に寄っていかないの?」

「今日はバイトがあるんすよ。最近、なかなか出られてなかったんで……今日はさすがに行かなきゃマズいなーって。雨だから、あんまり客なんて来ないと思いますけどね」

「あ……っ」

 木実がバイトをやっていたことをすっかり忘れていた。

 どれほど私が自分のことしか眼中になかったのか思い知らされる。もしかしたら、私の呼びだしに答えていたせいで、木実はバイトを休むハメになっていたのかもしれない。

 そんな私の考えは表情に出てしまっていたのか、木実が呆れたように口を開いた。

「あたしなんて見習いもいいところだから、居ても居なくても一緒なんすよ。だからセンパイが気に病む必要なんてまったくない……あっ、でもそんなこと言ったって、フォローにはなりませんよね? だったらお店に遊びに来てくださいよ。店長に友だちつれて来いって何度も言われてるんすけど、あたしって友だち少ないから、連れてくやついなくて」

「そういうことならかまわないけれど……あなたのバイト先ってどこなの?」

 真正面から誘われた手前、断りづらかったけれど、女子高生を連れて来いとバイトに告げるような怪しい職場には、正直なところあまり行きたいとは思わなかった。

 私の反応を見て、木実はにやりと笑った。

「それは着いてからのお楽しみにしましょ」

 これっぽちも楽しみにできる要素がない。

 木実だけが一方的に、この催し物に心を弾ませているらしかった。

 心なしか足取りも軽やかになっている気がして私の不安は深まるばかりだ。

「自転車取ってくるんで校門前で待っててください」

 木実の言葉におとなしく従って校門前で待機する。

 足元には斑な模様を描く水溜まりが点在している。

 空も空で、今にも一雨降りそうな色合いを帯びている。傘、持ってきてないなと、今さらなことを思っていると、すぐに自転車に乗った木実が戻ってくる。木実は私のそばで自転車からおり、徒歩でバイト先まで行くつもりなのか、ハンドルを押しながら歩きだした。

「歩いて行けるような距離にあるの?」

「歩いて一〇分くらいです。学校から見えなくなったら、ふたり乗りしましょう」

「そうね。もたもたしていたら、降りだしてしまいそうだし」

「最悪ですよねぇ」

 言いながら、木実の意識は空や水溜まりではなく自身の髪に向かっていた。

 ぴょんと跳ねた前髪を押さえつけては、納得がいかないよう唸っていた。

「センパイの髪は雨の日でもまとまってて羨ましいなぁ」

「あなたもそこまで気にするほどではないと思うけれど」

「そうですかぁ……? センパイがそう言うなら、うーん……信用しますけど」

 口ではそう言っても、やはり気になってしまうものらしく、彼女はしきりに髪の毛を押さえつけている。手櫛ではまったく効果がないようだったけれど。

 うー……と唸っていた木実は私の注視に気づき、照れたように笑ってごまかした。

 なんだか普通の女子高生みたいなやりとりだと思った。

 まるで悪い冗談かなにかのようだ。

 私たちが道を間違えなければ、毎日、こんな会話を交わして、笑顔をこぼすだけの関係性になれたのだろうか? そう考えかけて、時間のムダすぎると思考を切り捨てた。今の私たちを構成するのは過去からの積み重ねで、それは今の選択肢が少し変わった程度で矯正してくれるようなものではない。出会った時点で、私たちはすでに終わっていたのだろう。

 しばらくして木実は荷台に乗るように指示を出してきた。ふたり乗りなんて経験したことがない私は、おたおたしながらも、荷台にまたがって彼女の身体を抱きしめる。

「センパイ、バイクとかじゃないんでそんなにギュッてする必要ないっす」

「……そうなの?」

「個人的にはありなんすけど……でも、ちょっと苦しいというか、なんというか――」

 言葉尻を濁し、木実は恥じらいをごまかすように自転車を急発進させた。

 クッションがないから、段差のたびにお尻に強い衝撃が走る。

 サドルの大切さを不本意な形で実感してしまう。

 抱きしめていた腕を弱めようとするのだけれど、痛みのせいで力が入るし、不安定で慣れないな感覚が恐ろしくて、かえって力が入ってしまう。柔らかな木実の身体は、湿気のせいかじっとりと湿っていて、彼女の体臭を濃いものにさせていた。

 ……今日は香水つけてないのね。

 毎日つけているわけではないけれど、最近は例の苺の匂いのする香水をつけていることが多い。その甘酸っぱいような匂いが、私は嫌いではなかったから少し残念に感じる。

 ……バイトがある日は香水をつけないのかしら。

 と私は木実を知ったようなことを考えていた。

 一〇分ほどして、木実は自転車を停めた。

 そこは古ぼけた喫茶店の裏手で、表を通ったときにちらりと見えた名前は、たぶん英単語で『フラジール』と書いてあった。残念ながらその意味合いまではわからなかったけれど。

「木実のバイト先って喫茶店だったの……?」

「意外そうな顔してますけど、どんな怪しい店を想像してたんすかねぇ。センパイは」

「水商売とか」

「水商売やってる店に制服で向かうはずないし、センパイを誘うわけないじゃないっすか。それに、いまだにセンパイの中のあたしのイメージって、そんな感じなんですね」

「というより、これはあなたが無闇にかそうとしたのが悪いんじゃないのかしら」

 隠されたら、そりゃあ他人に言えないような店なんだと思ってしまうじゃないか。

 そんな私に木実は、

「からかっただけですよ」

 と言って笑い、先に表から店に入っていて欲しいと言った。

 そりゃあ一緒に裏口から入るのはおかしな話だけど、入ったことのない個人経営の喫茶店にいきなり入店するのは、一女子高生としてはハードルが高いように思われた。

 そんなふうにもたもたしてたら、また木実にからかわれてしまいそうだったので、私は意を決して正面口から喫茶店にお邪魔する。ドアの開閉と同時に、上品な音を立てながらドアベルが鳴る。その音に反応して、カウンターの向こうで顔を伏せていた女性が顔をあげた。

 ――あっ、店長って女のひとだったんだ。

 個人経営の喫茶店だから、シワの深い老紳士を勝手にイメージしていたけど、そこに座っていたのは想像の正反対の――まだ二〇代と思しき、やけに整った顔立ちをした女性だった。彼女は居眠りでもしていたのか、感情の欠けた目つきでしばらく私のことを見つめていた。

「……ど、どうも」

 私が恐縮して、思わず挨拶をしてしまう程度の時間がたって、やっと店長の意識が復活したらしかった。そして私を見ていた店長の顔が、いきなりパッと華やいだ。

「JKじゃん」

「うわ」

 あまりにあまりな一言目のせいでつい口から変な声が漏れてしまった。

 ――このひと絶対ダメなタイプの人間だ。

 JKという呼び名にしてもそうだし、女子高生に対して目を輝かしている点にしてもそうだし。早くも私が帰りたくなっていると店の奧から木実がやってくる。

「那月、あたしの恋人に粉かけないでよ? センパイがドン退きしてるじゃん」

「なんだ、木実のお下がりか。私は彼女じゃなくて友だちを連れて来いって言ったのに。つーか寝起きで目の前に女子高生がいたら神様の思し召しかと思うでしょうよ」

「どこの世界の普通よ。それに友だちなんか美鶴くらいしかいないって言ってんじゃん」

「美鶴ちゃんってばぜんぜん釣れないし、ときどき怖い顔するから苦手なんだもん。あっ、そうだ。木実の彼女さんってば、私に紹介できるような友だちとかいない?」

 那月と呼ばれた女性は私へと好機の眼差しを向け、図々しいことを聞いてきた。

 というか、そこで私に話題を振らないで欲しかった。

 正直、このふたりのテンションにまったく追随することができなかったから。

「いや……私、木実以上に友だちとかいないですし」

「あっ、わかるな。彼女さんってば、すごい暗そうな顔してるし」

「……平楽初海です」

 いつまでも彼女さんと呼ばれるのも不快だったので、仕方なく名乗っておく。

「初海ちゃんね。私は神代那月。よろしく。那月さんかシロクマさんって呼んでね」

「……じゃあ那月さんで」

 ただ話してるだけなのに、どうしてこんなに苛々するんだろう。

 たぶん私はこのひとを生理的に受けつけられない人間なんだと思う。

 木実を見ると、困ったような苦笑いを浮かべていた。

 どうやらこうなることをなかば予想していたらしい。

「ほら、那月。せっかく恋人つれてきたんだからサービスくらいしてよ」

「サービスって言われてもなぁ……相手が彼女持ちじゃテンション上がんないって」

「テンションなんて、コーヒー淹れるのに関係ないでしょ。そんなんだから、すぐに客が来なくなるんだってば。あっ、センパイはコーヒーよりココアのほうがいいですかね?」

 どうやら木実はこのあいだの私のチョイスを覚えていたらしい。私は木実の問いに黙って頷いた。しかし木実と那月さんの会話を聞いていると、いろいろと違和感が湧いてくる。

「ふたりって……その、知り合いかなにか、なんですか?」

「初海ちゃん、もしかしてヤキモチ? じつは私と木実はね――」

「もったいぶんな。ただの叔母と姪の関係でしょ。那月オバサン」

「ちょっと! オバサンって呼ぶのはやめろって言ってんだろ!」

 今までの穏やかな雰囲気から一変して、ドスの利いた声を出すものだから驚く。

 どうやらこっちが那月さんの素であるらしい。それにしても、

 ――木実の叔母さんか。

 言われてみれば確かに、ふたりの容姿は似通っている。木実に似ている神代さんが気取った振る舞いをしているせいで、私は余計にこのひとを好きになれないのかもしれない。

「わかったから、とりあえず仕事して。料金は私のバイト代から引いていいからさ」

 木実に苛立たしげに呟かれ、那月さんは渋々といった調子でココアを作り始めた。

 出来上がったココアはさすがにプロの仕事なのか、カラオケで飲んだものとは比較にならないくらい美味しかった。なにより、肌寒い日にぴったりの、柔らかくて優しい味がした。

 四時をすぎたあたりで、ちらほらと別の高校の女生徒の姿が見受けられるようになった。

 那月さんに絡まれていたせいですっかり失念したけれど、喫茶店の外装や内装自体はとくに問題がない――どころか、少し背伸びをしたがるような女生徒のツボをしっかりと押さえていた。落ちついた雰囲気で浮ついたところがなくて、けれど決して地味でもない。

 きっと神代那月という店長も、喫茶店を彩る装飾の役割を果たしているのだろう。

 これが無骨でダンディーなマスターだったらしたら女生徒にはハードルが高すぎるから。

 那月さんは私に見せたような態度を他の客の前でとることはなく、あくまで落ちついた雰囲気の妙齢の女性として振る舞っていた。そのギャップに私は恐ろしさすら感じそうになる。

 ――まあ、大人なんてそんなものなのかしらね。

 それから私は那月さんの話相手をしたり、木実と喋ったり、本を読んだりして時間を潰し、結局、喫茶店で晩ご飯を御馳走になってしまった。木実は私が固形物を食べる姿を驚いたような顔で見ていたけど、私だってべつに四六時中、野菜ジュースを飲んでるわけじゃない。

 ただ学校という息苦しい場で、ご飯を食べるのが苦手なだけ。

 胃がかき混ぜられるような心地がして、食べたものを戻してしまいそうになるのだ。

 こういう落ちついた雰囲気の場所なら、私だって気兼ねなくご飯を食べることができた。

 メインの客層が学生だったため、七時をまわるころには客はいなくなり、少し早い閉店となった。木実はフロアの清掃を終わらせ、更衣室で着替えをしているところだった。

「そういえば初海ちゃん、来るとき傘持ってなかったよね。店のでよければ貸したげるよ」

「あ、ありがとうございます」

「そこにささってるやつ、適当に一本、持ってっていいよ」

 言いながら、那月さんは入り口脇に置いてあった傘立てを指さす。

「まあ、今は雨降ってないし、木実んはすぐそこだから、要らないと思うけどね」

「どうして、私がこれから木実の家に向かうことになってるんですか?」

「えっ。そのためにわざわざバイト終わるのを待ってたんじゃないの?」

「違いますよ。さすがにこの時間からお邪魔するのは木実の親に申し訳ないですし」

 まだ八時前とはいえ、高校生が突然お邪魔するには遅い時間だろう。

 だが私の言葉に対して、那月さんは珍妙な表情を浮かべていた。

「あれ? 木実から聞いてないの?」

「……なにをですか?」

「あの子、ひとり暮らししてるから問題ないと思うけど――って話」

「え?」

 きっと私は、先ほど那月さんが浮かべていたような、珍妙な表情をしていた。

 ……木実がひとり暮らしをしてるだって?

 そんな話なんて、まったく聞いたことがなかった。

 高校生でひとり暮らし、それは言葉以上の衝撃をともなって、私にのし掛かってきていた。だって私は木実のことを能天気で考えるのが苦手な、ただの不良寄りの女子だと思っていたから。今まで私が思い描いていた木実という人物像が、音を立てて崩れてゆく心地がした。

「センパイ、行きましょー」

 高校の制服に着替え、一度裏にまわって自転車を取りに行っていた木実が、入り口から頭だけを覗かせてそう言った。私は思考に集中してたせいで、少しだけ驚いてしまう。

「センパイ……?」

「今、行くわ」

 私は那月さんに別れを告げて、外で待っていた木実の元へ向かった。神代さんの言う通り、雨は降っていなかったけれど、空気は重く、いつ雨が降りだしてもおかしくない様相だった。

「センパイ、那月になにか言われたんですか?」

 木実は自転車を押しながら、横目で私を見つめてくる。

「ただ、あなたがひとり暮らしをしてるって聞いただけよ」

 私の言葉を聞いて、今度は木実がバツの悪そうな表情を浮かべた。

「あー……べつに、黙ってたわけじゃ……ないんですよ?」

 こちらの反応を覗うようにしながら木実はぶつ切りの言葉を呟く。

「えっと、単に、その……言う機会がなかったってだけで」

「私だってべつに怒ってるわけじゃないわよ。それに、いきなりひとり暮らしの話なんてされても困るだけだったろうし。だからまあ、あなたが気にすることなんてないわ」

「そこまでバッサリ切り捨てられちゃうと、私としては逆に納得できないんすけど」

 そして木実は困ったような、ふて腐れたような表情して、なにをとち狂ったのか、

「それじゃあセンパイ、うち、来ますか?」

 と、そんなことを言ってのけたのだった。

「端からそのつもりだったんじゃないの?」

「えっ?」

 どうしてそんな意外そうな声が出せるのか、私には理解できなかった。

「だってこっちの方角って、学校でもなければ私の家でもないし、木実は別れの言葉も口にしないから。てっきり、そういうつもりで無言で歩いてたのだと思っていたのだけれど」

 木実は、あっとなにかに気づいたような声を漏らしてから、

「べ、べつにそんなつもりじゃ」

 と、今さらすぎる否定の言葉を口にした。

 これ以上からかうのも可哀想だったので私は口を噤む。

 その沈黙はかえって彼女を焦らせたみたいだけど、私の意識がすでに木実の自宅へと向かっていることには薄々気づいていたのか、彼女もそれ以上言葉を重ねることはなかった。

 那月さんが言っていた通り、木実の家は喫茶店から歩いて三分ほどの近場にあった。

 家は典型的な二階建てアパートといった趣だった。女子高生のひとり暮らしだという点を考えれば、家賃的には妥当なのだろうが、いろいろな面で心許ないのは確かだった。

 木実はアパートの階段下に自転車を停め、私を先導するように階段をのぼる。

「よく高校生がアパートなんて借りられたわね」

「那月が名義貸してくれたんすよ。そんなわけであのひとには頭があがらないです」

 木実と那月さんの関係も疑問であったが、木実と両親の関係もまた疑問に感じる。女子高生のひとり暮らしなんて、並大抵の事情がなければ、発生したりしないだろうに。

 私がそんなことを考えている間にも、木実は玄関のカギをあけて、中へと入ってしまう。私は慌てて彼女の背中を追って、狭苦しい玄関口で靴を脱ぎ、中へとお邪魔した。

 部屋はワンルームで、どこか手狭な印象を受ける。

 部屋が雑多な家具や小物で散らかっているのが原因だろう。ただ、その小物たちはデコデコした女々しいものではなく、小学生の子どもが好みそうなキャラ物の小物だったりするから、私は反応に困ってしまう。それらはどう見ても木実の趣味だとは思えなかった。

 荷物を机のそばに置いていた木実が私の視線に気づいて気まずそうにする。

「こういう趣味ってわけじゃないんすよ? ものが捨てられないってだけで」

「こんなに物があったら、さすがに邪魔じゃない?」

「多少はそういうきらいもありますけど……まっ、ものを捨てるよりは邪魔なほうがマシかなって。センパイはどうですか? ものを捨てるのとか、得意なほうだったりします?」

「断捨離の得手不得手について考えたことなんてなかったわね」

「そりゃあきっと、ものを捨てるのが得意だってことですよ。自覚がないのは得意な証拠ですからね。んま、見ての通り汚い部屋なんで、ベッドにでも座っててください」

 言い残し、木実は洗面所へと消える。

 残された私にできるのは言われたとおりベッドに座り、部屋を観察することくらいだ。

 この部屋は木実の人生の来歴のようなものなのだと私は思った。

 たぶん、ほとんどの時代の木実が使用してきたものが、この部屋には溢れ返っている。

 だから全体に統一感がないし、それが必要以上に雑多な印象を与えている。

 この部屋を見ていると、成長はひとを別人に変えてしまうのだと自覚する。この部屋は数人の姉妹が同室に押し込まれ、共同生活をしているんじゃないかという有り様だったから。

「だから……そんなに見られると恥ずかしいんですって」

 部屋へと戻ってきた木実が私を責めるように見つめる。

「部屋を眺めるのがダメなら、私はどこを見ればいいのよ」

「あたしのことでも見てくれればいいんじゃないですかね」

 いつもの軽口かと思って木実を見やると、彼女の視線から温度が消えていて驚く。

「いや、この際、センパイがなにを見てようと、そんなことはだっていいんですよ」

「木実、それってどういうこ――」

 どんっと肩を押され、私の身体は木実のベッドの上に横たわる形になる。ばふんと布団が音を立てて、布団に染み込んでいたらしい木実の香りが舞ったように感じられた。

「あたしね、今日はセンパイにプレゼントしたいものがあるんですよ」

「初体験とか……そんなことを言うつもりなら殴るわよ」

「そんな恥ずかしいこと言うわけないじゃないですか。もっと素敵なものです」

 木実はそう言って得意気に笑みを作ると、手のひらで私の目元を覆い隠した。

 拍子、香るのは、白く、どろりとした、甘い匂いだ。

 私の心臓が大きく跳ねる。

 ……どうして木実がこの匂いを?

 思考がそんな疑問で塗り潰されてゆく。

「センパイのだぁい好きなバニラの匂い、お気に召しました?」

「いったい……どこで、こんな匂いを、拾ってきたのかしら?」

「可愛い後輩が私たちのために用意してくれたんすよ。私たちが幸せになるためにって」

 嫌みったらしい口調で木実は囁く。

「このバニラの匂い、始めは姫様のものだと思ってたんです。だけど逆だったんですね」

 視界を塞がれているせいで、余計に木実の声が、鮮明に鼓膜を震わせる。

 さらに敏感になった嗅覚が、甘く爛れた匂いを、脳の奧へと、深く深く染みこませる。

「センパイがお姫様に自分好みの甘味バニラを塗りたくってたんだ」

「……あなたとはなんの関係もないでしょう」

「そんな冷たいこと言わないで欲しいな。あたし、今、いいことしてあげようとしてるんですよ? 嗅覚って記憶と結びつきやすい――って教えてくれたのはセンパイでしたっけね。じゃあセンパイは今、この匂いを嗅いで……だれのことを思いだしてるんでしょうね」

 くすくすと甘ったるい含み笑い――けれど私の脳裏に過ぎるのは紗和の笑みだ。

「それとも? 始めからこういうことをするつもりで、姫様に自分好みの匂いを染み込ませておいたの? 姫様の匂いを嗅ぎながら、自分のことを慰めようとしてたんすか?」

 こんな挑発に乗るべきではないとわかっていても、怒りで体が震える。

「つぅ……っ」

 いきなり太股に触れられて、吐息が漏れる。暗闇のせいで心の準備ができていなかったから、思考が奇妙な形で硬直する。木実の指先が私のスカートの中をまさぐってゆく。

「やっ、やめ――っ」

「あはっ、センパイってば、匂いを嗅いだだけで濡れちゃってるじゃないですか」

 木実の指先が私のものを撫でる。

 内側から鳴った音だからなのか、木実が鳴らした音よりも、やけに鮮明に聞こえた。

「これは思ってたより重症っぽいっすね」

 木実の顔が私の耳元に寄ったのか、かすかな吐息がかかる。吐息のせいで、私の意志とは関係なしに、鼓膜が音と感触に敏感になり、かすかな刺激にも過敏に反応してしまう。

 ――くちゅり。

 耳の中で鳴った音の正体に、始め、気づくことができなかった。

 生温い感触を覚えて始めて、自身の耳が木実の舌先で嬲られていることに気づく。

「そんなに怯えて固くならなくても大丈夫っすよ。センパイを傷つけるようなことはしませんから。ただ、センパイがしたかったごっこ遊び、手伝ってあげようと思っただけ」

 違う。

 私はこんなこと望んでなんてなかったはずだ。けれど頭の中で産まれる否定の言葉は、口から出ていこうとはしない。まるでこの状況をなかば受け入れてしまっているかのように。

 それから木実はなにも喋ることはなく、黙々と私の身体を弄んだ。

 口を開いてくれないから、そこにいるのが本当に木実なのかと不安になる。

 乱れる呼吸、香るバニラ、熱く火照る身体。

 意識ばかりが遠のいて、代わりに脳裏には、彼女の姿ばかりがよぎる。

 ――これじゃあ本当に紗和に襲われているみたい。

 きゅう……と中が蠕動し、指先を締めつけ、腰が勝手に浮き上がりそうになり、喉から直接声が漏れる。耳元から笑い声が聞こえる。首筋に舌が這い、唾液の軌跡を残すけれど、それがだれの舌なのかすら今の私には判然としなかった。この身体すら自分のものではないように思えてしまう。まるで、そう、私が心塚さんになって、紗和に襲われているのだ、と。

 そうして、溶けるようにして、私の意識は微睡みの中へと消えていった。

 それは地獄のような夢だった。

 

 

 目が覚めると周囲からバニラの匂い――悪夢のような甘ったるさは消えていた。木実がシャワーでも浴びたのか、室内にはほのかにシャンプーの花香めいた香りが広がっている。

「ああ、センパイ。目ぇ覚めたんすね」

 木実は制服から部屋着に着替えていた。白いキャミソールに薄手のパーカー、それに大きめのハーフパンツ、座ると隙間から下着が見えてしまいそうだった。

「ぐっすり眠ってたみたいっすけど、そんなに良かったんすか?」

「……そういうのを相手に聞くのは無粋なんじゃなかったかしら」

「あー……まあ、そうなんすけど、やっぱり気になっちゃうもんは気になっちゃいますよ」

 羞恥をごまかすように、木実はにへらと笑う。

 そんなふうに笑う彼女を見るのはひさしぶりで、私のほうがなんだか困ってしまう。少なくとも私はこんなタイミングで、そんな笑顔を向けられるとは思ってもみなかったから。

 だけれど彼女の笑みは、すぐに別の表情の裏に隠れてしまった。

「あたしのことをだれかの代わりにしたいって言うのなら代わりになってあげますよ」

 木実がなにを言っているのか私にはしばらく理解することすらできなかった。

 だって彼女の言葉はひどい思いこみと偏見で成り立っていたのだから。

「紗和のことを言ってるのであれば、それはとんだ勘違いだわ」

「ウソつき」

「ウソなんかじゃ……ないわよ」

「喘ぎながら、あのひとの名前を呼んでたくせに。泣きそうになりながら……懇願してたくせに。あたしはね、センパイはもっと自分に正直になるべきだと思うんすよ。そんなんだから、手に入るはずだった魚すら逃すんすよ。あたしなんかに襲われるハメになるんです」

 なんだか、彼女の表情や仕草、その視線や言葉には違和感があった。

 いや前々から存在していた違和感に、私がやっと気づけるだけの余裕が出てきたのか。

 木実の言葉はまるで、意図的に私を怒らせようとしているみたいだ。

 その怒りは彼女にとって決して都合のいいものではないはずなのに。

「センパイは自分のこと、お利口さんだと思ってるのかもしれませんけどね。そんなの傍から見たら小賢しいだけっすよ。そんなセンパイも可愛いと言えば可愛いんすけど――」

 だから私は木実の言葉を遮った。

「私に紗和のことを見ていて欲しいのは、あなたのほうなんじゃないのかしら?」

 その問いは木実にとって、どんな意味を持つのだろう。

 凍りつく彼女の表情は、それを教えてはくれなかった。

 ただひとつ確かだったのは――それが彼女にとっての急所であったという点だ。

「は……? なにをバカな――」

「じゃあどうして、私に紗和を思いださせるようなことばかり言うの? どうしてあの子の匂いなんて身につけて私のことを襲ったの? あなたはいったいなにがしたいの?」

 恋人とは普通、過去の想い人のことなんて忘れて欲しいと願うものじゃないのか。

「それは……だから、そうじゃなくて、あたしはセンパイのことを慰めたくて――」

「そんなに傷つく私を見るのが楽しいの?」

 その一言がどんな言葉よりも木実を傷つけてしまったと気づく。

 だけど今さら後にも退けず、私は続く言葉を無理やり口にした。

「あのとき、あの瞬間、泣いてたのは私じゃなくて――あなたのほうなんじゃないの?」

 カマをかけるつもりもなく単に軽い仕返しのつもりだったのだ。

 しかしどうやら、私は木実の核心を突いてしまったらしかった。

「き、気づいてたんですか……?」

 ほろりとこぼれる透明な雫に目を奪われる。

 そういえば彼女の涙を見るのは初めてだとそんな見当違いなことを思う。

 だけど私はその涙に見蕩れるだけで、なにも言葉を返せなかった。

 これ以上、この部屋にいてはいけないと、本能が忌避した。

 私にとっても、木実にとっても、ろくなことにならないぞ――と。

 ザッと一歩退いて、もう一歩、木実から距離を置いて、私は部屋から逃げだしていた。

 靴を履いている時間が惜しくて、踵の部分を踏みこむようにして、家から飛びだした。

 背中越しに木実の声が聞こえたけれど、すぐに雨音に飲みこまれて聞こえなくなった。

 ――雨音……?

 いつの間に雨が降っていたのだろう。

 趣を殺すほどの勢いで降り注ぐ豪雨は、一瞬で私を濡れ鼠にしてしまう。

 今さらどこかで傘を買って差したところで焼け石に水だった。

 ここから歩いて自宅まで向かうことを考えるだけで憂うつになるが、熱でおかしくなってしまった頭を冷やすには、これくらいの荒療治がちょうどいいのかもしれなかった。