真倉木実

 

 あの日、センパイの中のなにかが壊れたらしい。いや、正確には、もともと壊れかけていたセンパイをかろうじて繋ぎ止めていたなにかが、外れてしまったと言うべきか。

 あたしたちは、関係性をそのままに、ごろごろと雪玉みたいにいろいろなものを巻き込みながら転がり、無様にも憂うつばかりを膨れあがらせた。互いが互いになにを求めているのかわからないまま、行為ばかりが重なり、後戻りができなくなってしまって。

 頭がおかしくなりそうだった。

 センパイは溺れるようにあたしを求めてた。

 そのたび傷ついたような顔をしてさらに深くあたしを求めて。

 あたしたちの行為はある種の中毒じみていて、とても気持ちが悪いものだった。

 センパイは姫様のことを忘れたがっているように見えたけど。

 そのためにあたしを犯して、行為に耽って。

 でもそれって、より深く姫様の姿を脳裏に刻むことになるんじゃないかなって。

 いや、それともそれこそが彼女の望みなのだろうか。

 ――あたしをだれの代わりにしようと勝手だけどさ。

 ――それで傷つくあなたも、あたしは好きだけどさ。

 だからこそ――もういっそ、理性とか、思考とか、そういうすべてを吹き飛ばしてしまえるくらい、ひと思いに、あたしのことをメチャクチャに壊して欲しかった。

 なにも考えられないくらい――して欲しかった。

 そんなふうに屋上で鬱屈としていたあたしの所へ珍しい客がやってきた。

「あれ、牝鹿ちゃん。どしたの?」

 背の高い彼女は学校でイヤでも目立つ。凛とした雰囲気でスッと背筋が伸びていて、いつも自信に溢れているから、余計に目に留まってしまうのかもしれなかった。

 そんな彼女が萎縮している様子だったから、なにかあったのは間違いないだろう。

「もしかして、愛しの先輩とうまくいってないの?」

 あたしの問いに牝鹿ちゃんは、そういうんじゃなくてと控えめな否定を口にした。

「木実さん……その、先週はどうも、すみませんでした」

 勢いよく頭をさげられて、今度はこちらが恐縮する番だった。

「……先週って、あたしたちが鉢合わせした件?」

「そうです。その件です。なんか気まずい感じになっちゃって」

「牝鹿ちゃんが謝ることじゃないでしょ。運と間が悪かっただけだよ」

 しかし牝鹿ちゃんは納得のいかなそうな表情を浮かべている。

「……初海さんとつき合い始めたって……ホントなんですか?」

 やはり牝鹿ちゃんは正直者だ。

 顔に浮かんだ想いをそのまま口にしてしまえるのだから。あたしやセンパイとは大違いで、だからこそ放送部のお姫様を射止められたのだろう。そんな彼女の純真と愚直さを、素直に羨ましいとは思えないのだから、やっぱり私はゆがんでるのかもしれなかった。

「うん、傷心のセンパイを襲ったらコロッとね」

「コロッといってるようには見えませんでしたけど、おめでとうございます……?」

「いいんだよ、べつに。正直に言っちゃっても」

 そう告げてから、少し残酷な言葉だったかと後悔する。この前の出来事を整理して、センパイの態度の意味合いを考えても、牝鹿ちゃんにとってはろくでもない答えが待ってるだけ。自分の幸福が他者の屍で成り立っていると気づいたら、この子はどんな顔をするのだろう。

 人生や人間関係なんてそんなものだと開き直れるほど、彼女が強いとは思えなかった。

「先週のあれ、じつは半分は意図的だったんだよね。あの時間に帰れば、牝鹿ちゃんと緒輪島センパイに鉢合わせになるんじゃないかなって。そんなこと考えてたんだよ、あたしゃ」

「じゃあ、わざと初海さんのことを傷つけようとしたって、そういうことですか?」

「傷つけようとしたわけじゃないよ。ただ早いほうがいいって……そう思っただけ」

 もうセンパイは姫様と交わることはない。

 今までとは違う、健全な友人としてつき合ってゆくしかない。

 それをだれもが自覚する必要があった。

 どれだけセンパイが現実から逃げだそうと、姫様はセンパイを置いてゆくだけだ。そして今の姫様はセンパイを置いてくだけの力があるし、そんな状況であってもセンパイの手を引こうとしてしまう優しさを持っている。ならば荒療治であったとしても、ああした場は必要だったのだと私は思うのだ。姫様が無意識のうちにセンパイを地獄の底へ落としてしまう前に。

「間違ってるって思う?」

「わかんないですけど……でも、せっかく好きなのに、幸せになれないのは、哀しいなって。幸せになって欲しいなって、そう思います。木実さんにも……初海さんにも」

 すでに幸せになってしまった人間が願う他者の幸せほど残酷なものはない。しかも牝鹿ちゃんはセンパイから幸福を奪い取った張本人だ。彼女の優しさに腹を立てるのはお門違いだろうけど、余計なお世話には違いなかった。あたしはぎりぎりのところで笑顔を繕う。

「ありがと。牝鹿ちゃんはさ、優しいよ」

 複雑そうな表情を浮かべる彼女を見て、なかば状況を察しているのがわかった。

 それでもあたしたちのことを放っておけないのだろう。

 だれもかれもが優しすぎて、そんな現実に反吐が出そうだった。

 優しさなんてなんの役にも立たないじゃない。

 バカみたいって思う。

 そんなふうに優しさを振りまいて。

 でも、それって自己満足じゃないの? みたいな。

「だけどね。あたしたちは幸せにはなれないんじゃないかな。あたしはセンパイのこと大好きだけど、センパイはあたしのこと、好きでもなんでもないみたいだしね。だからまあ、牝鹿ちゃんが望んでくれてるような幸せっつーのは、あたしたちとは無縁なんだよ、きっと」

 もしかしたら牝鹿ちゃんは、そんな関係やめてしまえと言いたかったのかもしれない。

 ――だけどさ、あたしからしてみればさ。

 たかが幸せのために、好きなひとを諦めるのって、おかしな話なんだよ。たとえ不幸のどん底に突き落とされたとしても、あたしはセンパイとともにありたいと願ってしまったんだよ。

 それに気づかせてくれたのは、目の前にいる牝鹿ちゃん自身なのに。

 どうしてこの子は、そんな顔であたしを見てるのだろう。

 どうしてあたしたちは、こんなふうにすれ違ってばかりなのだろう。

 どうしてあたしたちは、この子たちふたりみたいに、幸せになれないのだろう。

 やっぱりあたしにはわからなかった。

 この世にはわからないことばかりだ。

「でも牝鹿ちゃんがあたしのこと心配してくれてるんならお願いがあるんだけど――」

 ――あたしのその『お願い』を牝鹿ちゃんは訝しがっていたけど、渋々了承してくれた。これであたしたちは、みんなが願っているらしい幸福から、さらに遠のいたのだった。