真倉木実

 

 ひとりになって、あたしはいつも通り、茂みの陰で借りた本を枕にして寝転がった。愛用のシートは教室に置きっぱなしたけど、どうしても授業に復帰する気分にはなれなかった。

 ……センパイは心なしかすっきりした顔で校舎に戻ってったけど。

 それがせめてもの救いであり、それが救いであると思えることもまた救いだった。

「センパイのあんな顔、初めて見たな」

 涙を堪えて、感情を押し殺して、息をも止めて、懇願するような眼差しをしてた。

「あんな顔であんなこと言われて、断れる人間なんているのかよ」

 ホント、バカなひと。

 露悪趣味なのに自分が吐きだした毒に耐えきれなくなるなんて、自家中毒もいいところだ。そのおかげであたしにお鉢が回ってきたのだから、私は笑うことしかできないけど。

 ――どうせ姫様に惚気られたとか、そんなとこでしょ。

 センパイの心はとてつもなく脆い。

 そんなの彼女の横顔や発言を見てればイヤでもわかる。

 だから毒を撒き散らすことで周囲に牽制しようとしているのかもしれない。

 自分が撒いた種であれば、噛みつかれたとしても、納得できるだろうから。

 もしくは姫様みたいな、人畜無害な相手にちょっかいを出すか、あたしみたいな同類としか触れ合うことができない。だけど非常に残念なことに、あたしとセンパイは似た者同士のようでありながら肝心な部分が噛み合っていなかった。だからこそ成立した仲なのだろうけど。

 スマホが震えたので確認すると美鶴からのLINEだった。

『またサボりか』

 ――授業中にスマホいじくってるやつには言われたくねぇ。

『なんか吐きそうで気持ちわりー』『六時間目には戻るからさ』『たぶんだけど』

 とあたしは返答する。

 吐きそうなのも、六時間目までには戻りたいと思ってるのも、それが不確定なのも、すべてが事実だった。だから適当を言っているわけでは断じてない。しばらく画面を眺めていると、三つのメッセージに一気に既読がついた。それからすぐに返信が送られてくる。

『なんかあったのか?』『生理か』

 と美鶴。

『生理ではねぇよ』『ただのサボり』『なんか問題? 小テストとか?』

 とあたし。

『なんも問題はないんだけどな』『むしろなにかあったのはそっちなんじゃないのか?』『だって、ほんとにただのサボりだったら、木実はバカみたいな軽口叩くだろ』

 と美鶴。

 そんなことを言われて、自分でも、あー……と納得してしまう。

 確かにその通りだったから。

 ホントになんでもないんだったら、あたしはきっと『なんでもない』なんて言わない。

 あたしが返信に迷っていると『恋バナか?』と、メッセージが届き、それからクマが首を傾げながら『?』マークを浮上させているスタンプまでオマケについてくる。

 ……美鶴がスタンプを使うとか薄気味悪いな。

 マックで勢い良く立ちあがった彼女を思いだしてしまって笑いそうになる。

『どんだけ恋バナに興味津々なんだよ』『今は気分じゃないからまた今度な』

 とあたし。

『遠回しな肯定にしか受け取れないんだが』

 と美鶴。

『勝手にそう受け取ってくれよ』『あんたは授業に集中してろって』

 とあたし。

 べつに話すことに不都合があるわけでもない。

 ただLINEで話したい話題でもなかったってだけ。

 そのうち、またふたりで出かけたときにでも話せばいいだろう。

 スマホが何度か震えて、メッセージを知らせてきたけどあたしはそれを無視した。

 あたしとセンパイがつき合ったことを聞いたら美鶴はなんて言うだろう。

 つき合い始めたと表現していい関係なのか、微妙なところではあるんだけどさ。

 おめでとうとは、言ってくれないだろう。

 もし言ってくれたとしても、その祝福をあたし自身が素直に受け取れるはずもない。

 だったらそんな関係はやめろと止めるだろうか。

 そんなのはホントの恋愛じゃない。なんてことを言いながら。

 美鶴が『ホントの恋愛』なんて言葉を使っている姿を想像すると笑ってしまいそうになるけど、おとといの話しぶりを考えてみるに、恋愛においては純情なのかもしれなかった。

 やっぱり、私たちの関係性については伏せておいたほうがいいかもしれない。

 いちいちツッコまれて、説教とかされても面白くないし。

 そんなんで諦められる関係でもない。

 そうやって、あらためて頭の中で整理していると、そもそもあたしはセンパイのどこが好きなのかという疑問が湧いてくる。考えてみると、疑問しか浮かんでこない。

 牝鹿ちゃんに訳知り顔で語った通り、センパイは性格悪いし、趣味悪いし、口も悪い。

 パッと見いいところなんて顔くらいだ。

 理由はなかなか見つからないけど、作ることはできる。

 たぶんあたしは『だからこそ』好きなんだ。

 顔がいいのに性格が悪くて、なにより自分自身のことが好きじゃない雰囲気がひしひしと伝わってきて。そういう、強いようで弱いところを愛おしく感じてしまう。ああ、あたしの性癖はきっと、そういう弱さとか脆さとかに反応するようにできているのだろう。

 捨て置かれるものに同情して、愛でたくなってしまうみたいに。

 ……センパイは、自らが依存の対象としていた姫様に捨てられたからかな。

 そして捨てられたガラクタをあたしが拾いあげた。

 ……いや、まあ、そうなる前からあたしはセンパイのことを好いていたけど。

 だけどそう考えると存外、今の関係性も悪くないのかもしれない。

 だって『なるようにしてなった』という感じがするじゃないか。

 あたしは愛されることを望んでおらず、ただ、センパイの欠落を満たせればそれでいいのだから――なんて自分に言い聞かせようとしてみるけど、身体が拒否反応を起こして、胃の内容物がぐるりと渦巻きながら、食道を這い上がってくる心地がした。もういっそ、すべてを吐きだしてしまえれば楽だったけど、事後処理の面倒臭さが勝ってしまい、必死に堪えてしまう。

「あー……気持ちわるーい」

 あたしは身体を横向きにさせると、そっと瞼をおろした。

 なんだかひどく眠たかった。

 それに今寝ればきっと、五時間目が終わるころに目が覚めるだろうから。

 

 

 六時間目は退屈な現代文だった。

 二年生が始まって二週間ばかりがすぎたけれど、席替えはいまだに行われていない。

 真倉木実、出席番号が三四番のあたしは、運よく五列目の最後尾に席をかまえていた。

 ちなみに美鶴の名字は大早川だから、廊下側の席の最後尾だったりする。

 同じ最後尾でも、列が離れすぎていて私語ができる状況ではない。

 その肝心の美鶴は授業なんてそっちのけで居眠りに耽っていた。

 たぶん、五時間目も眠ってたんだと思う。なにせ、あたしが教室に戻ったタイミングでも寝てたし、号令のとき、かろうじて意識を取りもどし、申し訳程度に立っただけだから。

 授業だけはマジメに受けてる印象だったけど、美鶴も疲れているのだろうか。思い当たる節と言えば、美鶴の言っていた後輩だけれど、情報量が少なすぎてなにも判断できない。

 なにより今のあたしに他人を気遣えるだけの余裕があるのかと聞かれれば、答えはどう考えても『ノー』だった。あたしはあたしで、自分のことやセンパイのことを考えるので精一杯なのだから。

 教師が生徒をランダムに当ててゆき、朗読させてく姿を適当に眺めていたら、あっという間に六時間目が終わる。こんなふうに高校生活を無為にすごしてもいいのだろうか? と悩ましく思うが、そもそも一六歳のあたしに、代わりにできる有意義な時間のすごし方なんてわかるはずもないし、なによりも今さらすぎる疑問だったので、そんな思考は頭の隅に追いやった。

 今日はバイトがあるから寄り道できない。

 だけどもう少しだけ、中途半端に時間の余裕があるんだよなぁ、とか考えながらもたもたしていると、あたしの期待に応えるみたいに、スマホが震えたから驚きだった。

 安っぽい運命みたいなものを感じてしまいそうになる。

 あたしは慌ててスマホをつける。

『放課後は暇かしら』

 送り主はセンパイだった。つい数時間前に契約を結んだばかりだと言うのにずいぶんと積極的じゃないかと笑ってしまう。気づくとあたしの指先は返信の文面を打っていた。

『暇ですよー』『暇だからいつもどーり図書室行こうかなって考えてました』

 ――いや、暇じゃないんだって。

 自分の返信にツッコんでしまう。だけどメッセージの送信を取り消す前に既読がついてしまったから、送ってしまったものはしょうがないと開き直る。あたしは自分の図々しさに呆れながら、勤め先のマスターである神代那月にもメッセージを送ることにした。

『ごめん。那月、急用できちゃったから、今日休んでも大丈夫?』

 那月もちょうどスマホを弄くっていたのか、すぐに返信がくる。

『どうせ暇だし問題ないよ』

 那月はそう言ってくれるけど、これからの時間は学生がメインでやって来るから、そこそこ忙しくなるはずだ。それでもあの店は、あたしが高校に上がるまで那月がひとりで切り盛りしてたらしいから、あたしなんていてもいなくてもあまり関係はないのだとは思う。それでも、いきなり休みを入れてしまう罪悪感はあったから最低限のフォローは入れとく。

『ありがと』『この埋め合わせするから』

『シフトの埋め合わせは要らないから、今度お店に可愛い女の子でも連れて来て』

 那月の発言が店の売りあげに貢献しろという意味合いなのか、それとも那月好みの女の子を連れて来いという意味合いなのか、文字だけでは判然としなかった。だからと言って、聞き返してまで確かめたい事柄でもなかったから既読無視を決めこむ。

 だってちょうどよくセンパイからの返信が届いてたし。

 うん、これはしょうがないよね。

『そう』

 と送られてきて、一拍の間を置いて、

『じゃあ、どこかに出かけない?』

 と淡泊ながらセンパイにしてはずいぶんストレートな誘い文句だった。

『わかりました』『学校からまっすぐ行く感じですか?』

『そうね。いちいち帰宅するのも面倒でしょうし。それじゃあ、昇降口で待ってるわ』

 スマホをポケットにしまい、さっさと帰宅の準備を済ませてしまう。とは言っても、教材の大半は机の中に入れっぱだから、昼休みに図書館で借りた本くらいしか荷物はない。

 ……それにしてもセンパイとデートか。

 昨日までのあたしが妄想しては、決して現実にはならないだろうと諦めていた出来事だ。

 ……あのひと、絶対に行き先とか考えてないだろうなぁ。

 頭の中で行き先を整理しておいたほうがいいかもしれない。

 センパイが学校で固形物を食べてるのを見たことがないから、マックとかはやめといたほうが無難な気がする。あのひと、すごい痩せてるんだよね。たぶん軽い拒食症かなにかだと思うんだけど、食べた先から吐きもどしてしまいそうな不健康なイメージがセンパイにはつきまとってる。そもそもマックなんてデートスポットという点を踏まえてみるとそれだけで微妙だ。

 というかあたしもあたしで、デートでどんな場所に行くのが正解なんて、なんにも知らないと気づいてしまう。だから思い浮かぶのは、美鶴と行ったことのある場所くらいだ。

 ……無難にカラオケとかにしとけばいいのかね?

 センパイはカラオケとかイヤがりそうだけど、一回行ったらハマりそうな気もする。あのひとの歌声とか一回聞いてみたいし。そもそもセンパイが別の場所を考えてくれてるようならそっちに移行すればいいだけだ。あたしはあくまで保険をかけているにすぎないんだからと開き直る。んなわけであたしはカバンを肩にかけ、センパイが待ってる昇降口へと向かった。

「遅かったわね」

 掲示板の横に背中を預けていたセンパイが偉そうに言った。

 いやいや。遅いとか言われてもメッセージ届いてから三分もたってませんけど。

「これでも、言われてからけっこう早めに来たつもりなんすけどね」

「走ってきなさいよ」

「自分から呼びだしておいて横暴っすね!?

「恋人なのだからこれくらい当然でしょう?」

「それは恋人というより主従関係というんじゃ」

「私は亭主関白なのよ」

「亭主関白! つ、つーことは……せ、センパイが夫なんすね……この場合」

 じゃあ、あたしは妻なのか……と、ということはネコ……?

 あたしってばセンパイに責められちゃうの?

 センパイの指先があたしを弄んでいる姿を想像してしまい、顔が熱くなる。

「たかが冗談でなにを想像しているのよ。バカじゃないの?」

「センパイの冗談のセンスが悪いんすよ……この場合は……絶対」

「そんなことはどうだっていいのよ。そんなことより、早く行くわよ」

 センパイはあたしの返答を待たず下駄箱へと歩いてゆく。

 あたしもその背中を追おうとしたけれど、学年が違うのだから下駄箱の位置も違うのだと当然のことに気づく。はやる気持ちを抑えながら靴を履き替え、センパイのもとへと戻る。

 また文句を言われたら堪ったものではない。

「で、センパイ、どこに行くんですか?」

「…………………………………さあ?」

 沈思黙考の後、センパイはそうこぼした。

「『さあ』って。ひとのこと呼びだしておいて、なにも考えてなかったんすか?」

 しかも『早く行くわよ』とか言って、あたしのこと急かしてたからね、このひと。

 どこに行くつもりだったんだよ! 問い詰めたい気持ちにかられてしまう。

「そんなこと言ってもしょうがないじゃない。デートなんてしたことがないのだから」

 予想通りの展開に思わずため息が漏れた。

 いざというときのために、どこに行くのか考えておいてよかった。

「た、ため息つくことないじゃないの」

「ため息なんて、あたしはなにか喋るたびに、センパイにつかれてるんですけどね」

 昼休みどきのセンパイもだいぶおかしかったけど、今のセンパイも大概だ。

 どうやらだいぶ弱っているらしい。

 その療養にあたしが利用されているだけだとわかってはいるけど。

「じゃあ、カラオケにでも行きましょーか」

「か、カラオケ……?」

 異国の言葉でも口にするようなたどたどしい口調でそう言った。

 ……姫様も箱入りだけど、このひともだいぶ世間知らずなんだよなぁ。

 じつを言うとあたしも他人のことは言えないんだけどセンパイよりはマシだ。

「カラオケって言葉、聞いたことないですか?」

「か、カラオケくらい知ってるわよ! そうじゃなくって、行ったことがないだけ」

「苦手そうなら別の場所、考えますけど」

 明らかに困惑してるセンパイの顔を見ていると、当初の予定を変更して、ついそんな提案をしてしまう。どうやら自分で思っている以上に、あたしはセンパイに弱いらしかった。

「そうね……いえ、べつに苦手というわけではないのだけれど……」

「じゃあ一回くらいは行っときましょうよ。ね? 高校生にもなってカラオケに一回も行ったことないってのはちょっと恥ずかしいっすよ。近くに一軒あるんで、そこ行きましょ」

 ここで渋られると大変面倒だったので、なかば強引に行き先を決めてしまう。

 あたしは自転車だったけど、センパイは確かバスでの通学だったはずだ。ふたり乗りも考えたが、そこまでして急ぐ必要もないかと思い直し、歩いて向かうことにした。

 校門を出て、裸の木が並ぶ道を行く。

 四月中旬だというのに桜が咲く気配はない。

 札幌はいまだに肌寒さを残しているくらいだから、桜の花だって、その身をさらけ出したくはないのだろう。蕾のまま、ぎゅっと身を縮めておきたい気持ちもわからなくはない。

 昨年見た、夕陽に焼けた桜は絶品だったなあ、と目に焼きついて離れない景色を想う。それはもしかしたら、そこに付随する記憶のほうに引きずられているだけなのかもしれないが。それでも、そこに思い出が積み重ねられれば、積み重ねられるほど、桜はより一層、綺麗な色に染まってくれるような気がした。そうであって欲しいというただの願望かもしれないけど。

「桜、好きなの?」

 枝を仰いでいたあたしを見て、センパイが聞いてきた。

「好き……なんすかねぇ。散ってるとこを見るのは、あんま好きじゃないんだけど」

「……そこが桜の醍醐味ではないのかしら」

 少し呆れたような声色でセンパイが呟く。

「移ろいゆくものとか、しょぎょーむじょーとか、言いたいことはわかるんすけどね。やっぱり、朽ちてくばかりのもんを見てるだけってのは、むずむずしちゃうなあ、あたしは」

 たとえ散りゆく花を拾い上げたとしても、それは見るみるうちに汚れてしまうし。

 綺麗だったものが、どんどん汚くなってゆく様子を見るのは胸が締めつけられる。

「桜なんて、散ったところでまた来年も咲くものでしょうに」

「でもその桜は今年見た、綺麗だって、散らないで欲しいって願った桜とは別物なんすよ」

 まだ花も咲いてすらいないのに散り際の話をするとはなんとも気が早い。

 そんなセンパイは桜が好きなのだろうか? 気になったけど、短い並木道はすぐに終わりを告げ、尋ねるタイミングを失ってしまう。バス停でたむろする生徒たちを横目に、横断歩道を渡って左折する。五分ほど歩けば目的地のカラオケボックスに辿り着ける。

 そこは小規模ショッピングセンターといった趣の建物で、中には寿司屋や牛丼屋、美容室に古本屋、それにカラオケボックスがなんの脈絡もなく並んでる。あたしたちは一直線にカラオケへと向かう。近場だからか、ちらほらと同じ制服の姿が見受けられた。

 店員に会員カードやコース、機種やら、お決りの質問をされ、伝票を渡される。センパイは和風の内装が珍しいのか、周囲に感づかれない程度にきょろきょろしていた。

「センパイ、行きますよ」

 どこか上の空のセンパイを連れて、個室に入る。ふたりだということもあってか、室内はやけに手狭だ。許容人数は三人、ムリをして四人程度だろう。だからといって、隣に座るほどの狭さではなく、そのせいで余計に相手のことを意識してしまう気がした。

「あー、ドリンクバー行ってきますけど、センパイなにか飲みたいものとかあります?」

「なら水をお願いしようかしら」

「コーヒーとかもありますけど」

「……ココアとかもあるのかしら」

「あると思いますけど」

「じゃあ水じゃなくてココアをお願い」

「はーい」

 部屋を出て、来た通路を戻ってドリンクバーを目指す。

 歩きながら、自然と思考はセンパイのもとへと向かう。

 どうしてあんな他人行儀なんだ、と。

 なんかつき合うとか言い始める前より距離感開いてませんかね? なんつーか、互いが互いを妙な感じで意識しちゃってると言いますか、探り合いみたいな空気と言いますか。

 どばばばばばーとコップの縁から溢れでてきたジンジャーエールが右手を汚した。

 慌てて手を引くが、ボタンを押してた左手のほうを離せばよかったのだと、どばばばーと垂れ流される黄金色の液体をしばらく眺めてから気づいた。あたしはドリンクバーの横に置いてあった使い捨ての紙ナプキンで手とコップを拭いて、ココアを入れてから部屋に戻った。

 部屋に戻るとセンパイは選曲用のパネルとにらめっこしていた。

「木実……これでどうやって曲を入れるのかしら?」

 ……このひと、意外とノリノリだな。

 べつになにを求めてボックスに入ったわけじゃないんだけど……ノリノリだな。いいんですけどね? はい。そんなわけであたしはセンパイに選曲方法を一から説明したのだった。

 

 

 一時間弱がすぎて、ホントになんの会話もないまま歌い続けてたな、とちょっと反省する。ところどころで数往復程度の会話は行ったけど、逆に言えばそれだけだ。密度のある会話を必要としないのが、カラオケの利点だとは思うけど、一体一だと逆に気まずい感じがする。そしてそれだけの頻度で歌えば、予定していた二時間を待たず、満足してしまうものだ。あたしは若干歌いたりないきらいはあったけど、センパイの手前、セーブしておくことにした。

「案外、悪くないものね」

 軽い運動でも終えたあとみたいに、センパイの頬は桜色に上気していた。

 いつも青白い顔色をしている彼女にしては、珍しい血色の良さだと思う。

 なかなか好評だったようであたしは内心で笑っとく。

「ま、センパイくらいの歌唱力があれば、楽しくないはずないでしょ」

 普段からセンパイは落ちついた声色で話すから、どんな声で歌うのか想像しづらかった。そしてその歌声は、なんの意外性もなく、いつも通りのセンパイのままの、落ちついた雰囲気の歌声だった。響くというよりも沁みいるような、ヘタをすると取りこぼしてしまいそうになる声。大人数でわいわいとやるには向かないだろうけど、聞いていて退屈しない歌声だった。

 ……そう言えばカラオケのときの声って、あれしてるときの声と似てるって聞いたな。

 それを踏まえて先ほどまでの歌声を分析してみようとして、心臓に悪すぎてやめる。

 フッと息の抜けるような沈黙が満ち、隣の部屋から漏れる歌声が聞こえてくる。

 静寂が会話の必要性を問いかけてくる。

 センパイのほうを見やれど、向こうはこの沈黙に別の意味合いを見いだしているのか、それとも気にしていないのか、口を開こうとする気配すらない。あたしはとっくに空になっていたグラスを、なんの意味もなしに傾け、残っていたしずくで唇を湿らせた。

 沈黙のせいでいろいろなことを考えてしまう。

 まあ、おもに昼休み、センパイがあたしを呼びだした意味合いについて。

 だけどそれを直接問い質す度胸もなく、代わりに別の質問でお茶を濁す。

「センパイにとって、つき合うとか恋人とかって、いったいなんなんすかね」

「面倒臭い女子みたいなこと、聞いてくるのね」

「できれば都合のいい女の子でいたかったんすけど。センパイの考えがさっぱりだから、どんなふうにやってれば都合がいいのかとか、ぜんぜんわかんないんすよ」

「べつになにを期待したというわけではないのだけれど――」

 センパイは冷たい眼差しであたしのことを見つめた。

 おなかの奧――内蔵から熱という熱が奪われた心地がした。

「――あなたがわかりやすさを求めるのであれば、話は別なのでしょうね」

 センパイは立ち上がり、あたしのもとへと歩いてきて、肩を押す。

 あたしは上体を容易く倒されてしまい、背中をソファに預ける形になる。

 センパイの黒い髪が流れてきて、あたしの顔や制服にかかる。センパイはアルコールでていねいに滅菌されているイメージだったけど、その匂いは優しげで甘い石鹸の匂いだった。

 柔らかくて優しいのに、ちりちりと理性を焦がすような香り。

 揺れる睫毛の向こう、薄暗くなった瞳があたしを見つめてた。

 ゾッとするほど冷たい眼差しだった。

「木実は私の言葉を覚えているかしら」

「センパイの言葉なら一通り覚えてるつもりすけど、どれのことでしょう」

「私はあなたに、私のことなんて好きになって欲しくない。嫌っていてもらいたかった」

「それってどうしてなんすか? あたしはだれかから好かれるのって嬉しいっすけどね」

 自分の常識が他人にも当てはまるとは思わない。

 だけど心の底から他人に嫌われたいと願う人間がいるとも思えなかった。

 それがなんらかの感情の裏返しであり、真意があるように思えてならなかった。

 ――だってセンパイは今にも泣きだしてしまいそうな表情を浮かべていたから。

「私は嬉しくなんてないのよ」

 肩に乗った手に力がこもる。襲われそうだな――などと他人事のように思う。

 先ほど冗談めかしながら考えた攻めや受けという妄想が現実味を帯び始めていた。

「……求められてんすかね?」

「………………………………」

「……発情してるんですか? もしかして、生理前だったりします?」

「だれがあなたなんかに発情するのよ。ただ汚してみたくなっただけ」

「傷物にされるんすかね、あたしは」

「そうね」

「でもセンパイ、それで傷つくのは、いったいだれなんすかね」

 少なくともあたしはセンパイの手で汚されたところで傷ついたりはしない。気まぐれで初めてを奪われてしまうのは考えものだけど。でも完全になしってわけでもない。

 可もなく不可もなくという感じ。あとはまあ。

 場所には気をつかって欲しかったってくらい。

 ……カラオケで押し倒されるって、考えなしの女子高生じゃねぇんだから。

 現状を表すのに『考えなしの女子高生』ほど適切なワードもないとは思うけど。

 だけどセンパイにとってはどうなのだろう。

 詳しいことはわからないけど、考えれば考えるほど、彼女にとってこの状況は『なし』なんじゃないかなって思えてしまう。たぶん彼女は、自分を許せないだろうなって。

「バカじゃないの」

 口ではそう言いながらもセンパイの手はとまる。

 自分の行動を頭の中で反芻させているのだろう。

 それだけで体が止まってしまったのだとしたらセンパイは可愛すぎる。

「それとも、あたしがセンパイにしてあげましょうか?」

 挑発されているとでも感じたのだろうか。

 センパイが歯を食いしばるのがわかった。

「そーいえば、放送部って最近、毎日活動してるらしいっすね。恋人同士があんな密室で、毎日すごしてるんすよ。年中、今のセンパイみたいに、発情しちゃうんじゃないっすか?」

 あの姫様が他人に体をゆだねてる場面なんて想像できないし、牝鹿ちゃんも牝鹿ちゃんで間違いなく奥手でヘタレだから、そういう関係に発展することはしばらくなさそうだけど。

 そういう場面を想像することは、そこまで難しいことじゃない。

 センパイならなおさらだろう。

「姫様の甘い声なんて、想像しただけでセンパイ、果てちゃうんじゃないかな? あはっ。でも案外、姫様のほうが攻めちゃうのかも。そこは先輩としての威厳もありますからねぇ」

「黙って」

 震える声が嗜虐心をくすぐってくる。

 自分にこんなほの暗い感情があったのかと驚きつつも口はとまってはくれなかった。

「どうします? 姫様がセンパイに『ねぇ初海ちゃん、どうやったら私……心塚さんのこと満足させてあげられるかな……? 私にやり方、教えて欲しいな』とか聞いてきたら」

「黙ってと言ってるでしょう!」

「……そんなに言うなら、黙らせてみてくださいよ」

「言われずともそのつもりだわ」

 センパイの指先があたしの太股のなかばに触れる。

 血の気の引いた、冷たい指先がつーっと表面を這い、付け根へと伸びてゆく。

 あたしはその冷たさを、無感動に受け入れていた。

 ――冷たくて気持ちいい。

 ウソみたいに痩せ細っていて、まるでひしやげた氷柱つららのようで、ひとの指じゃないみたいだ。

 あたしの体温で溶けてしまわないか、心配になってしまう。

「……ん」

 こそばゆさのせいで吐息が漏れる。

 堪えようとしてしまったせいで、かえって変な声が漏れた。

 今の声を聞いて、センパイはなにを感じたのだろうかと、そんなことが気にかかる。

 彼女は手探りであたしの肌を撫で続けた。自分のでも試したことがないんじゃないかってくらいセンパイの指先は覚束なくて、その震える指先が、あたしをさらに興奮させた。

 そんな優しい指先でいったいなにを傷つけようとしてるの?

 やっぱり逆にあたしがセンパイのことを犯してしまおうか。

 そんな考えが頭をよぎる。

 センパイが慰めを欲しているのであれば、本来はそちらがただしい構図なのだろう。

 なにが優しさなのか、よくわからなくなってきた。

 こうしてセンパイの玩具になってあげるべきなのか。

 イヤがる彼女を無理やり犯してあげるべきだったのか。

 それとも『こんな関係は間違ってる』と拒絶してあげるべきだったのか。

 ――ただしい選択肢は拒絶だろう。

 だけどただしさは優しさではなく、残酷さと強さが原材料で成りたっている。あたしとセンパイ、そのどちらも弱い存在だから、拒絶なんて選び取れるはずもなかった。

 センパイは傷つきたくないだけなのかな? とそう思う。

 だれかに傷つけられるくらいなら、自分で自分の体に傷をつける。

 その行動が自己防衛として機能しているのか、バカなあたしにはわからない。

 そしてなにより、あたしの予想が当たっているのかどうかも不確かだ。だってこれはあたしの妄想かもしれない。だけどそう考えたほうがあたしは救われる。浅ましいけど、そうすることでセンパイといられるのなら、あたしはいくらでもバカになってやろう。

 指先が鳴らす水の音に耳を傾けながら、どちらが満足するのが先か――

 ――そして、どちらが音を上げるのが先かを、あたしは薄暗がりの中で考えていた。