平楽初海
静謐な――というより、単に利用客が少ないだけの図書室に、その放送はやけに喧しく反響していた。少なくとも私にはそのように感じられた。それはもしかしたら、ひとが少なかったからというよりも、私の精神状態を反映していたからなのかもしれないけれど。
――紗和のこんな声を聞いたのは初めてね。
紗和とは決して短くないつき合いのつもりだった。だけどたった一回の放送を聞かされただけで、自分は彼女をなにも知らず、理解もしていなかったのだと思い知らされた。
それこそ私が知っていたのは外向きの笑顔と声であり、それなりに親しくなった相手であれば、だれでも知ることのできた表面上のものにすぎなかったのだ。紗和にはそもそも知り合いが少ないから、自分が特別親しい人間なのだと勘違いしてしまっていただけ。
先ほどの声を聞いて、その事実を、ありありと思い知らされた。
先の放送の声は、彼女の綺麗をたくさん詰めこんで濃縮させたような、とても魅力的なものだった。そんな声が私以外の人間に向けられていたことが、とても不愉快だった。
紗和に比べて私はとても薄汚れた存在だ。
自分自身に嫌気がさしてしまうほどに。
――あんな放送、友人にけしかけられたからって、普通やるものかしら。
だけどそれは私への信頼ではなく心塚という後輩への親愛の表れなのだ。
そんなことを考えると、胸にどす黒い毒が蔓延してゆく。
気分が悪くて、嘔吐してしまいそうだ。
紗和のトンデモな行動につき合ってくれるなんて、その後輩は心優しい性格をしているのだろう。私とは比較にならないくらい――私となんて比べることすらおこがましいくらいに。
「……イヤだわ」
私は紗和にどうなって欲しかったのだろうと自問する。
私は彼女をずっと鳥籠に閉じこめておきたかったのか。
そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。
ひとつだけ確かなのは、私と紗和の聖域だった放送室が侵され、奪われてしまったことが面白くなかったという点。だからどうにかしてふたりの仲を邪魔してやりたかった。
そんな私の思惑は、想像以上に馬鹿正直だった紗和と、ムダに懐の広かった心塚さんのせいで瓦解して、むしろ、ふたりの間柄を深める結果になってしまったわけだけれど。
お
あの瞬間、私は紗和に自分が彼女を閉じこめていた魔女であったことを曝露しかけた。
だけどだれよりも臆病な私は胸の内を打ち明けることもできなかった。それだけではなく、まるで自分が彼女の親友であるかのような顔をして、助言じみたものをしてしまったのだ。
ただ紗和に嫌われたくない一心でだ。
そんな私に、彼女は感謝してくれていることだろう。
それがなによりも気に入らなかった。
私の行動はすべて利己的なものだったのに、それを感謝されるだなんて惨めにもほどがある。それが私に与えられた罰なのだと言われても、素直に従えそうもなかった。
「初海センパイってばすっごい悪い顔してますけど、どうかしたんすか?」
そんな私にかけられたのは、慣れ親しんだ軽薄な声だった。
視線を向けると、今日は委員ではなく利用者として図書室を訪れていた後輩、真倉木実の姿があった。彼女は猫のように気まぐれな笑みを浮かべながら、じろじろと私を見つめていた。
木実の髪はクリームをふんだんに含んでいそうな栗色をしている。
陽が沈んで、少しだけ薄暗い図書室の中、木実の栗色は余計に色濃く見えた。
図書委員なのに脱色とはこれいかに。
まあ、私も髪の色自体は黒だけれど、図書委員っぽいのかと聞かれると
確かに私が
仕事が楽になる分にはかまわないから、自分を曲げようとは思わなかった。
木実はカウンターの向こうにしゃがみ、天板にあごを乗せて私を見あげていた。
「さっきの放送に嫌気がさしただけよ」
「あー、センパイのくわだて、大失敗しちゃいましたからねぇ。だから始めから押し倒しちゃえばよかったんすよ。キスのひとつでもしておけば、あんな女、イチコロなんすから」
利用者がいないのをいいことに、木実はボリュームを落とさずに明け透けに語る。
「私と紗和はそういう関係じゃないから」
私はべつに紗和に恋慕を抱いていたわけではない。
「そういうとか、ああいうとか、こういうとかバカらしくないっすか? 理由なんてなんだっていいんすよ。一緒にいたいとか話してて楽しいとか……だれにも取られたくないとかでも」
木実は私の心中を見透かしたように言う。
だれにも取られたくないという独占欲だけで動けるほど単純ならどれだけ良かったか。
けれど私は人一倍面倒臭い人間だ。
プライドも自尊心も高いほうだと自負している。そしてひとは『自分は面倒な人間だ』と自覚してしまうと、余計に面倒な存在になってしまうのではなかろうか。
自分を見おろし続ける終わらない俯瞰に陥って、キリがなくなってしまうから。
「それで後悔してんだから世話ねぇっすよ。だったら始めから手段なんて選ぶべきじゃなかった。それとも? 最後は自分のところに戻ってくるだろう――みたいなの考えてました?」
目の前が赤くなって、気づくと私は立ちあがり、木実のことを見おろしていた。
赤色のフィルターを通して木実を見る。
その赤色は怒りの色なのか、烈火の色なのか、それとも単なる血潮の色なのか。
木実は私を挑発するように見あげ、どぅどぅどぅとなだめているのか煽っているのかわからない言葉を呟きながら、一旦座れとでも言うように両手で私を押すような仕草をする。
「センパイってホント性格悪いですよね。それに趣味も最悪」
半ギレの私にそんなことを言ってのける図太さには呆れるしかない。そんな生易しい挑発の言葉が、逆に私の心を鎮めてくれたのは確かだけど、当然、素直に感謝はできない。
「言われなくてもわかってるわよ。性格の悪さは木実も相当だと思うけれど」
それに趣味も最悪……か。
怒りの勢いと矛先を失ってしまった私は、崩れ落ちるようにして椅子にかけ直した。
「あたしはホラ、性格の悪さとか隠そうとしてませんし」
「包み隠さなければいいというものではないと思うけれど」
私みたいに腹の内がまっ黒で、自分ですら直視できない有様であるよりは、自他ともに認めているほうがマシなのかもしれない。どちらも周りからしてみればいい迷惑だろうが。
「あたしね。初海センパイのそういうところ、けっこうこと好きなんすよ」
「私は私のこういうところも、あなたのそういうところも好きじゃないわ」
「そっ。じゃあ、あたしが好きにさせたげましょうか?」
「なに、バカなこと言って――」
――私の言葉はなかば強制的に途切れさせられた。
唇で口をふさがれるという、最悪の方法で、だ。
「……いったいなにをしているのかしら?」
「んー……っと、マーキングですかね」
ぺろ――と、唇に付着したなにかを舐め取るように、木実は紅い舌で口唇を撫でた。
「ばっかじゃないの」
言葉と一緒にツバでも吐き捨てたくなったが、図書室なのでさすがに自重する。
ただ無意識的に舌が唇を舐めとって、口に唾液が溜まって、行き場のなくしたそれを、仕方なく飲みこんで――そんなことをしていると、余計に木実の味を意識してしまう。
普通であれば無味無臭であるはずのそれを、緊張のせいで必要以上に味わってしまう。
なぜか私は、熟し切らないイチゴ――その固さと、強すぎる酸味を思いだしていた。
「ぜんぜん揺らいでくれませんね? ちょっと自信あったんすけど」
私の喉が鳴ったことには気づいていないのか、木実はいつも通りの口調で言った。
「あなたのキスは軽すぎるのよ」
苦し紛れに吐き捨てた言葉は、自分でもなにが言いたいのか判然としなかった。
「どれだけ軽くても、本気は本気でしたけどね」
木実の声は、夕陽と空気に溶けるみたいにして小さく拡散してゆく。
なにかをごまかすように木実は頬を掻いた。私は黙ってそんな彼女を睨む。
そうすると、彼女は途端にバツの悪そうな表情を浮かべてしまうのである。
そんな顔をするくらいなら、始めからするなと、吐き捨ててやりたかった。
「……ホントすよ?」
「なに、影響受けてるのよ」
「あんなの聞かされたら正直にならざるを得ませんよ。けっこうあたし、影響受けやすいほうですし。それに、あたしは先輩のこと……だれにも取られたくないですから」
妙に湿っぽく呟くものだから、私は今度こそ、返すべき言葉を見つけられない。
同時に――そういうものかしらと胸中で独りごちる。
先ほどの紗和は本当にいい声をしていた。
聞いた人間の胸の垣根を容易く崩すほど。
だから私も、知らず知らずのうちに悪い影響を受けているのかもしれなかった。
「………………」
私の沈黙にたいした意味などなく、強いて言えば、ただ考え事に耽っていただけなのだけれど、タイミングが悪かったらしい。木実が少し困惑したような顔で私を見つめていた。
「その……謝ったら許してくれたりしますか?」
「べつに怒ってなんかない。それに謝るのは、卑怯な気がするわ」
「怒ってないんすか? じゃあ意外と喜んでくれてたりします?」
「怒ってないし、喜んでもない。ただ蚊に刺された程度の気持ち」
「うはぁ。乙女のキスを虫刺されと同レベルに扱うとか……さすがにヘコみますけどぉ」
言いながら眉をハの字に曲げてみせる。
妙なところで器用だなと感心する。
それが演技だとわかったのは堪えきれなくなったように崩れた彼女の表情のおかげだった。
「でもでもセンパイの悪そうな顔がちょっと和らいだんで、木実的には有りでしたかね」
「一応言っておくけど、初海的にはなしだったからね」
と、そんな切り返しをしている時点で、すでに木実の手のひらの上なのだと苦笑する。
しかし悪そうな顔ってなんだと、今さらながら思う。先ほど、心の中で自身を魔女にたとえたりしたけれど、それはあくまで行動への比喩であって、容姿への嫌味ではなかったのに。
どうやら客観的に見ても、私の雰囲気はそういう類のものらしい。
「センパイ、あたしがセンパイのこと好きなの、気づいてましたよね」
「薄々は。木実が図書委員って時点で、おかしいなとは思ってたし」
そもそもこの子は、そこを隠そうともしていなかった気もするし。
「だけど自意識過剰だって自分に言い聞かせてたわ。迷惑だったし」
「迷惑って……やっぱりセンパイはひどいですねぇ」
木実は傷ついたことを示すように唇をとがらせる。
それが演技なのか本心なのか、今の私には推察する余裕もなかった。
「ちなみに……迷惑って言うのは、だれかに、好かれるのがですか?」
「それもあるけれど……そうじゃなくて――」
――そうじゃなくて、私は愛される資格なんてない人間だから。
私は自分へ向けられる好意が穢らわしいものに感じられる。それと同時に好意を向けてくれた相手も少しずつ汚れていってしまうような気がして、罪悪感で押し潰されそうになる。
幼い頃からそうした想いは強かったけど、思春期に入ったあたりから顕著になり始めた。
だから私は他者を排斥するようになり、その思惑通り、私は次第に孤立していった。
だけど孤独であり続けることができるほど私は強い存在ではなかったから、私は紗和を利用するようになった。彼女は好き嫌いとは別の次元で私に依存してくれたから。
私は紗和とふたりであり続けるため、放送室という空間を鳥籠に仕立てあげた。
誤算だったのは紗和を鳥籠から解放する主人公が現れてしまったこと。そして――
――嫌われなければいけない私を、それでも好きだと宣うバカ女が現れたことだった。