心塚牝鹿

 

 足の痛みは相変わらず引いてはくれず、むしろ勢いを強めて私に襲いかかってきていた。

 無理やり立ち上がって歩くこともできないではないが、すでに精神やら気力やらをすり減らしている状態なので、そこまで自分を叱咤激励するだけの余裕は残されていなかった。

 いっそ木実さんの言っていた見回り教師にでも見つかってしまいたかった。そうすれば保健室には連れていってくれるだろうし、状況的に非にも問われないような気がしたから。

 ……イジメの心配はされるかもしれないけどさ。

 だけど世の中、大抵の物事が望みの裏目に出るものだ。

 私の期待を裏切って、屋上に教師が現れることはなかった。

 放課後になれば、再び木実さんがきてくれるんじゃないかと考えたりもしたけど、それは希望的観測だったらしい。六時間目が終わって、ショートホームルームも終わって、細かなチャイムが何度も鳴って放課後になったけど、彼女が来てくれる気配はなかった。

 そんな私を横目に、学校は今までとは異なる喧噪に満たされていた。

 その喧しさを、学校に取り憑いた幽霊にでもなった気分で私は聞き流していた。

 ……こういう日常とか、喧噪に、あらためて耳を傾ける機会なんてなかったな。

 小学校のころは当然騒ぐ側の人間だったし、中学のころは部活に邁進していたし、高校に入ってからも落ちつく暇はなかった。だからこうして他人事みたいに、自分の所属する集団を感じたことってなかった。そのせいか、少しだけ落ちつかない気持ちになってくる。

 自分とは関係のないところで、世界が回るのを見せつけられている感覚。

 まるで鳥籠の中から広々とした世界を覗き見ているような気持ちだった。

「先輩、なにしてるのかな」

 普通に授業を受けて、普通に帰宅の準備をして、さっさと帰ってしまったのだろうか。そんなことはないと思いたいけど、確かめる術がないせいで妄想は無限の広がりを見せる。

 ……今は先輩のこと考えてもつらくなるだけだよね

 そうと気づいた私は頭の中の先輩から意識を引き剥がし、惨憺たる現状へと視線を向ける。

 高校の施錠時間っていつなんだろ。

 下校時間が確か七時ごろだったはずだから、たぶん、そのあたりに教師やら生徒会やらがぐるぐると学校を見回るのだろう。そのときになるまで、ここでふて寝でもしていようかと考える。それも悪くない。今の精神状態に比べれば、悪いことなんてなにひとつないとすら感じられた。ベンチに横になると、底になった背中に疲労が集まってゆくような感覚になる。

 これが柔らかいベッドとなら、そこからさらに布団へと、疲労が吸いこまれてゆくんだろうけど。さすがに木製のベンチにそこまでを求めるのはムリがあった。

 横になれるだけマシだと自分に言い聞かせ、言い聞かせているうちに意識が落ちた。

 身心が限界に達していたんだろう。

 とくに心のほうが……だろうけど。

 

 

 チャイムが鳴って、目が覚める。

 頭の奧に眠りがこびりついているようで、それを引き剥がすのに時間がかかった。

「……今、何時」

 呻きながらスマホを確認すると五時きっかりだ。

 体を起こそうとすると節々が痛む。

 固いベンチで長時間横になっていたからだろう。

 動かすたびに腰やら肩やら肘が痛んで、どうしてこんな場所で寝たんだと自己嫌悪に襲われる。それから四時間前の出来事を思いだして、別の自己嫌悪にかられた。

 やはり眠った程度では哀しみも溶けてはくれないらしい。

 これから、もっと長い時間をかけて、日常の中に薄めてゆくしかないのだろう。だけど私には、この哀しみの色合いを、思い出として楽しめる日がくるとは到底とうてい思えなかった。

 寝惚けと悲哀に溺れる私に追い打ちをかけるように、ぴんぽんぱーんという音が響いた。

 その音に反応して体がぴくりと震えてしまう。

 だってそれは放送の開始を知らせる合図だったから。

 ……どうせ教師の呼びだしに決まってる。

 とは思うのだが、私は無意識のうちに耳をそばだて、放送に集中しようとしていた。

 だがそんな私をおちょくるようにスピーカーからはなにも流れてこない。誤操作だったのだろうか。と言うか、それ以外の可能性なんて考えられない。なんとも言えない気持ちになりながらも、どこかで希望を捨てきれない私がいて、耳に意識が集中してしまう。

 そんなとき、スピーカーから、かすかな息遣いが聞こえた気がした。

 浅い呼吸をくり返しのような――心を落ちつかせる深呼吸のような。

 すぅ……はぁ……と私にはそんな音が聞こえたような気がしたのだ。

『…………………………………………』

 しばらく、焦らすような沈黙が積み重ねられた。

 スピーカーから聞こえるかすかな呼吸音に気づいてる人間は校内にひとりもいないはずだ。

 だって校内に残っている生徒は、すぐに放送への興味を失って、自分たちの活動を再開させていることだろうから。普通の放送にすら気づかないことがあるくらいなのだから、それも当然の反応だろう。私だって今の立場でなければ、同じような反応をしていたはずだ。

 心臓が早鐘を打つ。

 合格発表を確認するときのような緊張で、全身の筋肉が強張っていた。

 そんな私の期待に応えるようにスピーカーが震えた。

『せ、生徒の……呼びだしをします。生徒の呼びだしを、します――』

 スピーカーから聞こえてきたのは、やはり先輩の声だった。

 だけどその放送にはなんだか違和感があった。

『先ほど……わ、私に告白をした生徒は、まだ、校内に残っていたら、あなたが告白をした場所まで、戻ってきてください。いや……戻ってきて……欲しいです』

 えっ――と口から驚きの声が漏れ、全身から冷や汗めいたものが溢れだした。