緒輪島紗和
放送室に取り残された私は、呆然と立ち尽くしていた。
早く心塚さんを追うべきだ。
それがただしい行動なのは理解している。だけど恐怖に竦んだ足は動いてくれないし、仮に動きだせたとしても、元バスケ部の彼女に、運動音痴の私が追いつけるはずもなかった。
そんな言い訳をしてしまう自分が情けない。
「んっと……ど、どうしよう」
放送室を見回すと、心塚さんの荷物や上靴が起きっぱなしになっていた。
それを教室に届けてあげるべきだろうか。
だけどこれが今のところ唯一、私と彼女を繋ぐものであるように思えた。だってここで待ってれば、彼女はこの荷物を取りに、放送室に戻ってきてくれるかもしれないから。
だけど私は彼女に会ってどうするつもりなのだろう。
あんなふうに心塚さんの好意を拒絶してしまった私が今さら会ってなにをするの?
謝るのか。
謝ったって、彼女は許してくれないだろう。
いやいやいや。そもそも許しを求めること自体、間違ってるはずだ。確かに私は彼女を傷つけたかもしれないけど、それは謝っってどうにかなる問題ではない。
謝ったところで、さらに彼女を傷つける結果にしかならないはずだ。
……でも私、このままじゃイヤだ。
私が悶々と思い悩んでいるあいだに、時計の針は着々と歩みを進めていたらしい。昼休みの終了を告げるチャイムが大仰に鳴り響き、驚いた私は肩をびくりと上下に揺らす。
教室に戻らねば。
そう思うんだけど、依然として足は動きだしてはくれない。授業をサボってしまうことへの罪悪感や恐怖は強かったけど、それ以上に心塚さんを失ってしまうことが恐ろしかった。
結局、私はぼろぼろのパイプ椅子に座り直すことを選んだ。
べつに皆勤しているわけでもない。体は弱いほうだからそれなりに休みもかさんでる。今さら一回や二回の休みが加わったところで、たいした違いなんてないだろうから。
それより今は、ここで心塚さんを待っていたかった。
ただ最低限、やるべきことはやっておこう。そう思い初海ちゃんに、
『調子悪い、保健室で休む。心配しないで』
とだけメールを送っておいた。彼女以外に私を心配してくれる人間はいないし、教師がツッコミを入れてきたとしても、器用な彼女が窮地を切り抜けてくれるだろう。
そうしてやるべきことを済ませて、待つだけの段階になると、落ちついて考えるだけの余裕が心に生まれてきた。私の知能なんてたかが知れているから、落ちついたところで、どれだけの意味があるかなんてわからないけど、それでも考えないよりはマシなはずだから。
とりあえず私は、今までの自分の行動を振り返ってみることにした。
心塚さんの髪の毛をわしゃわしゃして。
心塚さんの頭を強く抱きしめて。
心塚さんの手をにぎにぎして。
……うわぁ。
今まで意識してこなかったのが不思議なくらい、私は彼女にべたべたしていた。
彼女がどんな気持ちで私からのスキンシップを受けとめていたのか、考えただけで胸がしめつけられる。べつに彼女の好意がイヤだとかそういうわけではなく、彼女に触れるたびに、彼女はそこに別の意味合いを見いだし、やきもきしてたんだろうなと思うと、申し訳ない気持ちになってきて、ごめんねと謝りたくなって、とにかく心がつらかった。
だけど不思議なのが、私の中をどれだけ探してみても、嫌悪感が存在しないこと。同性の後輩に好きだと、恋をしていると告白されて、驚きはしたものの、それだけだった。
……普通、そういうのって、イヤだって思うものじゃないの?
周囲の人びとは、同性同士の恋愛を気持ち悪がったり、ネタにしていたり、バカにしたりしていた。だから自然と私も『そういうもの』なのだと思っていた。だけどいざ自分が告白されてみると、そこにあるのは、息苦しくなるような、まっすぐで熱っぽい感情だけ。
自分がなにを好きになるのか、それをあらためて考えたことなんてなかった。
私はそういうきらきらしたものから、意図的に目を逸らして生きてきたから。
直視してしまうと、あまりの眩しさに、吐き気すら覚えてしまいそうだった。
だけど彼女に告白されてしまった今、私は『自分の好き』と向き合わざるを得なくなってしまう。私はいったいなにが好きで、心塚さんのことをどう思っているのだろう。
ちょうどそのとき、放送室の扉が開かれた。
――もしかして見回りの先生!?
私は慌てて扉へと視線を向ける。
だけど私の不安に反して、そこに立っていたのは制服姿の少女だった。
「は、初海ちゃん、どうしてここに……?」
初海ちゃんは不機嫌そうに、ぎろりと私を睨んだ。
「どうしたの? はこちらのセリフ。あんな放送しといて調子が悪いなんてバカじゃないの」
あんな放送なんて言われるほど、酷い放送をしていたのだろうか。自分の放送を客観的に聞いたことがないし、今回も自分がどんなふうに喋ってたかなんて覚えていない。だけど心塚さんの反応を思いだすかぎり、とくに問題がありそうには思えなかったんだけど。
私の対応からなにかを読み取ったのか、初海ちゃんはため息をこぼした。
「友だちのよしみで聞いといてあげるけど……紗和はどうして泣いてるのかしら」
「泣いてる……? 私が?」
頬に指先を這わせてみると、涙の筋に触れて驚いてしまう。
それだけではなく、乾いた塩のようなものが、かさかさとこぼれ落ちた。
どうやら私は心塚さんが放送室を出ていってから泣き通していたらしい。
「自分の状況すら把握できてないんじゃない。とりあえず落ち着きなさい」
自分ではだいぶ落ち着いてたつもりだったけど、どうやら傍から見ると私は、けっこうひどい有様だったらしい。そんな私の反応に初海ちゃんは顔をしかめていた。
「で、なにがあったのよ」
問われ、私は反射的に口を噤んでしまう。
この話題を吹聴していいのかわからなかったから。
もちろん初海ちゃんは信用できる相手には違いない。それでも、
……心塚さんがどう感じるかな。
という部分を考えてしまうと、どうしても口を開く気にはなれなかったのだ。
「それは私にも話せないようなことなの?」
「………………………………」
「そう。
静かに呟くと、初海ちゃんは長期戦を決めこんだのか、先ほどまで心塚さんが座っていたパイプ椅子に無遠慮に腰をおろした。いや、一週間前まで、そこは初海ちゃんの特等席のようなものだったのだから、こういう言い方をすると、ちょっと違和感があるんだけど。
だけどそこで気づいた。
その席はもう、私の中で心塚さんの席になってしまっているんだって。
「私がこの椅子に座るのが気にくわないのかしら?」
「えっ!? あ、いやっ……そんなわけ、ないない!」
だけど心が弱い私は初海ちゃんにそうと宣言はできなかった。
私の反応から彼女は一から十まで察してしまったらしいけど。
「イヤだろうがなんだろうが私はかまわず座り続け――って、なによ、こんなときに」
彼女の言葉を遮って、無機質な電子音がポケットから響いた。
初海ちゃんは携帯を取り出すと、露骨に顔をしかめて、内容を確かめることもせず、ポケットに入れ直してしまう。しかしどうやら、またすぐに連絡があったらしい。
初海ちゃんはため息をこぼすと、また携帯を取りだして、今度は返信を打ち始める。
送信し終えると彼女はすぐに携帯をしまおうとするけど、すごい早さで返信がきたらしく、軽く表情を引き攣らせていた。それから不安そうな表情でこちらを見やった。
「メールに集中、していいよ……私も、考えとか、整理する時間、欲しいし」
「そう。わかったわ」
とだけ返して、初海ちゃんはしばらくメールをぽちぽちやっていた。
三〇分くらいはそうしていたと思う。そのあいだ、私は沈黙に飽きることもなく、苦悩という沼につかっていた。その沼は私の足を引いて、この体はずぶずぶと深みへと沈んでゆく。最終的に口や鼻まで苦悩に覆い尽くされ、うまく息も吸えず、喘ぐような呼吸をくり返してた。
「ひとりで苦しげに口をぱくぱくしてるのはどうしてなのかしら」
ため息とともに呟きながら、初海ちゃんは私の頭をぽんと叩く。
それがきっかけとなって、浮き輪でも掴めたように、私の意識は現実へと急浮上した。
「あ、初海ちゃん、め、メールはもういいの?」
「さっき終わったわ。私がメールしているあいだになにがあったのよ」
「えっと……いろいろ悩んでたら、わけがわからなくなって、息苦しくなってきて」
「紗和がそんなに必死になって考えたり、悩んだりしてるなんて珍しいわね。珍しい……と言うか、もしかして初めてなんじゃないのかしら。だけどその理由を教えてはくれないのよね」
「……ごめん」
だけどこれは私だけの問題ではなく、心塚さんの問題でもあるから。
私の独断でどうにかできる問題ではない。
ぎゅっと口を噤んだ私を見て、初海ちゃんは疲れた大人みたいに指で
「紗和。後輩に告白でもされたの?」
「へぇっ!?」
まさかピンポイントで言い当てられるとは思ってもみなかったから、驚きとともに全身が跳ねる。だけどどうしてバレてしまったのだろう。例の読心術だろうか。それとも私の顔がわかりやすすぎるだけ? 慌てて両手で顔を隠したりしてみるけど、すべて手遅れだった。
「……なにやってるのよ」
と言うか、これもまた現実逃避に違いない。
観念した私は、恐る恐る、初海ちゃんの顔を見据えた。
「そんなことだろうとは思ってたけど、本当、ろくでもない話題だったわね」
初海ちゃんは私の決意と勇気をまっ向から切り裂いてきた。
思わず怯むけど、ここで負けちゃダメだと、私は心に鞭を打って口を開く。
「ろ、ろくでもないなんて――」
――酷い。
そう言おうとした。だけど、私に初海ちゃんの言葉を否定する資格がないことに気づく。だって心塚さんの好意をろくでもないものにしてしまったのは、他ならぬ私なんだから。
意気消沈してしまった私への追い討ちは、初海ちゃんのため息だった。
「紗和に好意を寄せてしまったその子に、私は心底同情するわ」
「どっ、どうしてなんだろ……心塚さんは、どうして、私なんかを好きになったのかな」
心塚さんなら、もっと素敵なひとと恋ができると思うのに。彼女と釣り合うのは、明るくて、華やかで、背も高くて、ただ並んでいるだけで絵になるような、そんな素敵な相手だ。
私みたいに根暗で会話もコミュニケーションもうまくできないような人間じゃない。
「紗和が自分を卑下するのはかまわないけれど、その子の好意を冒涜するような真似はやめなさい。その言葉は少なくとも、あなたが吐いていいセリフじゃない……と私は思う」
言われ、ハッとする。
私は自分が決して好きではないし、自信も持てない。
だけどその事実と、心塚さんが私を好いてくれているという事実はなんの関係もない。
彼女の想いは、私なんかが、簡単におとしめていいような代物ではないのだ。
「そうだね……ごめん」
「だから、私に謝ったってしょうがないでしょ」
初海ちゃんの言葉はとても鋭利だったけど、どれも正論に違いなかった。
いや、正論だったからこそ、私は的確に傷ついたんだ。
だけど心塚さんは、私の心ない言葉と反応で、もっと傷ついてしまったはずだ。
「わっ、私……いったい、どうすればいいのかな」
「答えを出すのは私ではなく、あなたよ。気持ちはわかるけど、そこだけは、私なんかに聞いてはダメよ。とくにこういう話題はね、他者の意見になんて耳を傾けないほうが賢明よ」
「ど、どうして……?」
自分ではどうしていいのかわからないとき、初海ちゃんはいつでも私のことをささえてくれた。相談に乗ってくれたし、具体的な解決策を提示してくれたりもした。
少し突き放されたような言い方をされて、私は少なからず戸惑っていた。
「私はろくでもない人間だから……あなたに頼られるべき人間ではないからよ」
「そ、そんなことないよ!」
初海ちゃんがどうしてそんなことを言うのか理解できず私は声を荒げてしまう。
そんな私を見つめる初海ちゃんの目は、とても冷淡なものだった。
その瞳のあまりの冷たさに、私は再び、怯んでしまいそうになる。
だけど彼女の氷点下の冷気は、対面にいる私ではなく、別の場所へと向けられているように感じられたから――私は自分を奮い立たせるようにして、無理やり口を開いた。
「は、初海ちゃんは、いつも、こんな私を助けてくれた。は、初海ちゃんが迷惑だって言うのなら、私は、引き下がるしかないけど、私は……初海ちゃんにそんなこと言わないで欲しい」
私を見つめていた瞳がかすかに揺れる。
陽光を浴びた
「紗和は、どうして……放送を始めようと思ったのか、覚えてる?」
繋がっているようで繋がっていない。会話がどこかズレているような気がしたけど、頭のいい初海ちゃんのことだから、この会話の流れにもなにかしらの意味があるのだろう。
「うん。変わりたい思ったから」
だから私は素直に、初海ちゃんの問いかけに答えた。
最近、心塚さんと似たような会話をしたから、その言葉はすんなりと出てきてくれた。
「他人とうまく喋れないのがイヤで……それを克服したくて、放送を始めたの」
初海ちゃんはその顔に、氷みたいに冷やかな笑みを浮かべていた。
「私には紗和が変われたようには見えない。あなたが私以外のクラスメイトとまともに話している姿を見たことがないし、あったとしても二言三言、しどろもどろになっているだけ」
私を斬り捨てるような鋭い言葉。だけど、どういうことか、その言葉で一番傷ついてしまっているのは、他ならぬ初海ちゃん自身であるように、私には感じられた。
……どうして、初海ちゃんがそんな顔をするの?
それがわからないから私は彼女の言葉で傷つくことも許されなかった。
「あなたはそんな状況に、少しでも違和感を覚えなかったの?」
「違和感……?」
違和感と言われたところで判然としない。
強いて言うのなら、今この瞬間の初海ちゃんの発言に、私は違和感を覚えていた。
「ここは……あなたを閉じこめておくための鳥籠だった」
「放送室が……鳥籠?」
いよいよ、初海ちゃんが言わんとしていることを理解できなくなってしまう。
私はただ彼女の言葉を拾って、問い返すことしかできない。彼女も彼女で、そんな私などお構いなしに、熱にでも浮かされたように、好き勝手な言葉を並べてゆく。
「私は、私はただ、あなたを――」
あなたを……もう一度そう呟いたところで、初海ちゃんはやっと我に返ったらしかった。
うつむき、髪の毛に絡まった熱でも追い払うように、軽く頭を振ってみせる。
その拍子、彼女の顔から、なにかしずくのようなものが散ったような気がした。
「……私から見れば、紗和はすでに変わってしまっている。そんなの……あなたの表情を見ていればすぐにわかった。あなたはただ、最後の一歩が踏みだせないだけなのよ」
頭が重たくて仕方がないとでも言うように、彼女はゆっくりと顔を上げる。
その目に灯ったほの暗い揺らめきに、私は小さくおののいてしまう。
「あなたはいつまで鳥籠の中にこもっているつもりなの?」
今にも燃え尽きてしまいそうな瞳の芯が、私を捉えて離さない。
「あなたがそこにいつづけるかぎり、あなたの声はだれにも届かない。鳥籠から出る決心をしなければ、その後輩と並ぶこともできない。それでもいいなら、好きにすればいい。だけど、あなたが本当にここから出たいと願うのなら……答えはひとつしかないんじゃない?」
――その後輩が好きだと言ってくれた放送で、紗和は想いに答えるしかない。
――心塚さんが好きだと言ってくれた放送で、私の想いを言葉にする。
初海ちゃんの言葉を私は復唱しする。
私を見つめ、初海ちゃんはなにを思ってか、薄氷めいた笑みを浮かべた。
気安く触れたら割れてしまいそうな、そんな淡くて脆そうな微笑み。
「さようなら、紗和。これで……おしまいにしましょう」
そう言い捨てると、初海ちゃんは立ちあがり、背を向け、歩き出す。
「ま、待って、初海ちゃん!」
途中から彼女の空気に圧倒されて、口を挟む余裕すらなかった。今だって息をするのでやっとなんだけど、それでも、彼女になにかを言わなきゃと思考が回る。
初海ちゃんはドアノブに触れたところで立ち止まる。
「は、初海ちゃん――」
だけど思考は巡らず、口も回ってはくれない。
苦し紛れに彼女の名前を呼んだところで私のすべてが停止した。
初海ちゃんは振り返り、その顔に、場違いなほど優しげな笑みを浮かべた。
「あとはひとりで考えなさい。私ではなく、後輩のことをね。私は少し……疲れたわ」
その声は今にも消え入りそうなほどか細かった。
そして空気に溶けてしまったように、彼女の姿は廊下の向こうへと消えていった。
――あんな初海ちゃんを見たの、初めて。
なんだかいつもの彼女より儚げで、なのに、いつもの彼女より饒舌だった。
先ほどのメールでなにかあったのだろうか。
だとしたら、いったいなにがあったのだろう。
そんな疑問が渦を描くけど、ふたつの出来事を平行して考えられるほど私の頭の
……初海ちゃんも、そう言っていたから。
私は心塚さんのことが怖い。
それは紛れもない事実だった。
初海ちゃんが言っていたけど、私は今まで、放送室という鳥籠の中に閉じこもっていた。そこは温かくて平和で外敵に脅かされる心配のない優しい世界だったから。たとえ外から隔たられていようと――たとえひとりぼっちだろうと、私はその狭い籠の中だけで充分だった。
――いや、それはうそだったんだ。
私はずっと自分にそう言い聞かせていただけなんだ。
だったらどうして、籠の中から鳴いてみせたりしたのだろう。
放送なんて手段を使って外になにかを呼びかけようとしたのだろう。
初海ちゃんはこの孤独な籠の中で、ずっと私の隣に寄り添ってくれていた。
だから私は私のまま――鳥籠に閉じ込められたままの私で、彼女と一緒にいられた。
だけど心塚さんは違う。
きっと彼女の手を掴んでしまったら、私は鳥籠の外へと連れていかれてしまう。
本人にそんな意志はなくても、彼女の明るさは暴力にも似て残酷なものだから。
籠の外に憧れていたはずの私は、同時に籠の外に強い恐怖心を抱いていたのだ。
だから私は咄嗟に彼女の身体を突き放すことしかできなかった。
そしてもうひとつ問題があるとするならば、私が彼女に抱いていたのは、ホントに恐怖心だけだったのか? という点だ。そこにはもっといろいろな感情が、ぐちゃぐちゃとかき混ぜられ、ない交ぜになってしまっていたはずなのだ。私はその混沌とした感情に『恐怖』と名づけることで自分を納得させ、落ちつかせようとした。だけど、それが話をややこしくした。
そうだ。
私は心塚さんと出会ったその日から変わり始めていた。
ただ少しずつ、水に一滴ずつ絵の具を注ぎこむように。
私の心に彼女への好意が、一滴、一滴と加えられていった。
恐怖心と恋心の比率が入れ替わるまでに、そう時間はかからなかったはずだ。
だけど私はその変化に気づけなかった。
緊張、動悸、息切れ、眩暈、震える身体――それらは共通の症状だったから。
唯一の変化と言えば、始めは冷たかった顔が熱を帯びるようになっていたこと。
気づけなかったのか。
気づこうとしなかったのか。
だけど、気づきやひらめきとは関係なく、こうして一歩一歩、順を辿って考えてみれば、逃げ回っていたはずの感情でも簡単に捕まえることができる。やはり私は逃げていただけなのだと思う。気づかないふりで自分自身を安心させようとしてしまっていたのだ。
心塚さんはこんな私でも、一緒にいようと、そう思ってくれるのだろうか。
――そしてなにより私は、自分を縛るしがらみから自由になれるのだろうか。
籠の扉は開け放たれて、いつでも外へ出られるのに。
私の心に絡みついた感情の鎖が、私の翼を震わせる。
やはり私は迷い、恐がり、一歩を踏みだせないまま、しりごみをくり返す。
普段の放送みたいに、意識が途切れてしまえばいいのにと願ってしまう。
だけど無意識に行われた放送に、いったいなんの価値があるのだろうか。
私の疑問に答える声は、どこにも存在しない。
そんな私の脳裏によぎるのは、どうしてか、初海ちゃんの悲しそうな笑顔だった。