バスケの大会で負けたときだって、中学の卒業式のときだって、こんなことにはならなかったのに。私は生まれて初めて、自分の感情に振り回されて号泣していた。なのにどれだけ泣いても涙は枯れる気配を見せてはくれない。私は伝い落ちてくる涙を拭うのに必死になる。

 手の甲で頬の上のあたりを擦っていると、ふわりと漂ってくる芳香があった。

 それは甘ったるい匂いだった。

 油断するとスッと心が軽くなってしまうような優しい匂いだ。

 だけどその匂いの正体を思いだしたとき、私の心はさらに底へと突き落とされる。

 ――これ、先輩が塗ってくれたクリームの匂いだ。

 私が好きになってしまったもののひとつ。この匂いを嗅いでいると、まるで先輩に抱きしめられているみたいで、安心してしまって、余計に哀しくなって、涙が止まらなくなる。

 甘くて優しい、包みこむようなバニラの匂い。

 ダメだとわかっているはずなのに、手のひらを鼻に近づけて匂いを嗅いでしまう。

 くり返し、くり返し、鼻が慣れて、匂いがわからなくなってしまうくらいずっと。

 私はその匂いを嗅ぎ続けた。

 どれだけ求めても飽くことはなくて、こんなんじゃぜんぜん満足できなくて。

「先輩……先輩――ッ」

 私の口からはそんな気持ちの悪い言葉ばかりが溢れだしていた。

 

 

 まだ五時間目終了のチャイムが鳴らないのが不思議になるくらい、私は泣き通した。泣き疲れてひどく体力を消耗した私は、近場にあったベンチに座って、それからもう少しだけ泣いた。

 ぐずぐずになった顔を拭い、ハンカチも袖口もぐちゃぐちゃになって最低な気分だった。それでも涙だけはなんとか止まってくれた。だけど涙に気持ちが溶けて、悲しみを出しきったのかと言えばそんなことはない。ひとりぼっちだという事実が私の中の悲哀を大きく増幅させていた。だから涙が止まったのは単に疲れてしまったからだろう。歩き続ければ筋肉が疲れて足が止まってしまうように、泣き続ければ心のどこかが疲れてしまい、涙を流せなくなるんだと思う。だからご飯を食べて、寝て、起きて、元気になれば、私はまた泣いてしまう気がした。

 これからしばらく、私は、泣くために生きているような人生を送るのだ。

 そんなふうに私は、センチメンタルな空気にひたっていた。そのとき――

「あ、落ちついた?」

 ――突然、背後からかけられた声に跳びあがりそうになる。

 ……え、えっ?

 動揺とともに振り返ると、背の低い植木の向こうに、茶髪の女生徒が横たわっていた。

 髪は栗色で、少しウェーブがかかっていて、なんだか見るからに不良って感じだ。

 自分の素行の悪さをわざとアピールしてるみたいな、そんな雰囲気のひとだった。

 彼女は軽薄そうな笑みを浮かべていたけど、その表情は困っているようにも見えた。

「い、いつからそこにいたんですか……?」

「四時間目が始まる前かな? 今日は委員会ないし、だるかったし、天気もよかったしね」

 その言葉に小さな違和感を覚える。授業はサボるのに委員会には律儀に入会してるんだなって。それに今の言い方だと、委員会には素直に参加してるみたいだったし。

 それを指摘できるだけの余裕は、今の私には存在しなかったけど。

「あなたがサボってるところに……ちょうどよく、私が現れたと?」

「そゆこと。んで、いきなりボロボロ泣きだすもんだから声もかけられなくてさ。あんた一年生だよね? まだ高校生活が始まって一週間しかたってないじゃんか。どしたのさ」

 興味本位ではなく気をつかってくれているのは、雰囲気から察することができた。

 だけどそれを語るのは、自分の恥部を明け透けにするようで、躊躇ためらいが産まれる。

「あんたが『せんぱぁい……んんっ』みたいに泣いてたのは聞いてるし、今さらなにを喋ってもかわんないと思うけど。やっ、あんたがやだって言うなら深入りはしないけどさ」

 深入りはめんどくせーからね。

 そう言って女生徒はあっけらかんと笑う。その笑顔を私は最近、どこかで見たような気がした。だけど、どれだけ彼女の顔を見つめても、その答えは見つからなかった。

 ……それはそれとして、なんて答えるのが正解なんだろう。

 彼女の言葉が露悪的だったから、私は答えとすべき返答を見つけられなかった。

 そんな私に愛想を尽かしたのか、そのひとは、さっさとどこかへ行ってしまう。

 私はそれを望んでいたはずなのに、いざひとりになってみると心細くなってくる。

 自分がどんどん面倒臭いやつになっていくことを自覚して嫌気がさす。

 屋上の中央、校舎から飛び出たでっぱり部分、女生徒はその陰へと消えていったから、そのまま校舎に戻ったのだろうと推理していたけど、なぜか彼女は一分たらずで戻ってきた。

 その両手には一本ずつ缶ジュースが握られていた。

 どうやら、飲み物を買いに行っていただけらしい。

 安心する私と、そんな自分がもっと嫌いになる私がいた。

「まっ、これでも飲めば」

 ぽーいと投げ渡された紅茶を慌てて掴み取る。

「ナイスキャッチ。それ、あげるよ」

「わ、悪いですよ」

「悪いのかもしんないけど、あんたが飲まなかったらムダになっちゃうんだよな、金も紅茶も、あたしの厚意もさ。まっ、バイトやってるし一〇〇円くらい安いもんだから気にすんな」

 気取りながら、そのひとはタブを捻り、一気に缶を傾けた。ゴクゴクと勢いよく飲む様を見ていると、単に彼女の喉が渇いてただけなのだと知る。私が泣いてたせいで物陰から出てこられなかったからだと自覚すると、なんだか急に恥ずかしくなって、自分が駄々をこねているだけなのだと気づいた。逆らうのがバカらしくなり、私はおとなしく紅茶に口をつけた。

 一度口をつけると、止まらなくなる。

 ずっと泣いていたせいで喉が渇いていたらしい。

「まっ、失恋かなんかなんでしょ」

 女生徒の容赦ない指摘にごほごほと私は咽せる。

 芝生の上に緋色の液体が散って、女生徒が汚ぇなと笑う。

「あんな甘ったるい声だしといて、失恋じゃないって言われたほうがビビるから」

「……私、そんな声だしてましたか」

「うん。自分でも慰めてるんじゃないかってくらい、甘ったるかったからびっくりした」

 その冗談めかした言い方が、逆に私の様子が、どれだけ酷かったかを表しているような気がした。私の反応を見て、そのひとはけらけらと乾いた笑い声をあげた。

 やっぱり私の記憶にある、どこかのだれかと似た笑い方をする。

「気にすんなってのはムリがあるだろうけど、失恋すれば、だれだってあんなもんでしょ。好きなだけ泣けばいいよ。まあ私はなーんも知らんから、こんな無責任なこと言えんだけどさ」

 そうなんだろうけど、ヘタな慰めを重ねられるより、好感が持てる気がした。

 そのひとは缶を傾け、こくりと喉を鳴らすと私の横に腰かけてきた。

 そしてなにかに気づいたようにすんすんと鼻を鳴らすと、

「あれ……その匂い――」

 先ほどとは違う小さな、漏れ出てたような声をこぼした。

「バニラの匂い……しますか?」

「あー、うん、そう。バニラの匂いなんだけどさ。知り合いがたまに似たような匂いさせてたなって思って。そのせいでつい反応しちゃっただけだから、気にしないで」

「……知り合いって三年生のひとですか?」

 もしかしたら先輩の知り合いだろうかと思い、そう問いかけてみる。

「そうだけど……平楽初海って言われても、なんにもわかんないよね」

「えっと、ごめんなさい、聞き覚えないです」

「それ聞いて安心したわ。しっかしあんた、あれだね……女にフラれたわけだ」

「なっ……ど、どうしてわかったんですか!?

 今の会話のどこに『私のフラれた相手が女だ』と気づける要素があったのか。

「だってあんた、その匂いを嗅ぎながら、先輩先輩言ってたじゃんかよ。だったらそれがあんたの言う先輩の匂いなんだろ? この学校に、んな甘ったるい匂いさせた男がいて堪るか」

「うう……っ」

 言われてみれば確かにそうだ。彼女が言ったように泣き言の一部始終を見られてる時点で、こうなることはわかりきっていたのだ。だったらもう諦めるしかなかった。

「そうです……私の好きな先輩は女のひとですよ」

「素直でよろしい」

 私の受け答えが気に入ったのか、そのひとはくすりと優しげな笑みをこぼした。

「でもさ、告白しただけ偉いとあたしは思うよ。同性が相手ならとくにさ。憧れとか、そういうイヤらしい言葉で自分を納得させて、価値観が変化して、思い出に風化させたりしないで、ちゃんと向き合って、告白までしたんだから、そういうの――正直すごいと思う」

 うんうんとしきりに頷きながら、そのひとはひとりで納得してみせる。

「忘れてたって言うか、そもそも自己紹介とかする気なんてなかったんだけどさ、気が変わった。あたし、二年一〇組の真倉まくら木実このみ。図書委員やってんの。よろしくしてよ」

「ど、どうも……真倉先輩、ですね。私は心塚牝鹿っていいます。一年二組の放送部です」

 自己紹介をされると、つい自己紹介を返してしまうのが、人間の性質なんだと思う。

 ただ放送部と聞いた瞬間、真倉先輩の表情が強張ったような気がした。

 だけど私だって彼女が『図書委員』と名乗った瞬間、『このひとが……?』という違和感を覚えたくらいだから、その反応は反射的なものにすぎないのだろう。

 事実、次の瞬間には真倉先輩の表情は挑発的な笑みに戻っていたのだから。

「木実でいいよ。あと、先輩も要らないかな。牝鹿ちゃんの先輩はその先輩だけでいいよ」

 その名字、あんまり好きじゃないんだ。

 木実さんは少し疲れたような顔でそう言った。

「えっと、じゃあ……木実さんで。でも私、木実さんの思ってるようなのじゃないですよ」

 勢いにまかせて告白しただけなのに、そこまで手放しに賞賛されて、自己紹介までされてしまうと、背中やら胸元やらがむず痒くなってしまう。

「充分すごいって。だってあたしには絶対にマネできないもん。まあこの場合、単純にあたしがヘタレってだけなのかもしれないけどさ。んっと……白状しちゃうとさ、あたしも一年のころから、好きな先輩とか、いるんだ。そりゃあ、普通に女子高生やってりゃ、恋のひとつやふたつくらいするじゃん。でも、告白とか、考えたこともなかったな。現状維持に必死でさ、今のままでいいって、思いこもうとしちゃってさ。でも牝鹿ちゃんは、よくも悪くも壊れるってわかってる道を選び取れた。それは素直にさ、すげぇって、かっこいいなって思うよ」

 第一印象のせいで、木実さんはなんだか軽そうなひとだと思ってたんだけど、横顔から察せられる憂いとか、想いとかは、私よりもよっぽど乙女らしいように感じてしまう。

「木実さんの好きな先輩って、どんなひと……なんですか?」

「けっこう恥ずかしいこと聞くんだね」

 木実さんはほんのりと頬を桜色に染めて、照れたように微苦笑を浮かべる。なんだか飄々ひようひようとした雰囲気のひとだと思ってたけど、その姿は恋してる女子高生って感じで、ギャップが微笑ましい。ついからかってしまいたくなるような、そういう類の可愛らしさだった。

「先輩がどんなひとか……ねぇ。一言で言えばー……イヤなひとかな」

「えっ」

「そうだ。イヤなひとだよ、うん」

 木実さんは自分の言葉に納得がいったように笑いながら続ける。

「意地悪で、優しくなくって、性格が悪くて、いつも暗い表情ばっかしてんだ、その先輩」

「好きなひとの話……ですよね?」

「好きなひとの話だよ。でも好きだからって――いくら恋が盲目だからって、意地悪なもんが優しさに変わるもんじゃないんだよ。ただ、優しさとか、そういうのはさ、あんま関係ないんだと思うよ。好きだから好きで、あとはもう全部さ、些細な問題なんじゃないのかなって」

 すごく楽しそうな表情でそんなことを言うもんだから、私はなにも言えなくなる。

『好きなひと』という言葉は私の中で『緒輪島紗和』という先輩とイコールで結ばれてしまっている。つい先ほどフラれてしまったばかりのはずなのに、私の胸の中にある柔らかくて敏感な部分は、鋭い痛みを感じると同時に、優しくて暖かな感覚に包まれてしまうのだ。

 私の恋はたった一回フラれただけじゃ終わってくれなかったようだ。

 それを、木実さんの話を聞いていて、自覚することができた。

 ……先輩のあれは意地悪なんかじゃなくって、私が勝手に傷ついているだけなんだけど。

 フラれても、傷つけられても、好きなもんは好きなんだからしょうがない。

 放送部、続けようか悩んでたけど、辞めるのは、やっぱりなしにしよう。

 ――少なくとも私は辞めたくなんてない!

 先輩が迷惑そうだったら、そのときはそのときだけど。

 私はそれでも、自分が先輩のそばにいたいんだって、気づいてしまったのだった。

 私は木実さんの言葉に頷いた。

「あはは……恋ってめんどくせーなって思うよ」

 木実さんも私を見て笑いながら頷いた。

「でもさ、その先輩、意地悪なんだけどさ。たぶん自分に一番、優しくないんだよね。だから放っとけないんだ。あたしがいても、してあげられることなんてないんだけどさ。でもそばにいてあげたい。たぶん今も――自分のこと苦しめることばっかやってるんだろうからさ」

「な、なんか……大人って感じですね」

「大人なもんか。あたしも先輩も、牝鹿ちゃんよりよっぽど子どもっぽいよ」

 言って、笑って、黙っちゃって。

 しばらくして木実さんはバツの悪そうな表情を浮かべた。

 もしかしたら『話しすぎた』みたいなことを考えているのかもしれない。

「そんなわけで、相談を聞いてあげると見せかけて、あたしが惚気るだけのコーナーだったね」

「で、でも。なんか無理やり話させられるより、楽になりました……ありがとうございます」

「心開かせるのってさ、なにかをしてあげるんじゃなくて、なにかをさせてあげるほうが効率いいらしいんだよね。で、ひとは心を開いてくれる相手を無意識的に信頼するらしいよ。だから私が相談すれば、牝鹿ちゃんが私に心開いてくれんのかなーとか思ってやってた」

 いや、これも照れ隠しなんだけどさ。

 と観念したようにつけ足すあたり、やっぱり木実さんは可愛いと思う。

 だけど今の言葉は、なんだかとっても頭が良さそうだった。

「なんかすごい知的ですね」

「なんだ退かないんだ。うわーって、思ったりしなかった?」

「え? いや、なんでしょう。そんなふうに私のこと考えてくれてたんだな……くらい?」

「あははは。そっか。牝鹿ちゃん、いいやつだな。さっきのさ、あたしの言ってた先輩が教えてくれた豆知識なんだよね。だからどうしたってわけじゃ、ないんだけどさ」

 そんなところで、木実さんは両の手をパンッと打ち鳴らした。

「んじゃ、あたしは授業に復帰しよーかなっ。サボるのにも疲れちった」

 立ちあがると、木実さんはぐぐーっと凝り固まった背筋をほぐすように伸びをした。

「んま、なんだ。いつもってわけじゃないけど、昼休みとか、あたしはここか図書室にいるから、居場所ないなーとか、暇だなーとか思ったら会いにきて、あたしの相手でもしてよ。あ、それと今回は運がよかったけど、ここ、ちょくちょく見回りとかくるから気をつけなね」

 木実さんは空き缶を片手で器用に弄びながら颯爽と屋上から出ていってしまった。

 屋上にひとりで残されると、途端に孤独感やら静けさやら虚しさやらを思いだす。

 どうやら、そういう人並の感性に身をひたすだけの余裕を私も取り戻せたらしい。

 ……私も授業に戻ろうかな。

 素直にそう思うことができたことに自分でも驚きながら立ちあがる。

 その瞬間、足の裏や足首に鋭い痛みやら鈍痛やらが走って、へたり込んでしまう。

 見るとソックスが破けていて、芝生にやられたのか、いたるところに擦り傷がついていた。それに加えて、足首にぶつけた痕やら捻ったあとやらがあって、どうやら校内を走りまわってるあいだに、いろいろとやらかしてしまったらしいことを理解する。

 つい先ほどまでは半狂乱のような状態だったから、痛みを感じている余裕すらなかったのだろう。そして今は、こうして痛みを感じられる程度に、心も冷静さを取り戻したと。

 ムリすれば歩けないこともなさそうだ。

 だけどムリをできるほど精神的な余裕があるわけでもなかった。

 ……もっと早く気づけてれば木実さんに助けを求められたのに。

 そうこうと焦れているあいだに六時間目の始業を知らせるチャイムが鳴り響く。私の中に生まれた灯火めいたやる気は、通り雨のような不幸によって掻き消されてしまったのだった。