心塚牝鹿
先輩に頭を撫でられて、ものたりないって感じて。
先輩に手を触られて、もっとものたりなくなってしまって。
だけどそんな悶々としたものが、先輩の放送を間近で聞いただけで吹き飛んだ。入学二日目に聞いたあの声を、今日はスピーカーごしではなく、生で聞くことができたのだ。
私が放送部入るきっかけをくれた声だ。
私が一目惚れしてしまったあの声なのだ。
あらためて先輩の声を聞いて、彼女に惚れた理由を思い知った。
その声があまりにも素晴らしかったから――
声が秘める無限の可能性に身震いすらした。
声とはただ言葉を伝える手段ではないのだ。
声そのものが――質が、高さが、大きさが、柔らかさが、そのすべてに想いが宿るのだと思い知った。その歌うような、流れるような、降りそそぐような声をあらためて聞いて、私はもう止まれなくなってしまった。揺れていた想いが、突沸し、一気に煮えたぎってしまった。
「――私は先輩に恋をしてるんだと思います。大好きなんです」
熱すぎる想いとは裏腹に、思いのほか冷静に言葉は流れでてくれた。
だけど想いを吐きだせば楽になるのかと言えばそんなこともないようで。
初めての経験だから、戸惑ってしまったけど、一言じゃぜんぜんたりない。
もっと好きだと言いたくなってしまう。
もっと大好きだと言いたくなってしまう。
もういっそ愛してると言いたくなってしまう。
そしてきっと、それでもまだ満足なんてできないのだ。
不安で怖くて泣きそうなのに溢れる想いが止まってくれない。
先輩はなんの感情を湛えてなのか、顔色を少し青ざめさせているように見えた。
「わ、私……あ、あれ、あれだよ……? 女の子だよ?」
「さすがにわかってます。でも、それでも、好きなんです」
気づくと私は、先輩との距離を一歩、詰めようとしていた。もともと、コンソールのそばにいた私たちは、一歩近づくだけで、ほとんど触れ合ってるような距離になってしまう。
今もなお、椅子に座り続けている先輩は、私の接近にギュッと目を瞑った。そして――
とん。
――と、腰のあたりを強く押される。
私が一歩退いてしまう程度に強い拒絶だった。
先輩が自分の行いに気づいたようにパッと顔を上げる。
その顔は、どういうことなのか、ひどく焦燥していた。
「あ、いや……っ、今のは、違くて……」
先輩はなにか弁解しようとしながら慌てて立ちあがる。だけど私との距離を詰めようとはしない。それだけではなく、先輩の体は一歩、一歩と私から距離を置こうとしていた。
「あ――」
――そこで、目が、覚めた。
熱に浮かされていた思考に、氷塊が落とされたみたいに世界が豹変した。ああ、今までごまかしていた恐怖や不安が怒濤の勢いで押し寄せてきて、寒さで足が崩れそうになる。
崩れそうになる膝を必死に奮い立たせる。
ここで座りこんでしまってはあまりに惨めだ。
「先輩……そのっ、私……ッ、ごめんなさい――」
気づくと私の体は、その場から逃げだしてしまってた。
上靴を履くことすら忘れ、廊下に飛びだしていたのだ。
私の足は乱れた思考を体現するようにデタラメに廊下を走り回る。
だけど校内の地図が頭に入っていない私は簡単に迷ってしまう。それでも頭は現状を理解しようとはせず、とにかく世界の果てでも目指すように足だけが無様に動き続けていた。
自分はなんてバカなんだと私は私を罵った。
それでもなお高校の敷地――ましてや校内から出ようとしなかったのはどうしてだろう。心のどこかで先輩が私を追いかけてきてくれることを期待していたのだろうか。
そうかもしれない。
最近の私は思考が妙に乙女な感じになってしまっていたから。
だけどそんな少女漫画みたいな展開が待っているはずもなく、刻々と時間だけがすぎ、五時間目の授業の始まりを告げるチャイムだけが、無慈悲に校舎に反響するのだった。
その音を耳にして私は、二度目の目覚めを体験する。
熱に浮かされ、先輩に拒絶され、目が覚めて。
先輩から逃げ出し、校内を走りまわり、チャイムの音で、目が覚めた。
さいわいなことに周囲に教師の姿はなかった。
あらためてここはどこだろうと周囲を見回してみると、そこは三階と四階のあいだの踊り場らしかった。ちらりと三階のほうを見ると、進路指導室や生徒指導室が見えた。こんなところで教師に見つかったら、指導待ったなしだと私は慌てて四階のほうへと逃げだした。
こんな精神状態で教室に戻るという選択肢は端から存在しなかったから。
私の向かった四階は、ほかの階とは大きく毛色が異なっていた。
というのも左右に広がる廊下は折れることなく、突き当たりでドアになっているのだ。
階段から正面はすべて会議室になっており、その反対にはボイラー室とトイレ、階段脇にエレベーター、それと脇に非常階段があるだけ。ふと思い立ち、私は突き当たりのドアのほうへ向かった。曇りガラスの向こう側はどうやら屋上になっているようだった。
私はその清涼な青空に惹かれるように、無意識的にドアノブをひねっていた。
なぜかノブは抵抗なく回ってしまい、私はどうしていいのかわからなくなる。
しばらく呆然と立ちつくしていた私だったけど、背後から聞こえた物音にビックリして、その音を発した存在から逃げるようにして屋上へと飛びだしてしまった。
外は私が想像していたような灰色ではなく、鮮やかな緑色が広がっていた。
……屋上緑地だっけ。
入学案内のパンフレットに、そんな感じのことが書いてあった気がする。
うちは屋上が芝生や花壇になっていて、それが売りのひとつだったはずだ。
自然に対する興味の薄い私はそんな情報すぐに忘れてしまったわけだけど。
ドアから死角になる位置まで移動して、そっと柵に肘を乗せ体重を任せる。
そこでやっとひと息つくことができた。
いっそひと息なんて一生つけなければよかったのにというくらい、そのひと息は惨憺たるものだったけど。さすがに先ほどのことを思いだすなというのはムリがあった。
ざぁと波でも押し寄せてくるみたいに、後悔や怒り、哀しみが一気に襲ってくる。
そして溢れだした感情が目頭に集まって、熱くなって、こぼれてゆくのがわかる。
細かいことは抜きにして、とにかく顔が熱かった。それは昨日とは別の熱さだ。
後悔と羞恥のハイブリッドみたいな、とにかく最低な火照りだった。
それでも、これでよかったのだと、自分にそう言い聞かせる。
どうせあのままでは私はどこかがおかしくなって、壊れてしまっていたに違いないから。
想いを自制しながら、それでもあの環境に身をひたすのは不可能だったはずだ。
しかし最善手であることは、イコール、最良の結果を保証するものではない。
ひとつだけ確かなのは、どんな選択を取っても、私は傷ついてたということ。
傷つく場所が違うだけ。
苦しみの種類が違うだけ。
痛み方が違うだけなのだ。
それでも、どう自分に言い聞かせ、言い訳をしてみたところで、後悔は止まらない。
放送部に専念し、先輩との距離を縮めるために親友との距離を置くことを決意した。
その結末がこれなのか。
いったい私はなにを得たのだろう。
痛みを代償に得たのは別の痛みばかりだ。
えぐっ……と大きな嗚咽が漏れる。
嗚咽に触発されるように、大粒の涙が溢れた。