緒輪島紗和
気づけば火曜日。今日は心塚さんにとって初めての校内放送が予定されていた。
だから集合時間は放課後ではなくお昼休み。いつもより早い集合に新鮮味を覚える。だけどよく考えてみたら、彼女が放送室に来るようになってから一週間もたっていないのだ。
……なんだかもっと長いあいだ、一緒にいるような気がするなぁ。
心塚さんのことを考えていると、胸や顔がぽわぽわと温かくなる感じがする。『怖い』という熱の一歩手前のような不可思議な感覚に、しばらくのあいだ、酔っ払ってしまっていた。
心塚さんは昼休みが始まって三分ほどで放送室にやってきた。
「せ、先輩、こんにちはっ!」
急いできたのか、それとも初めての校内放送に緊張してるのか、放送室にやってきた心塚さんは少し息切れしているようだった。それに加えて、今日の彼女はどこかぎこちない。
昨日の今日で少し弱々しい彼女の姿が見られて私はちょっぴり嬉しくなる。
……べ、べつに苦しんでる心塚さんを見るのが楽しいわけじゃなくってね?
ただ後輩の後輩らしい一面を見られたら、だれだって嬉しいに決まってる。
「こ、こんにちは、心塚さん」
いつも通り椅子に彼女を座らせ、普段よりコンソールに寄った形で並ぶ。
今日は私がひとりで放送をして、彼女にお手本を見せる予定だ。
その前にあらためて、機材の説明をしておこうと考えていた。説明を開始しようと心塚さんのほうを向くと、彼女が怨めしげな視線を私に向けていたことに気づいて驚く。
「えっ、えっと……心塚さん、どうか、した?」
「あっ、いやっ、べつに! 深い意味はなくって。ただ今日はないのかなって」
「今日はない……?」
「その……今日は、頭、撫でてくれないのかな……って」
淡々しく囁かれた心塚さんの言葉に私は納得する。
やっぱり彼女は緊張していたのだ。
身長によらず、可愛らしいところもあるんだなと笑ってしまう。
「そうだよね。心塚さん、喋らなくても、初めての放送なんだから、緊張しちゃうよね」
「んっ、んー……? たぶん、そういうこと……なのかな?」
そういえば私も初めての放送はずいぶんと緊張したものだ。こういう形で彼女に親近感を覚えるとは思ってなかったから、心が温かくなって、自然と笑みが浮かぶ。後輩のメンタルをケアするのも先輩の仕事だから、私は少しだけ心塚さんの頭を撫でておく。
放送は一時から開始する予定で、授業が終わったのが五〇分。
残り時間は五分ほど。
じつはあんまり余裕はないんだけど、頭を撫でる程度なら、時間もとられないし大丈夫だよね? 仕方ないなぁとお姉さんぶりながら、私は心塚さんの頭を撫でる。私の指先が心塚さんの髪の毛を梳くたびに、彼女は熱っぽい吐息をこぼす。それを一分ほど続けた。撫で終えると心塚さんは『もう終わりですか?』とでも言いたげな不満そうな表情を浮かべた。
「あと五分くらいで放送始めなきゃだから……それが終わったら、また、やろうね? 今は、その、放送の説明だけ、先にしちゃってもいいかな?」
「は、はい、私のほうこそ、変なこと言っちゃって……その、ごめんなさい」
謝りながら心塚さんはシュンとうなだれてしまう。
なんだか必要以上に恐縮されてしまって、こちらも少しやりづらい。ホントに緊張しているだけなのかな……? って疑っちゃうくらい、今日の心塚さんは弱々しかった。
「大丈夫……? た、体調とか悪いなら、私、保健室、ついて行ってあげるけど?」
「あっ、いえ、ホントにそういうんじゃなくて。ちょっと心配事があるだけで……」
語尾が消え入るようにして空気に溶ける。
心塚さんはなにをそんなに心配してるんだろうなって少しだけ気になっちゃうけど、向こうから話そうとしないものをムリに聞きだそうとは思えなかった。だから私はなるべく早く放送を終わらせてしまうために、急いで説明をすることに決める。
私はコンソールの左端に設置されている大きめのボタンを指さす。
「このボタンを押すと放送が開始しちゃうから、その前にふぇーだーを調整しておくの」
「フェーダー……ですか?」
「んっと……ね、この上下にうぃーんって動く、つまみのこと」
「あっ、ああ、なるほど、うぃーんがふぇーだー……ですね」
フェーダーの調節については経験に依るところが大きい。
だからこれに関しては、少しずつ慣れてゆくしかない。
あとはぴんぽんぱーんのやり方と、マイクの使い方さえ覚えてしまえば、放送自体は簡単に行える。放送の中で音楽を流す行程とかが入ってくるとややこしいんだけど、そこは来週以降で構わないだろう。一度にたくさん教えても頭に入らないだろうし、今日の心塚さんは心ここにあらずって感じだし。焦ってもしょうがないから、ゆっくりでいいんだと思う。
「あとこれ、今日の原稿なんだけど、一応、目とか通しといてくれると……嬉しいかも」
言いながら、一枚の用紙を手渡す。
原稿と言っても、代々受け継いできたテンプレートの一部を改変しただけのものだ。
大まかな内容は先日説明した通りなので、あとは読んでもらったほうが早いだろう。
だけど心塚さんは用紙を受けとる際、なぜか一瞬体を硬直させた。
「どうか、した?」
私が問いかけると、心塚さんは顔を赤らめ、うつむいてしまう。
「あ、あの……先輩ってなにか……香水とかつけてるんですか?」
ぎこちない動作で原稿を受けとりながら心塚さんが尋ねてくる。
……んー、私、香水なんてつけてないんだけど。
そういう自己主張みたいなものをしたいと思ったことはないから。
だけど彼女がそう聞いてくるということは、なにか匂いでもしてるのだろうか。彼女にバレないようにそっと自分の手の匂いを嗅いでみたりする。それで、ああと納得した。
「ば、ばにらの匂いのこと、かな?」
「あっ、たぶんそれです。いい匂いだなって……思って」
うつむきながら、か細い声で、心塚さんは鳴いた。
なんだかいつもと立場が逆になってしまったみたいだ。
さすがにここまで緊張されてしまうと、こちらまで身が固くなってしまいそうだ。
「そうだっ、心塚さん。いいもの……あげるから、先にそのプリント、読んどいて」
私は心塚さんに指示を出して、持って来てたリュックのサイドポケットをあさり、定位置に入ってたチューブを取りだして、椅子に座りなおす。
短めの文章だったから、私が座り直すころには心塚さんも原稿を読み終えていた。
「こ、心塚さん、ちょっと手、貸してもらえるかな?」
「手……ですか?」
訝しがりながらも心塚さんは素直に手をさしだしてくれる。その表情がふて腐れた子どもみたいで、どこか可愛らしい。私はそんな彼女の手に取りだしたそれを塗ってあげた。
「せ、先輩!?」
心塚さんの肩が跳ねる。
「私の匂い、たぶん……これだと思う」
取りだしたハンドクリームのチューブを心塚さんに見せる。
彼女は目を丸くして、チューブと繋がれた私たちの手を交互に見つめていた。
ぐにぐにと彼女の手や指先、指の隙間などに満遍なくクリームを塗る。だけど相変わらず心塚さんの表情は晴れず、私はまたなにかを間違ったのではないかと不安になってくる。
……あれ? そもそもクリームってだれかれ構わず塗っていいものだっけ?
「あっ! 心塚さん、クリームとか大丈夫だった……? あっ、アレルギーとか――」
「そ、それは、大丈夫なんですけど……ちょ、ちょっと……長くないですか?」
「あ、ああ、そういうこと」
どうやら彼女の表情が晴れなかったのは、いつまでたっても手を離そうとしない私を不審に思ってのことだったらしい。それならきちんと理由があるからと、私は安心する。
「心塚さん、緊張してるみたいだから……一緒にマッサージ、してあげようと思って」
手のひらを中心にもにゅっ、もにゅっと親指で皮膚を押しこんでゆく。強くなりすぎないように、親指の腹と先を使い分けて、あと、軽く指のほうも揉みほぐしてあげる。
――心塚さん、指、長くて綺麗だな。
私の指は丸っこくて、ちまっこくて、こういう細長い指に憧れを持っていた。そんなことを悶々と考えていると、揉むことより触ることのほうが目的になってきてしまう。危うく、ただ指を擦り擦りするだけになりそうだったから、慌てて意識をマッサージに集中させる。
「気持ち……よくない、かな?」
「いっ、いいです、いいです。すごく、いいです……ずっと、気持ちよくして欲しいです」
「そ、そっか、ならよかった」
少しだけ緊張がほぐれたように見えて、私は安心する。
「きっ、緊張するとね、呼吸が、浅くなったり、指先が、冷たくなったりするんだって。だから逆に、意識して深呼吸とかしたり、指先を温めたりしたら、心が落ちつくんだってさ」
「へ、へぇ、先輩ってけっこう物知りなんですね」
……今のは初海ちゃんの受け売りなんだけどね。
せっかく先輩らしい姿を見せられたので、その点については黙っておくけど。
私も緊張したときはこうやって、初海ちゃんにほぐしてもらったりしていた。
最近は彼女からマッサージしてもらう機会はめっきり減ってしまったけど、そのころの名残で私はひとりのときも、こうやって自分の手にマッサージをしたりする。
今までして貰うがわだった私が後輩に同じことをしてあげられている。
……そういうの、なんだか素敵だなぁ。
これが放送部の伝統ってわけじゃない点に笑ってしまいそうになるけど。
バニラの匂いって私は好きだ。
なんだか心が落ちつく気がするから。元を辿ればこのクリームだって初海ちゃんからプレゼントされたものなんだけど、さすが私の好みを熟知しているだけはあると思う。
私の好きな匂いを心塚さんもいい匂いって言ってくれて、それがとっても嬉しかった。
もうそろそろいいかなと思い手を離すと、心塚さんはまた、物足りなさそうな表情を浮かべていて、つい笑ってしまう。こっちもまたあとでやってあげるからと、心中で微笑んだ。
クリームが乾いてきた頃合いで、ほどよい時間になった。
ホントはさっきまで、放送中は心塚さんに部屋から出てってもらおうと思っていた。彼女が隣にいると思うと、緊張のせいでうまく放送ができないと、そう思ったから。
だけど彼女の頭を撫でて、その手に触れていたら、そんな不安はどこかへ消えてしまった。先ほどの流れで安心感を得られたのは私のほうだったのだ。不安が消え去った私の中に残されたのは、今まで感じたことのないような、ふわっと浮かびあがるような気持ちだけ。
だから私は心塚さんの横で放送する決意をした。
放送開始のボタンを押して、ぴんぽんぱーんをして、マイクの音量をあげる。
話す直前で、いつも私の意識は途切れてしまう。
そして気づくとほんのりと汗をかいた状態でミキサー台の前に座っているのだった。
今日も普段と同じように、直前で私の意識は途切れ、気づくと放送は終わっていた。
隣を見ると、心塚さんがどこか熱っぽい表情で私を見つめていた。
今までは初海ちゃんに確かめてみるまで、自分がどんな放送をしてたのかわからなかったんだけど、彼女の反応をうかがうに問題なく放送が行えていたらしいので安心する。
「先輩の放送……やっぱり、すごいっ。すごくすごかったです!」
心塚さんの内側で発生した熱が、ぽっと口から吐きだされたような、そんな言葉だった。
その熱に浮かされて、こちらまで顔が熱くなってしまいそうだ。
「ありがとっ、でも……すごくすごいって、変だよ」
でも彼女の言いたいことは、言葉以上に伝わったから、私の心も温かなものになる。
「私……放送部に入ってよかったって。そう思いました」
「お、大げさだよっ!」
そこまで言われるとさすがに反射的に否定してしまう。
たかが校内放送だし、心塚さんはいろいろやりたいことがあるって言ってたし。
……だから、この程度の放送で満足されちゃっても困るっていうか。
いや、それだと私が自信過剰みたいになってしまうけど。
もっといろんなことを知って、経験して、それからあらためて口にして欲しい言葉だなって思う。それでも今の彼女の等身大の言葉だって、嬉しいに決まっているんだけど。
たぎる想いがそうさせたのか、彼女はバッと、椅子から飛びおりるように立ちあがった。
急な動作だったので、私はのけぞって、危うく椅子から転げ落ちそうになる。
だけどそれに対して文句を言えるような雰囲気ではなかった。
心塚さんは強い眼差しで私のことを見おろして、ぎゅっと口を噤んでしまっていたから。そんな真剣な面持ちを見てしまったら、おいそれと横槍なんて入れられるはずがない。
そして彼女は意を決したように口を開き、私が予想だにしなかった言葉を放った。
「私、先輩のことが好きです」
私は、その言葉を噛み砕くのに、一分近い時間を要した。その一分はとても、とーっても長いものだったけど、たぶん心塚さんにとっては、もっともーっと長いものだったに違いない。
彼女の焦れたような表情が、私にそう予想させた。
しかしどれだけていねいに噛み砕いて、味わってみても、彼女の言葉は、その意味合い以上の想いを私に伝えてはくれなかった。だから私は戸惑いつつ、無理やり口を開く。
「あ……んっ、私も、心塚さんのことは好きだけど……」
急にどうしたのだろう。あらためて好きとか言われると……照れそうになる。
嬉しいけど、思考がぐるぐる回りすぎて、鈍くなっちゃうし、困ってしまう。
なんだか暑いなって思って心塚さんを見ると、彼女の顔も熱で火照っていた。
「予想通りの反応ありがとうございます」
心塚さんは春の陽ざしみたいに暖かな目つきで私のことを見おろした。
……太陽みたいにきらきらしてる。
それはひとを笑顔にさせるような、そんな力を持った暖かな視線だった。
だけどなんだか今は、その眼差しが怖かった。
容赦のない明るさと熱が、私のすべてを暴き出してしまいそうだったから。
「でも私が言いたいのはそうじゃなくってですね――」
そこで心塚さんは言葉を喉に詰まらせた。
しばらく喘ぐように口の開閉をくり返す。
それに引きずられて、なぜか私の口までぱくぱくと、開いて閉じてをくり返してしまう。
そんな私を見て、心塚さんは笑い、スッと強張りが緩んだ。
続く言葉は流れるようにして、彼女の口から、私の耳へと流れ込んできた。
「――私は先輩に恋をしてるんだと思います。大好きなんです」
だけどすでに噛み砕かれたあとのその言葉は――
――しかし、私の中に浸透するのに先ほど以上の時間を要したのだった。