心塚牝鹿
先輩、甘い匂いがしたな。
香水みたいに匂いのためにある匂いではなく、もっとこう自然で、優しい感じの、ふわふわとしたお菓子みたいな、そういう包みこんでくれるような素敵な匂いがした。
思わず舐めたくなる甘い匂い。
思いだそうとするだけで反射的に口の中に唾液が溢れそうになる香りだった。
……って、これじゃあ私が変態みたいじゃないか。
べつに私が先輩のことを食べたいと思ってるとか、そういう話ではなく。
ただ単に彼女の体から発せられていた匂いの感想を述べただけ。
でも、あれっていったい、なんの匂いだったんだろう。
さすがにあれが地の体臭だと思うほど女の子に妄想を抱いてはいない。だけど先輩ならもしかしたら……? とか思っちゃう自分がいる。でもあれがホントに先輩の体臭だとしたら、先輩は糖尿病を疑ったほうがいいだろうし、私は頭の病院に搬送されたほうがいいと思う。
帰宅し、手洗いうがいを済ませていると、鏡に自分の姿が反射して驚く。
「なんて表情をしてるんだ、私は」
表情筋がごっそり抜け落ちてしまったみたいに、頬がだるーんと垂れ下がり、幸福を通りこしてジャンキーみたいな表情を浮かべていた。母親に見られる前でよかったと、頬肉をぐにぐにさせて無理やり表情を矯正させる。しかしすぐに表情はだらしのないものへと戻る。
……こりゃもう諦めるしかないな。
それにしても、今日はいろいろ練習を行ったはずなのにほとんど記憶から抜け落ちてる。
それもこれも、先輩のあれのせいだ。
先輩が『怖い』とか言いだすから悪いのだ。
なに……? 顔をまっ赤にして『だって怖いんだもん』って、なに!?
いや、そんなこと言われたら、こっちのほうが怖くなってしまう。
でも確かに、彼女の言っていた『怖い』という言葉も、私にはそれなりに理解できた。だって先輩の可愛さとか、自分の胸の高鳴りとか、自分が自分じゃなくなってゆく感覚とか。
とにかくもう、いろいろな恐怖が私を襲っていたのだから。
危うくあのまま先輩のことを押し倒してしまうところだった。
……はあー、自分で自分が気持ち悪い。
顔をぐにぐにやっているだけじゃ火照りは冷めてくれなかったので、冷水でべちゃべちゃと顔を濡らす。冷水は顔に触れるたびに、かたっぱしから蒸発でもしているのか、ぜんぜん私の熱を冷ましてはくれず、私はべちゃべちゃになっても笑い続ける自分の顔を情けない気持ちで見つめる。そのまま味のわからない夕食を食べ、体を引きずってお風呂に入った。
入浴していると、どうしても先輩のまっ赤な顔が思い浮かぶ。いや、バスの待ち時間も、バスを乗っている間も、食事中も、私の頭の中は先輩でいっぱいだったんだけどさ。
それでも入浴中はほかのタイミングに比べて雑念なく先輩のことを考えることができた。
……私、先輩のこと好きになっちゃった。
おととい那月さんに『恋だよ』と言われたときは、正直、このひとはなにを言っているんだろうと思った。だけど今まで、ぐちゃぐちゃと混沌を描いていた感情は『恋』という名前と志向を与えられた途端、ある種の明確さをともなって、私の感情を支配したのだ。
私は先輩のことが好きなのだ。
そうと気づき、そうと思った瞬間、想いが一気に止まらなくなった。
だから他のすべてをかなぐり捨ててでも、私は放送部に入って彼女のそばにいたかった。
すべてはそんな単純な話だったのだ。
今まで恋をした経験なんてなかったから、そうと気づけなかっただけ。
まさか自分が恋に落ちた瞬間、こんなふうにのぼせ上がってしまう人間だったとは思いもしなかった。むしろそういう人間たちを横目にバカにしてたくらいだから、余計にだろう。
……恋にかまけるなんてバカみたいって、そう思ってたのに。
だから自意識がストッパーになって、気づくのが遅くなってしまったのかもしれない。
「でも……先輩の言ってた『怖い』ってなんなのかな」
顔を朱色に染めて、熱に濡れた瞳で私のことを見つめてくる先輩――あれはまず間違いなく恋する乙女の表情だ! と先ほどまでは、なんの疑いもなくそう考えていた私だけど、あらためて考えなおしてみると、それはあまりにも楽天的すぎる思考な気がしてきた。
……だって相手ったらあの先輩だし。
あのひとは予想の斜め上と下を行ったり来たりするひとなのだ。
常識を当てはめられるひとじゃないってことは、最初からわかりきってたことじゃないか。鼻から下を湯船に沈めてぶくぶくしながら、どうしたものかと心の中で唸ってみる。
……と言うかあまりに急すぎない……かな?
冷静さにつられて我に返ってみると、私と先輩が出会ってから一週間しかたっていないことに気づいてしまう。普通ってどれくらいのつき合いと関係で恋に落ちて、恋人になるのかな。
……いやいやいや! 恋人になる前提で話すのはおかしいんだけどさ! でも、やっぱり、どうせ頭の中でお話を進めるのなら、できるだけ明るい方向に考えたいじゃんか。
で、恋人になるには具体的に、どれくらいの期間が必要なんだろう。
ぶくぶくぶく。
と風呂の中で泡を作ってみるけど、私の中に答えがあるはずもない。
だから私はない知恵を絞って必死に考える。
先輩への熱意とお風呂の熱気で火照った頭で必死に考える――
――ゆっくりと、段階を踏んで、互いを知り、好きを自覚し、恋を深めて、愛を育む。
そんなふうに長い時間をかけることがただしい恋なのだろうか。
しばらく考え、私がだした結論は――
――ならば私は醜くてもかまわない!
というなんとも単純明快なものだった。
相手を知り、自分を知ってもらい、それでなにが変わるのか。
自分の中の好意を本物かどうか、確かめる期間が欲しいのか。
それとも、相手に好いてもらうだけの有余を求めているのか。
どちらもバカらしいと私は思う。
だって私が愛して欲しいのは『先輩のことが大好きな私』なのだ。
取り澄ました顔で気取り、相手の様子を伺う『先輩に好かれたい私』ではない。
もちろん私だって先輩に好きだと言ってもらいたい。
大好きだって囁かれたい。
愛してるって示されたい。
だけどそんなふうに欲しがるだけの自分を愛してもらおうだなんて思わない。
ただ好きだ。
それだけだ。
それだけの自分を先輩に認めてもらいたい。
愚直が私であり、後先なんて現在に存在しないものを考えたってしょうがない。
――鹿なのに猪突猛進! それが私なのだ!
未来にはいつだって、好きなだけ、後悔する時間があるのだ。だから、ほら、今くらいは、考えるのも、後悔の練習もやめて、ストレートに自分らしくあっていいじゃないか!
そんな清々しい結論に達したとき、私の頭はすでに茹で上がっていた。死に体の私は、風呂から出てこないことを不審に思った母親によって、のぼせた姿で発見されたらしい。