緒輪島紗和

 

『バスケはよかったの?』

 そんなメールを心塚さんに送ってしまい、私はすぐに後悔して、三時間近く自己嫌悪にかられていた。胸がぎゅうぎゅう締めつけられて、なんだかわけもなく泣きそうになって、もう二度と心塚さんが放送室に来てくれないんじゃないかと思って、悲しくて仕方がなかった。

 だから三時間越しに彼女から長文メールが届いたとき、私の頭はまっ白になった。

 なんて返信していいのか、わからなかった。

 だって私はもう彼女に嫌われてしまったと思っていたから。

 なにより彼女がそんなふうに思ってくれているだなんて考えてもみなかったから。

 もう頭が沸騰してしまって、わけがわからなくなったのだ。

 だけど、あのメールのおかげで心塚さんが私のこと……いや、放送部のことを好いていて、興味を持ってくれていることはわかったから、今までの悲しみがうそだったみたいに感情が喜びに振り切れた。嬉しくて堪らなくて、私も頑張らなくちゃなって、思うことができた。

 そのあとは心塚さんと、延々とメールをして土日を潰してしまった。こんなふうに夢中でだれかと繋がっていたことなんて今までなかったから、それはとても新鮮で楽しかった。

 土日の予定を一生懸命になって組むひとの気持ちが私にも少しだけ理解できた。

 隙間だらけだった休日に心塚さんが埋まってゆく感覚は、とても心地良かったから。

 隙間の時間に好きなものを埋めてゆく作業を、ひとは人生と呼ぶのかもしれないなって。

 そんなことを大真面目に考えてしまうほど素敵な土日をすごして月曜日。

 心が浮ついていたせいか、休日が明けてなお、普段よりも時間の流れが早く感じられた。

 放課後になって、放送室に入って、心の準備をしていると心塚さんがやって来る。相変わらず動作が軽やかで、背筋が伸びてて……あの、その、なに? ちょっと怖いなって思う。

「先輩、こんにちは。なんかその……変なメール送っちゃってごめんなさい」

「へ、変なメール?」

 土日はたくさんメールを送り合ったから、どのメールをさしているのかすぐにはわからなかった。むしろ私のほうが彼女に『変なメール』を送っていないか心配だったくらいだったし。

「えっと……あれです。バスケは良かったの? って聞かれたときの、長い返事です」

「あ、あれ」

「そうです。あれです」

「いや、う、ううん、大丈夫……う、嬉しかったし……心塚さんの、嬉しかったし……」

 メールの内容を思いだして、心がぎゅっと握り潰される。

 そのぎゅっ――で血液が一気に全身に巡って、口から喘ぎ声が漏れる。

 緊張と恐怖と、あと奇妙な強ばりのせいで、舌と頭が満足に回らない。

 ……や、やっぱり、本人を目の前にしちゃうと、うまく喋れないよ。

 普段から頭の回転は早いほうではないけど、今は頭の中の歯車が噛み合わず、ぎちぎちと不協和音を奏でていた。喋るのってこんなに難しかったっけ……? って、そんなことばかり考える。まだ教室で発表したりするほうが簡単なような気がしてくるほどだから相当だろう。

 ……私は先輩なんだから、いつまでもこんなんじゃいけないよね。

 先輩と後輩。きっちり放送部として活動するため、私はもう少し心塚さんに慣れる必要があるだろう。だから私は例の『恐怖心を緩和させるための手続き』を踏むことにした。実際、この手続きにどの程度の効果があるのかはわからない。それでも、やらないよりは多少はマシだろうし、なにより初海ちゃんが教えてくれた方法なのだから間違いはないはずだ。

「あー、その……心塚さん、ゆ、床に、座って欲しいなって」

「あ、はい。床、ですよね……ってことは、あれ、ですよね」

 心塚さんは戸惑いながらも、抵抗することもなく床に正座してくれる。相変わらず武道でも嗜んでいるのかな? ってぐらい姿勢が良くて、軽く威圧感を覚えてしまう。

 でもどうして正座なんだろう。

 どんな座り方がただしいかなんて私にはわからないけど正座は絶対に変だ。

 ……うん。心塚さんって、ときどき変だよね。

 たぶん本人は気づいてないんだけど、心塚さんはかなり天然が入っている。

 そういう彼女らしさが、私はけっこう好きだった。

「そ、それでは、触ります」

「今日は言ってから触るんですね……って、うわっ」

 心塚さん身を縮めて、ぎゅっと丸くなっている。

 私はそんな彼女の髪の毛をわしゃわしゃと触る。

 彼女の髪の毛は短めで、黒い犬みたいだなぁって思ったりする。私は犬とか猫とか、動物全般が苦手なんだけど、彼女に対する苦手意識は、そこに起因しているのだろうか。

 動物と人間、どちらが苦手かと聞かれると、難しいところなんだけど。

 ……おかしいな。

 心塚さんに慣れて、怖いって想いをなくすためにやっているはずなのに、髪の毛をかき回しているうちに沸きあがってくるのは、より強い恐怖で、私は軽いパニックにおちいる。どうすればいいのかわからなくて、落ちつきが失われ、いても立ってもいられなくなってくる。

 そして今日は心塚さんの挙動もおかしかった。

 丸かった背中が私から逃げるように一層丸くなってしまっていた。

 彼女は背が高いのに姿勢もいいから、そんなふうにされるとやけに目立つ。

 その姿はまるで自分の身を守ろうとしているハリネズミのようにも見える。

 そんな印象を受けたとき、私の頭にとあるひらめきが産まれた。

 ……もしかして心塚さんも私のことが怖いのかな?

 私が先輩だからだろうか。もしくはバスケ部から飛びだしてきて、慣れない放送部という環境に置かれたから、気持ちが弱ってしまっているのかもしれない。

 どちらにせよ、彼女が私と同じように恐怖心を感じているのは間違いないはずだ。

 そう考えると、なんだか私は、安心することができた。

 怖いのは私だけじゃない。心塚さんも一緒なんだって。

 だから心塚さんの頭を抱きしめて、引き寄せる。

 体は大きいのに、その頭は私でも簡単に抱きしめられるほどに小さい。

「う、うわはぁ……っ」

 私の胸元で心塚さんがふがふが鳴いた。

 彼女が暴れて抵抗するので、胸元でぎゅうっと抱きしめる。彼女が本気で抵抗すれば、私の拘束なんて難なく解けるはずだから、それはあくまで抵抗のフリでしかないはずだ。

 彼女の頭は妙に収まりがよくて安心する。

 この安心感を彼女にも感じて欲しかった。

「な、なにしてるんですか!?

 なのに心塚さんは私の胸の中で声を荒げていた。

「こ、心塚さんも……怖いのかなって……そう思ったんだけど」

「怖い……?」

 心塚さんは『怖い』という部分だけを切り取って返答とした。

「私が頭を撫でてたら、どんどん背中が丸まったでしょ? だから怖いのかなって」

「えっ、いや。そうじゃなくて、あれは……その、ただちょっと……恥ずかしくて」

「恥ずかしい?」

 先ほどの心塚さんみたいに私は、彼女の言葉の一部だけを切り取って問い返した。

「ん……」

 私の問いかけに対する心塚さんの答えは、小さな小さな鳴き声だった。

 どうやら今の彼女は恐怖より混乱のほうが勝っているようだ。

 それを無理やり鎮めるように彼女は何度か深呼吸をくり返す。

 たったそれだけで会話を行えるだけの平静を取り戻せてしまったらしい。

「恥ずかしい……ですよ。そ、そりゃあ、あんなふうに、髪の毛ぐちゃぐちゃーってやられたら。というか、先輩、さっきなんか、変なこと言ってませんでしたか……?」

「えっ、私、変なことなんて言ってないと思うけど」

「言ってましたよ。怖いとか、そんな感じのこと。それってもしかして私のことですか?」

「えっ――」

 ――あ、あれ?

 私、勘違いしちゃってたのかな?

 先ほどとは別の恐怖心に襲われる。

 だって、そうと尋ねる心塚さんの顔は、傷ついて、ヒビでも入ってしまっているようだったから。私はとにかく、心塚さんの気を悪くさせないように否定の言葉をくり返す。

 だけどそれはかえってわざとらしかったかもしれない。

「こ、怖いというか……その、わ、私って人前だと緊張して、うまく喋れなくて……でも、心塚さんの前だと、それが、いつも以上に酷くなっちゃうの。い、いつもはもうちょっとまともに喋れるんだよ……? う、うそじゃないからね? でも心塚さん……後輩だから、こういうの困るでしょ? 部活もちゃんとできなくなっちゃうし……怖い――じゃなくて、緊張しなくなりたかったから……慣れなくちゃって思って、それで、触れば慣れられるかな……って」

「はっ……へっ? 先輩そんなことのために、こんなことしてたんですか?」

「そ、そんなこととか、こんなこととか……なのかな……」

 心塚さんにそう言われると、自分のやってることが、とんでもなく愚かな行為なのではないかと思えてきてしまう。

 シュンとうなだれそうになっていると、心塚さんが慌ててフォローを入れてきた。

 さっきとは逆の構図だ。

「あ、いや……いろいろ試してみるっていうのは大事なことだとは思うんですけど……でもこれ、正直、逆効果な気が……いやだって、なんか私まで緊張してきますし……これ」

 これ、と言いながら、心塚さんは私のおなかに額をぐりぐり押し当ててくる。

 それを堪えるように私は彼女の頭を抱きなおす。

 彼女の小さな頭がかぁーっと纏わりつくような熱を帯びて、優しいゆたんぽみたいな抱き心地になっていた。そんな熱に溶かされ、私の身心の固さがほんの少しだけ和らいでゆく。

 言葉を選んで会話をするだけの余裕を、私もなんとか取り戻すことができた。

「それって、わ、私のことが……怖いから、じゃないの?」

「怖いんじゃなくて……むしろ、逆で……可愛いとか、やわっこいとか……私も抱きしめたいとか……あー、いや、そうじゃなくって、と、とにかく、いったん、離れましょ? ね?」

 心塚さんがぐぃーっと私の体を引きはがそうとしてくるので反射的に抵抗したくなる。

 だけど、おとなしく従っておくことにした。

 それでも互いの距離が近いのはどうしようもなくて――というか、むしろ、互いの顔を認識できるほどの距離が開いたせいで、余計に細かなことを意識せざるを得なくなった気がする。

 と、とにかく、この距離感はいけないなぁって私は思う。

 だってほら、唇が綺麗とか、ほっぺたが柔らかそうとか、睫毛が長いとか……そういうことを考えちゃう。こんな可愛らしいものを、先ほどまで私は抱きしめてたのか? とか。

 そういうことを考えちゃいそうになってしまうから。

 対する心塚さんはと言うと、ポカンと口を開け、顔を赤らめ、おめめをぐるぐるさせて、口角が不自然な形に吊り上がって、頬がひくひくしてしまっていた。

 もしかしたら私も似たような顔をしてたのかもしれない。

「え、えっと……」

 どちらともなく戸惑いの言葉を漏らす。

 私は足から床へ根でも張ってしまったみたいに身動きが取れなくなる。

 心塚さんも正座の状態からぴくりとも動かない。

 互いの視線が複雑に絡み合って、うまく引き剥がすことができなくて。

 ふたりして、あうあうと、口を開閉させていた。

 そんな状況から、先に動き出したのはやっぱり心塚さんのほうだった。

 それでも普段の彼女からは想像もつかないようなぎこちない動作で、私の背中へと手を回してきた。そして自分から、がばーっと私のおなかに顔を埋めてきたのである。

 しかもそのまま深呼吸をするオプションまでついてきた。

 おなかで深呼吸をされた経験なんてない私はどうしていいのかわからなくなる。

 吐きだされた吐息が行き場をなくして、私のおなかのあたりでぐるぐるまわる。

 湿り気を帯びた温もりがおなかに溜まる。

 でも、うん、正直、見つめ合っているよりは、幾分、マシになったような気がする。

「先輩ってバカですよね」

 噛み締めるようにしみじみと心塚さんはそんなことを言ってのけた。

 おなかに顔を埋めているひとにだけは言われたくないセリフだった。

「ばっ、バカじゃないよ!?

 初海ちゃんにも同じことを言われるけど私はバカじゃない。でも心塚さんにバカと言われてしまうと、学校の知り合いは全員、私のことをバカだと思ってることになってしまう。

 ……それって私がバカだからなのかな?

 違うと思いたい。

 でもでも心塚さんがそう言うのなら、私ってホントはバカなのかもしれないなって思っちゃう自分がいる。初海ちゃんは意地悪だけど、心塚さんは意地悪じゃないから。

 ……と言うか私、知らないうちに、ずいぶんと心塚さんのこと信頼してたんだ。

 でもどうして私、意地悪じゃないってわかってる心塚さんのこと、こんなに怖がってるんだろう? そんな私の心中を察したみたいに心塚さんがおなかの中で呻く。

「先輩、自分がホントに私のこと怖いって思ってるんだって……そう考えてるんですか?」

 だって私はこの感情に『怖い』以外の言葉をうまく当てはめることができない。

 心塚さんと一緒にいるとすぐに息が切れてくる。

 心塚さんの姿を見ているとひどく喉が渇いてくる。

 心塚さんの匂い嗅いでいるとを目眩が起きそうになる。

 心塚さんの肌に触れていると、動悸が激しくなってくる。

 それを恐怖と呼ばずして、いったいなにを恐怖と呼ぶのだろう。

「う、うん……だって怖いんだもん」

「じゃあ、やっぱり先輩って……バカですよ。バカバカのバカ、大バカです」

「ひ、ひどいよ、心塚さん!?

 バカは甘んじて受けいれようって気持ちになってたけど大バカはさすがに酷い。

「先輩がおバカさんなのはもういいです……それは置いといて、あれです、はい……たぶん、私も先輩のこと怖くなっちゃったみたいです。それに……なんだか疲れちゃったみたいです」

 そう弱々しく呟いて心塚さんはこてんと、私の膝を枕にするみたいにして横たわる。