心塚牝鹿
顔を洗って、麦茶を飲んで、部屋に戻ってくる。
今回は五七五にはならなかったなと少し目覚めた頭で考える。
母親に夢の中で学校でも行ってたのかい? と嫌味を言われたので、これから夢の中の部活に行ってくると返しておいた。さすがにこれ以上、惰眠を貪る気にはなれなかったけど。
机上のスマホを確認するとすでに返信があった。
……先輩、ヒマなのかな。
土曜の午後四時前。予定がなかったのだとしたら、もっともヒマな時間帯だとは思うけど。どういう経緯で先ほどの禅問答めいた質問が湧いてきたのか、ひどく気掛かりだった。
「まあ、あのひとの思考を理解できるとは思えないけどさ」
頭の中に宇宙とか詰まってそうなひとだし。
そんな失礼なことを考えながら私は先輩からのメールを確認した。
そして先ほどの軽率な返信メールを後悔することになるのだった。
『バスケはよかったの?』
後頭部のあたりにガツーン! と強烈な一撃をお見舞いされたような心地だった。
まさか先輩からそこを攻められるとは思ってもみなかったから完全な不意打ちだ。
「あー……」
口から呻き声が漏れるけど、舌と唇がうまく動かず、思うように言葉を紡げない。
……そりゃあ、よくはないんだけどさ。
代わりにふっと額のあたりに言葉が浮かぶ。
思わず手で払いのけたくなった。
しかしなんと言うタイミングの悪さだろう。
先輩がこんなメールを送ってきたのは間違いなく、なにかの偶然なのだろう。だけど私からしてみれば昨日の今日に違いなく、運命めいたものを一方的に感じてしまう。
……こんな運命、できれば感じたくなかったぞ。
先輩からのメールのせいで無理やり、自分の心と向きあうことを余儀なくされる。
眠りのおかげで多少クリアになった頭で考えてみても革新的な答えは出てこない。
一〇分ほど唸ったところで、これではキリがないと気づく。
昨晩も思ったけど、部屋に閉じこもって悩んでも、私のバカ犬じみた思考は同じ場所をぐるぐる回るだけなのだ。それならいっそ外に出て、違う刺激を入れたほうがいいかもしれない。
――先輩には悪いけど、ちょっと気分転換してこよ。
先輩には返信を少し待ってもらうことにした。これについては、いきなりわけのわからないメールを送ってきた先輩にも原因の一端はあるのだから、多めに見てもらうしかない。
私は春休み中に購入した自前のバスケ用のウェアに着替え、玄関のハンガーラックにかかっていたウィンドブレーカーを羽織ってから、勢い良く家を飛びだした。
「うう……さむっ」
四月も二周目に差しかかろうとしているのに、相変わらず外気は刺すような冷たさを帯びている。ウェアにビニルの上着を一枚を羽織っただけの状態だから、防寒が心もとない。
だけど飛びだしてきてしまった手前、家に戻るのも面倒だった。走っていれば温かくなるだろうと自分に言い聞かせ、目的地も決めないまま、とにかく前を目指して走り出した。
冷たい空気が肺を満たし、呼吸器を一気に冷やす。
喉から肺にかけて堅苦しい息苦しさがまとわりつき、痛みにも似た熱を訴えてくる。しばらくランニングをサボった分のツケが、そのまま筋肉と内臓に重くのし掛かってきていた。
だけどその痛みと息苦しさが、私を取り巻いていた苦悩を散らす。
信号に引っかかり足を止める。
交差点にびゅうと風が吹き、私にまとわりついていた残りの悩みも吹き飛ばす。信号が青になったのと同時にダッシュをかけ、足にまとわりつきそうになっていた青臭い懊悩を一気に引き剥がす。どろどろとした思考が消え、心身が今この瞬間へと洗練されてゆくのがわかる。
そのままもうしばらく走ったところで私は、
「はぁっ……!」
と息を吐ききって、歩きながら呼吸を整えることにした。
周囲を見回してみると、見慣れない風景が広がっている。なんとなく開栄高校のほうを目指して走ったつもりだったけど、どれだけ周りを見ても見覚えのある建物すらない。今のところバスで通学をしている状態だから、細かな立地や路地が一致しないのは仕方ないだろう。
ふと視線がとある店先に止まる。
『Fragile』と書かれた看板。どうやら個人経営の喫茶店らしく、全体的に木目調! という感じの色合いをしていて、落ちついた雰囲気を醸しだしていた。
普段ならこういう店なんて気にもとめないんだけど、店内にいる客層が意外と若いことに興味を惹かれた。こういうお店はお爺ちゃんお婆ちゃんとか主婦が溜まり場に使っているイメージだったけど、この喫茶店の主な客は私ぐらいの――たぶん女子高生で構成されていた。
――こういうの、なんかいいな。
うまく言葉にできないけど、とにかく私は、そんな感じのことを思った。
私は普段とは異なる刺激を求めて外に飛びだしてきたのだ。
だったらもう少し冒険してみてもいいのかもしれない。
気づくと私はその店の中に吸いこまれていたのだった。
頭上のドアベルがからんころんと可愛らしい音を鳴らす。
「いらっしゃ……って、ずいぶんと風変わりなお客さんが来てくださったね」
カウンターの向こう、凛とした立ち姿の女性が、私を上から下まで眺める。
つられて私も自分の姿を確認すると、汗に濡れたウィンドブレーカー姿の女がいた。
続いて店内を見回すと、寒そうな格好をした少女たちが目につく。外からでは少女たちの服装まではわからなかったが、どうやらファッションのために防寒性を度外視しているらしい。
……いや、格好の肌寒さなら私も負けてないけど。
そういう問題ではないことくらいファッションに疎い私にもわかった。
その場にいる全員がおとなびた綺麗系の格好をしていたり、可愛らしいお人形みたいな格好をしていたり、喫茶店という空間を多少なりとも意識した服装をしていたのだ。
うぐっ……と思わず呻く。
風変わりというのが、かなりオブラートに包んだ表現なのはわかった。
たぶん他の客は、全員こう思っているに違いない。場違いだ、と。
「ずいぶんと汗かいてるみたいだけどスポドリでも買ってこようか?」
冗談なのか嫌味なのか判然としなかったけど羞恥心が振り切れたのは確かだった。
「あの、すみません私……お店、間違えたみたいです!」
つい体育会系のノリで声を店内に響かせてしまう。私の声でびりびりと空気が震えたような気がして、それがさらに私の羞恥を上塗りして、もう、さっさと踵を返すことにした。
「ああっ、ちょっと待って。不快にさせたなら謝るからさ。あなたみたいな子が珍しいっていうのは事実なの。お詫びにコーヒー一杯くらいなら奢るから、ゆっくりしていきなよ」
すでにドアに体を向けていた私は、首だけで女性をかえりみた。
目が合うと、ちょいちょいと手招きをされる。
カウンター席に座れということらしい。
……まあ、奢ってくれると言うのなら。
と欲に負けた私はカウンター席に腰かけた。台座の部分が丸くカーブした木製の椅子で、背もたれはあってないようなものだったけど、流れが腰にフィットしていて座りやすい。
そこで私は、あらためて店内を見回した。
スタバとか、ドトールとか、女子高生や大学生が好みそうな感じのスタイリッシュな雰囲気ではなく、どことなく古臭い空気が店内には漂っている。だからと言って暗いわけではなく、しっとり隠れ家めいた感じで、心が落ちつくのがわかる。レトロと言うよりはアンティーク寄りと言うべきか、こういう空気が好きな客を狙い撃ちにしていた。先ほどのやりとり通り、明らかに私は客層から外れてはいたけど、物珍しさから心を躍らせてしまう。
「苦いの――というか、コーヒーとか好き?」
落ちつきなく周囲を見回していた私へと店員の女性が尋ねてくる。
好きとか嫌いの判定以前に私は純粋なコーヒーを飲んだことがなかった。
「……コーヒー牛乳なら飲んだりします」
「素直でよろしい」
なぜか私の回答がお気に召したらしく、女性はくすりと笑みをこぼした。
「なら無難にカフェモカあたりにしとこうか」
「カフェモカ……えっと、じゃあ……それで」
カフェオレなら聞いたことがあるけど、モカってなんだろう。
苦いのか甘いのかハッキリしない印象の名前だった。
中学時代、部活に所属せずに遊びほうけて、スタバとかに通っていた同級生たちは『あー、はいはいカフェモカね。中二で済ませたわ』みたいな反応をするのだろうか。
……カフェモカが済ませるものなのかは知らないけど。
まあ、彼女たちがカフェに行っているあいだ、私たちは部活帰りにラーメン屋に通っていたのだから、お互い様だろう。私は彼女たちが唱えられないニンニクアブラ系の呪文を修得しているのだ。だれに誇れるのかは、さだかではないけど、ラーメン好きな女子は意外と多い。
「もしかしてカフェモカってなんだろう……? とか考えてる?」
「あ、いえ……今はもうラーメンのこと考えてました」
「ラーメンって胃袋に正直すぎるでしょ。残念ながらうち、ラーメンは出せないよ」
「それぐらいはわかってますよ」
こんな雰囲気のいい喫茶店、ニンニクの臭いを漂わせただけで犯罪ものだろう。ただ窓際の席で澄ましている彼女たちが、思いきりラーメンを啜っている姿は見てみたいと思った。
「カフェモカはね、メチャクチャ雑に説明するとコーヒー牛乳にチョコをかけた感じ」
テキパキと手を動かしながら、店員はこれ以上ないほど雑そうな説明をしてくれた。
「メチャクチャ甘そうですね」
「コーヒー牛乳の砂糖の代わりにチョコが入ってるって考えればいいんじゃないかな。それでも甘いことには変わりないけど。まあ、ラーメンほどカロリーはないと思うから安心してよ」
ほどなくしてカウンターの向こうからコーヒーの香りが漂ってきた。
うちの家族は父親がインスタントコーヒーを飲むくらいだ。
だからコーヒーに対してあまりいい印象はなかった。
なんとなく口臭がキツくなって、マグカップにシミが付きやすいのかなってくらい。
だけど彼女が作っているそれは私の知ってるコーヒーとはまったく別の代物だった。
それはとても静かな匂いだった。花と言うよりは草木で、空気その物に近くて。嗅いでいると森の中で深呼吸をしているような、そんな安らぎが訪れる、そういう静謐な匂い。
……作ってる最中のコーヒーの匂いって、こんなにいい香りなんだ。
少し背伸びをしてまで喫茶店に通いたがる人びとの気持ちが少しだけ理解できた気がした。
……私も時間があったら、また来てみようかな。
なんて思いながらメニューを見ると、カフェモカの値段が七五〇円であることに気づく。
……えっ、喫茶店の飲み物ってこんなに高いの!? ラーメン一杯いけるじゃん!
コーヒーに気持ちを持ってかれていた私は、その値段で一気に現実へと引き戻された。
そのタイミングで音もなくすっとマグカップが差し出される。
「うわっ」
現れたコーヒーを見て、私の口から変な声が漏れた。だってそこには、マグカップから溢れん勢いで生クリームが乗っていて、その上にさらにチョコシロップがかけられているのだ。
私の想像していた『大人のコーヒー!』とは違う代物で、パフェみたいな見た目だった。
ついてきたスプーンで生クリームを一口してみる。
……うん。普通にチョコのパフェって感じの味だ。
それからクリームとシロップを溶かしながら、コーヒーも飲んでみることにした。
次の瞬間、私の口からは感嘆の吐息が漏れていた。
「えっ、なにこれ、美味しい」
コーヒーの複雑で一筋縄ではいかない苦味と酸味――それをうまく言語化できるほど、私の舌は成熟していなかった。だけど甘さ控えめの生クリームと、コクのあるチョコシロップが、それらを包みこんで、不快感のないスッキリとした、大人っぽい甘さに仕上がっていた。
見た目通りスイーツ寄りの味だったけど、だからこそ私でも楽しめる味だった。
「喜んでくれたようでなにより」
店員は安心したように、こぼれるような笑みを浮かべた。
「私はここのマスターをしてる
「あ、えっと……ごていねいにどうも。私、高校生の心塚牝鹿っていいます」
まさか喫茶店でマスターから挨拶をいただけるとは思わなかったので、恐縮しながら頭を下げる。カウンターの向こうの席に座って頬杖をつきながら、神代さんは微笑んでいた。
……カッコイイひとだな。
ついそんな感想を抱いてしまいそうになる程度に神代さんは整った顔立ちをしてる。スッと伸びた背筋、肩胛骨のあたりまで伸びた髪の毛を一纏めにして、背中へと流していた。
女の武士って感じだ。
そんなものが存在するのかはわからないけど。
「えっと、神代さん――」
「那月でいいよ。みんな『那月さん』って呼ぶし、その名字、あんま好きじゃないの」
「……シロでクマだからですか?」
「えっ?」
一瞬、神代さんはポカンとした表情を浮かべ、次の瞬間、一気に破顔した。
「なに、シロクマって言いたいの? さっきも思ったけど、牝鹿ちゃんって天然?」
神代さんに言われ、自分の発言に対し、思いだしたように羞恥心を覚えてしまう。
「あ、いや……普段は絶対、そこまでトンチンカンじゃないんですけど……」
慣れない空間のせいで緊張しているのだろうか。
それともこの一週間で私の頭は、先輩の空気に毒されてしまったのか。
「シロクマね。そう考えてみると……私の名字もそう悪くない気がしてきたな」
「なら良かった……んですかね」
「で、牝鹿ちゃん。さっきなにか言おうとしてなかった?」
「あ、そうでした。那月さん、その……コーヒーごちそうになっていいんですか?」
「それを飲んだあとに聞くのは、なかなか図太くていいと思うよ。まあ、新規客を開拓できるならそれが一番だしね。美味しかったなら、牝鹿ちゃんが友だちとかつれてきてよ」
「なるほど」
お詫びと言いつつ商売に結びつけるあたり、商魂たくましい女性であるらしい。
……友だちか。
友だちと聞いて、ふっと頭に浮かぶのは、当然のように小鞠の姿だった。それとほぼ同時に先輩の姿が浮かんできて、どちらも喫茶店という柄ではないなあと苦笑が浮かぶ。
……まあウィンドブレーカー姿の私が言えたことじゃないけど。
「なんだか青春の匂いを感じたけど牝鹿ちゃん、友だちとなにかあったの?」
「どうしてわかったんですか?」
「これ見よがしに『友だちか』なんて呟かれたら、それぐらい察しはつくよ」
「……声に出てましたか」
「ばっちり出てた。わざとかな? って思ったし」
そうだったか……と、自分の迂闊さを反省する。
だけどこれはある意味チャンスなのかもしれない。ピンチはチャンス……と言うのとは少し違うかもしれないけど、私の知人の中で那月さん以上に相談相手にふさわしそうな相手はいない。彼女は好奇心を隠そうともしないまま、私へと、ぐいっと顔を寄せてきた。
「お姉さんに話してみなさい。で、仲直りできたら『この喫茶店のおかげで仲直りできたんだよ』ってその友だちを連れてくればいい。そうすればウィン・ウィンの関係性が築けるでしょ」
完全に渡りに船だった。
ちょっと野次馬感が強かったけど、私は思い切りよく、この船へと飛び乗ることにした。
「じつは私――」
那月さんに先輩の放送の話、それまでのバスケと親友だけの人生の話、放送部とバスケ部の板挟みで悩んでいる話、そして悶々と悩んだ挙句、外に飛びだしてきたという
内容を掻い摘んでいると、あまり話すことがなくて驚いてしまう。自分の人生の薄っぺらさと言うか、キャパシティの小ささに俄然としてしまった。それに加えて――
「牝鹿ちゃんはさ、たぶんバカなんだと思うよ」
相談相手の那月さんにまで、そんなことを言われてしまう始末だった。
ただ先ほどの話の感想として『バカ』とだけ言われるのはあまりに釈然としなかった。
「まあ、自分がバカなのはわかってますけど……」
少しだけ顔を上げているのがつらくなって、視線をテーブルのほうへと下げてしまう。
そんな私のつむじのあたりに、那月さんの焦ったような声が届いた。
「ああ、ごめん。私も言葉を選べるほど頭よくないからさ。私、『牝鹿ちゃんは、同時にいろいろなことを悩めるほど器用じゃないんじゃない?』って言いたかったんだよ。バスケ部とか、親友ちゃんとか、放送部とか、先輩とか、そういうのを一緒くたにまとめて考えるから、わけがわからなくなるんだと思うよ。まずはさ、牝鹿ちゃんにとって、新しく現れた放送部っていう空間と、その先輩という存在を、きちんと定義するべきだと思うよ。天秤の皿に乗っけるのは、その定義がハッキリしてからでも遅くないんじゃないかなって、私はそう思ったわけ」
「な、なるほど……放送部と先輩の定義」
確かめるように那月さんの言葉を反芻させると、彼女もうんうんと頷いてくれる。
「牝鹿ちゃんは、どうして放送部に入りたくなったんだっけ?」
「それは、先輩の放送を聞いて……」
「だけど牝鹿ちゃんは、先輩みたいな放送をしたいってわけではないんでしょう?」
「そう……です。放送を聞いて、放送室に行って、そしたら、放送部に入りたいって気になって。理由とか、そういうのは、まだよくわからないんですけど……とにかく入らなきゃって」
ほとんど支離滅裂な私の呟きを、それでも那月さんは頷いて聞いてくれた。
そして、しばらく黙考したあと、もしかしてさ……と言葉を少し濁らせた。
「牝鹿ちゃんは放送部に入りたいんじゃなくて、その先輩と一緒にいたいだけなんじゃない?」
「えっ……先輩と一緒にいたいだけ?」
その言葉が頭に引っかかる。
確かに昨日、私も似たようなことを考えていた。
私は放送ではなく、先輩に惹かれてるんじゃないのかなって。
だけどそう言葉によって明言されてしまうと、自然と拒否感が出てきてしまう。
「でも私、先輩とそんなに親しくないし……」
「一緒にいたいって想いに、親しいとか親しくないとか関係ないよ」
私の言葉を遮って、那月さんは断言した。
その力強さに私は、彼女の顔を見つめることしかできない。
「理由も原因もわからないけど、とにかくそのひとと一緒にいたい。それってけっこう自然な感情だと私は思うよ。私だってそう思うことはあるし、それに名前だってついてるもん」
「……なんて名前ですか?」
恐る恐る、私は尋ねる。
そんな私を見て、那月さんは薄氷みたいに綺麗な笑みを浮かべた。
「恋だよ」
「恋……?」
恋……と確かめ、噛み締めるようにもう一度、口の中で呟く。
途端、別の生きものみたいに、ぴょんっ! と心臓が跳ねた。
「そう。牝鹿ちゃんはその先輩に恋をしてるんだと私は思うな」
重ねられた言葉から逃れるように、マグカップの底に残っていた液体を啜る。どろどろと舌にまとわりついてくるそれが、苦いのか甘いのか、今の私にはよくわからない。
自滅してしまった喉を唾液を飲みこむことで潤してから私は反論を口にすることにした。
「で、でも先輩は女のひとですよ?」
その大事な部分を話していなかったから、那月さんはそんなことを言うのだ。
そう思っていたんだけど、那月さんはさして意外でもなさそうに口を開いた。
「へえ? でも女同士でも恋ぐらいするよ。私はそういうひとたちを何人も見てきたもの。だから牝鹿ちゃんの感情だって『女同士だから』って理由で『恋じゃない』とはならない」
「そう……なんですか?」
断言に断言を重ねられて、自分の価値観が揺らぐのがわかった。
……私が先輩に恋をしてるだって?
当然だけどそんな可能性、まったく考えたことがなかった。
「まあ、私は誘導する気はないから。そういう可能性もあるくらいに考えればいいと思うよ。焦って、そこを見誤ってしまったら一生……牝鹿ちゃんは後悔することになると思うから」
そう優しげに告げ、那月さんはすっと目を伏せる。長い睫毛に縁取られた瞳が揺れ、他ならぬ彼女自身が、なにかを後悔しているのではないかと、私に思わせる。だけど私がなにかを迷ってるあいだに、その憂いは消え、那月さんは薄っぺらい笑みですべてを塗り潰した。
口を開こうかと悩むが、奢りのコーヒーを飲み終えてなお、長居するのも悪い気がした。
「那月さん……相談、乗ってくれてありがとうございました」
「相談に乗ったと言うか一方的に意見を言った感じだけどね。解決の糸口になればいいけど」
「こ、恋とかそういうの、よくわからないですけど……えっと、そういうことも含めて、いろいろ考えてみようと思います。コーヒー、ごちそうさまでした。美味しかったです!」
立ちあがり、帰り支度を整える。とは言っても、完全に着の身着のままだったので、軽く襟を直したりしただけなんだけど。なんと言うか、見栄みたいなものだ。
「うん。いろいろと落ちついたら、先輩でも、親友でもつれてきてよ」
「はい!」
そう元気を振り絞って答え、喫茶店をあとにする。
そんなに話しこんだつもりはなかったんだけど、四月の陽は落ちるのがまだ早いのだろう。外はすでに小うるさいまでの茜色に染まっていた。気持ちを冷まし、心を落ちつかせたかった私は、まっすぐ家には帰らず、もう少しだけ周囲を歩き回ってみることにした。
しばらく足を進めていると、自然と意識が思考へと向かってゆく。
私が先輩に好意を抱いているのは間違いない。
だけどそれが恋なのかと聞かれたら、恋を知らない私には答えを出すことができない。
……じゃあ小鞠への想いはどうなんだろう。
小鞠のことだって好きだ。間違いなく大好きだと言いきれる。
だけど『先輩への好き』と『小鞠への好き』はなにかが決定的に違う。
先輩を想ったとき、私の胸に表れるのは、ちりちりと焦がれるような熱だったから。
たぶん私は――他のだれよりも先輩を失うことを怖れている。
なによりも彼女のそばにいたいと、そう願ってしまっている。
それを恋と呼ぶのかどうか私にはまだわからないけど、出すべき答えは見つかった。
――だれかが哀しむとか、そういうことを考えるのはやめよう。
ただ自分の想いに正直になればいい。
この焦がれる想いに導かれればいい。
私はポケットからスマホを取りだして、先輩への返信メールを打ち始める。しかし外の寒さのせいか気持ちの高ぶりのせいか、指先が震えてうまく文面を作れない。
だけど、それでも、とにかく、今すぐ、先輩にこの想いを伝えたかった。
『ホントはあの日、私はバスケ部に入る予定だったんです。でも先輩の放送を聞いて、放送部に興味を持って、放送室で先輩に会って、放送部に入るしかないって、そう思ったんです。一緒にバスケ部に入る予定だった友だちと、少しだけ距離ができちゃったけど……私は先輩に出会えてよかったって思ってますし、放送部に入ったこと、後悔とか、してませんから!』
文面が完成すると同時にメールを送信する。
メールを返してから、なにをひとりで盛りあがってるんだと冷静になる。
これが私の答えであることに違いはない。
だけど私の問題と答えに、先輩はなんのかかわりもないのだ。
いきなりこんなことを言われたって、先輩は戸惑うしかないだろう。まあ、私だって先輩のメールには充分に戸惑わされたのだ。仕返しとしては可愛らしいものだと思う。だけど……
……あはは。これじゃ、私も先輩と変わんないな。
苦笑とともに自己嫌悪に見舞われるけど、心は昨日より少しだけ軽やかだった。