心塚牝鹿

 

「……先輩? どうしてぷるぷるしてるんですか?」

 放送室にやってきた私を出迎えた先輩は、なぜか爪先立つまさきだちの状態で私を出迎えた。ピンと伸びた爪先と背筋が、限界を訴えるように震えていて、意地らしさが強調されている。

 つんと額をつっついたら、そのまま転んでしまいそうで、その欲求を堪えるのが難しい。

「そ、その理由は……教えられないんだけど」

「教えられないんですか……あっ、もしかしてそれ、練習のひとつですか?」

 背伸びってけっこう足腰や体幹が鍛えられるし、そういう姿勢が発声にはいいのかもしれない。そうと決まればと私も先輩に倣って背伸びをしてみる。春休み中も運動を欠かさなかったおかげか、スッと背筋が伸びて、こんな姿勢でも安定して立つことができた。

「だ、ダメだよ! 心塚さんが、せ、せ背伸びとか反則だよ! い、違反だし、ズルだよ!」

 背伸び状態の先輩に背伸びを咎められてしまう。

 しかも徹底的に反則扱いされるし。

 ものすごい理不尽だった。

「なんでですか!? しかも反則とかズルってなに!?

 困惑と混乱の連続で頭がおかしくなりそうで、ついつい声を荒げてしまう。

 私たちはいったい何と戦っていて、私はなんのルールを違反してしまったのか。

「と、とにかくダメなの! あっ、あと、ちょっと座って……欲しいな」

 ちょいちょいと先輩はパイプ椅子を指さす。

 おかしな先輩だ……いや、いつもそれなりにおかしいけど、今日の先輩は当社比六割増しくらいでおかしかった。そんなことを考えながら椅子に腰かける。

 先輩は依然として背伸びをやめようとはせず、ぷるぷると私を真正面から見つめていた。

 しかし納得がいかないのか、しきりに首を傾げている。

「……違う」

「なにが!?

 さんざん振りまわされた挙げ句に『違う』認定され、心中穏やかでいられるはずがない。

「ゆ、床に座って」

 私の感情など気にもとめず、今度はちょいちょいと床を指さす。

「ゆ、床ですか!? じかにですか!?

 もう自分がなにに驚いているのかすらわからなくなってしまっていた。

 半分くらい、単に叫びたいだけみたいな感じになっちゃってる気がする。

 だって素面じゃ気が狂いそうだし。

「絨毯だし……大丈夫だよ。たぶん」

「そ、そりゃあ、そうですけど……」

 真意を確かめるためにちらりと目の色を見やるけど、どう見てもマジの目だった。

 断ろうものならその目に涙を溜めて、二度と私と話してくれなくなりそうだった。

「わ、わかりましたよ」

 私は椅子からおりて正座する。先輩からの圧力のせいで正座してしまったけど、背伸びする先輩の前で正座するという構図は言うまでもなく頭がおかしいと思う。

 はたからどう見えるのかを想像すると、危うく妙な嗜好に目覚めてしまいそうになる。

 新手のプレイかなにかなのだろうか。放送部の部長がなぜ新しいプレイを開発する必要があるのかわからないけど先輩ならそういうこともあるのかもしれない。なにせあの先輩なのだ。

 どの先輩なのか。自分でもわからないけど。

 背伸びをしながら私を見おろす先輩の視線は、どこか余裕がないように思えた。

「……先輩……もしかして怒ってます?」

「ん……? あー……い、いや、そういうわけじゃないけど……」

「いっそ、ひと思いに怒ってくれたほうが楽だったんですけど」

 だったらどうして私は正座をさせられてるんだよって感じだし。

 いや正座を選択したのは私の意志なんだけどさ。

 でも座らせたのは先輩だし――って、

「……えっ?」

 先輩のすっとんきょうぶりは、さらに熾烈を極めようとしていた。

 だって、なぜか先輩は急に、私の頭に両手を乗せ始めたのだから。

 全体的な雰囲気が宗教的で、ポージング的にこのまま念でも送ってきそうだった。

「は……? ほんとになんなんですか……? これ大丈夫ですか、いろいろと……」

 怪しげな儀式でも始まったのではないか? そんなふうに勘繰ってしまう。

 そのまま先輩は指先を私の髪の隙間に入れて、わしゃわしゃし始めた。まるで犬にでもそうするように――って、先にわしゃわしゃしたいって思ってたのは私だったのに!? とか考えるけど正直それどころじゃない。だって先輩の細い指先が私の髪を、頭皮を、弄んでた。

 緊張やら興奮のせいで心音が高鳴って、汗が過剰に分泌されていくのを自覚する。

 嬉しいけど、それ以上触られたら汗臭くなっちゃいそうだから!

 ちょっとたんま!

「先輩、ストップストップ、ストップ!」

 叫ぶようにしてタイムアウトをとってしまうけど先輩がそれに対して、

「い、イヤ……だった?」

 とか潤んだ声で問うてくるものだから、もう、私は抵抗する気すら失せてしまった。もう疑問とか、常識とか、そういうものを持っている私には、先輩に勝てる余地がなかった。

「や……イヤってわけじゃなくて……ただ、意味がわからなくて……」

「な、なら、もう少しこのままで」

「は、はぁ……?」

 やはり説明はないらしい。

 私は先輩にされるがまま、しばらく頭をわしゃわしゃされ続ける。頭皮の敏感な部分を手で犯されて、心地いいような、気持ちの悪いような、不可思議な想いにかられてしまう。

 ……なんなんだ、もう、これ……好きにしてくれ!

 身も心も先輩に投げわたすと、先輩は容赦なく私の髪の毛を愛撫し続けた。

 具体的な時間にすると一〇分ほど、飽きもせずに私を撫で続けていたのだった。

「はぁ……っ、はぁ……あうっ、ひぅー」

 愛撫が終わって、やっと生きた心地が返ってくる。

 だけど呼吸を整えようと躍起になればなるほど、余計に呼吸が崩れてゆくような気がする。部活が始まって三〇分もたっていないのにすでに満身創痍とは放送部恐るべし。

 そして先輩は先輩で、なぜか私と同じように絨毯の上に正座して、じっと私を見ていた。

「えっと、さっきのはホントに放送の練習とは関係なかったんですよね?」

「んっ」返答は肯定。

 私の心は曇り。理屈を求めるだけムダなのだと悟った十五歳の春だった。

「そうですか。じゃあ昨日言ってた放送部の練習、考えてきてくれました?」

「あっ」

 先輩は表情筋だけで巧みに『しまった』という表情を形作ってみせた。

「さっきの変なののせいで練習を考えるの忘れたとか言いませんよね?」

 先輩は黙しながら、そっと目を逸らした。

 私はもう笑うしかないと精一杯の想いをこめて笑った。

 なぜか先輩も笑っていた。引き攣るような笑いをこぼしていた。

 ひとしきり笑い終えたあと、ゾッとするような虚無感に襲われながら口を開く。

「……じゃ、じゃあ、練習は来週からですね」

「ご、ごめんね……?」

「……い、いいんですって。あれにも一応、先輩なりの考えがあったんですよね? ……私には理解できませんでしたけど……なんだろ、先輩と後輩のスキンシップとかですか?」

「そ、そそ、そんな感じ……だと、思う」

 こくりこくりと先輩は水飲み鳥みたいな動きをくり返す

「うん、もう先輩がそう思ってくれてるだけで充分だってことにしておきます」

 そして訪れるのは沈黙。

 このままでは今週の活動が終わりそうだったので会話を引き延ばすことにする。

「業務とかってどうなりましたか? 先生に聞いてみるって言ってましたよね?」

「う、うん、聞いてみたけど……とりあえずは昼の放送に専念してくれって言われた。も、もともと、呼びだしとかは事務で回せる仕事らしいから、部活のほうに回すのにも、多少の手間とか……かかっちゃうんだってさ。だから、頃合いを見て、頼んでみるって」

「だったら、しばらくは放送と練習だけになりそうですね。日程とかどうしますか?」

「か、火曜日と……木曜日に、ほ、放送なのは決まってるから、それに合わせる形で組もうかなー……とは考えてたけど、な、なにか、希望とかある?」

「もとは毎日、放課後に練習してたんですよね?」

「んっ」

「だったら私も毎日で大丈夫ですよ。私は一年生だし、未経験だから、それくらいやらないとって思ってたし、それに早く先輩と一緒にラジオとかやりたいですから!」

「お、おぉ……っ」

 先輩は両手を握りしめて、身体を震わせている。全身で喜びを表現してくれていた。

 私と先輩が正座をしていなければ、それなりに絵になる場面だったと思う。

「い、一緒にがんばろっ」

「はい、頑張りましょう!」

 うん、全体的にまとまりがよく、油断すると私も『それじゃ、また来週!』とか言っちゃいそうだ。だけどこのまま終わっちゃうのも、なんだかもの悲しいような気がする。

 だってまだ放送室に来てから一時間もたってないのだ。

『先輩、これから暇ですか? お時間とかあるなら一緒に出かけません? ホラ、私ってば、高校生始めてから一週間もたってないじゃないですか! 高校生っぽいところとか、つれてってくれたら嬉しいなぁ~……なんて思っちゃったりなんかしたりして!』

 みたいなことを言ったら、先輩はどう返答してくれるだろう。

 いつも通り、あうあうしながらも『いいよ』って言ってくれるのかな。たぶん、先輩のことだから、ホントは断りたくても、断ってはくれないんじゃないかなって思う。

 そういう相手を誘うのはなんだか気が退けてしまう。

 それになにより、先輩が高校生らしいことをしている図がうまく想像できなかった。

「そうだ、先輩、LINEのID、交換しましょうよ。連絡とかするとき便利ですし」

 だから自分の中での落としどころを見つけて、先輩に提示してみる。これくらいなら大丈夫だろうという境界線だったんだけど、先輩は渋面だ。失敗したかな? と思った矢先、

「ら、らいん……? あいでぃーって……こ、個人情報とか?」

 先輩がそんな素敵なことを言ってくれて、私の顔もまたじわじわと硬直してゆく。

 ……し、しらばくれてるわけじゃないよね?

 うちのお母さん……いや婆ちゃんですらLINEくらい知ってるのに……え?

「先輩、スマホ持ってますよね?」

「あ、うん、うん! スマホくらいなら持ってるよ!」

 自分の知ってる単語が登場した喜びからか、先輩は子どもがサンタに向けるような無邪気な笑顔をさらけ出してくれた。なんでだよ! なんでスマホの話題になるだけでそんな顔になれんだよ! さらに先輩はプレゼントの包装を必死に解くみたいな勢いで、カバンの中からそれを取りだした。

「先輩それスマホじゃないよ! ガラケーだよ!」

 あと得意気にパカパカしないで! そういうオモチャじゃないからそれ!

 だけど先輩は指摘されてなお自分の間違いに気づけていないようだった。折りたたみ式のそれをパカッ、パカッ! パカッ! とくり返し鳴らし続けている。先輩は楽しそうだった。

 ……うん、もう、それ、スマホでいいんじゃないかな。

 じゃあ私の持ってるこれはなんだって感じだけど、もうどうでもいいよね?

「じゃ、じゃあ、メアド教えてください……とりあえずそれでいいです」

 先輩はパソコン台の上に置いてあった原稿用紙にメールアドレスを走り書きした。私はそれを参考にスマホでメールを作成してゆく。メールなんて使うの数年ぶりな気がする。

『届いてますかー?』

 と適当な文面を打ち込んで送信。先輩の携帯から初期着信音っぽい音が響く。

 先輩は携帯をパカッとしてむふふ……と笑うと両手でぽちぽちする。

 あっ、その仕草とかスマホじゃ味わえない可愛らしさがあるな……なんかこう、ヒマワリの種を意地らしく口に詰めこもうとするハムスターの姿とかを彷彿とさせる仕草だった。

 三分ほどして私のスマホもメール着信を訴えかけてきた。

 少し期待しながら開封する。

『届いてるよ』

 ――知ってるよ、見てたよ!

 そ、それに短くね? 三分かけたにしては、短すぎないか? 先輩? ずっとぽちぽちしてましたよね? 合計ぽちぽち数三〇〇回くらいだったと思うんだけど……五文字て……。

 それを伝えようと先輩のほうを見れど、依然としてむふふが顔に張りついていて、そのむふふな想いに水をさすのは憚れた。というか、普通に話しちゃダメな感じだよね? これ。

 先輩がちらっと期待をこめたような眼差しで私を見た。

 もっとメールを寄越せと言われているように思えて背筋が震えた。

 しょうがないので先輩の期待に応えるため、これまた適当なメールを送信する。

『元気ですかー?』

 私送信――ぴろぴろぴろ~――先輩受信――先輩むふふ――私もむふふ――先輩ぽちぽち三分間――先輩送信――ぴろぴろぴろ~――私受信――先輩さらにむっふっふ。

 みたいなやりとりをなぜか小一時間ほどやっていた。

 私が質問して、それに先輩が答えるだけという、なにが面白いのかわからないやりとり。

 子どもでも相手にしてるような気持ちになってきて、胸中がムダにぽわぽわしていた。

 そして五時になり、下校のチャイムが鳴ったのだった。

「あっ、もうこんな時間だ……」

 先輩はチャイムの音に驚きながら、少しがっかりしたような表情を浮かべていた。

「じゅ、順当だと思いますけどね」

「今日は楽しかった……こ、心塚さん、ありがとね」

「先輩が満足してくれたならそれでいいです。はい」

 今度、先輩にはきちんとしたメールの作り方とか教えたほうがいいかもしれない。そんなことを考えながら放送室をあとにして、今日のことを振り返り、ホントに楽しかっただけだな、大丈夫か放送部……とか思ったりしたけど、こういうのも悪くないのかなって結論づけた。

 ただ中学までの学校生活とは、なにからなにまで異なるせいで驚きが絶えないだけ。

 ……正直、部活動っていうより、先輩とのお遊びって感じなんだよなぁ。

 もしかしたら私は、そういうゆるゆるとした生活や交友を望んでいたのかもしれない。

 運動部の上下関係って肩がこるものだから。

 バスケは好きだったけど、そういう関係性とかが私は苦手だったのかもしれないなって、別の環境に入ってみて始めて気づくことができた。視野が少しだけ広がったおかげだと思う。

 そんなことを考えながら渡り廊下を進んでいるとポケットのスマホが震えた。

 また先輩かな?

 わくわくしながら取りだすと、通知はメールではなくLINEのほうだった。

 相手は小鞠だ。

 その通知画面を見て、なぜか一瞬、どきりとしてしまう。

 心臓がギュッと萎むような、痛みにも似た息苦しさを覚えたのだ。私は息と同時に心にあったわだかまりを吐きだすようにしてから、スマホのLINEアプリを開いた。

『今練習終わったー』『牝鹿のほうはまだ学校にのこってたりする?』

 と小鞠からふたつメッセージが届く。

『うん、今帰るとこだった』

 スッと文面の横に『既読』の文字がつく。

 メッセージを送ってすぐに既読がつくと言いようのないくすぐったさを覚える。ずっと私の画面を開いていたのだろうかと、嬉しさと同時に圧迫感のようなものを感じてしまうのだ。

『ちょうどよかった』『すぐ帰る準備するから待っててもらっていい?』

 と小鞠からの返信。そにれ私は、

『じゃあ玄関で待ってるから』

 と返し、加えてクマのスタンプを送信した。

 スマホをしまい、先に一階正面玄関へ向かうことにした。

 昇降口で下駄箱の向こうに見える夕焼けから目を背けながら待つ。

 スマホで時刻を確認すること二回。ちょうどポケットにしまうタイミングで、小鞠が玄関前の大階段をかけおりてきた。通学用のカバンと部活用のカバンのふたつを抱えた小鞠の表情には疲労の色が見え隠れしている。やはり高校の部活動は厳しいのだろうか。だけど小鞠は私を見るとその疲れを心の奧へと追いやってしまったので、深くは追求しないことにした。

「待たせすぎじゃない?」

 代わりに軽口をひとつ提供する。

「二時間待たせるやつよりかマシだし、待たせるやつより待つやつのほうが百倍悪い」

「ひどい言い草だ。クズのセリフじゃん」

「だれのセリフだよ、だれの」

 なんて言い合いをしながら上靴とローファーを履き替える。

 新品のローファーはテカテカと光を放っているみたいで足にあまり馴染んでおらず、くるぶしのあたりが痛む。体に合わないものを背伸びしてムリに着ているような心地になる。

 それは身も心も無理やり高校生に馴染ませようとしている自分に通ずるものがあった。

 大人になって利口になって……言いたいことも少しずつ言えなくなってゆく。

 いや、なにを言葉にすべきで、なにを言葉にすべきではないのか。

 そういうものを、今、手探りで知ってゆく段階なのか。

 私と小鞠みたいに親しい間柄でも、意志の疎通は混迷をきわめる。

 どうしてこんなに難しいんだろうなって、そんなことばかりを考えてしまう。

 ……いや、なまじ親しい間柄だからこそ難しいのかな。

 バス停へ向かってカツカツ、スタスタとふたりで歩く。

 なんとなく足音の違いが気になって小鞠の足元を見やる。

 彼女が履いていたのは中学のころと同じスニーカーだった。

「とりあえずお疲れ様。今日は早かったんだね」

「水曜以外は活動時間が前半と後半にわかれてんの。中学のころもそうだったじゃん」

「で、今日は前半だったわけだ」

 ということは前半と後半の分かれ目は五時なのかな。

 年のために頭に留めておくことにする。

 この記憶が有効に活用されることを願うけど、そう願う私はどこか他人事めいていた。

「そゆこと」

「そっちは? ずっと放送室で部活動やってたわけ?」

 今日の活動を振り返ると、どうしても言葉に詰まってしまう。先輩に撫でられて、メールをして、気づくと五時になっていたなんて、ギャグにもならないような気がしたから。

「んっ……そんな感じかな。まだわからないことだらけだけどね」

 だからごまかすようにして、そんなことを口走る。

 つい先ほどまで体を動かしていた小鞠に申し訳ないような気がしたから。

 そこに後ろめたさを感じてしまうのも、おかしな話ではあるんだけど。

 私たちがバス停につくと、示し合わせたみたいにバスがやってきた。

 おとといは並んで座ったけど、今日の小鞠は私の一個前の席に腰かけた。どうしてだろうと思っていると、ふたりがけ座席の隣の部分にバッグを置いてひと息吐いていた。車内は空いているし荷物を席に置く程度は許されるだろうけど、少しだけ、胸から空気が漏れるような心地におちいってしまう。うまく言葉にできないけど、さぁー……となにかが引いてゆく。

「えっと……そっちはどう? 運動部、やっぱり厳しいの?」

 私が小鞠のうなじのあたりに問いかける。

 小鞠は振り返らないまま答える。

「厳しいな。厳しいけど、楽しい……うん、楽しいんだと思うよ。充実した高校生活になりそうだ。でも、だから、忙しくなりそうなんだよ。来週から朝練も始まるみたいだし」

「へえ。うちの女バスってそんなに練習熱心だったんだ。なんか意外だな」

 皮肉をこめたのではなくホントに意外だった。

 開栄高校は陸上部とか、水球部とか、全国レベルの部活とかはあるみたいだけど、だからって、すべての部活に力を入れているわけでもない。バスケ部なんて紹介のときは十人くらいしかいなかったし、もっと適当にやってる、ぬるい系の部活動なんだと勝手に思っていた。

 ……まあ、放送部よりゆるい部活があるとは思えないけど。

 そこで張り合ったところで仕方ないから口には出さなかった。

「今の三年はそうでもないんだけど……二年の先輩にね、熱心なひとがいて。そのひとと一緒に、自主練って形になるんだけど……でも、うん、頑張ってみよっかなって思ってんだ」

「小鞠は中学のころから頑張ってたじゃん。だから大丈夫だって」

「そういうこっちゃないんだけど……ま、そういうことでもいっか」

 ……どういうこっちゃねん。

 会話が噛み合っていないことを自覚しながらそれを放置する。

 そこを掘りさげることで得られるものなんてないような気がしたから。

「しかしあれね。朝練が始まるってなると、一緒に登校もできなくなっちゃうね」

「そうなっちゃうな」

 まだ五日しか一緒に登校してないのに、なんてわがままを言ったところで、小鞠を困らせるだけだ。一緒に登校したいから朝練なんてサボっちゃえよなんて言えないし。

 それなら私が早く登校しろよって話だし。

 中学の三年――小学生のころも含めれば六年間、私たちはずっと行動を共にしていた。

 だから高校でもそんなふうに、なんだかんだと一緒にいるものだと考えていた。

 だけど私のそんな予想は簡単にはずれて、簡単にすれ違ってしまった。

 なら、離れないように固く手を握っていれば事足りるのかと言えば、そんな単純な話でもないのだろう。一度離れてしまったものは同じ方法では繋ぎ止められない。新しい方法で修復しなければいけないはずだ。なのに私にはその方法がわからない。言ってしまえば、それはバスケ以外の繋がりで――だけど、バスケに邁進してきた私には、他の答えを見つけられない。

 ――だったら、やっぱり私はバスケを続けるしかないんじゃないか?

 ひとつ目の交差点にひっかかり、バスが止まる。

 そのときポケットでスマホが震えた。

 窓の外の景色をぽけっと見つめる小鞠をチラ見したあとスマホを確認した。

『今日は楽しかった。また月曜日ね』

 シンプルなそのメールは、当然のように先輩から送られてきたものだった。

 脳裏に先輩の姿がよぎり、呼吸が詰まる。

 そうだった。

 私は先輩に惹かれたから、放送部に入ろうって、そう思ったんじゃないか。

 どうしてそんな大事なことをこんなふうに簡単に失念してしまうのだろう。

 自分で自分がわからない。

 そうしやって私は精神的に視野が狭いのだと気づく。

 私は常に目の前のことしか意識することができない。

 目の前にあるものを意識してしまうのは当たり前のことだろう。

 だけど私のそれは少しだけ過剰で、異常なのかもしれなかった。

 目の前の出来事に目がくらんで、本来とるべき行動を変化させてしまうのは愚かだ。

 自分がなにをすべきなのか、なにをしたいのか、ホントの自分に気づくためには、そうした影響のない所でゆっくりと、いろいろな物事を考えなおす必要があるのかもしれない。

 ……結局、私がホントにやりたいことってなんなんだろう。

 そこまで考えたところで、そこに隣接するひとつの疑問が浮かびあがってきた。

「ねえ、小鞠?」

「ん?」

「小鞠はさ、どうしてバスケ部に入ろうと思ったの?」

「……なにさ、急に」

 小鞠の声音は固い。

 だけどそれは不機嫌さよりも、単に戸惑いを表しているようだった。

「気になった。なんか、特別な理由とかあるのかなって」

「あらためて聞かれるとなにも思いつかないな。なにも見つからない。でもバスケなんて理由がなくちゃ、できないものでもないし。結局……だれでも、そんなもんなんじゃないのか」

「そっか……うん、そうだよね。べつに深い意味とかはなかったんだ。できれば忘れてよ」

 私の言葉に対し、しばらく黙し続けていた小鞠だったけど、急に振り返ってきてビビる。

 小鞠が私の知らない表情をしているように思えたから。

 ……どうしてそんな、触れたら崩れてしまいそうな、脆そうな表情をしてるのさ。

 硬くて脆い――砂を塗り固めて、騙しだまし作り上げたような、そんな印象の顔。

「忘れるよ。忘れるけど、その前にさ、私にも……教えてよ」

「……なにを?」

「牝鹿が選んだのが、どうして放送部だったのか。放送聞いて、興味持ったってのは聞いたけどさ。それだけだし。もっと詳しいこととか、聞きたいなって……そう思った」

 そっか、と答えて、なにから語るべきだろうかと考えると困る。

「えっと……」

 その沈黙をどう受け取ったのか、焦れたように小鞠が口を開く。

「牝鹿も放送とかやってみたくなったのか? なんとなく……放送とか好きそうだし」

「それは――」

 少し違う。

 いや、だいぶ見当違いと言っていい。私が放送部に入ったのは、放送をやってみたいと思ったからではない。先輩にいろいろ教えてもらった今でも、それはあまり変わっていない。

 そう考えてみると、私にとっての放送部の意義が大きく変わってくる。

 そもそも『放送部』と聞いたとき、私の心に浮かぶのは『放送』ではなく『彼女』なのだ。

 そう。

 どうやら私にとって放送部とは緒輪島紗和という先輩と同義であるらしい。

 ならば私が放送部を選んだ理由は、ひとえに彼女にあるのかもしれなかった。

 それをうまく言葉にする自信がなかった私は、脳裏に浮かぶ泡のような言葉をなんとか掴もうとするけど、それは触れた途端に弾けてしまい、結局、中途半端な単語の羅列になる。

「放送がさ……かっこよかったんだ。もっといろいろな放送を……いや、声を――なのかな、聞いてみたいって、そばで、知りたいって、そう思ってさ。もう入るしかないかなって」

「……………………」

「ま、まあ、それだけなんだけどね……たははは……」

 沈黙がなんだかむず痒くて、私は自分の感情をごまかすようにして笑った。

「それだけなんてことは、ないんじゃないの、私にはよくわからないけどさ」

 そう言って、小鞠は私から視線をはずして、先ほどまでと同様に窓へと視線を移す。なにか面白いものでもあるのかと私も倣うけど、間延びした茜色の景色があるだけだった。

「結局はさ、そんなもんなんだよね」

 小鞠はそう呟いて、今度こそ黙りこんだ。

 そのまま私も沈黙を守る。

 バスの中にいるうちに、夕陽が沈んで、あたりは藍色につつまれた。

 区をひとつまたいで、私は小鞠よりひとつ前の停留所でボタンを押した。

 次止まります――という音声すら、私を小馬鹿にしているように感じられる。

「それじゃ、また月曜日。土日、練習頑張ってね」

「ああ。そっちもな」

 ぷしゅうっ――と乱暴な動作で止まるバスから飛びおりる。

 捗らない足取り、バス停から足を引きずるようにして、家を目指して歩き続けた。

 

 

 考えごとに終始していたせいか、気づくと夜もけていた。

 夕飯も入浴も済ませ、ベッドに身体を投げだしている状態だった。そのあいだ、私の思考を支配していたのはバスの中の続きで、『放送部』と『バスケ部』を天秤にかける作業だった。

 結局、答えらしい答えは見つからないままだ。

 ひとりで考えても埒が明かないと、相談できる相手がいないかとLINEの『友だち』を上から下まで眺めてみる。登録されている友人は三〇人程度いる。

 だけど私は小鞠以外に親しい人間関係を築いてこなかった。

 一緒に遊んだり、話したりできる友人はたくさんいる。だけど、こういうときに自分の心の内をさらけ出せる友人なんてひとりもいないことに気づいた。だれに連絡しても唐突で、白々しい空気になりそうで、新しい悩み事を増やすことにしかならなそうだ。

 私は相談を諦めて、スマホを放って、両手も一緒に投げだした。

 あらためて人生を振り返ってみると、自分の世界の狭さに驚く。

 だって私の世界には小鞠とバスケしか存在していなかったのだから。

 ……そりゃあ戸惑うに決まってるよね。

 だけどこの手の問題とは、そう遠くないうちに向きあわなければならなかったのだろう。

 いくら仲良しだと言っても、いつまでも一緒にいられるわけじゃない。

 高校、大学、社会人――そうやって成長してゆく過程で、私たちは新しいものと出会い、否が応でも変化を強いられてしまう。だからそれは、早いか遅いかの違いだったのだろう。

 ただ、それが入学早々だったから、少し驚いてしまっただけ。

「……なんか疲れてきた」

 使い慣れていない頭を回転させたせいで、頭の芯が痺れたようにぼーっとしていた。

 もうやめた!

 で考えることを放棄してしまえればいいんだけど、すべてが珍しくて堪らない犬みたいな勢いで思考は同じところをぐるぐる! ぐるぐる! と勢い良く回り続けるのだった。