籠の中の鳥の放送局

 

       心塚牝鹿

 

 走る走る走る――走る! 走る! 走る!

 私――心塚こころづか牝鹿めじかは全速力で廊下を走っていた。

 周囲の生徒たちが不審がるように私を見ていたが、そんな視線も気にならなかった。

 だって私には、そんな些末な視線よりも大事な目的があったから。

 手に握りしめているのは入部届にゆうぶとどけ

 これを提出するのが、なによりも大切な私の使命だった。

 先ほど部活動紹介があったから、うちの高校に多くの部活が存在していることは知ってる。運動部と文化部、それに委員会を合わせると、目が回りそうになるほどだ。

 だけど私の場合は紹介なんてされなくても入りたい部活は始めから決まってた。

 小学生のころから続けてるから。

 そんな理由で私は女子バスケットボール部に入ろうとしていた。

 というか、だいたいのひとがそうなんじゃないのかな? ああいう紹介で実際に心を動かされて部活に入っちゃうひとってホントにいるのかなって、そんなことを考えてしまう。

 だけどそういう一目惚れみたいなものに憧れる気持ちもあった。

 目の前の光景に釘づけになって『おお! 私はこの部活に入るために、この学校に入ってきたんだ!』とか大真面目に思っちゃう感じの、ちょっと恥ずかしい系のやつ。マンガとかドラマだと珍しい話じゃないんだけど、リアルになると途端にハードルが上がっちゃう。

 だって私は小中合わせて六年もバスケをやっているのだ。積み重ねてきた時間はムダに大きくて、だから、せめて手に入れたものや経験はムダにしたくはないと思ってしまう。そうしたものをかなぐり捨ててもいいと思えるからこそ、運命の出会いと呼ぶのかもしれないけど。

 ……そういえばバスケ自体はどうして始めたんだっけ?

 しばらく考えてみて、思いだせる気配がないから考えるのをやめた。

 始めた理由はともあれ、続けてる理由は簡単にわかる。

 私は結局、バスケが楽しいから続けてるだけなのだ。

 昨日が入学式だから、今日はまだ入学二日目になる。

 慣れない校舎に右往左往しながら、やっとの思いで職員室に辿り着く。

 職員室のドアを前にして立ち止まる。どうやって入るべきなのか、中学生のころと同じやり方でいいのかな? なんて悩みながら、恐る恐るドアへと手を伸ばしかけた瞬間――

 ぴんぽんぱーん! と校内放送の音が響き渡った。

 おっ、おおっ!?

 と、考え事に集中していた私は、文字通りその場から跳びあがってしまう。

 しかしそんな私のことなどおかまいなしに放送が始まる。

『新入生にお知らせです』

 スピーカーから聞こえてきたのは、妙に色っぽく艶っぽい、作り物めいた女性の声だった。

 声にマネキンがあるのだとしたら、きっとこんな声だと思う。

『我々、放送部は新入部員を募集しております』

 まっ白な光沢を帯びていそうな、現実味のない声が朗々と事務連絡を始める。

 ……放送部?

 そういえば今朝方配布された案内には、そんな部活の写真も載っていた気がする。

 だけど部活動紹介のときは、そんな部活の手番はなかったはずだ。

 どうやら紹介のときに省かれた分を、今こうして取り戻しているらしい。

 ……不憫だ。

 そう思いながらも、スピーカーから聞こえる声に私の意識は集中していた。

 内容が気になったからではなく、彼女の声をもう少し聞いていたいと感じたから。

 声を一滴もこぼさないように、私は耳をそばだてる。

『現在、放送部は深刻な部員不足におちいっております。今のところ学校での業務をこなすので手一杯で、このままでは現在の三年生が引退すると同時に廃部になってしまう状況です。ですが人数が増えれば業務だけではなく、大会への参加なども考えています』

 ――え? 放送部に大会なんてあるの?

 なにをどう競い合うのかまったく想像がつかないし、頭に浮かぶのはマイクを使って声の大きさを張り合う若干シュールな光景だった。その想像を一笑に付して、さっさと職員室の中に入ってしまえれば良かったんだけど、なぜか私の足はその場から動きだしてくれない。

『経験者、未経験者は問いません。興味のある生徒は一度、放送室まで遊びに来てください。いつでも歓迎します。以上、放送部から新入生への連絡でした』

 始まるときと同じように、ぴんぽんぱんぽーんで放送は終わる。

 放送の声という清流に飲みこまれた私は、そのまま自我の大海原に投げだされる。

 ぼーっと、ただ、意識の海をさまよい、溺れ、沈みゆく。それだけの時間がすぎてく。

 あの声が私の足を掴んで、水底へと引っ張っているみたいだった。

 そんな私を現実に引きあげてくれたのは蚊の鳴き声にも負けそうな、か細い声だった。

「あの……すみません……っ」

「あっ、えっ――うっ」

 急に意識が浮上したせいで、呼吸の仕方を忘れている私がいた。なにをしてるんだと苦笑しながら振り返ると、そこに立っていたのは私の胸元ほどの身長しかない少女だった。

 ――ちっちゃい子だなぁ。

 いや、身長はさほど小さくないのに、ギュッと自分の身を守るように萎縮した体と、過度におどおどとした雰囲気が、実際の身長よりも彼女を小さく感じさせているようだった。

 私が一七〇後半で、少女がたぶん一五〇ちょっと。

 その身長差が余計に少女を小さく見せている気がした。

 その子は私の目ではなく、胸元を不安気に凝視しながら、唇を震わせている。

 少女はちらりと私のことを見あげ、すぐに足元へと視線を逸らした。

「えーっと……どうかした?」

 うつむき加減のせいでまったく表情が覗えず、私は少女のつむじとにらめっこをする形になってしまう。残念ながらつむじは彼女の感情を語ってはくれないから、少女がなにを考えているのか私にはわからない。そんなつむじを中心に髪の毛がわずかに揺れる。

「あの……私……その、職員室に……」

 少女はもう一度視線をあげて、私の背後を見やりながらか細く鳴いた。

 子どもみたいな単語だけの文章だったけど、意味合いを掴むのに支障はない。

「ああ、ごめんごめん」

 職員室前で立ち止まっていては迷惑だったなと反省しながら脇へと退ける。

 道が開けると、少女は私から逃げるように小走りで職員室へと消えてった。

 なんだか気になる素振りだったけど、やっぱり怖がらせてしまったのだろうか。

 身長が高いなんて理由で避けられるのもバカらしいから、なるだけ相手を怖がらせないように柔和な雰囲気とか心がけてるんだけど……そんな努力も虚しく空振りしたらしい。

「あっ」

 そこで私は自分の手の中で握り潰されていた入部届の存在を思いだし、ぐしゃぐしゃになったそれを慌てて開いてみた。手汗でじっとりと湿ったプリントはインクも滲んでしまっていて、すでに提出できる状態ではなくなっていた。どんだけ汗かいてんだ、私。

「……なんだかなあ」

 いろいろあって、完全に興が削がれてしまった。

 今日はこのまま入部届を提出して、バスケ部の練習に参加させてもらおうと思ってたけど、いろいろな想いが熱っぽく渦を巻いていて、それを冷却する時間が欲しかった。

 だから私はたまたま通りかかった先生に話しかける。

「すみません、放送室ってどこですか?」

 教師は少し考えた末、放送室があるであろう方角を自信なげに指さしてみせた。

 そして私はなんの疑いも持たず、その指の先を目がけて走りだしたのだった。

 

 

 私の通う札幌開栄高等学校はおおまかに北校舎と南校舎、管理棟と特別教室棟の四つの建物から成り立っている。私が目指す放送室は校内東側にある特別教室棟の二階に位置していた。

 ただでさえ情報量が多いのに、どうやら先ほどの教師は放送室の場所を把握してなかったらしい。その情報に踊らされた私は意味もなく校舎をさまよい走るハメになったのだった。

 ……あの教師、覚えてろよ!

 そう心の中で毒づいてから、気を取り直すように目の前の放送室に向き直る。

 待ち構えてるのは焦げ茶色の重厚そうな扉で、それはどこか防火扉を彷彿とさせた。

 その扉はまるで中にある宝物かなにかを守っているようにも見える。

 もしかしたらその妄想は、私のためらいを反映しているだけなのかもしれないけど。

 私の後ろ髪を引くのは、六年間続けてきたバスケの幻影だ。

 こんな所でなにをしているんだと、過去の私が問いかける。

 ……とりあえず話を聞くだけだから。

 そう過去の自分の小さな影に言い訳をして、その扉を三回叩く。

 しばらく待ってみても、中から応答はない。留守なのだろうか。

 でも、さっきの放送からそんなに時間もたってないし……いや、校内をさまよい走っていた時間もふくめたら二〇分はたっていた。まあ、それなら無人なのも頷けるかもしれない。

 でもでも、もしかしたら気づいてないだけかもしれないし。

 念のため中は確認しておこうかな? なんて思いながらドアノブを回してみる。

 すると扉はなんの抵抗もなく、するりと開いた。生まれた隙間から、恐る恐る中を覗き見てみるけど、所狭しと並べられた用途不明の器具以外はなにもない。

 やっぱり無人だ。

 だけど施錠してなかったってことは、遠くまで出かけたわけではないのだろう。近場、もしかしたらトイレ程度の外出かもしれない。そんな名推理を働かせて、私は部員が戻ってくるのを放送室で待つことにした。出直すのもバカらしかったし。

 放送室に入り、まず気になったのはそのにおいだった。

 何年も密閉されている部屋特有の湿っぽいような、かび臭いようなにおいが放送室には堆積していた。その中に甘い香りを感じてしまうのは、さっきの放送を聞いた私の先入観のせいだろうか。あんな素敵な声の持ち主なのだから、香りもきっと素敵なんだろうな、みたいな。

 放送室の中は家の玄関みたいになっていて、靴を脱ぐスペースが設けられていた。そんなわけで、土足であがり込むわけにもいかず、私は仕方なく入り口で上靴を脱いだ。

 私は中に入ると再度、室内を見回してみる。

 正面にはもうひとつ、出入り口と似た重厚そうな扉があるけど、そっちは後回しにする。

 壁にはぽつぽつと小さな穴があって、床には灰色の床材が敷き詰められていて、全体的に音楽室っぽい雰囲気が漂っている。一方、部屋に並んでいる備品のほうはマイクとかパソコンっぽい器具とか、全体的にメカメカしていて、パソコン室みたいだ。この部屋でいちばん自己主張が激しいのはツマミの大量についた台で、その上の壁はガラス張りになっており、向こう側を見渡せるようになっていた。試しにと覗き込んでみると、スタジオのような空間が広がっていた。レコーディングでもできてしまいそうな雰囲気に少しだけテンションが上がる。

「へえぇぇえ」

 バカにするつもりはなかったけど、想像以上の設備に感嘆の声が漏れる。子ども心をくすぐられながら室内を眺めていると、どうしても、それぞれの機材に対する説明が欲しくなってくる。無知の私からしてみれば、それらは『よくわからないメカ』でしかなかったから。

 放送部のひと、早く戻ってきてくれないかなぁ。

 私は置いてあったパイプ椅子に座って時間を潰す。

 皮が破れて、中身が漏れでて、座り心地が最悪なパイプ椅子をがたがたさせていると、大事なことを忘れているような心地になってくる。だれかになにかを頼まれていたような、こんな所で、こんなふうに無為な時間をすごしている場合ではないような、そんな気分だ。

 だけど考えても考えても、それらしい答えは浮かんでこない。

 うーんと唸っていると、今度は退屈すぎて眠たくなってきてしまう。

 ……むにゃむにゃ――うふふふふ……むにゃむにゃ……うとうと……がちゃーん!

 扉の開閉音は思っていたより大きくて仰天する。半分ほど夢心地だった私が跳びあがるには充分すぎるほどだった。私はなにをしてたわけでもないのに、悪事を見つかってしまった子どもみたいな気持ちになって、びくびく恐縮しながら扉のほうを見つめてしまう。

 入ってきたのは見覚えのある少女だった。

 向こうにとっても私という存在はイレギュラーだったのか、悲鳴を押し殺したような短い声を漏らして、目を丸くして、肩を震わせて、泣きそうな顔で私のことを凝視していた。その仕草にも見覚えがあるのに、気の弱そう顔をいくら見つめても、その正体に思い至れなかった。

「あの……」

 少女は私ではなく、足下の私の上靴を見つめながら口を開いた。

 その声は鉛筆が紙の上を滑るときの音よりも小さい。

 だけど不思議と耳には届く――そんな感覚で、この少女をどこで見たのかを思いだした。

「きみ、さっき職員室で会った子じゃない?」

「あ……はい……たぶん、そうです」

 私に一瞥もくれないまま、少女はか細い声で鳴き続ける。

 この子も入部希望者なのだろうか。

「えっと、私は放送部じゃないんだ。放送部のひとは出払ってるみたい」

「いや……そうじゃなくって……」

「え?」

 否定の言葉を発してるのはなんとか聞きとれたけど、声が尻すぼみになっていたせいで、肝心な部分がまったく届かなかった。あらためて聞きなおすのも悪いな、と感じてしまう程度に少女は恐縮してしまっていたから、私は会話を先へと進めることにする。

「カギは開いてたから、部のひともすぐ戻ってくるでしょ。きみも座って待ってれば?」

 少女は、あうあう……なんて言いながらも、おとなしく近場のパイプ椅子に腰かけた。彼女は椅子に座ってうつむき、絨毯の毛の数でも数えているようだった。私も私でムリに会話を広げる必要性も感じず、彼女に抵抗するように壁の穴の数をかぞえてみたりしてみる。

 けど二桁に到達する前に飽きてしまう。

 そんなふうにして、すぐに戻ってくるはずの部員を待っていた。しかしいくら待っても彼女以外の生徒は訪れず、沈黙ばかりが三〇分ほど積もる。気まずさよりも、言葉を発さなすぎて口がむずむずしてきたという理由で、私は少女に適当な質問を投げかけてみることにした。

「きみもさっきの放送を聞いて放送部に来たの?」

「えっ?」

 少女は目を丸くして、私のことを注視した。

 今まではずっと伏し目がちだったから、少女がどんな顔立ちをしているのかすら満足にわからなかった。そのせいでクラスに数人はいる暗いやつだな程度にしか思ってなかった。

 だから不意を打たれたような形になってしまった。

 一言で表現するなら――私は少女に見惚れたのだ。

 私の知り合いは基本的に運動部で構成されている。だから全体的に性格は明るめで、肌は日焼けしてて、髪は短め、活発とかおてんばとか、そんな言葉が似合うやつばかりだった。

 だけど少女はその対極に立っていて、憂いを帯びた雰囲気で、色は白くて、髪は長くて艶やかで、清楚とか深窓とか、そういう言葉がよく似合う。先ほどまでの『暗い』というマイナスの評価は『奥ゆかしい』というプラスの評価へと一転してしまったのだった。

「あの……あなた、放送を聞いて、きたの? 入部希望者……だったの?」

 私と出会って初めて言葉を知ったのだとでも言うように少女の発声はぎこちない。

 聞いているこっちが、ホントに同じ言葉を話してるのか不安になってくる有様だ。

 というか……

「……今まで私のことなんだと思ってたのさ」

 私は普通に入部希望者同士のつもりで会話をしてたんだけど。もしかしてこの子、私のことを放送室でサボりの計画でも立てている不良だとでも思ってたのだろうか。

「えっと……なんなんだろうなって、ずっと考えてた……変なひとだなって」

「そりゃあ入部希望者って可能性を除いたら、どう考えたって変なひとじゃん」

 危うく少女の中の私が、用もなく放送室に入りびたる変人になるところだった。

「そっか……そうだったんだ……」

 安心したのか、少女は少しだけ表情を和らげた。

 心なしか笑ってるようにも見えたけど、自分の勘違いがおかしかったのだろうか。そんな、ふとこぼれてしまったような表情に一瞬見惚れてしまい、バツの悪い思いにかられてしまう。

 私はそんな思いをごまかすように、苦しまぎれに口を開く。

「あっ、そうだ。私はね、心塚牝鹿っていうの。きみの名前は?」

「わ、私は緒輪島……緒輪島おわじま紗和さわ……よっ、よろしく、おねがいします」

「よろしくね! えっと……じゃあ紗和ちゃんだね」

「さ、紗和ちゃん……」

 紗和ちゃんはなぜか噛みしめるようにして自分の名前を復唱した。

 なにがそんなに美味しいのか、彼女はしきりに口をもぐもぐ動かしている。

「それにしても放送部のひと遅いね。なにやってんだろ。あ、そうだ! せっかく放送室にいるんだから、放送使って呼びだしちゃおっか? 入部希望者がきてるぞー! って」

 私の冗談に紗和ちゃんは諸手をぶんぶんと振って、

「だ、ダメだよ! 放送するには一応……その、先生の許可とか? が必要なんだから」

 と制止してくる。

 ……な、なんだよその仕草、あざといだろ、おい。

 アライグマが威嚇してくる動画とかを彷彿とさせるあざとさだった。

「そうだったんだ。放送って自由にやっていいものだと思ってた。それにしても紗和ちゃん詳しいんだね、もしかして中学のころとか放送関係の部活とか仕事とかしてたの?」

「うん……一応、ちゅ、中学校のころから放送部だったけど……って、そうじゃなくてっ」

 たどたどしくも必死な様子に、私は微笑ましい思いで紗和ちゃんを見守ってしまう。慌てないでいいよ。ゆっくりでもちゃんと聞くからね? みたいな気持ちで彼女を見つめる。

 紗和ちゃんがちらりと私を見て、目が合うと慌てた様子で逸らしてしまう。

 しばらくもじもじ言葉を選んでいた紗和ちゃんだったけど、意を決したように口を開く。

「あのね……私、実は……放送部なんだ」

「え? じゃあ紗和ちゃんはもう入部届け出しちゃったの? けっこう行動派なんだね」

 でも、中学校のころから放送部だったんなら、それも当然なのかな?

 私が小学校のころから続けていたバスケを高校でも続けようと思ってたのと同じなのかもしれない。やっぱり高校から新しいことに挑戦しようと思える人間のほうが少ないんだろう。

 私もまだ悩んでいたりする。

 今すぐ放送室をあとにして、おとなしくバスケを続けとくべきなんじゃないかって。

 でも、さっきの放送の主と話してみたいという想いも、まだ私の中には残っていた。それは放送から一時間近くたった今でも変わらず私の中に燻り続けていて、熱を放ち続けている。

 だけど、もしそのひとと話して、私の中のバスケへの想いが揺らいでしまったら?

 ……そのとき私はどうするの?

 私の高校生活への期待やら不安やらを遮るように紗和ちゃんは唇を震わせた。

「そうじゃないの……そうじゃなくって……」

「どうかした?」

 すっかり会話を終えた気でいた私は、紗和ちゃんがなにを否定しているかもわからない。

「私、放送部の三年生、なの……」

「……ん?」

 続く言葉を聞いても、彼女がなにを言っているのか、私にはしばらく理解できなかった。

 私が掴み損ねたかもしれない言外の意味や行間、空気を探し求めて、頭がフル稼働する。

 だけどなにをどう解釈したところで、

『緒輪島紗和は三年生の先輩である』

 という驚きに驚愕の事実以外、なにひとつとして導き出せなかった。

「えっ、紗和ちゃんって、紗和ちゃん先輩だったの!? いや、ですか……ですか!?

「さ、紗和ちゃん先輩……」

 驚きだ。

 なんだか年下みたいで可愛いなあとか考えてたくらいなのに、まさかふたつも年上だったとは。でも言われてみると、彼女のおとなしさが大人の余裕のように見えないことも……

 ――いや、どう好意的に見ても彼女のそれは余裕ではないよな。

 だけどそれが彼女の魅力のひとつであることには違いなかった。

「じゃあ、さっきの放送のひとってどこに行っちゃったんですか? 私、そのひとに会ってみたいなぁって思って、放送室に遊びに来てみてたんですけど」

 紗和ちゃん――あらため先輩は困ったような顔をして私を見ていた。

 もごもごと口を動かしてはいるけれど、うまく言葉が出てきてくれないみたいだ。

 なにか言いづらいことでもあるのだろうか、と彼女の様子を観察していると、見られている状況に緊張してしまったのか、あうあうあう……とさらに顔を赤くさせ、逃げるようにしてうつむいてしまう。のぼせあがったような顔色に、こちらまで恥ずかしくなってきてしまう。

 ……なんでそんな緊張してるんですかね。

 すごい、いけないことしてるみたいじゃないですか。

 ただ見つめ合っているだけなのに。

 いや、もしかして見つめ合うっていけない行為なのでは……?

 なんて私が大真面目に考えてしまいそうになったころ、やっと先輩は口を開いた。

「えっとね……心塚さん。放送部の部員は……私しかいないの」

「へっ?」

 間の抜けた――それでいて空気まで抜けてしまったみたいな音は、私の返答だった。

「じゃあさっきの放送は先生がやってくれたんですか?」

 その疑問に先輩の顔がどんどん赤く染まってゆく。

 そんな自分の顔を隠すみたいにして、先輩は両手で顔を覆ってしまう。

 先生の力を借りたという事実を知られたことが、そんなに恥ずかしかったのろうか。

 正直、そこまで恥ずかしがる必要はないと思うんだけど。

 ……そこはやっぱり、放送部の矜持ってやつなのかなぁ?

 先輩は両手の指の隙間から、ちらりと私を見やりながら口を開いた。

「んっとね……さっきの放送、あっ、あれ……私が……その、喋ってたんだよ?」

「は?」

 一瞬なにを言っているのか理解できず、私はしばらく先輩をガン見していた。

 そんな視線がイヤになってか先輩は、はふうと熱っぽい吐息を吐きだし、うつむいた。

「……そんな……え?」

 バカな話がある? と言いかけて、こんなか弱い先輩が他者にウソをつくことができるだろうか? と思いなおす。だけど考えなおしてみたところで疑わしさに変わりはない。

「証拠は?」

 んへ? と、今度は先輩が間抜けな声を漏らした。

「だから証拠ですよ。さっきの放送みたいな声、もう一回聞いてみたいです」

「……そ、それはムリだよぉ」

「ど、どうしてですかぁ……」

 先輩の儚げな様子に感化されてか、私の声までか細くなってしまう。

 先輩はまっ赤な顔をより一層、沈みゆく夕焼けみたいに深めながら、

「だ、だって恥ずかしいんだもん……」

 震える声色で、そう呟いたのだった。

「ここはいったいなに部なんですかね」

 放送部ってもっとこう、ハキハキといろいろなことを話す部活ではなかったのだろうか。『恥ずかしいんだもん』で済まされたら、割と本気で放送部とか活動できないじゃんか。

「やっぱり……こんな私しかいない部活はイヤだよね」

 今の流れをどう汲み取ったのか、先輩はそんな絶望発言を漏らしていた。

「やー、イヤってわけじゃないんですけどね」

 ただちょっと、おかしなひとだなって思っただけで。でもそれを口にしてしまったら、この先輩はまたマイナス方向に捉えてしまいそうだったから黙っておく。『いい意味で変なひとですね』とかわざわざ注釈をつけるのも、余計に嫌味っぽくなってしまいそうだし。

 だけど不思議だったのが、そんな先輩の顔を見ていると、とある感情が沸々と湧き上がってきたこと。それは今すぐ放送部に入りたいという、ある種の衝動めいた想いだった。

 ここで踵を返してしまったら、私は一生後悔することになる。

 なぜか本能がそう叫んでいた。

 だから私は衝動と本能に従って、自分を突き動かすことにした!

「うん。私、放送部に入ります!」

 先輩は驚くのも忘れて、口をぱくぱくさせていた。

 赤かった顔が一瞬もとに戻って、またすぐに赤くなる。肌が白いせいで血潮がわかりやすいんだなぁって、そんなことを考える。なんだかそういうところも可愛らしい。

 先輩の顔は、先輩の口より、よほど雄弁だった。

「え、え、えええ……え? いっ、今のどこに、入りたくなる要素があったの……? だ、だって、先輩って……私だよ? こんな私しか……ぶっ、部活にいないんだよ? それでも、いいの……?」

 自分で言っていて哀しくなったのか、先輩の目が潤む。

 しようじき言って、どうして放送部に入りたくなったのかは自分でもわからない。

 だけどたぶん、あの放送のせいだけではない。そうじゃなくて、実際に緒輪島紗和という先輩と話し、それで、私はこの部活に惹かれて、入りたくなったんだと思う。

「こっちこそ、放送のこととかなんにも知らないんですけど……大丈夫ですか?」

 逆に問われ、先輩はあうあうと両手を振った。

「だ、だだ、大丈夫だよっ! 私だって素人みたいなものだし、それに……大丈夫だから!」

 先輩は具体的な要素をなにひとつ提示してくれなかった。

 こうも必死に『大丈夫』をくり返されると、かえって不安になってくるんだけど。

 まあ、大丈夫じゃなくても、こんな部活だし、先輩も一緒だし、いろいろと大丈夫だろ。

 なんて、ちょー適当な着地点に落ちついた。

「うん。大丈夫、大丈夫」私はくり返す。

「だいじょぶ!」先輩もくり返した。

「それじゃあ先輩、これからよろしくお願いしますね?」

「う、うん……よろしくね。えと、私……迷惑かけちゃうかもしれないけど……」

「いや、迷惑をかけるとしたら、放送初心者の私のほうなんじゃないですかね」

 むしろこのひとはどうやって私に迷惑をかけるつもりなのだろう。

「で、でも、私……絶対、こっ、心塚さんに入って貰えないと思ったから、よかったよぉ」

 言って先輩は安堵したのか、にへらと表情を緩ませた。

「えへへ……」

 油断しきった笑みを間近で見せつけられて息が詰まる。

 ――うわあ。このひと今、えへへって笑ったぞ。

 そんな笑い方が似合う女子高生なんてホントにいるんだ。えへへが許されるのは小学生までだと思っていたけど、よくよく考えると先輩の雰囲気は全体的に必死な小学生っぽい。

「こ……これからよろしくね? えーっと……まずは、なにをすればいいんだろ。私……後輩とかできたことないから、どういうふうに教えていいのか……? わかんない、かも……」

「とりあえず入部届とか出したほうがいいですよね」

 放送部のなんたるかを知らない私が、放送部の教え方を知っているはずがない。

 なので、そういった当たり障りのない話題でごまかしておく。

「あ、そうだね! ん……でも……放送室に、入部届なんて、あったかな……」

 先輩が慌てた様子で部屋の奧、パソコンの横あたりに積んであるプリントの束をあさる。そんな先輩の様子から、新入部員とかまったく期待してなかったんだなぁと察してしまう。

 そこで折良くチャイムが鳴り響く。

 時計を見ると、五時をさしていた。

「あっ、あれ? も、もうこんな時間だったんだ……今日は遅いし、また明日にしよっか?」

 個人的にはまだまだ時間的に余裕があった。

 親には今日からバスケ部の活動に参加するから帰りは遅くなると連絡してたくらいだし。だけど先輩が気をつかってくれてるのはわかったし、先輩にも準備やらなにやら、いろいろとすべきことがあるのだろうと察し、今日はおとなしく引きさがることにした。

「そうですね。じゃあ、また明日の放課後、ここに来てもいいですか?」

「うん……わかった。それじゃあ待ってる。入部届はそのとき渡すから」

「はい! 楽しみにしてますね!」

 言って、妙な空気になる前に私は放送室から退散した。

 タイミングを逃すと、どう別れを切りだしていいのかわからなくなりそうだったから。

 どうしてだろう。

 昔からわかりやすい連中とばかりつき合ってきたせいか、先輩みたいなひととの距離感がわからない。放送部に入るのであれば時間をかけてゆっくりと知っていけばいいんだろうけど。

 それまで、こんなやきもきした気持ちですごすのは、ちょっとだけ息が詰まりそうだった。

 まあ、その息苦しさは決して不快なものではなかったんだけど。

 

 

 茜色に染まった廊下を歩みながら、北校舎一階にある一年二組の教室へと戻る。

 ホントなら職員室で入部届を出すだけの予定だったから、荷物とか上着とか、いろいろなものを教室に置きっぱなしにしてしまっていたのだ。そしてその『置きっぱなし』にしていたもののうちのひとつが、教室に戻ってきた私を怨めしげに睨んでいた。

「遅くね?」

 幼馴染みの南羽なんば小鞠こまりが不機嫌さを隠そうともせず言った。

 その名前の通り、小鞠はなんともちまっこいんだけど、こうも露骨に怒りを表明されると恐ろしい。むしろ小さいからこそ、彼女はその体に目一杯の怒りを湛える方法を熟知していた。

 小ささがストレートに可愛らしさに繋がっている先輩とは大違いだ。

 教室にはすでに小鞠以外の生徒の姿はなく、哀愁すら漂いかねない。

 そして小鞠の怒りも哀愁も、すべての原因は私にあった。

「あっ」

「『あっ』じゃねぇよ、お前。何時間ひとを待たせたら気が済むんだよ」

 小鞠怖い。

 バスケ部最小の異名を持っていた女なのに、その迫力だけで身長が私よりも高く感じられる程度に怖い。幼げな顔立ちも今は相手を威圧するためのものに成り果てていた。

 私は小鞠の質問に答えるため――いや、言い逃れをするため、かけ時計を確認する。

「でもでも、二時間は待たせてないから『何時間も――』は言いすぎだって!」

 我ながら、そこしか否定できる要素がないのかと呆れそうになる。

「言いすぎじゃねぇよ。牝鹿、お前登校のときも遅刻したの覚えてないの? お前は朝もきっちり二〇分遅刻してるんだよ。今回のと合わせて二時間と一〇分、お前は私のことを待たせてるわけだ。ちなみに昨日の入学式のときも遅刻してるからな?」

 このまま小鞠を放置しておくと、春休みの卒業旅行の寝坊にまで話が進展しかねない。

「うへぇ……でもでもでも! 待つほうも悪いで――いたい!」

 ぺちんと頭を叩かれた。

 身長差がありすぎるせいで、私の頭にダンクシュートでもするかのような勢いだった。

「お前は世界の全待ちびとを否定したぞ。ま、今のダンクシュートでチャラでいいよ。牝鹿をひとりで行動させた私もバカだったよ……本当、私がバカだったとも」

 私の頭を叩くのは小鞠の二時間を奪ったのに匹敵する行為だったのかとひとりで納得する。

「で、私の分の入部届、もらってきてくれたの?」

 ああ、そういえばそんな話もしていた気がする。

「うん、そうだったそうだった、もらってないんだよ――痛い痛い!」

 ぴょんぴょんっ! と二回飛び跳ね、ダンクも二回。

 勢いづいているせいで普通に痛い。

「なにが『うん』でなにが『そうだった』なの? 二時間待たせてなにしてたわけ?」

 バカなの? バカなんだな? よしバカだ。と馬鹿バカ連呼される。

 そもそも私の分だって提出できていないのだから、大目に見てもらいたい。

 というか私はもうバスケ部に入部する気すらないわけで……これを言ったら、小鞠はどんな反応をするだろうか? 小さな逡巡が私の中で生まれるけれど、すぐにそれを蹴散らす。

 黙っていたところで、いつまでも秘密にしておける事柄でも、間柄でもないのだから。

「それがね、私、バスケ部入るのやめようかなって思ってて」

「は?」

 今までは冗談めかして聞いていた小鞠も、これにはマジトーンでの返答だった。

「バスケ部入んないって……え? 何々なになに? なんだって? どういうことよ、それ。バカすぎて入部拒否された? だから私の分の入部届も貰えなかったとかそういう話?」

「小鞠ちゃん。私はマジメな話をしているんだよ」

「私だってマジメな話をしてるつもりだってば!」

 小鞠は機嫌の悪さを通りこして、余裕がなくなって怒鳴り声をあげた。

「入れなかったってわけじゃなくてね、自分の意志で、入るのをやめたって話だよ」

「自分の意志で……」

 私の言葉をくり返すことで、その意味合いを噛み砕こうとしているみたいだった。

「……この二時間で牝鹿の中で、いったいなにがあったんだよ」

 どんなふうに説明したものかと悩むが、有りのまま、あったことを伝えるしかない。

「放送あったの、小鞠は聞いてなかった?」

「放送……?」

 あごに指を当て、小鞠は思案顔を披露する。

「……牝鹿ってば、早くも呼び出されたの?」

 マジメな顔で行きついた答えがそこなのか。

「違うよっ! そうじゃなくて、入部希望者いませんかーっていう放送だって」

「なんの?」

「放送部の」

「放送部の……?」

「えっ、小鞠、あの放送聞こえてなかったの?」

「意識してなかったから、聞き流してたのかも」

 あんな放送、無視できるか? と思いかけるけど、私だって中学のころは放送なんて聞き流していた気がする。そもそもあのタイミングで『ぴんぽんぱーん』に驚愕してなかったら、私も小鞠みたいに放送に気づかぬまま、職員室で入部届を出していたのかもしれないのだ。

 そんな偶然をひとは運命と呼ぶのだろうか。

「で、それが牝鹿さんとなんの関係があんの?」

「で、私はその放送部に入っちゃおうかなーって」

 運命を感じたからとは恥ずかしくて言えなかったけど。

 案の定、小鞠はまったく理解できないという顔をしていたし。

「話、飛躍しすぎじゃね? 放送聞いたから部活入るって……牝鹿の基準ゆるすぎるだろ。つい二時間と三〇分前まで『私はバスケ以外興味ないから勧誘なんかじゃ揺るがない!』とか、そんな感じのこと言ってたような気がするんだけど……それ以前の問題じゃねぇか」

「そうなんだけど。そんなふうに考えてた私が、気づいたら入りたくなってたんだよ」

 小鞠は困ったような顔をしたけど、すぐにもとの仏頂面に戻る。

 今の私に対し、感情を見せることを拒否しているようにも見えた。それはそのまま心の距離にも感じられ、一瞬にして小鞠が手の届かない存在になってしまったような気がしてしまう。

「ずっと続けてきたバスケを辞めちゃうくらい、牝鹿はその部活に入りたいわけだ」

「うん」

 迷うのも、言い淀むのも間違いだと思った私は、ストレートに頷いた。

 怒られるかな? さっきみたいにぺちぺち叩かれるかな? そんな心配をする。

 だけど小鞠の反応は――ただの深々としたためいきだった。

「そう」

「そう……って」

 ……それだけ?

 いつ頭を叩かれてもいいようにと身構えていた私は肩透かしを食らった。

「意外とそっけない反応だ」

 なんだろう。

 言葉にできないもやもやとしたものが私の心中にわだかまっていた。

「牝鹿はそういう人間だよ。他人の話なんて聞かないし、いつも唐突だ。シカなのにイノシシみたいな女だって言われてたもんな。そもそも私が牝鹿の選択に許可をだす権利なんてない。お前がそうしたいなら、勝手にそうすればいい」

 小鞠は私ではなく、他ならぬ自分自身を納得させるみたいにして、何度か、そうした言葉を呟いた。その感情を排した声音が、私の心のざらざらとした部分をひっかいてゆく。

「ごめん……ね?」

「どうして牝鹿が謝るんだよ。謝る必要なんてないじゃん。謝られても私が困るだけだし」

 そりゃあ、そうなんだけど。

 私はとやかくと言える立場じゃないから黙るしかない。

「牝鹿とおんなじ部活に入れなくて、私は残念だけどな」

「……放送部入る?」

「入らない。私は牝鹿と一緒に始めたバスケ、辞めるつもりないし」

 小鞠の一言は私への断罪でできていた。

 だけどそれだけだった。

 それ以上、小鞠は私になにも言ってくれなかった。

 私を責めることも、罵倒することも、嫌味を言うこともなかった。

「それじゃ、帰ろっか。私も私で、明日、入部届だすことにするよ」

 小鞠は荷物を抱えて、さっさと教室から出ていってしまう。その動作はまるで、なにかから逃げだすように鋭敏で、先ほどの放送室での私みたいにどこか不自然だった。

「あああ! ちょっと待ってよ小鞠、私はまだ帰り支度してないんだから!」

 私も慌てて支度を整えて小鞠の背中を追う。

 私は渡り廊下を駆け抜けて昇降口へ。

 西側に開かれている正面玄関はこの時間になると太陽が目の前に配置される。

 茜色をふんだんに吸いこんだ昇降口が瞳に染みて、哀愁が心を濡らす。とくに明確な形があるわけでもない朧気おぼろげな『思い出』が、心にさざ波めいた揺らぎを産む。私は何度も瞬きをくり返しながら靴を履き替え、校門を出て、バス停まで三〇メートルほどの桜並木をゆく。

 桜はまだ蕾すらついておらず、華々しい雰囲気もない。

 だけど私は花より団子の人間なので、桜なんて咲いていたところで、ちょっとだけ『綺麗だな』と思う程度で、足をとめることもないと思う。もう少し歳をとって、いろいろなもの得たり、なくしたりしたら、桜の良さも少しはわかるのかもしれないけど。

 並木道のまん中あたりで小鞠を見つけ、横に並ぶ。

 登下校時は混雑しているバス停も、今は数人の生徒が散見される程度だ。

 小鞠は一歩、私よりも前に出た。そのせいで小鞠の向こうに陽光がまわり、彼女の姿を直視することができなくなってしまう。なんだか、ひどく息が詰まりそうになる光景だった。

 ちらりと小鞠の唇が言葉を紡ごうとしているのが見えた。

「――の――――その程度だったんだな…………とは思ったけどね」

 よく聞きとれなかったのは眩しさのせいだけではなかったと思う。

 トラックが通りすぎるときの排気音とか、そもそもそちらに意識を集中していなかったせいとか、小鞠の声の小ささとか。そういった要素がほどよく混ざり合って、私は彼女の言葉を満足に聞きとることができなかった。そして、そのほうが良かったのかもしれないとも思う。

 小鞠はちらりと私のほうを見やるけど、それ以上、言葉を重ねようとはしなかった。

 同じ小学校、同じ中学、同じ高校。

 小鞠とのつき合いは小学校四年生からになるから、今年で七年目になる。だから小鞠の考えていることはなんとなくわかってしまうし、向こうもそれは同じだと思う。

 小鞠はきっと怒っていた。

 私としてはその怒りを素直に吐きだしてくれたほうが楽だったんだけど。

 怒りをそのまま吐きだすのも、この歳になってしまうと難しいんだろう。

 なによりそうやって楽になりたいと思ってしまうのは私のエゴでしかない。

 五分ほどして、バスがやってきた。それがホントに自分たちが乗るべきバスなのか、慣れない私は不安だったけど、小鞠の迷いない足どりにつられるようにしてバスに乗りこむ。

 始発の停留所が近いせいかバスの中は無人だった。

 私たちはバス後部のふたりがけの席に並んで腰かける。運転手はそれを見届け、バスを再発進させた。ひとつ目の交差点にさしかかったあたりで、小鞠はひさしぶりに口を開く。

「一緒にいられる時間とか減っちゃうな」

「そうだね。小鞠は運動部だし、放課後も休日も部活だろうし……こっちはこっちで、どういうスケジュールになるのか予想もつかないしね」

 中学のころは私も小鞠もバスケ部だったから、長い練習時間も一緒だった。

 だから小鞠のいない生活がどうにも想像しづらい。私は一年二組で、小鞠は一年一組で、教室自体は隣だけど、クラスの隔たりの大きさを、何年も学校という空間ですごしてきた私たちはよく知っている。せめてクラスが一緒だったらと思うけど、今さらどうしようもない。

「そっか。牝鹿はそういう、予想もできないような部活に入ろうとしてるんだもんな」

「うん」

「私はたぶん、そういうのは難しい」

「私もやろうと思ってやったわけじゃないし……始めから放送部に入ろうって思ってたわけじゃないけどね。たまたま、いろいろなことが重なっただけだから」

「それで私たちは別々の部活になっちゃったわけだ。なんか不思議な感じだな」

「私もおんなじこと考えてた」

 そこには形容しがたい喪失感があった。

 自分の身体や心の一部がなくなってしまったような独特の感覚。

「ずっと一緒にいたもんな」

「そうなんだよね。でもさ。部活が違っても、私たちが一緒で、友だちなのは変わんないよ」

 それは私の希望的観測だったのだろうか。隣に座っている小鞠がどんな表情をしているのか私にはわからない。小鞠の顔を覗きこんで確かめる勇気も私にはなかった。

 ただ、小鞠は返答に困っているようだった。

「…………」

 一瞬の沈黙が、それでも如実に、彼女と私のあいだに横たわっているものを表していた。

「……うん、そうだね。私たちはずっと一緒だ」

 そして紡がれたのは、なにかがズレてしまっているような、曖昧な肯定だった。

「そう言えばさ――」

 どちらともなく開いた口、そこから発せられる地に足のつかない言葉。

 高校生活の不安とか、中学時代の友人とか。

 そういう当たり障りのない話題で、私たちは、互いのあいだに生まれてしまった綻びをごまかした。そして明日も一緒に登校する約束をして、それぞれの帰路についたのだった。