16章 シスターサラサの受難


 教会にやってきました。

 昨夜、気絶してしまったメルさんの身支度を整えてから詰所に送ったところ、どうやってぼくの宿を突き止めたのか、昼過ぎには顔を真っ赤にしたメルさんが「森の出口亭」にやってきて、

「貴様は煩悩だらけだっ、教会で払ってもらえ!」

 と怒鳴られ、無理やり連れ出された先が教会でした。

 理不尽です。

 ぼくは紳士として行動しただけだというのに。現に、昨日失神したメルさんはとても幸せそうな笑顔でした。せめてもの抵抗にそれを告げたところ、彼女は顔を真っ赤にしてぼくの股間を蹴り上げようとして、躊躇ったのちにぷんすか肩を怒らせながら帰っていきました。

 なにがしたかったのでしょうか。

 どちらかというと、ぼくよりも昨夜あんなに乱れるほど鬱憤うっぷんを溜め込んでいたメルさんこそ、シスターにお話を聞いてもらうべきだと思いました。ストレスの溜まる職場というものはたいへんですね。

 教会といえば、人間が懺悔ざんげするためのものだと聞きます。オークであるぼくは果たして、教会に入ってよいものなのでしょうか。

 そもそも、ぼくは懺悔するようなことはしてません。日々胸を張って生きています。紳士にうしろ暗いことは許されませんからね。

 こぢんまりとした教会です。三角屋根のてっぺんには、やや古ぼけた十字架が空へ伸びています。聖母か聖女か、ベールを被った女性のステンドグラスが美しいですね。

 ヌヌの町でもひときわ奥まったところにあるせいか、このあたりは活気があまりありません。

 といっても、決して暗いわけではなく、落ち着いているというか、心地よい静寂が満ちていて、まるで別の町に来てしまったかのような錯覚さえ受けます。

 昼を少し過ぎたところなので、いまはちょうど昼食時ですね。教会の中に人影はなく、荘厳な空気が教会内には溢れていました。

 規則正しく並べられた長椅子の端に座って、陽の光が差し込んで輝いているステンドグラスを眺めていると、礼拝堂の奥に存在する扉の先から、なにか物音が聞こえてきました。

 シスターさんがいないので、てっきり誰もいないと思ったのですが、扉の向こうからは話し声のようなものが聞こえてきます。さすがに邪魔するわけにもいかないので、聖女像をぼんやりと眺めていると、話し声が大きくなりました。

 おかしいですね。話し声のほかにも、机を揺らしたような音も聞こえてきました。ふたつの音は次第に激しくなっていき、ぼくは喧嘩でもしているのかと思いました。

 しかし、人間からすれば教会は神聖な場所らしいです。そんな大事なところで、果たして取っ組み合いの喧嘩なんてする人がいるのでしょうか?

 折を見て止めようかな、と思ったとき、ぴたりと物音がやみました。

 さすがに不審ですね。もしかしたら泥棒でも入っているのではないでしょうか。しかし、礼拝堂の奥は立ち入り禁止の掛け札がぶら下がっておりますし、人間ではないぼくが無闇に入っていいような場所だとは思えませんでした。

 仕方なく誰か人間を呼んでこようか、と思ったところで、扉が開きました。

 出てきたのは、穏やかな風貌をした女性でした。

 だぼついた白い神官服を揺らし、ぼくを見てひどく驚いたような表情を浮かべました。もしかして、オークを見るのは初めてなのでしょうか。それとも、単におびえているだけなのか。

 大人の入り口に立ったばかりの純潔さをまとったその容姿。特徴的な垂れ目はほんわかと優しそうな印象を受けて、ぼくはなんとなく、この子は優しい子ではないかと思いました。

 ふと気になることがあります。どうしてそんなに顔が赤いのでしょうか。

「あ、あの、貴方も主への祈りを……?」

「ああ、いえ。ぼくは知人に無理やり連れてこられて……オークだからって煩悩が多い、なんて、偏見だと思いませんか?」

 いささか緊張した様子の彼女に言うと、ほっと息をつくようにくすくすと笑ってくれました。これで滑ったら二度とここには来られないでしょう。

「それは確かにひどい偏見ですね。貴方のような落ち着いたオークさんもいらっしゃるのに」

「そう言われるといままで苦労が報われます……」

 涙がちょちょぎれます。

 なんというか、ぼくを偏見なく接してくれるシスターさんはそれこそ聖女のようです。たおやかにほほ笑む彼女とお話ししているだけでどこか気分がすっきりするというか、落ち着いてくるというか。

 これが教会の効果なのでしょうか。もしそうだとしたら、ぼくはここに住んでみたいですね。毎日を穏やかに過ごせそうで、性欲とも無縁になれそうです。

「ああ、そうだっ。よかったら礼拝堂だけでなく、中も覗いていきますか? ここほど美しくはありませんが、聖書や聖母様の肖像画もあるんですよ?」

「おお、それはぜひ」

 聖書や肖像画など、どちらも見たことがありません。どんなものなのか気になります。

 先導するシスターさんのあとをついて礼拝堂の奥へと足を踏み入れました。そのとき、どことなくシスターさんの歩き方がおかしいと思ったのですが、たぶん気のせいですね。

 礼拝堂に比べてしまうとまさに清貧という表現がふさわしい内装でした。

 実用一辺倒で色使いは地味、それでもなんだか温かみのあるお部屋です。ここはいわゆる待合室みたいなもので、教会にやってくる人間がいない場合にはここで休んでいるそうです。

 年季の入った飴色のテーブルには飲みかけと思われるカップがひとつ置かれており、すっかり冷めて湯気は立っていませんでした。

「そういえば、神父さんやほかのシスターさんが見えませんね。お買い物ですか?」

「いえ、その……この教会はいわゆる辺境なので、派遣される神官は少ないんです……」

 すっかり忘れていましたが、森からやってきた僕たちと違い、人間にとってこのヌヌの町は危険と隣り合わせの、シスターさんが言ったとおりに辺境の土地なのです。

 なので、この教会を守っているがシスターさんひとりだけ、という話にも頷けます。

「ぼくは一度、人間領に行ったことがありますけど、こことそう変わりありませんでしたよ?」

 しかし、よく考えてみれば人間にとっては魔物が住む町です。住み慣れた人ならともかく、恐ろしげな先入観があるのは仕方のないことなのでしょうね。

「はい。私もそう思って、本部に何度もかけ合っているのですが……。みなさん、本当に優しい方が多いのに……」

 本当に優しい人ですね。

 淑女、という言葉は、この人のために存在するのではないでしょうか。

 それから、シスターさんは聖書を見せてくれたり、聖女を崇めるファーレン教の由来など、さまざまなことを教えてくれました。

 とくに興味を惹かれたのは宗教という価値観です。偶像崇拝からなる組織は信者が多ければ多いほど影響力が強くなり、王政国家でも無碍むげにはできないそうです。

 少なくとも、オークに神はいないので、新鮮でした。

 オーク以外の種族は果たして偶像崇拝をしているのでしょうか。祈る相手は神のみにあらず、ということも含めるのであれば、それなりの数の種族が祈る、という行為をしているのではないでしょうか。

 それを考えると、オークはひどく現実的で、偶像にすがることのない種族なのでしょう。

 まぁ、あえていうのであれば、女体が信仰の対象でしょうか。性の神なんてものがいれば、生まれつき信仰していそうなものですね。

 そういえば、驚いたことがひとつありました。なんでも、ファーレン教では、性交渉が禁忌とされているらしいのです。

 確かに性交渉のイメージは、淫らで退廃的ではありますが、それはごく一部に過ぎません。

 子を宿し、種を繁栄させること。それが最たる目的です。

 子作り自体は許可されているものの、それ以外の性交渉は禁止されているようなのです。

 子作り以外でも、性交渉は恋人や夫婦の愛情を確かめる行為でもあります。それが禁止されてしまえば、あとは言葉を尽くすだけとなってしまい、限界が来てしまうのではないでしょうか。

 つまり、ファーレン教はセックスを汚らわしいものとして見ている、ということになりますね。

 もしオークがファーレン教に強制入信させられたりでもしたら、血涙を流しながら世界中の教会を破壊しにいくでしょうね。


「え、えっちはその……赤ちゃんを作るためでないといけないんですっ」

 と、顔を真っ赤にしながら訴えてきたシスターさんはかわいいと思いました。



「森の出口亭」で働きながら、折りを見ては教会へ足を運ぶようになりました。

 シスター・サラサさんがかわいい、なんて理由ではなく、宗教という概念に興味を持ったので、空いた時間にご教授してもらっているのです。

 経典の内容を詳しく解説してもらったり、聖書を読ませてもらったりと、入信するわけでもないのにサラサさんは親身になって教えてくれました。

 さすがに手ぶらで教えを請うのは気が引けたので、三度目の訪問からは手土産を持参するようになったのですが、禁欲的であることが教えに含まれているらしいサラサさんには甘味がものすごく嬉しいようで、飛び上がるほど喜んでくれました。

 なんでも、プレゼントされたものであれば受け取ってもかまわないそうです。

 今日も、宿のほうが手持ち無沙汰になったので、活気のある大通りでお土産を物色することにしました。それに、いい機会ですからミュケに贈る品も見ていきましょうか。

 サラサさんが喜ぶのは、第一に甘味。お菓子の類やジュース、果実なんかも大喜びでした。

 第二に、意外で驚いたのですが、なんと肉の類も好物のようで、恥ずかしそうにしながらも串焼きにかぶりついていました。

 お土産にする候補はこのどちらかなのですが、甘味は基本的に種類が少ないらしく、屋台で売られているものは蜂蜜を練り込んだ粉物を焼いた甘い軽食が多く、お菓子というお菓子はほとんど見たことがありません。というのも、甘味は完全に嗜好品です。懐事情に余裕のある住民だけが買うので、それほど豊富ではないそうです。

 なので、今日は甘味ではなく肉を持っていくことにします。

 甘味とは逆に、肉料理は豊富で、ひと口に肉といっても鶏に牛、豚といった家畜。羊や猪、熊といった獣肉、はたまた蛙や蛇といった野性味溢れる独特な肉など、たくさん取り扱っています。

 肉の種類ひとつとっても、調理方法はさまざまで、味つけも千差万別、となればめったに飽きがくるものではないでしょう。

 年頃の娘さんに肉を献上し続けるのはどうかと思いますが、サラサさんが喜んでいるのでよしとしましょうか。

 教会に到着すると、いつもは開いているはずの扉が閉まっていることに気がつきました。もしかしたら、今日は臨時のミサでもやっているのでしょうか。

 昼を過ぎてティータイムに近い時間なので人通りが少なく、教会で祈る人もみな帰ってしまうことが多いです。

 開けるか開けないか、しばらく悩んでいると、不意に教会の中からなにか大きな物が倒れるような音が聞こえてきました。

 それと同時に激しく言い争うような声が聞こえて、サラサさんの悲鳴が響いて迷わず教会の扉をぶち破りました。

「いやっ、やめてください! こんなことファーレン様はお許しになりませんよっ」

「お、おおお、オンナあああっ! ぬ、脱げっ、服を脱げっ」

「おやめなさいっ、あ、やだ、い、痛いです……いやぁっ!」

 礼拝堂には彼女の姿がありません。吹き飛ばした扉の破片を踏み潰しながら奥の部屋へ進むと、食器や椅子が床に散乱しており、テーブルにはサラサさんが組み伏せられていました。

 純白のローブは太ももの際どいところまでめくれ上がり、下着がわずかに見えてしまっています。

 サラサさんにのしかかるのはでっぷりとした腹が特徴的なトロール族の男でした。

 トロール族の男に共通な出っぱった腹にも驚きますが、なにより驚嘆するのはその体躯です。縦にも横にも大きく、背の低い種族であればすっぽりと隠れてしまうほどの巨躯でした。

 サラサさんの白い肌に相当興奮しているのか、粗末な腰布の前を膨らませていて見るに堪えません。

 巨躯を支える筋肉はもちろん腕にも備わっており、鉄塊をも砕くほどの剛腕には絶対に殴られてはいけません。

 サラサさんにのしかかって荒い息を繰り返していたトロールがぼくに気づき、牙を剥いて睨んできました。

 とにもかくにも、トロールをサラサさんから引き剥がすのが先です。万が一にでもトロールがサラサさんに触れる力加減を間違えれば、彼女は一瞬で死んでしまいます。愛槍を持っていない分だけ不利ですが、だからといって逃げ出すわけにはいきません。

 サラサさんの太ももほどはあるトロールの性器がびくびくと跳ね、彼女は顔を真っ青にしてぼくをすがるように見ます。恐怖に震える唇が、「たすけて」の形を紡いで噛みしめられました。

 逡巡しゅんじゅんなんて必要ありません。

 サラサさんを組み敷いたままのトロールに肉薄して、トロールが振り返る前にボディブローを叩き込みました。

 どっ、と厚い脂肪に衝撃が阻まれ、トロールは嘲笑しました。

 余裕たっぷりにぼくに向き直ったトロールは、耳をつんざく雄叫びを上げながら突進してきました。避けようとしても至近距離での格闘戦です。肩口から突撃してきたトロールの体当たりに吹き飛ばされました。

 高速で流れていく風景、背中にものすごい衝撃と破砕音が響いて、ようやく水平移動が終わります。

 礼拝堂まで吹き飛ばされたようで、ぼくの下敷きになった長椅子がいくつか潰れていました。

 痛みに耐えながら立ち上がると、視界の端に血液が滴り落ちていくのが見えて、思わず頭部に触れました。すると、案の定額が裂けているようで、自覚すると途端に熱を帯び、じんじんと痛むようになりました。

 やっぱり、恐ろしいまでの怪力です。距離を取って戦うことが鉄則というのは正しいですね。砕けた長椅子から、尖った破片をつかんでリトライです。

 ぽっかりと口の空いた壁から部屋に入ると、サラサさんは裸に向かれてうつ伏せにさせられていました。かろうじて挿入には至っていないようですが、これ以上はやらせません。

「やだ、やだぁ……たすけて、助けてください……やだよぅ……こんな、こんな形で、初めてなのに……っ」

「ふ、ふんふんっ、いれ、入れるぞっ、おれさまのデカいのをぶち込んでやるから泣いてよろこべ女ァ!」

「残念ですがぼくはまだ死んでいませんよ」

 ものすごい勢いで振り返るトロールを尻目に、逆手に握った木片を心臓に突き刺してやりました。しかしよっぽど脂肪が厚いようで、トロールは仰け反ったものの、あっさりと木片を引き抜いてしまいました。

 ぼとぼとと床に落ちる赤黒い血は、トロールがふんと意気を込めると止まってしまいました。

 自らの血でできた血溜まりを踏みつけて、トロールが歩み寄ってきます。

「お、お、オークごときにおれさまは負けねえ! 雑魚は泣きながらセンズリこいてろよぉ!」

 どしどしと巨体を揺らしながらまたしても体当たりを仕掛けてくるトロールに、ぼくは一歩も動きませんでした。

 別段、足がすくんだわけではありません。生半可な攻撃ではトロールの肉厚な体躯には届かないのです。

 床を踏み抜く勢いで突っ込んでくるトロールの肩が顎にぶち当たり、ものすごい衝撃と圧力に体が一瞬うしろに揺れました。

 深く落とした足腰にありったけの力を込めて踏ん張ると、じりじりとぼくを押していたトロールの勢いが途絶えました。

 いまがチャンスです。

 無防備なトロールの下腹部に拳をねじ込み、痛みに呻いて腹を抱えたところで下がった顎を打ち上げました。しかしそれでもトロールはあとずさるだけで倒れません。

 鳩尾に前蹴りを叩き込み、ぶよぶよで太ましいトロールの太ももに痛烈なローキックを喰らわせると、ようやく片膝をついてうなだれました。

「ううううぅう」

 が、まだ意識を失ったわけではありません。

 素早くトロールに接近し、膝を足場にして飛び上がると同時にでっぷりとした顎先を膝頭で蹴り抜くと、ようやくトロールは仰向けに倒れて動かなくなりました。

「サラサさんっ無事ですか!」

「あ……こ、こわかっ」

 体を隠すよりも恐怖が勝ってしまったのでしょう。サラサさんは顔を両手で覆ってわっと泣き出してしまいました。

 棚から毛布を拝借してサラサさんの肩にかけてから、トロールの手足をしっかりと縄で縛り上げておきました。何重にも巻いたので力ずくでもちぎれないでしょう。

 サラサさんが落ち着くまでそばにいることにしました。

「あの、ごめんなさい。それと本当にありがとうございました。ルトさんがいなかったらわたし、わたし……っ」

「もう大丈夫ですよ。もしまたなにかあってもぼくがかならず助けますから」

 頃合いを見計らって、ぼくとサラサさんは教会を出ました。トロールをそのままにしておくのは心配でしたが、よほど膝蹴りが効いたのか、まるで目を覚ます気配がなく、騎士のみなさんを連れて戻ってきても気絶したままでした。

 屈強な騎士さん数人でトロールは気絶したまま連行されていき、牢屋へ入れられました。これでようやくひと安心といったところでした。



 夜も遅くなってきましたが、心細そうにしているサラサさんを見ると帰るに帰れなくて、今日は教会に泊まることにしました。

「あ、あの、夕食はまだですよね? これから作るのでよかったらルトさんもご一緒にいかがですか?」

 襲われかけて日も変わらないというのに、サラサさんは気丈でした。あんなことがあったあとですから、本当はメルさんについていてもらおうと思ったのですが、ぼくを信頼してくれているようで護衛のために泊まることにしました。なので、その申し出はとても嬉しく、喜んで同伴させてもらうことにしました。

 質素ながらもしっかりと栄養が整った晩餐ばんさんで、たいへん美味しかったです。

 居住スペースはそれほど広くなく、礼拝堂奥のキッチン兼リビングルームの隣にサラサさんの部屋があるだけでした。空き部屋はあるものの、物置代わりにされていて夜も遅いいまからでは片付けも難しいです。

 礼拝堂の長椅子でいいと言ったのですが、サラサさんは頷いてくれず、結局彼女の部屋でともに眠ることになりました。

 サラサさんはベッドに、ぼくはその隣の床に転がり、ぽつぽつと話しているといつの間にか眠ってしまいました。


「は、あぁ……んんっ」

 艶っぽい声に目が覚めました。

 いったい何事か、と目だけを動かして真っ暗な部屋を見回すと、サラサさんがベッドの中でもぞもぞと動いていました。

 かすかに漂う淫靡な空気と、控えめな水音、それに押し殺した喘ぎ声。

 これだけ揃っていれば誰だってわかります。サラサさんが致しているのでしょう。

「あっ……だめっ、んぅっ」

 くちゅり、とひときわ大きな水音が聞こえて、サラサさんは動かなくなりました。

「ふ、う……あ……」

 すこしあいだを置いて再開された自慰に、眠気が吹き飛んでしまいました。

 どうやら毛布の端を噛んでいるようで、くぐもった声がよりいっそう艶やかに感じられます。

「んぁっ、だめなのに……こんなの、だめっ」

 もぞもぞとサラサさんの動きが速くなります。

「ああ……ルトさんっ、そんな、無理やりだなんて……! 嫌っ、服破っちゃやだぁ!」

 息が止まりました。

 まさか、ぼくを相手にしているなんて。

「あっあ、んんんっ……そんな、胸ばかりっ、ううんっ、つまんじゃだめえっ」

 ぼくが起きていることを知られるのはまずいです。この上なくまずいです。必死で身を固めていると、サラサさんの声がもう抑えきれないのか、だんだん大きくなっていました。

「ううっ、助けたお礼に好きにさせろなんてっ、そんなことファーレン様がお許しに……んあっ」

 くちゅくちゅと激しさを増す水音に、びくびくとサラサさんの体が震えました。

「んっくぅ……! だめ、だめっ、はじめてなのに、はじめてなのにぃっ……豚さんにわたしのはじめて奪われちゃうよぉ」

 がたん、とベッドが揺れて、サラサさんが絶頂に達したことを知らせてくれました。

 なんだかこう、ものすごく気まずいです。でもどこか嬉しくもあって、少し複雑な気分です。

 やはりトロールに襲われたことが尾を引いているのでしょうか。間もなく自慰を再開したサラサさんは熱っぽい声でぼくの名前を呼びました。

「は、ああっ、そんなにパンパンしちゃだめっ、すぐにイっちゃ……んんんぅっ」

 このまま聞いているのは紳士としてあるまじき行為に思えました。なのでぼくはそっと部屋を出て、どこか別の場所で眠ることにしました。


 そう思ったのはいいものの、先ほどの衝撃で目が覚めてしまったらしく、一向に寝つくことができませんでした。

 月明かりの差し込むステンドグラスを眺めているのもいいかげん飽きてきてしまって、ふと部屋を見回すと本棚があることに気づきました。

 サラサさんは読書家なのか、本棚いっぱいに詰め込まれた書物があります。背表紙を眺めると、気になるタイトルの本を見つけました。

『ガールズハート』というタイトルで、つい最近購入されたのか、まだ新しい本です。

 興味を惹かれて抜き取ってみると見出しには「女の子の本音を大暴露!」とカラフルな色使いで大きく描かれていました。

 持ち主であるサラサさんの許可なしに読むのは憚られますが、どうにも気になってしまって、ついめくってしまいました。

 ぼくのようなオークが紳士を目指すのは、たぶん驚かれるようなことだと思います。だからこそ、いままでの行動が正しかったのか、女性の目から見てどう映っていたのかを知りたい欲求が膨れ上がって、収まらなくなってしまいました。

 慎重に、折り目をつけないようページをめくりました。

 月明かりの差し込む窓辺で黙々と読み込んでいくと、ぼくの知らないことばかり書かれていました。とくに、女性心理なんてものは、ぼくにはまったくわかりませんでした。気があるふりをして振り向かせる、なんて、小悪魔もいいところです。

 浅いページのほうには、ぼくでも納得できることが書いてありましたが、残りページ数が少なくなっていくにつれて、女性の本音というか、そういった生々しいものが散見されるようになってきました。

 ふと、目に入った一文が、最初は理解できませんでした。


『女の子は、自分だけを見ていてほしい生き物。だから浮気なんてもってのほかで、そんなことをする男の子は、紳士とはいえないよね!』


 そんなことが書いてあって、ぼくは何度も何度も読み直しました。

 紳士じゃない。

 そんなこと、ぼくの教本には書かれていませんでした。

 どんな女の子でも、肉体精神ともに満足させてあげられるような者ではないと、本物の紳士とは呼べない。教本には、そう書いてありました。

 でも、この『ガールズハート』は女性の本音が書いてあるようで、どちらかが間違っているなんて、とてもではありませんでした。

 不誠実。

 不誠実な男の子は、紳士じゃないぞ!

 そんな文章まであって、ぼくはもうわけがわかりませんでした。

 混乱したままの頭でも、ページをめくる指は動き続けます。激しい動悸と、耳元で脈動しているように思える心臓の音だけがいやに大きく聞こえるまま、最後のページまで読み終えました。

 ぼくは、どちらを信じればいいのでしょうか。

 いままで教えを守ってきた紳士になるための本と、女性の本音だという本。

 後者を信じるならば、ぼくはいままでミュケにとんでもないことをしてきたのではないでしょうか。

 もしも、ミュケが爛漫な笑顔の裏で泣いていたら。そう考えると、もうぼくは彼女に近づくべきでないのでは……?

 ぐるぐると、答えの出ない疑問が頭の中で存在感を大きくしていき、ぼくは書き置きを残して教会から飛び出してしまいました。

 無我夢中で走って、たどり着いたのは「森の出口亭」でした。

 何度も出入りしたなじみ深いこの宿に、いまでは足を踏み入れることさえ恐怖を感じています。

 もう夜も深いですから、3人とも眠っていることでしょう。彼女たちを起こさないように荷物を取りに入って、少しだけ、躊躇いました。

 なにも言わずに消えるのは、やはり不誠実なのではないでしょうか。

 ぼくはいままで、ミュケにひどいことをしてきて、その上でまた罪を重ねるなんてこと、できそうにありません。

 せめてこれだけは、と思った言葉を便箋に残して、ぼくは宿から出ていきました。


『ミュケへ。

 これを読んでいるときには、ぼくはもうそこにはいないと思います。

 ぼくはいままで、知らずにきみを傷つけていました。そんなこと、紳士として許されないことです。

 だから、ぼくはきみの元から離れることにしました。

 さようなら。いままでありがとうございました。ぼくのことは、そのまま忘れてください。

 ルトより。』