剣聖スクレット。
鉄に恵まれた隣国に攻め入られたとき、たったひとりで隣国の王の元へ赴き戦争を終わらせたという大英雄が、スクレットさんでした。
人間の言うところの、魔獣であるぼくたちにはなじみのない言葉ですが、人間にとってはそうではないようです。
危うくカリアさんに斬り殺されるところでしたが、直前でフェーレさんが話が通じるようだからと止めてくれたので事なきを得ました。
そのおかげで、ぼくが助太刀したことに気づいた3人が揃ってお礼を言ってきたことにはびっくりしましたが、なんとかこうして会話の場を設けることができました。
死屍累々な川辺から離れて、小さな林の中に隠れるようにして建つ小屋に移動して、ぼくはカリアさんに睨まれていました。
「……フェーレ様、あまり近づいてはいけませんよ。いくら言葉が通じるとはいえ、魔獣は魔獣。それに汚らわしいオークです」
「こら、命の恩人になんてことを。本当にごめんなさい。カリアには強く言っておきますから」
「いえ、気にしないでください」
むしろ、カリアさんの反応が普通なのです。いくらしゃべれるとはいえ人間にとって魔獣は害獣で、亜人は話の通じるほか種族です。その点でいえば、スクレットさんも少しばかり変わった人のようで、フェーレさんほど友好的ではないにしても、まったく敵意を向けてきません。どちらかというと、歓迎しているような雰囲気さえあります。
悲しいことですが、オークは人間を害するために魔獣と括られてしまっているのです。
「そうですよっ、オークのことよりも剣聖様のことですよ! どうして貴方ほどのお方がこんな辺鄙な土地で暮らしているのですか!?」
「……静かでいいところだからね。少なくとも、欲に塗れた貴族たちがはびこる王都よりはずっといい」
「そ、それは……」
「恥ずかしながら、私も最近はそう思うようになってしまいました。……もう、隠居してもいいかもしれませんね」
「フェーレ様っ!」
「そう怒らないで、冗談ですよ」
「フェーレ様は貴族として、幸せになるべきなのですっ! あの畜生たちのせいで……」
「カリアっ!」
「も、申し訳ありません……」
「なるほど、貴族同士の争いですか」
フェーレさんたちから出た、貴族という言葉に露骨に顔をしかめたスクレットさんが、紅茶の注がれたカップをテーブルに人数分置きました。さりげなく、ぼくの分まで用意してくれていることに驚きました。
「悪いけど、もう貴族には関わらないと決めているんだ」
「なっ……なぜですか!? 剣聖様のお力添えがあれば、すぐにでも解決できるのですよ!?」
「こら、カリア。これは私たちの問題です。もともとほかの方には頼らないつもりだったでしょう? ……申し訳ありません、剣聖様。私の従者がとんだご無礼を」
「気にしないでください。貴女の言葉は不思議と信じられる」
叱られたカリアさんがしょんぼりと肩を落として、スクレットさんが苦笑混じりに眺めていました。
ぼくが仲間と暮らしていたときには大抵下品な話しか飛び交っていないので、少しばかり新鮮です。これが人間の会話なのでしょうか。知性を感じます。
ただ、フェーレさんの顔色があまり優れないことには、誰も気がつかないのでしょうか。焦燥や不安、怯えが滲んでいて、それでも隠そうとしているフェーレさんに、従者というカリアさんも気づく様子はありません。
「あの、大丈夫ですか?」
「え? は、はい。大丈夫ですよ? どうかなさいましたか?」
「あ、いえ。それはむしろぼくのほうが聞きたいです。それほど顔色が悪いのですから、なにか深刻なお悩みでもあるのではないですか?」
「なっ……どうして、どうしてわかるのですか? これでも、取り繕うことには自信があったのですが……」
あきらめたようにため息を漏らしたフェーレさんの顔には、深い疲労が刻まれていました。
「フェーレ様? 話が見えないのですが……」
困惑気味に問うカリアさんに、思わずぼくが口を出してしまいました。
「ずっと我慢してきた、ということですよ。なにがあったのかは問いません。ですが、女性がひとりで抱え込めるような問題ではないのではありませんか? フェーレさんはそれを誰かに話すこともできず、ずっとひとりで背負っていたんじゃないですか?」
「……それはっ! フェーレ様、確かなのですか……?」
「うふふ、不思議ですね。まさかオークさんに言い当てられるとは思っていませんでした。隠し事には自信があったのですが、まだまだですね」
もう一度ため息を漏らしたフェーレさんは、目を疑うほど雰囲気をがらりと変えてしまいました。向日葵のような笑顔を浮かべていたフェーレさんは、いまにも泣き出してしまいそうに表情を歪めてしまいました。唇を強く噛んで、必死に涙を堪えるフェーレさんに、カリアさんが目を剥いて驚いていました。
誰にもわからない透明の仮面を着けていたようです。
「バレてしまっては、強がる必要もありませんよね……?」
「ええ」
つうっ、と涙がひと雫、頬を伝っていくのが見えました。それを合図に、せき止められていた涙が流れていきます。
「わた、私のっ、私のせいでカインがっ、みんながっ、みんな傷ついて! どうして!? どうして私がこんな目に遭わなければいけないの!? あの小さな教会でっ、あの子たちと一緒に楽しく暮らしていけるだけでよかったのに! う、うううぅぅぅぅぅぅ……」
泣き叫ぶフェーレさんがカリアさんに抱きつき、もらい泣きしてしまったカリアさんが強く強く彼女を抱きしめていました。温和で、母性すら感じる女性がまるで子供のように大泣きしてしまうなんて、よっぽどのことです。
「…………」
ぼくと同じように黙り込んだスクレットさんは、なにかに共感したのでしょうか。沈痛な面持ちで唇を引き結んでいました。
暗い空気が小屋の中を漂いました。
しばらく泣いて、落ち着きを取り戻したフェーレさんがぼくたちに空気を悪くしたと頭を下げました。真っ赤になってしまった瞳が痛々しいです。
「ぐすっ……私はもともと孤児でした。とある孤児院に拾われて、優しい院長先生のおかげで大人になれて。恩返しがしたくて孤児院のお手伝いを始めました」
嗚咽混じりに話し出したフェーレさんに、カリアさんが顔をうつむけました。
「小さな孤児院で、少しだけ貧しくもありましたが、子供たちはみんなやんちゃですが優しくて、たいへんでしたが楽しい毎日でした」
目尻を拭いながらほほ笑むフェーレさんは本当に楽しそうに笑いました。でも、
「どこから聞きつけたのでしょうか。ある日突然、私の母親を名乗る女性が孤児院にやってきました。私はいまの生活に満足していましたし、自分を一度捨てた相手を親とはみなせないこともあって、一緒に暮らそうという申し出はお断りしました。きっと、それが間違いだったのでしょうね」
「私の父は男爵の位を持っているれっきとした貴族でした。母はその妾で、生まれたばかりの私を父の命令で捨てたそうです。理由は聞いていません。母が私を呼び戻そうとしたのは、伯爵家の貴族と婚姻させるためでした。父の家は落ち目らしく、私は利用されるために呼び戻されるところでした」
ぼくたちオークですら、仲間は大切にします。しかし人間は、血のつながった家族でさえも利用する種族なのでしょうか。
「お断りした翌日、孤児院が何者かに、いえ、両親の手の者に襲われたです。言うことを聞かなければ孤児院を何度でも襲う、ということでした。私がいては迷惑がかかってしまうので、夜に出ていこうしたところを子供たちに見つかってしまいまして……すぐに院長先生にまで伝わってしまったのです。みんな優しくて、ずっとここにいればいいって、みんな、みんな……」
ぽろぽろとこぼれる涙をカリアさんが拭って、しゃべれなくなってしまったフェーレさんの代わりに、カリアさんが続きを話してくれました。
「私は、フェーレ様の腹違いの姉上、フェリス様からの指示でフェーレ様にお仕えしております。幼いころに離れたきりでしたが、フェリス様はずっとフェーレ様を想っておいででした。そんなときにフェーレ様の状態を知ったフェリス様が、私とカイン、もうひとりの従者をつけて警護に当たらせました。そして、フェーレ様は孤児院に迷惑をかけたくないと、放浪することにしたのです」
「そんなことが。では、あのグラスという男はどう関係してくるのですか?」
「あの男は、フェーレ様の相手になる伯爵家の次男です。もっとも、あいつはフェーレ様と結婚することで、フェリス様をも手に収めようとした下衆な男です。……オークには感謝している。魔獣の乱入で殺害されたことになっているだろうからな。フェーレ様が不利になることはないだろう」
ぼくとしても、男の風上に置けないような人間を成敗できたのは喜ばしいことです。
「フェーレ様は貴族として幸せになるべきなのです。フェリス様もそれを願われていて、昔のように同じ屋根の下で暮らすことを心の底から願っておいでです」
「それには、フェーレさんの両親が障害になる、と」
いままで黙り込んでいたスクレットさんが、重々しくつぶやきました。
「それに、結婚相手の実家が敵に回ったかもしれませんね。本当に魔獣に殺されたことを馬鹿正直に報告する可能性は低いでしょうから」
「しかしっ、それではフェーレ様が悪者になってしまいます! いったいフェーレ様がなにをしたというのですかっ! あの男は死ぬべき人間だった! なのに、なのになぜ……」
「貴族にとって、命よりもプライドのほうがはるかに重い。家名を守るためなら、それこそどんな手段だって取るのが貴族です」
実感のこもった言葉でした。大英雄がこんなところで隠居している原因なのかもしれませんね。
「嫡男ではないとはいえ、立派な伯爵家の人間だ。普段は見下しているからこそ、魔獣に殺されたなんて口が裂けても言えない。じゃあどうするか。その場に居合わせた人間に殺されたことにすればいいんですよ。……おそらくはすでに死体も発見されていて、フェーレさんの手配書が出回っていることでしょうね」
スクレットさんの淡々とした言葉に、カリアさんが蒼白になりました。泣きじゃくっていたフェーレさんの顔色もますます悪くなっていますし、いっそのこと、本当に隠居してしまえば楽なのではないでしょうか。
「だ、だめです……。婚姻相手を殺したという話がすでに広まっているのなら、私の親、いいえ、男爵様の家も危うくなっているはずです……」
「そ、そんな……ではフェリス様が危ないということではありませんか!?」
「ええ。ですから、私が伯爵家に出向きましょう。そうすればきっと、優しい姉様までは糾弾されないでしょう」
決意に満ちた表情を浮かべるフェーレさん。それはつまり……。
「貴族を殺して、許されることはあるのでしょうか?」
「いいや、ないよ。位が上の貴族を害した人間はみな死刑だ」
フェーレさんはなにひとつ悪いことをしていません。小さくてささやかな幸せを願っただけなのです。
たとえ貴族でも、フェーレさんの願いを壊す権利はありません。
彼女の幸せは、ぼくが守ります。