虫も眠る真夜中になってから、ぼくはようやく解放されました。
馬車馬のごとく、種馬として働かされたあとはもうへとへとで、最後のひとりに種付けすると同時に眠ってしまいました。
目が覚めてからは、別の意味でたいへんでした。
子作りを終えたアラクネ族は、なんでも生殖相手を盛大にもてなすそうで、ぼくはまるで王様になったようでした。なにもしなくても美味しい料理が口に運ばれてきますし、アラクネ族の糸で作られた丈夫な服も仕立ててもらいました。
太陽が落ち始めると同時にぼくはアラクネ族のみなさんに別れを告げて、洞窟を出ました。
別れ際、次の発情期もぜひ相手になってほしいと、頬を赤らめたアルカさんやほかのアラクネ族のみなさんにお願いされてしまいました。紳士として、男として名誉なことなのですが、正直なところあれだけの人数を相手にするのはたいへんです。
いつでも遊びにおいで、と見送られたぼくは、たいへんなことに気づきました。
ここ、どこなんでしょうか。
ここまでは拉致されて来たのでまったく帰り道がわかりません。少なくとも森はすでに抜けているようですが、方角もいまいちわかりませんね。本当にどうしましょうか。
図らずも離れ離れになってしまったミュケとの再会を目的に、ぼくは歩くことにしました。
歩き始めて数時間後、アルカさんに送っていってもらえば解決だと思いついたときにはもう、日が暮れていました。
途中、川を見つけたので下流へと目指して歩いていくと、なにやらいくつかの明かりが激しく動き回っているのを見かけました。
あれは……人間でしょうか?
人間は暗闇ではよく見えないため、ああやって光の魔法を自らの体にかけて明かりを確保していると聞いたことがあります。ただ、その魔法を使うのはもっぱら安全な場所の中だけらしく、いまのように外で使うのは緊急時だそうです。
確かにあれだけ明るいと体のいい的になってしまいますからね。
人間たちは3人。ローブ姿がひとり、皮鎧を着るのがひとり、金属鎧をまとった騎士風がひとりと、後者ふたりが別々の武器を持ち、大きなカマキリのような生き物と戦っているようでした。普通の動物ではなく、森狼と同じ魔獣ですね。
明かりの魔法を使っていないひとりを守るようにして、まぶしいふたりがカマキリと剣を交えていました。
このカマキリの鎌はそこらの武器よりもよほど鋭いと聞いています。なまくらであれば鍔迫り合いになった時点でなまくらがすっぱりと断ち切られてしまうほどだそうですが、人間たちの武器はよほど頑丈なのか、何度も激しく打ち合っていました。
戦っている人間ふたりのうち、皮鎧を着た男が渾身の力を込めて振るった戦斧がカマキリの鎌を半ばほどから先を粉砕しました。しかしその分隙ができてしまい、もう1本の鎌が男の胴を防具さえ無視して真っぷたつに引き裂いてしまいました。傍目からでも、もう助からない怪我だとわかります。
戦っていないローブ姿がかすかな悲鳴を上げて、あわてて口を押さえました。
自慢の鎌を砕かれたことに腹を立てたのか、カマキリはよりいっそう苛烈に攻めました。残った騎士風が懸命にさばいていきますが、ふたりで2本の鎌を押さえていたのにひとりで2本の鎌を押さえるのは不可能です。鎧を紙のように切り裂き、決して浅くはない傷が刻まれるのを見て、いよいよぼくは飛び出しました。
あまり人間と関わるのは好ましくないと思い傍観していましたが、このままでは全滅です。アラクネ族の巣穴に拉致されたとき、槍は森に置いてきてしまいましたから、いまは亡くなった人間の戦斧を使わせてもらいましょう。
足元に突き立った戦斧を引き抜き、軽く振るいながら走ります。
ぼくが近づいているあいだにも、残った人間は追い込まれてしまい、頼みの綱だった剣も疲労に耐えきれず根元からぽっきりと折れてしまいました。
カマキリが無事なほうの鎌を振り上げると同時に、接近したぼくの振るった戦斧がカマキリを下から真っぷたつに引き裂きました。
振り下ろされていた鎌は人間の足元に突き刺さり、間一髪で助けることができたようでした。
これ以上そばにいるのはよくないので、ささっと離れようとすると助けた人間に呼び止められてしまいました。
「お、お待ちください! 命の恩人に礼もできぬのは騎士たる者として恥ずかしいっ! どうかお礼の言葉だけでも受け取ってはもらえませぬか!?」
明かりの魔法で見えませんでしたが、どうやら声からして女性のようです。騎士風ではなく騎士だったのでしょうか。
律儀な人ですが、人間には変わりありません。ぼくたちオークはやはり人間にも嫌われていて、討伐対象らしいのです。力及ばず倒されてしまった仲間も多くいます。相手が誠実であれ、善良であれ、関わること自体があまり好ましくないでしょう。そう思って、ぼくは足早にその場から離れました。
男の遺体を前に、呆然と守られていた人間がへたり込んでいるのを見て、思わず口を開いてしまいましたが幸いにも声が出ることはなく、うしろ髪引かれながらもふたりから離れていきました。
*
屋根がなく、硬い場所で寝るのは慣れているので野宿をしました。
どうやらぼくは、人間の領地付近まで来てしまっていたようです。このまま人間の領地に入ってしまえば、ぼくは魔獣として討伐されてしまうでしょう。町に入ることはできないでしょうし、八方塞がりです。
目が覚めてからぼくは、とりあえずヌヌの森へ戻ろうとしたのですが、いかんせん道がわかりません。闇雲に歩いてしまえば最悪の場合、人間領に入ってしまうかもしれません。
少なくとも、方角だけは太陽の位置でわかるのですが、現在位置がわからないのでは仕方がありません。
返し損ねた遺品の戦斧を持ちながら、ぼくはとりあえず歩くことにしました。
川の下流を目指すと、おそらく人間の領地に向かってしまうのでしょう。では反対に、上流へ向かえば元いた場所に戻れるのではないでしょうか。そう考えて歩き続けると、川辺に建つ小屋を見つけました。
河原の端にぽつりと建つ小屋は長いあいだ使われていないのか、ところどころ朽ち果てていました。屋根の一部は崩れ、壁にも穴が開いています。
見たかぎりでは人気がなさそうなのですが、小屋の中には複数の気配がありました。数はそう多くありません。
足元の砂利を鳴らさないよう、慎重に近づいていくと話し声が聞こえてきました。
「いけませんっ、まだ動けるような体ではないのですよ!」
「しかしフェーレ様、いつまでも留まっていてはフェーレ様はおろか、私たちを助けてくれたスクレットさんにも迷惑がかかってしまいます」
「それは! ……それはわかっております。ですが貴女が倒れてしまっては元も子もないのですよ。わたくしのために死んでしまったカインのためにも、なんとしてでも成し遂げなければならないのです。そのためには、貴女の力が必要なのです……」
「フェーレ様……」
なにやら聞き覚えのある声でした。昨日、助太刀に入った人間の方だと思います。いささか以上に込み入った話があるようなので、関わらなくて正解でしたね。
こそこそとその場から離れようとすると、一筋の光が空から落ちてきて、小屋の角を消し飛ばしました。
魔法でしょう。
急いで離脱し、河原の土手に身を屈めて隠れたぼくでしたが、ターゲットはやはりあの人間たちのようです。
次々と降り注ぐ光が小屋に穴を開ける寸前、激しく扉が開いて、包帯だらけの女性とそれを支える女性と男性が飛び出してきました。そのまま走って逃げようとする3人に、前方から10人の人間が道を塞ぎ、ぼくが体を隠している土手の上にも、ローブを羽織った5人ほどの人間が3人に杖を向けました。
「フェーレ様、お逃げください。せめて貴女様が脱出できる時間くらいは稼いでみせますっ……!」
決死の覚悟が込められた言葉でした。敵は総勢15人。しかしそれ以上と考えたほうがいいでしょう。たった3人、いえ、戦えそうなのは包帯だらけの女性だけで、肩を支える男性も女性も、剣すら握ったことがなさそうです。
形勢は圧倒的に不利でした。こんな戦力差では、ぼくが加勢に入ったところでどうしようもありません。数が多すぎるのです。ただでさえ、使い慣れた槍がないのですから、最悪の場合、助太刀に入ったぼくまでやられてしまうでしょう。そもそも、加勢に入ったとわかってもらえないかもしれません。なにせぼくはオークですからね。
「このときを待ち侘びていたぞ、フェーレ! おまえは私の前にひざまずく運命なのだ。おとなしくしていれば従者の命も保証しよう!」
「……っそんな話が信用できると思っているのですか!? 貴方の企みを知ってなお、付き従うのはそこにいる強欲者たちだけです!」
おお、守られているばかりかと思っていましたが、フェーレと呼ばれた女性もなかなか豪胆ですね。こんな状況で啖呵を切れるなんて、儚げな外見に似合わず度胸があるようですね。
しかし、この状況でその啖呵は逆効果です。
「……従者は殺しても構わん。なんだったらおまえたちが好きにしろ。フェーレ、これがおまえの選択だ」
その意味を正しく理解したフェーレさんが蒼白になりました。同時に、土手の魔法使いたちが杖に光を宿して、先を包帯だらけの女性に向けました。
「あ、あ、あ……や、やめてっ……やめてくださいっ!」
「ふん、聞こえんな」
「……フェーレはグラス様のものです。ですからどうか、どうかカリアたちの命をお助けくださいっ」
「く、くはははっ! そうだ、それでいいっ。自ら認めたなフェーレ!」
「そ、そんな……いけませんフェーレ様! いまならまだ間に合いますっ、取り消してください!」
「もう遅いのだよ。……フェーレだけは傷つけるなよ」
「そんなっ約束が違います!」
「私は約束などしていない。おまえが自ら私のものとなることを誓っただけであろう」
「あ……」
魔法使いの杖がいっそう輝きを増していきました。その足元に隠れたぼくは、手に持った戦斧をグラスという人間に投てきしました。
「なにが……っ!」
グラスさんの胸に突き刺さった戦斧の刃は彼の背中から刃先を覗かせていて、見るからに致命傷でした。動揺したせいで魔法使いの杖が一気に光を失い、その隙にぼくは体を起こして土手を駆け上がります。突然現われたぼくに反応できないうちに、手近なひとりを殴り倒して襟首をつかみ、別の魔法使いに投げつけてからほかの魔法使いたちを昏倒させていきました。
「ま、魔獣!? いや、むしろ好都合だ! フェーレ様、こちらへ!」
この混乱に乗じて逃げようとしたのでしょう。しかし、3人を囲む人間たちが一斉に剣先を突きつけました。魔法の脅威は去りましたが、1対10という不利な状況は変わりません。そんなときでした。いままで黙っていた、優男風な外見の男が、おもむろに武装した人間たちに歩み寄っていったのです。
「スクレット様!」
フェーレさんの呼びかけを無視して、スクレットさんは振り下ろされた剣を半身になって避けると、すっと剣を奪い取って唖然とする男の首をはねてしまいました。恐るべきはその鮮やかさです。多少剣をかじっただけの素人では決して不可能な剣さばきでした。
男の首が地面に落ちると同時に、残りの9人の体が斜めにずれて、合計18に分けられてしまいました。
スクレットさんの動きは速すぎて見えませんでしたが、剣の煌めきだけは目視することができました。
彼はほぼ同時に、人間たちの胴をふたつに割ったのです。