9 まんまるの気持ち
キキはベッドからすいっと足をのばして、床に立ちました。足のうらに凍るような冷たさが伝わってきます。窓のむこうはまだ真っ暗です。キキはジジをおこさないように、足をしのばせて歩き、すばやく顔を洗うと、頭にいつものリボンを結びました。タカミ カラさんのコンサート事件以来、つかわなかった口紅をだしてうすく塗りました。それから鏡のなかをのぞくようにして、人差し指で赤くなった唇をそっとさわりました。じっと、じっと自分の顔を見つめます。口をきゅっとつぶってから、うんぱとあけ、斜めにむいて、最高にすました顔をしてみせました。
(これでよし)
キキは大きくうなずくと、洋服をするりと着、柱にさがったほうきを手にとりました。きつく柄をにぎって、深く息をつき、目をつぶります。
(お願い。ずっと前から決めていたことなの。かなえてちょうだい。今日だけでいいから、とまり木からおりてきて、高く飛んで。頼むから『イヤケ』はちょっとの間、お休みにしてよね)
キキはつぶやきました。外にでると、冷たい空気が一気にキキをつつみます。思わず首をすくめ、でもそのときにはもうほうきにまたがり、両足でぽーんと地面をけっていました。キキはほうきの柄のさきを、遠くに光る北の星にむけました。
「わたし、二十歳になったのよ」
キキはつぶやきました。今日、二月二日は、キキの誕生日なのです。
キキはずっと前から、二十歳の誕生日には、空の高いところ、そう、キキが飛べるいちばん高いところまでのぼって、二十歳はじめての朝が始まるのを見ようと、決めていたのです。
(今日は二という数字が三つもつく日よ。幸せな二十歳にしなくちゃ)
キキが生まれた二日がすぎると、すぐに立春です。暦の上では春が始まる日です。キキはちょうど冬がおわり、春がはじまる境目のときに生まれたのです。コキリさんはこの日に女の子が生まれたことに、運命的なよろこびを感じました。不思議の存在である魔女はなにかの境目ととても関係が深いのです。光と闇、天と地、天と海の間、このように見えるところと、見えないところの境目から不思議というのは、生まれてくるといわれていたからです。魔女の魔法の生まれてくるところもおなじです。
ふと気がつくと、ほうきはぐんぐんとのぼっています。飛んでいます。飛んでいます、高く、高く。星空が近づいてきました。冷たく澄んだ空に、氷をくだいたような星が、チリリ、チリリと光っています。その下には、星空をさかさまにしたような、コリコの町の光が遠く見えます。そのさきに深い
海の上の白い線は、あたりをすこしずつ明るくしていきます。そしてやがてその線がオレンジ色にかわると、空は一気に青さをましていきました。目の上の星も、コリコの町の光も、しずかに消えようとしていました。それはキキの十代がしずかに去っていくようでした。
「わたし、二十歳になったの」
キキは大きく口をあけて、さけびました。
ひとりだけのお祝いです。でも体が、どこまでものびていくようなうれしい気持ちでした。
すると下のほうから、返事をするように、鳥の声が、ピチリ、ピチリときこえてきました。
キキは朝日に、まぶしそうな目をむけて、ゆっくりとおりていきます。
ほうきはちゃんと飛んでくれました。たっぷり休んで、もどってきてくれたのでしょうか。それともお誕生日の贈り物として一時帰宅のつもりでしょうか。いずれにしろご機嫌はよさそうです。
キキは途中でとまり、目の下にひろがるコリコの町を、右から左へ、ゆっくりと眺めました。
それからキキは両手を大きくひろげ、深く息をすいこみました。
家にもどると、とんぼさんから手紙が来ていました。
「キキ、お誕生日、おめでとう。
あーあ、この日に、ちゃんとお祝いがいえてよかった。
ぼくのことだから、また遅れたり、早すぎたりするんじゃないかと、一週間も前から落ち着かなかった。二月二日、ちょうどその日に、手紙が着くように、郵便局の配達時間なんて調べたりして……ちょうどそのときって、なかなかむずかしいんだよね。なんてね。こんなところで自慢なんかしてる……。
でも、でも、おめでとう。
二十歳になったんだね。ぼくより一つ下。ぼくは一足さきに、この世にきて、キキの来るのをまっていたといいたいんだけど……。でもきっとまっていたんだ。そう想像すると、うれしい。
学校の物置小屋のすみで、猫の赤ちゃんが五匹生まれた。母猫は俗にいう、野良ちゃんなんだけど、赤ちゃんのことがかわいくってたまらないんだね、ぼくたちがのぞくと、とられちゃうんじゃないかと警戒して、ものすごい勢いでうなるんだ。でもチビ猫たちはほんとうにかわいい。目をぱっちりあけて、見つめられると、こんなかわいいものが、この世にあるかと思ってしまう。その目をさらにじっと見ているとね、去年の秋、卵から一度にかえって、ぼくの部屋をうじゃうじゃと占領したカマキリの赤ちゃんと不思議なくらいおなじ目をしているのに気がついた。あの目は自分の生まれた世界を信頼している目だよ。でもね、そのなかにちょびっと不安もはいっている……ような気がする。赤ちゃんって文句なくかわいいけどね、でもそれだけじゃない。もう知っているんだよ。生きるのはよろこびだけど、そのなかには哀しみもあるって。でもその哀しみのなかにも、よろこびがあるんだよね。二十年前のキキもきっとおなじ目をしていたんじゃないかな。そしてすばらしいことに、今でもその輝きを失っていないよ。
一年さきに生まれたお兄さんのぼくは、とってもうれしい気持ちで、キキのお誕生日に、おめでとうをいいます。もし、十年さきに生まれてたら、会えなかったかもしれないものね。幸運としかいいようがないね」
キキはちょっと目をつぶりました。やさしい手紙でした。いつものことだけど、とんぼさんのやさしい言葉は昆虫や動物経由でないと、キキのところまでやってこないのでした。でも必死で自分たちの世界を見ようとしている、とんぼさんの気持ちはよくわかりました。
手紙はまだつづいています。
「春になれば、ぼくもいよいよ卒業です。仕事を探さなければなりません。いろいろ夢があります。今度会ったとき、話します。帰る日が決まったらすぐ知らせるね。ワクワクしてきたぞ。
もう一度、おめでとう。二十歳の魔女さん」
キキは手紙をにぎりしめました。ジジにさきをこされていた、「未来を語る場所」が、キキにもすこし見えてきたようです。
もうすぐ春分の前の満月の夜がやってきます。くすりぐさの種のおきよめをする夜です。
「どうか晴れますように。まんまるの月の光をあびてできますように」
キキはその夜をまちながら、しきりにお天気のことを気にしていました。
「ジジ、おしゃれがしたくなっても、顔がかゆくなっても、顔をなめちゃだめよ。猫が顔をなめると、雨になるっていうでしょ。だからがまんしてよ。こんどのお清めはね、二十歳記念の特別なお仕事なんだから」
キキは、ジジがそわそわしてヌヌちゃんのとこに行きそうになると、いいました。その前には決まっておしゃれのために、顔をなめるからです。
「どうして」
ジジはぶーっとふくれていいました。
「そんなの猫の勝手でしょ。雲がでるのも、雲の勝手。雨が降るのも、雨の勝手。ぼくのせいではありません」
「だから、おねがいするのもキキの勝手でしょ」
キキはまけずにいいかえしました。
「そういうことです。わかってればいいのさ。雲も、雨も、ジジのおしゃれも、みんなとめて、まんまるのお月様をだせばいいでしょ。魔女でしょ。力こめてなんとか自分でやったら。できないときはあきらめもたいせつ」
ジジはなんでもわかるおじいさん猫のような低い声でいいました。
「やだ!」
キキのほうはだだっ子みたいないいかたです。
「なんだろうねえ。二十歳、二十歳って。時間はとまってなんかいないんだよ、いつも流れているんだから、満月の夜はもう二十歳ちょっきりじゃないんだよ」
「いじわるばっかりいって。だって今度のおきよめは絶対に特別、
「願いごとってなあに」
「ないしょ。言葉にならない願いごとだもん」
今までもおきよめの夜が、すっきりと晴れなかったときもありました。月の出をまって、十二時を過ぎてしまったときもありました。ぼーっとにじむような光しかおりてこない夜もありました。でも、でも、今度だけは、ほうきで空のごみをはきだしたって、まんまるのお月さまの下でやりたいのです。
ところがいよいよ今夜というのに、お昼ごろからどうも雲の動きがあやしくなってきました。まるでキキをじらすように、つぎつぎと雲軍団があらわれるのです。そして暗くなると、雨がどうどうと音をたててふりはじめました。なにもかも流してしまうような雨です。キキはあきらめていすにどっかりとすわりこみました。さすがに気の毒と思ったのか、ジジはそばにぺたりとくっついてはなれません。お天気ばかり気にしていたので、つかれたのでしょう、キキはうとりうとりと、舟をこぎはじめました。ジジもしずかな寝息をたてています。ふたりとも雨の音にすっぽりとつつまれていました。
がくりと頭が揺れて、キキが顔をあげました。足下の床が、窓の形にくっきりと光っています。キキの体のなかで、なにかが音をたてたように動きだしました。目を走らせると、時計はなんと十二時三分前です。
キキは飛びついて、ドアをあけました。まんまるのお月さまが光っています。いつもの倍はあるかと思うような、大きなお月さまです。雨のあとのどこまでも澄み切った空の光までもさそいこんで、これ以上はないというような美しいお顔をしていました。
キキは種をかかえると、外にでていきました。追いかけて外にでてきたジジは空を見上げながら、なぜかあわてて顔をなめはじめました。
そして春分の日、キキは無事この年のくすりぐさの種をまくことができました。つづく十三日間の水やりもしっかりとすませました。
「キキ、とんぼは無事卒業しました。すぐ帰りたかったのだけど、飼育係を後輩たちに受け継いでもらうのに、案外時間がかかってしまいました。
今度の金曜日に帰ります。まず家に行って、かあさんと、とうさんに会ってから、四時ごろ、いつもの浜辺でいかがですか? 会えますか? とんぼ」
手紙を読むキキの目がどんどんはやく動き、いっしょに胸がどきどき鳴りだしました。読みおわるとキキは手紙をだきしめました。でもいつものようにすこしずつ口がとがっていきます。
「ねえ、ジジ、きいて。とんぼさんたら、わたしに『いかがですか? 会えますか?』なんていうのよ。このいいかたってなんかものたりない!」
「キキ、まだなれないの、とんぼさんのいいかたに」
「ジジだったら、なんという?」
「ぼく? ぼくは、ちがうよう。くらべられないよ、ぼくは。ただ走る。走って、走って、い、く、よ、だもん」
ジジは半分笑って、にっと口をゆがめました。
「くう」
キキは声にならない声をだしました。
「人間の男ってさ、いつもちょっぴりかっこつけるんだよな」
ジジはむこうをむいてつぶやきました。
「でも、いいんだ。もうじきだもん」
不満はあっというまに晴れていき、キキは、るんるん気分で、部屋のなかを歩きだしました。
「人間の女ってさ、いつもかんたんなんだよな」
ジジはむこうをむいたまま、ため息といっしょにつぶやきました。
海にむかってとんぼさんが立っていました。足下近くまで寄ってきた波が、ぷくぷくと泡を作りながら消えていきます。キキは浜辺のはじに、しずかに着地すると、砂を踏みしめながら走っていきました。
「お、か、え、り、な、さーい」
キキはさけびました。
とんぼさんがぱっとふりむきました。メガネのむこうで、はずかしそうに目がしばしばと動いています。
「元気そうだね」
「ええ、もちろん」
キキはとなりに立って、背のびしながら、こっくりとうなずきました。それは小さな子どものような、ちょっとあまえたこっくりでした。
「ほっとした」
とんぼさんがいいました。
「なにが?」
キキがとんぼさんの目をのぞきました。
「キキに会えて、ほっとした」
とんぼさんは笑いかけました。
ふたりは、いいあわせたように砂の上に腰をおろしました。
夕方のはじまりの光はやわらかく、春らしい桃色の空気がまわりの景色をつつんでいます。
「ねえ、もっとくっついてすわろうよ」
とんぼさんはずずっと体を動かしました。キキもずずー。そしてふたりは顔を見あわせ、「くくく」と声をあげて笑いました。
「どうしてた? いそがしかった?」
とんぼさんが手をキキの肩において、いいました。
「うん。わたしね、縫い物なんてしちゃってるの。小さい布をつなげてるのよ。チクチクって縫っているとね、おしゃべりしてる気持ちになるの。だからさびしいときは助かった」
「さびしかったの?」
「うん、ときどき」
「ファッションショーのお手伝いをしたんでしょう? サヤオさんていう人の」
「うん。でも失敗しちゃった。おもしろかったけど」
とんぼさんはちらりっとキキを見ました。
「ぼく、学校の先生になることになったんだ。中学校の生物の助手先生。コリコの隣の町の学校なんだけど、自転車で通えるんだよ。助手を二年して、試験に受かれば、一人前とはいかないけど、先生になれるんだ。ね、どう?」
とんぼさんの声がいちだんと高くなりました。
「とんぼさん、きっといい先生になれると思うわ」
「そう思う? うれしいな。ぼくね、いろいろなこと、いっぱい考えているんだ。一度ね、学校の近くの中学で一年生に授業をさせてもらったことがあるんだ。刺激的だったなあ。ぼくは、今までどっちかというと、虫とか、鳥とかだったじゃない。でもね、人間はそれよりもっともっとおもしろいな。おなじ言葉をもってるからかもしれないけどね。特にね、十三歳ぐらいの子どもってたまらない。小さい子とはまた違う、おもしろさがあるんだ。なにかがすこしわかりかけてるんだけど、でもまだまだってところがね。そのわけのわからなさみたいなのが、すごく、かわいい。やる気と不安がいっしょにあってさ、そこがねえ、ぼくの仲間だっていう気になるんだ。ねえ、キキ、きいてる?」
とんぼさんは一息つくと、キキの返事をまたずに話をつづけました。
「ひとりの子がね、こんな質問したんだよ。『カブトムシには気持ちがあるか』って。おもしろい質問でしょ。心ではなく気持ちっていうところが、どこかおもしろいよね。でもむずかしい質問だ。ぼくはどうこたえたらいいかわからなくって、逃げ出したくなった。でも思いきって『あると思う』ってこたえたんだ。証明できなくてもいい、感じてるままでいいと思ってね。すると追いかけるように質問第二弾。『幼虫と成虫では形があんなに違うから、気持ちもかわらないのかな』って。またまた難問! ぼくはなんとかこんなふうにこたえた。
『かわると思うか、かわらないと思うかは、君たちの想像のなかにしかないと思う。君とカブトムシの関係だから、カブトムシと勝手に、自由に、話し合ってくれよ』っていったんだ。そしたらみんな、『勝手でいいわけ? そんなのあり?』って。『だって目に見えないものだから、自由に見てよ』とぼくはこたえた。ほかに思いつかなかったんだよ。そしたら、思い思い議論を始めちゃって。にぎやかというか、混乱した授業になっちゃった。なかには無責任な先生だっていう子もいてさ。まいったよ」
とんぼさんは手のひらを動かしながら、ひとりで、「くっくく」と笑いました。そしてまた話しつづけました。
「もうひとり、おもしろい子がいたよ。昆虫って、機械みたいだっていうんだ。羽とか、足の関節とか、よーくできてて感心しちゃうって。あの形をつかって動くいすとか、乗り物をつくったらどうだろうか、垂直跳びの乗り物なんかできるかもしれないって。
みんな、エッていう考えをもっているんだ。この子たちと、ぼくもいっしょにエッておどろきたい。そんな毎日が送れたらどんなにすてきだろう。ね、キキ、おもしろいでしょ?」
とんぼさんはキキのほうをむきました。
「あれ、キキ、どうしたの? 気分でも、悪いの?」
キキは下をむいたままじっとしています。そのほほを伝って涙がすーっと落ちていきました。
「キキ、ごめん。ぼく、なにか悪いことした?」
とんぼさんはあわててのぞきこみました。
キキはだまって頭をふると、立ち上がり、手で涙をふきながら、後ろをむいて走りだしました。
「キキ、キキ、どうしたの?」
とんぼさんは立ったまま、
「キキ、キキ」
とんぼさんの声が追いかけてきます。でもその声はキキの後ろで、だんだんと小さくなっていきました。
「虫ばっかり!」
キキはぶすっとつぶやきました。久しぶりに会うのだもの、きっとやさしくしてくれる……さびしかったことをなぐさめてくれる……と、キキは、何度も、何度もうっとりと想像していました。それなのにとんぼさんはいつもこうなのです。
でもキキは、家に着くころにはもう後悔していました。いつまでたっても小さな女の子のままの自分が情けなくなりました。
なにかあったな……とじっと様子を見ているジジに声もかけずに、夕ごはんもなしで、キキはベッドにもぐりこんでしまいました。
カーテンのすきまが、ぼーっと白くかわりました。ねむれないまま夜を過ごしたキキは、のろのろとおきだして、カーテンをあけました。
キキは目を見張りました。
通りのむこうに、とんぼさんが立っています。朝霧のなかに、すこしかすんで立っていました。
キキは靴をはくのももどかしく飛びだしていきました。その足音におどろいてジジが頭をあげました。とんぼさんは飛びついてきたキキの手をとってだまって歩きはじめました。
「いっしょに歩こうと思って、朝が来るのをまっていたんだ」
ふたりはそのまま夕暮れ
「昨日は、ごめんね。自分のことばかりしゃべっちゃって」
とんぼさんはキキの手をにぎっていいました。
ううんと、キキはなにもいわずに首を振ると、ささやくようにいいました。
「もう、いいの。わたしも、ごめんなさい」
とんぼさんはキキの肩に手をおいてひきよせました。
「なぜか、キキにぜんぶ話したくなっちゃったんだよ。ぜんぶ、ぜんぶね。でもついついいい気になっちゃって、ごめん。キキも話したいことあったよね」
「うん、ちょっと、あった。でも、たいしたことじゃない。わたし、学校にあまり行かなかったでしょ。やきもちやいたのかな」
キキははにかんでとんぼさんに寄りかかり、頭を肩にのせました。ふたりはだまってどこかを見つめていました。やがてキキが小さな声でいいました。
「わたしのこと、すき?」
「もちろん」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
「愛してる?」
「もちろんだよ」
キキをだくとんぼさんの手に、力がはいりました。
「どのくらい?」
キキは下からとんぼさんを見上げました。とんぼさんは一瞬とまどったようにキキを見つめました。
「どのくらいって……いっても……」
「ねえ、いって。おねがい」
「どのくらいかあ……」
とんぼさんはこまったように、キキから目をそらしました。
キキは、ねえ、いってというように、自分のほほを、とんぼさんにくっつけました。
とんぼさんはそのままじっとどこかを見つめていました。それから、キキの手のひらを上にむけると、人さし指でゆっくりと小さな丸をかきました。
「このくらい」
とんぼさんはいいました。
キキは「えっ」とつぶやいて、手のひらを見ました。小さな、小さな丸の感じがのこっています。
「それだけ?」
「うん、これくらい」
とんぼさんはすこし笑いながら、また小さな丸をかきました。そのあとをキキはじっと見つめていました。キキの目にとまどいが浮かんでいます。
こんなちいちゃなまる、ちいちゃなまる……まる、ひとつきり……まるって……まるなんて……。
そのとき、キキの口がぱっとあいて、ぱくぱくと息がもれました。なにもいうことができません。ちょっとしてから、はじけるように言葉が飛びだしてきました。
「あっ、あの、あのね、そうなの、魔女の旅立ちは満月の夜って決まってるのよ。そう、まんまるの……まんまるのお月様の夜。どっこも欠けてない、まんまるのまんまる。ぴかぴかのまんまる、永遠のまんまる……」
そのあとはキキの口は音もなくぱくぱく動き、顔が一気に輝いていきました。目には涙がにじんでいました。キキは両手をいっぱいにひろげて、とんぼさんにしがみつきました。
(まんまる、まんまる、まんまる)
キキの心のなかに、旅立ちの日のまんまるのお月さま、くすりぐさの種のおきよめのときのまんまるのお月さまが、つぎつぎと浮かんできました。でも今キキの手のひらにのった小さなお月さまがいちばん大きなお月さまに思えました。
それから二年して、キキととんぼさんは結婚しました。
もちろん、ジジとヌヌちゃんも。
そして、十三年が過ぎていきました。
このつづきのお話は、二年と十三年、そう、十五年後から始まります。