5 ほうきがない!
朝、キキがおきるとすぐ電話が鳴りだしました。
「おはようございます。こちら魔女……あら」
きゅうにキキの調子がかわりました。目がぱっとあいて、受話器を耳にぎゅっとおしつけました。
「まあ、あのときの……ええ、おぼえています。もちろんよ。おどりのおじょうずな方ね……あのお祭り、たのしかったわ、とっても、とっても」
キキの声はいつもよりぐんと高めです。のどの奥でひっかかってでもいるようにうわずっています。
「あら、ソトヤさんっておっしゃるの? このあいだはたのしくって、わたしったらうきうきしちゃってお名前をうかがうのわすれちゃって。ああ、どうしようって思ってたの」
キキのはずんだ声に気がついて、寝ていたジジが、顔をあげ、目をまんまるにしてキキを見ました。
「えっ、今夜? 七時? わー、行きたいなあ、行きたいわ。行く、ぜったい行く」
キキはすこし言葉をとめて、ふふふと笑いました。
「やだわ。わたし、特別な人なんかじゃぜんぜんないわ。ただ魔女っていうだけよ。ふふふ、そんなにいってくださるなんて、どうしよう。こまっちゃうわ。あ、そう。場所はニワトコ通りね。知ってる、知ってる。通りの角の、いつも音楽が流れてる、おしゃれなお店よね。いつもあそこで集まってるの? わあ、すてき。連絡先もあそこなのね、わかったわ。いいの、いいの、ありがとう、でもひとりで行けるから、だいじょうぶよ。ええ、じゃ」
キキは受話器をおくと、「ふふふ。魔女、魔女、魔女」ってうたって、かるく足を動かしました。
「どうしたの? なにうかれているの?」
ジジが足もとによってきて見上げました。
「わたし、今夜はおでかけ、ちょっとね」
キキは鼻にひゅっとしわをよせて笑いました。
「うれしそうだね」
「ぜひぜひ来てくださいって、いわれちゃったのよう。わたしがいると、たのしいんだって、ふふふ、ほんとかなあ。なぜなぜ、なぜか! わたしにはわからないけど、けど、けど……ふふふ、うん、ちょっとぐらいよそ見したっていいわよね。あっちはあっち、こっちはこっち……」
キキはまだ体をゆらして、かるくステップをふみながら歌まじりでこたえました。
「だれにいってるの?」
「しーらない!」
キキはおおげさにあごをきゅっとあげました。
ルルルルー ルルルルー
電話が鳴りだしました。
「かかってくるときって、いつもつづけざま、これってふしぎ、ふしぎ、ふしぎ……」
キキはつづけておどるように近づくと、受話器をとりました。
「あのー、コリコの町の魔女さんですか?」
電話のむこうの人は、はあはあとあらい息づかいをしています。女の人の声です。
「はい、そうですよ」
キキはきげんよく、でもいそいで返事をしました。
「ああ、よかった。電話がつながって。おねがいがあるんだけど、小道さんのザザさんに泡立て器をとどけてもらえないかしら。ザザさんったら泡立て器はあるからだいじょうぶっていうんだけど……柳の枝でつくったんじゃ、どうもね。今、ちょうど山のお芋のとろんとろんスープの季節だから」
「はあ」
キキは
「泡立て器って、あのクリームをつくる?」
「ええ、そうよ。ごめんどうでも町で買って持っていってくださいな。わたしはこのところいそがしくって行かれないの。ちょっと山奥だけど……飛んでいけばたいしたことないわ。あの人にはやくよろこんでもらいたいの。だからはやいほどありがたいわ」
電話の声はつづけていいました。とどけものをたのんでくる人はいつもせっかちで、自分の用件だけをいそいでいおうとするのです。
「あの……どちらさまですか」
「あっ、すいません。わたしはザザさんのいとこのミズです。おねがい」
「ええ、いいですけど、どちらの山でしょうか?」
キキもすこし早口になってききかえしました。その顔は行くのがいやそうにしかめ面しています。
「それがねえ、とってもややっこしいのよ。いい、よくきいてね。コリコの町から真北にずんずん進むと、縦に山がいくつもならんでいるでしょ。それが有名なスルヘリ山脈なんだけど、知ってる? その山のすそあたりをめぐって、川がくねくねと流れてるの。アジ川っていう名前の川よ。それにそって列車の線路も走ってるの。だいたいまんなか辺ぐらいに赤い屋根の駅があるわ。空を飛んでいくんでしょ。小さいからよく見てちょうだいね。でも一つしかないからわかると思うけど。そこがねアジ川駅なの。そこまで来たら山のほうをむいて手をたたいて、それでだいじょうぶよ」
「えっ、手をたたくの?」
「そう、電話がないからそれしか連絡できないの、しっかりおねがいね」
「ちょ、ちょっと待って。そんな遠くなんて……」
キキはこたえながら、ちらりっと時計を見てから、体をななめにして壁にはってある地図をのぞきました。それから、
「わるいんですけど、きょうは……ちょっと……」といいかけると、同時に「じゃ、よろしくね」って声がして電話は切れてしまいました。
キキがあらためて地図をよく見ると、きいたとおり縦に山がならんでいて、スルヘリ山脈と書いてありました。
「わあー、なんて遠いとこなの! よりにもよって今夜はめったにない大事な約束しているっていうのに。そうだ、ことわっちゃおうっと……あれ、やだ、どうしよう。電話がないっていってた。やだ、たいへん、しょうがない、いそがなくっちゃ。夕方までにはぜったいのぜったい帰ってこなくちゃ。じょうだんじゃないわ。まったく、もーう」
キキはばたばたとらんぼうにしたくをすると、「さあ、いそいで」とジジを肩に乗せ、ほうきをつかんで飛びたちました。
キキは町の雑貨屋さんによって泡立て器を買って、すぐさままっすぐに北を目ざしました。でもなぜそんな遠いところまで、どこにでもあるような泡立て器を運ばなければならないのでしょう。
(用事ってどうしてこんなふうに重なってやってくるのかしら、まるでいじわるしてるみたい)
「でもわたし、ばたばたあわてるのって、あんがいすきなのよね。特にあとでたのしみがあるときはわくわくするもの。ちゃんと時間どおりに行って魔女の力をみんなに見せてやるわよ、ぜったいよ、ふん」
キキはむかってくる風にぶつぶつひとりごとをいいました。
町がすぎ、牛や羊が草を食べてる緑の丘を通りすぎると、やがて森が見えてきました。森の緑が小高い丘から、だんだんと高い山へとのびています。そしてそのむこうに一段と高い山がつづいているのが見えます。もうスルヘリ山脈が始まっているようです。山のうえには小さな入道雲が、したの山脈をうつしたように同じ形をしてういていました。でもキキが飛んでいるまわりの空は澄んだ青い色をしていました。目を細めると、その青い色のなかに細かい無数の水玉がお魚のようにすーすーっと動いていきます。
(いそいでなければ、たのしい遠足になったのに……)
風は山をなぜるようにふいていきます。そしてときどきキキのところまでのぼってきて、後ろからすーっとおしてくれました。
「はやく、はやく、用事をすまして、魔女、魔女、魔女」
キキはまた小声でうたいました。
それをきいて、ジジも後ろでまねして、うたっています。
「どうして、三回、魔女、魔女、魔女、なの?」
山は夏のこい緑におおわれ、そのあいだからところどころに岩が突き出ています。谷間には鉄道の線路が川の流れとならんで走っていました。山はいくつもいくつもつづいています。こんな山のなかに住んでいる人なんかいるのでしょうか。キキは目をこらして、したを見つづけました。
「見つからなかったら帰っちゃおう……どうせちっちゃな泡立て器だもの。ないとすごくこまるってものでもないでしょ……」
キキはまた文句まじりにつぶやきました。
すると、山のあいだの狭い谷間に、ちらっと赤いものがキキの目にうつりました。近づくと、ミズさんの電話の言葉どおり線路のそばに赤い屋根の小さな建物が見えます。
「やだ、あったわ。見つけちゃったわ」
キキは不満そうにいいながら、おりていきました。
駅の屋根のしたには「アジ川駅」と看板が一枚はりつけてありました。でも、まわりには駅長さんも、駅員さんも、おきゃくさんもいません。壁にはってある列車の時刻表には、土曜、日曜、ペペロン市までそれぞれ一往復と書いてありました。きょうは金曜日です。だれもいないわけです。柱に「小道屋においでのかたは、山にむかって手を三回たたいてください。ちゃんとお返事をします。音のするほうにお歩きください。もし途中でまよったときもごえんりょなくたたいてください」と書かれた札がひもでさがっていました。
「なんだ、小道さんって、お店の名前だったんだわ。手をたたくってこういうことなのか……でもなんで? こんな山のなかにお店なの?」
ぱん ぱん ぱん
キキはぶすっとした顔で、手をたたきました。それからじっと耳をすますと、しばらくして遠い山のなかから、ぱん ぱん ぱん と返事がかえってきました。両方の音はこだまになっていくつも重なりながら谷間を流れていきました。
「こういう仕掛けなのね。なんてそぼく!」
キキはふんと肩をすくめ、その音のきこえたほうにむかって歩きはじめました。駅から始まる道は歩くところがやっとわかるほど草がのびています。おまけに土が湿っていて用心しないとすべりそうです。キキはジジを肩に乗せて、ほうきで草をかき分けながら進んでいきました。分かれ道のように見えるところにくると、また手をたたき、たたきかえしてくる返事をきいて歩きつづけました。虫が飛んできます。蜂のさわぐ音もきこえてきます。草のさきがチクチクとさしてキキの足をきずつけます。
「どうして飛んでいかないの? そのほうが楽なのに」
ジジがいいました。
「通りすぎちゃったら、やっかいだもの。はやく帰りたいから」
「でもここは川のにおいがするね。いいにおいだ」
ジジがいいました。「きっとお魚がいるね。ちっちゃくって、まるごと食べられるやつ」
「おー、ジジってめずらしく猫らしいこというじゃないの」
「ぶー、へんなこといわないでよ。ぼくはりっぱな猫ですよ」
ジジはキキの耳もとで不満そうにうなりました。
水の流れる音がだんだん大きくなって、道は川に沿って右に大きくまがりました。するととつぜん、目のまえに滝があらわれました。その滝は山の中腹から谷川へ布地をたらしたように幅ひろく落ちていました。しかもおどろいたことに、水の裏側にちらちらと燃える明かりが見えるではありませんか。
「やだ、こわいわ、鬼火みたい」
キキは持っているほうきを抱きしめました。
「鬼が、泡立て器、なんにつかうんだろ」
ジジがキキをこわがらせようと、わざとへんなふるえ声をだしました。
道は滝の裏側につづいていました。岩がよりかかるように重なっているあいだを進むと、その突き当たりに丸太を組み合わせた家がかくれるように立っていました。家のまえには陶器にはいったろうが燃えて、入り口のドアをうきあがらせています。そこに「宿屋、小道屋」と書いた木ぎれが打ち付けてありました。そばにぶらさげてある小さな花瓶には赤い花が一本さしてありました。ならんで見える窓にはさっぱりとした白い木綿のカーテンがさがっています。どうやら鬼の家ではなさそうです。キキはほっとしてドアをたたきました。
「はい」
声がして女の人がでてきました。
「ザザさんですか」
女の人はまるい目でうなずきました。髪の毛をきゅっと後ろでたばね、白いブラウスに、あらく織られている白と灰色のしまの長いスカートをはいていました。歳はおソノさんぐらいにも見えるし、それよりずっとわかくも見えます。後ろでたばねた髪を結んでいる白いリボンが暗いなかでうきあがって見えました。
「魔女の宅急便です。泡立て器をミズさんにたのまれておとどけにあがりました」
キキがいいおわらないうちに、ザザさんは低い声でいいました。
「まあ、あの人ったら、いいっていってるのに。このあいだ、こっちの泡立て器で手伝ってもらったらつかいづらいって、文句いってたの。もともとせっかちなのよ、それにおせっかい、ふふふ」
キキは思わずほっぺたをふくらましました。
(泡立て器を待ってたわけじゃなかったんだ。あしたでもよかったのよね……)
「でも、こんな山のなかまで持ってきてくれてありがとう。あら、あなた、あらら、もしかしてコリコの町のキキさんかしら。まあ、そうでしょ。はじめまして。おきゃくさんからうわさはきいてましたよ。一度ぜひお目にかかりたいと思ってたわ。町に住んでる魔女さんっていうのはどんな人かとずっとお会いしたいと思っていたの。わかった。ミズさんたらわたしがよく話をするものだからあなたに会えるようにしてくれたのよ、きっと。あなた、とても人気ものだって……ほんとうにたいへんな人気なんですってね」
「そんな……たいしたことないです」
キキはぶすっとこたえました。
「大きな町で活躍してるのねえ。ちょっとかわってる? だってふつう魔女は森に住むって……いうでしょ。わたしのほうがずっと魔女っぽいかもしれないわね、ふふふ。でも、あなた、町にいるわりには、あんがい昔っぽいかっこうを守ってらっしゃるのね。わかるわ、人気があるの。あなた、かわいいもの。あれ、まあまあ、わたしったらいきなりずかずか失礼なことばっかりいってしまって、ごめんなさい」
ザザさんは鼻にしわをよせて笑いました。目がふーっと細くなって光っています。
キキはそっと家の中をのぞきこみました。入り口につづく部屋はうす暗く、まんなかにはテーブル、そのまわりをいすがかこんでいます。どうやらきょうはおきゃくさんはいないようです。
「もしかして、ほんとうはあなたも魔女なの?」
キキはおそるおそるききました。
「とーんでもない。ただの山の宿屋のおばさんよ。ちょっと前まではなれるものならなりたいと思ったこともあったけどね。そう、小さいときからあこがれてたの。なれないんなら友だちにいたらどんなにいいかって思ったこともあったわ。魔女の力ってかしこい力だし……なんていっても超能力ですもの、たいしたものよね。さあさあ、なかにはいってちょうだいよ」
ザザさんは戸口で体をずらし、キキをさそいました。キキはおそるおそるなかに入っていきました。すると暗いなかから、ふわっといいにおいがわいてきました。食べ物のにおいではなく、家全体がなんともいえない森の緑のにおいで満ち満ちています。奥のほうにある大きな窓のむこうは、入り口とは反対にお日さまの光がいっぱいあたった草の庭がひろがっていました。まんなかに一本生えている木ははっぱが風にゆれて、ぴかぴかとまぶしいほどの光をふりまいています。むこうとこっちでは、まるで昼と夜のようだとキキは思いました。
「おひとりなんですか? 電話の方が小道さんのザザさんっておっしゃったから、ふたりいらっしゃるのかと思ったわ」
「ひとりよ。ひとりぼっちよ。おきゃくさんは列車が通る土曜と日曜にみえるの。電話がないからいつも何人来るかわからないのよ。でも干し草をシーツでくるめば、ベッドはいくつでもできるからしんぱいはないの。夏のあいだに草を刈っておくのは、大仕事だけど。なんにもなくてもあるようにくらすのもおもしろいものよ。かわった宿屋だって思うでしょ」
ザザさんは草の庭を見ていいました。
「あのー、泡立て器……」
キキは手に持った包みをさしだしました。
「あっ、そう、そうでしたね。どうもありがとう。ここではおおかたなんでも、なにかで間に合わすんですよ、柳の枝でつくった泡立て器は、どうしても切れがわるいって、ミズさんはいやがってたけど……そりゃ、こっちのほうが仕事ははやくてべんりかもしれないわ。わるかったわねえ、こんな遠いふべんなとこまで来ていただいて。あっ、そうそうあなた、駅から歩いていらした?」
「ええ」
「あの道、草がのびてたでしょ。歩きづらかったでしょ。でもあの草は刈ってベッドにはつかわないようにしてるのよ。おきゃくさんがあの道、あんがいよろこんでくださるから。手でさーっとなぜながら歩いてくると、草の風がいっしょについてくるのよ、っていうの。すてきな言葉でしょ、草の風って……。あたしもあの道、大すきだし」
「………」
キキはだまってききながら、今歩いてきた道を思いうかべました。
(草の風? そんなのふいてたかしら……やたらチクチクしたけど)
ザザさんはキキを案内するように奥に歩いていきました。明るい庭に面した部屋のすみに機織り機がおいてありました。そばにたばねた糸がいくつもさがっています。キキの子どものころ、近所のおねえさんが、毎日とんとんつんと布を織っていました。くりかえし、くりかえし同じことをしても、できあがるのはほんのすこし、それなのにキキは退屈もしないで、じっとそばに立って見ていたことを思いだしました。ザザさんの機織り機にはスカートと同じしまの布が織りかけになっていました。
「糸もね、ここではなるべくあるもので間に合わせるようにしてるのよ。木の皮とか、草とか、どこにでもあるものでね。それからときどき動物が枝に体をこすりつけてのこしていってくれる毛とかね。それをまた草や、木の実でそめて……魔女さん、もしなにかめずらしい糸のつくりかたごぞんじだったら、教えて」
「えっ、わたしに?」
キキはびっくりしてザザさんを見ました。
「わたし、知らなかったわ。糸ってどこにでもあるものなんですか?」
「まあ」
ザザさんはおどろいたような声をあげ、あわてて手に持った泡立て器に目をうつしました。
「あっ、これ買ってきてくださったんでしょ。お金はまだでしょ。あの人ったら親切だけど大ざっぱで……ごめんなさいね。おいくらでしたの?」
「ここに領収書があります」
「三十エンズ……ね。それからあなたへのお礼もしなくちゃ」
「お気持ちだけで、けっこうです」
「えっ?」
ザザさんはききかえすようにキキを見ました。
「お礼はもちつもたれつ、おすそわけでいいんです。そういう決まりなんです。魔女はずっとそうしてきたんです」
キキはもうしわけなさそうにいいました。この言葉をいうと、相手がこまった顔をするのが、いつも気になるのでした。
「決まり?」
「ええ、昔からの……」
「いくら魔女でも自分のためにある程度のものは必要でしょ。それでやっていけるの?」
案の定ザザさんはへんな顔をしていいました。目がさぐるように光っています。
「ええ、助けてくださる人もいるし。なんとか間に合うんです。仕事もけっこうたのしいし……今でも魔女がいるんだって知ってもらうことがいちばんたいせつな魔女の役目だって、母が……」
「それで町ぐらしってわけね。もちつもたれつっていう気持ちもわからないではないわ。この山のなかではわたしも川や山とそうしてくらしてるから。でも乗り物代もあるし」
「それなら、ほうきですから」
「まあっ」
ザザさんはびっくりして、でもすぐ何回もうなずきながら、「そう、そうだったわよね。魔女のしるしですものね。いい道具ね。魔法ももってるのよね、うらやましいわ」とつぶやきました。
「だけどあなたのご親切におこたえするのに、わたしになにができるかしら……ああ、そうだわ。いいかわるいかわからないけど、今、ちょうど川まで行くとこなのよ。きれいよ。きょうは特にお天気がいいから、ちょっと見てみたら。そのぐらいしかここじゃ、自慢するものないのよ。でも気に入っていただけると思うわ。いっしょに行きましょう、どうぞ」
ザザさんはいいこと思いついたというように笑うと、そばの床においてあった洗濯物のかごをかかえ、バケツをさげると、入り口とは反対のドアをあけて、日のあたる庭にでていきました。
「でも、わたし……きょう……」
キキは二三歩追いかけて、もごもごといいかけました。今夜のダンスの会にはなんとしても行くつもりなので、もうそんなにゆっくりしてはいられません。でもその声は庭にでてしまったザザさんにはきこえていないようです。(こっちの身にもなってよ……)キキはぷーっとふくれてほうきをとっさにそばの壁に立てかけ、仕方なくあとについていきました。ジジもだまってついていきます。
ザザさんはすこし歩いて、ふと立ちどまると、目の前に黒いかたまりのようにもりあがったこい緑の森を見上げ、ふりかえってキキにいいました。
「すごいでしょ。いい森でしょ。奥にずーっと深くつづいているの。あの森があっての小道屋なのよね。ただの森と思えば、それまでなんだけど……ぜったいにただの森じゃないって、わたしは思ってるの。宝物よ。なかにはいると、ふしぎなほど空気がかわるのよ。人の気持ちもかわるし、世界もかわるの。あそこの小さな川をぴょーんととびこすだけなんだけどね」
川をぴょーんとといったとき、ザザさんはぴょーんととんでみせて笑いました。
ザザさんは草の庭からだらだらつづく道をくだっていきました。キキは立ちどまって、またもごもごとなにかをいいかけました。でもザザさんはまっすぐ前を見たまま歩いていきます。そして川の水がたまって、小さな池になっているところに来ると、シーツやタオルをつぎつぎ入れはじめました。
「ここもアジ川なのよ。駅からここに来るとき見たでしょ。森の入り口にあるのはチビアジ、わたしはそうよんでるの。ずっと下流でつながってるの。
きょうはお日さまが元気だから、ほんとうにありがたいこと。白い布はお日さまと仲がいいから。こんな日はシーツを洗うことにしてるの。でもいそがないといけないわ……山のなかは日暮れもはやいから」
ザザさんはスカートのすそを腰のベルトにはさむと、水にはいり、洗濯物をざばざばともみはじめました。それをそばの平らな石のうえにひろげ、バケツのなかから大きな石けんをだしてこすりつけました。泡まみれになったシーツやタオルはていねいに草のうえにひろげられました。するとみるみる洗濯物はお日さまにあたって乾きはじめます。
「魔女さん、ちょっと手伝ってくださいな。靴をぬいで」
「え、えっ、靴?……」
キキは、えーっとまゆをひそめました。
(こっちははやく帰りたいのに、さっきから一生懸命にいやいやって顔して見せてるのに……鈍感な人。いいもの見せるなんていって……ついでに手伝わせるつもりなんだわ……)
キキはむっとして、にらみつけました。でもザザさんはもうこっちに背中をむけて、夢中で洗濯をしています。
キキは仕方なくスカートをザザさんのように持ちあげて、靴をぬぐと、水にはいっていきました。水は思ったよりずっとつめたく、キキは思わず片足をあげ、そのひょうしに川底の小石にすべって転びそうになりました。
「あら、やだもう」
キキは思わず声をはりあげました。
「あらら、だいじょうぶ? 足に力を入れなくっちゃ」
ザザさんはすばやく手をだして、キキの腕をつかみました。とっさにキキはその手をはらいました。
「あら、えんりょしなくてもいいのよ。さあ」
ザザさんはもう一度手をのばして、キキをひっぱりました。その力の強いこと、こんどは反対のほうにつるりと、よろけます。
「あらら、ごめんなさいね。だいじょうぶ? じゃ、手伝ってね、やってみるとおもしろいわよ。はやく水をかけないと、洗濯物、乾いちゃうのよ。石けんついてるから、乾くとしみになっちゃうの。ね、いそいでね。これわたし流のお洗濯。ちゃんと名前までつけてるのよ。『水やり洗濯』っていうの。おかしな名前でしょ。ひろげた布が乾かないようにお花のように、水をかけてやるから」
ザザさんはバケツに水をくむと、手でばちゃばちゃと布のうえにかけてみせました。
「さ、やってみて。おもしろいわよ」
(なにがおもしろいの、こんなこと……)
キキはかっかときていました。いきなりバケツで水をすくい、そのままざぶっとらんぼうにかけました。
「そう、そうよ、ありがとう。助かるわ」
やっぱりむこうはなんにも感じていません。
「こうすると、お日さまと川の水が手伝ってくれてね、布はみるみる白くなるのよ。これって、アジ川の魔法!」
ザザさんは腰をのばして笑いました。
「魔女さんのお洗濯って、どんなの? 教えてほしいわ。ごめんなさい、わたし、知りたがりやなのよ。ほんとうは研究熱心っていってもらいたいんだけどね」
「えっ、わたしのお洗濯? べつに……ふつうだわ……魔法はないの」
キキはこたえながら、ますますいらいらしてきました。
(なんでいろいろきくのかしら。洗濯なんてどこでも同じじゃないの? ひとりぼっちの山のなかのくらしを自慢したいのはわかるけど、わたしが帰りたがってるのわからないのかしら、鈍感。さっきから自分ばかりしゃべって。ひとりぼっちって、こうなっちゃうのね、おー、やだやだ。わたしはなりたくないわ)
「あら、なーんだ魔法はないの? がっかり……でも飛べるじゃないの……それは魔法よね。すてきよ。ため息がでちゃうぐらい!」
ザザさんは草のうえの洗濯物を順番にまた川に入れると流れにまかせるようにすすいで、きゅっとしぼりました。
ザザさんはまたさきに立って、庭にさっさともどると、すみにはられたロープに洗濯物を干しはじめました。
「きょうはお日さま、ごきげんだったわ。ありがたいこと。魔女さん、おねがい、こっちのはじを持ってひっぱってくれる」
「は、はい」
ほっぺたがますますぶーっとふくれてしまいます。目はさっきからつんととがったままです。キキはシーツのはじをわざと力を入れてひっぱりました。
もうどうしようもないほどイライラしています。
「おっととと」
ザザさんはひっぱられて、足をうかせました。
「ダメダメ、力の入れすぎは……」
ザザさんはふふふと笑いながらいいました。
ロープに干されたまっしろなシーツやタオルは風にあたってゆれはじめました。風が通る順に動いていきます。
「きょうの風は、ああいう形なのね」とザザさんはキキを見てうなずいてみせました。
キキは思わずふーとため息をつきました。きどっちゃって……なんでもかんでももったいつけて……お説教っぽくきこえます。それにキキがはやく帰りたがってるのを見通して、じゃましているみたいにも見えます。やさしそうに見えるのも、かえって気味わるく思えてきました。
「それじゃ、わたし、もうそろそろ失礼します」
がまんできなくってキキがいいかけると、ザザさんは後ろをむき、もう家にはいりかけています。キキは追いかけながら、空を見上げました。お日さまはだいぶ西に傾いて、近くの谷間はもう、すこし夕方の気配です。
(あっ、どうしよう。帰れるかしら、まったく。いやになっちゃうなあ。でも超特急で帰れば、なんとか間に合うかもしれない。いや、いじでもぜったい間に合わせてみせるわよ。でも帰ったらおしゃれもしなくちゃいけないわ……こんなかっこうじゃいやだわ。でも行く。行くわ。じゃまなんてぜったいさせないから)
「あのー、わたし、そろそろ帰らないと」
キキは追いかけて家にはいるといいました。
「あら、帰る? 泊まらないの? どうして?」
ザザさんはおどろいて、ふりかえりました。
「えっ? 泊まるなんて……そんなつもりでは。もちろん帰ります」
キキはつっかかるようにいいました。
「まあ、ここに来たら、みんな、泊まるのをたのしみにしてるのに。今夜はおきゃくさんがいないから、二階のいいお部屋を用意するわよ。泊まっていきなさいよ。きっといいことあるわ。帰っちゃうなんて、そんなもったいないこと! 森のなかだけどせいいっぱいのおもてなしを用意するつもりよ。持ってきていただいた泡立て器をつかって山のお芋のとろんとろんスープもごちそうするわ。今がいちばんおいしいときよ。そ、それをあなたへのお礼にどう? いいこと思いついたわ。それこそおすそわけになるわよね」
ザザさんはさっさと自分で決めて、満足そうにうなずいています。
(なんだかんだって……親切に見せかけてる)
キキにはそうとしか思えません。
「でも、わたし、今夜、約束があるんです。帰らないと」
キキはぐいっとのりだしてきっぱりといいました。
「あら、そうなの。いそがしいのね。ざんねんだわ」
ザザさんは肩をすくめました。
「それじゃ、あたしお礼ができないじゃない」
「いいんです。水やりお洗濯、教えていただいたし」
「あんなこと?」
「失礼します」
キキはさっとスカートのしわをのばすと、後ろをむきました。それからさっき外にでるときおいたほうきを手にとろうとしました。
ところがほうきがないのです。たしかに壁に立てかけておいたはずなのに。
ザザさんがかくした!
とっさにキキは思いました。すーっと背中がさむくなっていきました。
(この人、やっぱりへんよ。べたべたしすぎるし……なんでもききたがる。
わたしに一度会ってみたかったっていってたし……。
魔女がうらやましいって……わたしのほうきを見る目もへんだったわ。
さっきからわたしを帰さないように、帰さないようにしてる。あのミズっていういとこといっしょになってわたしを誘拐しようとしてるのかもしれない。魔女はめずらしい動物くらいに思っているのよ。あやしいわ、とってもあやしい。こんな山のなかだもの、どんなことをされてもだれにもわからない!)
キキはいろいろなことを一度に考えて、もう頭のなかが疑いでいっぱいになりました。
(そうよ、ザザさんがかくしたのよ! ザザさんがかくしたのよ! やっぱりわたしをつかまえて帰さないつもりなのよ。さっきからうらやましそうに魔法とか魔女とかいいつづけじゃない)
胸がどきどきはげしく鳴りだしました。
「ジジ、ほうきを知らない? ほうきがないのよ」
キキの声はふるえています。
「あれ、ないね、どうしたんだろ」
ジジはのんびりとまわりを見回しました。
「どうしたんだろじゃないわよ。おかしいじゃない」
キキははげしい声でいいました。
「川に持っていったんじゃないの?」
キキは「あっ」とさけび声をあげると、とびだして、川に行く道をさがしさがし走りました。でもどこにもありませんでした。
(そうよ。外にあるわけないわ。わたし、たしかにあのとびらのとこにおいたんだもの。やっぱりあの人がかくしたんだわ)
キキの背中がぞっとふるえました。
(おちつかなくちゃ、あわてちゃだめ)
キキは自分にいいきかせると、台所をのぞいて、なるべくふつうの声をだしていいました。
「ザザさん、わたしがあそこのとびらのところにおいたほうき、知りません?」
ザザさんはふりむいて、ふしぎそうに
「ほうき? あなたの? さあ……あなたがおいたところにあるんじゃないの。かたづける人なんて、ここにはいないから。あなたが来たときほうきを持っていたのは見たけど。もう一度、よくさがしてごらんなさい」
ザザさんの声はふつうでした。うそをついているようではありません。ザザさんは棚からランプをおろすと、明かりをいれました。
「すこし暗くなってきたから、これを持ってさがしなさい」
キキはランプをだまって受け取ると部屋のすみからすみまでさがしました。かけてあるコートの後ろや、ほうきがたおれてないかと、箱やいすの後ろもさがしました。でもありません。キキの胸がざわざわとなりだしました。
(かくされたんだ! ちがいないわ。平気な顔してるけどやっぱりあの人、わたしをここにとじこめるつもりなんだわ)
「ザザさん、どうしても見つからないんですけど」
キキは台所をのぞいていいました。
「えっ、ないの? じゃ、わたしのほうきをつかってもいいわよ。ちょっとすりへってるけど。おかしするわよ」
「それで間に合わせるわけには……」
キキがいいかけると、ザザさんの声がかぶさるようにきこえてきました。
「それよりさあ、ここに来てごらんなさいよ。いよいよ泡立て器で山のお芋のとろんとろんスープをつくるのよ。すごいわよ。これぞ山の力って思うほどおいしいんだから」
キキがあやしく思っているなんて、ぜんぜん感じてないみたいです。キキはうろうろ目を動かしながら、そっとぬけだし、ザザさんの部屋と思える奥のドアをあけました。ランプをかざしてみると、うす緑色の布をかけたベッドのうえに、やりかけの編み物がおいてありました。あとはいすと小さなたんすのかんたんな部屋でした。キキのほうきはどこにもありません。二階かもしれない。キキは奥の階段のほうにそっと進みはじめました。すると、わきにシーツがたたまれ重ねておいてある戸棚が見えました。こんなところにほうきをかくせるわけがありません。でもあやしいと思いはじめたキキにはなにもかもあやしく感じられました。もしかしたらこの奥にかくしてるかもしれない。キキはていねいに一枚ずつめくりながらのぞいていきました。
……と、棚のどこからか一枚の紙がひらりっと落ちてきました。キキはしゃがんで二つにおられた紙を開きました。そこには鉛筆でこんな言葉が書いてありました。
「『ノラオをすてて、ノラオをひろう』……なに、これ!」
キキはぎくりと息をのみました。体がぶるぶるふるえだしました。
(ノラオって……? 人の名前でしょ? この人をすてるという意味? すてるって、どこかに放りなげるってこと? どこに? まさか、森のなかに……もしかしたらもうすてたのかもしれない。森にはいると空気がかわるって、さっきへんなことをいってた。それっていったいどういう意味? わたしもこれからすてられるんだ。ほうきもなくなってるし……でも、なぜなの、なぜ? 魔女だから? やっぱりあのザザさんはおかしい。こんな森にひとりで住んでるから、気持ちがへんになってるのよ。そうとしか思えない。ほうきなんて、もうどうでもいいわ。ジジもいるし、歩いてでもいいからはやくここからにげよう)
キキはぴったりついて歩いていたジジに小声でささやきました。
「ジジ、ここをでよう。帰ろう。ねえ、はやく」
「どうしたの、キキ?」
ジジがききました。
「やっぱり鬼かもしれない、あの人」
「ほんと? でもこの家、いいにおいしてるじゃない。鬼らしくないよ」
「だから、へんなんじゃないの」
キキは目をとがらせて、ジジを見ました。
「キキがそういうなら、帰るよ、ぼ、ぼくも」
キキのようすにおびえたように、ジジは小さくうなずきました。
「はやく!」キキがランプを消して、戸口にいそごうとしました。すると遠くでひゅーっとかすかに笛のような音がしました。そのとたん「にゃーおーん」ジジは一声あげると、耳をぴんと立て、目をぐっとあけて、窓の外を見上げました。それからいきなりうなり声をあげ、あいている窓から外にとびだしていきました。いったいなにがおきたのでしょう。そのあまりのかわりようにキキはおどろいて立ちすくみました。ジジの体が波うつように走って庭を横切っていきます。キキも窓からぬけだし、後を追って走りだしました。
さっきザザさんがいったチビアジ川が流れています。ジジはぴょーんととびこして森のなかにはいっていきます。キキもつづいてとびこしました。するとあっという間に木や草の形が見えなくなり、キキはまっくらな空気にかこまれてしまいました。外はまだすこし明るかったはずなのに、どうしたのでしょう。さっきザザさんがいっていた、空気がかわる、世界がかわるといった言葉がちらりっとキキの頭をかすめました。さきのほうで、草のなかをジジの走る音がかすかにしています。
「ジジ、ジジ」
キキははじめは小声で、でもしだいに大きな声でよびました。でも返事がありません。キキの声がきこえたら、ジジはいつもこたえてくれるのに。それにザザさんにだってきこえてないわけはありません。でもキキの声がこの暗い空気のなかにとけてしまったように、なんの返事もかえってこないのです。キキは前も後ろもわからないままに、手をのばし、ふり動かしながらめちゃめちゃに走りました。高いところで、ざわざわ、ざわざわと木の葉が鳴り、後ろのほうでも草がざわざわと音をたてています。キキは走りつづけました。とまったらなにかにつかまるのではないかと、走らないではいられないのです。ジジをつれて、はやくにげなくっちゃ、はやく、はやく、それしか考えられません。顔やふりまわす手に木の枝がびしびしとあたります。後からとっとっととなにかが追いかけてくるような音さえきこえます。にげてもにげてもつかまりそうです。キキは手をばたつかせ、前のめりになってめちゃくちゃに走りました。
すると足がなにかにひっかかりました。拍子で靴がぬげ、キキの体は泳ぐようにつんのめると、ずずーっと木の根や草ででこぼこしている地面をすべってとまりました。
「痛い!」
足首から頭のほうに痛みがびーんと走ります。
土にこすったのか、草に切られたのか、ひざっこぞうや手のひらがひりひりします。キキは腰がぬけたように、そのままそこにぺったんとすわってしまいました。
「ジジー」
キキははあはあとあばれている胸をおさえてさけびました。その声は細く尾をひいていつまでも暗闇のなかにひびきつづけています。
まっくらです。どこもかしこも、なにもかも。まるで黒い布をすっぽりかぶせられたようでした。キキは痛い体を抱えてちぢこまりました。
この世からまったくの闇とまったくのしずけさがなくなったから魔法が消えた、とコキリさんもオキノさんもいっていました。
でも、そんなのうそ。こんなにすごく暗いところがあるじゃないの。
暗闇のなかにかくれてたくさんの目がこわがっているキキをじっと見ているようでした。
音もなくまわりを風がふいています。風といっしょになにかがこっちにむかってじりじりとよってくるような気がします。キキはびくびくと体を動かしながら、もうがまんができなくて、小さくしゃくりあげ、そのまま体をひきずってずるずるとあとずさりしました。
ここはいったいどこなの? 森のなかのはずなのに……ちがう世界にひっぱりこまれたみたい……きっとあのザザさんのしわざだわ。気持ちわるい人だったもの。いつかきいたことがある、昔、魔女は理由もなくきらわれて、どこか秘密の場所に姿を消したものがいた。その人たちはそれを恨んで持っていた魔法をおそろしい魔法にかえていった……という話を。
キキはつぎつぎ考え、おびえてますますつよく自分のひざを抱えました。黒のなかの黒といわれる魔女の洋服では、闇にまざってしまって、自分の姿さえうっすらとも見えません。
空気がたえられないほどつめたく感じます。体ががたがたとふるえています。キキは両手で体を抱えるようにして、よろよろと立ちあがりました。はやくにげなくちゃ。でも転んだときねじったのでしょう、足首がずきずき痛み、ちゃんと立てません。キキはなにかつかまるところがほしくて、手をのばしてあたりかまわず動き回りました。でもすぐすべって転び、なにかをつかんだかと思うと、するりとぬけてしまいます。こわくて、こわくて、痛くて、ひとりぼっちで、キキはあかちゃんのように泣きはじめました。
ふとなにか触れるものがありました。キキがすがるように手をのばすと、それはがっしりと太く、木の幹のようでした。キキはくるったようにとびついて、両手で幹にしがみつきました。ざらざらしています。キキは泣きながら手でそのざらざらをなんどもさわりました。この底なし沼のようなまっくらな森のなかで、なにもかもがキキをいじめているようなこの森のなかで、このざらざらの木が声をかけてくれたような気がしたのです。キキは体を強くおしつけ、必死でかじりつきました。
しばらくすると、つめたくひえたキキの体に、木のなかからかすかなあたたかさが伝わってきました。いっしょに音にならないやわらかなひびきが、きりきりととがったものにさされたように痛いキキの胸にひびいてきました。なだめてくれているようなやわらかいひびきでした。息も通らないほどかわききった口やのどがひくひくと動きはじめました。ずっと昔しっかりと抱かれ、やさしく背中をたたかれたかすかな記憶がよみがえってきて、すこしずつキキの呼吸がしずかになっていきました。うすい湯気のように安心がひろがっていきます。キキの体はそのままずるずるとくずれ、木の根もとにうずくまりました。
どのくらいたったでしょうか、もしかしたら一瞬だったかもしれません。キキははっと目をさましました。あたりはいぜんとしてまっくらです。でもこわばっていた体がすこしほぐれているのを感じました。キキは目をしばたきながら、暗闇をのぞきました。体のどこかであたたかいものが動きはじめています。同時にまぶたのなかに見えてきたのは、はじめてほうきに乗って飛んだときの空の青い色でした。焦げたような赤い屋根をしたに見て、はじめてぷーとうくと、すべるように飛んだのです。なんて気持ちのいい一瞬だったでしょう。あのときの気持ちをキキは思いだしました。空をどこまでも、どこまでも、飛べると思った、あの自由な、うれしい気持ちです。
(あのとき、わたしはほんとうに魔女になりたいと思った)
だれにいわれたわけでもなく、そう自分ひとりで決めたときの誇らしかった気持ちをキキは思いだしていました。
このところキキは不満だらけでした。魔女でいることも、とんぼさんがすきなのも、みんな自分でえらんだことなのに……わたしは一生懸命やっているのに、わかってもらえない……なぜ? だれもわかってくれないの。こんなにとんぼさんがすきなのにとんぼさんたらよく平気でいられるわね。わたしはきっとみんなにきらわれてるんだわ。キキは自分で勝手に自信をなくしていたのです。でもそう思うのがいやで、なにかにつけ文句をいいたくなっていたのです。夏が始まってからずっとこんな気持ちがキキをおおっていたのでした。
だから「魔女さん、すごい!」なんてちやほやされると、見さかいもなくふわふわと有頂天になったのです。これではあの女の子にいわれたようにチョコレートに結ぶ飾りのリボンとおんなじではありませんか。知恵があるといわれている魔女なのに、ひとりぼっちになったとき、暗闇のなかであわてふためいて泣くことしかできませんでした。ヤアくんが持っていた力すらキキにはありませんでした。
魔法が消えた。それはキキのことだったのではないでしょうか。
キキは大きく息をすいこむと、靴がぬげてはだしになった足をひきずって歩きだしました。川の音がかすかにきこえてきました。進むにつれて、あたりがぼーっと明るくなりました。さっきぴょーんととびこした川が見えています。キキはふっとヤアくんの棒を思いだしました。
「おとなはね、ひとりで行くんだよ」
ヤアくんのことばです。もしかしたらキキは棒をとびこして、ヤアくんのいっていた世界へひとりで行ってきたのかもしれません。
後ろの山から半月が顔をのぞかせました。木と木のあいだにキキの影がうつっています。キキはこんなにくっきりとした自分の影を見たのははじめてだと思いました。
さわさわと草がゆれる音がして、ジジがとびだしてきました。
そのあとからひとりの男の人が歩いてきます。
「キキ、この人、ノラオさん。ぼくの友だち」
ジジはなにごともなかったようにいいました。
キキはびっくりして口がきけません。
「去年、ぼく、家出したでしょ。そのとき助けてくれた人なの。さっききこえたんだ、ノラオさんの口笛」
「やあ」
木の茂みからぬけだして、男の人は帽子をとって頭をさげました。
「この猫、おたくの猫?」
男の人は笑いかけました。
キキはだまってうなずきました。
「ほほー、その黒い洋服……とすると……あんた、うわさの……コリコの町の魔女さんじゃないの」
「ええ」
「……とすると、この猫は、魔女猫だったんですか。あまったれちゃんだけど、いじっぱりで、どっかいいとこあると思った。なるほどねえ。でも、猫のくせに、魚まるごと食えなかったんですよ、あきれちゃったけど……」
「ほら、口がわるいんだから」
ジジが鼻をならしました。
「あの……ノラオさんってお名前、ほんとですか? あっ、ごめんなさい、いきなり失礼なことうかがって」
キキはいいました。
「ええ、コリコの町で、キャベツ売りしてます。自分でもすこしつくっているけど」
「わたし、さっき、あのザザさんの家で偶然メモを見ちゃったんですけど。『ノラオをすてて、ノラオをひろう』って書いてあったんです」
「わははは、きっとそれ、ぼくのだ。ノートの切れっぱしでしょ」
「ええ、でもふしぎな言葉だったので……」
「そう、それぼくのおまじないなんですよ。はずかしいなあ。見られちゃったか」
ノラオさんは手に持った帽子で顔をざばっとなでました。
「それどんなおまじないなんですか」
キキはノラオさんを見つめました。
「まじないっていうほどおおげさなことではないんだけど、じつは昔、失恋しちゃってね、だめだってわかっているのにその子のことしか考えられなくって……うじうじうじうじしてあのときはみじめで、つらくって。この世に自分なんていなくてもいいんだ、どっかに消えてしまおうと、ふらふらと歩き回っていたら、ある夜、この森にはいりこんじゃったんですよ。まっくらでねえ、たったひとりがさびしくって……とうとう泣き声をあげてしまった。消えてしまうつもりだったのに。すると、気持ちがすとんとどこかにはいりこんで、もう一度生きてみようかなって思えて……そう、この森でこんなふうに自分をひろうことができたもんだから……。そのあとここの宿屋のザザさんにも会えて。ずっと昔のことだけど……それからはね、つらくなると、自分をひろいにここに帰ってくるんです。あれ……ひょっとして……魔女さん、君もそうだったの」
ノラオさんはキキをのぞきこみ、はだしの足を見ました。
「ええ、わたしもなにかひろったような気がします」
キキははずかしそうにしたをむいてこたえました。
「でもきょうはおどろいたなあ、この猫がいきなりとびついてきて」
ノラオさんはかがんでジジの背中をぽんとたたきました。
「キキ、ぼくは猫っていう名前じゃないって、いって。ジジだって」
ジジがにゃごにゃごと不満そうに鳴きました。
「おや、なにか気に入らないのかな」
ノラオさんがいいました。
「ジジって名前なんです。そうよんでくださいって」
キキは笑いながら、ジジを抱きあげました。
キキたちが歩いていくと、
「どこに行っちゃったの?」
小道屋さんのほうから光が見え、ザザさんの声がきこえてきました。
「ここでーす」
キキとノラオさんは同時に声をあげました。チビアジ川がきらきらと光って、そのむこうにランプを持ったザザさんが立っていました。
キキとノラオさんは、ぴょーんと声をそろえ、小川をとびこして走りだしました。
「魔女さんったら、どこに行ってたの。きゅうにいなくなっちゃうんですもの。ああ、よかった、また会えて」
ザザさんは走ってきたキキを抱きとめました。
「もう帰っちゃったかと思ったわ。さよならがいえなかったから、悲しかったわ。あららっら、どうしたのそのはだしの足!」
ザザさんがキキの足を見ていいました。
「転んじゃって。靴がどっかにいっちゃって」
(どうしてさっきはこの人をあんなに疑ったりしたのかしら……わたし、どうかしてたんだわ)
キキはザザさんのほほえむ顔を見ながら思いました。キキは自分の目が入れかわったのではないかと思うほどふしぎな感じでした。
「スープできてるわよ」
ザザさんはキキの手をとりました。その手はさっきの森の木のようにかたく、でもしっとりとあたたかく感じられました。
「おう、ありがたい」
後ろからノラオさんがのぞいていいました。
「おや、ノラオさんじゃないの。おや、まあまあ。また歩いてきたの? あなたはいつもとつぜんあらわれるんだから。でもちょうどよかった、あなたのすきなとろんとろんスープができてるわよ。きょうのは最高の、特別よ」
ザザさんが暗いなかをのぞくようにしていいました。
テーブルのうえには、ロウソクが三本
「魔女さんにこの泡立て器を運んでもらったので、いいスープができたわ。やっぱり柳の枝よりこっちのほうがきれがよくていいわ。おなかすいたでしょう。あの森のなかってやけにおなかがすくのよね。特に夜は……」
ザザさんはふたりの顔を見くらべて、笑いました。そのザザさんを見て、キキはあっ、この人ももしかしたらあの森で自分をひろったのかもしれないと思いました。キキとノラオさんはテーブルにすわり、ジジはいすにスープのお皿をのせてもらいました。キキはスプーンですくって、スープをひとくち口に入れました。「ふー」思わず声をあげました。とろんとしたかすかにすっぱい味がキキのなかにゆっくりとしみていきました。
すると、あんなにさがしてもなかった、キキのほうきが台所に通じるとびらの後ろからのぞいているではありませんか。
「あら、わたしのほうき、……ザザさん、見つけてくださったんですか」
キキは立ちあがって、ほうきを手にとりました。
「いえ、わたし、なにもしていないわよ。ずっとあそこにあったんじゃないの」
ふりむいたザザさんもふしぎそうな顔をしています。
「あ、そ、そう、きっとそうね。わたし、さっきはとんでもなくあわてちゃってて……なんでこんなとこ見落としたんでしょう。わたしどうかしてたんだわ。おさわがせしてごめんなさい」
キキはもうしわけなさそうに首をちぢめました。
「あっ、そうだわ。キキ、今夜、大事な約束があったんじゃないの?」
ザザさんがしんぱいそうにいいました。
「ええ、あのときはどうしても行きたいって思って。それでほうきが見つからないもんだから、どうしよう、どうしようって、なにかにとりつかれたみたいにばたばたしちゃって。なにがなんだかわからなくなっていたんです。わたしほんとうにどうかしてたんです」
「そういうことってあるわよね。むりもないわ。こんな山奥まで来たんですものね」
ザザさんは大きくうなずきました。
「約束は、みんなで集まってあそぶ会だったんです。あした、あやまりの手紙をとどけに行くつもりです」
キキはいいました。
「その前に森にはいって靴をさがしていらっしゃい」
ザザさんはちょっぴりからかうような笑いをうかべていいました。