6 ジジの家出
つぎの日、キキはジジといっしょに、あの「おわりのとびら」の本をかかえて、つた壁街の「むかし屋」さんの前に立ちました。とんとんとたたいてからドアをあけると、目の前の柱に、きょうは小さな文字が書かれた紙がピンでとめてありました。
「『むかし屋』の店主は表通りのカフェにいます。
ご用の方はそちらまで、来てください」
キキはまわりを見回し、うすぐらい通りのさきの明るいほうをながめると、すぐ歩きだしました。やがてまがり角のむこうの歩道に、テーブルといすをだしている小さなカフェが見えました。その一つのいすに、やせて背中のまるくなったおじさんがすわっていました。テーブルに顔を近づけ、なにかしきりに書いています。右手にはペンを持ち、左手は、テーブルのうえにおいた、金色のお酒がはいっているコップをおさえていました。
「あのー、あそこの通りの『むかし屋』さんですか?」
キキは近づいてえんりょがちにききました。
「あー」
ため息みたいな声がかえってきました。
「この本どうしましょう。ご連絡がないもんですから……。もう八日もおあずかりしてるんですけど……」
「むかし屋」さんは上目づかいにちらりっとキキを見ると、またすぐしたをむいて、書きつづけました。返事はありません。きこえていないはずないのに。キキはどうしていいかわからなくって、ただだまって立っていました。そのままへんな時間が流れていきました。
「あのー、この……」
キキがやっといいかけると、
「その本がどうした」
「むかし屋」さんは書きつづけながらほえるようにいいました。
「おあずかりしたんですけど……わたし、魔女の宅急便です」
「あずかったって、だれに?」
「そちら……『むかし屋』さんから……」
「わし? わしは知らんね」
「えーっ! でも、うちのドアのすきまに、あなたのお店へ来るようにってお手紙がはいっていて、それでうかがったら、お店のテーブルのうえに、この本があって、そばにまたお手紙がついていて、しばらくあずかってほしいって、書いてあったもんですから……。でもその後ご連絡がないので」
「わしは、知らんね」
「でも……でも……」
キキはもじもじしながら、「むかし屋」さんの顔をのぞきこみました。
「知らんもんは、知らんよ。あんたと話したこともないね。それにわたしが手わたしたんでもないんだから。あんた、だれかにからかわれたんじゃないのかい」
「むかし屋」さんははじめて顔をあげて、はっきりとキキを見ました。
「でも……あの、お店においてあったんですけど」
「物を運んでくれるっていうのはべんりだけどね、相手の顔もちゃんと見ずに受け取るっていうのは、どんなもんかね。あんた、魔女だっていうことだけど、ちゃんと判断する魔法もないのかね。それじゃ、ふつうのもんと同じじゃないか。物をあずかるんだから、気楽にしないことだ」
「むかし屋」さんはそういうと、またしたをむいて書きつづけました。
(どうしよう……)キキは足もとを見つめました。いわれてみれば、もっともな話かもしれません。
しばらくして、キキは後ろをむくと、しずかに歩きはじめました。ジジがそっとあとを歩いてきます。
「いいじゃない。このままにしておけば。べつにこっちがわるいんじゃないんだから。あのおじさん、なんだよ、えらそうに」
ジジがいいました。
「ううん、わたしがわるいのよ。ちゃんと考えなかったんだもの」
キキは力なくこたえました。それにしても、だれがあの手紙をドアの間にはさんだのでしょう。電話でたのまれたのでもないので、声もきいていません。男の人か、女の人かもわからないのです。キキは手紙の字を思いだそうとしました。
(わたし、あの字を見たとき、なんにも感じなかったんだ。へんだとか、あやしいとか……。なんて鈍感な魔女なの)
そのとき、キキは、なにかが頭にひっかかって、足をとめました。それから、「まさか」と、頭をふって、また歩きだしました。
キキが窓をあけると、くすりぐさの強いにおいがいっきにとびこんできました。
「なあに、これ、すごーいかおり……」
キキは思わず元気な声をあげました。自分の気持ちがよそをむいている間に、くすりぐさはどんどん生長していたのです。こい緑色のはっぱを朝日にむけて背のびするようにのばしています。
キキは、外にでていって、草の間に顔をうずめました。青くさいような、ちょっぴりあまいにおいが、すーっと胸のなかにしみこむようにはいっていくと、つまっていたものが、胸の底のほうに、すとんと落ちていく気がしました。キキは、ふりむいて、家のなかにいるジジにいいました。
「ねえ、ひさしぶりにびゅーんと飛んでみようか」
「どこに?」
ジジが戸口に顔をだしていいました。
「どこかよ、思いきり飛びたいの。あ・そ・び・と・び」
「うん、いいよ、いいよ。たまにはばんばん飛ぼうよ」
キキはうちのなかにもどると、ほうきを手にとびだしました。
「行くわよ」
キキがさけぶと、ジジが背中にとびついてきました。キキは地面をけって飛びあがりました。いきなりはやい速度です。
「ふひー、ぞくぞくする」
ジジがさけびました。
「じゃ、もっとぞくぞく」
キキは体をかたむけると、くねくねと空中に線をかくように、飛びはじめました。まきこまれて、風もいっしょに動きます。キキのスカートをふくらませ、ジジのしっぽをふきながしのようになびかせました。
「きゃー、きゃー、き、気持ちいいー。キキ、した見て、した見て」
ジジがキキの背中にしがみついてきました。
「ほら、あの人、びっくりしてるよ。あっ、やめてよう、自転車から両手をはなして、手をふるの。あぶないよう」
ジジははしゃいで体をゆすります。キキは自分も両手をはなし、鳥のつばさのように水平にのばすと、ゆっくりおりはじめました。
「あー、すかっとした」
キキはすこし速度をおとして大きな息をしていいました。
「キキ、あ、あそこ、ケケだよ」ジジが左のほうの街角を指さしました。「ケケ、走ってる。追いかけて見せびらかしてやろうよ」
ジジがキキの肩にとびのってきました。
「よしきた。おどかしちゃえ」
キキは逆立ちのようなかっこうになって、地上めがけて、速度をあげました。ケケも通りの歩道を走っています。背中でリュックがぽんぽんはずんでいます。
「あっ」
キキが小さな、でもするどい声をあげました。ケケが走っている前方に、とんぼさんたちの「飛行クラブ」がちらりっと見えたのです。キキは足をつっぱると、たおれそうなほど、ななめになって方向をかえました。
「どうしたの? やめちゃうの?」ジジがいいました。それからざんねんそうにつぶやきました。「どうして仲よくできないのかなあ」
キキは反対のほうに飛びながら、目をななめ後ろにむけました。やっぱりケケは「飛行クラブ」のドアをたたいています。窓ごしにおそろいの作業服を着た人の姿がちらほら見えました。
「あそこに行くなんて、ケケも飛びたいんだね。キキがうらやましいんだ」
ジジがとりなすようにいいました。
キキはずっとかかえていた本を机のうえにもどすと、ものもいわずに、ばたーんとベッドにあおむけにたおれました。そのまま口をきゅっとむすんで、天井をにらみつけました。
「なにさ、子どものくせに」
キキの口からとつぜんらんぼうな言葉がとびだしました。ジジがおどろいてふりむきました。
「だれのこと?」
「だれでもないわよ、わたしのことよ」
キキはぶっきらぼうにこたえると、ぐるんと寝返りをうって、壁のほうにむいてしまいました。
「ねえ、気分なおしてよ。ぼく、おやつ……ビスケット、ほしいな」
ジジがベッドにとびのってきて、前足をそろえて、キキの体にのせました。
「やめてくれる、ジジ。いつもわたしのそばにくっついているの。たまにはどっかに行ってよ。もう、たまらない」
キキは足をらんぼうに動かし、ジジをけとばしました。ジジはおされて、ベッドから落ちると、キキを見上げました。目がまんまるにあいたままです。たった今おこったことが信じられないのです。
「なに、これ? そばにいちゃいけないってこと? どっかに行けってこと? いつからそういう決まりになったのさ。キキってこのごろいつもいらいらしてる。ぼくだって、がまんしてるんだから」
ジジはしゅーっと息をはくと、背中をもりあげて、にらみました。
「がまんしてくれって、たのんでなんかないわよ。かってにすればいいでしょ」
キキは頭だけジジにむけていいかえしました。
「ああ、そう。ぼくだって、『あたしの、猫ちゃんに、なって』ってたのまれたんだから」
ジジは、しゅーっと息をふきだしました。
「だれに?」
キキはいそいで体をおこしました。
「だれだって、いいでしょ。キキには関係ないでしょ」
「あの子にいわれたんでしょ」
「ちがうよ、ほかのいい人だよ。でも、あの子って、だれさ」
ジジはこれだけいうと、さーっと外にとびだしていきました。
「ジジ」キキはさけびました。追いかけてドアに走りました。ジジの姿はもう見えません。
「なによ、すぐ帰ってくるくせに」キキはしたをむいて、床を見つめ、それから思いっきりドアをしめました。ばん、と大きな音がしました。キキはその音の大きさに、はっとして体をこわばらせました。
ジジはあらい息をはきながら、走っていました。いつも通っているパン屋の裏の塀のうえを、こんなに注意しないで、走ったことなんてありません。
(足でけっとばした……ぼくのこと。足で……もう、おわりだ。どこかに行っちゃう、行っちゃう、行っちゃうよ)
ジジは声にはださずに、でも心のなかでは大声で、なんどもさけんでいました。
「あっ!」塀がおわっていました。ジジは走っていたいきおいのまま、どーんと落ちていきました。「ぐっ」するどい痛みです。(あっ、つぶれちゃった、ほんとにおわりになっちゃった)とジジは思いました。
気がつくと、体がゆれています。(死んじゃったのかな)とジジは思いました。でも、なにかへんなにおいがします。重たい目をゆっくりあけると、そばにキャベツがごろごろしていました。はっぱのうえを小さなあおむしが二匹、もぞもぞと動いています。ジジは思わず右の前足をふりあげようとしました。どうやらジジはトラックの荷台に乗っているようです。
そのとき、がったん、といって、動きがとまりました。すると、まだぼーっとしているジジの目の前に、むぎわら帽子をかぶったおにいさんが立っていました。
「なんだ、おまえ、キャベツから生まれてきたのか?」といいながら、にやにやと笑いました。
「おや、足、けがしてるじゃないか」おにいさんは、ジジのおなかのしたに手を入れて抱きあげると、うちのなかにはいっていきました。それからジジの足を水で洗い、近くにあった布をさいて、まいてくれました。「たいしたことはないぞ。元気だせ」
でもジジはまだぼーっとしていました。
(このままずーっと、ぼーっとがいいや)とジジは思いました。(キキのこと思いださなくっていいもの……)
ジジはそーっとまわりを見回しました。
小さな小屋です。ぐるっと目を動かすだけで、みんな見えてしまいます。床は土で、すみに木の箱をならべたうえにふとんがおかれ、そのうえに小さな窓が一つだけついています。部屋のなかが明るく見えるのは、入り口のドアが開いているからでした。ジジが寝かされている土間は干し草がつまれ、そばに大きなまな板とぎらりっと光った包丁がおいてありました。
おにいさんはちらちらとジジを見ながら、でたりはいったりして、トラックのキャベツを小屋のなかに運びいれました。それから入り口のわきの井戸から水をくんで、キャベツを洗って、ならべました。
「おまえ、あんがいきれいな猫だな。まっくろで、よけいな色がはいっていない、こんなつやつやな毛皮なんて、めずらしいぞ」
それからまな板にキャベツを一つのせると、ばさり、包丁でまっぷたつに切りました。
(きゃっ!……)
ジジは思わず目をつぶりました。きゅうに足がずきんずきんと痛みだしました。もしかしたら、痛いのは、体ぜんぶかもしれません。
「おまえ、おびえてるのか? そんないいくらしを今までしてたのか? ここじゃきどったってしゃあないぞ。あっ、おれ、ノラオっつうの」意外にちゃんと名乗ったおにいさんは、また、ばさりっと、キャベツを切りました。「売れのこっちゃったからよ、漬けものにして、冬になったら、食べるのよ。塩ふって、重い石をおいとくと、すっぱくなって、肉と食うと、うまいのよ。どんな肉でも少々おかしな肉でもさ、なんでものこさずまるごと食っちゃうのが、おれのやりかたでさ」
ノラオさんはしゃべりながら手は休めず、こんどはキャベツを細くきざみはじめました。
(まるごと食う……つやつやの毛皮だって……)ジジは力をなくしてしまった体をなんとかひきずって、はなれようとしました。目をあげてさぐるようにまわりを見ると、壁に小さな絵がいくつもかかっています。
うさぎ、ねずみ、りす、ねこ、さかな、それから、かぶ、たまねぎ、キャベツ。
(これ、みんな、まるごと食べちゃったものだろうか……どんな肉でもまるごと食っちゃうっていってたけど……)
ノラオさんはそんなジジには目もくれず、キャベツを音をたててきざみ、大きなつぼに入れ、塩をふると、うえに石をどすんとおきました。いっしょに土間の地面がゆれ、体もぽんともちあがると、ジジはふあーっと、どこかにしずんでしまうような気がしました。
「さ、メシにでもするか」
ノラオさんの声が遠くのほうからきこえてきました。
ジジはふっと目をさましました。どのくらいねむってしまったのでしょう。あたりはまっくらです。寝床のあったほうからは、ノラオさんの寝息が、小さなブランコのようにいったりきたり、きこえてきました。ジジは立ちあがろうとしました。すると、体のうえにノラオさんのにおいのするシャツがのっているのに、気がつきました。どこからかはいってくる風に、ジジは「くしゅんっ」とくしゃみをしました。きゅうにジジの顔が悲しそうにゆがみました。今まではこんなときキキのふとんにもぐりこんで、キキの足のところでぐるりっと一回転してまるくなって寝たものでした。あそこはさむいときや、さびしいとき、ジジが体をよせる場所だったのです。でもそこにいたのは、もうずっと昔のことのように思えます。
ジジはすこし開いているように見えるドアのほうに体を動かしました。草のにおいがしてきます。ジジは外にでていきました。地面につくたびにまだずきずきと痛む足をひきずりながら、ジジは前へ前へと進もうとしました。どこかわからないけど、どこかに行かなければならないような気持ちでした。
外はまっくらでした。星も月もないまっくらな夜でした。自分の体さえはっきりと見えません。(ぼくも、やみ夜になっちゃったみたい)ジジだけでなく、草も木も、遠くに見えるはずの山も、みんなこのやみ夜にすいこまれてしまったように、なんにも見えません。あるのは草や木のにおいだけです。ジジはしっぽを動かして、自分の体をさわってみました。まだあることはあるみたいです。
(そういえば……)とジジは思いだしました。ずっと前、コリコの町で気がむくと参加していた猫の集まりで、年とったおばあさん猫からきいた話を思いだしたのです。
「いつか、あるところに、おまえさんみたいなどこもかしこもまっくろな猫がいてね。ある夜のこと、散歩にでて、迷子になってしまってね。そしたらその夜は星も月もないまっくらな夜でね、もうどっちに行っていいか、まったくわからなくなってしまったんだって。自分すらも見えなくなってね。このまま自分がいなくなっちゃうんじゃないかと、そりゃおそろしかったそうだ。なんとか明かりがほしいと思って必死になってね、思わず自分の銀色の目玉をとって、空に投げたんだってさ。するとその目の光で空がぼーっと明るくなって、のこった目に、自分の姿もぼーっと見えてきたんだそうな。そしてぶじ家に帰れたんだって。目玉を投げるなんてずいぶん勇気のいったことだったろうね。それにしてもよっぽどこわかったんだろうね」
ジジはそっと自分の目をさわってみました。でもいくらなんでも、これをとって投げるなんてできないと思いました。夜はますます暗く、ジジはただただうずくまっていました。
「おい、おい」
どこかで声がします。目をあけると、まわりがかすんでいます。なんとか目を開いていようとしても、まぶたはすーっとさがってしまいます。
「どうしちゃったんだよ、もう朝だよ」
また声がきこえてきました。ジジは重い頭をやっとあげました。どうやらノラオさんの声のようです。
「もういいかげんにしろよ。いつまでぐだぐだしてるんだ。こんなこといってもどうせわからないだろうけどよ。きのう目がさめると、おまえったらいやしない。ひとりで帰ったかと思ってよ、放っておいたんだけど。畑に水まきにいったら、たおれてるじゃないか。それからまるまる一日寝っぱなしよ。いくらなんでも腹すいただろう。夕めしだよってほっぺたたたいても、おきやしないし。あきれたね。猫ってこんないくじのないもんかね」
ジジは「にゃあ、にゃあ」と思いきり鳴きました。
「鳴くのだけは一人前だなあ」
ノラオさんが苦笑いしました。ジジは、このノラオさんともキキのように言葉が通じればどんなにかいいのにと思いました。
(自分はキキという魔女の猫だって名乗ることもできるのに……コリコの町ではすこしは知られた猫なんだって、話すこともできるのに……)いくじがないなんて、あんまりです。
「立ってみろよ」ノラオさんはするどい声でいいました。ジジは、うったえるように、ノラオさんを見上げました。「まったく、しょうがないなあ」ノラオさんはジジの首をひょいっとつまむと、もう一つの手でおしりをぽんとたたきました。ジジは思わずとっとっとっと前に歩きました。「ほれ、みろ、できるじゃないか。おい、猫、今からでかけるぞ。たっぷり栄養つけてやるから」
ノラオさんはそばに立ててあったさおをつかむと、いきなり外にでていきました。ジジはしかたなく、まだ痛い足をかばいながら、そろりそろりとついていきます。「いやだ、ぼくは行かない」って、キキによくいった言葉もつかえないのです。
ノラオさんはどんどん進んでいきます。草をかき分け、岩をのぼって、水たまりをとびこして、さきへ進んでいきます。ジジは必死であとをついていきました。いじでもちゃんとした猫だって見せてやりたいと思いました。
やがてノラオさんは川のほとりにやってきました。それから土をほると、みみずをつまんで、つり糸のさきについてる針につぎつぎさし、川に放りこみました。それからそばの石に腰かけると、じっと水を見つめはじめました。なんにもいいません。ジジもそばでじっとしていました。時間がどんどんたっていきます。
「元気だせよ……そういうことよ……ふふふ」ノラオさんは川にむかってひとりごとをいっています。それからふっとジジのほうをふりむきました。「川のなかにはなんにもいないって思うだろう。でも水のしたはにぎやかなんだよ。そう思って自分で気持ちをにぎやかにしてるのさ。ほーれ! ひいてる」
ノラオさんがさおをぐーんとひっぱると、さきに魚が二匹きらきらとはねていました。
「さーて、ありがたく食うとするか」
ノラオさんは落ちていた枝をポケットからだしたナイフでとがらせると、きゅっと魚にさしました。(あっ、「まるごと」だ)ジジはおもわず目をつぶりました。体のなかにぴーんと痛みがはしります。ノラオさんはポケットからこんどは塩のビンをだしてぱっぱと魚にふりかけると、まわりから枯れ草と枝を集めて、火をつけ、そばに魚のくしを立てました。
「こんなふうに、つい今までぴんぴんしてたのを食っちゃうなんて、ちょっとわりいような気もするけどな、これがさ、もちつもたれつってことだと、おれは思うのよ。お返しはどっかでさせてもらうってことにしてさ」
そういうと、ノラオさんはちょっと目をつぶって、しずかにあけました。
しばらくすると、いいにおいがしてきました。
「やけたぞ」ノラオさんは大きなはっぱのうえに魚をのせて、ジジの前においてくれました。「食べろよ。えんりょしなくていいよ。ふとれよ。筋肉を強くしろよ、景気よくガチガチッとな」
ジジは、おそるおそる顔を近づけて、魚をぺろりっとなめてみました。そのとたん、ノラオさんがキキみたいに、〝もちつもたれつ〟っていったことを思いだしました。
(もしかして、これ食べたら、おすそわけよこせっていうかな……。ぼく、なんにもないけど……。耳かしっぽか、よこせっていうかな……)
「なんだい、いじいじして。まるごと食えよ、食え」
ノラオさんは自分も魚にかじりつきながらいいました。ジジはそっとノラオさんを見ました。
「ふう」ノラオさんは鼻から息をふきだしました。「おまえ、猫だろ? この世に魚を前にいじいじしてる猫がいるか? おまえの名誉のためにいわないでおこうと思ったけどよ、おまえはキャベツから生まれたんでも、トラックに乗ってきたんでもないんだよ。塀のうえからぽろんと落ちてきたんだよ。そんな猫、いるか? それにまる一日ふてくされたように寝てるし、ありゃ、猫のやることじゃねえよ。今までなに考えて生きてきたんだ? あきれちまったね。毛皮はつやつやしてるし……けっこうなご身分だったんだろうが」
ジジはさすがにふくれたくなりました。このいいかたはあんまりです。キキがあんなひどいことをしたから、目の前がまっくらになるくらい、気持ちがひっくり返っていたのです。ジジはノラオさんを見上げて、うーっとうなりました。
「なんだ? その態度は……おまえなりの悩みごとがあったっていいたいんだろ。……こっちはそんなことお見通しだ。でもな、どんなことがあってもよ、ちゃーんと、自分のことは気ぃくばってたいせつにしなくっちゃ。おれもさ、そう思って、こんな所でひとりでくらしてるのよ。さびしくって、涙ぽろりってこともあるから、えらそうなことはいえねえけどな」
ノラオさんはいせいよくいいながらも、すこしの間、空を見上げました。その目はなにかをさがしているように見えました。
ジジはじわーっと体があたたかくなっていくように感じました。今までいつもジジはキキの猫でした。キキはそうじゃないわよ、っていうかもしれません。でもジジはいつもそう思っていました。だから「あたしの、猫ちゃんに、なって」っていわれたとき、あんなにどきどきしたのです。
(キキはときどき「わたしの猫」って、持ちものみたいにいうけど、それは仲よしだってことなんだ)とジジは思いました。(だからけとばされてあんなに腹が立ったんだ。あのとき、キキとどうどうとけんかをすればよかった。自分の気持ち、ちゃんといえばよかった)
「おまえ、たいせつな身内いるんだろ? 帰ったほうがいいよ。帰れるだろ?」ノラオさんはジジをのぞきこみました。鼻にしわをよせて、からかうように笑いかけました。「帰れないっていうんだったら、あさってトウモロコシを売りに町に行くから、抱っこして行ってやってもいいよ。降参かい?」
ジジはノラオさんの目を見て、すっくりと立ちあがりました。
(降参なんて……しない)ひとりで帰るつもりです。もっともっと迷子になってしまうかもしれないけど、やってみようと思いました。
「そうか、やっぱり行っちゃうのか。まあ、さびしくなるけどな……。でもみんなそうなんだな。見えない水のしたはにぎやかだと思って、がんばろうぜ」
ジジはノラオさんをじっと見て、心のなかでお礼とさよならをいいました。それからしっぽをくるりっと回し、草の茂みのなかに走っていきました。
キキは目をしばしばさせながら窓のそばに立って、遠くの高い建物が朝日で明るくなるのを見ていました。それからドアをあけ、外にでていきました。家の裏に立てかけてある古い材木をどけて後ろをのぞいてみました。ジジをさがして、きのうの夜もこんなふうになんど見回ったことでしょう。ほうきでゆっくり空を飛んで、夜の町をさがしたりもしました。でもジジはどこにもいませんでした。こんなに長いこと帰らないなんてはじめてです。いくらあたたかい季節でも、夜は海からふいてくる風はつめたいのです。
キキはまた窓辺にもどって、きゅっと唇をかみました。
(足でけとばすなんて、わたしがわるかったんだ。ジジにやつあたりするなんて。でも、あんなにおこらなくたっていいじゃないの。いっしょに大きくなった
キキははっと顔をあげました。「ぼくだって、『あたしの、猫ちゃんに、なって』ってたのまれたんだから」、とジジがいっていたのを思いだしたのです。
(ほんとうに行っちゃったのかもしれない……。でも、まさか……)キキは目をぎゅっとつぶりました。それから、「ジジ、だいすきよ」ってつぶやきました。そして自分のいった言葉にすこし安心して、もういちど、「わたし、ジジがだいすきよ」とつぶやきました。
「おや、どうしたの? ずいぶんはやおきだねえ」
戸をあけてケケがでてきました。キキはびくっとふりむきました。
「すーすー風がはいってくるから、目さめちゃったよ。ふわーあー」ケケは両手をあげて大きなあくびをすると、その手をおろしかけて、「猫ちゃん、いないねえ」といいました。
「夜中にかさこそって床歩く音きこえないと、さびしいよ」
「どこかにあそびに行ったみたい」
キキはいいました。
「ははーん、家出かあ」ケケは口をゆがめて笑いながらいうと、「ほっとけば」といって、部屋にもどっていってしまいました。
キキのほっぺたにすーっと涙が流れました。
キキは窓の近くにすわったまま、その日をすごしました。
ケケはあれからなにもいいません。ただ用事ありげにでかけていき、しばらくするとまたいそいそと帰ってきました。でもキキはいつものようには気になりません。それで、夕暮れ近くなって電話が鳴ったのにも気がつきませんでした。
「キキ、電話よ。おきゃくさん、ちっちゃい子みたいだよ」
ケケが受話器をさしだして立っていました。
「そう」キキは立ちあがると、「はい、すいません」と受話器を耳にあてながらおじぎをしました。
「あの、魔女のおねえちゃんですか? おねがいがあるの。わたしのくもちゃん、もってきてほしいの」
小さな女の子の声でした。あまったれた声のなかに、なにか一生懸命なところがあります。
「くもちゃんって、お人形さんなの?」
キキはききました。
「ううん、まくらなの。ママとパパが旅行にいったから、おばあちゃんのところにおとまりにきたんだけど、くもちゃんわすれちゃったの。わたし、くもちゃんいないと、ねむれないの」
「そう。いいわよ。おうちはどこ?」
「ちょろんちょろんって名前の噴水のあるとこ知ってる? あのすぐ前の水色のドアのうち。植木鉢のしたにかぎあるから」
すると、声がかわりました。
「すいません。おねがいできますか。わたし、ひざが痛くて、取りに行くことができないものですから。ゆうべはまくらがないってぐずって、こまってしまって」
(わたしとおんなじ……いつもそばにいないとねむれない……)
「はい、おとどけします。お宅はどちら……」
「ひば垣通りの五番地です。おはずかしいけど、草ぼうぼうのうちですから、すぐおわかりになると思います」
「はい、わかりました」
キキはほうきを手にとり、ドアをあけ、すぐ飛びあがりました。風がそでを通してふきぬけていきます。すこし元気になったような気がしました。植木鉢のしたのかぎもすぐわかり、家にはいって、子どものベッドをさがすと、まくらはすぐ見つかりました。くもちゃんという名前のとおり、ふわふわと雲の形をしていました。
キキがひば垣通りの草ぼうぼうの家をさがして、「はい」と手わたすと、女の子はまくらをぎゅっと抱きしめました。
「そんなに、すきなの?」
「うん、くもちゃんは、寝るとき、おはなしをしてくれるんだもの」
「へー、そう、どんなおはなし?」
「いろいろ。いっしょにきく? おねえちゃんも」
「そうねえ、ききたいけど……」
「じゃ、はいって。はやく。くもちゃんはね、いそぐのすきなの。待つのきらいなの」
「でも……」
キキはジジのことが気になって後ろをむきました。するとそばでおばあさんが、
「よかったら、ソラのいうこときいてやってください」といいました。
「まあ、ソラちゃんってお名前なの。ソラちゃんに、くもちゃんですか」
キキはちょっとうれしくなっていいました。
「はやく、はやくぅ、おねえちゃん」女の子は家にはいっていきました。そしてじゅうたんのうえにまくらをおくと、「おねえちゃんもいっしょに寝て」といいました。キキはいわれるままに、小さなまくらのはじに頭をのせ、ソラちゃんとならんで寝ころびました。
おばあさんはうれしそうにうなずきながら、編みものをはじめました。家のなかはしーんとしずかになりました。ソラちゃんはキキの耳に口を近づけるとささやきました。
「ねっ、きこえるでしょ」
「………」
キキにはなにもきこえません。でもきこえないなんてソラちゃんにはいえません。キキはだまってうなずきました。それだけであたりはまたしずかになっていきました。
しばらくすると、ソラちゃんの小さな寝息がきこえてきました。
(帰らなくちゃ。ジジが帰ってきて、わたしがいなかったら……)とキキは思いました。あたりはいつのまにか暗くなりはじめています。キキは、灰色にかわりかけたまわりの空気を、目を細めて見ました。すると、だれかが話しかけている声が、頭のなかからきこえてくるような気がしたのです。つぶった目に、ぼんやりと空を飛んでいるまくらみたいな雲が見えてきました。するとふわふわした雲のひだがとつぜん口のようにぱっかんとあいて、キキに笑いかけたのです。
「ちょっとまた行ってこなくちゃ。いそがしいったら」
くもちゃんはふわふわした声でいいました。
「どこへ」
「ほうぼう、ねむれない子、多いからね。それからねむりたくない子も多いからね」
「わたしんとこにも来てくれないかしら。ちょっといろいろあって、夕べねむれなかったの」
「きみんとこ? 大きい子のところは行かないことにしてるんだ。ややっこしいからね。すぐうたぐるから。でも行けたら行ってやるよ」
くもちゃんは、星が光りはじめた空を、ふわりふわりと飛んでいってしまいました。
キキはいっしょに飛んでいきたくなって体を動かしました。気がつくと、くもちゃんを追いかけるように両手をあげていました。キキはそっとソラちゃんからはなれて、おばあさんに目くばせすると、外にでました。
家に帰ると、キキはまた窓辺にすわりこみました。見上げると、満天の星です。どこにも雲一つ見あたりません。
(くもちゃん、来てくれそうにないな)キキは目立つ星を目でおいながら、こんな夜ときどきするようにいいました。
「いいこと ありそな
いいこと ありそな」
すると、肩のあたりがすーっと楽になっていきました。
(ジジの考えにまかせればいい……ジジはきっとだいじょうぶ)しばらくすると、キキは窓によりかかったままねむっていました。
いっぽう、ジジのほうは、ノラオさんとわかれたあと、まわりを見わたして、いちばん高い丘にのぼっていきました。そしてせいいっぱい鼻をあげて、町のにおいをさぐりました。お日さまの場所も注意深く見上げました。キキとコリコの町にはじめて来たとき、キキがいったことを思いだしたのです。
「南、みなみに行きたいの。南へ行くとね、かならずいつかは海に出るってきいたことあるの」
コリコの町は海辺にあります。(南だ、南に行こう)って、ジジは思いました。あのトラックで来たのなら、何日もかかる遠いところではなさそうです。
ジジはお日さまを見上げて、じっと考えました。ものごころついてから、今まで数限りなく見たお日さまのことを、いろいろ思いだそうとしました。そしてきっとこっちだと見当をつけると、歩きはじめました。日がしずみ、暗くなっても、決めた方向にまっすぐ、まっすぐ歩きました。大きな道にでても、まよわないで、まっすぐ歩いていきました。丘がうねうねつづいても、まっすぐ歩きました。見上げると空いっぱいの星です。キキが星空を見上げて「いいこと ありそな」っていってたのを思いだしました。「いいこと ありそな」ジジもつぶやいてみました。空がうっすらと明るくなったころ、ジジの鼻の穴がぴんと開きました。海のにおいです。ジジは走りだしました。やがて遠く坂のしたにコリコの町が見えてきました。迷子にならないで、ジジは帰ってこれたのです。ジジは、体をしなやかに動かして、歩きつづけました。
あけたままの窓が明るくなって、キキは目をさましました。朝のあわい青い空がひろがっています。キキはまばたきをしながら立ちあがり、窓からのりだして外を見ました。小さな足音がきこえたような気がしたのです。ジジが表通りの角をまがって走ってきます。キキはドアをあけるのももどかしく、外にとびだしました。でもきゅうに立ちどまって、いつもの調子でいいました。
「帰ってきたのね。わたし、そう思っていたわ」
それからジジを抱きあげました。
「ぼく、自分で考えたんだ。自分で帰ってきたんだよ。ぼくが帰ってきてうれしい?」
ジジがいいました。鼻にひょんといつものすじをよせています。それはキキが見なれたジジの顔でした。
「あたりまえでしょ。でもジジ、なんだかきゅうにおとなみたいな体になってる。筋肉がガチガチしてるよ」
キキはいいました。でもその声は、わからないくらい小さくふるえていました。ジジは抱かれたまま、だまってキキのにおいをかいでいました。
「こんにちは」
後ろのほうからはずむような声がきこえてきました。ふりむくと、とんぼさんです。
「こんにちは、せんぱい」
飛行クラブの男の子もふたりいっしょです。
「やだ、せんぱいなんて。でもこんなに朝はやくどうしたの」
キキはいいました。でもちょっといい気持ちです。
その後ろにミミさんもいます。ミミさんはあいかわらずおとなびてきれいです。白のみじかいスカートに、水色のうすいセーターを着ています。キキは足もとを見て、目を見はりました。つるりと光った白いサンダルをはいていたのです。表通りの靴屋さんでしか見たことのないような美しい靴でした。
ミミさんは、キキがこの町に来てまもなく、友だちになった女の子です。詩を書いて、ミミさんがひそかにあこがれていたアイ君にとどけてほしいとキキにたのんだのが、きっかけでした。その後アイ君とはどうなったのでしょう。ミミさんはこのごろはいつも飛行クラブの男の子たちといっしょです。ミミさんは自由に飛べる魔女のキキがうらやましいんだって、ジジはいいます。でもほんとうでしょうか。キキのほうこそミミさんがうらやましいのです。ミミさんは、だれとも、とくに男の子とは、すぐ仲よくできるのです。そしていつでもたのしそう。そんなミミさんを見ていると、キキはいつでも気持ちが競争っぽくなってしまうのです。
「あっ、わりい」ケケが家からでてきました。手にはリュックサックを持っています。
「おや、ジジ、帰ってきたの? あんたのおかあさん、しんぱいしてたよ」ケケはキキに、へへへというように笑いかけました。
「おかあさん?」キキはまゆをひそめてジジを見ました。それから、「おかあさんじゃないわよね。わたしたち、仲よしなのよね、ジジ」と、いいました。
ケケはふんときこえるような息をはいて、横をむいていいました。
「わっ、ミミさん、すてきなおしゃれね、もうばっちり夏してる」
ケケは、もうすっかり、ミミさんと仲よしのようです。
「ありがとう、ケケはいっつもほめてくれるのね」
ミミさんはケケを見て、それからキキをみて笑いました。するとケケはとんぼさんたちのほうを見て、またまたおおげさに声をはりあげました。
「そうそう、あたし、すこしわかってきたわよ。図書館に行ったもんね。勉強したもんね。ようするに、はねになる竹の気分の問題なのよ。気分よくしてやるのよ、かんたんなことよ。まかせてよ、あたし、できるから」
「気分……? へーっ、それってよろこんでる気分?」
とんぼさんがおどろいたようにいいました。
「でも竹の気分の問題なんて、ふしぎな言葉ね」
ミミさんがつづけていいました。
「だって、竹とんぼだってたのしく飛びたいもんね」
ケケはとくいそうに目をぱちぱちさせました。
「なんだかわくわくしちゃうなあ」
ふたりの男の子が顔を見合わせていいました。
「そうよ。わくわく」
ケケは肩をすくめて笑いました。
「さあ、はやく。つくりにいこうよ、せんぱい」
男の子がいいました。
(なーんだ、「せんぱい」って、ケケのことだったんだ)とキキは思いました。
「キキ、行かないの? あっ、そうよね。キキには、飛ぶなんて、歩くのといっしょだもんね。めずらしくないわね。でも、竹とんぼを飛ばすときは、きっと見にきてね」
ミミさんがいいました。
「キキ、期待して待っててね。ほんとうだよ。きっと成功するからね。こんどこそぜったい見てほしいんだ」
とんぼさんが一歩キキに近づいていいました。
「じゃ」
みんな、かるく手をふると、にぎやかにしゃべりながら行ってしまいました。
(わたしだって、いっしょに行きたいのに)キキはむっとしてつぶやいていました。(そんなにうじうじ思うなら、あっさり行くっていえばいいのに)キキはこのごろなにかというとえんりょしてしまう自分にも、文句をいいたい気持ちでした。
みんなの姿が見えなくなると、キキはみょうな気になってきました。
(よろこんで飛ぶなんて、あの子、とんぼさんと同じこといってる)
それからつづいて「まかせてよ、あたし、できるから」といったケケの言葉を思いだしました。
(ほんとうはできもしないのに、できるっていっているのかしら……。それともほんとうに、あの子、できるのかしら……)
ジジのことではやっとしずまったキキの胸が、きゅうにまたざわざわと波打ってきました。
キキは家にはいって、ふっと横を見ました。なにかによばれたような気がしたのです。とたんに、机のうえにおいたままになっている「おわりのとびら」の本が、目にとびこんできました。キキは近づいて表紙をなでました。
(いつまでこの本、ここにいるつもりかしら……)つぶやきながらキキはこれと同じ質問をしてみたい人がもうひとりいると思いました。キキは本を手にとって、またるるるーと指でなぞっていきました。(きょうはあかないわ。いやがっているみたい。まったくかってな本ね)
思わずむっとしたとたん、指が紙の間にすいっとはいって、ページがぱかっとあきました。見ると、前にもまして、紙は穴だらけ、しみだらけです。じっと見つめているうちに、穴のむこうや、しみの間に、とぎれとぎれの言葉が読みとれました。
「千の足が……進んでくる」
「しのび足で」
「ぬき足……」
「さし足……こっちのほうに」
「アメーバのように」
(なに? これ)キキは目を近づけて、一字ずつたしかめました。古いけむりのようなにおいが本からのぼってきます。と、いっしょにたくさんの足がこっちのほうにそろり、そろりと近づいてくるのが目にうかんできました。キキはきゅうにこわくなって、本をとじ、クッションを抱いて、ベッドのうえにすわりこみました。
「あーあ、涙の再会ももうおわりか……」
ジジの小さなつぶやきがきこえてきました。
キキはまつわりつくスカートをけとばすようにして、ぱっぱか、ぱっぱか、大またで通りを歩いていきました。なにかがあるとすぐ弱気になる自分がいやでたまりません。どこか遠くに行きたい気分でした。おくれまいと必死であとをついてくるジジの足音が、キキの気持ちをすこしあたたかくしてくれました。キキはふりむいてジジを抱きあげ、肩にのせると、大きなお店が集まっている、コリコの町でもいちばんにぎやかな通りにはいっていきました。いそがしく夕方の買いものをする人が、ぶつかるようにすれちがいます。話し声や笑い声がいっきにおしよせてきます。するとそんな人ごみをぬって、前のほうから、なにかきこえてきました。
「プウプカ プウプカ プー」
(あっ、プウプカおじさんだ)とキキは思いました。とたんに、くくくっと思わずすこし笑ってしまいました。人の出入りのいちだんとはげしいひまわり通りの百貨店の前で、背の高いおじさんが、ハーモニカをふいています。大きな人なので、ハーモニカが口のなかにすっぽりはいっているように見えます。それなのにきこえてくる音は、「プウプカ プウプカ プー」だけです。
「あいかわらずだね」とジジがささやきました。
ずいぶん長いことこの仕事をやっているのに、このおじさんはこれしかふけないのです。もうすこし練習すればいいのに。
「あんなに毎日ふいてても、いっこうにじょうずにならないなんてふしぎね。あたらしいメロディーが一つでもふけるようになったら、わたし、大きな銅貨、奮発しちゃうんだけど」
おソノさんもあきれていったことがありました。
ところが、おじさんの前においてあるつばがぼろぼろの帽子には、そまつな芸のわりにいつもふしぎなほどお金がはいっているのです。
(へたなのがかえっておもしろがられるのかしら)すこしはなれたところに立ちどまってキキは思いました。(もしかしたら、こんなに人気があるんですよって、自分で入れておくのかしら。それともそばのかごにはいってる、かわいいくまと、うさぎと、犬のぬいぐるみのせいかもしれない)
古くて、うすよごれていても、ぬいぐるみたちは思わず見つめてしまうほどかわいい顔をしているのです。
(すこしは商売のこと考えているんだ)キキはおかしくなって、またちょっと笑ってしまいました。そのとたん、ぴくっと目が、とまりました。同時に肩のうえで「あっ」とジジが小さな声をあげました。ぬいぐるみの犬の目がぱちんとつぶってあいたような気がしたのです。でもそれっきりでした。じっと見つめてみても、もうぴちりとも動きません。
(気のせいだわ)とキキは思いました。
やがてプウプカおじさんは、帰りじたくをはじめました。帽子のお金をわしづかみにしてズボンのポケットに入れると、からになった帽子を頭にのせ、ハーモニカを上着のやぶれているすそでふくと、胸のポケットにさしました。それから、ぬいぐるみのはいったかごをかかえて、歩きだしました。ハーモニカをふいているときと同じように、肩がプウプカ、プウプカ、プーとゆれて歩いていきます。キキもその調子にさそわれて、いっしょに歩きだしました。
「あのおじさん、なぞっぽいと思わない? あんがい御殿みたいな家に住んでいるのかもしれない。ついて行ってみようか」
キキはジジにささやきました。
おじさんはしばらく歩くと、小さなレストランの裏口の戸をあけました。
「おや、もうしまいかい」声がして、コックさんが大きなビンをもってでてきました。
「ほれ、いつもの酒だよ。いいかげんにしなよ、飲むのも」
「ええ、わかってるんですが……いじがきたなくって」
プウプカおじさんはポケットからさっき入れたお金をだしてはらっています。コックさんは受け取りながら、
「きょうはあまりいいもんないよ。肉の切れっぱしがすこし。これでがまんしてもらっておくれ」といって、お酒のビンといっしょに持ってきた小さな紙袋を手わたしました。
「どうも、どうも、よろこびます」
おじさんはおじぎをすると、また歩きだしました。
(やっぱり、御殿なんかじゃないわ。あんなお肉までもらってるんだもの。お金はみんなお酒に消えちゃうんだ)
キキは思いました。
おじさんはせまい道をあちこち歩き、三階建ての建物の地下に通じるすこしゆがんだ階段をおりていきました。そして小さなドアをあけて、体をちぢめてはいっていきました。
「なーんだ」
ジジが、がっかりしたようにいいました。
キキは回れ右して歩きだしました。ひろい通りにでると、すぐ横の道をとんぼさんが、朝いっしょだった飛行クラブの男の子たちとむこうに歩いていきます。高い声でなにかしきりに話しています。
「そうなんだよ。あの子はね、おおげさがすきなんだよ。みんながびっくりするのがおもしろいんだよ」
とんぼさんの声です。
(あの子って……ケケのことだわ)
キキは胸に小石がぶつかってきたような気がしました。
「もしかしたら、うそついてるのかもよ」
ひとりの子がいいました。
「でも……うそって、なんだよ」
とんぼさんがいいかえしています。
「あの子は、竹だって、飛びたいと思っている、だから飛ばしてやるんだって、いうんだよ。竹に気持ちなんてあるわけ? おかしいよ」
「でも、でも、そんなことあるわけないって、君、きっぱりいえる?」
強い調子で反対しているのは、とんぼさんです。
「いえるよ。そんなふしぎなことおこるわけないだろ。ぼくは証明してくれなくちゃ、信じない」
「証明って、どういうふうに?」
「この目で見ないと……」
「でも、目で見えちゃうとつまんなくなっちゃうよ。いろいろ想像しているほうがおもしろくない? あっ、そうだ、目で見ても証明できないものもあるよね。ほら、ぼくたち、キキの飛ぶとこ目で見てるわけだけど、いつでもめちゃくちゃふしぎっぽいよな。ずーっと、ずーっと見ていたくなっちゃう。だからぼく、キキに会うといつもどきどきしちゃうんだ。世界がちがって見えるんだもの。あれって証明できないよ」
「そりゃそうでしょ。とんぼさんはキキにどきどきだもん」
「えっ、なにいってるんだよ、やめろよ」
とんぼさんははずかしそうに友だちの肩をたたいて立ちどまりました。はなれてきいていたキキも立ちどまりました。
「キキ、きいた? とんぼさん、キキを見るとどきどきするって。ご感想は?」
ジジはキキの気持ちをひきたてたくって、しっぽをゆっくり回しはじめました。
「わかんない」
(やっぱりわたし、かわった子なのかな)キキはジジの背中をなでながら、遠ざかっていくとんぼさんをじっと見つめていました。