純君から《会って話がしたい》と言われて欣幸が満ちたのも僅か数秒。ここ数日、然許り暑き陽の下で外出を続けた私には、魑魅魍魎が蔓延る外界に踏み出す体力等露程も残っておらず、苦渋の決断乍ら致し方なく自宅に殿方を招き入れる事にした。本当に難しくて苦しい判断だった。両親が不在かつお姉様も居ない我が家に、清らかなる身上の乙女が一人──嗚呼、間違いでも起こってしまったらどうしよう。げに恐ろしきこと限りなし。
但し私の部屋には入れない。残念。秩序を失した品々が方々で主張してるから無理。期待していたら大変心苦しいんだけど、寝具には辿り着けません。体力は勿論、片付ける気力も此処数年見掛けておりません。琉実の部屋なら──それは流石にね。ばれたら殺される。
さて、《会って話がしたい》のは良いけれど、何の話をするのか……恐らくだけど、昨日の部室でした話の続きだろう。帰り道、明らかに何か言いたそうだったもん。通り掛けにめっちゃ公園見てたし……早く帰ってお母さんに話をしなきゃだったから気付いてたけど知らない振りをした。お母さんと言えば──まぁ、いい。それは純君が来てから。
私も話したい事がある。
連絡する手間が省けた。
着替えやら準備を済ませ純君に連絡を入れると、玄関で待っていたんじゃないかって位の速さで玄関のチャイムが鳴った──開錠済み。框から距離を取って叫ぶ。「開いてるよ」
「お邪魔します……なんでそんな遠くに──」
「早くドア閉めて。冷気が逃げちゃう」
「了解。上がっていいか?」ドアを閉めた純君が、やや強張って言う。
「勿論。あ、リビングね」
「おう」
「私の部屋、期待しちゃった?」
「してない。どうせ散らかってるんだろ?」靴を脱いだ純君がちらと上を見た。
「酷い。私の部屋は散らかってるんじゃ無くて、人が意図的に作り出した無秩序の中に無自覚な規則性がどれほど宿るのか検証しているだけだから」
「人為的に非周期を作り出せたら是非とも教えてくれ」
「それは詰まり、私の部屋に入りたいって事?」
「久しく那織の部屋には入って無いからこの家に存在してるのか観測したい……今の返しはちょっと台詞染みてた。すまん、僕の負けだ。久し振りに入ってみたい」
「どうしたの? 自棄に素直じゃん?」
「僕なりに努力してるんだ」
「にゃるほど。取り敢えずお茶でも飲む?」
テレビの前のソファじゃ無くて食卓の椅子に座る、この慣れてる感じが改めて考えるとちょっと違和がありつつ面白くて笑いそうになる。だって、まだ付き合っても無い、ただ好意を伝えただけの女の子の家に上がった感じからは程遠いのに、何処か緊張して端々に樫みたいな硬さを漂わせるアンバランスさが──きっと、私には新鮮に映った。
「アイスコーヒーもあるけど、どうする? アイスティー?」
見知った風景に馴染めない純君の緊張は、冷えた紅茶には溶けないと思った。
「アイスコーヒーを頼む」
「だと思った」
純君の前にグラスを置いて、私はアイスティーを注いで座る。「それで、話って何?」
「昨日、部室での話なんだが」
やっぱり。「うん」
「那織、僕と──」
「ちょっと待って」
──僕なりに努力してるんだ。さっきの言葉がふっと過ぎった。
「何で止めるんだよ」
私も素直に言おう。未整理の困惑は捨てる。そうじゃ無きゃ公平じゃないよね。
「もし私が考えてる事を言おうとしてるんだったら、別の場所で──こんな日常の延長みたいな状況じゃ無くて、もっと時間を掛けて、もっと言葉を尽くして欲しい。私が『はい』としか言えなくなる様な、そう云うのが良い。意外と少女趣味なんだなって莫迦にしたくなるかも知れないけれど、これでも私なりに色々と考える事はあって、その中には不安めいた感情もあって、琉実に対する複雑な想いもあって──純君が気持ちを割り切れなかったように、ずっと強がってたけど私の中にもそう云う類いの感情があるってちゃんと認識したの。言おうとしてくれた純君の気持ちは嬉しいし、本当の事を言うと、昨日の帰り道だって純君が何か言いたそうにしてたのには気付いてた。でも、その前にやらなきゃいけない事があるの。あ、めっちゃ語っちゃったけど、私が想像してる話じゃ無かったら、どうぞ続けて」
「いや……那織の考えている通りだ」
「そっか、ありがとね。矢鱈に語っておいて違ったら、恥ずかしくて純君を追い出してた所だったよ。良かった、違って無くて」
私の言葉を咀嚼しているんだけど飲み込めない──そんな顔で純君が黙った。
「なぁ、そのやらなきゃいけない事って、僕に関係……あるよな」
「そう、だね。或る側面はそうだし、別の側面ではそうじゃない」
「抽象的な物言いだな……琉実のことか?」
察しがよろしい様で。
「うん、ご明察。琉実がね、もし皆が良いなら合宿行きたいって」
「みんな、無理言ってごめんね」
待ち合わせ場所に着いて開口一番、琉実が手を合わせて謝った。
昨日、「女子だけで合宿の買い物をするけど、行く?」と琉実に声を掛けると、「うん。行きたい。ちゃんと自分の口から亀ちゃんとか慈衣菜に話したいし」と返ってきた。
開幕早々琉実から謝られた慈衣菜と部長は、にこやかに「人は多い方が楽しいし、琉実ちゃんなら大歓迎」とか「行くからにはめっちゃ楽しもうね!」なんて言っていたけど、胸底に秘めた言葉は「本当に良いの?」だろう──二人に琉実の参加の意志を告げた時も、参加の是非は無論話題にならず、文字が費やされたのは心配や憂懼だった。
誰が考えたってそうだ。琉実が参加する道理が無い。横浜の一件がある前ならいざ知らず、どうしてこの状況で──当人不在の儘あれこれ推度した所で仕様が無くて、最終的には琉実が決めたなら何も言わないし、参加自体は嬉しいと云うのが二人の結論だった。
そして先日、純君も概ね似た様な事を口にした……否、そう言うしか無かった。仮に来ないで欲しいと思ったとして、純君は絶対に言わない。少しの気まずさを漏らしただけだった。
詰まり、三人は琉実の自由意志を尊重した。本人が乗り越えるべき苦しさより、意志を。
自分で決めたのに外野があれこれ口を出すのは違う──その通りだし、私もそう思って生きてきた。ただ、明確に言われた訳で無くとも、事実を列挙した前提条件から導き出された断案として、選ばれない経験のある私として、幼い頃から琉実の弱さを知っている私として、「本当に良いの?」を秘めた儘には出来ない。未だに。弱って、苦しんでるのを知ってるから。
お母さんが余計な事を言い出した夜。顔も見たく無くて、お風呂だ何だと一階から聞こえる声を黙殺して籠城を決め込んでいた私の部屋が控えめにノックされた。お母さんが謝罪に来たのか? いや、謝っても許さない。断固として無視したる。徹底抗戦の構えじゃ。何ならハンガーストライキを──あ、ご飯は食べたいかもとか考えてた所に、琉実の声がした。
「那織、いい?」
琉実を断る理由は持ち合わせて居ない。「いいよ」
私が横臥しているにも拘わらず琉実がベッドに寝転んだ。この狭いベッドに二人して寝るのは窮屈が過ぎる──仕方なく身体を起こして壁を背にして座ると、琉実が寝返りを打って、私の膝を撫で乍ら「本当に良かったね」と言った。この前の良かったねとは響きが違って、声が余りにも優しくて、種々の感情が混淆した、不安定な情動が不意に込み上げてきた。
でも、泣いて良いのは私じゃない。遅れて、努めて懇篤に「ありがとう」と返す。
それから暫く、琉実は私の脚を無言で撫で続けた。くすぐったくて手を払いたかったけど、無粋な気がして我慢した──くるくると円を描くように膝蓋骨の上を滑っていた指が止まる。「ねぇ、やっぱりわたしが行ったら迷惑だよね」
犀利かつ炯眼を持った私でも、琉実が何を言っているのか理解出来なかった。余りにも意味が分からな過ぎて、無意味な音の羅列にすら聞こえた。蝸牛神経が信号の伝達をミスったのかと思った──言葉として認識するまでに、世界が三度は生まれ変わったかも知れない。
「……えっと…………それは一緒に行きたいって事?」
「うん。行ってみようかなって……けど、みんなの邪魔したら悪いし、も、もちろん那織と純の邪魔をするつもりもなくて……だから無理にとは言わないし、どうしてもじゃなくて」
歯切れの悪い、舌怠い物言いだった。
「どうして? お母さんに何を言われたの?」
「……お母さんにって言うか……わたしは、ただ、今のままじゃよくないなって思ってて、あれから純と会ってないし、那織ともあんまり話してなくて……でも、それって、わたしが望んでたかたちじゃないっていうか、純や那織だって前みたいに三人で──ごめん、これはわたしの勝手な願望だから気にしないで」
「私は思ってるよ。きっと、純君もそう思ってる。勝手な願望なんかじゃない。琉実なんか関係無いとかもう邪魔だなんて思ってる訳無いでしょ。何言ってるの、お姉ちゃん」
琉実の口から言葉は露聊かも聞こえなくて、唯不規則で断続的な空気を吸い込む音だけが部屋の中に存在した──私は泣きじゃくる姉の頭を撫でる事しか出来なかった。私が掛けようとする言葉は薄氷の上を歩く様な物で、少しでも体重を掛ければ容易く罅が入る──だから琉実が純君と付き合った時、私は琉実の前で泣いたりしなかった。気にしてない風を演じ続けなければならなかった。ただ、今回は違う。演じられる訳が無い。
だって私達は、純君がそれを告げた瞬間、同じ時間と場所を共有していたんだから。
ずっと無言で、琉実が満足するまで、こうして頭を撫で続けるしか無い。私はそうする事しか出来ないし、私以外には出来ない──ごめんね。私の優しさが琉実の優しさに付け込んで苦しめている様な気がしなくもない。もっと突き放した関係だったら、私に恨み言をぶつけられる関係だったら、琉実は弱みを曝け出してまで一緒に行くとは言わなかっただろう。
琉実に負ける積もりは無かったけど、苦しめたかった訳じゃ無い──いや、これは言い訳にしかならないか。こうなる事は昭然だったし、私だった可能性が無い訳でも無い。純君が琉実を選んでいたら、きっと琉実は私の頭を撫でていただろう──絶対に嫌だし、断るけど。
水着売り場に向かうすがら、終始琉実に気を回していた慈衣菜が「るみちーもバスケ部の友達誘えば?」等と意味不明な事を言い出した。そう云う気の遣い方はやめて。
「私達の合宿に野蛮なならず者集団が加わるのは嫌なんですけど」
「ちょっと、うちのメンバーを野蛮扱いしないでくれる?」
「だってそうでしょ? あの蛮族が群れて海に行ったら、絶対に荒らすじゃん。どうせ漁協みたいな概念を知らないだろうから、その場の勢いで『獲ったどー!』とか騒いで勝手に海産物を乱獲した挙げ句その場で貪り尽くして、お腹が一杯になったらそこ等を歩いてる性欲で目が血走った男共に色目を遣って金品を巻き上げて──」
「バカっ! そんなことするわけないでしょっ! もういいっ、絶対呼ばないっ!」
ふ。単純な女よの。こんな簡単な煽りに乗りおって──ってのは建前で、私と琉実がこれ位の言い合いをしている方が気を遣わないでしょ? いや、本当に建前だから。
「言ったね。絶対に呼ばないでよ? 呼んだら口に出すのも憚られる様な辱めを──ふぎゃ」
何っ! 痛いっ──部長!? 殴ったね? 「この私に手を上げたね?」
「今のは先生が悪い。琉実ちゃんをいじめないの」
部長が琉実に抱き着いてあやすように摩る──調子に乗った琉実も「亀ちゃん……那織がいじわるしてくる」とか言って、茶番を演じ始めた。何これ。めっちゃ腹立つ。
「さ、こんな性悪ぬめぬめなめくじさんなんか置いて、行こっ!」部長と琉実が歩き出した。
仕方ない、ここは私が大人になってやろうじゃないか。誰がどう考えても私は皆から好かれ愛される心優しき善い者なんだけど、今日だけは悪者になってやんよ。
二人の後を追い掛けて──でも、やっぱ納得いかないっ! 閑却出来ないっ!
「慈衣菜ぁぁぁ、性悪ぬめぬめなめくじさんは酷くない? 酷いよね? 有り得ないよね?」
「にゃおにゃお、お疲れさま。全部わざと、でしょ?」
慈衣菜がふっと笑った──金髪オフショル聖母じゃん。
「私の味方は慈衣菜だけみたい」
「でも、ちょっと言い過ぎかな」
「はいはい。私が悪うございやした」
「エナこそ、余計なこと言ってごめんね」
「良いよ。そっちこそ琉実の為、でしょ?」
「るみちーが入れない話題で盛り上がったとき、寂しいかなって」
「分かってる。でも、バスケ部連中はちょっと嫌かな。私が楽しめないから」
「わかった。ただ……るみちーも一人くらい誘った方がよくない?」
「そうなんだけど……私を見下して来る様な人は来て欲しく無い」
「誰もにゃおにゃおを見下してなんかないって」
「あのバスケ部連中は絶対莫迦にしてる。前にファミレスで一緒になった時、どれだけ辛酸を嘗めさせられた事か──あんな感情と勢いだけで生きてる様な、文化的で理知的な振る舞いとは対蹠にある人達と行動を共にするのは嫌なの」
「なんかよくわかんないけど、にゃおにゃおがそうゆーなら……でも、るみちー可哀そう」
何その顔。そんな顔でこっち見ないでよ。私が悪いみたいじゃん。善い者なのに。
「まぁ……一人位なら良いかもだけど」
「にゃおにゃおならそう言ってくれると思った……ねぇっ、あの子はどう?」
立ち止まって、慈衣菜がぱんっと手を叩いた。
「……あの子?」
「ゆずゆず。るみちーの後輩」
えぇぇぇぇぇぇぇぇぇー。鬱陶しくて嫌なんですけど。
「そんなあからさまにイヤな顔しないでよー。ゆずゆずならにゃおにゃおのことバカにしたりしないって。エナ、あれからたまに連絡とったりしてるから大丈夫」
「可愛い子と話したいだけでしょ」
慈衣菜は可愛い女の子に対して貪欲……貪欲と云うか、只管撫で回して猫可愛がりをしたいみたいな感じが凄くある。次元を問わず可愛い女の子が好きでアイドルの動画とか数多度観てるし、どちらかと言えば部長もそう云うタイプなんだけど、慈衣菜はちょっと違ってて、何て言うか部長とは熱量とか入れ込み方が違う。部長は男キャラでも可愛いとか言って愛でるタイプで──詰まりは可愛ければ何でもありみたいな文字通り満遍無くって感じだけど、慈衣菜は女の子にしか反応しない。例えば部長はBLも大好物だけど、慈衣菜はBLには興味が無いし、BLよりは百合という感じで、女子がいちゃいちゃしてる物をより好む印象がある──常に可愛い女の子が優先と云うか、それしか眼中に無いって感じ。
アニメやアイドルの女の子を可愛いと思う感覚は私にもあるけれど、そこに熱量や思い入れは無いし、慈衣菜に比べるとあっさりした可愛いでしかない。何となくだけど、私は自分のカテゴライズが可愛いに寄っていて、慈衣菜は綺麗に寄っているから可愛い女の子に目が無いのかな、と思うようになった。自分に無い属性だから気になる、みたいな。雑誌の写真とか見ると、慈衣菜って大人っぽい恰好や表情ばかりだし──ただ、私達と一緒になって笑いながら騒いでる慈衣菜は全然そんな事無い。同じ年齢の、同じ空間に存在している女の子。それに、慈衣菜の根底には、お父さんだったりお兄ちゃんの影響があるから、女の子がわちゃわちゃする系じゃ無いアニメや昔の映画も観てたりして、それはそれとして楽しんでるのは伝わって来るし、話していて「あ、それも知ってるんだ」ってなるのが嬉しくて、楽しくて、ちゃんと同じ共通言語を持っていて、文化体系が近いから安心する。
「あ、バレた?」
「ばればれ。てか、ああ云う小生意気なタイプも好きなんだね。慈衣菜って、もっと女の子女の子している感じの方が好きだと思ってた。推しのアイドルとか、基本そうじゃん?」
黒髪で純真無垢そうな、小顔で小柄な小動物系の子。私からすれば、腹の中ではどす黒い事考えて完全にやりにいってる様にしか見えないタイプ──うん、完全に黒。全部計算。絶対やりにいってる。身近に小顔で小柄な女子のサンプルが居るけど、超真っ黒だもん。そのサンプルを基準に考えれば、完全にダークマター。ま、私は天然だけど。計算とかしないし。
「ふふ、にゃおにゃおもまだまだだねぇ」慈衣菜が緩んだ口を押さえながら、眦を下げた。
「何、その言い方」
「ううん、別にぃ。ただ、まだまだエナのことわかってないなぁって」
「ふーん。じゃあ、慈衣菜は私の事、分かってる?」
「そりゃもう身体の隅々まで」
「……言い方がえろい」
オフショルのえろ聖母め。
「だって一緒にお風呂に入った仲じゃん」
「それは……慈衣菜が勝手に入って来たんでしょ?」
「あの時はにゃおにゃおが弱ってたし、一緒にいてあげなきゃって思って」
まだ夏休みに入る前、学校を早退して慈衣菜の家に泊まったあの日──お風呂で身体を洗っている最中、遠慮がちに少しだけ開いたドアの隙間から「一緒に入ってもイイ?」と声を掛けられた。あとは身体を流すだけだったし、浴槽は二人でも十分過ぎる程広かったし、一宿数飯の恩義もあるし──慈衣菜だったら良いか、と承諾した。
私の「良いよ」を聞くや否や矢庭に一糸纏わぬ姿で入って来たのには思わず笑った。どんだけ一緒に入る気なの? 訊いてる段階で既に脱いでるじゃんって云う──私が断ったらまた服を着たであろう事を考えると、変に抜けてる所が慈衣菜らしい。
「それで言えば、私だって慈衣菜の体は隅々まで知ってるけどね」全身脱毛済みとか。
「確かに。てか、ずっと訊きたかったんだけど、この前泊まった時はなんで一緒に入ってくれなかったの? めっちゃ断ってきたじゃん? りりぽんがいたから?」
「だって慈衣菜、矢鱈と人の身体を触って来るじゃん。お風呂でがっつり胸揉まれたの、忘れて無いからね。衝撃的過ぎてイップスになるかと思った。初めてだよ、他人にあそこまで触られたの。部長でも精々巫山戯て突いて来る程度だったのに──部長が居る前であのノリ出されたら、絶対二人して調子乗って来るもん。おもちゃにされるのが目に見えてる」
お酒を飲むようになったら、慈衣菜は酔ってキスしてくるタイプ。絶対そう。
「……にゃおにゃおだって触ってきたじゃん」
「先に慈衣菜が触ってきたからでしょ。もう、そんな事どうでも良いから水着買うよっ!」
水着が並ぶ季節物特設コーナーは流石夏休みと言うべきか、若年の女子グループがそこかしこに居て、先に行った琉実と部長を見付けるのに手間取った。人波の狭間で水着を見ている二人に近付くと、部長がギンガムチェックのワンピースタイプを手に取って身体に当てている所だった──フレアが多めの、露出が少なく体型を覆うには丁度良いデザイン。
「やっといた~。平日なのに人多くない? あ、そのワンピースかわいいっ」
慈衣菜が私を追い越して、部長の腰に手を回して抱き着いた。
「うーん、かわいいんだけど、ちょっと子供っぽくないかな?」
「そんなことないよ。慈衣菜もカワイイって言ってるし」と、琉実が後押しをしたので、私なりに言葉を重ねる。「ちょっと子供っぽい位が可愛くて良いんじゃない? そう云うデザイン、部長には合ってると思うよ」そう発した私の言葉に悪意なんて無くて、素直に思った事を言っただけなのに──私の言葉を歪んで拾った部長が、睨め付ける目で下から煽って来る。
「先生、どういう意味?」
「もう、何で悪い意味に取るの? 悪意ゼロで言ったんだけど」
「悪意ゼロ? 先生が? ディスり式部なのに? 何だっけ、あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのディスることもがなだっけ?」
「うるさい。何なの、ディスり式部って」まさか和泉式部もそんな捩り方されるとは思いもしないだろう──けど、ちゃんと韻を踏んでるのが悔しい。あと、いまひとたびのディスることもがな、個人的には結構好き。「それよりその水着、真面目に可愛いと思うよ。ワンピースタイプだったらあんまり肌出ないし、教授が居る前でも着られるんじゃない?」
「今、先生から言われるまで教授君のこと、すっかり忘れてた」
部長が首を傾げてやっちゃったみたいな顔したのを皮切りに、琉実までもが「そう言えば、森脇も居るんだっけ。今の今までわたしも頭になかった。普通に女子グループで海に行くテンションだった」と言って笑った──ようやっと、笑った。
皆でひとしきり笑い合った後、部長が「私、これにする」と言った。
「琉実は良いの有った?」
「んー、まだ迷ってるんだよね。ぱっと見た中だと、ひとつはこれで──」ちょっと先のラックに掛かっている、赤いストラップとリボンが付いたトップにスカートを合わせた紺の水着を手に取り、「もうひとつはこれ」と、胸元にフリルが付いた水色のビキニタイプを掲げた。
「あー、どっちも悪くない」
「でしょ? 慈衣菜はどう思う?」
「これは難しいなぁ。るみちーにはどっちも似合うと思うんだよね。うーん、こっちは胸のリボンかわいいし、こっちのフレアも捨てがたい」
二つの水着を見比べて思案する横から、既に買う水着が決まって余裕綽々の部長が私の肩を叩いてきた。「先生はどんなのが欲しいの? やっぱりスリングショット?」
まだ言うかっ!
「そんな水着、此処には置いてないでしょ。てか、要らない。ポロリ必至じゃん」
耳元で背伸びした部長が囁く。「(白崎君にポロリアピールできるよ?)」
「ばかたれ」
純君だけならまだしも、どうして衆人環視の中でぽろりしなきゃいけないの。大体、あんな紐みたいな水着、ぽろりしてなくても色んな物がはみ出そうで着られたもんじゃない。
「先生なら乗ってくれると思ったのに……じゃあ、マイクロビキニにする? 眼帯?」
どんだけぽろりさせたいの? 「着ません」
琉実の相手は慈衣菜に任せて、私も自分の水着探さなきゃ。さもないと部長にスリングショットを着させられてしまう──あんな紐みたいなV字水着、冗談じゃない。
さて、どんな水着が良いだろう。純君の前で着るんだから、妥協はしたく無い。
此処は王道の白? 白だと、このストライプ可愛いなぁ。ボトムは紐結びか。脚が長く見えそうで良いな。あ、こっちのホルター・ネックも可愛い。うーん、ホルター・ネックの方が胸が寄せられるし、谷間も綺麗に出来るよね。視線も誘導しやすい──そう考えると、琉実みたいに色味の強い水着の方が肌とのコントラストが……ああっ、選択肢無限過ぎない?
「迷ってらっしゃるようでございますなぁ」
「迷うに決まってるって」琉実はまだ慈衣菜と喋ってる──「純君に見せるんだよ?」
「まぁ、そうだよね。取り敢えず今の候補はどれ?」
「白だったらこれかなぁ」丁度見付けたホルター・ネックとタイサイドの組み合わせで、白地にピンクの花柄。かなり好みだけど──「白以外も気になってる」
「確かに先生が白ってのはちょっと意外。でも、これは可愛いね」
「ありだよねー。ちなみに、白以外だったら何色が良いと思う?」
「琉実ちゃんの水着候補が濃いめの色だし、薄めのピンクとかオレンジはどう?」
「にゃるほど」
「んーと、これとかどうかな? 形はさっきのに近いよ」
部長が薄めたカーネーションピンクみたいな色の水着を持って来て私の身体に当てる。上下共控えめなフリルが付いていて、ホルター・ネックにタイサイド。「可愛い」
これにしようかなってレベル。
「でもさ、さっきの花柄も捨てがたいよね」
「分かる。気持ちはこっちに傾きつつあるんだけど、改めて見ると白も悪くない……よしっ、琉実と慈衣菜にも訊いて──もしかして純君に訊いた方が良かったりする?」
「サプライズで見せるか、事前に選んでもらうか──またしても難問ですなぁ」
「部長が純君だったら、どっち?」
「えー、私に託さないでよ……男の子的にはどっちが良いのかな。いきなり水着姿の方がインパクトはある? ただ、漫画とかアニメだと、一緒に水着を買いに行って試着してドキドキするって定番だし……けど、先生と白崎君でしょ? 白崎君がそんな露骨にどぎまぎするとは思えないし、普通に『そっちの方が似合うんじゃないか』とか言いそうなんだよね。それに一緒に選ぶ以上、その水着に対するインパクトは薄れそうだし、もし試着したとして、どうせなら蛍光灯の下より、太陽の下かつ海で初披露の方が周りの浮かれたテンションも含めてドキドキしそうな気がする……分かった、私的にはサプライズ」
「たしかし。説得力ある」超納得した。
私に託さないでよとか言う割に、めっちゃ考えてくれる部長、やっぱり好き。てか、何気に純君の解像度高くない? そこも含めて、流石は我が部の部長。
「私の意見、合ってた?」
「完璧。部長の言う通りだと思ったもん。うん、この場で買う──で、どっちが良い?」
「えっと……琉実ちゃ~んっ! 早くこっち来てっ! 先生がめんどくさいのっ!」
「めんどくさいって何っ!? どっちが良いか訊いてるだけじゃんっ!」
琉実と慈衣菜も合流してわちゃわちゃした結果、更に選択肢が増えたけれど、部長が選んでくれた水着に決めた。試着してサイズも慈衣菜に見て貰ったし、皆が口を揃えて可愛いって言ってたし、何より私もこれが一番可愛いと思った。
買いに行く前は「水着はあるんだよねー」って言っていた慈衣菜も、水着を買ってはしゃぐ私達が羨ましくなったみたいで「エナも新しく買おっ」と、幾つか見繕った中からシルエットはシンプルで大人っぽいんだけど、トップは白地に黒ドット、ボトムに白と黒のボーダーが入ったちょっと可愛めの水着を選んだ──この水着に至るまで、慈衣菜はモデルだからどんな水着でも似合うんじゃないかって態と変な水着を持って来たりして、最終的に子供用の水着を当ててみたりした。そこまで行くと、似合う似合わない以前に丈が足り無さ過ぎたりして。
サンダルとかの小物も見て、リボンが付いた麦藁帽子を見付けた慈衣菜が部長に被せて「白いワンピース着たら完璧」って盛り上がる横で、「海辺で麦藁帽子に白のワンピースって、余程自分に自信が無いと出来なくない? 分かっててそれ選んでるよね的な所無い?」と茶々を入れると、部長が「確かにアイコン化し過ぎてるから、敢えて外したいまであるかも」なんて同意しつつもしれっと麦藁帽子を買ったりして──終始何しに来たのか分からない位盛り上がった。漸く会計を済ませた後、「ちょっとお手洗い行ってくるね」と言って離れた琉実に、「私も行ってくる」と続く──そっと琉実の隣に並び、近過ぎない距離で不愛想かつ興味無い風の冷淡な声で「どう? 楽しくなって来た?」と言葉を投げた。
「うん。ありがとね」
「そいつは結構」
一切の感情を封殺して会話を終わらせる積もりで言ったのに、隣で琉実が俯いてくすくすと笑い出した。小馬鹿にしてるみたいな、口に手を当てて小さく笑う仕草が妙に腹立たしい。
「何笑ってんの?」
「……だって、凄い……優しいから」
はぁ? 人の気持ちを何だと──こまっしゃくれた小娘め。制裁じゃ。『スタンド・バイ・ミー』のリバー・フェニックスよろしくお尻を蹴ってやる。ほれっ!
「痛っ。なんで蹴るのよ」
「著しく気分を害した」
「ちょっと見直すとこれだ。ほんとに素直じゃないんだから」
「お互い様でしょ」
「何がお互い様よ。ていうか、今さらだけど海行って大丈夫なの?」
「どう云う意味?」
「ろくに泳げないじゃん。小さい頃だって、波が怖いってよく泣いてたし」
「ミロクンミンギアが泳いでいた様な五億年以上前の話を蒸し返さないでくれる? そもそも足が付かない程深い所には行かないし。もし行ったとしても、海なら浮くでしょ?」
浮き輪持ってくし。誰がそんな無策で海に入るもんか。
「みくろ……何? 意味わかんない。ま、那織の場合、海じゃなくても浮きそうだけどね」
「喧嘩売ってる? それ以上言ったら沈めるよ? 深く静かに潜航して貰うからね」
鎖でぐるぐる巻きじゃ。沈めっ! 肺に残った空気? 腐敗ガス? 知らん。
「冗談だよ。ごめんって……本当にありがとうね。純の相手が那織で──那織だからこそ近くて辛いんだけど、近いからこそわたしは嬉しい」
琉実に掛ける言葉を探すのは一旦終わり。だから黙った儘、歩みも緩めない。
「るみちーさ、ゆずゆず誘ってみたらどう?」
ご飯と云うよりはデザートのケーキがメインのお昼を堪能して一息ついた頃、慈衣菜が例の話題──ミス・マープルの話を始めた……え? あれ、冗談じゃなかったの?
「ゆず? どうしてゆずが出てくるの?」
「ほら、さっきバスケ部の友達呼んだらって言ったじゃん? ゆずゆずならにゃおにゃおと面識あるし、にゃおにゃおのことを悪く言ったりしないからどうかなって」
それ、慈衣菜の前だから私の事をあれこれ言わないだけで、絶対裏で言ってる。あの小生意気な娘っ子が黙ってる訳無いって。初手の態度見れば瞭然じゃん。あんなに気の強くて生意気な小娘が慈衣菜にちょっと言われた位で大人しくなる筈が無い。買い被り過ぎ。てか、慈衣菜は女子に対して甘すぎるんだよ──なんて、大人な私は口には出さないけど。
「わたしのことは気にしないでいいよ。大丈夫」
「ほら、琉実がそう言ってるんだから。ね? それにミス・マープルだって、周りに先輩しか居ない状況は緊張するでしょ?」絶対しないだろうけどねっ!
「そうかなぁ」慈衣菜が部長に話を振る。「りりぽんは会ったことないんだっけ?」
「古間先輩の妹さんだよね? 私は話に聞いただけで会ったことないよ。えっと、例の如く先生がだる絡みして困らせちゃったって聞いたけど、認識合ってる?」
「合ってないっ! だる絡みして来たのはあっちっ!」
「と、スタジオディスりの代表が仰っておりますが……琉実ちゃん、本当はどうなんです?」
こんのぉ、お胸がホビットの口悪女めっ! 何がスタジオディスりだっ! 謝れっ!
苦笑混じりの琉実が「うーん、どっちもどっち、かな」と言った。
「どっちもどっちじゃ無い。明らかに向こうから仕掛けて来たでしょ。一緒に居たよね? 何を見て、何を聞いてたの? 特定の可視光とか波長域が遮断される機能でも付いてるの?」
「まぁまぁ、先生。ここは私の顔に免じて落ち着いて下さいまし」
「部長が始めたんでしょ。ったく──で、慈衣菜。呼ばないで良いよね?」
「うぅ……だめ?」下唇をむにっと突き出して、慈衣菜が眉間に皺を寄せる。
「可愛く言っても駄目」
「ゆずが来たいって言ったら、で良いんじゃない? わたしはゆずのこと嫌いじゃない……っていうか、普通にかわいい後輩のひとりだし、あれでも根はいい子なんだよ」
「知らない。勝手にすれば。但し、慈衣菜と琉実が責任以て面倒見るんだよ?」
私は徹頭徹尾関知しないから。純君の相手で精一杯──ミス・マープルが来るって知ったら、純君も嫌がるだろうなぁ。止められなくてごめんね。
ただ、来るなら来るで言っておかねばならぬ事がある。「部長、もしミス・マープルが来る事になったら、ちゃんと挨拶しておくんだよ。愛しのマープルの妹なんだから」
「え? 亀ちゃんって、ゆずのお兄さんのこと──」
「違う違う違う。そうじゃなくて……先生が勝手に──もうっ、何言ってるのっ!」
あらあら、取り乱しちゃって。なんとも可愛らしいじゃありませんか。雅量で心の広い私はこれ位の仕返しで許してあげるわ。総てが小柄なホビットさん、どうか心に留めておいて貰えるかしら。人間の素晴らしい所は、他人の咎を許せる所なの。
「膨れっ面の部長は置いておいて、買い忘れた物ってもう無い?」
「うーん、水鉄砲とか?」
水鉄砲? は? 慈衣菜を見遣ると真面目な顔をしていた。どうも本気の発言らしい。
「水鉄砲、要る? 雑誌の小物に影響され過ぎてるんじゃない?」
「え、わたしは普通にアリだと思ったんだけど──楽しそうじゃない?」
琉実まで乗っかるの? 水鉄砲だよ? 高校生にもなって?
琉実に振られた部長は案の定あんまり乗り気じゃない風で、「皆が買うって言うなら別に良いけど……」と言った後、「それよりも花火じゃない?」と俊邁な事を口にした。
それだっ──「部長、天才」
「えへへぇ。でしょ?」
「うん、亀ちゃん冴えてる。花火は買わないとだね」
「よし、そうと決まれば水鉄砲と花火を買おーっ!!!」
慈衣菜がそう言って立ち上がった。
あ、水鉄砲買うんだ。別に良いけど──どうせ買うならGAU─8みたいなガトリングガンが良いな。砲台に固定してぱやついた人間を一人残らず海に沈めたい……いや、幾ら水とは言え三〇ミリはただじゃ済まないか。仕様が無い、七・六二ミリで我慢しよう。
連射出来る花火もあるかな?
欲望の限り散財した帰り道、頼もしき多銃身の覗くトートバッグを抱え直し乍ら「買い物、誘ってくれてありがとね」と、バスケの試合を終えた後みたいな顔で琉実が言った。
「それを言うなら、お金貸してくれてありがと」お陰で水鉄砲戦では独り勝ちが確定した。
「持ってくれてありがとうもでしょ──別に良いけどね。超楽しかったから。なんかさ、あの日以来、心の底から笑えたことなかったんだけど、今日は久しぶりに笑った……あ、別に変な意味じゃなくて。ごめん。そういうつもりじゃなかった」
もう夕飯になるかもって時間だけど、日光はまだ世界の隅々に零れ落ちている。ほんのりと影を落とした琉実の表情は、上手く光を捉えられていない。
「そんな事で謝らないでよ。安心して、琉実が純君と付き合ったって聞いた時、私もそうだったから。だから、うーん、そうだね『主が、人間に将来のことまでわかるようにさせてくださるであろうその日まで、人間の慧智はすべて次の言葉に尽きることをお忘れにならずに。待て、しかして希望せよ!』ってとこかな。私が言うと、嫌味っぽいけど嫌味じゃないよ」
「しかして希望せよ、か。それは誰の言葉なの?」
杞憂だった──きっと今の琉実は大丈夫。私の考え過ぎだ。
「デュマの『モンテ・クリスト伯』。嫌味っぽくても良いなら、オースティンの『女の子は、結婚がなによりもお好きだが、たまにちょっと失恋するのも、わるくないと見えるね』ってのはどう? これはちょっとセンシティヴ過ぎて悪意感じる?」
「那織に言われると……うん、それはちょっとイラっとする」
「そんな意図は無いけど、ごめんね」
暫くは優しくしてあげるけど、ずっと優しくしてはあげないからね。今日はまだ、世界が今より広くて大きかった、恋も悪意も知らない幼気な頃より慈悲深く対応してあげる。
「いいよ。わかってるから──それより、慈衣菜、あのあと速攻でゆずに連絡してたっぽいけど、もしゆずが来たとしても喧嘩しないでよね?」
「琉実と慈衣菜がちゃんと手綱を握ってくれればね。努力はする」
「この前のは……わたしも思うとこあるけど、ああ見えてゆずは素直で真っ直ぐで、決して悪い子じゃないし、ちょっとやり過ぎなとこあるけど、許してあげて」
「そのやり過ぎな所と、素直が故に思った事をそのまま口に出す所を直した方が良いって先輩様の口から伝えておいて。部長がマープルとお近付きになった場合、あの妹と絡む機会がありそうだし──不本意極まりないけど」
「ね、それ。亀ちゃんはああ言ってたけど、本当にそうなの?」
「うん。何て言うの、余り感情の起伏が無くて、よく言えばクール、悪く言えば他人に興味が無くて自分の世界を壊されたくない冷徹な変わり者が好きみたい。将来苦労するだろうね」
「悪く言った部分、まるで那織みたいね」
「やめてよ」
「だとしてもだよ、本当にそうなの? 那織が勝手に言ってるだけだと可哀相だよ?」
「私が勝手に言ってる訳じゃなくて──結構前の話だけど、部長がデートに行ったって言ったじゃん? ほら、美術部の先輩と。その人も落ち着いてる系の雰囲気だったんだけど、一緒に出掛けてみたら子供っぽくて冷めたって話あったでしょ? そう云う人間味が見えるとアウトみたい。部長もとことん変わってるよね。そんな訳で、マープルは簡単には動じなさそうで良いかもって本人が言ってたの。二人で話してた時、ね。だからさ、マープルの妹が来るのは本当に嫌だけど、本気で止めなかったのはそう云う理由もあるの。琉実も知ってた方が齟齬が起きないかなって思って、意図的にあの場で言った。これで良い?」
「わかった。そういう話をしてた上で、なのね」
「部長、自分の事になるとすぐ照れるから」人の事はずけずけ言う癖に。
「なんか、那織もちゃんと友達のこと考えてるんだね。感動してしみじみしちゃう」
「私を何だと思ってるの?」
「だって……ううん、そうだね、今のはわたしが悪かった。変なこと言ってごめん。こう見えて優しい子だって、わたしが一番わかってるはずなのに」
「さっきから何? 気持ち悪いんだけど。私に何かねだる気? お金なんか無いよ?」
「もう、そんなこと言わないでよ。人がせっかく素直に言ってるのに」
「はいはい──それよりっ!」
「ん?」
「明日、お風呂一緒に入ろうね」
「なんで? 珍しいじゃん」
「何、もう忘れたの? 水着買った後、琉実が言い出したんだよ?」
「え? なんか言ったっけ……あっ、思い出したっ!」
大声を出して、琉実が歩みを止めた──そして今度は、小さな声で。
「うん、一緒に入ろう……わたしのもお願い」
夕飯の後、食卓の椅子に座ったまま、詰まらないテレビを網膜に映す作業を淡々とこなしてお父さんが居なくなるのを待つ──なのに、こう云う時に限って、矢鱈と私に話し掛けて来るのが本当にうざい。早く居なくなって欲しいのに、早くお母さんと琉実の三人だけで話したいのに、「『惑星ソラリス』は観たことあるか?」だの「この前買った本が面白かったから、那織も読むか?」だの、全っ然興味無い話を延々としてくる。私が適当に相槌打ってるのを察して、早々に引っこんで欲しい。どんだけ娘に構って欲しい訳? 超うざい。
琉実は琉実でお母さんと話してて助け舟を出してくれない。
余りにもしつこくて構って欲しいアピールが酷いから、「どんな本なの?」と訊いてしまったが運の尽き、それから暫く本の話をされて逃げ時を失った──でも、百合のSFアンソロジーは普通に面白そうと思ってしまったのが悔しい。一頻り喋って満足したのか、年頃の娘相手に百合を語った父親は「さて、ドラマの続きを観るか」とリビングを出て行った。大仰に階段を上る足音に遅れて二階から扉の開閉音がした──漸く解放された。はぁ、長かった。
琉実とお母さんに向き直り、会話の切れ目で「ねぇ、泊まる所なんだけど、一人増えても大丈夫かな?」と質す。二人の会話の内容的に、琉実はまだ訊いてないっぽい。
「一人くらい大丈夫じゃない? 増えるの?」
「まだわかんないけど、一応確認」琉実が私を見る、言葉を添えて。「だよね?」
母親の前で、私達だけの共通話題がある事をきちんと提示する。私達が子供の頃から、例えば喧嘩した時、もう仲直りしているのにお母さんから変に気を遣われたりするのは嫌だから、それとなくもう解決している事を伝えるやり方。こうやってコミュニケーションをとっておけば、お母さんは私達の仲を心配しないし、詮索もされない。
「うん」
「ところで、その泊めてくれる人ってお母さんとはどういう関係なの?」
琉実が会話の谷間を埋めて行く──私も促す。「友達が民宿やってるとしか聞いてない」
詳細を訊こうと思った矢先に例の琉実への暴露事件が有って、今となっては解決したから良いんだけど、その後もなんやかんやでお母さんと落ち着いて話せて無くて、聞けたのは民宿の名前だけだった──てっきり和風の名前かと思いきやVagueletteなんて洒落た名前で、しかもまだオープンしてないらしく、ネットで検索しても引っ掛からない謎めいた民宿。
今日こそ落ち着いて話を聴く。帰り道、琉実と決めた事の一つだった。そして、そんな話をするからこそ、お父さんが邪魔で仕方なかった──早く三人で話したかった。
出掛けるの、明後日だし。
「細かい話、まだだったね。まず、その友達っていうのは正確には後輩。菜華って言うんだけど、昔からサーフィンやっててさ、それで亡くなったお祖父さんの家を改装して、サーファー向けの民宿を始めるって話だったんだよ。前にそんな話を聞いてたから、もしかしたらと思って連絡してみたの。そしたらさ、オープンまであと一歩ってところで徹が──徹ってのは菜華の旦那ね、その徹がバイク事故で入院しちゃったみたいなのよ。内装なんかは徹が自分でやってたから作業が止まっちゃって。だから退院するまではプレオープンって形で、馴染みの相手にしかお店開けてないみたい。七月のこんないい時期にもったいないよね」
「え? それ、わたし達が行って大丈夫なの?」
琉実の疑問はごもっとも。私も同じ事思った。
「それは大丈夫。お父さんには言い辛い話なんだけど、徹は昔付き合ってた人の友達で、何度か遊んだこともあったし、それなりに知ってるの。それで徹とも直接話したんだけど、事故で入院って言っても、骨折ったくらいだから大騒ぎするほどじゃないって」
骨折った位って、まあまあの怪我じゃない? 元ヤン基準だとそんな扱いなの? 怖っ。
「じゃあ、明後日はその菜華さんって人が居るってこと?」
私としては〝昔付き合ってた人〟を深掘りしたい所だったんだけど、琉実が真面目に話を進めるから黙らざるを得ない──昔付き合ってた人、絶対にヤンキーでしょ。その徹とやらもバイク事故って言ってたし、登場人物全員ヤンキーで間違いないって。アウトレイジじゃん。
「そ。百井菜華。芸能人みたいな名前だよね。旧姓は山田だったから、よく仲間からダサいかとか言われてたのに、いきなり百井だからね。私なんて藍野から神宮寺だよ?」
「何、お母さんって今の苗字好きじゃないの?」
「だって、なんかいかつくない?」
「……厳ついって言葉、久々に聞いた。厳ついかなぁ? 琉実はどう? 嫌い?」
「わたしは自分の苗字、好きだよ」
「私も嫌いじゃないかな。藍野も良いけど──そっか、離婚したら藍野那織になるのか」
藍野那織。ふむ、悪くない。
「何、お父さんじゃなくて私に付いて来てくれるの。嬉しいじゃない」
うぐっ──て云うか「お父さんに付いて行くって考え、ナチュラルに無かった」
「那織、それはひどくない?」
「じゃあ、琉実はお父さんに付いて行くんだ」
「……いや……お母さんかな」
「一緒じゃん」
「仕方ないなぁ、そこまで言われたら愛娘達に追加でお小遣いあげなきゃいけないじゃん」
なぬっ! 「お母様、奈落の底まで付いて行きます」
「那織が言うと、全部が噓くさいんだよなぁ。ま、いいや。そんな訳で、あんた達が泊まる日は他のお客も居ないみたいだし、一応菜華には言っとくけど、一人増えようが大丈夫」
途中で何度も脱線したけど、これで任務は概ね終了。残るは明日のお風呂のみっ!
こっちは宿泊場所の詳細以上に重要。最重要と言っても過言じゃない。
乙女の沽券に関わりますので。
早く起きようとは思っていた。暗夜が残る仄明るいリビングで誰に知られる事無くベルガモットの香り漂うウェッジウッドのカップを優婉に持ち上げ、もし琉実やお母さんが起きて来たら窈窕に「御機嫌よう」と微笑む──それ位の意気込みはあった。
だが、現実は何時も想像を下回って来る。私を睡眠から引き摺り出したのは琉実の「いつまで寝てるのっ!? 早くしてっ!」って怒声だったし、ポーチドエッグにフォークを入れて割る寛雅な朝食は、お母さんに無理やり食べさせられた卵掛けご飯にすり替わった。
化粧をすれば、鏡越しに映る琉実が忙しなく私の様子を窺っては背後で「ほら、早くしないと遅れるよ」と苛立ちを滲ませ乍ら地団太を踏み、私だって悪いと思ってるから音速で着替えを終えて洗面所でアイロンを当ててると、美意識がマリアナ海溝並みに低い手抜きショートに「いつまでやってんのっ! 先行くよっ?」と声を荒らげられた。んな、ご無体な。
玄関を抜けると、朝だと云うのに外の世界は全力で夏だった──暑っ。額に汗を滲ませた純君と琉実が、ぎこちなさはあれども事情を深く知らない人が見たら不自然には感じない程度の距離感と声色で会話していた。注意深く見れば、琉実の我慢と忍苦が落ち着きの無い指先に見え隠れするし、純君は所在無さ気に自分の首を触ったりしてるけど──大丈夫そう。
「あ、やっと来たっ! もう、遅いよっ」
愛しの妹をうち捨てて先に家を出た非情な姉が吠えた──無視。
「純君、おはよう」
「おはよう。忘れ物は無いか?」
「財布とスマホは持った。着替えとかは昨日準備したっ!」
バッグを叩いて、キャリーケースを指差する。よし、完璧。
「一泊なのに荷物多いな」
「でしょ? 昨日、わたしも言ったんだよ」
「二人が少なすぎるんじゃない?」
純君はちょっと大きめのリュック、琉実は小振りのボストンバッグ──もしかして二人とも下着しか入って無いとか? 着の身着の儘スタイルはやばくない? 汗腺死んでるの?
「あんたが多すぎるのよ。わたしなんて那織の水鉄砲の所為でボストンなんだから」
「そんなに大きな水鉄砲が入ってるのか……」
「文句は扇動した慈衣菜に言って。そんな事より──時間大丈夫?」
どうしても一緒に行きたいと慈衣菜が騒ぐから、大宮駅で待ち合わせになった。大宮に着くと、既に慈衣菜とミス・マープルと部長が居た──慈衣菜は明らかに周りから浮いていて、遠くからでも一発で判った。頭にサングラスを載せ、お臍が見えるか見えないか絶妙な丈のキャミに薄手のパーカ、デニムのショートパンツから伸びる脚の先はウェッジサンダル。ただでさえ身長が高くて目立つのに、そんな出で立ちで居るものだから目を引く所じゃ無い。
慈衣菜の横で何やらテンション高めに話し掛けているミス・マープルはチェックのオフショルに黒いフレアスカートで、慈衣菜には劣るもののモノトーンかつシンプルで悪くない。部長は安定のワンピースだけど、オフホワイトのティアードで、初めて見る洋服だからきっとこの為に買ったと見える──部長も楽しんでいるみたいで何より。
「待って。みんな、めっちゃ気合入ってない?」
慈衣菜の元に駆け寄ろうとした矢先、琉実が一瞬立ち止まって自分の服を見直した。
「気合入ってるね。ま、ミス・マープルの普段は知らないけど」
「わたしももうちょっとおしゃれした方が良かったかな?」
純君が横から「別におかしくないよ」とフォローした──けど、ちょっと違うかな。この場合はおかしいとかおかしくないじゃ無くて気合の問題なんだけど、こう云うフォローをさっと入れられる様になった部分は評価してしんぜよう。実際、プリントの白Tシャツに膝下のスカートは変じゃないし、動き易そうだし、何より琉実っぽい。
それはそれとして──私に先んじて琉実の服装に言及するのは納得いかない。本来だったら会って直ぐに言って欲しい。とは言え、今朝はまだ微妙な空気が漂ってたのもあるし、遅刻ギリギリだったから我慢してたけど、今は話が別だし、電車の中とかチャンスはあったと思いますが、その辺は如何お考えでしょうか? 誰の為にお洒落したと──ま、仕方無いか。
「ね、私は? 私はどう?」オーバーサイズのパーカの裾をちょっとはためかせたりして。
「似合ってるよ」
「似合ってるじゃ無くてっ!」
「……かわいいよ」
「ふふん。良く言えました」
「ねぇ、細かいこと言いたくないんだけど、露骨にいちゃつくのやめてくれる」
「純君が可愛いなんて言うから……琉実に怒られちゃったね」
純君が小声で「(……言わせた癖に)」って言った気がしたけど、多分気の所為。
「そんな事より、早く行こう」
私達に気付いた慈衣菜が手を振っている──初めての合宿が始まる。
「こんな短いスパンでまた神奈川に来てしまった」
バスから降り、日傘を広げて思わず出た言葉だった。言った後で、不味ったと思ったけど、琉実には聞こえて無いみたいだった。ただ、純君には聞かれてて、「おばさんの地元だし、縁があるのかもな」と言って、さり気なく私の鞄を持ってくれた。
「ありがと。純君も入る?」
「僕は良いよ」
部長が「白崎君が入らないなら、私を入れて」と、横から日傘に入って来た。
バス停からVagueletteまではそこそこ距離があって、スマホの地図を出した琉実と慈衣菜とミス・マープルが切り開いた道に続いて行く──遠慮を知らない、躾のなってない太陽がいきり散らかしている所為で息苦しくて倒れそうになる。日傘が無かったら死んでたかも。
「なぁ、神宮寺、そろそろ許してくれないか?」
極彩色のアロハシャツにカンカン帽の、遅刻した浮かれぽんちが背後から話し掛けて来る。
「もう、恥ずかしいから近寄んないでって言ってるでしょ」
「ここまでキャリーケースを引き摺って来てやったんだからもう良いだろ? なぁ、白崎からも言ってやってくれよ。宿に着く前に脱水症状起こしそうなんだが」
「ほら、僕が持つから──」
純君に持って貰いたい訳じゃない。「純君は持たなくて良い。私が持つ」
昨日、私に向かって《寝坊すんなよ》だの《遅刻したら罰ゲームで変顔な》だのと調子に乗ったメッセージを送っておいて、集合時間に遅れた教授にはもう暫く己の浅薄さを猛省し乍らどうして私が既読無視したかを熟考して欲しい所だけど、絶命されたら困るし、純君が鞄を持ってくれたから持ってるのは日傘だけだし、キャリーくらい引きますよ。
「教授君も白崎君も、ありがとうね。先生が迷惑しか掛けないばっかりに──」
「日傘から出て貰うよ? あれは教授が悪いんじゃん。私の事を散々莫迦にした癖に、自分はあんな浮かれた恰好でへらへらしながら遅刻するから。当然の報いでしょ」
「先生、あんまり怒ると顔が皺だらけになっちゃうよ?」
「はいはい。宿に着くまで一言も喋らないです」
それから何度も部長に頰を突かれたけど、無言を貫く為に耐えた──のに、いきなり部長が超絶阿保っぽい声で「ばぁ」と顔をこっちに向けて来た。
っく、んっ……それは……だめ……だって。無理っ……耐えらんないっ!
「はい、笑ったー。先生の負け」
「もう、パワー系で笑わせるの、反則だって」
だめっ、気を抜くとまだ笑いそうになる。
「先生が子供みたいなこと言うからだよ」
「おまえら、楽しそうで良いな」と後ろから冷やかしてきた教授に、部長が「超楽しい」と満面の笑みで返す──前を行く陽キャ三人と、それに続く私達四人の構図のまま歩いていると、ミス・マープルが振り返って「もう着きますよっ!」と半音高い声で言った。
今日の目的地であるVagueletteは軽井沢辺りにありそうなペンション然とした外観の二階建てで、一階部分はお店も兼ねているらしく、サーフボードが何本も立て掛けられていて、何の気無しに端から目で追うと、中には三メートルはありそうな長さの物も幾つかあって、サーフボードってこんなに色んな長さがあるんだと初めて知った。興味無さ過ぎて、私にとっては異文化過ぎて、異世界に転生したかと思った。お店の奥には飲食スペースがあって、宿泊設備は二階。元々あったお祖父さん家とやらが結構大きかったのだろう、土地を買ってこの建屋を造るとなると、かなりのお金が掛かる事は素人の私でも分かる。シャッター付きガレージの脇にある庭にはテーブルやら椅子が置いてあって、隅にはバイクが置いてあった。
純君と二人で異世界をあれこれ観察していると、管理者を探しに行った陽キャ達が、これまた陽キャの権化みたいな、真っ黒に日焼けしたヒッピーっぽい女の人と一緒に出て来た。
あれがお母さんの友達か……時代が時代なら、焚火を囲んでガンジャを吹かしながらギターでも弾いてそうな出で立ち──もっとごりごりのヤンキーを想像してたのに、方向性が違い過ぎて困惑する。色んな意味でやばい──何れにしても、絶対に仲良くなれない。
「ねぇ、純君。あの人ってヒッピーの生き残りみたいじゃない?」
「世話になるんだからそう云うこと言うなって。しかも、おばさんの知り合いなんだろ?」
ひそひそとそんな話をしていたら、ヒッピーがこっちに走り寄って「あなたが陽向さんの娘さん? えっと、那織ちゃん、で合ってる?」と圧が強めの、私の苦手な人特有の活力が溢れ過ぎてて留まらないから貴方にもお裾分けしてあげる、どう? 元気になった? 元気になれば皆ハッピーでしょ? みたいな勢いで訊いて来た──バスケ部の連中以上に無理。
「……は、はい」
「あたしは百井菜華。陽向さんには学生の頃から超お世話になってて、ガチで頭あがんないって感じなんだよね。で、那織ちゃんは琉実ちゃんと双子なんでしょ? ちょっと顔見せて。雰囲気違うけど──よく見れば似てるわ。うん、似てる。それより肌真っ白だね。超キレイ。もしかして、あんまり外には出ない系? 肌焼かないようにしてる? ほんと、それ超大切だからね。その年から気をつかっておいた方がいいよ。後悔してからじゃ遅いから」
もう嫌だ。誰か助けて。
「那織は読書が好きなんですよ」琉実が代わりに答えるも、「読書かぁ。あたし、文字見てるとすぐ眠くなるんだよねー。本を読める人、マジで尊敬する。漫画もあんまり読まないし、できれば映画とかで見たい派なんだよね。眠くならないコツとかあるの? そもそも眠くなんない? これ、マジで昔から悩んでて、文字がいっぱい書いてあるものを、ずっと見てられないんだよね。だから国語とか超キライでさ。しかも、授業だと先生が読んだりとか、他の人が当てられて読んだりするでしょ? 今もそうだよね? あれ、あたしからすると完全に子守歌で、余計に眠くなるんだよね。あの頃からずっとムリ。やっぱり、本を好きにならないとダメなのかな? ちなみに那織ちゃんはどんな本読むの? 恋愛小説とか? それとも、やっぱり難しい感じ? 哲学みたいな?」と、逃がさないとばかりに話し掛けて来る。
いーやーだーたーすーけーてー……純君っ!!! 男の子でしょっ!!!
潤ませた幼気な子猫の様な眼で救援要請を送ると、それに気付いてくれたのか「那織は本当に何でも読むんですよ、まさに濫読って感じで。ええと、僕は白崎純と申します。今日はよろしくお願いします」と大人みたいな言葉を連ねて、軽く会釈した。
何それ。めっちゃやるじゃん。超大人じゃん。もしかしてわたわたしてるの私だけ? いや、私は断じてわたわたしてない。今のは相手の出方を見てただけだし。私だって本気出せば純君位の事は言える。うん……言える? 言えるか? 言える。余裕。
「うん、よろしくー。あれでしょ、陽向さん家の隣に住んでる男の子でしょ? そっか、君がねぇ。ふーん。陽向さんから聞いてたけど、確かにめっちゃ勉強出来そう。頭いいオーラ出てる。もしかして、生徒会長とかやるタイプ?」
「僕はそういうのはちょっと……」
純君が押され始めて、さっきまで味わって居た疎外感が霧散する。良かった、向こう側に行ってしまったのかと思って焦ったじゃん。脅かさないでよ。それからヒッピー改め菜華さんは一人一人に怒濤の口撃を与え続け、純君同様それなりに対処したかに見えた部長も敢え無くやられて──教授やミス・マープルは意気投合してた。慈衣菜は言う迄も無く。
やっと解放されて部屋に着いた時には、もう海に行く体力何て一握の砂程も残っていなかった。部屋割りで部長と二人部屋になったのだけが救い。「はぁ、もうこのまま寝たい」
部屋で大の字になったまま、部長にと言うよりはほぼ独り言だった。
「うん……気持ちはわかるよ。テンションが違い過ぎたね」
「キャリーケースを開く気力すら無い」
「先生、あの後もめっちゃ絡まれてたもんね……でもさ、お母さんの友達なんでしょ? 先生のお母さんって大人しい感じだけど、あのノリの人と気が合うのかな」
「あー、此処だけの話、うちのお母さん、元ヤンだから」
「え? そうなの? そんな雰囲気、全然無いじゃん」
「私はそうなんじゃ無いかって思ってたよ。よく、お祖母ちゃんが『陽向は遊びまわってて大変だった』とか『悪い遊びばかりしてた』って零してたから。この前、地元でバイク乗り回してたって話をお母さんから聞いたし、確実に元ヤンでしょ」
「そうなんだ……イメージ全然違うからびっくりしちゃった。やっぱり、怒ると怖い?」
「舌を巻いて『んだ、てめぇ。殺すぞ』とかは言ったりしないけど、我が家で一番怖い」
怒らせると──あっ!!! やばっ!!!
「急に起き上がってどうしたの?」
「お母さんからお土産持たされてたの、忘れてたっ!!!」
さっきキャリーケースがどうのって言った時、妙な違和感あるなって──慌ててキャリーケースを開き、十万石まんじゅうと近くの洋菓子店で買ったパウンドケーキを取り出す。
「これ渡さなきゃなんだけど、一緒に行ってくれない? ほら、部長だし」
「それ言うのずるい。でも、行くよ。お世話になるんだし」
「ありがと。部長大好き。ただ──」真剣かつ真面目な表情を作ってから続ける。「お母さんが『十万石まんじゅうを渡す時は、〈うまい、うますぎる〉でお馴染みのってちゃんと言うんだよ』って言ってたんだけど……お願いしても良い?」
「それ、絶対噓でしょ? 今作ったでしょ? 神奈川の人に通じる訳ないじゃん」
「作ってない。うちのお母さん、そう云う人なの。だって、よく考えてみてよ。パウンドケーキもあるんだよ? それなのに十万石まんじゅうも持たせるんだよ?」
噓だけど。
「ね? お願い……お母さん、菜華さんと仲良いから、きっと電話で確認するだろうし」
眉根を怪訝に寄せて、猜疑の眼差しを向けて来る部長を急かしながら部屋を出ると、廊下で琉実とばったり会った。琉実が「あの、お土産渡して──」と言い掛けたのを制し、「丁度良かった。今から渡しに行くの。一緒に行こう」と手を引いた。仲間は多い方が良い。
一階に下りてショップブースを覗くが誰も居らず、外に出ると菜華さんが停めてあった大きなバイクを押して移動している所だった。琉実が口火を切る。「あの、すみません」
「ん? どーしたの?」
「こちら、詰まらない物ですが」そう言って部長がお土産を差し出した。
押していたバイクを停めて、「気をつかわなくて良いのに。でも、ありがとう。頂くね」と菜華さんが受け取る──部長、裏切ったな。言ってないじゃん。咄嗟に部長を見たけど、視線を合わせない。まぁ、流石に無理があったよね。うん、知ってる。
「あの、そのバイクって……もしかして旦那さんの──」
触れ辛い話題に琉実が切り込んだ。
え? それ言う? てか、事故に遭ったならこんなに綺麗じゃないでしょ、明らかに手入れされてるじゃんと思った物の、余計な事を言うと地雷を踏みそうなので流れに任せる。
「これ? 違う違う。あいつのバイクは廃車。これはあたしの……ってゆーか聞いてない?」
「えっと……」琉実が私を見た──首を振って応える。「わからないです」
「このバイク、陽向さんのだよ」
琉実と声が重なった。「「えっ」」
「陽向さんが昔乗ってたバイクなんだけど、知らない人に売るのはイヤだってあたしに譲ってくれたの。ちなみにこのバイク、今だと中古で数百万するからね。陽向さんに悪いからとても売れないけど」と言って、菜華さんが笑った。「外に出しっぱしておくのも物騒だし、盗難にでもあったら陽向さんに顔向けできないじゃん? だから基本は中に入れてカバー掛けてるんだけど、さっき乗っちゃったからエンジンとかマフラー冷ましてたんだよね──そうだっ。せっかくだから、お母さんのバイクにまたがってみない?」
琉実がちらっとスカートに目を落として逡巡──したが、頷く。「乗ってみたいです」
スカートを腿まで捲って、菜華さんに支えられながら琉実が恐る恐るバイクに跨った。
「那織、写真撮って」
「はいはい」
お母さんのバイク、こうして見る迄は暴走族みたいなのを想像してたけど、思ってたよりは普通だった。如何にもバイクって感じの、武骨で圧倒される見た目──造形の良し悪しは全く分からない乍らも、バイクに跨った琉実は恰好良かった。ちょっと頼りないけど。
「今撮った写真、わたしにも共有して。那織も乗ってみる?」
「え……私は別に──」
「折角だから、先生も座ってみなよ。私が撮ってあげるから」
「このスカート、跨るとパンツ見えそうじゃない?」
「セクシーで良いじゃん」
「ばか」けど、どうせなら──琉実と部長に促されるままバイクに跨ってみる。思っていたよりも脚を開かなきゃいけないし、ハンドルとシートの間に大きい燃料タンクがあって、何て言うかバイクって映画とかでも軽々しく動くからもっと軽量感のある乗り物だと思ってたけど、想像以上に重厚で、佇まいは鉄塊そのものだった──これを乗り回す想像が付かない。
況してやお母さんが乗ってた姿を頭に描けない。
「あの、このバイクは何て名前ですか?」
「カワサキのZⅡ。カッコイイっしょ?」
「はい、恰好良いと思います」
部屋に戻る途中、私は妙な高揚感に包まれていた。それは琉実も同じみたいで、「なんか、めっちゃカッコよかったよね?」だの「お母さんに写真見せよっ」と興奮した調子で言い、挙げ句「バイク、ちょっと興味出てきたかも」等と言い出した──思量が短絡的過ぎ。それか、眠れるヤンキーの血潮が騒いでしまったのかも知れない。
お祖母ちゃん、孫が堕ちました。血は争えないみたいです。成人式は晴れ着じゃ無くて特攻服になってしまうかも知れません。姉を止められなかったらごめんなさい。
「ね、これから海行くでしょ? 琉実ちゃんは水着どうする? 着てく?」
「うーん、着てこうかな……亀ちゃんは?」
「大丈夫? 琉実はそのパターンで着替えを忘れるまでがセットでしょ? ノーパンでビーチから帰って来る羽目にならない? 盗撮されてSNSにアップされちゃうかも」
「そんな昔の話しないでっ! あぁ、もうっ! いいです、向こうで着替えますっ」
ここからビーチまで距離無いし、普通に考えて水着のまま帰るけどね。
「そっか。私は足下がじゃりじゃりしてて湿気の立ち込める脱衣所は嫌だから、着替えてから行くけどね。部長もそうしよ?」一階に洗濯乾燥機が置いてあるのも確認済みだし。
「……って、先生が言ってるけど……琉実ちゃんも着て行かない?」
「亀ちゃんが言うならそうしようかな」
亀ちゃんが言うならって何? 私の意見無視? おかしくない? ま、良いけど。
部屋に戻って純君達に連絡を入れてから、服を脱ぐ──諸事万端の準備は整えてある。
水着を買いに行った日、琉実がぽつり「水着になるなら産毛とかも……」と呟いた後、慈衣菜に「毛の処理ってどこまでしてる?」と話を振った。慈衣菜に訊けば間違いないと思ったんだろうけど、私は知っている。金髪オフショル聖母に尋ねても参考にならない事を。
「エナは全身脱毛してるよー」
「……これが現役モデル……訊いたわたしが愚かだった」
「あ、でも全身やってない子もいるよ?」
「ううん、もう大丈夫。きっとレベルが違うから……ねぇ、那織。あんたは──」
だが安心したまえ、我が姉よ。私には琉実が必要なんだ。
「それなんだけど、私も琉実にお願いがあるんだよね……あのさ、首の裏とか背中って見えないじゃん? 私は毛深く無いから大丈夫だとは思ってるんだけど、琉実の言う通り産毛とか生えてたら死ねるでしょ? だから代わりに剃るか除毛クリーム塗るのを手伝って欲しいんだよね。どう? 琉実のもやってあげるから」
背中となると、自分じゃ満遍無く塗れるか怪しい。
「うん、やる。だから、わたしのもお願い」
「あ、下は自分でやってね」
「バカっ。誰が頼むかっ!」
そして昨日、私達は契りを果たした。私は姉の首筋にそっと刃物を滑らせ、姉は妹の首筋に刃物を突き立てる──刃を交え、私達姉妹は無駄を排した完璧な存在となったのだ。
トップスの紐を部長に結んで貰い乍ら、浴室で淋漓と汗水垂らした二人の成果を部長にも伝えたくて「ねぇ、背中つるつるでしょ? どう?」と衒った刹那、悪鬼と化した部長が「自分ばっかりずるいっ!」と首に回した紐を思い切り引っ張られた──よもや顔面が己の胸に埋没して窒息死寸前だった……うん、それは言い過ぎた。そんなに爆乳じゃない。
「いきなり何すんのっ! 今、凄い角度で首が曲がったんだけどっ!」
「この前その話してる時、ずるいって言ったじゃんっ!」
「部長は大丈夫だって……琉実も言ってたでしょ?」
「でもさ、でもだよ? この二日の間に生えてたらどうするの?」
「だから部長は──」続く言葉を飲んだ。顔から下に産毛すら生えない大半の女子から渇仰されるべき体質の部長にその心配は無いと力説しても、今の部長には無駄だ。それに、私の露命は彼女の手中にある。「じゃ、じゃあ後で見てあげるから……ねっ!?」
荒ぶる部長を何とか宥め、日焼け止めを塗る傍ら首筋や背中の無事を伝える頃には、スマホに大量の通知が溜まっていた──だけでは足らなくて、琉実が呼びに来た。
パーカを羽織り、ショーパンを穿いて庭に出ると、皆それぞれジップアップのラッシュガードだったりパーカだったりを纏っているのに、純君だってTシャツを着ているのに、語るも億劫な約一名が──さっきまでアロハを着ていた筈の痴れ者が海パン一枚で立っていた。
露ほども似合っていないティアドロップ型のサングラスを勿体ぶって上げ、「神宮寺、遅ぇぞ」と歯を出して笑った──きっつ。うわ、マジで無視しよ。将来、ビール片手に河原でバーベキューしそうなタイプとは距離を取るに限る。本気で近付かないで欲しい。
「さ、みんなそろったし、早く行こーっ!」
「ですよねっ! 早く行きましょっ!」慈衣菜の声に続いたミス・マープルがちらっとこっちに視線を投げ、大熱吹き荒れる地獄に行かんとした所で、菜華さんが後ろから「若者たちよ、ちょっと待ったっ! 借りると貴重なお小遣いが減るから持ってきな」とポーチを降りて、パラソルやらクーラーボックスを「ほら、野郎の仕事だ」と男子勢に手渡した。
海が近い事は全員が認識していた筈だけど、地下道を抜けて海が見えた瞬間、口々に「海だ!」と発して、純君ですら「おおっ」なんて言っちゃたりして、海の無い県で若き生命を擦り減らして居ると、海が見えただけでこんなに感動出来るらしい──毎年太平洋を拝んでいる琉実ですら、「那織、海だよっ!」何て誰が見ても海としか認識しない至極当たり前の事を、大発見かの如く振り返って叫んで来た。
「うん……海だね。紛う事無き海だね」
日傘に縁取られた世界から出ない様に縮こまっているからか、調整機構が崩壊した日射に熱せられたアスファルトの上を歩いて来たからか、擦れ違う人間の多くが薄着の限界を競っている所為か、弱々しい言葉しか出て来ないのに──疾駆なんて言葉から程遠い部長までもが皆に感化されて走り出し、私は取り残された。否、唯一人純君だけが私の隣に立っている。
「海を知っているのに、海に来たこともあるのに、こうして改めて対面すると、波の音が存外大きいことと、見渡す限り水しかない光景に圧倒されるな」
「詩的だね。それとも、シニフィエとかシニフィアンの話?」
「素直な感想だよ。那織は気分上がらないか?」
「私は潮風が好きじゃ無いし、足の指に溜まる砂が好きじゃ無いし、海水の肌触りが嫌いだし、はしゃいでる大人を見るのが嫌いだし、子供の頃に溺れて苦しかった記憶が強いし──前にも言ったけど、お母さんの実家、ここからそんなに遠くないんだよね。だから、気持ちが正の方向に揺動したりはしないかな……でも、今は悪くないって思ってる」
取り残されたりしなかったから。「そんな事より、追い掛けなくて良いの?」
「嫌いな砂浜を歩くんだろ? 一緒に行くよ」
「優しいね」
「普通だよ」
「そう? 最近、いつも優しくしてくれる──そうだっ! ちょっと来て」
高温の砂浜に踏み出し、脚を取られそうになりながら、砂浜にせり出す地下通路の壁に純君を誘導して正対する。私は壁を背にして、純君は海を背に。
「どうした?」
「私の水着、最初に見て欲しい」
戸惑い、躊躇、逡巡──固まった純君の手を、そっとパーカのファスナーに誘導する。
「純君の手で下げて」
手に緊張、「下げてって……」そして声が震える。
「見たくない? 興味無い? 教授が先に見ても良い?」
「それは……嫌だ」
「だったら、純君が自分の手でファスナーを下ろして」
純君の喉仏が上下する。聞こえる筈が無いのに、唾を飲み込む音がした。
もどかしくなるくらいゆっくりと、手を添えたくなるくらい不規則に、ファスナーが下ろされていく。パーカが開いていく──もう何も聞こえない。ジッジッと云う音の波は肌を通した振動として伝わり、胸元まではだけたパーカの隙間に暑気を孕んだ風が入り込む。
純君の胸に手を当てる──早鐘を打つ鼓動が、手の平を強く押し返す。
「どきどきしてる」
「こんなの、誰だってするよ」揺らいだ語尾の残響を鳶の甲高い声が引き継いだ。
「谷間を見たら、もう終わり?」
咳払いをして、純君がファスナーを最後まで下ろした。
「どう?」
「……綺麗だよ」
そう言うって決めていたみたいにすっと出た言葉は、俯いた口から放たれた。
照れても良いから、恥ずかしくても良いから──「ちゃんと目を見て言って」
「余りに那織が魅力的で、見るのが恥ずかしいというか、照れるというか──」

「うん」
「言葉を失うくらい、よく似合ってる」
へへ。「ありがと。下も脱がす?」
「それは流石に……これ以上は限界」
意気地無し。もう、仕様が無いなぁ。ショートパンツのホックを外して、務歯の嚙み合いを一つずつ解放していく。少しだけショートパンツを下げて、水着を見せる──何だか下着を見せてるみたい。やばい、めっちゃ興奮する。「どう? 見えた?」
「お───いっ! 何やってんだよっ!」
後ろで教授の声がした──「残念、もう終わりっ!」急いでショートパンツを直し、パーカの前を止める。「さ、行こっ。五月蠅いのが騒いでる」
「お、おう。そうだな」そう言って走る純君の背中を見送る。
はぁぁぁ、めっちゃどきどきしてやばかった。搏動でおっぱいが揺れそうだもん──最後のは我ながら天才的過ぎる。流石の純君も今のはやばかったでしょ? 確実に秘められた雄の本能が振起したでしょ? 興奮どころじゃないでしょ? あんなに走っちゃって大丈夫?
何だよ、海、楽しいじゃん。
「いやぁ、みんな若いねぇ」
「亀嵩さん、先ほど『きゃあっ』とか言って、楽しそうに走っておりませんでした?」
「あら、見られていたとはお恥ずかしい。ただ、ご安心下さい。私、そういう遊びはもう卒業致しましたから」剝き出しの脹脛を、部長がタオルで雑に拭う。「ちょいと神宮寺さん、とびきり冷えているカフェラテを取って下さる?」
クーラーボックスからカフェラテを取って部長に渡し、身体を捻った反動でパラソルの陰から出た爪先を引っ込める──私が着いた時、慈衣菜はビーチボールをポンプで膨らませていて、その横で教授は浮き輪に息を吹き込んでいて、部長とミス・マープルは汀で波から逃げる遊びをしていて、純君は琉実に拉致されて波間に消えていった。
楽しそうにビーチボールを膨らませる慈衣菜を見ていると、何だかんだ言っても陽の人間なんだなと染み染み認識する。ゲームやらアニメやらで引き籠もりがちな側面ばかり見ているから勝手に仲間意識を持っているけれど、学校では女王蜂気取りの誤想甚だしい集団とつるんでるし、以前の私は明らかに違う空気を吸って生きている人間だと見做していた。だから近寄らなかったし、関わらない様にしていたし、視界に入れる事すら拒んでいた。教授だって、元々はサッカー部だし、本来であれば交わらない人間──そんな二人が私のすぐ傍でやいのやいの巫山戯合っている。しかも、水着姿で。あ、琉実やミス・マープルもそうか。
波の音が大きいからなのか、暑熱で思考が淀んでいるからなのか、酷くぼんやりする。
ビーチボールをパンパンに膨らませた慈衣菜が、「にゃおにゃおも一緒に行こうよ」と誘ってくれて、教授が「浮き輪使うか?」と声を掛けてくれたけど、「私は荷物番をしてるから行っておいで」と二人を送り出した──入れ替わる様に部長がやって来て、腰を下ろした。
「すっかりミス・マープルと意気投合したみたいで何よりだよ」
ぼんやりとミス・マープルを目で追っていると、転瞬視線が交わった。
「中学生の相手なんて、お手のものですわよ」
「言うじゃん。私には遊ばれてる様に見えたけど、気の所為だった?」
「気の所為だね。はぁ、慣れないことして疲れちゃった」
方々で遊んでいた皆が慈衣菜の元に集まって、ビーチボールを落とさずに何回トス出来るかに挑戦し始めた。「新しい遊びが始まったけど、行かなくて良いの?」
「私は休憩……ってか、先生こそ行って来なよ。上着なんか脱いで、白崎君に水着姿を見せて来たら? 折角、合法的に露出出来るんだしさ。肌見せるの好きでしょ?」
「残念。さっき見せて来た」
「手がお早いようで何より」
白眼視混じりに言って、部長が砂浜に視線を戻した。「あ、また白崎君がボール落とした」
「元運動部の、動けるパリピオタク二人と現役運動部の二人が相手じゃ、延々に純君が負け続けるだろうね。ただでさえ球技は得意じゃないのに。可哀相」
「そう思うなら、運動レベル最底辺の先生が参戦して道化になってあげたら?」
「部長だって大差無いでしょ。何で私だけ──」
「私は先生と違って波とお戯れ済みですから」
そんな事を言い合っていると、純君が肩で息をし乍らこっちに来た。
「いらっしゃいませ」
「すまん、冷たい飲み物をくれないか?」
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
太陽の下でペットボトルを呷る純君が、逆光になってよく見えない。でも、凄い勢いで飲んでいるのは分かる。汗なのか海水なのか零れた飲み物なのか、砂の上に水が滴って丸い染みが出来る──あっと云う間に元の色に戻った。直射日光恐るべし。
部長の方に寄って、スペースを空ける。「純君も入りなよ」
「そうさせてもらうよ」
純君が日陰に入ると、歪に波打ったシートの端に熱い砂が載って、後ろ手に突いていた指の隙間に滑り込んで来た。手に付いた砂を軽く払い、私もお茶を飲む。
「あんなに全力で動く純君、久し振りに見たよ。よく頑張ったね」
「こういう時くらいはな」
静寂の合間に、波音が入り込んで来る。
「那織も行かないか?」
「私はいい」
「先生、折角だから行って来なよ。足の先だけでも海に入ること。部長命令」
「えー。入らなきゃ駄目?」
「だめっ! ほら白崎君、我が部のマナティーを早く海に返してあげて」
「マナティー言うな」
「マナティーって淡水じゃなかったっけ?」
スポーツドリンクを飲み切った純君が、ペットボトルを片付け乍ら言った。
「アメリカマナティーは海と河を行き来するんじゃなかったかな──って、マナティーの話は広げなくて良いのっ。もう、人を海牛に例えないでっ!」
「いやいやいや、先生が自分で言ってたんじゃん。マナティーって」
「知らない。昔の事は記憶に御座いません」
「白を切るのは自由だけど、海には入るんだよ。わかった? ナオティー、返事は?」
「分かった分かった──純君、早く行こ。この人、全力でうざい」
これ以上此処に居たら、私の呼称がナオティーで定着し兼ねない。
「おう」
先に立った純君が、手を伸ばした──純君の手を握って立ち上がった。
「じゃあ亀嵩、荷物頼むな」純君が振り返る。
「合点承知の助!」部長が小さく敬礼した。
凡そ女子高生とは思えない返事に、敢えて突っ込んだりはしない──そう決めて歩き出した所で、呼び止められた。「先生っ! 服、脱ぐの忘れてるっ!」
「だって日光が……」
「部屋で日焼け止め塗ったでしょっ! 言い訳しないのっ!」
ああっ、いちいち面倒臭いなっ!!! 脱げば良いんでしょ? 脱げばっ!
ショートパンツを脱ぎ、部長めがけて投げる──取られたっ! 今度こそっ! 脱いだパーカを丸めて部長に投げ付ける──が、矢張り取られてしまった。
満面の、憎たらしい程の笑顔で部長が言った。「私の勝ちっ!」
後で覚えてなさいっ! 私にはガトリング水鉄砲があるんだからねっ!
熱砂に足の裏を撫でられ乍ら、純君に付いて行く。
「ねぇ、純君。さっきの部長の敬礼、あれは海上自衛隊を意識してたと思う?」
「肘を張ってなかったからか? そこまで意識してないだろ」
「だよね」唐突に、先日の事を思い出した。「深く静かに潜航せよ」
琉実にスルーされた潜水艦映画のタイトルを呟いてみる。反応しなかったら付き合わない。
訝しんだのはほんの一時、純君が続ける。「U・ボート」
「レッド・オクトーバーを追え!」
「ハンターキラー」
「K‐19」
「U‐571」
「海底軍艦」
「そう来るか……じゃあ、復活の日」
「いいね。うん、悪くない」
「もし、どうしても海に入るのが嫌だったら、言ってくれ」
「一緒に入ってくれるなら大丈夫。頼んだよ、ローレライ」
「僕は男だぞ」
「このご時世に男も女も関係無いでしょ──あ、入るのは足だけね」
渚で立ち止まって蹲うと、砂地を覆わんと躍起になった温い海水が緩やかに滑って、私を追い越していく。粒子を伴った海水に刺激された爪先がこそばゆい。
純君が隣にしゃがんだ。「気持ち良くないか?」
今度は我先にと海水が逃げていく。
「くすぐったい」
「確かに」
「まぁ、これ位だったら濡れるのも我慢出来る」
次の波は、私の爪先で息絶えた。
「もし二人で海に来てたら、純君は入ろうって言った?」
「言わなかっただろうな」
「なら、今回は何で?」
「何でだろう、ふとそう思ったんだ。那織も誘わなきゃって。皆と同じ空間を共有して欲しかったのかも知れない──いや、そうじゃないな。やってみたら悪くないかもって」
「試して欲しかったって事?」
「きっと、そうだと思う」
今度の波は──「やばっ、大きいっ!」
咄嗟に立ち上がろうとしたが間に合わず、お尻がしっかりと濡れてしまった。
「ああっ、濡れちゃった」
「水着だから良いだろ」
「純君は一度濡れてるから気にならないんだよ。足だけの積もりだったのに」
お尻だけ濡れてるの、超気持ち悪い──立ち上がると、脚を海水が伝った。超不快。
「どうせ濡れちゃったんだしさ、もうちょっと先まで行こうよ」
「え? ここで良いよ。て云うか、お尻拭きたい。漏らしたみたいで気持ち悪い」
「漏らしたとか言うなよ」
「だってこんな──お尻だけ濡れてるの、超恰好悪いんだけど」
「じゃあ、もうちょっと先まで行こう」
純君が立ち上がり、私の手を引いて歩き出した。何度も波に洗われて、足首、脹脛、膝まで海水に浸かる。脚にぶつかった波が撥ねる。今度は大きい波が来て、身体を捩って純君を壁にして隠れた──けど何の意味も無くて、腰の辺りまでしっかり濡れた。
「これで恥ずかしくないだろ?」
気付けば、純君の腕を抱き締めていた──半裸の男女が密着出来るのは、海の良い所。
「濡れて不快。でも、純君の素肌に触れたから良しとする──肌、綺麗だよね」
「明るいところで上を脱ぐと、白くて恰好悪いよな……さっき琉実にも笑われたよ」
「別に良いんじゃない? 明るい所で脱がなければ。私は気にしないよ。下手に日焼けして黒々してる方が、遊んでるみたいで好きじゃない。それより──私の素肌はどう?」
「このタイミングで言うなよ」
さっきよりは低い波──だけど、もっと強く、力を籠めて好きな男の子の腕に抱き着いた。
「このタイミングだからでしょ?」
「綺麗だよ。綺麗すぎて眩しい。だから、そんなにくっ付くなって」
「超棒読みじゃん。何? おっぱいを感じちゃう?」
「だからそういうことを──」
「こんな時くらい良いじゃん。もっと感じてよ。大嫌いな海に、頑張って入ったんだよ?」
「だったら……わざわざ口にしないでくれるとありがたい──うわっ!」
えっ?
総てが──遅かった。今までで一番高い波だと認識したのは、お腹の近くまで浸かって撥ねた海水が口に入り込んで来た時だった。「んぐっ! うぇっ!」しょっぱっ! 「ああっ、口に入った! これ以上ここに居たら溺れ死ぬっ。沈没したくない!」
「わかった。とりあえず戻ろう」
純君がゆっくりと浜辺に引き返していく──返す波に腰が持って行かれそうになる。
「転ばないように気を付けて」
「もうっ、ばかっ! 先まで行こうとか言うからっ! 超濡れたんですけどっ!」
胸から下がびしょびしょになって、濡れた足に砂が貼り付いて、全てが忌まわしかった。私達の陣営に辿り着く頃には身体中を後悔が支配していた。バスタオルを持って駆け寄って来た琉実に、「那織が海で濡れるなんて何年振り?」と笑顔で言われたのがまた腹立たしい。
だから海は嫌い。
それから帰るまで、私は一切海に入らなかった。でも、お昼に食べた焼きそばとかフランクフルトはジャンキーで美味しかったし、砂山に棒を立てて、周りを順番に崩して棒を倒した人が負けって云う普段じゃ誘われても絶対にやらない、小学生みたいな遊びにもちゃんと付き合ったし、負けた教授を埋めようって皆が盛り上がるのを、「どうやって掘る積もり?」と思い乍らも空気を読んで恐らく口にしなかったし、案の定稚拙な砂風呂が出来上がっても腐す様な言葉は多分吐かなかった──私の記憶が正しければ。
それはそれとして、砂風呂の教授を爆乳にしたり、ガトリング水鉄砲で教授を撃つと見せ掛けて、部長に復讐を果たしたり、海には入らなかったけどそれなりに遊んだ──お陰で、誰からも海に入ろうって誘われずに済んだ。勿論、総て計算通り。狙ってましたっ!
気怠さが辺りを支配し始め、「そろそろ帰ろう」と誰かが言い出すのを待つ件の時間が訪れる少し前、トイレに立った時だった。部長か慈衣菜辺りに声を掛けようと構えた所で、ミス・マープルが「ゆずも一緒に行ってイイですか?」と言って付いて来た。掛ける言葉が見付からず無言で歩いて居ると、トイレが見えて来た辺りで「あの……ゆず、ずっと先輩に謝りたいって思ってて……慈衣菜先輩にも相談してて、そしたら誘って下さって……だから、いい機会だと思って来たんです」とたどたどしく言ってから、「ごめんなさい」と頭を下げた。
道理で何度か目が合うなと思って居た──慈衣菜の差し金か。
「別に良いよ。てか、頭上げて。謝らせてるみたいに見られると嫌だから」
私達の脇を、肌を小麦色に焼いた男の二人組がこっちを横目で窺って、通り過ぎた。
「あっ、すみません。そんなつもりじゃ──」
「謝らなくて良いって」
「でも──」
「楽しかった?」
「はい。めっちゃ楽しかったです」
「年上ばかりで嫌じゃ無いの?」
「年上の人と遊ぶこと多いので、全然大丈夫です」
反射的に「パパ活でもしてるの?」と言いそうになったけど、どうにか堪えた。私、超偉くない? この一連の流れ、心象風景も含めて部長に見せてやりたい。
「そっか。花火もあるから、夜になったらやろうね」決まった──これが年上の余裕。
今日の私は一味違う。何しろ、好きな男の子の肌に触れまくってますので。
「やったぁっ! 花火めっちゃ好きなんですよっ!」
夕飯はデジャヴと云うか、お定まりのバーベキューだった。何となく、これは宿泊客用の食事では無くて、わざわざ私達の為に用意してくれた感じがする。ヒッピーもとい菜華さんは最初だけ居て、気を遣ったのかある程度火が起きたら何処かに消えた──これだけ人数が居ると席を立つ必要には迫られないし、何なら私の隣は料理大好きギャル崩れオタクだったから、座っている居るだけでお皿にお肉が供給されたし、野菜を食べさせようとするショートのお節介女と歪んだ愛情表現しか出来ない毒舌美術部員は居たけれど、手伝えだのなんだの言う元ヤンに比べれば回避は余裕で、何時も以上にゆっくりとした肉焼きの儀だった。
誰も席順に気を遣わない所為で、純君は私に目もくれず教授の隣で異世界の言語問題を語っていて、純君の隣には何故だか琉実が座って居た──まぁ、今日くらい良いんだけど。普通に楽しんでいる様に見えて、気丈に振る舞ってる琉実を端々で感じてたから。
ミス・マープル……もとい柚姫は、グリルの前に陣取り慈衣菜と一緒になって焼きに徹していた。時折「もう焼けてね?」と手を伸ばす教授を、「それはひっくり返しましたっ! ゆずが焼くんで、大人しくしててくださいっ」と何度も窘めていた。
宴の終わりが見えて来た頃、菜華さんが西瓜を持って現れた。すかさず慈衣菜と柚姫が「スイカ割りやりたい」と声を上げ、教授が賛同する。菜華さんが「だよね。その言葉をまってたよ」と笑いながら、隠してたバットを教授に手渡した──慈衣菜が呆気なく叩き割った不揃いな形の西瓜を食べていると、琉実がいきなり「ちょっと来て」と私の手を引き、ポーチに座る菜華さんに「ここ、いいですか?」と言って横に座った。訳も分からない儘、流れで琉実の隣に腰を下ろすと、琉実が「あの、昔のお母さんってどんな感じだったんですか?」と神の存在を根底から揺るがす様な我が家最大の謎を投げ掛けた。学生時代の話や過去の彼氏遍歴みたいなお母さんからじゃ絶対に聞き出せない様な話を、「あたしが喋ったって、陽向さんには絶対に言わないで。マジでしばかれるから」と云う口添え付きで教えて貰った。
菜華さんの口から語られるお母さんは、元ヤンとは違ったけどそれに類する属性だってのは十二分に分かったし、こっち側の人間じゃない事の裏は取れた。学校さぼって一日中カラオケ行ってたとか、校内放送でしょっちゅう呼び出されてたとか、夜中プールに侵入して遊んだのがばれて翌日全校集会になったりとかはまだ可愛い方で、校門で他校のヤンキーに出待ちされてたとか、中学校の卒業式に彼氏がバイクで迎えに来たとか、お母さんが原因で不良グループが喧嘩して警察沙汰になったとか、車高がペタペタの車が高校の前に停まってると思ったらお母さんの友達だったとか──はい、完全にあっちの方だったみたいです。
うちの母は不良サークルの姫でした。娘としてとても恥ずかしいです……が、ちょっと道を踏み外す位なら許してくれそうだとも思いました。とても強い交渉材料を獲得出来ました。
家庭内の恥をこれでもかと見せつけられ、肉を鱈腹詰め込んで、もう花火はどうでもよくなった私としては横になりたかったんだけれど、それを口にしたら烈火の如く詰られた──花火をするかは議場に諮られず、再び海に行ってやるか否かだけが争点だった。さっきシャワーを浴びた身としては、また砂に塗れるのは御免被りたい所だったけど、燻された肉の香気が毛先から漂って来るし、再度の湯浴みは避けられそうに無いし、部長が「先生がデブ活に勤しみたい気持ちは分かるんだけど、ここはどうかひとつ夏の思い出ってことで」等と手を合わせて小馬鹿にして来るしで、片付けを終えた後はまたぞろ海に行く事になった。
花火だったら海に入らないし、寝転びたいけど我慢する──どうせ、後で海に行くし。
花火の帰り、「お風呂入ったら集まろっ」と琉実が言って、教授が「朝までゲームでもしようぜ」と同調したけど、慈衣菜と部長は曖昧な態度をして、「考えとく」とだけ返した。
二人の態度は私の為だと分かってたし、事実、純君から「後で話したい」と誘われた。純君から部長や慈衣菜に相談したのか、部長と慈衣菜が入れ知恵をしたのか委曲は定かじゃないけれど、花火の後にそうなる事は知っていた──部屋に戻って或る黒いTシャツを着た。
私なりの決意表明だった。純君に寄り添おうと思って家から持って来た、まだ一度も着た事が無いTシャツ──昔、お父さんがくれたTシャツを着て、ボディミストを吹き掛けた。
「先生、私は慈衣菜ちゃん達の部屋に行ってるね」
「うん」
「がんば」
「私が頑張る事じゃ無くない?」
「だね。琉実ちゃんにはなんて言う?」
「任せる。ありのままを伝えたって良いよ」
「ありのまま、か。それは先生が言うべきかな」
「たしかし──じゃあ、行ってくるね」
「恥じらいと慎みを忘れずに」
「努力する」
一階に下りて外に出ると、湿った風の中で純君が待っていた。テラスの椅子で具合が悪そうに項垂れていて、私の気配を感じて起こした顔は、それでも穏やかだった。
「待った?」
「ううん──え、そのTシャツ、『Do Androids Dream of Electric sheep?』だよな?」
「うん、良いでしょ?」
胸にプリントされた、SF小説の装丁デザイン。思春期の、中学生の娘にこのTシャツをプレゼントするお父さんもお父さんだけど、このTシャツには唯一良い所があった。それは私の好きな男の子は絶対に反応してくれるって事──プライベートではSF好きだと思われるから絶対に着たく無かった。着るのは純君に見せびらかす時だけ、そう思っていた。でも、このTシャツを貰ったすぐ後、その男の子はお姉ちゃんの彼氏になった。それ以来、ずっとクローゼットの奥に仕舞い込んだ儘だった。
「めっちゃ恰好良いな。普通に欲しいわ」
今からの私は、ちゃんと素直になる。初恋の相手と夜の海に行くんだから、それは最低限のルールだ。これでも隣家の男の子をミステリとSFに引きずり込んだ極悪人の娘。初恋の相手の趣味に合わせるなんて、いとも容易い──ねぇ、純君。知ってた? 純君が私の読んだ本を追い掛けてた様に、私も純君が面白いとか今読んでるって言った本、片っ端から読んでたんだよ? 映画だってそう。ドラマだって、アニメだって、全部そう。純君が私の理解者であって欲しい様に、私は純君の理解者で居たかったから。
「良いでしょ? 私のお古で良ければ上げようか?」
「それは流石に……しかし、那織がそんなTシャツ持ってたなんて意外だったな」
「こう云うのは、最後の最後まで出し所を窺っておくのが鉄則でしょ?」
「確かに。まさかこんな所でフィリップ・K・ディックに出会えるとは」
「あと、この際だから言っておくね。私、スター・トレックはヴォイジャー派だから」
「それは薄々気付いてたよ。好きなキャラはセブン・オブ・ナインだろ?」
「凄い、よく分かったね。言った事無かったのに」
「分かるよ。どれだけ付き合い長いと思ってるんだ?」
「なんか生意気でむかつく」
「そいつは悪かったな。さぁ、行こうか」
「何処に? また海行くの?」
「嫌か?」
「良いよ」
決して、爽やかな夜なんかじゃ無かった。アスファルトが溜め込んだ熱を吐き出して、滞留した輻射熱を動かす程の風も吹かない。それでも私の心は弾んでいた。今日はきっと、良い夜になると思えた。ブラッドベリの短編だかにあった、人生には一夜だけ、思い出に永遠に残るような夜があるにちがいない。誰にでもそういう一夜があるはずだ。そして、もしそういう夜が近づいていると感じ、今夜がその特別な夜になりそうだと気づいたなら、すかさず飛びつき、疑いをはさまず、以後決して他言してはならない、と云う一節が蘇る。今夜がそんな夜になるかは分からないけれど、逃したくは無いと思った。だから、じっとりとした暑さと湿度の残る道程を歩かなきゃいけなくても文句は言わなかったし、それに何より歩き出した所で純君が手を差し出してくれたから──それだけで私にとっては思い出に残る夜になった。
うだるような熱帯夜なのに純君の手が温かくて心地好い。
遊歩道を歩き、砂浜を抜けて、石段のある場所に着いた。
遠くにぱらぱらと人影を認める。「まだ人が居るね」
「花火してた時も、そこそこ居たもんな」純君がタオルを敷いた。「座れよ」
「ありがとう」隣に腰を下ろした純君に尋ねる。「ね、花火は楽しかった?」
「ああ。楽しかったよ。自分がこんな所謂夏休みを過ごすとは思わなかった。那織は?」
「全く同意見。海でやる花火、子供以来だけど悪くなかった」
「ぐるぐる回してノリノリだったのは気の所為か?」
「そこはほら、周りに合わせ無いと、でしょ?」
「そういうことにしておくよ」
黒々としたうねりの中に、白い曲線が現れては消える──今日の月は何だか頼りない。
「でも、楽しかったけど、来て正解だったけど、流石に疲れたかな」
「そうだな。楽しかったけど、確かに疲れたよ」純君の笑い声が鼻に抜けた。
「まんま繰り返しじゃん。それじゃヘミングウェイだよ?」
純君の横顔を見ると、三十九万カンデラの光が遠くで光り、ふっと小さくなった。黒く塗り潰された海に、江の島へと続く街灯が真っ直ぐ延びている。その先で光る、一定周期の単閃白光──私の言葉を純君なら拾ってくれる。私の読んだ本を気になって追い掛けていた純君だったら返してくれる。この言葉の応酬が何よりも楽しくて、私をちゃんと分かってくれているんだって実感出来る。こんな夜だからこそ、絶対に拾って欲しい。
「そのヘミングウェイというのは、どういう人間なんだ?」
だから私は、純君が好きなんだ。こんな事を遣り合える男の子を、私は他に知らない。
「同じことを何度もくりかえしていうんで、しまいには誰でもそれをいいことと信じちまう男だよ──ちゃんと分かってくれたんだ。拾ってくれてありがとう」
「レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』だろ。わかるさ」
「私が読むから?」
「ああ……僕の好きな女の子が読む本なんだ、当然だ」
純君が向き直る。「那織」
「ん?」
「小学生の頃、好きになった女の子が居たんだ。あの時は、まだ好きとか恋とかよく分かって居なかったけれど、ずっと気になっていた。でも、その女の子は本好きを自負する僕よりも遥かに沢山の本を読んでいて、テストの点だって何度か負けた──あの頃の僕は、その子が好きだと認められなかった。今にして思えば悔しかったんだろうな。いや、ずっと悔しかった。僕の好きと得意を軽々と塗り替えていくその女の子の存在が、妬ましくすらあった。
結果として、その女の子は僕の中でどんどん大きくなっていった。もう、その女の子の居ない生活は考えられないくらいに──琉実には感謝してる。付き合っている時は、恋愛感情もあった。けど、僕の心を占めるのは琉実じゃ無かった。その女の子と他愛も無い話をしている時、映画について語り合ってる時、小説について語り合ってる時──すべてがこれ以上無いくらい楽しくて、終わって欲しくないとすら思うくらい楽しいんだ。
僕は、これからも、ずっとその女の子と一緒に居たい」
純君が立ち上がって、そっと手を伸ばした。
「那織、僕と付き合って欲しい」
ねぇ、普通このタイミングで琉実の名前、出す? でも、私と純君の間に、琉実は必ず居たし、今も居る──それはこの先もきっと変わらない。だから、今回だって琉実は来た。お母さんに何を言われたのか仔細は分からないけれど、想像は付く。琉実が何を考えたのか末節までは分からないけれど、予想は出来る──こんな風に、私達の何処かにずっと琉実の存在は付いて回る。だからこそ、こうして私じゃなきゃ駄目だと、どうして私なのかを聴きたかった。
頼りない月の所為で純君の顔は良く見えないけれど、頼りない月のお陰で私の顔を見られなくて済んだ。私の顔は間違いなく緩んでいて、鏡が無くとも私が考える一番可愛い顔をしていない事だけは分かる……付き合ってって言われちゃった。へへ。ちゃんと聴いたからね?
「めんどくさいよ? 重いよ? 一筋縄じゃいかないよ?」
純君の口元がふっと和らいだ様に見えた。「よく知ってるよ」
「ううん、まだまだ足りない。見せてないとこ、一杯あるもん」
「だったら、もっと僕に見せてくれ」
「見せたら絶対嫌になるよ?」
「ならないよ」
「言ったね? 最低でも竹林に花が咲くまでは耐えてくれないと怒るよ?」
「今わの際まで耐えるよ」
ばか。そんなの、絶対無理。勢いで何言ってるの、まったく。
でも──「言ったね? ならないって言ったね?」
「ああ。ならないって言ってるだろ」
「私、振るのは良いけど、振られるのは嫌だよ?」
「振るのは良いのかよ……つーか、付き合う前から振るとか言わないでくれ」
「そう言えば、琉実にも振られたんだっけ?」
「蒸し返すなよ。結構辛かったんだぞ」
「じゃあ、私にそんな想いをさせる訳には、尚更いかないよね」
「当然だ──改めて言わせて欲しい。那織、僕と付き合って欲しい」
「良いよ。私の方こそ、よろしくね」
「……はぁぁ、良かった。安心したら腰が抜けそうだ」
純君の身体から一気に力が抜けたのが、私にも分かった。崩れ落ちる様にして、純君が私の隣に座る──さっきよりも近くに。「今のはださポイント1ね」
「早速かよ……しょうがないだろ。どう言おうか、なんて言おうかずっと悩んでたんだ。今日だって、いつ言おうか、どう誘おうか、気が気じゃなかったんだぞ」
「でも、これで可愛くて嬋娟で婉美な見目麗しい彼女が出来たね」
「自分で言うな。美辞麗句並べすぎだろ」
「思って無いの?」
「……思ってるよ。僕は那織以上に可愛い子を知らない」
「言うじゃん。どうしちゃったの? 雑誌のモテテク記事でも読んだ?」
「からかうなよ」
「ねぇ」
「うん?」
「これで、ちゅーは解禁?」
「ああ──」抱き着いて、今までよりずっと強く抱き締めて、口を塞いだ。
純君の手が私の身体に回されて、同じ様にぎゅっと力が込められた──顔の角度を変えて、舌の位置を変えて、我慢していた分の時間を取り戻す様に、長くて、じれったくて、もどかしい口付けをした。潮風に晒されたしょっぱい唇を味わって、離れて、息を吸い込んで、また押し付けて、口腔の粘膜を総て掬い取る様にして何度も接吻をした。気付けば衝動に任せたキスに変わり、そこにあるのは情意では無く欲情で、夜の海辺で抱き合った儘、私達は誰にも邪魔されない自由なキスを、脳裏に誰も横切らない解放されたキスを、初めてした。髪の間に割り込んで来た純君の指が髪をぐしゃぐしゃにしても、折角塗ったリップが取れても、ほてった身体の体温が伝わっても、純君の劣情が当たっても──関係ない。
今はただ、総てがどうでも良かった。純君の総てを感じたかった。
しれっと腰を引いて逃げようとする純君の背中に手を回して密着する。「好き」
「僕も好きだ」
「うん。ずっと好きだった」
「僕の方が早くから好きだったよ」