琉実の目に溜まった涙の行く先を僕は見届けられない。
姿勢を正して、那織の顔を見る。
僕が初めて好きになった女の子で、
勝負をする前から諦めた女の子で、
いつも一緒に居てくれた女の子で、
延々好きな事を語らえる女の子で、
常に予想を裏切って来る女の子で、
心の底からずっと一緒に居たいって思った女の子の目を、真っ直ぐ見据えた。
那織と一緒に本を読んで、映画を観て、沢山言い合いたい──あの時図書館で、僕は強くそう思った。那織と居る事を望んでいる自分を再認識した。那織抜きの生活を想像するだけで怖かった──僕はどうしようもないくらい、那織のことが好きだった。
どんなに仲の良い人間でも、同じ空間の中で、同じ時間を過ごして、同じ空気を吸っていたとしても同じことを考えている訳じゃない。家族は勿論、琉実や那織みたいな双子であってもそうなのだから遺伝的繫がりが無い他人なら尚更だ。改めて論じるまでもなくそんなことは当たり前だし、それが生物として、群体としての多様性と強さを生み出している。
でも、ふとした瞬間、那織と似たようなことを考えていたりする。そうだよな、僕もそう思ってた──そんな風に同調出来る。それがとても心地好いし、幼馴染としてそんな人間と長い間一緒に居られたことに奇蹟的な物すら感じる。そんな前提があった上で、那織は僕が考えもしないことを口にする。刺激を貰える──だから僕は、那織を失うことが耐えられない。
さらさらとした長い髪も、笑った時に三日月みたいになるぱっちりとした目も、目元の黒子も、ちょっと生意気そうな鼻も、張りの良い唇も、薄っすらと血管が透ける肌も、そんなに大きな口じゃないのに好きな食べ物を夢中で口一杯に頰張る姿も、本を読みながら前屈みになって丸まった弓なりの背中も、眠気を乗せて落ちてくる目蓋と戦っている時に話し掛けると本人はちゃんと応えてる積もりかも知れないが舌足らずの甘えた声で支離滅裂な事を言っている姿も、頰杖突いて詰まんなそうに口を尖らせてる姿も、かと思えば構って欲しがる子供みたいに纏わり付いて来るのも、大人ぶった口振りの癖にすぐ甘い物とか可愛い物に釣られる子供っぽい所も、小難しい熟語とか引用で強がって煙に巻こうとしているのをおばさんとか琉実に見破られている事に気付いていない所も、本人は完璧な外面だと思っているのに周りからはちょっと変わったあざとい女子だと認識されている所も、映画とか小説で泣いた事なんて無いって言い張る割にその実涙ぐむ度欠伸をして誤魔化していた所も、いつも琉実に対して悪態を吐く癖に他人が琉実のことを悪く言うと本気で怒る所も──全部好きだ。
「那織、僕は那織のことが好きだ」
好きな食べ物と嫌いな食べ物が並んでいたら、私は好きな食べ物しか食べない。
琉実みたいなタイプは、どちらも食べなきゃいけないって最初から決め付ける。
きっと、二つ並んで置いてあるって事はどっちも食べなきゃいけないんだとか、今迄そうだったからみたいに考える。経験から来る判断は、多くの場合思考を省略する。嫌いな物を食べなくて済む方法を模索しなくなる。それはそれで賢くてスマートなやり方かも知れないけれど、私は嫌だ。そうなるべき理由をきちんと提示された上で自分が納得しなければ、嫌だ。
食べたく無い。
今、私の前に好きな人からの好意が呈された。
受け入れないなんて選択肢は無い──ただ、私は納得したい。私じゃなきゃ駄目なんだと力説して欲しい。琉実じゃなくて私でなければいけない理由を明確に提示して欲しい。
詰まる所、私は安心したい。
純君が沢山悩んだのは十二分に理解している。傍で見て来たから諾了している。それを踏まえた上での結論なんだけど、人付き合いが無定形で不確かな仮初の力学ならば、さればこそ安心できる材料はあればあるだけ欲しい──えっと、もう琉実の事何て眼中に無くて、私だけしか見えてないみたいな、平明に言えば、兎に角私だけを見て欲しい。私だけを見てくれなきゃ嫌だ。私だけしか見えてないって言われたい。そんな所思に応えて欲しくて、私だけを見てくれるよう幾度と無く仕向けたけど、それが本当に功を奏しているのか、純君はちゃんと私だけを見てくれるのか──我ながら面倒臭いとは思うけど、確証が欲しくて堪らない。
私は琉実みたいに器用じゃないし、本音を溜め込んでいると具合悪くなっちゃうし、面倒臭くて我が儘で、好きなことしかしたくなくて、所謂お淑やかで聞き分けの良い女の子にはなれないって自分で分かってる。分かってるが故に、だからこそ。
それを全部受け止めて欲しい。受け止めてくれるって思わせて欲しい。
「那織、僕は那織のことが好きだ」
嬉しいけれど、嬉しくて堪らないけれど、今までの想いが報われた事実に泣きそうな位だけど、この場で踊り出したいくらいだけど──私を心の底から安心させて欲しい。
もう琉実には微塵も気持ちが残って無いんだって証明して欲しい。
私じゃなきゃ駄目なんだって、秋毫の煩慮も抱かせないで欲しい。
全身に染み渡って零れ落ちる位もっと沢山好きって言って欲しい。
言いたい事が止め処なく溢れて、その場では唯一言「ありがとう」とだけ返した。
色々言いたくて仕方無かったんだけれど、一先ず十把一絡げに今度は純君から私に対してアプローチする番だからねって意味を内含して──泣きじゃくる琉実の横で舞い上がった勢いであれこれ言えないってのも無くは無かったけど。てか、それしか無かったし、あれこれ言える空気じゃ全然無かった。それ位の気遣いは私にだってあるし、背中を摩ってあげる慈愛はまだ枯れてない──それにこの役目は純君には出来ないし、して欲しくない。
だから、私がやるしかない。
琉実が泣き止む迄、私達はずっとその場に居た。何度か「純君は先に帰って良いよ」って言ったけど、戸惑った表情を見せるだけで帰ってくれなかった。きっと純君は本当に心配だったんだろうし、琉実を泣かせた罪悪感を抱いていただろうし、此処で帰るのは薄情だって思っていたに違いない──けど、どうせなら女二人だけにして欲しかった。
振られた琉実を私が慰めるって構図は完全に地獄なんですけどね。
けど、その役目は私が引き受けようと思った──私は琉実に慰めて貰わなかったから。
そうやってどれ位の時間が経ったのか分からないけど、「何時に帰って来るの?」って親からLINEが届く位には留まって居た。これ以上の紛擾は止めて欲しいと思いつつ、琉実は反応出来ないから私が相手をするしか無かった。ただ、LINEを切っ掛けに動き出せたから結果的に有り難かったのはある──泣き腫らした目で帰った娘を見て、何をどう察してくれたのか分からないけど、お母さんは怒ったりしなかったからこれも結果的には問題無し。
その日の夜、お母さんは私の部屋に来た。理由は聞かなくたって分かる。
漸く告白された実感を嚙み締めようと思っていた所に、世界はまたしても私に役割を押し付けて来た──良いですけどね。事情を聞く相手は私しか居ないし。
「何があったのか訊いていい?」
「うん」答えながら、何処まで話すかを試算する──ううん、考える迄も無い。私は琉実と同じ轍は踏まない。「今日、純君から告白された」
「なるほど。そういうことね。那織はこれからどうするの?」
「どうしようか考えてる所にお母さんが来た」
「って、言いたいだけでしょ。素直じゃないんだから。まぁ、大体の事情はわかった。それなら私が出て行ってどうのって話じゃないわね──那織の顔が嬉しそうだったから何となく想像は付いたし、そこまで心配してなかったってのが本音なんだけど」
「何それ。なんかむかつく」
「母親なめんなってこと。残念だったわね」
そう言い残して、お母さんは部屋を出て行った──何あれ。ほんとむかつく。無性に腹が立って、閉まった扉に向けてクッションを投げ付けたけど、無論誰にも届かない。
ただ、目的は達成した。私は親族に隠さず言った──琉実と違って。
親に隠匿して育む恋愛は楽しいだろうけれど、何時でも簡単に解消出来る。それに当人達が思っている程、親は甘くない。だったら、悉に言った方が障壁は少ない。
さて。私の部屋に邪魔者が闖入して来る事はもう無い筈。一人の時間。
床に転がったクッションを拾い上げ、息を吐いてからベッドに倒れた。
はぁ、やっと落ち着いて…………純君が好きだってよ!!!
まあ、当然だよね。話が合うのは私だし、可愛さなら負けて無いし、薄々そうなんじゃないかと思っていましたよ。そうは言っても、琉実に対して残留思念がって可能性はゼロじゃ無かったし、鮮少の疑懼も無かったかと質されればそりゃありましたけれど、いや、実際の所、いけるんじゃないって感覚もそれなりにあったのも事実で──ふふふ。
あの純君が私の事を好きだって!!! ああっ、もう困っちゃう。

ねぇ、これって、遂に、漸く、私の想いが結実したって事でしょ?
究竟すると、私の可愛さと魅力と偉大さにやられたって事でしょ?
やば、油断すると表情筋がとろけそう。
欣喜の極みに満たされた胸臆が緩やかに肺を圧迫して、息苦しささえ覚える。琉実が最初に味わった初恋を私は隣でずっと静観していて、何時しか恋仲になるなら純君が良いなと思い始めて、でもそれは理性的に処理した結果の答えでしか無かった。だからそれを初恋の権輿だとするのは若干の抵抗がある。初恋と呼ぶには余りにも整えられた、何処かから切り出してきたような矩形の感情だった──筈なのに、長い年月の中で水流に削られた石が丸くなる様に、気付けば私の初恋は綺麗な球体になって転がって居た。
長かった。途轍もなく長かった。純君風に例えるならモノリスに出会った猿人が知性を獲得し、ディスカバリー号で木星を目指し出す位長かった──小さなモノリス、いやHAL9000が鳴って甘美な陶酔を遮断した。キューブリックの宇宙に意識を飛ばしていたのもあり、もしや純君かと期待して画面を見ると、部長だった。うん、知ってた。そりゃそうだよね。告白した後に、自分からLINEを送って来たりしないよね。幾ら純君でも。
通知欄に表示された《今日、どうだった?》の文字。
今は気分じゃないし、既読を付けないまま放置する。
もう少し浸っていたい。って言うか、浸らせて──言われて直ぐは冷静さが同居出来ていたのに、時間が経った今は私の取り柄たる聡明さも何処かに消え失せて、ただただ喜悦の感情だけが押し寄せて来て自然とにやけそうになる。霧散した聡明さを拾い集める事は暫く出来なさそうな位、私の脳は使い物にならなくなってしまった。
てか、無理じゃない?
私、さっき純君に好きって言われたばかりだよ? それからすれば十分冷静じゃない?
どんだけその言葉を聴きたかったのかって話。
どんだけその言葉を待ってたと思ってるの?
もう、琉実が泣き出すから──あの場ではありがとうしか言えなかった。言いたい事、もっともっと、数え切れない位沢山あって、それこそ億とか兆レベルじゃなくて恒河沙とか阿僧祇位はあった──それは言い過ぎた。そこまでは無い。でも、本当にもっと言いたい事が、言うべき言葉が幾つもあった。それなのに琉実が……ううん。あれで良かった。あの場の勢いに飲まれて居たら、本当に些少の冷静さも持ち得無かったかも知れない。そう考えれば、強制的に客観視せざるを得ない状況下に置かれたのは有り難かった。琉実、ありがとね。
はてさて。
お姉様のケアはありつつも、私が考えねばならないのは今後のあれこれ。だって、もし付き合うってなったらだよ、今迄お預けを喰らったあれやこれやを突破出来るって事でしょ?
純君がこう迫って来て、「那織、好きだ」とか言いながらキスして来て、そのままベッドに倒れ込んだりなんかしちゃったりして、息を荒らげたまま、けれど震える指先で私の服を少しずつ剝ぎ取って、ブラ外すのに手こずっちゃったりして……ああっ、なんてふしだらな。
うん、純君から来て欲しい。
純君から熱く求められたい。
ちょっと位強引でも構わないから──寧ろ強引位が私的には安心出来るってか、嬉しい。
やっぱ、もっと鬼気迫る感じで告白して欲しいな。私しか見えない的な、私以外視界の中に入らない、更に言うなら今すぐにでも抱き締めたいとか好きで好きで堪らなくて衝動を抑えきれない──何なら私の骨や内臓まで愛おしいって位の勢いで言って来て欲しい。そうすれば私も安心して身を任せられる。幸い、まだ「ありがとう」しか言ってないし。
あのゴールデンウィークの時と違って、駆け引きする積もりは毛頭無い。今の私はとってもお優しいから、それとなく純君に伝えてあげようかな。誘導にならない範囲で。
よし、そうと決まればお電話を……いや、待てよ? 隣にぎゃん泣き上がりのお姉様が居るのにそれは些か配慮に欠けるか? 耳を欹ててでもしていたら面倒だな。まぁ、それは会った時に面と向かって言うとするか。さっきの今なのに、隣を徒に刺激する必要も無かろう。
とは言え、何時迄も引き摺られると動き辛いし、我が血族がどうすれば吹っ切れるのかも抱懐しておかねば──果たして、私が心配する事なのか? うん、私が心配する事だよね。
ま、いいや。
今日位ゆっくりと浸らせて頂きます。散々御託を並べ立てたけど、思考を挟んで逸る気持ちを律しようとして来たけど、逆上せて感情の圧力が高まりそうなのを制して来たけど、そろそろ限界が来そう──ううん、とっくに何度も限界は来てる。
ねぇ、僕は那織のことが好き、だってよ?
あんな真面目な顔で、好きだって。やだもう。照れちゃう。私も好き。
あぁ、本当の本当に私の番が来たんだ。
やっっっっったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!