
ゆっくりと息をしたのに、苦しかった。
苦しいのは、暑いからってことにした。
だから、やっぱりそうなんだって想ったからじゃなくて。
自然を装う気づかいの裏に緊張が見えたからでもなくて。
もちろん那織に注ぐ視線を意識して逸らしてるのに気付いたからじゃない。
純がわたしに気をつかって話題を振ってくれるのに気付いたからじゃない。
全部、暑いからだ。汗で前髪が崩れそうになるくらい暑いから。夏の所為。
わたしは気付いていない。何にも知らない。ちょっと暑さに参ってるだけ。
言っても仕方ない。今日は楽しむって決めて家を出た。だから気にしない。
だけど──気にしないって決めてるのに、気がつかない振りしかできない。
前に来たときは入らなかったランドマークタワーに上った。エレベーターが分速七五〇メートルだとか、大きいコンクリートの重りみたいなのが揺れを抑えてるとか、景色よりもそんな話で二人が盛り上がっていて、合間に純が解説してくれるんだけど、どれも那織相手だと説明が要らなくて、横から那織が「どうせなら、ランドマークの要たる多段振子式制振装置を見たくない?」って言えば、純が「ネットにあるかも」みたいに言い出して、見付かった動画を一応わたしにも見せてくれるんだけどよくわかんなくて、盗み見た窓の外──遠くに天使の梯子を見付けたわたしは嬉しくなって、気を引きたい子どもみたいだなって思いながらもこっちを見て欲しくて、純に「ね、天使の梯子」って話し掛けた。
それなのに──純が顔を上げたとき那織が何かを小さく呟いて、純がそれを訊き返した。
「ヤコブの梯子──ジェイコブズ・ラダーって映画、あったなぁって」
「あったな」
前に、純は天使の梯子って言ってなかった? 「ヤコブ? それが正式名称なの?」
「ヤコブは天使の名前だよ。だから天使の梯子……琉実はそっちの方が好きかなって」
「うん、わたしは天使の梯子の方が好きかな」
それはわたしに向かって言った、わたしの為の言葉と時間だったから素直にそう言った。本当にそう思ったから──けれど、またしても「天使の階段、レンブラント光線、ゴッド・レイ、薄明光線、光芒……呼称は色々ある。そらいっぱいの光でできたパイプオルガンを弾くがいゝって言ったのは宮沢賢治」那織が言って、「確か『春と修羅』だよな」純が応える。
那織に悪気はないってわかってる。二人のこういう会話はわたしにとって日常だったし、仲間外れにされてるとかじゃない──のに、今日はそれを飲み込む余裕がない。
だから、那織が「ミッション系の幼稚園卒として、ヤコブの名前位は覚えておいた方が良いんじゃない?」って憎まれ口を叩いたことがとても気に障って、曖昧に流した。
日本丸っていう大きな船でも似たような感じだった──日本丸は前にも来た。純と二人だけで来た。あのときは純が興味深そうに船内のあちこちを見ては逐一わたしにこれがああであれがこうでと楽しそうに話していて──今日は直接わたしにじゃなくて、間に那織がいる。
行かなかったところが行ったところに変わっていって、行ったところでも純の反応が前とは全然違って……わたしと行ったときと違って、今回は話の合う相手が居るから。
わたしがわかんない話を、那織としている。
そんな純の姿を見ると、つい思ってしまう。
わたしとじゃ物足りなかったのかな?
わたしに合わせようとしてたのかな?
純が好きな話を、したい話を、わたしが我慢させてたのかな……させてたよね。ごめん。
那織とマニアックな話をしている時の純の顔が本当に楽しそうで、わたしの好きな純の表情で、わたしじゃそんな顔にさせてあげられなくて、それがとても悔しくて悲しくて、辛い。
純はわたしと付き合ってる時、楽しかった?
わたしは楽しかったんだけど、どうだった?
純は絶対に楽しかったって言ってくれるけど、それは本心? それとも優しさ?
純はわたしのこと、誰よりも好きだった?
わたしは一番好きだったけど、純はどう?
那織のこと、吹っ切れたって言ってたけど、それは本当だった? それとも噓?
なんて、訊けるわけないじゃん。
それに、訊かなくたってわかる。
楽しそうな純の顔見てれば、わかるよ。十年の付き合いだよ?
二人が……二人だけで盛り上がって、一人になった時、ずっと考えちゃうんだよ。
楽しもうって思ってるのに、二人の話に交ざったりしてるのに、すっごく辛いよ。
けど。だけど──負けるってわかってる試合だからって手を抜くのは違う。そんな試合はしてこなかった。カッコ悪い試合はするなってコーチや先輩から何度も言われたし、わたしもそう思うからいつだって全力で戦ってきた。
今日だって同じでしょ?
うん、今日だって同じ──そう思わなきゃいられなかった。耐えられなかった。
一緒に出掛けるの、好きだったはずなのに、どうしてだろう、今日は凄く辛い。
日本丸のあと、那織が騒ぐからロープウェイに乗った。ロープウェイから降りて外に出ると、いきなり雨が降り始めた。予報じゃ雨なんて言ってなかったし、傘だって持ってないし、周りの人も大慌てで走り出したりして──今朝、日傘を持って行こうとする那織に、「人が多いところだと邪魔になるんじゃない?」って言った自分を反省した。あのとき、那織は「これ、晴雨兼用だし、役に立つかもよ? 本当に良いの?」って文句と共に傘を玄関に置いた。
那織の言う通りにすれば良かった。
那織はわたしの分も用意していた。
いつもの調子で「琉実は日焼けとか気になんないだろうけど」なんて憎まれ口を叩いていたけど、ちゃんと日傘は二本あった。それなのに──断ったのはわたしだ。
突然の雨だったけれど、ゲリラ豪雨ってほどじゃなかったのが唯一の救いで、それでもゆっくり歩くには勇気の足りない雨で──強くなる雨脚の中、どうしても二人より速く走ってしまう自分の脚がもどかしくて、何度も振り返って速度を調整した。大慌てで逃げ込んだ赤レンガ倉庫の入り口はぎゅうぎゅうで、何とか人の合間を縫って奥に陣取った。場所を確保しようと急ぎ足で進んだから、二人とは距離ができてしまった──自分だけ先に広い場所に行こうとか考えたわけじゃないって証明したくて、すぐ純のスマホを鳴らして場所を伝えた。
ハンカチで雨をぬぐっていると、遅れて着いた那織がこれみよがしに「琉実の言う事なんて聞かずに日傘持ってくれば良かった」と言ってきた。
「ごめん……那織の言う通りにすれば良かったって思ってる」
言わんこっちゃないって不満たらたらな顔で、那織が手櫛で髪を整え始めた。
「いつもは折りたたみ傘を鞄に入れてるのに、今日に限って忘れた……すまん」
「純が謝ることじゃないって。もし純が傘を持ってたとして三人は入れないでしょ」
「そこはレディファーストじゃない? ほら見てよ、私なんて毛先はうねっちゃってるし、服は濡れちゃったし、お陰でブラが透けちゃって……やだ。超恥ずかしい」わざとらしく身をよじった那織がわたしのブラウスを引っ張った──「琉実も透けてる」
「もうっ、わざわざ言わないでよっ!」バレないよう腕で押さえてたのにっ!
「上に着てる分、私よりマシじゃない? こっちはもろ出しなんですけど」
そう言いつつ、服をぱたぱたするだけで一向に拭かないから、もしかしてハンカチ持ってないのかなって、この子はすぐハンカチとかティッシュを忘れるから、仕方なく自分が使ってたハンカチを渡そうかと思った時だった。露骨に聞こえないふりをして窓から外を見てた純が、遠くの空を指して「あっちは晴れてるし、雲が流れてるからすぐに止むと思う」と言って、自分だって濡れてるのに、「ほら、使えよ」ってさり気なくハンドタオルを那織に渡した。
わたしが最初に赤レンガに入ったから──自分だけ助かろうと思ったんじゃなくて、一気に人が流れ込んだから服を拭いたりできる場所を探そうって、だったら脚の早いわたしが二人より先に行った方がって……わたしは二人の為にそうした。
だから──わかってる。純が那織にタオルを渡すのは仕方ない、わたしはハンカチで拭いてたとこだったし、この場合しょうがないってわかってるのに、純が当たり前みたいな感じで那織にタオルを渡したのが、すごく嫌だった。
せめて一言……一言でいいから訊いて欲しかった。
那織に渡すんだ、やっぱりそうなんだって思った。
けど、もし純が「使うか?」って訊いてくれたとしたら、那織は「なんで私より先に琉実なの? 私は?」って思ったはず……そうなんだとしたら、純は正しい。
正しいんだろうけど、まるでわたしが眼中にないみたいで、順位を付けられたみたいで、とても──とっても寂しい。三人で居るのに、二人と一人って感じですごく悲しい。
髪型だって、服装だって、慣れないメイクだって、ネイルだってしたのに、いきなり降ってきた雨の所為で髪も服も濡れて、全部全部なんだかよくわかんない感じになって、もう全てがどうでもよくなっちゃって──やだ。
やだ。
やだ。
やだ。
やだ──違うって言って欲しい。
もっとわたしを見て欲しい。わたしに興味をもって欲しい──叶わない。知ってる。
そうだと決まったわけじゃないのに、そうとしか思えない。
死刑宣告を待つみたいな時間が辛くて痛くて逃げ出したい。
けど、頭の中で「おまえが言うな」って声が聞こえてくる。
それを言わないでと思う一方で、その声を支えにしようとする自分がいる。
矛盾だってわかってるし、那織と何度も話をしたし、昔のことを気にしたって仕方ないとも思ってるけど、どうしても思ってしまう。また昔の場所に戻ってきてしまう。
別れたわたしが──純を振ったわたしがどんだけ頑張ったって、意味なんてなかった。意味なんてなかったけど、何もしないよりはきっと良かった。良かったはず。
そうやって自分を納得させるしか、気持ちに区切りを付けるしかない。
あのときのわたしは、純が那織を選ぶことを望んだんだから。
今はその続き。
そう、これで最初にわたしが願った通り。もし別れなかったら、純は、那織は、気持ちを引き摺ったままだった。二対一。わたしの負け。やる前からわかってたことじゃん。
わたしは負けるってわかってた試合に、それでも本当に負けるのかやってみなきゃわかんないって気持ちで臨んだけど、予想通りだっただけ。だから──泣くな。
まだ、泣くな。
頭ではわかってるのに、ちゃんと理解してるのに、感情だけが追い付けない。
今日はちゃんと笑顔で、心から楽しむって決めたんだ。純が那織と楽しそうにする姿は、わたしの好きな姿で、望んでた姿でしょ? だからまだ泣くな。お願い。耐えて。
そうだよ、まだダメだ。耐えなきゃ。プレゼントだってまだ渡してない──あっ! プレゼントっ! さっきの雨で濡れてないよね? ビニールに入れてあるし、大丈夫だよね?
純に気付かれないように、わたしはそっとリュックの中を確認する。
わたしのと、那織の──よかった、大丈夫。中までは染みてない。服とかはまあまあ濡れたけど、土砂降りとかじゃなくてよかった。危なかった。
でも──土砂降りだったらわたしは涙を堪えなくて済んだ。
赤レンガでお昼を食べ終わる頃には、純の言う通り雨は止んだ。
「夕飯までどうしよっか? とりあえず中を見てみる?」
昼食を終え、赤レンガ倉庫の中に入っている店を見て回った。お洒落なアクセサリを扱う店が多かったものの、雑貨を扱ってるお店も幾つかあって飽きることは無かった。アメリカ雑貨が並ぶ店の棚には、思いがけず映画のグッズがあったりして、琉実には申し訳ないと思いつつ、ミニカーを見たりして那織と盛り上がった。普段だったら買わなかったであろう、ジョン・ウィックに出てくるマスタングのミニカーを買った(誕生日だからと自分に言い訳して)。様々な店に立ち寄りながら、二人はネックレスやらイヤリングみたいなアクセサリやパスケースとかポーチみたいな小物を見てはしゃいでいた──二人は「純の誕生日だから」って遠慮していたけれど、琉実には赤い靴のネックレスを、那織には苺柄のシュシュを買ってあげた。
日々の感謝を込めて僕が買いたかった。
外に出ると天気は完全に回復していた。
雨の所為で湿気が身体に纏わり付く様な不快感はあったが、通り雨が作った小さくてまばらな水溜まりが干上がるのは時間の問題だと確信できる日差しのお陰で、山下公園に向かっている内に服は完全に乾いていた──もしかすると赤レンガを散策している間に乾いていたのかも知れない。つまり、そんな事が気にならない位に僕は楽しんでいたし、二人も楽しんでいるように見えた──昼食を取る前、気付くと琉実が黙っていた。その時の琉実は、考え事をしている様な、それでいて色味を失した表情をしていて、琉実の分からない話で那織と盛り上がってしまった事を反省したばかりだった。だから、琉実が笑ってくれて安心した。
乾びる一歩手前のベンチをタオルで拭って、暫く話をした。夏休みの予定だったり、課題の話だったり、他愛が無くて末梢的でありつつも、学生である僕等に取っては世界の枠組みに絡んだ話でもあった──今はまだそれで良かった。
暑さに悲鳴を上げた身体が汗を幾筋も垂らし始めた頃合いで、那織が氷川丸を指して、「あれも中に入れるんでしょ? 前に行った?」と質して、僕は琉実とほぼ同時に頷いた。
さっき行った日本丸と違って、二度目に訪れた氷川丸の船内は落ち着いて見られた。船齢三〇年の航海の歴史の中で戦争を経験した船を初めて訪ねたならば、きっと僕はまた自分の世界に入ってしまっただろう──那織と共に。もちろん那織が居る事で新たな気付きもあったし、見落としていた物もあったが、琉実が「神棚には大宮の氷川神社のお札があるんだよ」なんて那織に言ったりするのを見て「よく覚えてるな」なんて感心したり、琉実の入れない話で盛り上がる事無くちゃんと三人で見て回れた。
氷川丸を出た後、少し早いと思いつつ夕飯がてら中華街に足を向けた。
横浜に行くと決めた時、琉実が「せっかくの誕生日なんだからちゃんとしたお店の方が良くない?」と言ってくれたが、畏まって食べるより三人であーだこーだ言いながら食べる方が良いと思い、敢えて店を予約したりはしなかった。きっと、その方が楽しいと思った。
時間を外した積もりだったが、中華街は人いきれで噎せ返りそうなほど混んでいて、琉実が「早めに来て正解だったかも」と口元を綻ばせた──中華粥を食べてみたいと言う那織のリクエストに応えて真夏に中華粥を食べたり、露店で買った焼き小籠包に齧り付いた那織が口の端から飛び出した熱々の肉汁に大騒ぎしたり、苺飴を食べながら自撮りする琉実を冷やかしていた那織が、自分も陰でこっそり写真を撮っている所を琉実に見られて返り討ちに遭ったり──一箇所に留まらず歩き回ったのは正解だった。折角の誕生日だからと言うならば、僕は三人で遊ぶだけでも十分だったし、何より二人がはしゃいでいる姿を見られるだけで満足だった──なんて言うと少し恰好付けすぎか。でも、噓偽りの無い本心だった。
ゴマ団子を頰張る那織と目が合った。「ほの……んっ、ごめん、この次は?」
「お腹は一杯になったか?」
「甘味なら未だ若干の余裕があるけど、お腹一杯の定義を八分目とするなら、お腹一杯」
「そいつは結構。琉実はどうだ?」
「わたしもお腹いっぱい。食べすぎちゃったくらい。純はお腹いっぱいになった?」
「ああ。お互いよく食べたよな。若干の余裕がとか八分目とか言ってる人も居るが」
「毎日がチートデイみたいな人は、胃袋の作りがわたしたちとは違うんじゃない?」
「聞こえてますけど。何、海で泳ぎたいの? 山下公園に戻る? 背中押そうか?」
この時間がもうすぐ終わる事を、僕は知っている。背中を押すのは僕だ。
自分の背中を、自分で押さなければならない。
気持ちに迷いは無い。考え過ぎってくらい考えたし今更覆りようがない。
ただ──ここ何日か、この関係が崩れる事に対する危惧と僕等なら大丈夫だよなと云う願望を行ったり来たりしていた。ずっとその二択の狭間に居た。それだけならまだ良かった。
僕は気付いてしまった──僕等なら大丈夫だよなと云う願望は、酷く都合の良い考え方で、結局全てを琉実に押し付けて我慢を強いているだけなんだ、と。だとすれば、それは願望じゃなくて琉実に対する身勝手な要望でしか無い。そんな事を頼む資格は僕には無いし、「これからも変わらずによろしく」なんて思慮を欠いた言葉は口に出せない。
残ったのは、危惧だけだった。
危惧? 違う。明確な恐怖だ。もう戻れない事に対するはっきりとした怖さだ。
それでも僕は言わなければならない。
那織が好きだから。
この先も一緒に居たいと思ったから。
これから先、僕等の関係がどう変化していくのかは、率直に言ってわからない。
僕等の間に漂う妙な空気感は、きっとおじさんやおばさんにも悟られるだろう。
だから、今回は隠さない。那織と付き合う事になったら、おじさんやおばさんに、自分の親にも関係を伝える。そうすることが本当の意味でフェアだと思うから。
ただ、せめて──唯一願うのは、琉実と那織が仲良くあって欲しいということだけだ。僕の事はどうでもいい。隣の家に住む二人の幼馴染が……二人ならきっと、いや、やめよう。
「さて、最後は港の見える丘公園だよな?」
「だね」笑みの滲んだ柔らかい表情で琉実が頷く。
「此処から近いんだよね? そろそろ脚が原子レベルで崩壊しそう」
「崩壊したら負ぶってやるよ」
「純に那織をおんぶするのは無理でしょ。多分、立ち上がれないんじゃない? 那織を甘く見たら痛い目見るよ? 腰を痛めるのは確実だね」
「琉実、一人だけ先に帰る? あの純君が私を負んぶしてくれるなんて感動的で安っぽい台詞を言ってくれてるのに、腰を痛めるとかよく言えるよね。デリカシー無さ過ぎない?」
「感動的で安っぽいとか言うな。言わなきゃ良かった」
デリカシーが無いのは姉妹共々だな。
「噓噓。超嬉しい。感動の余り泣きそう。もう今すぐにでも私を負んぶして欲しい」那織が僕の腕を摑んで蹲踞する。「私、脚が痛くてこれ以上歩けない。このままじゃ私はこの横浜の地で一生を終える事になっちゃう。次会う時は中国語しか喋れないかも。再見」
蹲る那織に引っ張られてバランスを崩しそうになるが、何とか持ち堪えた。
「何で広東語なんだよ。一瞬分かんなかったぞ」かろうじて分かったのはきっと香港映画のお陰だろう。「ほら、頼むから立ってくれ」
「負んぶしてくれるって言った癖に……ま、いいや。広東語を拾ってくれたから許す」
僕の腕を離して、那織が立ち上がる。口ではああ言っているが、通行の邪魔になる自覚があるんだろう──それくらい中華街は人に溢れていた。殆ど夜に近い時間とは言え、行き交う人の熱気やお店の火熱もあって、この周辺一帯には異常なほど熱が籠っている。
中華街を抜けて高架を潜る頃には、首筋に纏わり付いていた粘度の高い暑気がほんの少しだけ緩くなる。コンクリートで固められた川が幾何かは寄与しているのかも知れない。
右手に元町商店街のアーチを見ながら、港の見える丘公園を目指す。歩道橋越しに広場が見えると、琉実が笑いながら「これから公園までずっと上りだから。気合入れて頑張って」と言って、那織の背中を軽くポンポンと叩き、僕に向かって「ね?」と同意を求めて来た。
「そうだな……と云うか、僕もそろそろ疲れが──」
那織が立ち止まった。「もう無理。負んぶ」
「すまん那織、僕の脚も崩壊するかも知れない」
「駄目。負んぶしてくれないと許さない」
「バカ言ってないで行くよ」
琉実が那織の手を引いて階段をずんずんと上っていく。木々の間の階段を、二人の後ろ姿を眺めながら歩いていく。「この階段、あとどれ位続くの?」とか「もう脚上がんない」と呻き混じりの声を上げる那織とは対照的に、眼前で揺曳するスカートは段を上がる度にひらひらと閃いている──左右に振れる那織のお尻を見続けるのもどうかと思い、視線を下げた。
何人かと擦れ違って、広場に出た。記憶が正しければ、展望台まではもう少しある。
何処にそんな元気があったんだ? と言いたくなる速さで、ベンチを見付けた那織が走り寄っていく。琉実がこっちを振り返って苦笑した。
「今日だけで一ヶ月分は歩いたんじゃないかって位歩いた気がする」
「さぞ歩かない人生を送るんだな……けど、僕も結構脚にきてる」
「二人そろってだらしない……ほら、純も座れば?」
「琉実は良いのか?」
「これくらいじゃへこたれないって。純や那織とはベースが違うの」
さり気なく琉実の表情を窺う。本当は座りたいけど僕に譲った──って事も無さそうだ。
「じゃあ遠慮なく」那織の隣に腰を下ろす。
「ねぇ、脚がぱんぱんになっちゃったんだけど、揉んでくれるサービスとか無いの?」
「こんな人通りの多い所で脚は揉めないだろ」
「人通りが多くなければ良いって事?」覗き込むように、那織がじっと見詰めてくる。
「何をわがまま言ってるのよ。ほら、わたしが揉んであげるから」
那織の足元にしゃがみ込んだ琉実が、脹脛をゆっくりと揉み始めた。手付きが慣れているのは運動部故だろう──何だかんだマッサージしてあげる辺りが琉実らしい。
「もう、負んぶしてくれなかった冷血男に揉んで貰おうと思ったのに……でも、ありがと。そうしたらば、慈悲の心を欠いた冷酷な殿方には肩でも揉んで貰おうかな」
「どう転んでも僕にマッサージさせたいんだな……」
「ほんとに大きい人の前だと畏れ多くて言えないけど、ほら、私もそこそこおっぱいあるじゃん? あとさ、良く無いとは思ってるんだけど、本を読んだり勉強したりする時、いつも前屈みになっちゃうし、超肩が凝るんだよね。だから揉んでくれると嬉しいなって。それに純君だって吝かじゃないでしょ? 現役女子高生に触れるんだよ? 那織ちゃんの肩を揉めるんだよ? ほら、嬉しいでしょ? 嬉しいって顔に書いてあるよ?」
「書いてねぇよ」
顔に嬉しいなんて書いた覚えは無いが、偉そうな口を利いておいて何も出来なかった不甲斐なさは厳粛たる事実だ。肩を揉むくらいは──「どの辺が凝ってるんだ?」
「え? 本当に揉んでくれるの?」
「ああ。ちょっとだけだぞ」
今まで誰かに言った事は無かったのだが、肩や首をほぐすのには自信がある。
子供の頃、辛そうな顔で腕をぐるぐる回す母さんに「肩、揉もうか」と声を掛けたのが切っ掛けだった。幼心に母さんが仕事で疲れているのを感じ取ったのだろう。肩を揉んだ後、「ずいぶん楽になったよ。ありがとう」と言われたのが嬉しかった。今にして思えば子供の握力なんてたかが知れているが、それでも母さんの役に立てた事が誇らしかった。
それから数日経った頃だろうか、買い物の帰りだった。母さんが「この間肩を揉んでくれたから」と言って本を買ってくれた。それ以来、母さんからお願いされるマッサージには邪念が混ざった──ただ、本を買って貰えるに値する働きをしなければという義務感はあった。
今では本を買って貰ったりしないが、辛そうな時に「肩、揉もうか?」と声を掛ける位には継続している。そのお陰で、何処が凝っているのかは触れば分かる。
那織の肩に手を置く。二、三度軽く摘まむようにして揉むと、首元の筋が硬くなっているのがしっとりと汗ばんだブラウス越しに伝わってきた。確かに凝っている。
張っている筋を捉え、ゆっくりと親指に力を籠める。「この辺りか?」
「んっ。はぁ……そこ」鼻に抜ける甘ったるい声──と云うか艶めかしい声を出した。
「何て声出して──」
不意に冷めた声がした。「何してんの?」
立ち上がった琉実が冷ややかな視線を僕に投げる。
「肩を揉もうかと……」
「わたしが脚揉んでるのに、純が肩揉むっておかしいでしょ。那織、調子に乗り過ぎ」
「私だって、本当に肩揉んでくれるとは思わなかったし……」
「じゃあ、肩を揉んだ純が悪いってこと?」
「別に悪いとか言って無くない?」
「いや、僕が悪かった。だから、とりあえず落ち着こう。な」
この場を早く収めたいのもあるが、僕が調子に乗ったのは事実だ。
「うん……ごめん」琉実の言葉がふわっと地面に落ちた。「那織ももういいでしょ? ほら、あとちょっとだから行こう」落ちた言葉には目もくれず、琉実が顔を上げた。
それから無言で木々の中を進んだ。途中で琉実に話し掛けたが、会話は続かなかった。
肩を揉むのは得意──そんな稚拙な驕傲に目が眩んで、余計な事をしてしまった自分の浅薄さを恥じた。琉実が脚を揉んでいるのに、僕が肩を揉むのは確かにやり過ぎだった。那織だって本気で肩を揉めと言っていた訳じゃ無かった。調子に乗った僕の過怠……だが、那織のああいう態度は今に始まった事じゃ無いし、それこそ昔から変わらない僕等のやり取りではあって、琉実があそこまで不機嫌になるのは──午前中の琉実も少し変だった。もしかして、琉実は僕が言おうとしている事に気付いているのだろうか。僕が那織に──いや、深く考えるのはよそう。そんな事を考えながら平時と同じよう振る舞うなんて、恐らく僕には出来ない。それに、観照しようと試みた所で確かめる術も無い。訊ける訳が無い。
木の板が続く歩道に入り、木々を抜けた先に展望台が見えた。見えてしまった。こんな空気のまま言いたくない──ほんの数分前の出来事を悔やんでもすべてが手遅れだった。
結局、僕は最後の最後まで……那織が背中を突いた。「余計な事言ってごめんね」
声を掛けようとした僕の脇を抜けて、那織が琉実の肩に手を回した。二人で何かを話している風だが、内容は聞き取れない。街灯に照らされた二人の横顔は暗くない。
そんな二人を見ながら、僕は当たり前で昔から変わらない事実を今更に実感する。
二人と一人──これが僕等三人の内訳。一人はいつだって僕だった。知らない土地に引っ越して来て最初に出来た僕の大切な友人は、常に二人だった。一人っ子の僕はそれが羨ましくて、二人の間に混ざりたいと願っていた。でも、ずっと二人と一人だった。
小さい時から、今この瞬間まで。
そうか──僕は本当に愚かだ。浅短で狭隘な事ばかり考えていた。僕がどう思おうが、二人の内のどちらかとどうなろうが、二人の関係を壊す程の影響力は僕に無い──ずっと二人と一人だ。付け上がって勘違いをしていた自分が恥ずかしい。二人がどれだけ喧嘩して、どれだけ仲直りして、どれだけ言い合いをして、どれだけ再び話し始めたかを僕は知っている。
それをずっと間近で見てきた。
言い合いばかりしているけれど、あの二人の関係は容易く崩れるほど脆弱じゃない。
「着いたっ!」弾んだ声で、琉実が振り返った。
二人がどんな言葉を交わしたのかは知らない。
最後の階段を上り切って、ライトアップされた展望台に立つ──遠くに港湾の夜景とベイブリッジが見える。空には陽光の残滓が留まっていて夜と呼ぶには物足りないが、遠くで煌めく光源は確かな存在感を漂わせている──彼方まで続く決して空と交わらない灯りの中で、ベイブリッジの橋脚だけが空を目指している。
夜の始まりを見届ける展望台にはカップルしか居ないものかと思っていたが、男子だけのグループや女子だけのグループも居て、それぞれが適度に距離を取って談笑していた。
展望台の端で夜景を眺める琉実に駆け寄る。
「やっと着いたな。久し振りだ」ひとつ息を吐く。「さっきはごめんな」
「何が?」僕の言葉を遮って、琉実が続ける。「それより、キレイだね」
何も言わなくて良い──行間が語っていた。
「綺麗だけど、思ったより高台じゃないんだね。もうちょっと見下ろす感じかと思ってた」
琉実の横に陣取った那織がそう言って、琉実が何時もの調子で「着いたばっかのとき、綺麗って言ってたじゃん」そう返す。二人の言葉には何の残響も無かった。
「綺麗である事は否定してないでしょ。思ったより低いなって感想を言っただけじゃん」
経常的かつ定期的な二人の応酬。詰まりは通常営業……にしても、夜景を観ただけなのによくもまあこんな短時間で言い合いになるよな。それが二人らしいんだけど。
だから僕は、通例通り諫める役に回る。「夜景で喧嘩すんなよ」
「別に喧嘩じゃないし。ね、そんな事より──二人で此処に来た時は何したの?」
「あの時は日中だったし、普通に景色見ただけだが……あ、大佛次郎の記念館に行った」
「確か、小説家の人だよね? うん、行った。覚えてる。あとイギリスの建物みたいなのも見学したよね。そこの庭園の先にあるんだけど──ちょうど結婚式してなかった?」
かつての英国総領事公邸の建つ方向を、琉実が示した。
「そう言えばしてたな」
琉実が言った言葉も覚えている──こんな場所で結婚式なんてお洒落だね。
「そのイギリスの何とやらはまだ入れるの?」
「もう閉まってるんじゃないか?」スマホで開館時間を確認する。「もう閉まってる」
「大佛次郎は?」
「そっちも……閉まってるな。来るのがちょっと遅かった」
「何それ。そこは二人だけの思い出って事?」
「そんな積もりじゃないんだが……いつか来ような」
「そうだよ、また来ればいいじゃん」
そう言った琉実に、力なく「また、か」と那織が応えた。
「とりあえず、イギリス庭園に行こっ」
琉実が那織の手を引いてイングリッシュローズの庭に足を向ける。二人に続いて緑の繁る一角に行くと、見頃では無いものの所々にバラが咲き残っていた。その中に白やピンクのペチュニアが光を孕んでぼんやりと浮かんでいる──草花には明るくないが、琉実と来た時、ひと口にバラと言っても色んな種類があるんだな、と驚いた覚えがある。花が好きな母さんは我が家に花を絶やさないが、そう言えばバラは無かった。琉実とのデートから帰った後、母さんに尋ねた事がある。どうして家の庭にバラを植えないのか、と。母さんが「私にはちょっと強すぎるのよね」と笑ったのが印象に残っている。
こうして改めて見ると、強すぎると言った母さんの気持ちを分かった気がした。疎らであるのにバラの存在感はとても強くて、何となく気後れする感じがして、どこか眩しい。
「イギリス気触れの純君は、やっぱりこう云う庭が欲しいと思うの?」
「そうだな。でも、こんなに沢山のバラは要らないかな」
「その心は?」
「何だろう、華やか過ぎるからかな」
「純はもうちょっと大人しい感じの花の方が好きなんだよね──そうだっ」
何かを探すように辺りを見回したあと、琉実が那織に耳打ちをする。「こっち来て」
庭園をずんずん進んで行った先の、奥にある小さな四阿……いや、此処ではガゼボと言う方が適当だな、白くて小さいガゼボのベンチを指して、琉実が僕に座るよう促した。
言われるがままガゼボのベンチに座ると、僕の前に立った琉実が何やら那織と目配せをして、鞄から小さな包みを取り出した──「お誕生日おめでとう」
「ありがとう。見ても良いか?」
「うん。それ、那織と二人で選んだの」
包みを開けると、岩波文庫……を模したブックカバーと文庫が一冊。ブックカバーには英語が書いてある──『No Longer Human』人間失格か。そして文庫の題名は『ミステリーの書き方』。中をぱらぱらっと捲る。ハウツー本と言うより、ミステリ作家(超有名作家しか居ない)のインタビュー集と云った内容で……早い話がとても面白そうだった。
「このブックカバー、めっちゃお洒落だな。ありがとう」
この文庫は恐らく──「那織もありがとう。これは読み応えありそうだわ」
「でしょ? 絶対好きだよね」
「こんなプレゼントを貰えるなんて……本当にありがとう」
「待って。もう一つあるの」
琉実が別の包みを渡して来た。「これはわたしから」
中を開けると、同じ岩波文庫の見た目だが……こっちはポーチになっている。文庫を差すと思われるベルトやペン差しが付いていて、普段使いに重宝しそうだ。ポーチに書いてあるタイトルは『An Encouragement of Learning』。今度は『学問のすゝめ』か。なるほど。図書館とかで勉強する時に筆箱として使うのもありかも知れない。
「二つも用意してくれたのか。ありがとう。早速使わせて貰うよ」
「で、私はこれ」今度は那織から。
「凄い豪華だな。何だか申し訳ないくらい──」そう言いながら包みを開けると、見覚えのある大きめのムックが入っていた。『SF映画のタイポグラフィとデザイン』これは以前から僕が読みたいと思っていた本だ。こんな形で出会えるとは。
「好きでしょ?」
「この本、読みたかったんだ。二人とも、ありがとう」
琉実と那織が顔を見合わせて、相好を崩した。こんなプレゼントされてしまったら、そんな笑顔を向けられたら──言い辛くなっちゃうだろ。でも。やっぱり。言うなら今日しかない。
気持ちを伝えるのは今日だ、そう決めたのは他でも無い僕だ。
何処で話すかはもう決まっている。それはこの場所じゃない。
今からその場所に向かわなければ──切っ掛けを言い出すのは僕しか居ない。
「さて、そろそろ帰ろう。二人とも今日はありがとう。とても楽しかった」
上った道を、今度は下っていく。来た時とは違って言い合いになったりはしない。それなのに上辺だけの会話が、真っ暗な夜道で宙を舞う。時折吹く風で木々の葉が擦れて音を出す。
カップルが座っているベンチの脇を通り過ぎる。殆ど抱き合ってるように見えた。
琉実が僕の右腕を取った。遅れて那織が左腕に抱き着いた。
僕は二人の手を取る──小さい頃みたいに三人で手を繫ぐ。
はぐれないように、仲間外れにならないように、三人で手を繫ぐ。今だけは。
二人の温度が手に伝わってくる。僕等はもう子供じゃない。
大人から見れば子供だけど、小さい頃に繫いだ手ではない。
狭い階段の手前で誰からともなく手を離す。三人が横並びでは歩けない。
手を繫いでから、僕等はずっと無言だった──黙したまま階段を下りる。
二人が付いて来ている事を、時折振り返って確認する位には静かだった。
那織が躓いてバランスを崩した。振り向いたタイミングで良かった。咄嗟に伸ばした手で、身体を支える。「大丈夫?」後ろから琉実が言う。
「うん、大丈夫。歩き回ったから……ちょっと力が抜けちゃった」
「歩くの早かったか?」
「ううん。大丈夫……ね、捕まってて良い?」そう言って、那織が僕の腕を取った。
元町・中華街駅から電車に乗って、帰路に着く。横浜で人が入れ替わり、眼前の席が一つだけ空いた。「座りなよ」二人に向かって言った。琉実は那織を座らせた。琉実はいつだって那織を優先する。今日だって──昔からずっとそうだった。唯一違ったのは、僕と付き合い始めた事だけだった。だが琉実は、最終的に別れる事を選んだ。
そんな優しさを知っているからこそ、すぐ傍で見て来たからこそ、琉実を選ばなかった自分の選択に異議を唱えるもう一人の自分も居た。琉実だけがずっと大人で、ずっと我慢していた事を知っている──だが、それを理由に琉実と付き合う事は出来ない。
何故なら、僕の本心に気付いた時、恐らく琉実は僕では無く自分を責める。僕にそうさせてしまったと後悔する──その選択では、きっと誰一人として幸せになれないだろう。そんな未来を想像させてしまう琉実の優しさがとても辛くて、琉実をよく知るからこそ心が痛い。
「那織、寝ちゃったね」琉実が呟いた。
「沢山歩いたからな。流石に僕も疲れた」
「純にしては、珍しくよく歩いたよね」
渋谷でまた大勢の人が入れ替わる。那織の隣は空かなかったが、端の席が空いた。「純が座りなよ」そう言う琉実を制して、今度こそ座って貰った。立っているのは僕だけで良い。
同じ電車の中で僕等三人は離れ離れになる。
途中で乗り換えて、再び三人が一緒になる。
那織が手摺りに捕まって、僕と琉実が吊り革に捕まる。この時間はあと数分で終わる。
何時もの駅に着いて、家に向かって歩き出す。地元に帰って来た安心感があるのか、口数が減っていたのが噓のように、お昼に食べたスープカレーが美味しかったとか、次はホットケーキ食べたいとか、日本丸が意外と面白かったとか、今日あった事を振り返りながら歩いた。
今日は本当に楽しかった。久し振りに三人で遊んだ──昔に戻った気がした。
僕の誕生日なんてのは切っ掛けに過ぎなくて、疲れを滲ませながらも二人で口々に楽しかったと言っている姿を見ているだけで嬉しいし、出掛けた価値があった。ずっと見ていたいと思った──ずっと見ていたいと思うが故に切り出すタイミングが難しい。喋っている二人に割って入れない。沈黙の間を縫おうとしてもどちらかがすぐ口を開く。
言い合いもせず、上機嫌な二人の姿をこのまま見ていたかった。
だが、言わねばならない。二人の会話を止めなければならない。
「ちょっとだけ、いつもの公園寄って行かないか?」
どうにかして見付けた会話の谷間で、深刻な雰囲気にならないよう努めて言った。
「うん、いいね。でも、純がそんなこと言うなんて珍しい」
「そうでも無いだろ?」
「そうかも」
「何だよ、適当だな」
そんな遣り取りをした琉実とは対照的に、那織は首肯もせずに黙ってしまった。公園に向かう途中、何度か那織に話を振っても曖昧に返事をするばかりで、琉実が「那織、どうかした?」と語り掛けても、「んーん。何でも無い」と曖昧に首を横に振るだけで、やはり会話に参加する事は無く、かと言って具合が悪い風では無かった。
那織の反応が気になりながらも、どうする事も出来ないまま公園に──はじまりの場所に着いて、四阿のベンチに三人で座る。僕の隣に琉実が座って、那織が琉実の隣に座った。
「今日はありがとう」
「どういたしまして。こっちこそありがとね。楽しかった」琉実が笑う。
「ちょっと聞いて欲しいんだが……良いか?」
「改まって何?」琉実が僕を見る。少し芝居がかった言い方だった。
那織は爪先でコンクリートの上に溜まった砂を、じゃり、じゃりと寄せているだけで、ずっと黙然したままだった。「那織も良いか?」と問い掛けると、「ん」とだけ応えた。
「大宮公園での続きなんだけど」
隣に座る琉実に向けて言った。瞬刻、さっきまでの綻びが琉実の口元から消えた。
「うん」
「待たせて悪かった。ごめん」
「わたしこそ困らせてごめん」
「そんな事ない。言ってくれてありがとう」
琉実の気持ちを知ったからこそ、別れを告げられたあの日から続く疑問の数々は、後悔と反省を伴って解けていった──だから、知って良かった。悩んで良かった。
それに困らせたのは僕の方だ。琉実と付き合っていた間、僕の振る舞いは児戯に等しいと言われても仕方ない位どうしようもなくて、思い返してみても子供そのものだった。
でも、僕なりに真剣だった。あれが僕なりの精一杯だった。それほど幼かった。
今でも自分の稚拙さに嫌になる事は多々あるし、眠ろうと潜った布団の中で「あれで良かったのだろうか。もっと言い方があったんじゃないか」と不安になり反省する事ばかりだが、当時の僕は今と比べようもないくらい幼くて、すべてが拙劣だった。
初めて出来た彼女と幾つもの経験をした。
初めて恋人として手を繫いだ。
初めて恋人として抱き締めた。
そして──初めてキスをした。
小説や映画の中でしか知らない事をした。
自分には縁が無いだろうと思いながらも、何処かでいつかはそうなるかも知れないと思っていた事を、中学生の僕は琉実と体験した。どれもが新鮮で、恥ずかしくて、照れ臭くて、上手く出来なくて、何度も失敗して──けど、筆舌に尽くし難い満足感があった。
呼ばれたから仕方ないみたいな言い訳をしながら校内でこっそり会う時も、駅での待ち合わせも、一緒に帰りながら学校で起きた話をする時も、散々悩んだ挙げ句いつも通りで良いかと服を選んでデートに向かう時も、琉実が来るからと部屋を掃除する時も、親やおじさんとおばさんの前で態と素っ気ない態度を取る時も──すべてが楽しかった。
自分ではしっかりしている積もりでもたまに抜けてる所があって、
何でも一人で頑張ろうとしてばかりいるから人を頼るのが下手で、
お姉ちゃんだからと、自分を押し殺して那織を優先してばかりで、
弱虫だけど気が強い振りをしていて、
夢見がちなのを恥ずかしがっていて、
不器用なのを努力や頑張りで隠して、
筋肉が付き過ぎるのを気にしていて、
可愛いくて子供っぽい物が大好きで、
優しくて、正直で、でも時々捻くれていて、理解出来ない事をしたりして、悔しくて泣いちゃう自分が許せないほど強がりで──そんな性格がいじらしくて可愛い彼女だった。
そんなかつての彼女に、僕は言わなければならない。
一緒に居て楽しかったのに──
一緒に居て幸せだったのに──
一緒に居て胸が弾んだのに──
別の人が好きだと。
君の妹が好きだと。
琉実と付き合った方が上手くいくかも知れないと考えた事もある。
でもそれは、上手くいくかもなんて考えている時点で違うと思う。
幼くてどうしようもない僕はきっとまた琉実に頼ってしまうから。
琉実の優しさに甘えてしまうから。
それに僕は、那織が好きだと実感してしまったから──だから選べない。
琉実、ごめん。本当にごめん。今まで僕に付き合ってくれてありがとう。
「それで続きなんだけど──」僕は二人の前に立った。
言え。
身体が硬直する。
言うんだ。
口が酷く重い。
ほら、早くしろ。
空気が貼り付く。
何をもたもたしているんだ?
深呼吸をする。
顔の横を汗が流れる──顔を上げた。
二人が僕を視ている。
二人の視線と交わる。
「琉実、色々ありがとう。琉実にはいつも助けられてた。心の底から感謝するし、尊敬もしている。僕と付き合ってくれてありがとう。でも、ごめん。気持ちには応えられない」
僕は琉実に向かって頭を下げた。