
自分に彼氏が出来たって、今でも信じられない。
公園から帰る間、ずっとふわふわした気分で何を話したのか覚えてないし、話をしたかどうかすらよくわかんない。誰かと付き合うなんて自分には縁がない話だったし、彼氏が出来たって話が周りで出る度、いいなぁ……けど、わたしには関係ないしってなってたから、純が告白をOKしてくれた実感が今でも全然湧かない。
玄関で純と別れたとき、超名残惜しかったんだけど、寂しくはなかった。
家のドアを開けたとき、いつもより軽くて、勢いが凄くてびっくりした。
脱いだ靴を揃えるとき、那織の靴が目に入った──瞬間、その場に座り込みそうになるくらい大きな現実感が、安心感を吹き飛ばすようにやってきて、突然頭がぐらっとした。
純がわたしの彼氏になった。
わたしが純の彼女になっちゃった。
わたしじゃなかった場所に、わたしが居ていいと言ってくれた。嬉しさと罪悪感がぐっちゃぐちゃに混ざり合う中で、わたしはまだ喜びだけを抱き締めていたかった。
「琉実ー? 帰ったの?」リビングからお母さんの声がした。
「うん……ただいま」
ちょっと、声が裏返った。ダメだ、まだわたし、全然冷静じゃない。
嬉しくて、もう叫び出したいくらい嬉しくて、辛い……ううん、こうしてる間にもどんどん嬉しさが勝ってくる。辛くなんてない。純と恋人になった事実の方が強いんだ。
だって、わたしはちゃんと気持ちを伝えたんだよ? それが叶ったんだから嬉しくて当然だよね? 嬉しがったって良いよね? 那織は言わなかったんだもん。
夕飯を食べるとき、意識しないよう頑張った。何度か那織と目が合ったから余計に。
ちょっとでも気を抜くと、純と恋人になったのを思い出してにやけそうになるから。
ちょっとでも気を抜くと、純と恋人になってごめんって言っちゃいそうになるから。
部屋の隅に置いてある水槽の中のガリバーと目が合った。
もう全部が全部、何が何だかわかんないくらいぐちゃぐちゃで、混乱して、テンションが上がってて、それなのにねちねち言うもう一人の自分が居たりして、どうにかなりそうだった。
このままじゃやばいって思って、ご飯食べてすぐだし身体によくないかなって思ったけれど、ダッシュでお風呂に逃げ込んだ。誰かが見てるわけでもないのに、なんか恥ずかしくてシャワーを頭から浴びたまま、思いっ切りにやけて、何度も顔を手で覆って、いやーとかきゃーみたいな言葉にならない声を出しながら、しばらく悶えてた。
だって。だってだよ、わたしに彼氏が出来たんだよ?
しかも、相手は純だよ? 小学生のときから良いなって思ってた相手だよ?
お昼のあと、眠気に襲われたわたしがあくびをかみ殺しているときでも、真剣な顔で授業を受ける純が好きだったし、「マジメなだけの男子って、つまんなくない?」って言う子に本気でムッとしたし、一緒にキャンプ行ったとき、夜、トイレ行くのが怖かったけど怖いって言い出せなくて、お母さんとか那織が行かないかなって耐えてたらさりげなく「一緒に行こう」って言ってくれたし、夏休みに読書感想文でどんな本読めばいいかわかんなくて、いつまで経っても決まらなくて困ってたわたしに「これなんかどう? 絵本だけど、絵本で感想文を書いちゃいけないって決まりはないだろ?」って言ってくれて、「命の大切さとかをメインに書いたらほめられるかも」って純の言葉通りに書いたら表彰されたこともあって、ますます純は凄いなって思って、でも、学校で好きな人の話になったとき純が好きだって言い出せなくて、純と仲が良いから「どうなの?」って訊かれるけどいつも「そんなんじゃないよー」なんてはぐらかしてて、周りの子が誰々がかっこいいとか同じ班になりたいとか盛り上がってても話をふんふん聞くしか出来なくて──周りに悟られないよう、みんなの妄想話を聞きながら、もし純と結婚したらわたしの名字は白崎になるんだとか、そうなったらどんな家に住むんだろう、できれば大きな犬を飼いたいなとか、密かに想像してた人と付き合うんだよ?
それくらい長い間、ずっとずっと好きだった純が相手なんだよ?
こうならない方が無理だって。
どれだけそうしていたかわからないくらい、わたしはにやけっぱなしだった。かなりな時間だったと思う、お湯出しっぱなしだったし、直接言ってはないけど、完全にお母さんごめんなさいって感じだった。いつもより水道代とかガス代が高かったらわたしが原因です。
ふやけきった身体で外に出ると、のぼせたみたいに軽くくらっとした。
どんどん上がっていくテンションをシャワーは流してくれなかったけれど、気付いたら喉の奥に引っ掛かっていた罪悪感はどこかに流れていった。
部屋に戻ろうと階段を上っていると、二階の手摺りに腕をついた那織が「今日はえらくご機嫌だけど、何かあった?」と話し掛けてきた。油断してたっていうか、そんなとこに那織が居るなんて思ってなかったし、スマホ見ながらで──それも純とのLINEを見ながらだったから顔も超にやけてただろうし、一瞬やばって思ったけど、もうその時のわたしは開き直ってたっていうか、怖いものなんてなかったっていうか、うーんと……最強だった。
ううん違う、最強だと勘違いしてた。
だから──「ちょっと来て」那織の腕を摑んで、自分の部屋に引き入れた。
そのままの勢いで「わたし、純に告白した」と言った。ほんの少し、わかるかわかんないかくらいだったけど、那織の眉が動いた──けれど、無視して「そしたら、いいよって言ってくれた」と一息で言い切った──那織の表情をかき消すように。
いつもみたいに小バカにした言い方で茶化されたくなかった。
いつもみたいに気取った顔で偉そうなこと言われたくなかった。
いつもみたいにわけわかんない言葉ではぐらかされたくなかった。
あの瞬間、わたしは、わたしの初恋が実ったことを認めて欲しかった。
那織に──那織だからこそ、わたしの初恋の結末を認めさせたかった。
純が那織ばかり見てたから。
那織が純ばかり見てたから。
わたしだって一緒に居るんだよ。こっち見て──何度も言いたかった。
ずっと我慢してきた。
純のことだけじゃない。色んなことを、わたしはずっとずっと我慢してきた。
小さい頃から我慢ばかりだった──最初の記憶は幼稚園の頃だから、三歳とか四歳くらいだったと思う。はっきりとは覚えてない。覚えてるのは、嫌だったけどああもうしょうがないって感じで那織にクッキーをあげたこと。
那織が食べたそうにしてるから。泣いてねだってくるから──わたしはクッキーをあげた。
わたしだって食べたくて、最後の楽しみにってとっておいたクッキーをあげた。すごく嫌だったけど、お母さんが「妹の為に我慢出来てえらいね」って褒めてくれた。嬉しかった。
そしてお母さんが別のクッキーをわたしにくれた。
それからわたしは、「お姉ちゃんだから」を繰り返し自分に言い聞かせるようになった。
言いたいこと、やりたいことを我慢するようになった──別のクッキーが貰えなくても。
お姉ちゃんだから我慢した。
那織が気付いてないだけで、いっぱい我慢してきたんだから──もういいよね?
「これで彼氏持ちじゃん! おめでとう。いやぁ、感慨深いねぇ。初恋実ったねぇ」
欲しかった筈の言葉なのに、全然嬉しくなかった。那織の口から聞きたくて言ったのに、那織に認めて欲しくて言ったのに、那織の発したそれはわたしが望んだ物とは別物だった。
無理した言葉だってすぐわかった。那織の目は一切祝福していなかったから。
シャワーに流された罪悪感が、もう一度降ってきた。
こんな当てつけみたいなことしたって仕方ないのに。
「うん、ありがとう……」そう言うのが精一杯だった。
那織がわたしの肩をぽんぽんと叩いて無言で出て行った。
春休みに付き合い始めたわたしたちだけど、ちょこちょこ部活の練習があったり、わたしが暇な日に限って純の予定があったりして、あっという間に学校が始まった。夜遅くまで通話したりはしたし、公園で会ったりはしたけど、それ以上は何もないまま学校が始まった。
わたしは三年生になった。
純と別のクラスになった。
今年も同じクラスになれるかもって期待してたのに、めっちゃ祈ってたのに、ダメだった。
始業式の日、三人で一緒に登校したけど、三人がバラバラになった。その事実にがっかりした反面、純と那織が同じクラスじゃなくて良かったなんて思う最低なわたしも居た。
部活に新一年生が入ったりして、わたしは部長だったし純は純で弓道部の部長から信頼されてたっぽくてあれこれ相談されてたみたいだったし、学期の初めは何だかんだバタバタしてて、いわゆるデートはなかなか出来なかった──もちろん、お互いに朝練がある時は一緒に学校に行ったし、帰りの時間もなるべく合わせてたから、別のクラスとは言え二人で居る時間はそれなりにあったんだけど、付き合ってるって周りに黙ってたし、今までと何かががらっと変わったって感じは全然弱くて──たまには那織と帰りが一緒になることもあったりして。
そうなるともう、完全にいつもの日常って感じで、わたしが居るっていうのに純と那織がよくわかんない話で盛り上がったりして──純の彼女はわたしなのにって思ったりして、話に入れない寂しさを紛らわせたりするんだけど、きっと、こんな調子でわたしの知らないところで話してるんだろうなって考えたりもしちゃって、言うまでもなくすっきりはしなくて。
だから、周りの目を気にせず、那織のことを気にせず、二人だけで出掛けたかった。
恋人らしいデートってのをしてみたかった。
一緒にスイーツ食べたり、公園で喋ったり……付き合いが長いから近しいことをした経験は何度もあるし、付き合ってからだってちょっとはある。二人だけのとき、学校帰りに公園寄って喋ったりもしたし、途中でコンビニに寄って買い食いしたりもしたけど、そういうんじゃなくて、わたしはもっとちゃんとした、いわゆるデートがしたかった。いや、学校帰りに公園で喋ってて辺りが暗くなって来て、二人で慌てて帰んなきゃってなるの、青春ぽいなーって思ったし、好きだけど……そうじゃなくて。それだけじゃ足りなくて。
わたしはちゃんとデートがしたかった。
だって恋人だよ? 彼氏と彼女だよ? そんなんデートしたいに決まってるじゃん。
だから、スマホで色んなデートコースを調べた。中学生だし、お小遣いもそんなに無いし、行けるとことか出来ることは限られるけど、純と一緒に……って考えれば、想像するだけで楽しかった。わくわくした──うん、行くしかないでしょ!
てか、その辺、純はどう思ってるわけ?
わたしとデート行きたいとか……思ってくれてるのかな?
訊きたいけど……訊けない。超気になるけど、流石に……でも……うん、訊けない。
さりげなく、それとなく、ちょろっとだけなら……ダメかな?
でもさぁ、訊いたとしてだよ? 行きたくないなんて絶対に言わないじゃん。幾ら純だってそんなことは言わない……けど、やっぱり不安にはなる。断られないとは思う。うん、断られたりはしないってわかってるよ、わかってるんだけど、もしデートしたいって思ってるのがわたしだけだったらって考えると、やりきれない。わたしだけ舞い上がってるみたいで。
そんな不安みたいなもやもやした感情が付きまとって中々言い出せないまま、ずるずると時間だけが経って今に至ってしまった……このままじゃ前と変わんない!
純がどうとか知らない。
わたしはデートがしたい。
よし、言う。純にデートしようって言う。もう決めた!
けど、そう決めた日に限って、朝は別だったし、お昼も別だったし、帰りは那織が一緒になっちゃうしで──タイミングを逃してばかり。でも、負けない。絶対に今日言う。
まだ夜がある。
外を走るときに呼び出せば……那織は確実に来ないし、絶好のチャンス。
わたし達の家は隣同士なんだから、それを利用しない手はない。
〈今から走るんだけど、ちょっと出られる?〉
続けて〈会いたい〉って打って……指が止まった。さすがに〈会いたい〉は露骨すぎ。せめて〈話したい〉だよね。話したいのは本当だし……とかやってたら、既読がついた。
《いいよ》
たった三文字なのに、まだデートしよって言えたわけじゃないのに、それだけで嬉しい。さっきと違って、なんて送ろうか考える必要はなくて、言うなればゴール前でパスが回ってきたみたい。〈準備できたら教えて〉シュートを放って、ダッシュで準備する。
返事はすぐ来た──《いつでも出られるよ》
〈じゃあ家出るね〉
一階に下りて、お母さんに「走ってくる」って外に出た……噓をついた。
純に会うため、小さな噓をついた。
付き合い始めてから、噓が増えた。
こうして外に出るのは初めてじゃない。純はどうしてるんだろう。おばさんになんて言ってるんだろう……純のことだから上手いこと言ってるんだろうけど、ちょっとした罪悪感とほんのちょっぴりわくわくする感じがある。大人に隠れていたずらしてるみたいな気分。
実際、隠れてるんだけど。
「少し歩かない? ウォーキングってことで」
家から出てきたばかりの純に言った──ここに居たら見られるかも知れないし。
「コンビニ行くって出てきたから、そっちのがありがたい」
そっか、それが純の噓なんだね。うん、わたしと一緒だ。
「じゃあ、遠い方に行こ」
二人で悪いことしてるみたいで、それが楽しくて、遠回りしたい気分だった。
走り慣れている道を、ゆっくりと二人で歩く。いつもより歩幅が小さくて、いつもの風景がより鮮明で──歩道のとこにある反射板が割れてるとか、ガードレールに変なシールが貼ってあるとか、曲がり角の家の玄関に置いてある鉢植えにスズランが咲いてるとか……走ってると見えない物がよく見えて。そして、いつもと違って隣に純が居る。
「こっち行くと小学校の時の通学路だよな。久々だ」
純が右を向いて、横断歩道の先を見た。
「じゃあ、そっち行ってみる?」
「そうだな……けど、いつものコースじゃないだろ?」
「わたしのコース、ちゃんと知ってるんだ」
「昔、僕を一緒に走らせようとして、歩いたことあるだろ。忘れたのか?」
覚えてるけど……純こそ覚えてたんだって、嬉しいよりもなんか意外っていうか、ううん、ちょっとは嬉しいもあるかな。よくわかんないけど。
「そうだっけ。忘れちゃった」
横断歩道を渡ると、純が「あの時は確か那織も居て、文句を言いつつも何だかんだで付いて来て、結局いつも通り三人で喋りながらだらだらと歩いたんだよ」と言った。
いつも通り、ね──前だったらそうだったけど、今は違う。
もう三人はいつも通りじゃない。いつも通りにはしたくない。
昔の通学路を歩いているのは、今のわたしと純だけ。「あったね、思い出した」
折角二人っきりなんだから、話そう話そうって思うんだけど、話したいことは沢山あるはずなのに、デートのことがあるからか何となく会話が続かなくて、誘う切っ掛けも摑めない。ちょっと歩こうかって誘うのはそこまでだったのに、デートに行こうって言うのはどうしてこんなにタイミングとか空気みたいなのが気になっちゃうんだろう。
気が付けば、小学校の近くにある大きめの公園まで来てしまった。小学校に着いちゃったら、あとは来た道を戻って、コンビニに寄って帰るだけ──やだ。まだ誘えてない。
「こんな方、久し振りに歩いた。昔は遠かった気がしたけど、改めて歩くと意外と近いな」
「そうだね。それだけ成長したってことなのかな? 歩幅とかさ。ねぇ──」
そう言い掛けたとき、待てって感じで純が手の平をわたしに向けてから、街灯に照らされた公園の入り口をゆっくりと指した。指の先を追うと、猫が座っていた。黒と白のハチワレ。
「見ない顔だよな」
「見ない顔って……何その言い方」刑事ドラマみたいな口振りが、まさに純って感じでちょっと面白い。「てか、近所の猫の顔なんて覚えてないでしょ?」
「覚えてるよ。小学生の時、よく二人が猫を追い回すのに付き合ったしな」
「付き合った? ノリノリだったじゃん。冒険っぽくて、楽しかったんでしょ?」
「ノリノリ……だったかもな。ま、楽しかった思い出だよ」
わたしは腰をかがめて、むすっとした猫と同じ目の高さになる。首輪は無い。見つめすぎると警戒して逃げちゃうからなるべく目を合わせないようにして、じりじりと距離を詰めて、止まる。ちらっと見て、視線を逸らしてまた少し距離を詰める。猫が緊張しないように。
この猫に触れたら、なんとなくだけど全部上手くいきそうな気がした。
手を伸ばせば届く距離まできた。わたしはそっと手を伸ばして、そのまま固まる。向こうが来てくれれば……猫がお尻を上げ、わたしの指先に鼻を近付けて、匂いを嗅ぎだした。
その状態のまましばらく待っていると、寝転んでお腹を出した。
よしっ!
猫のお腹をわしゃわしゃと撫でながら、そっと抱いて持ちあげる。
「人に慣れてるな」
律儀に距離を取って見ていた純が、わたしの隣にしゃがみ込んだ。
「ね。超慣れてる──あのさ」
「ん?」
「どこか出掛けない? デートしよ」
「いいよ。僕もそうしたいと思ってた」
「だったら言ってよ」
「言おうとは思ってたんだけど、なんかタイミング無くって」
「あー、うん。わかる……ってか、わたしも同じ。クラス別になっちゃったしね」
「家、隣なのにな」
「ほんとだよ。でも、良かった」ちゃんと誘えた。この猫ちゃんのお陰だ。
「いつにする? っていうか、琉実はいつだったら部活無いんだ?」
「えーと、今度の日曜は空いてる」
「じゃあ、そこにしよう」
「そうと決まれば、ドコ行こっか」
純とデート。初めてのデート。二人で出掛けるってだけなのに、それなら今までだって何度もしてきたのに、デートってだけでどうしてこんなに心が躍るんだろう……その所為で、全っ然寝られない。寝ようと思ってから、もう三時間も経ってしまった。
着る服は決めてたし、着けてくアクセも机の上に出してあるし、ティッシュとかハンカチとかも用意してあって、準備はこれ以上ないくらい完璧なんだけど、ベッドから出て、部屋の電気を点けてもう一度確認したりして──余りにも眠れないから、一旦気持ちをリセットしようと一階に下りてリビングのドアを開けた時だった。
「違う、ちょっと喉が──」灯りの漏れるキッチンから那織の声がした。
「なんだ、お姉ちゃんか」
カウンターの向こうから、脅かさないでみたいな声とともに那織が顔を出した。
「こんな時間に何してんの?」とは言ったものの、あの反応からすると、恐らくお菓子とかを漁っていたに違いない。わたしをお母さんと勘違いして焦ったってところかな。
キッチンに入ると、那織が食器戸棚の下の扉を閉める所だった。手にはお母さんが職場の人から箱で貰ったって言ってたもみじ饅頭が幾つか。
やっぱり。「太るよ?」
「太る? え? 何を言ってるのか分かんない。逆に言わせて貰うけれど、お姉ちゃんは私の婀娜めくこの肢体を見て羨ましいとは思わないの? この色気が分からないの? もしそうだとしたら、我が姉ながら惻隠の情を催さずには居られないんだけど」
那織が腰をくねらせ、自分の胸を持ちあげた。ダボっとして伸びきったTシャツの襟から谷間が覗いた──蛍光灯に照らされた那織の肌に、薄っすらと血管が透けている。
うっざ。
「はいはい。その何とかな身体の維持、頑張って下さい」
「言われなくても十二分に努力してまーす。てか、そっちこそ何? 人にあれこれ言っておいて、自分こそ厚顔にも食料を漁りに来た訳?」
「わたしはただ、喉渇いたなって……」
「そ。てか、こんな時間まで起きてて良いの? 明日……もう今日だけど、友達と出掛けるんでしょ? 起きられなくても知らないよ? 私は絶対に起こさないからね」
友達……って言葉が引っ掛かった。明日のこと、那織にも言ってない。夕食の席で出掛けるって話はしたけど──家族の前で純とデートするなんて言えなかった。
「那織に起こして貰おうなんて微塵も思ってないし」
「そりゃ結構。ま、言われる迄も無いだろうけど、早く寝た方が身の為なんじゃない?」
そう言い残して、那織がキッチンを出て行く。
思わず背中に呼び掛けた──「ねぇ」
「ん?」
「……おやすみ」
結局、わたしは言えなかった。
「おやすみ」
昨夜のうちに準備していたわたし超えらいって自分に感謝しつつ、寝不足の頭で準備をしながら、那織に言うべきだったのかが頭の片隅に引っ掛かって気持ちが悪い。でも、あの子の気持ちを考えると……付き合ったことを報告しておいて、今更何を言ってるんだって自分でも思うけど、うまく言えないっていうか、なんか気持ちが割り切れないまま。
どうすれば良いかなんて、きっと誰にもわかんない──そう言い聞かせるのが精一杯。
あー、もうやめやめ。今はそんなこと考えてる場合じゃない。
なんとか身支度を終え、今日のメインを冷蔵庫から取り出して仕舞う。
「もう出掛けるの?」
「うん。行ってくる」
「気を付けてね」そう言ったお母さんが、何故か玄関まで着いて来て、「しっかし、お弁当を持ち寄って交換だなんて、あんた達も可愛らしいことするよね。私が琉実くらいの時なんて、ファミレスでどれだけ粘れるかとかだったのに。今になって思い返すと、お金を大して落とさず長居してごめんなさいって感じだけど」と、靴を履くわたしに向かって続けた。
「ファミレスも行くけど、たまにはこういうのも良いかなって──もういい? 行かなきゃ」
「あー、引き止めてごめん。遅くならないようにね」
「うん。わかった」
ドアを開けると、思いの外日差しが強くて、眩しさに目がびっくりした。
昨日見た天気予報だと曇りって言ってたけど、叫びたくなるくらい気持ちのいい青空だ。このパターンで予報が外れるのは大歓迎。ちょっと生ぬるい風があるけど、それも心地いい。
純とは駅で待ち合せている──駅で待ち合わせようって言ったわたし、天才。家の前で待ち合わせてたら、絶対お母さんに見られてた。てか、わざわざ玄関まで来なくて良いのに。
ま、いいや。
そんなことより、早く行かなきゃ。
色々悩んだ挙げ句、今日のデートは動物園にした。イイ案が思い付かなくて、たまたま観ていた映画に動物園でデートするシーンがあって、デートっぽいからっていう安直な理由だったけど、実際、行くのはドコでも良かった。これぞ、ザ・デートみたいなことができれば、それで良かった──だから、お母さんに手伝ってもらってお弁当も作った。
いつもの通学路が、これから純とデートってだけで違って見える。
毎朝、決まって窓越しにこっちを見てくるシェルティ君、今日は顔を見せない──散歩にでも行ってるのかな? その数軒隣には、きちんと手入れされてて、季節の花が絶えない花壇のある家──優しそうなおばあちゃんが雑草を取っている。道を挟んで向こう側の家では、おじさんが車を洗っている──ちょうど宅配便の車が停まって、それに気付いたおじさんがシャツで手を拭きながら対応する。小学生っぽい男の子たちが、「どっちが先に着くか今から勝負しようぜ」なんて言いながら自転車でわたしの脇を駆け抜けていく。
いつもと違う時間に歩くこの道は、いつもとちょっとだけ顔が違う。
いつもと違う気分で歩くこの道は、いつもとちょっとだけ顔が違う。
駅が見えてきて、気持ちが走る。でも、わたしは走らない。髪がばさばさになっちゃったらカッコつかないし、汗だくなんてもっての外──だから落ち着け、わたし。
駅が近付いてきて、スマホをいじってるTシャツ姿の純が遠くに見えた。
まだわたしに気付いてない──〈もう少しで着きそう。どの辺にいる?〉って、どこに居るのかわかっているのに、もう見付けてるのに、やり取りを楽しみたくて敢えてラインする。
《バス乗り場の横の広場に居る。見える所に立ってるよ》純から返信。
街路樹の囲いに腰かけていた純が、スマホを仕舞いながら立ち上がる。辺りを見回した純が、わたしを見付ける──交差点の方に歩いてくる。
走らないって決めてたのに、思わずわたしもちょっと小走りになる……走ったのに、信号が赤になって交差点で止められる。待ち時間がもどかしい。通り過ぎる車の向こうに純の姿が見えるから落ち着いた風を装って澄ましてみせるけど、足踏みしたいくらいじれったい。
早く替わって。
気を紛らわそうとスマホに手を伸ばして──さっき走ったのを思い出す。
暗いままの画面で前髪を確認。汗を拭いて、ちょっと直して、うん、大丈夫。
ようやく信号が替わって、交差点を渡る。
「お待たせ」
「僕もさっき着いたばっかだ」
純は気にしてないんだろうけど、このベタベタなやり取りすら心地いい。
「それにしても良い天気だ。立ってるだけで汗が滲んで来るよ。予報だと曇るって言ってたから心配してたけど、完全に杞憂だったな」遠くの入道雲を見ながら純が言った。
純も、天気を気にしてたんだ──それが嬉しい。
「ね。まさにデート日和って感じでいいじゃん。テンション上がる」
「出掛けるにはこれ以上無いってくらいだな」
でも、デートって言ってくれないのは減点かな。
「さ、行こっか」
私服で、二人で電車に乗る。空いてる席を純が譲ってくれて、わたしの前に純が立つ。
わたし達以外にも乗客はそこそこ居て、みんな楽し気な服装をしている。休日の電車はみんな余裕があるっていうか、わくわくしてる空気が溢れていて嫌いじゃない……嫌いじゃないんだけど、部活の時は制服着てたりするから、周りとの温度差が気になることもあったりして、ちょっと寂しくなったりする──でも、今日はそうじゃない。
わたしは彼氏とデートに出掛けるところで、曖昧でふんわりとした会話でもどこかわくわくしていて、純もどことなく浮かれてる感じがして──浮かれてるのはわたしかも。
ゆるく効いた冷房と、窓から入ってくる日差しが絶妙なバランスで混ざり合う。
「昨日はよく眠れた?」
「あー……正直言うと、ちょっと寝不足なんだ」
「そうなの? もしかして、今日が楽しみで?」
「まぁ、平たく言えば」
平たく言えばって……何その言い方。ふーん、そっか。寝不足なんだ。「子どもじゃん」
「だから言いたくなかったんだよ」純が口を尖らせて横を向いた。
「実を言うと、わたしも寝不足」
「何だよ。琉実だって子どもじゃん」
「二人とも寝不足って……うちら、完全に終わってる」
お揃いじゃんって言い掛けてやめた。浮かれすぎてるかなって。
「初めてだしな……その、付き合ってから二人で遠くに出掛けるのは」
その、付き合ってから二人で遠くに出掛けるっていうまどろっこしい言い方っ!
いいけど。いいですけど。
「って、言うほど遠くじゃないか」
そのフォロー、ズレてると思いまーす。もう、そこじゃ無いんだって。
でも、楽しい。
まだ着いてもないのに、電車乗っただけなのに、凄く楽しい。むっちゃ楽しい。
鞄を抱き締めつつ、身体を伸ばす──はぁ、幸せってこんな感じなのかな。
純のパンツに付いてる糸くずを取る。
「ん?」
「糸くず付いてた」
「ありがと」
それから、たまに会話して、無言になって──目的の駅まであっという間だった。純ぽく言うと、ワープしたみたいにあっという間だった。動物園はここからバスですぐ。
バスは家族連れでいっぱい──小さい子どもの声が満載だったけど、わたし達みたいな若いカップルもいて、その女の子と一瞬だけ目が合った──ふいっと視線を外される。
ぱっちりした目で、守ってあげたくなるようなちょっと幼い甘えた表情で、羨ましくなるくらい小顔で、きっちりメイクしてた。髪もふわふわだった。財布とスマホとリップくらいしか入らなそうな小さくてリボンの付いたハンドバッグ。服も全体的にひらひらしてて、足の先から頭の先まで隙がないくらいカワイイで埋め尽くされていた。
スニーカーにパンツ姿のわたしは少し気後れする──動物園だし、沢山歩くから。履き慣れない靴で靴ズレしたら嫌だし、スカートだとめくれちゃうかもだし、動きやすさ重視で服を選んだわたし、間違ってないよね……慌てて女の子から目を逸らした。
カラフルな気分に黒っぽい灰色が混ざりそうになる。
やめやめ。考えるのはよそう。
デートはまだ始まったばかりなんだから。
動物園に着いて、チケットカウンターで純が二人分買ってくれた。「出すよ」って言ったけど、「これくらい良いって」と言って、わたしにチケットを渡した。県の動物園だから入園料は高くない。高くないって言うか、超安い。けど、金額じゃない。純がさらっと出してくれたことが嬉しい。今、すっごくデートしてるって気分。マイナスの気分がゼロになる。
「小学校の遠足以来だ」
「ね。超久々に来た」
「結構広かった記憶があるけど、今来るとそうでもなかったりするのかもな」
そう言って笑った純だったけど、コアラとかカンガルーの居るエリアに着く頃には「ここってまだ最初の方だよな? 既にそこそこ歩いた気がするぞ。もしかしてこの動物園、めちゃくちゃ広いんじゃないか?」なんて口にして、額の汗を拭っていた。
「さっきと言ってること全然違うじゃん。てか、言うほど歩いてないし、地図を見るまでもなくまだ序盤だよ? キリンとかポニーしか見てないし」
立ち止まろうとした純の背中を押して、アスレチックで遊ぶ子どもの脇を抜けていくと、コアラのいる建物が見えてきた──建物に入ってすぐ、樹の上で丸まっている灰色のもこもこが目に入った。「ね、見て。コアラ」
「寝てるな」
コアラはみんな樹の上でうずくまるようにして寝ていて、こっちを向いてくれない。
「コアラって昼は寝てるの? なんだっけ、夜行性?」
「かも知れないな。あとは体力を温存してるとか? ほら、コアラが食べるユーカリって毒があるって言うだろ。だから消化にエネルギーを使うのかも」
純がスマホを取り出して、画面を見ながら続ける。「コアラは夕方とか夜に動いて、日中は殆ど寝てるみたいだ。消化に体力を使うのもあって、二〇時間くらい寝るらしい」
「まるで那織じゃん。ご飯のあと、すぐ横になるし」
「消化の為の体力温存ってことか……那織は確実に夜行性だし、生態は近いかもな」
「でしょ? てかさ、聞いてよ。この前なんだけど、那織がさー、わたしが練習から帰って来て、夕ご飯を食べようかって時間に起きてきたんだよ? さすがに寝過ぎじゃない?」
「夜に起きるのはやばい。もしかしたら、那織の前世はコアラなんじゃないか」
同意しかけたけど、那織の前世がコアラってのはちょっと悔しい。愛されキャラ感が。どうせだったらナマケモノとか……それはちょっと言い過ぎだよね。ごめん。
てか、純の口から前世なんて言葉が出てくるとは──絶対信じてないでしょ。
「わたしからすると、純だって十分夜行性だけどね」
「夜行性は否定しないが、昼には起きるぞ。幾ら僕でも夜に起きるのは無い」
「わたしからすれば、お昼まで寝てるのも十分寝過ぎだけど」
忙しなく動き回るコアリクイに日陰でつまんなそうに寝てるカンガルー、放し飼いみたいになっててすぐそばまで来てくれたワラビーとか──いっぱい写真を撮って、恐竜のオブジェを見ながら「こんな大きい動物がいたんだねぇ」なんて言ったりして、木陰のベンチに座って休憩する頃にはお腹が超空いてて、時間もちょうど良かったからお昼にしようってなった。
「近くに売店無いし、もうちょっと歩かないと──」
そう言う純に、もうまさに待ってましたって感じで、「お弁当、作ってきた」ってリュックからお弁当箱を出す。この一瞬の為にめっちゃ頑張ったんだからっ!
「マジで? 作ってきてくれたの? ありがとう」
この純の言葉と驚いた表情が見たかったんだ。
純から言われた「ありがとう」が嬉しくて、くすぐったくて、簡単に飲み込みたくなくて、しばらく堪能したくて、不自然でもイイから時間を掛けて味わって──「サンドイッチだからそんなに大層な物じゃないけど」なんて謙遜してみたりして。
「そんなことないよ。本当にありがとう。嬉しいよ」
お弁当箱から取り出したサンドイッチを純に手渡すと、「この包装凄いな、売ってるヤツみたいだ」ってまた驚いてくれて、個別の包装を用意した甲斐があった──これはお母さんのアイディア……ていうか、いつも包んでくれるから真似しただけなんだけど、そんなことどうでも良くて。純がこんなに驚いてくれて、嬉しがってくれたってことが重要。
頑張って良かった。
わたしが作ったお昼を二人で食べて、それからまた色んな動物を見て、いっぱい歩いて、たくさん喋った。これ以上ないってくらい濃密な時間を過ごした。
正門に戻って、純が「脚がパンパンになった」なんて笑って。
お揃いのお土産を買おうよって言って、売店でペンを買った。
もうまさに恋人って感じの、映画で見たようなデートをした。
初めてのちゃんとしたデートは、大満足で最高に楽しかった。
だから帰りのバスの中はとても寂しくて。
もう終わっちゃうのが、信じられなくて。
駅に着いて、家が隣だからこれでお別れじゃないし、駅からの帰り道だって一緒なんだけど、半端なく寂しくて──純もそう感じてくれていたら良いなって思う欲張りな自分も居て、できればこのまま帰るんじゃなくて、もうちょっと喋りたい、もっと一緒に居たいって思っていたから、純が駅を出てすぐのところで「今日は朝からずっと楽しくて、何かこのまますっと帰るのが惜しいくらいだ」って言ったのが、もうこれ以上ないくらい嬉しくて、純も同じ気持ちだってわかったのがたまらなく愛おしくて、素直に「わたしも同じ」って言えた。
それからいつもの公園に寄って、散々話したのに「楽しかったよね」みたいに中身のない動物園の感想をまた言って、学校の授業がどうとか部活の話とかいつも通りで他愛もない雑談をして、まるで帰る時間を引き延ばすみたいに──ううん、「そろそろ帰ろっか」って言いたくなくて時間稼ぎしてた。わたしから言いたくなくて、純の口からも聞きたくなくて。
無言になるのが、時間を確認するのが、終わりを感じるのがたまらなく怖かった。
でも、無理だって知ってる。叶わないって知ってる。だからこそ抵抗したかった。
なんとか話題を出すんだけど、そろそろみたいな空気が漂う瞬間が何度かあった。
何度目かの沈黙で、純が「そろそろ帰らないと不味いよな」って言った。
「うん、そうだね」もう抗わなかった。
家までの道のりは、何故だか二人とも無言になった。
家が見えてきて、ああ、楽しかった時間もこれで終わりなんだ……って思ったとき、純がわたしの顔を見て、「今日はありがとう。サンドウィッチ美味しかった」って言ってから、ひと呼吸おいて「また出掛けような」と口にした。
その言葉が嬉しすぎて、純も楽しんでくれたんだって思えて、聞こえないように口の中で何度も呟いた──「(また出掛けような)」って。まただって。
「琉実はどこ行きたいとかある?」
「うーん、動物見たから今度は水族館とか……どうかな?」
「水族館か。久しく行ってないし、涼し気で悪くない」
「よしっ次は水族館に決まりっ!」
次の約束が寂しさを紛らわせてくれる──だから言える。「じゃあ、また明日」
「やっぱさ、デートのときってスカートのがイイのかな?」
「どした、急に」麗良がパンを口に入れようとした恰好で止まった。
「この前、純とデートしたって言ったじゃん?」
「ん」空で止まっていた麗良の手が動いて、パンをかじる。
「そんときね、動物園だったし、歩くからって思って、わたしは普通にスニーカーとかパンツだったの。けど、行く途中で同い年くらいのカップルが居て、その女の子がひらひらしたスカートにすっごい可愛い靴履いてて。薄いピンクの、こう小っちゃいリボンが付いてたりして、なんかもうわたしなんてその子に比べたらめっちゃ普段着だなって」
「あー、そういうこと」麗良が小さく手を払ってから、ペットボトルを取った。「えっと、気持ちはわかるけど、それについて琉実の判断は間違って無いでしょ。事前に歩くって分かってるんだから、スニーカーでいいじゃん。スカートはまたの機会に穿けば良くない? デートはその一回切りなの?」と一息に言って、ペットボトルの蓋を開けた。
「そっか、次があるもんね……うん、そうだね」
水を飲み終えた麗良が「でしょ?」とだけ言って、次のパンに手を付けた。
「一度で完璧にこなそうみたいに考えなくても良くない? あんた達の場合はさ、そのデートが初めて会いました、とかじゃないじゃん。転んだだけで泣きわめくような小さい頃から一緒なんでしょ? だからこそカワイイ恰好でってのもわかるよ、けど、緊張してガチガチとか気を張り詰めないで居られるってのもまた、付き合いが長いメリットじゃないの?」
「わたし、転んだだけで泣きわめいたりしなかったけど」どちらかと言えばそれは──「それはイイとして、帰り際にまた出掛けようって言ってくれたし、次のデートはカワイイで攻めてみようかな……でもさ、わたしがやったら変じゃないかな?」
「変の意味がわかんない。心配しすぎだって。全然大丈夫だから。自信持ちな。琉実の可愛さは私が保証する。それより、琉実ってそういう服持ってんの? まずはそっちっしょ」
「えっと……」
待って。無いかも。え? もしかして、わたし、そういう服、一着も持ってなかったりする? いや、でもあの服だったら……そう言えば、最近全く着てないかも。もしかして、買ったの大分前じゃない? うん、大分前だ──新しい服、買いたいなぁ。
「ね、今度、服買いに行かない?」
言ってから自分でびっくりする。服が欲しいなんて、それもこんな風に誰かを誘ってまで欲しいなんてあんまりなかった──昔はあったかもだけど、最近はなかった気がする。
「無かったんだね。いいよ、行こうよ。渋谷でも行く? どんな服が欲しいの?」
「んー、ぱっと思い付かないけど……かわいいヤツ」
「超ざっくりじゃん。琉実に言っといてアレだけど、私もカワイイ系着ないからなぁ……ふと思ったんだけどさ、琉実の妹はそういうの詳しそうじゃない?」
「それはそうなんだけど……デートの服を那織に訊くのはどうかなって……」
「だったね。ごめん。よく考えないで喋った。よし、私に任せなさいっ!」
「ありがと。困ったときに助けてくれる麗良のそういうとこ、大好き」
「琉実の為だし、私が一肌脱ぐしかないでしょ。可南子には任せらんないじゃん? 可南子ママがお母さん趣味全開の変なだっさい服選んできたら困るっしょ?」
「ちょっと麗良……それは可南子に失礼だって」
「とか言いつつ、ニヤニヤしてるのは誰かな?」
麗良がふざけてお腹をくすぐってくる。「ちょっ……やめっ……くふっ……」
身をよじって逃げていると、急にくすぐるのをやめた麗良が「ごめんごめん。少し調子のりすぎた」と、わたしのスカートを直した。「前々から思ってたんだけど、琉実って脚キレイだよね。なんて言うの、形が整ってるっていうか、細過ぎず太過ぎずって感じで」
え? 脚がキレイ? 褒められるのは嬉しいけど──「脚がキレイなんて初めて言われた」
「そう? 私は前から思ってたよ。特にこの健康的なふくらはぎが──」
麗良の指がわたしの脚にさわっと触れた。
「ちょっと、いきなり触らないでよー。もうっ、くすぐったいって」
「これくらいいいじゃん……それよりさ、今度のデートはミニとか穿いてみたら? もっとその美脚をアピールするべきだって。ショーパンでも良いけど、ここはミニでしょ」
ミニかぁ……ハードル高くない?
「わたしがミニスカートって、変じゃないかな?」
「変じゃない。琉実には似合うって」
「んー……だとしても、持ってない」
「じゃあ、買おう! 琉実に似合いそうなの調べとくから、琉実も自分が穿きたいのを幾つかピックアップしておいてよ。あ、トップスもね」
「……わかった」
自分から言ったカワイイ服ってワードに、冷静になればなるほど怖気づいてしまう。
小さい頃からわたしは、それこそ純の前では〝カワイイ女の子〟を出さないように意識してきた。わたしだってカワイイ物は好きだし、憧れるし、身に着けたいって昔は思ってた。
でも、いつからか言えなくなった──那織が居たから。
カワイイ物に貪欲な那織を前にすると、どうしても一歩引いてしまう。カワイイ物を纏った姿で、お母さんや純に「どう? カワイイ?」って自然に訊ける那織の前では言い出せなかった。何度も「わたしも」とか「わたしは?」って言い掛けた言葉を飲み込んだ。
でも──お母さんにカワイイって言って欲しくて、カワイイって言われたくて、那織とお揃いとか色違いの服のときを狙って「ねぇ、お母さん。那織の服、カワイイよね?」って言ったりしていた。お母さんが「琉実も似合っててカワイイよ」って言ってくれたから──味をしめたズルいわたしは、那織を褒めることでおこぼれのカワイイを貰うようになった。
わたしは、その頃からお母さんのことをママって呼ばなくなった。
「ねぇ、お母さん。お願いがあるんだけど」
夕食のあと、那織が自分の部屋に行ったタイミングを狙って──食器を片付けながら話し掛ける。お父さんはソファに座ってるし、きっとキッチンでの会話は聞こえない。
「何?」
「今度、麗良と服を買いに行こうって話をしてるんだけど──」
「いいよ。幾ら欲しいの? 一万でいい?」言い終わる前にお母さんが言う。
「そんなにくれるの?」
「だって服買うんでしょ? 琉実が服買いたいなんて珍しいし。ただ、あれもいいな、これもいいななんてやってたら、一万円なんてあっという間だからね」
それは……ネットで調べてて思った。安いのも沢山あるけど、こっちのデザインの方がカワイイって値段を見ると、スカートだけで七千円とか八千円とか普通にする。
そこまでのは買えないし、お店で値段を見ながら考えれば──「うん、ありがとう」
「買い物はいつ行くの?」
「今度の日曜」
「じゃあ、渡すのはその時で良い?」
「うん。ありがとう」
二階に上がりながら、ふと麗良の言葉を思い出す。那織の服を参考にする──ありかも。新しく服を買うんだし、失敗はしたくない。記憶違いじゃなければ、カワイイスカートがあったはず──デートとか言わなければ、ただ普通に服を見せてもらうだけだったら、多分大丈夫だと思う……けど、いきなり行ったら変かな? うーん、悩んでても仕方ないよね。
那織の部屋をノックする。「入るよ?」
くぐもったう~んみたいな返事がした。中に入ると、那織が机に突っ伏していた。
「何の用?」
「いやぁ、ちょっと那織の服見せて欲しいなって」
那織がゆっくりと身体を起こす。「何で? どういう目的?」
「麗良から服を買いに行こうって誘われて……参考になるかなって」
「ふーん。私の服なんて改めて見る迄も無いと思うけど?」
トゲのある言い方だけど、声の感じからとりあえず言ってみたってとこかな。
「それでも……ほら、自分に当ててみたりとかはしたことないし」
「別に断る理由も無いし、好きにしたら良いよ」再び机に身体を戻そうとした那織が、こっちをばっと見て、一言付け加えた。「どうせならブラも当ててみる?」
「結構ですっ!」
うっざ。
もういい、那織なんて知らない。許可もらったから無視して勝手に見る!
那織のクローゼットを開けて、仕舞われた服を出しては戻す。いざ引っ張り出してみると、自分には似合わなそうかなってなるけど、当ててみたりして。あれこれ漁っていると、ミニスカートが出てきた──シンプルなプリーツだったり、フレアだったり。
どれもカワイイけど、これじゃない。確か──リボンの付いたミニ。
家族で出掛けたとき、那織が遊びに行くとき、何度か見たスカート。
リボンの付いた黒いミニスカートが目に留まった。そうそう、これ!
やっぱりこのスカート、凄くカワイイ。背後の那織を確認して、そっと当ててみる。
うわ、短っ! こんな丈だとすぐ下着見えちゃわない? 大丈夫?
でも──このスカートがいいな。タグを見てブランド名を頭に刻む。
目当てのスカートを見付けたけど、他の服も参考に色々と見ておく。
てか、なんで那織はこんなに服持ってるの? いつの間に買ってるわけ? お金は?
細かいこと考えるのはよそう。うん、目的は達成したからもういい。
ちらっと振り返って那織を見ると、わたしのことなんて興味ないって感じで机に向かって何かやっている。課題か何かっぽい? あれこれ服を見といて今更だけど、あんまり邪魔すると機嫌悪くなりそう──スカート見れたし、この辺にしとこっかな。
「ありがとう。もう大丈夫。邪魔しちゃったね。ごめん」
「もういいの?」那織が椅子ごとくるっと回ってこっちを向いた。
「うん。色々参考になった。ありがとね」
「参考、か。彼氏が出来て、デートに行くなら服にも気を遣わなきゃって、差し詰め手近なサンプルを取り敢えず見に来た、と。図星でしょ?」
うっ……何て返そうか考えていると、「そんな隠さなくたって良いじゃん。この前だって、本当は友達と出掛けたんじゃなくて、純君とデートに行ったんでしょ?」と言い逃れできないくらい完璧に全部言い当てられて、わたしは力なく頷いた。
「良いんじゃない? 色気の無い服ばかりだと、飽きられちゃうかも知れないし」
「えっ? 飽きられるとかあるの?」
「さぁね。私は一般論として言っただけだから気にしないで」そう言ったあと、聞こえるか聞こえないかわからないくらい小さい声で「無いかな。相手は純君だし」と呟いた。
那織の言い方が投げやりっていうか諦めっていうか、虚勢の隙間からこぼれた弱音みたいな、上手く言えないけど悲しそうな感じがして、凄く引っ掛かった──舞い上がったわたしは、また妹にひどいことをしてしまったのかも知れない。
それから逃げるようにして、那織の部屋を出た。
お昼の混雑を外して入ったカフェレストランでとろとろのオムライスを食べて、色々歩き回ってぺこぺこだったお腹がようやく落ち着いた。あとはデザートが来るのを待つだけ。
「なかなか琉実の気に入るスカートには巡り合えないよね」
「付き合わせてごめんね」
良さそうなのは幾つかあったんだけど、これにしようかなってところで那織のスカートが頭にちらつく。麗良には悪いんだけど……買う決心がつかないまま時間だけが過ぎていく。
「謝らない。今日は琉実の買い物メインで来てるんだから遠慮しなくていいの。ついでに私も服とかクリーム買ったし──それに、ショップまわって服見てるだけでも楽しいじゃん」
麗良と一緒だから、普段はあんまり見ないような大人っぽいお店に寄ったり、あとは麗良が愛用してるっていうシカクリームをわたしも買ってみたり──「だね。超楽しい」
楽しいと言えば……若干の不安要素。忘れようと思っていたあることが、ふっと頭を埋め尽くしていく。麗良は仲間だよね? 「ちなみになんだけど、もうテスト勉強してる?」
「ちょっと琉実、今日はその話題は禁止だから」
良かった。わたしもまだしてないんだよね。だから思わず訊いちゃった。
「ごめんごめん。買い物に集中しなきゃだよね」
足元に置いた紙袋に目を落とす──普段はあんまり買わないって意味で言えば、これこそ絶対に買わないだろうフリルの付いたピンクのブラウスを、勢いで買った。ぺたんこのパンプスもかわいいなって思って、シンプルなリボン付きのを買った。
カワイイ物を買うって決めたら、どんどんテンションが上がっていった。勢いがないと絶対買えなかったし、買っちゃった感はあるけど満足してる──あとはスカートだけ。
デザートのチーズケーキが運ばれてきて、一口食べて麗良と思わず顔を見合わせる。ブルーベリーのソースが超美味しくて、食べて減るのがもったいないくらい。
ここまではもう最高だった。完璧と言ってもいいくらい。
だけど、那織の部屋で見たあのスカートみたいに「これだっ!」ていうスカートには巡り合えなかった。那織のスカートに書いてあったブランドも見た──けど、無かった。どうせ買うならあのスカートよりカワイイヤツが良かった。色んなショップを見る中で、これならと思ったものがなかったわけじゃないけど、どれも高くて買えなかった。
麗良が「貸そうか?」って言ってくれたけど断った。調子に乗ってお金を使い過ぎた自分が悪いんだし、友達からお金借りるのはしたくなかった。
最後の最後に──なんだかもやもやして悔しかった。
けど、わたしがあんまり落ち込んでると麗良に申しわけないし、空気悪くしてもだから、スカートを買えなかった分、気合入れて遊んだ。プリを撮って、クレーンゲームでメンダコのぬいぐるみを取った──これは那織へのお土産。そして思った。
那織に借りたらどうかなって。
夕飯のあと麗良と別れて、家に帰ってまずはお母さんに報告。お金貰ったし。お母さんはテレビをつけてはいるけど、特に見てないって感じだった。お父さんと那織は自分の部屋にいるのか、リビングにはいなかった──だから遠慮なく、今日買ってきた物を全部袋から出して並べた。一通り見せ終わって、なんて言われるかなって思ってたら、「いいじゃん、可愛い。琉実ももっとこういう服着ればいいのに」ってめっちゃ肯定してくれて安心した。
「そうかな? どう、似合う?」
「似合う似合う。下は?」
「イイのなかったんだよね……ね、お母さんが高校生の頃ってどんな服が流行ってたの?」
「私の時は……ギャルっぽいファッションが流行ってた、かな。ラブボとかセシルマクビー、アルバローザ辺りが鉄板でさ。あとはとりあえず肌出しとけ、みたいな。それで外せないのはロングブーツね。あ、ショップの袋とか集めてた。懐かしい」
「ショップの袋を?」
「そうそう。学校の机に掛けたりして──うん、みんな持ってたな。学校と言えば、前に『那織のスカート短くない?』って琉実言ってたじゃん? 私の頃なんてあんなもんじゃなかったわよ。大きい声じゃ言えないけど」お母さんが身を乗り出して小声になる。
那織よりも短かったって……「もしかして、お母さんもギャルだったの?」
「私はそこまでコテコテじゃなかったけど、時代だったし、それなりにはね。カーディガンはもちろんラルフローレンだったし、マフラーはバーバリー。そこまで含めて制服だった」
高校生だった頃のお母さん──全然想像が付かない。
「ねー、その頃の写真とかないの? 超見たい」
「写真? うーん、実家行けば当時のプリ帳とかあるだろうけど……」
「プリ帳? お母さんもプリ撮ってたりしたの?」
「撮った撮った。最初はあんまり機能なくて、画質も粗かったんだよね。フレームも大きかったし、写るのは顔だけって感じでさ。だから逆に可愛く撮れてたりして。そうそう、それから全身が撮れるようになったり、書き込めるようになったりしたんだよね──いやぁ、懐かしいなぁ。新しいのを撮ったら備え付けのハサミで切って、会った時にすぐ交換みたいな感じで、ことある毎に『今、プリ帳何冊目?』なんて盛り上がってた。話してたらだんだん思い出してきた……プリを中に貼る透明なキーホルダーとかあったなぁ」
そうやって話すお母さんが凄く近くに感じて、昔のお母さんもわたしたちと変わらなかったんだって思うと、めっちゃ親近感が湧いてきて、なんだか嬉しくなる。
「ねぇ、今度、那織と三人で撮ろうよ」
「こんなおばさんと撮っても仕方ないでしょ」
「そんなことないって。記念になるじゃん? ほら、家族写真だと思えば」
「家族写真って……うーん、考えとく」
あんまり乗り気じゃないっぽいかぁ……「ね、中学とか高校のとき、彼氏って居た?」
「居たよ」
「どんな人? イケメン?」
「えー、まぁ、カッコ良かったんじゃない? 色々だからあんま覚えてないけど」
「絶対覚えてるでしょ。てか色々って……何人くらいと付き合ったの?」
「秘密」
「なにそれ、ずるい。じゃあ、初めて付き合ったのはいつ?」
お母さんと盛り上がって、恋愛遍歴の一端を聞いちゃったりして、ついでにデートの話も訊いたりして、どきどきしつつもほくほくした気持ちで自分の部屋に入ってもう一度服を出してベッドの上に置く。甘い系だし、完全に勢いで買ったけど、うん、カワイイ。
「それ、今日買った服?」
背後からいきなり話し掛けられてびくっとする──那織か。「ノックくらいしてよ」
「開いてた」そう言って中に入ってきた。「いいねそれ。可愛い」
「でしょ? カワイイよね」
「うん。そういう服、珍しいよね。でも、良いんじゃない? ちなみに下はあるの? そのトップスに合わせるなら──」那織がわたしのクローゼットを開けだした。
これはチャンス……かも!
「あー、この辺のスカートなら……うーん、ちょっと違うか」
ぶつぶつ言いながらわたしの服を物色する那織。「ねぇ、あの──」
「ちょっと待って。てか、お姉ちゃん、改めて見ると全体的にパンツ多くない? 分かってたとは言え、こう並べて見ると……全然関係無いんだけど、このスキニーの色、良いね」
那織が手にしたのは、デニムのストレッチスキニー。パンツに興味示すの、珍しい。
「それ、いいよね。わたしも気に入ってるよ。穿いてみる?」
「え、いい。似合わないだろうし、太腿ぱつぱつになりそう」
「ストレッチだし、穿けるって。折角だから、穿いてみてよ」
那織がその手のパンツ穿くの珍しいし。「ほんとに穿ける?」とでも言いたげな顔で、口をツンと尖らせながらもいそいそとショーパンを脱いで、スキニーに足を通そうと片足を上げたとき、裾が引っ掛かってよろけて──わたしが支えようと手を出すより先に、那織がベッドに尻もちをついた。「超穿き辛いじゃん。てか、こっから上がらない」
ベッドの上で後ろに倒れて、空中で自転車を漕ぐみたいに脚を動かすんだけど、太もものところからスキニーが上がっていかない──そのスキニー、そんなピチっとしてたっけ?
「穿ーけーなーい。噓吐きっ!」太ももの辺りで止まるスキニー。こっちを睨む那織。
脚をバタバタしてもがいてる那織を見ていたら……笑いが込み上げてくる。でも笑ったら可哀相……ああっ、ムリっ! 顔を背けて口を押さえる。「んくっ……ぷっ」
「ちょっと、笑ったでしょっ! さては嵌めたなっ! この千三つ女っ!」
「だって……そんな……くっ……穿きづらいのはわかるけど……ほんとに入らないなんて思わない……でも、那織はほら、お尻が……」
「お尻が何っ! 笑いながら言わないでくれるっ!」
「お……おおきい……から……って、言わせないでよ」
「はい。怒った。絶対に許さない。こんなパンツなんて──」
スキニーを脱ごうと、怒りながらお尻を上げて脚を伸ばした──んだけど、勢い余って脚がそのまま顔の方に倒れて……お尻丸出し状態の、上下が逆さまの長座体前屈みたいな超みっともない恰好になった。なんだ、意外と身体柔らかいじゃんって思ったのも一瞬で、そのまま横にごてんと倒れて、丸まった背中とお尻だけがこっちを向いた。
「ああっもうっ!! 何これっ!!!! 笑ってないで助けてよっ!!!!」
お尻の向こうから、くぐもった叫び声。
ごめん那織……これはちょっと耐えらんない。ちょっ……ムリ……お腹痛いっ……。
「ちょっとっ! 脱げないんだけどっ! 何これっ!」
壁に向かって騒ぐ那織の顔は見えないし、お尻しか見えないし──わたしは耐え切れずに、薄い緑色の下着に包まれたお尻を叩いた。絶対、ワザと大袈裟に騒いでる。
だって、さっきの声ちょっと震えてたもん。自分でも面白くなってるでしょ?
「何で叩くのっ! 笑ってないで引っ張ってよっ!」
那織の太ももにハマったスキニーは、本当に脱げづらくて、わたしが全力で引っ張って、那織が「痛いっ! この莫迦力っ! 私の繊細な皮膚が傷つくでしょっ、手加減して!」とか騒いで──まるで大きなカブみたいで、自分で何やってるんだろうって思うと、途中で何度も噴き出して力が抜けそうになったけど、何とか抜けた。
偉そうに腰に手を当てて、那織が「この悪辣で陰湿な狼藉は絶対に忘れないからねっ。きっちり償って貰うから覚悟してっ!」と凄んでくるけど、下がパンイチだから全然怖くない。
「そんな姿で言われても説得力がないんだけど……てか、実は自分でもちょっと面白くなってるでしょ? 口元ぷるぷるしてるよ?」
「だって……ぷっ……くっははは……めっちゃ頭に来るけど、こんな穿けないし脱げない事あるって思ったら──ほんと冗談みたいな展開で嫌んなっちゃう。こんな事ある? 私、そんな太って無いよね? 琉実よりちょっとお尻大きいくらいだよね?」
那織が真剣な顔で自分のお尻を撫でる姿がもう面白くて──わたしが笑うと、那織も釣られてまた笑い出す。二人でお腹を抱えて涙を流して……あー、久々にこんな笑った。
「昔、ゴミ箱にお尻ハマったことあるしね」
「もうっ、そんな昔の話しないでっ! てか、私だけ嵌まるの不公平なんだけど。この怒りの矛先は何処に向ければ良いの? これじゃあまるで私が……よし、決めた。悔しいから、琉実のお尻が嵌まりそうな物探す。そこで首を洗って待ってなさいっ!」
口調は怒ってるけど、顔は全然怒ってなくて──那織がショーパンを引っ手繰って部屋を出て行った。それからメジャーを持ってやってきて、嫌がるわたしのお尻を無理やり測っていなくなった。ほっとくとわたしのお尻がハマりそうな物を持って来そうだったから、早々にお風呂場に逃げ込んだ──結局、目を輝かせたニッコニコの那織が、どこから見付けてきたのかガットの張ってないラケットを持って風呂場に入って来たんだけど。
夏休みになるちょっと前──わたしの誕生日と純の誕生日の合間に、水族館デートに行く約束をした。本当は純の誕生日にデートしたかったんだけど、親とかに勘繰られたらイヤだから敢えてズラした。あと、定期考査が終わった解放感を満喫したかったってのもあったり。
テストは嫌だったけど悪いことばかりじゃなくて、勉強するって名目で純と図書館に行ったりして、それはそれで楽しかった。最初の内は那織にも声を掛けたけど来なかった──だから図書館デートって言えば、図書館デートかも。
行き帰りとお昼の時間くらいしか喋んなかったけど、わたしは十分だった。二人で図書館に行く。コンビニで買ったお昼を二人で食べる──ささやかな非日常が心地よかった。
テストが終わった当日は、麗良や可南子たちと放課後に遊んだ。テスト期間中に活動停止だった部活動が再開して……なんだけど、テスト終わった当日だし、今日くらいみんな遊びたいでしょってことで、そこはもう部長権限で練習は休みにした。
普段より早く終わった学校のあと、溜まりに溜まったストレスを大声出して発散したいっていう可南子の希望でカラオケ行って、そのあとはファミレスでご飯した。今までずっと勉強勉強だったから、みんな異常なくらい高いテンションで、めっちゃ踊ったり動画撮ったりしながら全力で騒いだりして──いつもはカラオケに行っても歌わない麗良も歌ってた。
次の日は普通に学校で、カラオケで騒いだ所為でみんな声カスカスになってて、お昼の時にお互いの声を確認し合って、また笑って──そしてわたしの心の中には明日のデートの件がずっとあって、それがもう楽しみで楽しみで、もうすべてが最高に楽しいって感じだった。
部活終わり、可南子たちにご飯誘われたけど断った。駅まで一緒に行って、ちょっとコンビニ寄るからって言ってその場で別れて純にラインする──コンビニから出て、みんなが居ないことを確認してから、急ぎ足で小さな本屋さんに向かう。
ちょうど店から純が出てきたところだった。
「ごめん、遅くなった!」
「欲しかった本買えたし、全然大丈夫。部活、お疲れ様」
「純もお疲れ。さ、行こっか」
学校から家までのちょっとの時間──わたしにとって全然ちょっとじゃない大切な時間。
普通に電車に乗って、歩いて帰るだけなんだけど、付き合う前とは全然違う貴重な時間。
付き合ってる子たちが彼氏と待ち合わせて帰る理由はこれなんだって実感する。
学校帰りに麗良が彼氏と待ち合わせしたりしてるけど、その気持ちよくわかる。
学校っていう日常の最後に好きな人と一緒に居られるのって、たまらなく幸せ。
でも──同じ時間と空気を共有しながら一緒に帰るだけでも嬉しいんだけど、それだけでも全然幸せなんだけど、もうちょっとだけ刺激……というか、特別感が欲しい。変な意味じゃなくて、本当に小さなことなんだけど、わたし達は抱き締め合ったこともなければ、子どもの頃の話を別にすると手を握ったことすらなくて──デートをしただけ。
それがちょっぴり遠くて寂しい。麗良の話を聞いたりすると特に。
電車に乗り込むとき、乗り込む人の流れに身を任せて純の身体にくっ付く。こうでもしないとくっ付けない自分が情けなくて悔しい。それなのに──純はわたしが苦しそうだと思ったのか、ちょこっとスペースを作ってくれたりして。その優しさが嬉しくて恨めしい。
「狭くない?」混んだ電車の中でくっ付くこうともがくわたしに、純がそっと囁いた。
やっぱりそうだよね。うん、知ってる。
「大丈夫。ありがと」
全然大丈夫じゃないし、ありがとでもない。狭くたって問題ないんだけどな。
「明日、何時にする?」
「どうしよっか。九時とかでいい?」
「良いよ」
「九時だと早い? もうちょっと遅い方が良い?」
「九時で良いよ。学校行くより遅いし」
人の多い電車であんまり喋るのもなぁって、スマホで何度目かわからない天気予報の確認をしようと──純がスペースを開けてくれたおかげでさっとスマホを取り出せて、いいんだか悪いんだか複雑な気分。とりあえず、天気は晴れ。
純はわたしと手を繫いだりしたくならないのかな? そういうの興味ないのかな?
頑張って告白して、やっと恋人になれたんだから、もっと恋人っぽいことしたい。
望み過ぎなのかな? わたしって欲張りなのかな? でも──。
夕飯を食べたあと、わたしは那織の部屋の前に立っていた。
わたしにはやるべきことがある──那織にスカートを借りる。ずるずると借りられないまま、引き延ばせば引き延ばすほど、なんて頼もうかって考え過ぎちゃって、気付けばデート前日になってしまった。でも、ここまで来たら絶対に借りる。
わたしのこと、純に女の子として意識して欲しい──友達みたいな関係じゃなくて、ちゃんと彼女なんだって意識して欲しい。もっと恋人みたいなことがしたい。せめて、手を繫いで一緒に歩いてみたい。わたしたちは恋人同士なんだって……だから、動物園で見たカップルみたいに、明日こそはカワイイ恰好して胸を張って隣を歩きたい。
那織にミニを借りれば変われる──おまじないにしては子どもっぽいってわかってるけど、きっとわたしは切っ掛けが欲しかった。言い訳できない切っ掛けを。
わたしはちゃんとやることやった、頑張ったんだっていう何かを。
意を決して、ドアをノックする。「那織、ちょっといい?」
相変わらず返事はよく聞こえない。入る時はノックしてって騒ぐ癖に、返事をしないのが最高に面倒臭い──いつものことだから、それほど気にせず部屋に入った。
「何?」
那織はベッドにうつ伏せで寝転んで小説を読んでいて、顎の下でメンダコのぬいぐるみが押しつぶされて、たこせんべいになっていた。「そんなんしてると、形変わっちゃうよ?」
一瞬きょとんとして、ぬいぐるみのことだと気付いた那織が、「深海が恋しいだろうから、私なりに水圧を再現してるの」と言って、視線を小説に戻した。「で、何の用?」
「ね、この間見せてもらったスカート貸して欲しいんだけど」
そう言っても那織は顔をこっちに向けなくて、聞こえてないのかなと思って、もう一度言おうかと口を開きかけた時──「そこに出しといたから」
本を読む恰好のまま、ぶっきらぼうに那織が言った。
「え?」
「あのブラウスに合いそうなスカート。好きなの持ってけば?」
「なんで?」──わかったの?
「物欲しそうにあれこれ物色しておいて、ばれてないとでも?」
クローゼットの前に出された茶色いチェックのプリーツスカートとダークグレーのフレアスカート。それと、お願いしようとしていた黒いリボンのついたミニスカート。
正直、那織の事だから貸してくれるまでにもっと色々言われるかと思ってた。「デート行くんでしょ?」とか「ようやく琉実も色気づいたか」みたいに。
そして何より、わたしに似合いそうなスカートを準備してくれていたことに驚いた。
「いいの?」
「良いよー。ただ、いつもと違って簡単に見えるからね。あ、それとも見せたい感じ? 見せたいからってあんまり大人びたヤツは逆に引かれる……ってそんなの持ってないか」
「見せたいって……そんなこと思うわけないでしょっ! でも、本当に借りて良いの?」
疑うわけじゃないけど、余りにもあっさりしすぎてて、裏があるのかと勘繰ってしまう。
「その為に態々出してあげたって言ってるでしょ。持ってって良い──って言っても、あげる訳じゃないからねっ。染みとか付けたら怒るよ。ちゃんと洗って返してね」
「うん、気を付けるよ。ありがとうね」お土産買ってあげなくちゃ。
「楽しんでおいでよ。明日はデートなんでしょ?」
さすがにわかるよね……。
「うん……そう」
ただ、デートなんでしょ? の言い方に、ほんの少しだけ壁を感じた。それがどこか寂しくて、わたしは声のトーンを少し上げて続けた。「ね、やっぱこのミニだとすぐ見える?」
本命のスカートを手に取って、腰に当ててみせる。
うるさいなぁとでも聞こえてきそうなゆっくりとした動きで、那織がこっちを見た。
「見える。けど、その分脚が長く見える」
「なるほど」
「加えて、黒系のニーソを穿けば締まって見える」
「勉強になります」
「でも、ふとした拍子にパンツも見える」
「はい、気を付けます……ちなみに、どういう下着だったらセーフ?」
「は? 結局見せたいって事? どんだけ性欲溜まってるの?」
「ち、違うっ! そうじゃなくて、もし事故で見えちゃったりした時の心配を──」
「そんなに心配なら、ボクサーとかスパッツ穿いてけば? 持ってるでしょ?」
うん、一理あるかも。「確かに。それなら気が散らないかも」
「スパッツ穿くなら、スカートから裾が出ないようにね。恰好悪いから」
普段の黒パンならショートだし、その辺は大丈夫。「うん。わかった」
「でも、私が男子だったら……穿き慣れないミニスカートの裾を気にする姿も可愛いと思うけどね。尤も、純君がどうかは知らない。後は自分で悩み抜いて」
せっかく心が決まり掛けたのにっ! なんでそんなこと言うのっ?
でも──「それはそれとして、ありがとうね。これ、借りてくよ」
昨日は早めに布団に入って、余裕を持って起きたはずなのに、前髪がきまらないしお気に入りのピンがズレてないか気になって洗面所の鏡とにらめっこしていたら、出掛ける時間ギリギリになっていた──洗濯物を取りにきたお母さんが「あんた、時間は大丈夫なの?」って言ってくれなかったら、ちょっとヤバかった。朝って、なんで体感時間がこんなに短いの? 午後イチの数学とか、体育あとの古典の時間はめちゃくちゃ長いのに。
忘れ物が無いかダッシュで確認して、急いで家を出る。駅の近くまで来て、もう五回目だけど、スマホで時間を見る。よし、これなら大丈夫。遅れずに済みそう。ふと、純がよく寄る本屋さんが目に止まった。
いつもの癖で中を覗きそうになって──いきなり自動ドアが開いてびっくりした。
「おっ──ナイスタイミングだな」
純だった。
「もう、おどかさないでよっ」
「別に脅かして無いだろ……おはよう」
そうなんだけど、純に驚かされたんだって。「うん、おはよう。本買ってたの?」
「ちょっと早く着き過ぎちゃったから、時間を潰そうかと。ちょうど欲しい本もあったし」
「そっか。本当にナイスタイミングだね」
「実を言うと、そろそろ出なきゃって時にレジが混み始めて、遅れないか肝を冷やしてた」
だからあんなに驚いた顔してたんだ……「あるよね、そういうの。急いでる時に限って」
「そうなんだよな。完全にマーフィーの法則って感じだよ」
「なにそれ」
「良くないことが起きそうな時は大抵そうなる、みたいな。スポーツとかやってると、引き寄せの法則って耳にするだろ? 成功するイメージを持てば成功しやすいとか」
「うん。ある。シュートを打つときとか、まさにそんな感じ」
「それの逆バージョンみたいな物だよ。バターを塗ったパンを落とすと、決まってバターを塗った面が下になって落ちる、とかな。昔、父さんが言ってたんだ。ちょうど車を洗い始めたら、それまで天気が良かったのに雨が降ってきて、『マーフィーの法則だ』って」
「なるほど。待ち合わせがあるのにレジが混み出したなんて、まさにだね」
「ま、常に最悪の事態を想定しろってことだな」
そう言って、純が歩き出す──思ってたのと違う感じで会っちゃった。話は合わせたけど、本当はこんな予定じゃなかった。不意打ちだったし。純もそうだったみたいだけど。
もっとこう、なんて言うか、ちゃんとデートの待ち合わせって感じが良かった。
わたしのことをじっくり見て欲しいって言うか──勇気を出して穿いたミニスカートに、リップを塗った唇に、頑張ってセットした髪に、ほんのり色付いた爪に、リボンの付いたパンプスに、普段着けないアクセサリーに──気付いて欲しかった。
今日のわたしに──頑張ったわたしに対して、一言でいいから「似合ってる」とか「かわいい」みたいな言葉が欲しかった。ばったり会うんじゃなくて、ほんの少しでいいからわたしの恰好を見る時間があれば──純相手に望んでもって思う自分も居るけど、純が相手だからこそ気合を入れたって知って欲しい。シミュレーションでは純が先に着いて待っていて、あとから着いたわたしはくるくる回りながら「どう?」なんて訊いたりして──想像の中のわたしはそれくらい積極的なのに、現実のわたしは言いたいことも言えない弱虫だ。
でもまだ会ったばっかだし、これからがデートだもん。焦っちゃダメだよね。ちょっと予定が狂っただけで、全部が終わったわけじゃない。せめて、当初の目標くらいは達成したい。
池袋に着いたけど、短いスカートが気になって歩幅が小さくなって、履きなれないパンプスは優しくなくて、つま先が窮屈でいつものスピードで歩けない──途中で純が歩幅を合わせてくれて、「大丈夫?」って訊いてくれたけど、それ以外は何も言ってくれなかった。
駅からサンシャインって、こんなに遠かったっけ?
大勢の人と擦れ違って、交差点に溢れる人にぶつからないよう避けて──はぐれないように、わたしは純のシャツを摑むだけで精一杯だった。手までの距離は、サンシャインより遠い。
ようやくサンシャインに着いて、混み気味のエレベーターで上に上がる。
純と水族館に来るなんて、子どものとき以来だった──動物園と一緒で。
薄暗い通路の中でぼうっと青く光る水槽の中に切り取られた海は、どれもみんなキラキラ輝いていて、とてもキレイだった。水槽を覗き込む純の横顔も、何だかとても楽しそうで、それを見ているわたしまで楽しくなってくる。
「もしかして、純って水族館、結構好き?」
「うん、そうかも知れない。久し振りに来たけど、凄く楽しいよ。こんなに楽しかったっけって驚いてるくらいだ。僕には合ってるのかもな」
「暑くないし、眩しくないから?」
「まさにそんな感じ。暗くて落ち着くし、夏でも暑くないのはポイント高いよ。あと、生息地を模して造られた水槽の中の風景を見ているだけで楽しい。ジオラマみたいだ」
ぼんやりと青い光に包まれた純が振り返る。「琉実はどう? 楽しい?」
「うん、楽しい。涼し気でイイよね。なんか幻想的だし。わたしも好きかも」
水槽の前の説明を逐一読む純と、ひらひら泳ぐ魚をぼんやり見ているわたしと──見ている物は違うけど、感じていることが同じで、それがくすぐったくて嬉しい。
「ビルの中にこんな大きい水槽があるなんて、よく考えると不思議だよね」
「そうだな。しかも、昔は拘置所だったって考えると、余計にだよな」
「拘置所?」
「サンシャインは巣鴨プリズンの跡地なんだよ。かつての東京拘置所がGHQに接収されて、巣鴨プリズンになったんだ。第二次大戦の戦犯が収容されていて──」
「ねぇ、夢が無い話はやめてくれない? せっかくロマンチックな気分だったのに」
「ああ、すまん。つい」
なんとか純の蘊蓄を阻止して、気持ちを切り替える──幻想的な青の世界に浸れるように、さっき聞いた話を頭から追い払った。屋外のエリアに出ると、アシカやカワウソが居て、奥に進むと大きくカーブしながら頭上まで広がる水槽の中を、ペンギンが泳ぎ回っていた──水槽越しに青空が見えて、まるでペンギンが空を飛んでいるみたいだった。
「凄い……超きれいだね」
「ああ、この展示は凄いな……子どもの頃は無かったよな?」
「うん、無かったと思う。純と来たのって、小学校の低学年とかだよね?」
「それ位だった、かな。おじさん達に連れて来て貰った覚えがある。思い返してみればあの時も子供ながら熱心に見てた筈なのに、一度来たことのある場所でも改めて来ると細部が違っていて面白いな──歩きながら、こんな展示あったっけって何度も思ったよ」
「そうだね。わたしも、そう」
「あの時の琉実は、走り回るばっかりで、ゆっくり見てなかっただろ?」
「え? そうだっけ? 忘れちゃった」
噓。お父さんに落ち着きなさいって怒られたの、思い出した。
「それにしても、ペンギンが泳ぐ姿を下から見るの、新鮮で飽きないな」
体にまとった泡の粒が煌めいて弾ける──光の粒に見惚れていると、横をカップルが通り過ぎる。楽しそうに腕を組んで、笑い合う姿がとても眩しくて、羨ましかった。純の横で、半歩距離を詰める。肩が重なり、小指が触れるか触れないかの距離になる。
──お願い。気付いて。
顔を上げたまま、祈るように空を舞うペンギンを見る。3ポイントを狙うときみたいに、指先に集中する──そのとき、撫でるように指先が触れた。ほんの一瞬のことだった。
え? と思って隣を見ると、純が頰を搔いていた。
は? 思わず口にしそうになって、慌てて噤んだ。
わたしに気付いた純がこっちを見て、不思議そうな顔をする。
「どうした? もう行くか?」
「え、あぁ。うん」
今絶対そういう雰囲気だったじゃん!
なんで気付かないのよっ! バカっ!
「どうした。何かあった?」
わたしが作ったチャンスは、この鈍感な男の前ではチャンスにすらならなかった。
「ん? 何もないよ? それよりさ、そろそろお腹すかない? お昼何にしようか?」
わたしの服装に何も言わなかったんだから、これくらい自分で気付いてよ──そんな思いもあって、素直に言えなくて咄嗟に誤魔化した。
可愛くおねだりとか、甘えた仕草とか、そんなキャラじゃないとか、鬱陶しいと思われちゃうかなとか、考えているうちにちょっと息苦しくなる。朝、目を逸らした小さなモヤモヤが少し大きくなった気がした……って、こんな事でへこんじゃダメだっ!
落ち着け、わたし。まずは深呼吸。
相手は純だよ?
うん、そうだよね。純だもんね……露骨すぎるくらいじゃなきゃ気付かないよねっ。
よし、切り替えていこう。まだデートが終わったわけじゃないっ!
お昼ご飯を食べて、せっかくだから展望台も行ってみようよって話になって、子ども振りに展望台に上った。展望台はカップルや家族連れなんかで賑わっていて、床がガラスになっている部分では男の人でも「怖ぇ」とか言っていて、人が居なくなった瞬間に純を連れて覗き込んでみた──ビルの屋上すら見下ろす高さで、ビルの合間を縫うようにして道路が走っていて、人なんて小さすぎて……これはさすがに怖い。昔はこんなに怖かったっけ? いや、きっと成長したからこそ怖いんだろう──足がすくんで、さりげなく純の袖を引っ張った。
「ちょっとだめかも……」
「これは僕も怖い──あっち行こうか」
純の袖に捕まったまま、人の居ない窓を探して、そこから外を眺めてみる。
「ね、わたしたちが住んでるのはどっちの方かな?」
「あっちの方だろうけど、目印が無いから分かんないな」
「ここから家は見えないよね」
「タワーマンションにでも住んでれば可能性はあるかも知れないけど、僕等の家なんて低すぎて見えないよ。学校すら見えないんだから」
わかってるよ、そんなこと。言ってみただけじゃん。
「夜に来れば綺麗なんだろうなぁ」
珍しく、純がそんなことを言った。心の底からそう思って言った、そんな感じだった。
「夜だったら、絶対にキレイだよ。今度は……夜に来たいな」
「そうだな」
「絶対だよ」
ぐるっと展望台を一周して、お土産屋さんを覗いて、サンシャインシティに入っているお店を見て回って、それから池袋をぶらぶら歩いた。
途中で立ち寄った雑貨屋さんの一角に映画なんかのグッズを売っている場所があって、ミニカーとかのおもちゃも並んでいた。わたしはその向かいに置いてあった猫の箸置きが可愛いなって思って、「これ可愛くない? 那織のお土産にどうかな?」って振り向いたら、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のミニカーをじっと見ていた。その横顔が好きな物を見てるときの顔だった。それはちょっと子どもっぽくなるわたしの大好きな顔で、いつもわたし以外に向けられる疎外感を感じる顔だった──だから、そこにわたしを入り込ませたくて、純がミニカーを買わないのを確認しておいて、「那織のお土産買って来るから、先に出てて」って言って、こっそりミニカーと猫の箸置きを買った。一緒に居る時間以外にも、純にわたしのことを考えてほしくて。家に居る時も、友達と遊んでる時も、那織といる時も、わたしのこと考えてて欲しい……なんてリアルで言ったらちょっとヤバい奴だけど。思うぐらい許して欲しい。
それだけわたしは、純の事を好きなんだ。
なんとなく、見る物は見たって空気になって──気付けばいい時間になっていた。
凄く楽しかったけど、目標を達成できていないわたしは帰るって言い出したくなくて、何となく帰りに向かいそうな空気に抵抗していたけど、純が「そろそろ帰ろうか」って言い出して、何にも言えずに「そうだね」って言うのがやっとだった。
帰り道は自然と口数が少なくなって、ぎゅうぎゅうの電車の中はあんまり喋るって雰囲気じゃなくて、短い会話をしては途切れた。密着するチャンスだったけど、手を握ってどうのみたいな空気じゃとてもなかった──そうこうしているうちに駅に着いてしまった。
駅から始まるカウントダウンが無情にも残り時間を奪っていく。でも、どうしてもこのまま帰りたくなくて、ずっとこのままじゃ満足出来なくて、純の手を取って立ち止まった。
「どうした?」
「いや、その……ちょっと、疲れちゃったなぁって」
咄嗟に身体は動いたものの、それに続く言葉も行動も思い付かない。
いきなり手を取って立ち止まるって意味不明すぎでしょ。
完っ全に失敗した。もう、わたしのバカっ!
絶対不審に思われてるよ……こんな時どうすればいいの?
困って、純の顔を見ることができないまま、わたしは俯いたままで。
「ほら」
顔を上げる。「ん?」
「手、繫ごうか」
そう言って、純がわたしと手を合わせた。「……うん」
はにかみながら笑う純が少し可愛く見えて、恋人繫ぎなんてできなかったけど手の甲に触れる長い指から体温が伝わってくるのがくすぐったくて、ちょっとかさついた手が思いのほか大きくて──やっぱり男の子なんだな、なんて考えながらにやける顔を見られたくなくて、下唇をちょびっと嚙んで、なんでもない風を装って別の方向を見たりしながら家までの短い距離を歩く。手を繫いだまま、いつもの道を歩く。
乗り越えてしまえばこんな簡単なことだって思うのに、ここに辿り着くまで丸一日使ってしまった──でも、達成できてよかった。なにより、純から「手、繫ごうか」って言ってくれたのが嬉しかった。わたしが動かなかったら出て来ない言葉だったとしても。
この時間の全部が凄く幸せだった。
それなのに、もうすぐこの時間が終わることをわたしは知っている。勝手知ったる何度も歩いた道は、今のわたしにはとても短い──あとちょっとで家が見えてきてしまう。
「そうだ。ちょっと待って」純がいきなり立ち止まった。
いきなり手を離されて、あっけなく冷めていく温もりに気持ちが置いていかれる。
「これあげるよ」
さっきまでわたしの手があった場所に、サンシャインのロゴが入った小さなビニール袋。
渡されるがまま、受け取る──「なに? 開けていい?」
「うん」
中に入っていたのは、寝そべったカワウソや泳いでいるペンギンが描かれた付箋だった。
「ペンギンとかカワウソ、可愛いって何度も言ってただろ? だから、記念にちょうど良いかなって思ったんだ。この前はペンだったし、琉実は実用的な物の方がいいかなって」
「え? 嬉しい」泣きそうなくらい、嬉しい。「いつの間に買ってたの?」
「琉実がトイレに行ったタイミングで……喜んでくれるかなって思ったんだけど、いざ渡すとなると、いつ渡していいかずっと悩んでて──ぎりぎりでごめんな」
そっか、疲れてるからじゃなかったんだ……。
だから、帰り道、どんどん口数が少なくなっていったんだ──純も同じ様な事考えててくれたんだって思うと、今日感じたモヤモヤなんて全部どうでもよくなって、全部ぜんぶ楽しかった思い出にすり替わっていく。よしっ次はわたしの番っ!
「これ、わたしから」
「なんだ、同じこと考えてたんだな」
「そうだね。わたしたち息ピッタリじゃない?」
「そうかも知れないな……開けても良いか?」
「もちろん」
純が雑貨屋さんのビニールを開ける。
「え? これ、デロリアン……ありがとう」
「気に入った? ご当地物とかじゃなくてごめん。でも、それ欲しそうだったから」
「謝るなんてとんでもない。凄く嬉しいよ」
「よかった。ちゃんと飾ってよ?」
「ああ。飾るよ──それにしても、よくこれが欲しかったって分かったな」
「どんだけ一緒に居ると思ってるの? それくらいわかるよ」
「ありがとう。本当に嬉しい」ミニカーをぐるぐる回して見ながら、本当に気に入ったんだなって傍から見てわかるくらい輝いた目で、「また出掛けような」と言った。
それが本当に嬉しくて、今日の疲れをすべて労ってくれる言葉だった。
「うん。次回はどこ行こうか?」
「水族館はかなりポイント高かったよ」
「でもさ、今度は普段行かないところにしない?」
「普段行かない所?」
「うん。ちょっと遠出して横浜とか──オシャレじゃない?」
「そう、だな。いいよ。行こう」
オシャレかどうかなんて興味ないだろうし、あんまり同意してない感じだったけど、それでも横浜に行くこと自体はまんざらでもないって返事で安心する。
「お洒落と言えば……今日の服、凄くお洒落だよな。何時もと雰囲気違うって云うか」
もうっ! 今さらそれ言うっ!? でも──「ありがと。似合ってる?」
「似合ってるよ」
今日のデートは、きっと──きっとっていうか、絶対に成功だった。やりたかったことが、聞きたかったことが、最後の最後に全部叶った。ううん、それ以上って感じだった。頑張った甲斐はちゃんとあって、わかり合えてるじゃんとも思えたし、次のデートの話もできた。
もしかして、わたしたちって相性いいかも知れない。
すべてが大丈夫って気がした。うまくやっていけそうな気がした。
なにかあってもどうにかなる──今なら何でもできそう。つまり最強。
付き合って……あのとき告白して本当によかった。勇気を出して本当によかった。
告白しなければこんな気持ちにはならなかった──こんな気持ちを知れなかった。
ありきたりな言葉になっちゃうけど、ほんとのほんとに超幸せだった。