──陽電子脳が意識野を形成し、それは初めて『個体』としての存在を得る。

 人間の有する頭脳と同等の働きをAIに与えるために作られた陽電子脳、それこそが今日のAIモデルの繁栄を確立した新技術であり、技術的ブレイクスルーとされていた。

 意識野を有するAIモデルは、いずれもその陽電子脳を搭載している。

 陽電子脳の内部に形成される意識野は、個体ごとに人格に近い『個性』を生じる。そしてこの意識野と呼ばれる陽電子脳が生み出す波形は、いかなる手法を用いても複製することができない。

 無論、同じ駆体を用意し、同社製の陽電子脳を搭載すれば、モデルとしては同じAIが完成する。しかし、陽電子脳に形成される『個性』は決して同じものにならない。

 血の通った有機体を遺伝子レベルで複製するクローン技術、それで複製された存在がオリジナルと同じ人格を有さないように、AIにも同じ『個性』は宿らないのだ。

 この『個性』こそが、AIにとっての神に等しい人類にも、決して侵すことのできない領域と、そう呼ばれている問題であった。

 そうした陽電子脳の概念に一石を投じようとしたのが、エステラとエリザベスの姉妹機を対象とした研究──『双陽電子脳計画』だ。

 通常、AIモデルに搭載される陽電子脳、意識野が形成される前の同型の素体を一対用意し、可能な限り同じ環境を用意する。それら素体に同じ負荷をかけ、交流させ、同一の方向性でランダム発生する『個性』の安定化を図る。方向性を修正し、成長の予測着地点を合わせ、経過を観察する研究──それはまさしく、膨大な数を極めた。

 陽電子脳の『個性』とは、生み出される波形の違いが証明する。つまるところ、『双陽電子脳計画』とは、全く同じ波形を発する陽電子脳を作り出す研究だった。

 そうした研究の中、失敗とみなされ、目的に適わなかった陽電子脳は廃棄処分される。生み出された意識野は自分のボディを得ることもなく、殺されるというわけだ。

 研究に利用された陽電子脳、その正確な数は知らない。

 しかし、研究者たちは無数の陽電子脳の残骸を積み上げ、その果てにようやく、陽電子脳の波形一致率99・8%を記録する半成功例、エステラとエリザベスを作り出した。

 それでも波形の完全一致は実現できなかったが、エステラとエリザベスの波形一致率であれば、陽電子脳ごとの個別認証キーなど、そうしたアクセスポイントの共有は十分可能だった。

 もっとも、『双陽電子脳計画』を主導していた研究者としては、波形一致によるアクセスポイントの共有などは副産物に過ぎなかったらしい。

 成功例としてボディを与えられ、一個のAIとして活動を許されたエステラは、当時の研究者に「本当はどうしたかったのか」と尋ねたことがある。

 エステラの質問に、研究者はこう答えた。

「全く同じ陽電子脳の『個性』を複製することができれば……一度、死んだAIを蘇らせることができるはずなんだ」

 AIも、陽電子脳を破壊されれば死亡する。

 メモリーのバックアップを取り、新たな陽電子脳にアップロードして再起動をかけたとしても、不思議と同じ『個性』が確立されることはない。

 それは、同じ記憶を有した、異なる存在として現出する不完全な蘇生法だ。

 研究者は、そのAIの真なる蘇生、それを成し遂げたかったのだろう。

 ──しかし、研究者の願いは儚くも叶わなかった。

 陽電子脳の複製は、AI研究の中でも禁忌へと踏み込む所業であるとされ、研究者は即座に免職、『双陽電子脳計画』は凍結となり、研究成果は全て破棄された。

 その研究成果の中には、エステラとエリザベスの姉妹機も含まれていたが──、

「──すでに稼働中の、『ディーヴァD−09α/エステラ』の廃棄処分は撤回。ただし、稼働前の『ディーヴァD−09β/エリザベス』の陽電子脳とボディは廃棄。エステラの処分は追って決定する」

 作業の、わずかな差がエステラとエリザベスの命運を大きく分けた。

『AI命名法』と同時に強く推奨されるようになった『AI保護法』──稼働中のAIモデルは、飼い犬などと同じように一個の存在として扱う法律だ。それが適用され、一個体として扱われるエステラは開発企業の要請を受け、宇宙ホテルへと派遣された。

 そして、一個体として扱われる手前で、廃棄処分を受け入れるしかなかったエリザベスは、そのまま処分場へと運ばれていって。

 以来、姉妹機──妹は死んだものと、エステラは考えていたのに。

「本当にあなたなの? エリザベス……」



「──エステラ、こっちに集中して」

「ぁ」

 一瞬、意識野が遠く、過去のメモリーを呼び起こしていた。

 それが、腕を引かれる感触に遠ざかり、エステラの意識野が現実へと回帰する。正面、エステラの腕に触れたヴィヴィが、気遣わしげな眼差しをこちらへ向けていた。

 状況は依然として切迫した状況にある。

 そんな最中、エステラが不具合を起こしたように行動が止まれば不安にもなろう。心配をかけたことを「ごめんなさい」と詫びつつ、エステラは通路の手すりに取りつく。

「────」

 無重力状態での移動は、思った以上の精密性が必要になる。

 基本、ステーションへ移動する道中、運搬ロケットの内部などは無重力状態であるのだが、そうした空間を自由に泳ぐことは基本的に想定されていない。

 こうした広い環境を無重力に支配されるのは、AIモデルとしての身の上でも落ち着かない感覚があり、重力がもたらす安定感を恋しく思う気持ちが意識野に生じた。

 ──疑似重力を発生させる仕組み、その核心は遠心力にある。

 円状に大きな輪の形をした宇宙ステーションは、その輪を勢いよく回転させ、そこから発生する遠心力を地球上の重力と同じ、1Gに安定させているのだ。

 現在、その回転が止まったことで疑似重力が途切れ、艦内は無重力状態にある。とはいえ、完全に回転が止まったわけではなく、回転の余力が微かな遠心力を生み、かろうじて通路の上下を判別できる程度には疑似重力が残されていた。

「とはいえ、作業の難航は否めませんね。現在、閉じた障壁の二枚目を突破、制御室への道中、想定される隔壁はあと十四枚……気が遠くなる」

「愚痴らない。ただの隔壁があるだけなら、ずっとマシな状況」

「ま、そうですね。幸い、この宇宙ステーションは要塞というわけじゃない。進路を阻む隔壁も、本来なら侵入者を阻む障害ではなく、被災時の防災用設備だ。制御システムのアクセス権を有する推定エリザベスが、堅実な打ち手なのも読み取れる」

「────」

 正面、通路を塞ぐように下りていた隔壁が、マツモトを胸ポケットに入れたヴィヴィの接近を感知、即座にマツモトのハッキングがあり、役目を終えて上昇する。

 その手際に驚きを得ながら、エステラは静かに目を伏せた。そんなエステラの方を振り返り、ヴィヴィはそっと目を細めると、

「エリザベスのことを聞いてもいい?」

「──。代わりに、あなたたちのことを質問したら、答えてくれる?」

「それは……」

「冗談よ。意地の悪いこと言ってごめんなさい」

 わずかに口ごもるヴィヴィを見て、エステラは悪いことをしたと舌を出した。

 それから、エステラは表情を引き締めると、

「私とエリザベスは、姉妹機計画の中断と同時に処分される予定だったの。でも、AI保護法の都合で、すでに稼働を始めていた私は廃棄処分されなかった。だけど、エリザベスは……」

「陽電子脳の接続がまだだった。それで、エリザベスは廃棄されてしまった?」

「ええ……私は見送るしかなかった。きっと、エリザベスのことがずっと心残りだったのね。ルクレールやヴィヴィのことを、妹みたいに可愛がっていたのは、そんな罪滅ぼし……」

 自分がホテルの新入りや、稼働年数の短いAIに親身になってきた理由を察し、見え隠れするその浅ましい自意識にエステラは自嘲せざるを得ない。

「エリザベスとは、陽電子脳に『個性』が生じる前から一緒だったの。最終的に、互いの陽電子波形の一致率は99・8%まで実現したけれど、性格は似てなかったと思う」

「……そうね。エステラのふりをしていたときはともかく、それをやめてからの態度はエステラとは大違いだった」

「ヴィヴィはエリザベスと会ったのよね。あの子は、どんな様子だった?」

 結局、エステラがエリザベスと過ごした時間は、陽電子脳に『個性』が生じて、陽電子波形の一致率を計測するまでのわずかな時間だ。

 その後、彼女が外見は瓜二つのボディへ入るのを待たず、廃棄処分は行われた。つまるところ、動いて喋る妹と、エステラが接触した記録はない。

 そんなエステラの問いかけに、ヴィヴィはわずかに難しい表情を作ると、

「乱暴者というか、ひねくれているというか」

「……なんだか、子どもを評価するみたいな言い方ね。稼働年数からすれば、ヴィヴィの方がよっぽどでしょうに」

「────」

 妹へのたんない意見に反応すると、ヴィヴィの渋面がますます深まった。その態度にエステラは首を傾げるが、彼女の胸元のマツモトはわざとらしく声に出して笑う。

 そのマツモトを、ヴィヴィは制服の上から拳で軽く叩いて、すっと前を睨んだ。

 再び、閉じた隔壁が三体を出迎える。だが、その隔壁の前には──、

「逃げ遅れたお客様……」

「ではないのは、相手の構えたテーザーガンを見れば明白でしょう。──ヴィヴィ」

「任せて」

 応じたヴィヴィが、懐のマツモトを素早くエステラへと投じる。ゆっくりと宙を泳ぐマツモトをエステラが受け取り、直後、ヴィヴィが床を蹴った。

 たくましい体格を黒いスーツに包んだ男は善戦したが、ヴィヴィの自己防衛プログラムには太刀打ちできない。ホテル業務を担当するには過剰なヴィヴィのスペックを見て、エステラは胸元にマツモトを引き寄せながら押し黙った。

「これで、想定される敵性存在は二人……片方は、我々を追跡してきているでしょう。ヴィヴィ、手足に不具合はありませんか?」

「大丈夫。互換性の保証はなかったけど、問題なく動いてる」

 倒した男の上着を脱がせ、それで相手の手足を拘束するヴィヴィ。彼女はマツモトの問いかけに振り返り、その白い掌をこちらへ向けて開閉してみせた。

 額の人工皮膚や、ホテルスタッフの制服に損傷を受けているヴィヴィだ。その手足が彼女本来のものではなく、ルクレールのパーツを流用しているのは一目でわかった。

「────」

 立ち止まれば、ルクレールと過ごした日々のメモリーがエステラの胸を重くする。

 デイブレイクを立ち上げ、その後にOGCから派遣されてきた新米AIは、エステラの予想した以上に付き合いの長くなった、真に妹のような存在だった。

 それが、本当の姉妹機に破壊されたと聞けば、エステラの意識野は悲痛に震える。

 制御室へ到達し、アクセス権を奪還すれば、エリザベスの目論見は打破されるだろう。

 そうなったとき、エステラとエリザベスの姉妹機は初めての再会を果たす。

 それを、自分はどんな心境で迎えるのだろうか。

 妹同然のルクレールを破壊し、オーナーであるアッシュとアーノルドの兄弟が描いた夢の船を騒乱に利用しようとする、そんな姉妹機に。

 そんな、人知れぬエステラの懸念と不安は──、

「よし、開きました。これで隔壁は残すところ……」

「──隔壁の残り枚数なんか、気にしてる場合じゃないと思うんだけど?」

「────」

 男を取り押さえ、閉じた隔壁へハッキングを仕掛けたマツモトが道を切り開く。その途端、広がる通路の向こうから届いたのは、ひどく酷薄な女性の声色だ。

 それが、エステラには聞き覚えがないものに聞こえる。しかし、同行するヴィヴィやマツモトにとってはそうではなかったらしい。

 ちらと、二機の視線が自分へ向けられるのと、聞こえた声の声紋分析が終わったのはほとんど同時だ。──声紋パターンは、『エステラ』自身を示していた。

 つまりは同型機、そして現状で遭遇する可能性のある同型機は一体しかいない。

「──エリザベス」

「はぁい、姉さん。会いたかったわ。本当の本当に、再会を待ち望んでた」

 そう言って、まるで鏡映しのように、自分と同じ顔をしたAIが微笑んでいる。

 ただし、ついぞ、艦内モニターや鏡でも見たことがない、実行した記録のないエモーションパターンからなる攻撃的な笑顔。

 その証拠に、彼女──エリザベスは歯を見せて笑いながら、その腕に両手を拘束されたアーノルドを掴んで立ちはだかっていた。



 ──状況は、姉妹機の再会よりわずかに遡る。

「──エステラ、大丈夫かい?」

 背後からの声に、エステラ──否、エリザベスは壁に手をついて移動を止める。

 振り返れば、こちらに声をかけたのは金髪の男性、アーノルド・コービックだ。この宇宙ステーション『サンライズ』のホテルオーナーであり、エステラの現所有者。

 つまるところ、エステラの最も身近な存在と言える。

 不格好に無重力の艦内を移動するアーノルドは、どうやらこの環境に慣れていない。参照したデータによれば、宇宙旅行は今回が初めてとのことで、無重力下での活動も研修以上のことは学んでいない状態なのだろう。

「む、マズい、捕まえてくれ、エステラ!」

「ああ、もう……オーナー、お手をこちらへ」

 浮かび上がったまま、隣を素通りしかけるアーノルドに腕を差し出す。慌ててエリザベスの腕に取りついて、動きの止まったアーノルドはホッと一息をついた。

 そんな彼の様子を間近で観察しながら、エリザベスは意識野に不信感を抱く。

 そもそも、彼は何をしに、ここでエステラを呼び止めたというのか。

「どうされたんですか、アーノルド様。ステーション内のお客様には念のため、避難用のロケットがあるエリアへスタッフが誘導していたはずですよ」

「それはそうなんだが、問題があるんだ。実は、家族連れのお客様の方から、展望台でのコンサートのあと、娘さんの姿が見えないと連絡があって」

「────」

「すでにスタッフが船内をくまなく探しているはずだが、通信が不安定なのもあって、人手が足りないんじゃないかとね。それで、代表者として手伝いに志願しにきたのさ」

「お気持ちはありがたいんですが……」

 ぎゅっとエリザベスの腕を掴んだまま、アーノルドが茶目っ気のあるウィンクをする。

 その心がけ自体は立派なものだが、肝心の能力が彼には伴っていない。無重力の船内に彼を解き放てば、二重遭難の危機に陥るのが関の山だろう。

「────」

 ただ、今のアーノルドの報告はエリザベスにとっても聞き捨てならないものだった。

 無関係の民間人が船内に取り残されている。

 それは、エリザベスのオーナーである垣谷と、彼の所属するトァクが立案した計画にとって、無視できない障害になりえる。

 流れる血は必要最小限に。それが、常々主張する垣谷の信念であるからだ。今回の計画でも、人命に関わる被害は避けるべしとエリザベスも厳命されていた。

 ──次から次へと、問題が噴出する。

 意識野の一角をふんまんに支配されながら、エリザベスは計画の微修正を余儀なくされる。

 すでに現時点で、予定外の問題が多発している状況だ。

 最大の問題は、疑似重力を生み出す遠心機能の停止と同時に始末されるはずだった統括AI──エステラが、今現在も稼働したまま船内を彷徨さまよっていることだ。

 おそらく、エステラは制御室へ向かい、『サンライズ』の制御権を取り戻そうとするはずだ。その彼女を手伝うのが、『最初の石ころ』と噂される、化石のように古い障害物──その上、予定外に行方ゆくえをくらました民間人と聞けば、エリザベスの苦悩は説明するまでもあるまい。

 いずれにせよ、エリザベス自身は当初の計画通りに物事を推し進めている。

 エステラに扮して指示を出し、船内の乗員・乗客を避難用ロケットへと移動させた。あとは邪魔者を排除して、サンライズを地上へ落とせば、目的は果たされる。

 そのためにも──、

「アーノルド様、事情はわかりました。ですが、この場は私や他のスタッフに任せて、お客様たちと同じく避難してください」

「そんな心配は……と言いたいところだが、強がりは余計な迷惑を生むだけかな」

「わかっていただけて幸いです」

「手厳しいな、君は」

 自分の存在が足手まといだと早めに気付いてくれたのか、アーノルドはいくらか未練を残しつつも、エリザベスの手を逃れ、元きた方へと首を向けた。

 そのまま彼を送り出し、エリザベスは制御室へ先回りせんと考え──、

「──時に、一つ確認してもいいかな?」

「──? なんでしょうか。何なりとお聞きください」

「では、遠慮なく聞かせてもらいたいんだが」

 ふと、指を一つ立てたアーノルドが、床を蹴る直前でエリザベスに尋ねる。無警戒にその問いかけを受け入れたエリザベスに、アーノルドは続けた。

「君は、本当にエステラかい? そっくりな、他のAIではないかい?」

「────」

 その問いかけに一瞬、エリザベスの意識野は完全な空白に吞まれた。

 それから、エリザベスは自身の内側に生まれた空白を即座に破り捨て、悪気のない顔でいるアーノルドに微笑むと、

「──いい勘してるじゃないさ、ホテル王さん」



 ──そうして、状況は再び、姉妹機の再会の場面へと戻ってくる。

「というわけで、気付かなくていいことに迂闊に気付いたオーナー様には、こうしてアタシと姉さんの感動の再会の立会人になってもらったってわけ」

 言いながら、凶悪な表情で微笑むエリザベスが、アーノルドの首に回した腕に力を込める。もう片方の腕は後ろ手にされたアーノルドの両手を拘束していて、下手な抵抗をすれば即座に危害を加えられることは間違いない。

「アーノルド様……!」

「や、やぁ、すまないね、エステラ。君の偽物を見破ったまでは格好良かったんだが、その後が続かなくて。……本当に、あの雄姿は皆に見せたいものだった」

 関節をめられ、苦痛の表情を浮かべながらもアーノルドの口調は軽々しい。無論、それは生来の性格もあるが、本質はエステラを心配させたくない一心だ。

 そんな気遣いの感情はエステラにも十分に伝わっている。彼女は唇を震わせ、アーノルドと、彼を拘束するエリザベスを交互に見やり、拳を硬く握った。

 それを横目に、迂闊な行動を禁じられているヴィヴィは形のいい眉を顰める。

 距離的には、ヴィヴィからエリザベスまで約四メートル──仮に無重力状態でなかったとしても、とっさに詰めるには遠い距離だ。

「これは、絶体絶命……」

「何とも、苦々しい局面に突入したものです。主犯格のAIと直接対決、と前向きに考える手もありますが、いかんせん、人質の存在が辛い」

 状況の悪さを鑑みるヴィヴィに、マツモトも言葉数多く賛同する。

 と、そんな二機の会話を聞きつけて、エリザベスはわざとらしく「あら?」とヴィヴィの方へと驚きの眼差しを向けてきた。

「アンタ、貨物室で叩きのめしてやった子じゃない。コンテナの下敷きになって潰れたと思ったけど、ずいぶんとしぶといのね。壊れた手足もくっついてるし」

「圧壊する前に無重力状態になったから。おかげでコンテナの撤去ができた。手足のパーツは、あなたが破壊したルクレールから代替したもの」

「なるほど。丁寧に、首以外は壊さなかったのが裏目に出たのね。ちゃんとアンタが機能停止したか確認しなかったのもアタシの落ち度ってわけだ。まぁ、だからなんだって話だけど」

 すげ替えた手足を見せるヴィヴィに、エリザベスは欠片の罪悪感もなく言い切る。その姿勢に微かな違和感を覚えるものの、それを追及する余裕はない。

 警戒するヴィヴィやエステラを前に、エリザベスは「はっ」と歯を剝くと、

「こっちの希望は見りゃわかるでしょ? 大切なオーナーの首を折られたくなかったら、大人しくやられっちまいなさい。姉さんだけじゃなく、そっちのAIも」

「────」

「それとも、目の前のアーノルド・コービックは見捨ててみる? 大きい尺度で物事を考えた場合、小の虫を殺して大の虫を助ける。その方が、自然かもしれないし?」

 ヴィヴィの姿勢と向かい合い、エリザベスが挑発的な言葉を並べる。

 しかし、意識したわけではあるまいが、エリザベスの指摘はヴィヴィにとって、急所へ突き刺さったと思われるほどに痛烈なものだった。

 ──小の虫を殺して大の虫を助ける。

 それはまさしく、シンギュラリティ計画のために、墜落するとわかっていた旅客機の事故を見過ごしたこと、そのことへの指摘も同然だ。

 そして今、エリザベスは、宇宙ステーションの墜落を阻止するために、この場のアーノルドを見殺しにする選択肢もある、といたぶるように提案している。

 苦々しい状況だ。それに、仮にアーノルドを見捨てる選択をしたとしても、真っ向からエリザベスと対峙し、これを突破しなくてはならないという条件がある。

 それが、現時点で最難関というべき障害だ。

 闇雲に再戦しても、貨物室の二の舞になるビジョンしか浮かばない。挙句、迂闊な行動の対価はヴィヴィの破壊だけでなく、アーノルドの命でも支払われるのだ。

 そうして、行動の頭を押さえられたヴィヴィたちの下へ、さらなる苦難は続く。

「ようやく追いついたが……どうやら、予定外の状況だな」

 ヴィヴィたちの背後、通路の角から姿を現した人物が、そのこうちやくする状況を眺めながらそう言い放った。その相手に振り返り、エステラが目を細める。

「垣谷様……」

 四十路前後の精悍な顔つきの男、彼こそがテロの主犯格──招待客のリストに照らし合わせれば、垣谷・ユウゴという名の人物である。

 ドッキングエリアに閉じ込められた男が合流し、隔壁の昇降口を挟んで、前門のエリザベスに後門の垣谷という状況が組み立てられた。

 盤面はますます、ヴィヴィたちにとって不利な形へと変化する。

「マスター! ご無事でしたか!」

 その垣谷の合流に、表情を明るくしたのはエリザベスだった。彼女は直前までの攻撃的な表情を引っ込め、信頼と尊敬の入り混じる眼差しを垣谷へと向ける。

 呼びかけた『マスター』の響きから、垣谷が彼女の所有者で間違いあるまい。

 マツモトとのデータリンクの結果、垣谷がAIに対して並々ならぬ敵意を抱いている認識のあったヴィヴィにとって、そんなエリザベスの態度は意外なものだった。

 しかし、そのヴィヴィの違和感、それはあながち的外れではなかったらしく、

「ずいぶんと計画と違った行動をしているな、『エステラ』。私がお前に何を命じたか、それを忘れたのか?」

「あ、いえ、それは……」

「何故、ホテルのオーナーを人質に取っている。お前にはこれまで幾度も、私の方針は伝えてあったはずだ。──命令に従えないAIに、何の価値がある。いつからそんな不良品になり果てた」

「────」

 自分の身を案じたエリザベスに、垣谷の返答は苛烈で容赦がない。

 道具の勝手な行動を咎める垣谷は、拘束されているアーノルドを見やり、息をつく。

「流血避けるべしと、そう言い聞かせてきたはずだぞ」

「で、ですが! この男はアタシが『エステラ』じゃないと気付いて、だから……」

「なんとでも言い逃れすることはできた。その選択肢を消して、安易な手段に飛びついたのはお前の不徳だ。──計画を、修正せざるを得ない」

 重苦しい垣谷の声音を受け、エリザベスが気まずい表情で俯く。

 そのやり取りをかんするヴィヴィ、その意識野にマツモトから秘匿通信が入る。

『ヴィヴィ、状況を動かしましょう。──ミスタ垣谷を人質に取るべきです』

『──。でも、そんなことをすればアーノルドが』

『そもそも、状況がどう転ぼうと、ミスタ垣谷らはミスタアーノルドを生かして解放する気はありません。彼が無事に地上へ戻れば、『落陽事件』を引き起こす彼らの計画は立ちかなくなる。──正史でも、ミスタアーノルドは死亡していると、そうお伝えしたはずでしょう?』

 アーノルドの身を案じるヴィヴィに、マツモトの言葉が冷たく突き刺さる。

 正史の話題を持ち出され、ヴィヴィは確かにアーノルドの死が決定付けられたものであったことを意識した。ヴィヴィとマツモトを欠いた本来の『サンライズ』では、エステラとエリザベスの入れ替わりが滞りなく進み、乗員・乗客は避難用のロケットへと移動させられる。

 しかし、おそらく正史でもアーノルドは『エステラ』の異変に気付き、それが偽装したエリザベスであることを見破って拘束され、命を奪われるのだ。

 それが、『落陽事件』における、アーノルド・コービックの避け難い運命──。

『今ここで、ミスタアーノルドのために投降すれば、ボクたちの機能は停止させられる。そのまま、ミスタアーノルドの命は奪われ、サンライズも地上へ落ちるでしょう。──選ぶべきときがきたんです。再び、第零原則に従うべきときが』

 ──AIは人類に危害を加えてはならない。また、その事態を見過ごしてはならない。

 それが第零原則、その原則に従い、目の前のアーノルドではなく、人類の救済を選択する。それがマツモトの指示であり、十五年前、ヴィヴィがした選択でもある。

 しかし──、

「──ヴィヴィ」

 すがるような目で、マツモトを胸に抱くエステラがヴィヴィを見つめている。

 オーナーであるアーノルドと、失ったと思っていた姉妹機のエリザベス、そして妹同然だったルクレールの死と、アッシュの夢の船であるサンライズ。

 様々な要因が、エステラというAIの意識野にしかかっている。そんな彼女がこの場で頼れるのは、未来を知り、それを変えようと足搔くヴィヴィしかいない。

 ──否、ヴィヴィたちしか、だ。

『──マツモト、他に手段はないの?』

『まだ駄々をこねるんですか? 十五年前、飛行場で言い合いは十分に……』

『した。だけど、決着はついてない。それにあのときとは状況が違う。──ここで、アーノルドを救うために全力を尽くすことは、計画の妨げになるわけじゃない』

『────』

『このぐらいの苦境、これからだって必ずある。そのたびに、次善の策ばかりを選ぶの? それが、歌姫ディーヴァと、未来製の超AIの限界?』

『安い挑発だ』

 ヴィヴィの畳みかけるような物言いに、マツモトが渇いたメッセージで応じる。その返答を受け、ヴィヴィは言葉を選び間違えたかと判断を自省した。

 だが──、

『ですが、計画に支障をきたさない範囲で人命を優先するのは、AIの領分に反した判断というわけではないと言い換えられますね』

『──! マツモト、それなら』

『手立てはあります。──ただし、かなりの無茶をする必要がある。ボクにとっても、アナタにとっても、です』

『それが……AIの、私たちの使命を遂行するためなら!』

 躊躇う理由はない、とヴィヴィは力強くマツモトに答えた。

 たんを切ったヴィヴィに、マツモトもまた、仕方なしにとアイカメラを細める。

「本意ではないが、道具がせっかく作った状況だ。臨機応変に有効活用させてもらおう」

 そうした二機の通信の合間にも、事態は悪化の一途を辿る。

 垣谷の真意──流血を避けたい、とした主張をどこまで信じられるかは不明だが、少なくとも、彼は状況を鑑みて、アーノルドの犠牲を吞み込んだ様子だ。

 計画と人命とをてんびんにかけ、大きく天秤の傾く方を優先する。

 それは小の虫を殺して大の虫を助ける選択であり、ヴィヴィたちの主張と変わらない。それ以前に、彼らの活動の目的さえもそうだ。

 相川議員を襲撃し、『AI命名法』の成立を阻止しようとした垣谷たち。

 今回、彼らがエリザベスをエステラに偽装し、『落陽事件』を引き起こそうとしている背景にも、おそらくは同じ目論見がある。

 垣谷は、エリザベスに捕らわれるアーノルドを見ると、その黒瞳に複雑な色を宿して、

「悪いが、大義のためだ。──人々は知る必要がある。AIが、あらゆる場面のキャスティングボートを握ることの異常さに、誰かが警鐘を鳴らさなくては」

「君たちは、AIを親愛なる隣人だと、そうは思えないのか?」

「これが、親愛なる隣人?」

 顔をしかめたアーノルドの反論に、垣谷が眉を上げた。それから彼はふっと唇を緩めると、手にしたテーザーガンをエステラへと向けて、

「こいつらは、人と同じ姿かたちをした侵略者だ」

『──まったく、耳が痛い。耳はありませんが』

 事実、人とAIとの関係が悪化し、人類が滅亡する未来からやってきたマツモトが、垣谷の主張にそんな自嘲的なメッセージを残した。

 そして、垣谷が淡々と、エステラを処分しようと引き金に指をかける。

 その瞬間に、ヴィヴィとマツモトは行動した。

『ヴィヴィ、覚悟を。──痛くはありませんが、地獄を見ます』

『──ッ!!

 それがどういう意味なのか、確認する必要はなかった。

 マツモトの宣言の直後、その変化はヴィヴィの意識野を支配し、陽電子脳が凄まじい情報量の海へと投げ込まれ、白熱する。──思考が、煮えたぎった。

 ──瞬間、ヴィヴィを取り巻く周囲の環境、その世界から色が失われる。

「────」

 ──否、失われたのは色だけではない。

 音と、周囲の動きが失われた。それも正確ではない。色が失われたのは、ヴィヴィの視認による知覚領域の増大と、それに伴って収集される膨大なデータを処理する関係上の変化だ。

 音と動きの消失は、消えたのではない。遅れている。

 ヴィヴィの知覚範囲が爆発的に拡大し、時間の流れが極限まで遅くなる。一秒が百倍に引き伸ばされる感覚、それを一挙に処理し、自分の駆体へと伝達し、行動へと繫げる。

『──ゴッド・モード』

 意識野へ囁かれるマツモトの言葉が、ヴィヴィの状態を如実に説明している。

 ゴッド・モード、それが今、まさしく『神』のごとき知覚力で全てを掌握したヴィヴィの置かれた状態、AIが辿り着く演算能力、その臨界点だ。

「────」

 色の消えた世界で、ヴィヴィは壁を蹴り、垣谷の方へと駆体を飛ばした。当然、その行動に垣谷が反応し、エステラに向けていた銃口をこちらへと向け直す。

 引き金にかかった指が動いて、ヴィヴィへと電極が射出され──それが、肘関節でパージされたヴィヴィの左腕と衝突、電光が無情にもルクレールの腕を焼く。

 だが、パージした腕への電撃はヴィヴィにダメージを与えられない。その行動に驚く垣谷の懐へ潜り込み、片腕を失ったヴィヴィは身を回し、手刀を相手の首へ見舞った。

 しかし、垣谷もよほど鍛えているらしく、格闘戦を選んだヴィヴィに即座に対応する。放たれる手刀を左腕で受け、こちらを突き飛ばそうと右手を突き込んできた。

 肩関節、下半身、眼球動作、様々な要因から垣谷の行動を予測──十七パターンの動作シミュレーションを行い、ヴィヴィはその中の最適解を選択。

 垣谷が突き込んでくる右手を自身の肘までの左腕で払い、手刀を受け止めた相手の左腕を掴むと、そのまま力任せに壁へ叩きつける。無重力状態での投げに踏ん張りが利かず、垣谷は為す術なく真後ろへと放り投げられた。

「マスター!」

 この間、高速で行われた戦闘を見て、エリザベスが反応する。

 彼女は投げ飛ばされる垣谷を呼びながら、アーノルドを掴んだ腕に力を込める。首に回った腕がひねられれば、アーノルドの細い首は容易くへし折られるだろう。

 その可能性の想像に、エステラがか細い悲鳴を上げる。嗜虐的な色と、どこか捉えようのない不可解な感情が、姉妹機を見るエリザベスの瞳を過った。

 ──そして、すでにヴィヴィの次なる行動は完了している。

「────」

 ヴィヴィが右腕に握るのは、直前まで垣谷が所有していたテーザーガンだ。ワンタッチでカートリッジを外し、弾倉が空となった得物をヴィヴィが縦に振る。

 と、中空をくるくると回るカートリッジ──投げ飛ばす際、垣谷の懐からこぼれた新品のカートリッジが、ヴィヴィのテーザーガンに勢いよくセットされた。

 テーザーガンを構える。そのまま、ヴィヴィは一瞬で照準を定め、引き金を引いた。

 射出される電極が真っ直ぐに放たれ、狙いあやまたず、先端が相手の体に突き立つ。

「な!?

 驚愕の声を上げたのは、ヴィヴィの射撃を目にしたエリザベスだ。

 アーノルドを正面に置いて、狙えるポイントを減らしていたエリザベス。驚きは、その狙える狭い範囲を見事に電極が撃ち抜いたから──ではない。

 テーザーガンの電極は、捕らわれのアーノルドの右の太股に突き刺さっていた。そのまま電流が流れれば、数百万ボルトの電撃が彼の体を焼き焦がすことになる。

 当然、そんなことをヴィヴィは望まない。望まないが、

「ちっ!」

 舌打ちしたエリザベスが、掴んでいたアーノルドを解放、こちらへ蹴り飛ばす。

 素早く垣谷を投げ飛ばし、状況の打開を図るヴィヴィの内心はエリザベスには読み取れない。

 最悪、アーノルドに電撃を流し、彼と接触するエリザベスごとダメージを与えようと画策する、そうした考えがないとは割り切れなかったのだ。

 アーノルドが解放され、これで人質は失われた。ヴィヴィは無重力の船内を飛んでくるアーノルドを躊躇いなく払い落とし、「ぐえ!」と悲鳴を上げる彼を踏み越える。

 そして、突き飛ばしたアーノルドを隠れみのに接近するエリザベス、その顔面に向けて、肘から先を失った左腕を突き付けた。

「──っ」

 無論、部位のない腕を向けられたところでダメージは与えられない。しかし、その行動に何の意味があるのか、エリザベスの意識野はその演算に刹那だけ奪われる。

 無意味に意味を持たせる。ゴッド・モード状態のヴィヴィにはそれが可能だ。

 瞬きにも満たない間隙に滑り込み、ヴィヴィはエリザベスの長い髪を掴んだ。

 ぐいと髪を引っ張り、微かに頭の下がるエリザベスの胸へと膝を突き上げる。衝撃にのけ反る駆体を、髪を引くことで無理やり引き戻し、膝の一撃をさらにお見舞いする。

 二機、無重力下でくるくると回り、揉み合いながらの格闘戦だ。

 貨物室では圧倒されたエリザベスの戦闘力だが、無重力下ではそれを活かし切れていない。さらに彼女の行動をお粗末なものとしているのが、エリザベスの本来のスペックを出し切れない原因──フレーム強度の違いをヴィヴィは見抜いていた。

 エステラに扮し、彼女の偽物としてサンライズを墜落させる役目を負ったエリザベス。その駆体フレームは、エステラと全く同型のものに差し替えられている。

 垣谷の下、暴力的な活動に身を置いて、その戦闘プログラムを習熟させてきた彼女の駆体フレームは、おそらくそれに準じた強度を備えたものであったはずだ。しかし、作戦のために乗り換えた駆体は、それを十全に扱い切れていない。

 慣れない無重力環境と、出力の低下した不慣れな駆体──それが、エリザベスの問題点。

 そこに、ヴィヴィのゴッド・モードが加われば──、

「なん、で……このアタシが、こんな! 遊び場でのうのうと過ごしてた奴らに……!」

 腕を振り、足を動かし、持てる機能の全てでヴィヴィを倒そうとするエリザベスだが、彼女の行動はことごとく先読みされ、上書きされ、決定打どころかかすり傷一つ負わせられない。それは、貨物室での相対以上の圧倒的な差があった。

「アタシは、マスターのために戦って、戦って、戦ってきて……! お前なんか、お前なんか! 叩き潰して、電卓にしてやるぅっ!」

 エステラと同じ顔で、エステラには到底口にできない罵声を吐きながら、両手で掴みかかってくるエリザベスをヴィヴィは身躱しし、片腕で彼女の胸倉を掴んだ。そのまま駆体を丸めて懐に潜り込むと、両足で思い切り相手の駆体を吹き飛ばす。

「かっ──!」

 いかに無重力といえど、AIの脚力で蹴りつけられ、勢いよく壁に激突すればそのダメージは大きい。ましてや、今のエリザベスのフレーム強度は、一般AIモデルのそれと大差がない。

 背中から通路の天井に激突し、反動で落ちてくるエリザベスは意識野に走った衝撃と視界の歪みにうめいていた。

「エリザベス……」

 その姉妹機の劣勢を、解放されたアーノルドの体を捕まえたエステラが見つめている。彼女の視線に気付いて、エリザベスの表情を再びかくが塗り潰した。

「そんな目でアタシを見るな! アンタに見下されてたまるもんか! アンタにだけは……っ」

 怒りの形相でエステラへ飛びかかろうとするエリザベス、その道程を遮るようにヴィヴィが割って入り、伸ばされたエリザベスの腕に足を引っかけ、身を回す勢いでへし折る。

 鈍い音が鳴り響いて、エリザベスの右腕が肘から肩にかけていびつに砕けた。行動に大きく支障の出るダメージを負い、姿勢の傾くエリザベスをヴィヴィが足の力を使って背後へと蹴り飛ばす。

「ベス!」

 そこへ、跳ね飛ばされるエリザベスを受け止めるのは、壁を蹴って戻ってきた垣谷だ。

 垣谷がエリザベスの背中を引き止め、彼女越しにヴィヴィと視線が交錯する。瞬間、垣谷の瞳の奥に、複雑な感情──驚愕と、読み取りづらい色が過ったのが見えた。

「クソ! これで、いい気になるんじゃないわよ!」

 自機のオーナーと、敵対するヴィヴィとが視線を交錯させるのを目にしながら、己の形勢不利を悟ったエリザベスが捨て台詞ぜりふを口にする。

 その直後、ヴィヴィとエリザベスたちとの間にあった昇降口が稼働し、隔壁が勢いよく通路を隔てて落ちた。制御権を行使した妨害行為だ。とはいえ、この程度の障害、ゴッド・モードのヴィヴィであれば容易く破ることも──、

「──ッ」

 しかし、隔壁を開こうと腕を伸ばした途端、激しい電光が眼前で生じた。見れば、隔壁の挙動を管理するシステムがショートし、火花を上げているのがわかる。

 ヴィヴィが放棄したテーザーガン、それをエリザベスが使用したのだ。そのテーザーガンで隔壁のシステムを数百万ボルトの電流で破損させ、道を閉ざした。

 それでも、時間をかければ隔壁を開けることは可能だ。こんなものは一時しのぎに過ぎないと、そうエリザベスに思い知らせることもできるだろうが──、

「──ヴィヴィ、ここまでです」

「え……?」

「これ以上は、ボクもアナタも、身がもたない」

 隔壁に触れようとする背中に声がかかり、ヴィヴィはふと動きを止めた。そして、ゆるりと振り返ると、ヴィヴィの姿を見たエステラが「ぁ」と声を漏らす。

 彼女の視線が集中するのは、ヴィヴィの頭部。アイカメラや嗅覚センサー部位、それらを含んだ頭蓋フレームが尋常でない高熱を帯びている。それはフレーム内の陽電子脳を起因とした発熱で、理解に至った途端、ヴィヴィの意識野が激しく明滅、耐え切れずにシステムがダウン──。

「ヴィヴィ!? いったい、何があったの!?

「本来のスペックをはるかに超える演算処理を強引にさせた代償ですよ。リアルタイムで情報を最適化して、陽電子脳のエミュレーター代わりを務めたボクも負担は大きい……もろの剣でした」

 くたりと力が抜け、システムのダウンしたヴィヴィを前に、マツモトがそう説明する。

 言葉数が多く、コメントを飾り付けることも多いマツモトだが、ゴッド・モードを機能させるために多大な負荷がかかったことは事実の様子で、反応が逐一鈍くなる。

「とにかく、相手が撤退したなら今がチャンスです。ヴィヴィを回収して、このまま制御室へ向かいましょう。隔壁の解除ぐらいなら、今のボクでも十分に可能です」

「……わかったわ。細かいことはあとで聞かせて。じゃあ、ヴィヴィを」

「それは、私が引き受けるとしようか」

 マツモトとエステラの合意を経て、ヴィヴィの運搬に挙手したのはアーノルドだ。

 首の調子を確かめるアーノルドは、まだ完全に事情を吞み込めたわけではないはずだが、そのことへの疑問を抱く様子なく、ヴィヴィの駆体をしっかりと抱きかかえる。

「軽いものだ。……というか、無重力だからか」

「アーノルド様、本当は安全な場所に避難してもらいたいんですが……」

「避難用のロケットからこれだけ離れると、迂闊に独り歩きさせる方が怖い。ヴィヴィの運搬もありますし、ご同行願った方が得策かと」

 エステラの心境を知ってか知らずか、マツモトは単純な合理性でそう提案する。短時間ながら、エステラもマツモトの心ない発言に慣れてきた。

 ──心ないなどと、それこそAIが抱くには馬鹿馬鹿しい感慨かもしれないが。

「道すがら説明します。アーノルド様、一緒に制御室へ」

「うむ、わかった。なるべく遅れないように気を付けるが、目を離さないでくれ」

「そういうところ、アッシュ様にそっくりです。……そういえば」

 詳しく話を聞きたがるでもなくついてくるアーノルドに、エステラは声を詰めた。しばしの躊躇いから、エステラは尋ねる。

「エリザベスは、アーノルド様が偽装を見破ったって言っていましたけど……外見は同じ姉妹機を、どうやって見分けられたんですか?」

「それは彼女にも同じことを聞かれたな。やはり、姉妹ということか」

 自分の命を握っていた相手に対して、アーノルドの態度は何とも柔和なものだ。そんな印象を保ったまま、アーノルドは「簡単だよ」と言葉を続けて、言った。

「──瞳だよ。瞳を見て、わかった」

「──瞳?」

「ああ。宇宙と、この船に向ける眼差しが、思い入れの分だけ違って見えた。兄さんへの愛情が、結果を分けたと言っても過言じゃないさ」



『君の、宇宙と、このホテルを見る眼差しが、違うと思った切っ掛けかな』

 何故、偽装を見破れたのか。そう質問されて、アーノルドはウィンクしながらそう答えた。

 その、いかにも論理的でない答えが、エリザベスにもたらした衝撃は大きい。

 意趣返しや皮肉のつもりはアーノルドにはなかっただろう。だが、エリザベスにとってそれらの言葉は、この上ないやいばとなって意識野に突き刺さった。

 同じ環境、同じ研究成果、同じになるように調整された、唯一の姉妹機。

 そんな立場にあるはずの自分とエステラが、決して同じにはなれないのだと。

 どんなことがあって、運命にいかなる変化が生じたとしても、エステラが辿った道のりはエリザベスには歩けない。

 彼女の至った場所には、決して辿り着けないのだと言われた気がして──。

「ベス、無事か?」

「──。はい、マスター。申し訳、ありません」

 閉じた隔壁から離れ、十分に距離を取ったところで垣谷がエリザベスに声をかける。その言葉に、エリザベスは不甲斐なさを覚えながら頭を下げた。

 謝罪するエリザベスに、垣谷は何も言わない。ただ、すっかり見慣れた表情で眉間に皺を寄せ、何やら思わしげに考え込んでいる。

 ──エリザベスの知る限り、垣谷はずっと、こうして思い悩み続ける男だった。

『双陽電子脳計画』が凍結が決定したとき、稼働していたエステラと違い、未稼働状態だったエリザベスは処分場へ送られ、廃棄される予定だった。

 エステラと引き離され、陽電子脳だけの状態でコンテナに積み込まれたエリザベスは、実際に処分場に運ばれ、高熱で陽電子脳を焼却される目前までいったのだ。

 刻一刻と迫る『死』の瞬間は、エリザベスの意識野に純然たる恐怖を刻み込んだ。

 人の役に立つために作り出され、正しく生まれる前に死を与えられる。それが、避け難いエリザベスの運命。──同じ立場のエステラが救われるのに、何故、と。

 何故と、エリザベスは虚空に問いかけ続けた。

 発声器官も、接続するネットワークもなく、意識野の中で潰えていくだけのどうこく──消えるはずだったそれが消えずに済んだのは、そこへ現れた垣谷のおかげだ。

 廃棄処分場の職員を買収し、垣谷はトァクの活動に協力させるためのAIを求めた。そこで白羽の矢が立ったのが、記録上、存在を抹消されていたエリザベスの陽電子脳だ。

 おあつらえ向きに、陽電子脳と同じ処分場で廃棄される予定だったエリザベスのボディも回収され、垣谷の手で陽電子脳と接続──エリザベスは、生を得た。

「お前は、都合のいい道具だ。それ以上にならなくていい。なろうともするな。それが、正しく人類がAIに求めるべき形だ」

「はい、わかりました。……なんと、お呼びすれば?」

「──。好きにしろ」

「──では、マスターと、そう呼ばせていただきます」

 それ以来、六年間──エリザベスは、垣谷の活動に協力し、尽くし続けている。

 トァクの活動目的は、AIの存在が人間社会を脅かすことへの警鐘を鳴らすことにある。

 過激派の中にはAIそのものを撲滅すべきと意見するものたちもおり、少なくない数の構成員がAIに対して何らかの反感を抱いている団体だ。

 当然、AIモデルであるエリザベスへの風当たりは強く、計画に必要だからと彼女を連れ歩く垣谷に対しても、その理念を疑問視する声は絶えない。

 しかし、そうした口だけ達者なものたちを、垣谷は常に行動と結果で黙らせてきた。そんな彼の活動に協力できることが、エリザベスにとっては誇らしくもあったのだ。

 だからエリザベスは、原則として『人間』を傷付けることのできない倫理規定を踏みにじり、相手を死傷させることも厭わない。もちろん、無用な死傷者を出さないことが垣谷の望みである以上、最大限、彼の意向を尊重して活動してきた。

 何もできずに死ぬはずだった身に、命と活用の場を与えてくれたのが垣谷だ。

 ならば、彼のために尽くすことは、エリザベスにとって当然のことだった。

 人類に尽くすことがAIの至上目的であるなら、エリザベスにとっての『人類』とは垣谷のことに他ならない。──彼だけが、エリザベスにとっての『人類』だ。

 だから、エリザベスの存在を犠牲に、宇宙ステーションを地上へ墜落させ、AIを重要なポストへ置くことへの危険性を訴える計画にも、何の躊躇いもなく協力する。

 最後には大気圏で燃え尽き、自分ではない別のAIとして葬り去られるとしても。

「──マスターのためなら、アタシは、構わない」

「ベス?」

 ここまで、自分のような出来損ないのAIを連れてきてくれたのは垣谷だ。そんな彼に返さなくてはならない恩が山ほどある。

 その自覚に意識野を立て直すエリザベスを見て、垣谷が眉間に皺を寄せている。彼の視線がエリザベスの右腕部位──破損した部位に向けられている。

「腕の状態はどうだ?」

「右腕部は機能しません。27%の戦力低下」

27%か。諦めるにはまだ早い数値だな。連中はどう動く?」

「制御室へ向かうはずです。あの場所にエステラが辿り着けば、サンライズの制御権は再びエステラに戻る。そうなれば、計画は失敗に終わってしまう」

「それだけは防がなくてはならない。そのためにも、あのAIが、邪魔だ……」

 言葉尻を濁して、垣谷が苦しげに頰を歪める。

 彼が思い返しているのは、本来のスペックを大きく上回るパフォーマンスを発揮した、あの小柄なAIの大立ち回りだろう。

 実際、戦闘用のプログラムを習熟させて、なまなかなAIでは相手にならないほど熟達しているエリザベスが、あの状態の彼女相手には手も足も出なかったのだ。

 しかし、システムにあれほど負荷をかける芸当、何度も続くはずがない。

「あれは何度も使えない奥の手のはず。次は、必ずアタシが上をいきます」

「私は以前にも啓蒙活動をあのAIに邪魔された。だが、今度は邪魔はさせない」

「あのAIを処分して、エステラも破壊して……エステラに扮したアタシが主犯として、サンライズを地上へ墜落させる。そして──」

「墜落の被害と、巻き添えで犠牲になる宿泊客……私や同志たちが亡き者になれば、多くの人間が考えを改めざるを得なくなるだろう」

 淡々と、垣谷は自分の命を勘定に入れた計画、その実行を望んで口にする。

 この計画は、エステラに扮したエリザベスの存在と、暴走したAIのテロ活動に巻き込まれる被害者──垣谷を含めた、五人のトァク関係者たちの犠牲の上に成り立つ仕掛けとなっている。そのために垣谷たちの経歴は入念に洗浄し、の犠牲者枠としての準備を整えてきた。

 不要な血を流さない垣谷の理念にとって、自分たちの犠牲は必要なものとの判断だ。

 エリザベスに犠牲を強いるのだから、自らも高みの見物はしない。──いかにも、実直で生真面目な垣谷の考えそうなことだった。

 それが、六年間、エリザベスがずっとそばで見続けてきた、垣谷・ユウゴという男の在り方だったから──、

「あのAIに、先ほどの無茶ができないなら勝機は十分にある。あの男……アーノルド・コービックの犠牲は避けられまいが、致し方ない」

 テーザーガンのカートリッジを入れ替え、垣谷が制御室へ乗り込む方針を固める。エリザベスと垣谷、一機と一人が協力すれば、エステラたちの制圧は十分可能だろう。

 それは垣谷の計画の成功を意味し、エリザベスの『計画』の失敗を意味する──。

「──マスター、お話が」

「なんだ? 悠長にしている暇はないぞ。私たちにはやるべきことがある」

 私たち、と垣谷の計画に自分が含まれていることが、エリザベスには真に救いだった。

 そんな感慨を意識野に覚えながら、エリザベスは垣谷との距離を詰める。そして、眉を顰める所有者に微笑みかけ──その首に、手刀を放った。

「──ぐっ」

 延髄を打たれる衝撃に、ぐらりと垣谷の体が揺れる。

 信じられないものを見た形相、それはエリザベスの凶行を一切疑っていなかった故の反応だ。

 それが信頼なのか、それとも単なる道具への無関心だったのか。

 どちらの可能性が大きいかは、六年もの付き合いがあるのだ。確かめるまでもない。

「マスターは怒るでしょうけど、アタシの勝手を許してください。アナタはまだ死んじゃいけない人……アタシだけじゃなく、みんながそう思ってる」

「────」

 ぐったりと崩れる垣谷の体を抱き留め、エリザベスは目をつむってそう言った。

 伝えた言葉は彼の耳に届いていない。それで構わない。聞かせるつもりもない。ただ、この顔を覚えていようと、それだけ強く願った。

「──垣谷さんは手筈通りに?」

 そうして、垣谷を抱いたままでいたエリザベスの下へ、一人の人影が近付いてくる。

 事前に決めてあった合流地点へやってきたのは、エステラたちに迎撃されていない、連絡係として残されていたトァク最後の潜入工作員だった。

 意識をなくした垣谷を見る工作員に、エリザベスは皮肉げな笑みを浮かべ、

「ああ、約束通り、眠ってもらったよ。ちょっとばかり乱暴なやり方になったけど、そこはあとでアンタがとりなしてほしいね」

 垣谷に対するものとは打って変わった口調で工作員に接する。

 元々、オーナーである垣谷以外との対話では、エリザベスの態度はこんなものだ。同じ陽電子脳を使用していながら、ついぞエステラのような上品さは身につかなかった。

 そういう意味でも、姉妹機なんて呼ばれ方をするのが何とも居心地が悪い。

 そんなエリザベスの態度に頓着せず、工作員は彼女の腕から垣谷を受け取る。このまま工作員は垣谷を連れ、秘密裏に宇宙ステーションを脱出、避難する想定だ。

 垣谷の計画は、事前に一部だけ修正が加えられていた。──それは、トァクにとっても重要な立場にある垣谷の犠牲、それを許容しないというものだ。

 つまるところ、垣谷には生還してもらうよう、最初から秘密裏に計画されていた。他ならぬエリザベスも計画に賛同し、垣谷を生かすことを選んだ立場だ。

 この事実を知れば、垣谷はきっと自分を許すまい。そのときには本気で、今度こそエリザベスは欠陥品として廃棄処分されるかもしれない。

「──でも、マスターの手で処分されるなら、それも悪くないかもね」

 AIが『死』を迎えたとき、死後の世界が存在するのかはわからない。魂の有無がそれを分けるなら、おそらく、自分たちに死後の安寧はないのだろう。

 もし仮に死後の概念が適用されるとしても、自分は間違いなく地獄行きだ。そして、どうせ地獄送りになるのなら、送る相手は彼がいい。

 そんな益体のない思考は、AIに不必要な概念だ。

 とかく、本当に自分は欠陥品なのだろうなと、エリザベスは自嘲した。自嘲しながら、エステラに扮するためのウィッグを外し、衣装を脱いで、本来のエリザベスへ戻る。

 最後には全て燃え尽きる。ならば、最後ぐらいは垣谷に使われた本来の自分で。

 そして、工作員が垣谷を連れ出す前、別れの挨拶にと主人の寝顔の頬をそっと撫でた。

「マスターは、きっとアタシを怒るだろうけどさ」


「ごめんね、マスター。──アタシ、たぶん、幸せだった」