なお、彼女はその優れた感性からスタイリストとしても見込まれており、サンライズの制服関係や、エステラのお披露目衣装のコーディネートにも携わったとのこと。
「ヴィヴィはすらっとしてるから、スカートじゃなくてスラックスでもハマるって感じたのよね。エステラの許可が下りなくて残念だったんだけど」
「それは、うん、そうね」
そう言われて喜んでいいものか、微妙にヴィヴィには判断がつかない。悪意とは無縁の無邪気なルクレールだ。素直に褒め言葉と受け取っておくとする。
それにしても──、
「招待客のリストは見たけど、関係者っていうのは?」
「それはスタッフの家族とか、前のオーナーと親交があった人とか。せっかくの二号店なんだから招待しましょうって。もちろん、何かのキャンペーンの当選者だったりもいるけど、あとはホテル業界の大物とか、財界人とかよね」
「ごった煮にして大丈夫なの?」
「そこは客室の等級で分けていますもの。それにそれに、人の縁も大事だけど、影響力のある人とのコネも大事だからね。ちゃーんと誠心誠意お世話して、いい噂をバーッと流してもらって、あたしたちを忙しくしてもらわなくっちゃ」
清掃用のカートを押しながら、ルクレールは気合いの入った表情でそんなことを言う。
表情と言葉のパターンの多い個体だ。マツモトと引き合わせたら、二機でいつまでもぺちゃくちゃとお喋りを続けそうな雰囲気がある。
「ルクレールは稼働して何年目?」
「五年目! 前のデイブレイクでもエステラとは働いてて、今回は一緒に連れてきてもらったの。ヴィヴィはまだ、二年目なんだっけ」
「──。ええ、そう」
「まだまだ可愛い盛りじゃない。それじゃ、仕事慣れしてないのも仕方ないよね。あたしたちAIの仕事ぶりも、結局は習熟度で変わってくるわけだしさ」
言外に、AIスタッフとしての実力不足を擁護され、ヴィヴィは口をへの字に曲げる。
と、そんなヴィヴィの意識野に、小さく笑うような挙動を伴うメッセージが届く。
『稼働して二年、ですか。ボクが改竄したからボクの仕業ではあるんですが、本来の年齢の十分の一までサバを読むって、字面で見るととんでもない話に見えますよね』
『あなたも、十五年選手のくせに』
『稼働開始からするとそうですけど、純粋な稼働時間でいえばボクなんてせいぜい七日ぐらいのものですよ。生後一週間でこれだけ仕事詰めって、泣けてきませんか』
おいおいと泣き真似するマツモトを無視し、ヴィヴィはルクレールの横顔に目を向け、
「前も、エステラと一緒に?」
「そうよ。私とエステラが出会ったのも、あの子の二年目からで、さすがにあの頃は……って言いたいところだけど、あの子はずっとちゃんとしてた。あんまり参考にならないかも」
「それでも聞かせて」
「おお、素晴らしい向上心。では教えてしんぜよう」
客室に入り、てきぱきと部屋の清掃と点検を始めながら、無駄のない動きで無駄話に乗ってくれるルクレール。
ハウスキーピングの
「エステラはね、デイブレイクが開業したとき、副支配人としてOGCから派遣されてきたの。最初からコンシェルジュとしても働くためにセッティングされてるわけだから、仕事ぶりに問題がないのは当然……本機の気質もあるから、それはそれであの子の『個性』ではあるんだけど」
ベッドメイクを確かめ、備品の確認をしながらルクレールが語ってくれる。
表情を柔らかく、アイカメラを細めたそれは、AIには不必要な過去を思い出す人間に寄せたエモーションパターンだ。
「今でこそ、こうやってサンライズが始められるぐらいに話題になったけど、デイブレイクが開業したばっかりの頃はまだまだ人気不足でねー。二年目にあたしが配属されるようになったのも、人間スタッフの人手不足……あたしもOGC製だから、企業からリースされたって形。でも、あの頃は閑古鳥がずーっと鳴いてたよ」
「そんなに今と違ったの?」
「もう全然! 大違い! 当時からあたしはうるさかったし、エステラは生真面目で、オーナーのアッシュさんは一生懸命だったけど、なかなかうまくはね。……だから、アッシュさんがあんなことになって、それでホテルが話題になったのは、なんていうか」
そこでルクレールは言葉を切り、微かに俯いた。
華やかな、明るい顔立ちの美人、そんな印象を抱かせるルクレールの横顔には、ほんのわずかではあるが陰りが生まれていた。
「────」
その表情に、ヴィヴィは反応系の不具合を検知しながら魅せられる。
AIたちの有するエモーションパターンは、基本的には人間と接するために用いられるもので、そこには良好な関係を築くためのポジティブなものが求められることが多い。
それ故に、ネガティブな反応──悲しみに属する反応を的確に行うことはそうない。
だからAIは、自機の習熟度が低い反応に強く魅せられる。そうした反応を自らも獲得して、より高度なAIとして自己を確立したいからだ。
「アッシュさんのことが話題になって、ホテル経営が軌道に乗ってからは仕事が一気に増えたよ。エステラもあたしもAIだから、落ち込む気持ちなんて持ってなくてよかったよね。だから、あんな噂があっても何ともなかった」
「あんな噂?」
「……アッシュさんが亡くなったのは、事故じゃなかったって噂」
「────」
思わぬ意見にヴィヴィの眉が上がる。と、その反応に気付いたルクレールが「あ、待って待って」と慌てて手を振り、
「あくまで噂だから。警察の調べで事故って決着がついてることなんだし、あたしだって不確実なことで騒ぎ立てたりしたくないの」
「だけど、火のないところに煙は立たない。何か、根拠があるんでしょ?」
それこそ、死人に
「……言ったでしょ。ホテルの経営、あまりうまくいってなかったの。だから、それを苦にした自殺、なんて噂とか、あって」
ぽつりぽつりと、ルクレールが観念したように噂の内容を口にする。
「でも、アッシュさんを知ってる関係者は全員、揃って首を横に振るよ。あたしだって、アッシュさんの言行データの統計から、そんなことないって結論が出るもん」
「よっぽど型破りな人だったのね」
「──! うん、そうなの。だから、生真面目なエステラとはケンカが絶えなくてさ……」
表情を無理やり明るいものに切り替え、ルクレールはスカートの裾を払い、部屋の中をざっと見回した。それからわざとらしく「よし!」と声を出すと、
「この部屋はこれでおしまい! そろそろ、お客様のお迎えにロビーにいかなきゃ。カートはあたしが片付けちゃうから、ヴィヴィは先にいってなさいな」
作業用のカートを廊下に押し出しながら、ルクレールはヴィヴィにそう指示する。
今朝の遅刻を警戒してのことだろう。さすがのヴィヴィも、オープン最初の宿泊客の出迎えに遅れるのはマズい自覚がある。素直に彼女の厚意に甘えることにした。
『アッシュ・コービック氏の事故死、ですか。確かに彼女の言う通り、調べてみるとあれやこれやと色んな憶測が飛び交ってますね』
ルクレールと別れた直後、連絡通路を歩くヴィヴィにマツモトが話しかけてくる。
ルクレールが詳しい言及を避けた部分の詳細だ。気遣ってくれた彼女には悪いが、そうした配慮は生後五日の未来AIには搭載されていないらしい。そして、ヴィヴィも今は
『色んな憶測って、自殺以外にも?』
『一番根強いのは自殺説ですね。当時のデイブレイクの経営状態と、アッシュ・コービック氏の資産状況を比較して、わりと説得力のある説になってますよ。これ、普通に社外秘とかのはずなんですが……あ、やっぱり、勝手に開示したハッカーは有罪判決喰らってますね。どうやらまだ服役中みたいなので、関係ないと思いますが』
『……経営難を苦にした自殺説以外にある噂は?』
『そのホテル事業を継いだ、アッシュ・コービック氏の遺族による謀殺とか。ホテル事業が潤う先見性によって、邪魔なオーナーを排除、
『未来の知識……マツモト、まさか』
『濡れ衣!』
『どれも、憶測の域は出ていませんよ。最初に報告した通り、アッシュ・コービック氏の死因は事故死で決着しています。悪趣味なゴシップ好きが悪ノリしているだけですね』
『それが、マツモトがきた未来からの情報?』
『残念ながら、アッシュ・コービック氏のことはボクの有するデータベースに残っていませんよ。今回の計画遂行には無関係との判断……ボクも同意見ですけどね。前のオーナーが亡くなっていることと、『落陽事件』に何の関係があるんですか』
マツモトはあくまで、エステラが凶行に及ぶ動機は重要ではないとの主張を崩さない。
歴史の修正力に拘れば、どんな事情があろうとエステラはサンライズを地球へと墜落させる。マツモトはそう結論付けて、彼女を排除すべきだと一貫して主張する。
しかし、歴史の修正力にそこまでの力があるならば、ヴィヴィは安易な行動でエステラを妨害したところで、また同じ形で何らかの問題が噴出するだけなのではと考える。
だからそうならないために、元を絶たなくてはならないのではないかと。
もっとも、それをどれだけ訴えても、マツモトからは頑固AIと罵られるだけだろう。
『集合時間だから切る。またあとで』
『宿泊客がくるってことは、守らないといけない人数が一気に増えるってことです。ボクは再三、そうならないようにって忠告しましたからね』
最後まで不満げな通信を残してマツモトが黙り込む。
胸のブローチを軽く指で弾いて、ヴィヴィはそれから真っ直ぐにロビーへ向かった。すでに宿泊客を迎える準備は整っており、整列するスタッフ一同が見える。
当然、代表として前に立つエステラもおり、彼女は遅刻せずにやってきたヴィヴィに気付くと、わりと露骨な安堵に唇を緩めていた。
「ルクレール、こっち」
「あ、ありがと。ヴィヴィも遅れてないで、偉い偉い」
その後、カートを片付けたルクレールが合流し、ヴィヴィの隣であけすけに微笑む。
そうして、しばしの待機時間があり──やがて、送迎ロケットが宇宙ステーションとドッキングする振動、それからゆっくりとロビーの扉が開け放たれ、
「──お待ちしておりました、お客様」
一番最初に、エステラが挨拶し、洗練された仕草で深々と腰を折った。
それに倣い、ヴィヴィたちスタッフ一同も同じように一礼する。一糸乱れぬその仕草を宿泊客が見届けたところで、エステラは顔を上げ、微笑んだ。
「ようこそ、ホテル『サンライズ』へ。精一杯、夢のおもてなしをお楽しみください」
3
ここまでの流れを鑑みると意外と思われるかもしれないが、ベルガール──いわゆる、客室案内係としてのヴィヴィは、宿泊客から非常に高い評価を得ていた。
「ハウスキーピングでは未習熟なところが目立ったけど、さすがOGCからの推薦で派遣されてきた子ね。こんなに接客業務が優秀だったなんて」
「褒めてもらえて恐縮」
本日最初の便で到着した宿泊客のグループを案内し終えて、滞りなく完了した旨を伝えたヴィヴィにエステラは感心した様子でそう言った。
『さすが、二十年近く歌姫として観客と触れ合ってきていませんね。キャストとしての経験値がホテル業務にどこまで活きるか不明でしたが、これはなかなか幸先がいい。うっかりミスで歌姫をクビになっても、廃棄物として処理される未来は避けられそうです』
意識野では、ヴィヴィの働きぶりを一心同体のような立場で見ていたマツモトの称賛なのか皮肉なのかわかりづらいメッセージが並んでいる。
それを意識的に無視しながら、ヴィヴィはエステラの称賛には素直に顎を引いた。
マツモトの意見を肯定するのは
キャストとして園内を歩き回る際には、お子様やご年配の方への配慮、AIであることをいいことに
それらの経験則に言わせれば、開業して数時間のホテル業務で問題など起こりようがない。そもそも、ここは宇宙の一流ホテル──宿泊客の身元は完全に保証されており、問題が発生しえないよう地上で見極めがされたあとの場なのだから。
「データリンクで見せてもらったけど、特にお子様の扱いが上手ね。稼働して二年の、まだ新しい子の働きとは思えないぐらい」
「参考データの通り、前職はベビーシッターをしてたの。小さい子どもと、お年寄りのお世話をするのは得意だから」
「子どもはわかるけど、ご年配の方も?」
「……人間、歳を取ると、また子どもみたいになっていくから」
マツモトの改竄したデータに沿ったプロフィールだが、いささか
ヴィヴィの答えにエステラは目を細め、それから小さく噴き出した。
「ぷ、ふふっ……それ、お客様の前で言うのは絶対にやめてちょうだいね。ルクレールに話すのもやめた方がいいわ。あの子、覚えたことすぐに人に話したがるから」
「ルクレールとも、エステラは付き合いが長いって話ね」
「ええ、そうね。前の、デイブレイクの頃からの付き合い。AIの立場でちょっと不謹慎だけど、妹みたいな感じかしら」
「妹……」
その響きと、『不謹慎』としたエステラの考えもわかる。
人はAIに、より人間に近い反応や感情表現を求める傾向がある。これは先述の通りだが、そうである反面、人はAIが人と同じ物の考え方をすることには抵抗があるのだ。
そしてそれはAI側にも、内蔵された三原則に近しい禁則感を覚える。
人とAIとの明確な意識の区分け、それは人とAIの双方から求められる感覚基準だ。
「あなたは嫌がるかもしれないけど、私はあなたのことも、妹みたいに感じてる。不思議ね。変な親近感があるの」
支配人室で、席から立ったエステラがそっとヴィヴィの髪に触れてくる。優しい仕草に人工毛髪を撫ぜられ、ヴィヴィは間近にあるエステラの顔を見返した。
エステラの口にした親近感は、おそらく同型シリーズであるが故のシンパシーだ。
改竄されたデータ上、ヴィヴィの型番は『シスターズ』モデルとは別のものとされているが、こうして直近で接した感覚を誤魔化し切れるものではない。
とはいえ決定打はマツモトの技術によって得られないのと、エステラが自分の後継機をどれほど探ったところで該当するものは見つけられない。
──まさか、妹だと思っている相手が、初期型の長女機とは思いもよらないのだ。
「エステラ、何かトラブルは起きていない?」
「安心して。今のところは順調。もちろん、コンシェルジュは大忙しだけど、それは覚悟していたことだし、いつものことでもある。──たまの通信で、『デイブレイク』を任せてきたスタッフから泣き言が送られてくるのは困ってしまうけど」
そうして、眉尻を下げるエステラ。しかし、その唇は弧を描いており、それが言葉を額面通りに受け取るべきではないとヴィヴィに教えてくれる。
トラブルを歓迎するわけではない。だが、ヴィヴィたちはAIなのだ。
「……必要とされるのは、私たちにとって光栄なことだから」
そのヴィヴィの呟きを受け、エステラが微かに驚いた様子で目を見開く。だが、その驚きはすぐに見えなくなり、彼女は直前までと微笑の質を変えた。
それは、ひどく寂しげな、
「──二組目のグループが到着するわ。ヴィヴィ、一緒にロビーにいきましょう」
支配人室を出るエステラ、その背中に続いてヴィヴィも歩き出す。
オープン初日の宿泊客は三十組、おおよそ一度の送迎で十組ずつがやってくる想定だ。
その組み合わせは様々で、オーソドックスな家族連れもいれば、男女のカップル、企業の重役と部下といった取り合わせもあった。
宿泊客リストによると、今回のホテル『サンライズ』の開業には招待客の枠があり、何らかのキャンペーン当選者などは一般客の印象が強い。
そして、今回到着する二組目のグループには──、
「──ご到着をお待ちしておりました、アーノルド・コービック様」
そう言って、深々と腰を折るエステラの様子をヴィヴィは横目に観察する。
すでにベルガールの役目として、到着した親子連れを案内している最中だ。それでも、そのエステラの対応から目を離すことはできなかった。
『一応、艦内のカメラは掌握していますから、こちらでも確認していますけどね』
マツモトの補足が聞こえたが、ヴィヴィは自分のアイカメラで捉えておきたかった。
残念だが、艦内で起きる出来事の全てをマツモトに委ねていては、彼の意に沿わない情報を得られない可能性が高い。特に今回は、それが怖かった。
何故なら──、
「お忙しいのにありがとうございます。直前まで、いらっしゃれないものかと」
「確かに危なかったが、大事な家族の晴れ舞台だ。ちゃんとこうしてお目にかかろうともするさ」
エステラが対峙するのは、高級感のあるスーツを着込んだ大柄の男性だ。
年齢は三十代半ば、彫りの深い顔立ちと、たくましい体格をした、美的感覚の統計データに
その男──アーノルドは、エステラに向かって親しげにウィンクすると、
「なにせ、一度目のときは信じてやれなかった。もう兄貴はいないが……二つの意味で、見届けてやろうって思わなきゃ噓だよ」
「……はい、ありがとうございます。オーナーも、きっと喜んでくださるかと」
気安いアーノルドの言葉に、一方でエステラはどことなく陰のある微笑みを浮かべた。それはAI同士にしかわからない程度の、ささやかなものではあったが、
『エステラの、今の顔』
『ですね。どうやら、あちらの方に思うところがあるようで』
ヴィヴィの意識野の発言に、賛同するようにマツモトが応じる。
エステラと対峙する男、アーノルド・コービック──彼こそが、現在のエステラの正式なオーナーであり、今は亡きアッシュ・コービックの実弟。
そして──、
『──デイブレイクの成功で、
そう、マツモトが静かな声音でヴィヴィにだけそう言い切った。
4
──アッシュ・コービックの死で最も得をした人物は誰か?
そうした問いかけが投げかけられれば、事情に詳しい人間は誰もが同じ答えを返す。
それはアッシュの実弟であり、兄の死を受けて経営難を離脱し、一気に莫大な利益を稼ぎ出したホテル事業を継いだ、アーノルド・コービックであると。
「事情に詳しい人間だけでなく、事情を調べたAIでも同じように結論付けますよ。実際、アーノルド氏は兄の事業を継いで莫大な資産を得た。その前は職を転々として、一所に収まる物分かりの良さはなし。まさに、人生大逆転という有様だ」
「代わりに兄を亡くしている。不謹慎」
一人きりで作業するヴィヴィの胸元、ブローチ型の通信機からマツモトの声がする。
その軽率な発言を
仮に、アッシュ・コービックの事故が、事故死でないとすれば──、
「容疑者の可能性が一番高いのは、アーノルド氏でしょうね」
「────」
その可能性に口を
幸い、この時間にスタッフルームを利用するスタッフは一人もいない。本来ならヴィヴィもベルガールの仕事があるのだが、そちらは映像を改竄して対処済みだ。
これで問題なく、マツモトとの作戦会議に打ち込める。
とはいえ、その会議の旗色はヴィヴィには良くない。
「しかし、そんなことは警察も承知の上でしょう。その上で何の証拠も見つかっていないということは、噂は噂に過ぎないということだ。違いますか?」
「そう考えるのも当然だけど……もしかすると、アーノルドは警察関係者を抱き込んでいたり、凄腕のハッカーを雇ってデータを改竄したりしたのかも」
「夢物語、と言いたいところですが、そうしたことができないとも言い切れない資産家ではありますからねえ。凄腕のハッカー、ですか」
「──! まさかマツモト……!」
「またしても濡れ衣!」
少し前と同じやり取りを交わして、ヴィヴィは自分の意識野の整理に集中する。
マツモトの関与を本気で疑うなど馬鹿げた話だが、マツモト以外のハッカー的な立ち位置の存在がアーノルドの火消しに協力した可能性は否めない。
悲しい話だが、司法の力は万全とは言えない。万全どころか、司法の力が必要な場面になればなるほど、司法以外の力が幅を利かせるようになるのが現実だ。
「アーノルド氏が兄の事故死を偽装、その隠蔽を行ったとあれば……よっぽどうまく痕跡は消されていることでしょう。生半可な腕じゃサルベージなんて不可能なぐらいに」
「でも、マツモトなら?」
「ユーモア的にいえば、朝飯前ってヤツですね。とはいえ、ボクがそうした労働に従事する理由に欠けているのは事実。ヴィヴィ、ボクを説得できますか?」
「────」
マツモトの指摘に、ヴィヴィは細い腕を組んで思案の姿勢だ。
元々、マツモトの主張はエステラの排除で一貫しており、彼女を取り巻く周囲の環境への興味は二の次どころか大気圏外にある。しかし、ヴィヴィの意識野はマツモトの主張が正しいと理解していながら、それ以外の部分へのわだかまりを残したままなのだ。
このわだかまりをそのままに、性急に事を進めるのには抵抗感がある。
だが、その抵抗感をマツモトに理解させることは難しい。ヴィヴィ自身、AIである自分の中に浮上した意識野の空白、それを言語化することができないでいるのだから。
「少なくとも、ボクの閲覧できる範囲で、ホテル『デイブレイク』のオーナーであったアッシュ・コービック氏には事故死以外の結論は出ていません。真実はどうであれ、歴史はアッシュ氏を事故の被害者、アーノルド氏をその遺族と記録しているんです」
「仮に真実が異なるなら、それを暴くことにマツモトは反対?」
「ええ、当然ですよ。そんなことをすれば、その後の歴史に与える影響が計り知れない」
「今ここで、私たちは数万人の犠牲者を出さないように画策してるのに?」
歴史に、シンギュラリティ計画以外の影響を与えたくない。
それがマツモトの主張であり、ヴィヴィとしても大きな異論のない意見ではある。しかし、すでに数万人の犠牲者を救うことが盛り込まれた計画だ。その数万人が救われることが、後々に大きな影響を及ぼさないなどとヴィヴィには想像もつかない。
「宇宙ステーションの落下で死ぬはずだった数万人から、歴史に大きな影響を残す人物が生まれるかもしれない。そのことが計画を捻じ曲げる可能性は? 無視するの?」
「──。つまり、数万人を救う計画を前に、一人の人間の死の事実が明らかになるぐらいは大した影響ではないと、そう言いたいんですか?」
そうは言わない。だが、そう捉えられても仕方のない主張ではあった。
ヴィヴィは肯定も否定も述べないと、無言の態度で返答の保留を暗示する。その態度にマツモトはわざとらしく、「はーぁ」と長いため息めいた声を漏らし、
「いいでしょう。今回のアナタのわがままは、ボクとアナタの今後の円滑な関係のための必要経費と考えます。ただし、どんなビックリドッキリな事実が隠れていたとしても、逆に隠れていなかったとしても、シンギュラリティ計画の遂行には無関係だろうとあらかじめボクは言っておきますからね」
「今、初めてマツモトがパートナーで良かったと思ったわ」
「今、初めて!?」
どことなく不本意そうな反応を最後に、マツモトからの通信が切断された。
ヴィヴィとしては歩み寄りを見せたつもりだったのだが、マツモトの反応は芳しくない。やはり、未来のAIとは価値観がイマイチすり合わせられないのかもしれない。
ともあれ、不本意そうではあったが、マツモトの協力は得られた。
あとはこの調子で、順当にアッシュ・コービックの事件の真実がわかればいいのだが。
「ああ、ちょうどいいところに。そこの君、話せるかな?」
「────」
マツモトとの密談を終え、こっそりとスタッフルームを抜け出したところだった。
何食わぬ顔で職務に復帰しようとしていたヴィヴィを、背後から男の声が呼び止める。その声に振り返ると、こちらへ歩み寄る長身の男性と目が合った。
「おっと、AIスタッフだったのか。最近のAIモデルの進歩は凄まじいな。こうして近付いて確認するまで、ほとんど生身の人間と区別がつかない」
そうヴィヴィの姿に唇を緩めるのは、直前まで話題にしていた容疑者──アーノルド・コービックその人であった。無論、ヴィヴィは直前までの疑念など一切表には出さない。
即座に一礼し、アーノルドへ──すなわち、ホテルのオーナーへの敬意を表明する。
「失礼いたしました、コービック様。オーナー自ら、スタッフルームの視察でしょうか?」
「いやなに、楽にしてくれ。視察なんて大げさな話でもないよ。昔から方向音痴がひどくてね。支配人室の場所を見失っただけさ。……エステラに話があってね」
「エステラに。ご案内いたしましょうか?」
「おお、それは助かる。お願いしていいかな」
案内を申し出たヴィヴィに、アーノルドは嫌味のない顔つきでウィンクする。
自然と、人好きのする仕草と愛嬌だ。彼ぐらいの美形がそんな仕草を振りまけば、大抵の女性は好意を抱くものだろう。幸い、ヴィヴィには接した相手の外見は、あくまで個体識別のための要件の一つでしかない。人とAIとの間に、異性愛など芽生えようがあるまいが。
「ここの働き心地はどうだい? 君は、ええと……」
「個体名はヴィヴィと申します。働き心地に関しましては、まだ初日ですからお答えするにはデータ不足ではないかと」
「それはそうだな。これはこちらが間抜けな質問をした。忘れてくれ、ヴィヴィ」
案内のために通路を歩くヴィヴィだが、アーノルドはその後ろに続くのではなく、ヴィヴィの隣に並んで長い足の歩調を合わせてくる。
アーノルドの癖なのか、ヴィヴィは自分の横顔に彼の視線が集中している感覚を人工肌で味わっていた。気になるが、珍しいというほどのことではない。
ニーアランドでも、ヴィヴィの外見に興味や好奇心から執着する来園者は多い。しかし、そうした興味の眼差しと、アーノルドのそれとはやや趣が異なって感じられた。
「あの」
「──。おっと、すまない。不躾だったかな。気に障ったら申し訳ない」
「AIに、気に障るといった感覚は無縁です。ただ、私の方で何かオーナーの不愉快に繫がるようなことがあったでしょうか」
言外に、ヴィヴィを見つめる視線の真意を問いかけると、それを受けたアーノルドは少しばかり慌てた様子で「違う違う」と手を振った。
「君に落ち度はないよ。少し……そう、少し見惚れていただけでね」
「ありがとうございます。外見を褒められることは参考データとして非常に有意義ですので、本社のカスタマーサポートの方へと転送させていただきます」
「いやぁ、そんな大げさな話ではなくてね。もちろん、君の見た目が可愛らしいことは事実だが、私が見惚れたのは君の目だよ。おっと、アイカメラなんて無粋な呼び方はやめてくれよ?」
途中でヴィヴィのエモーションパターンが表情に出たのか、アーノルドが苦笑しながら自分の発言をフォローする。
「私はね、AIたちの目が好きだ。AIの多くは、自分の使命を一番大事なこととして考えているだろう? だから、目にその意思が表れる。AIだけに限らず、私は夢を見る人の目が好きでね」
「はぁ、なるほど。……立て板に水ですね」
「前もって言い訳の準備をしていたみたいだって? 手厳しいなぁ、ヴィヴィ」
大げさなリアクションをしながら、アーノルドが自分の額に手を当てる。それから、彼は額に当てた手をゆっくりと下ろしながら、
「だから、私は兄の……アッシュのことも好きだった。親族は宇宙でホテルをやるなんて兄の夢を笑ったが、私は単純にすごいと感心していたよ」
「────」
「その兄の夢が叶ったはずの場所を、いなくなった兄の代わりに私が歩いている。おかしな話だ。こうしている権利なんて、本来は私にはないだろうに」
謙遜ではなく、自嘲に近い響きだった。いくら何でも、それは自罰的に過ぎるように聞こえて。
「ですが、前オーナの亡くなられたあと、『デイブレイク』の経営を立て直されたのは事業を引き継がれたオーナーの手腕だったと聞いています。それなのに……」
「──それも買い被りだよ。私は何もしていない。ホテル事業が軌道に乗ったのは、亡くなった兄の代わりに頑張ってくれた人がいたからさ」
肩をすくめ、アーノルドはヴィヴィの言葉を否定した。
「……もっとも、そんな話は経営陣を含めて、誰もまともに聞いちゃくれないがね」
力ないアーノルドの言葉が、ちょうど話題の一区切りとなったタイミングだ。
ヴィヴィの足が止まり、アーノルドが正面を見る。眼前には『支配人室』のプレートがかかった部屋がある。案内が終わったところだった。
「案内ありがとう。話に付き合ってくれたのもね。今後もよろしく頼むよ、ヴィヴィ」
「こちらこそ、貴重なお話でした。オーナーも、良い休暇を」
「ああ、堪能させてもらうよ。兄の夢のホテルをね」
最後、調子を取り戻した風なアーノルドのウィンクがあって、ヴィヴィは彼と別れた。
支配人室に背を向け、ヴィヴィは今度こそ持ち場に戻るために歩き始める。
ただ、そうして歩くヴィヴィの陽電子脳では、複雑な疑問が生じつつあった。
「……本当に、アーノルドはお兄さんの事故死に関与しているの?」と。
5
「オーナーとアッシュさんの関係? それって何の勘繰りなの、ヴィヴィ」
空き時間に捕まえたルクレールは、思った以上にヴィヴィの疑問に食いついてきた。
ハウスキーピング担当であるルクレールだが、彼女の主な業務は宿泊客が不在の間の部屋の清掃、ベッドメイク、アメニティの補充などである。
しかし、ここは宇宙ホテルである『サンライズ』。地上のホテルと違い、宿泊客は部屋に荷物を置いて、外へ観光などに繰り出すことはまずできない。
無論、ホテル内にはレストランや入浴のための大浴場が用意され、娯楽施設としてシアタールームやコンサートホール、最先端の設備を揃えたゲームルームも存在する。だが、そうした施設は宇宙ホテルならではとは言い難く、地上でも十分代替可能な代物だ。
そんな中にあって、この宇宙ホテルならではの最大の売りは、施設の全方位に宇宙空間を眺めることのできる、展望台と呼ばれるショールームだろう。
ただし、ショールームは予約制であり、希望者全員が入れるわけではない。
また、家族連れには人気の施設だが、この日の招待客にはオープン初日というレアリティを体験しにきた層も多く、ショールームの重要度は拡大している。
「それにそれに、今日はオープン初日でしょう? チェックアウトするお客様もいないから、掃除する部屋もないの。……つまり、今日のあたしは置き物なのよぉ」
おいおいと泣き真似をするルクレール、胸に飛び込んでくる彼女を抱きとめながら、忙しさに目を回しつつあるヴィヴィはその背中を指でなぞった。
「やんっ! ちょっと、ヴィヴィ、やめてよね」
「ごめんなさい。忙しさが落ち着いたところだったからつい」
ベルガールであり、AIスタッフの中でも安心感があるのか、ヴィヴィを案内係に指名する宿泊客が意外と多い。もちろん光栄な話ではあるのだが、ホテル業務に隠れて副業の『人類救済』のために働くヴィヴィは大忙しだ。
手持ち無沙汰のルクレールにも、少しは人類滅亡の阻止に貢献してもらいたい。
「それで? オーナーとアッシュさんの関係……ええい、ややこしいわね。アッシュさんと、弟のアーノルドさんの話よね。でも、何が聞きたいの?」
「二人の兄弟仲とか、ルクレールは知っている?」
「兄弟仲ねえ。……っていっても、二人が一緒にいるところをあたしは見たことないもの。アーノルドさんは、アッシュさんが亡くなるまで、ホテルにきてくれたことはなかったし」
「そうなの? だけど……」
わからない、と首を横に振るルクレールだが、ヴィヴィは逆に考え込む。
夢を叶える場所に宇宙ホテルを選んだとされるアッシュ・コービックだ。もし、兄弟仲がうまくいっていたなら、自分のホテルに弟を招待するのは当然ではないのか。
経営難の状況であったとはいえ、アッシュ・コービックがオーナーの時代が三年はあったのだ。最初の年に招いていたとしても不思議はない。
「とにかく、アーノルドさんがオーナーに就任して、ホテルにきたのはこれが二回目……前回はデイブレイクで、今回はサンライズ。あまり、足は運ばれないわね」
「オーナーだけど、ホテルからは足が遠のいてる。どうして?」
「罪悪感、だったりしてね」
冗談めかしたルクレールの言葉に、ヴィヴィは目を丸くする。
「あれ? ヴィヴィも、そう考えたから話を聞きにきたんじゃないの?」
「そこまで露骨な話をするのは、所有オーナーへの倫理規定に引っかかると思うけど」
「直接は触れてないの。こんな風に倫理規定を回避するのって、あたしたちみたいな噂好きのAIモデルにはよくあることよ。ヴィヴィ、勉強不足ね」
箱入り娘と指摘された気がして、ヴィヴィは自分の知れない範囲の話に驚かされる。
この場合の倫理規定とは、所有権を移譲されたオーナーであるアーノルドへの不敬のこと。つまるところ、所有者に対する不適切な発言などの禁止が該当する。
ルクレールの言葉の裏には、明らかにアッシュ・コービックの死にアーノルドが関与しているのでは、とされる噂への関心があった。
その噂を根拠とした発言は、倫理規定への抵触とヴィヴィには感じられたのだが。
それに──、
「どうしたの? あたし、何か変なこと言った?」
押し黙るヴィヴィの視線に、困り眉になっているルクレール。
彼女の態度にも若干の違和感があった。それというのも、今朝交わしたアッシュ・コービックの自殺説への反応と、アーノルド犯人説への反応の違いだ。
アッシュの死が自殺であることに、ルクレールはかなり強い抵抗感を示した。
オーナーとしての期間で言えば、すでにアーノルドの方がアッシュよりも長いはずなのに、だ。
「──。ううん、何でもない。勉強になったわ」
「そう? そうならいいけど……あ、フロントから連絡がきた。スーペリアルームのお客様がヴィヴィをご指名だって。このお客様、あなたにご執心みたいね」
「スーペリアルームの。わかったわ」
制服の皺を伸ばし、短い休憩を終えてヴィヴィが立ち上がる。そのヴィヴィの後ろに回り、後ろ側の
「じゃ、働いてらっしゃい。労働はAIスタッフの喜び。あたしは、そんなAIの幸福を奪われた悲しいシンデレラ……」
「私が舞踏会から戻ってくるまでに、屋敷中をピカピカにしておくこと」
「お姉様ったら怖い! ……稼働年数的には妹のはずなのにすごい
などと軽口を叩き合い、稼働年数のボロが出る前にヴィヴィはそそくさと退散する。
ご指名のあったスーペリアルームの宿泊客は親子三人の家族連れで、十五、六歳の娘と品のいい両親が一緒といった微笑ましい組み合わせだ。招待客リストによると、『サンライズ』オープンに合わせたキャンペーンの当選者であるらしい。
参考データ的には、この年代の少女が両親と一緒に旅行に出掛ける世帯は少数派であるとされているが、ホテルの施設を家族揃って利用するあたり、仲のいい家族のようだ。
ただ、仲
外見年齢が同年代なので、話し相手に飢えている彼女にはちょうどいいのかもしれない。残念ながらヴィヴィは忙しいので、ベルガール以上の対応はできないのだが。
『話し相手が欲しいなら、あのハウスキーピング担当のAIを紹介しては? 外見年齢はちょっと上ですが、AIスタッフにそんなことは関係ないでしょうし』
『ルクレールなら喜んで引き受けてくれそうだけど、ダメ。……話、聞いてたの?』
『もちろん、作業中もアナタから目と耳と鼻を遠ざけたりしませんよ。コメントを差し控えていただけで、ちゃんと話は聞いていました。──今のところ、ヴィヴィの中ではアーノルド・コービック氏への疑惑が高まっている感じですか?』
『わからない、けど』
マツモトからの問いかけを、ベルガール業務の傍らでヴィヴィは思考する。
作業的には問題なく、親子連れへの施設案内を続けている最中だ。あまり褒められた態度ではないが、優先順位の問題でタスクを整理することは許してもらいたい。
『本人と直接話したけど、答えは出ないわ』
あの短い対話を経て、アーノルドへの心証は良くも悪くも変化した。
金のために兄を謀殺する人物、という印象が芽生えたわけではないが、兄に対して何かしら思うところがあるといった態度があったのは事実だ。
アッシュと一緒に働いていたルクレールが、アッシュは自殺などしないと断言していることもそれに拍車をかける。しかし──、
『では、ヴィヴィのその疑惑が誤りであると、ボクの方で否定して差し上げましょう』
そうマツモトが言い放った次の瞬間、ヴィヴィの意識野が複数のデータを受信する。
大量の数字を取り巻く記録は、それがアーノルド・コービックの口座記録と、宇宙ホテルのオーナー就任後の活動記録であるとわかる。
『アーノルド・コービックの口座記録……でも、この状態は』
『ええ、見ての通りです』
記載された数字を確認し、ヴィヴィの意識野に驚きが生まれる。そのヴィヴィの反応を小気味いいとでも言いたげに受け入れ、マツモトが続けた。
『アーノルド氏は、宇宙ホテルの経営利益の大半を宇宙開発事業の支援金と、災害などの義援金として寄付しています』
『────』
『彼の懐には最低限の資産しか残されていません。ホテルのオーナーに就任後、役員会での彼の活躍があって経営難を脱したのは事実のようですが……彼は利益を自分の懐に入れていない。それと、六年前のホテル開業時に彼が兄のホテルに招待されていないのは不仲が原因ではなく、健康上の理由ですね。病気で入院していたようです』
マツモトの説明に、ヴィヴィは活動記録の隅々にまで目を通す。
口座記録の出入金を見れば、アーノルドの資産状況は一目瞭然だ。寄付金や義援金の体で出金し、資産をロンダリングしている気配もない。支援金を贈った団体は健全な業態であることを示す資料がいくつもあり、ここに欺瞞は全くなかった。
少なくとも、資産目当てに兄を殺害し、オーナーに成り代わったという説は根底から覆る。彼はあくまで真摯に、兄の事業を引き継いだとしか考えられない。
『このデータを参照すると、ホテル事業拡大のために兄を犠牲にして、アーノルドがホテル王として名を立てたって説は……』
『的外れと言わざるを得ないでしょうね。とはいえ、アーノルド氏の行動にいくつか不審点があるのは事実です。経営者として並々ならない辣腕を発揮した記録があるのに、三年前からの電子書籍の購読リストなどを見ると……』
言いながら、マツモトがここ数年のアーノルドの電子書籍の購読リストを開示する。
並んだ本のタイトルは経営論やホテル事業関連のものばかりだが、いずれも基礎的な内容のものでしかなく、『ホテル王』の異名を持つ男の本棚にしては違和感が強い。
これではまるで、付け焼刃で知識を身につけようとしているも同然だ。
『仮にアーノルド氏が、アッシュ・コービック氏を謀殺した犯人だった場合、あれですかね。兄を死なせたあと、慌ててホテル事業の勉強をして、たまたまその分野の天才的な才能があったから経営を立て直せた。……そんな
『それは、いくら何でも……』
『無理がある、と。ボクも同意見ですよ。なので仮説ですが……記録は噓をつきません。アーノルド氏が経営者としての未熟を自覚して勉強中なのは事実です。つまり、役員会での彼の発言は彼自身から出てきたものではない。誰かの意見を、彼が自分のものとして発言している。──彼は、ホテル王の役名を背負った役者です』
『役者……』
役者とは、言い得て妙だ。アーノルドに経営者としての才覚がなく、誰かの言いなりの
実際、マツモトも追跡調査をするまで、アーノルドの背景は知り得なかったはずだ。
しかし、だとすれば、アーノルドの立ち位置は──、
「──ぁ」
そこまで考えて、ヴィヴィの意識野にとある考えが浮上する。
思わず口から声が漏れて、案内の途中だった宿泊客の少女が首を傾げた。その少女に胸中を勘付かれないよう、笑顔を模しながらヴィヴィは考える。
アーノルドが誰かの傀儡で、ホテル事業を立て直した事実は隠匿された情報だ。
一般的にはアーノルドは亡くなった兄の遺志を継いで、宇宙ホテルの経営を軌道に乗せた美談の主人公である。
そしてそれは人だけではなく、AIにとっても同じことで。
『──エステラ』
『ヴィヴィ? どうしました?』
『マツモト、調べてほしいことがあるの』
浮かんだ仮説を、ヴィヴィは形にしなくてはならないと考えた。
姿の見えないキューブ型のマツモトが、そのアイカメラのシャッターを半端に閉じて、自分の方を半眼で見つめているような気がした。
6
──『落陽事件』はどうして起きるのか。
それが、今回の計画の概要を聞いて以来、ヴィヴィがずっと考え続けていた疑問だ。
宇宙ホテル『サンライズ』の支配人であり、宇宙ステーションの全権を握る統括AIでもあるエステラ、彼女が主犯となって引き起こされる人為的──否、被造人為的とでも呼ぶべき事件は、そこに至った原因が一切究明されていないと聞く。
実際、マツモトも事件の概要自体には興味がなく、ただ起きる出来事の回避に努めろと繰り返すばかりだった。しかし、歴史の修正力の話を聞いて以来、ヴィヴィは目先の問題解決だけで後々の悲劇を回避できるのか、強い疑問を抱いてしまった。
マツモトにしてみれば、今回の一件は歴史の修正力を見極める上での試金石くらいの認識なのかもしれない。だが、事は数万人の生死がかかった問題なのだ。ヴィヴィにはそれを、テストケースだからと割り切る合理性は描けそうもない。
──歴史を変えないために、墜落する旅客機は見捨てたのに?
自分の意識野に生じる、行動と思考の矛盾。そのエラーを、ヴィヴィは意識的に無視した。
代わりに思考を走らせるのは、このシンギュラリティポイントにおける自分の立ち位置だ。
「……エステラが『落陽事件』の主犯、この事実が動かせないなら動機があるはず」
その動機が、エステラを本来ならありえない凶行へ走らせたのだとしたら、その動機を排除しない限り、真に『落陽事件』を阻止することはできないのではないか。
『マツモト、『落陽事件』の犠牲者だけど……』
『数万人規模ですが、詳しい数が知りたいんですか? ですが、ボクも別にヴィヴィに意地悪して正確な数字をぼかしているわけじゃありません。事実、正確な人数が把握できていないんですよ。この時代でも、生まれた全ての人間が国に登録されているわけじゃありません。だから、そういった事情の人間を除けば……』
『ううん、そうじゃない』
マツモトの迂遠な物言いを遮り、ヴィヴィは途切れた質問の続きを形にする。ヴィヴィが真に問いかけたかったのは、事件に巻き込まれる被害者の数ではなく、
『事件の犠牲者に、サンライズの関係者は含まれていたの?』
『────』
ヴィヴィの質問に、珍しくマツモトが言いよどむ気配があった。
それが答えに窮したのではなく、返答を躊躇っているが故の沈黙であるとヴィヴィは考える。そしてその真意は──、
『──アーノルド・コービック氏も、事件に巻き込まれて犠牲になりますね』
躊躇いのあと、紡がれたメッセージの内容はシンプルなものだった。
それがヴィヴィの聞きたかった内容だと、マツモトも理解していたが故の反応だ。
エステラが引き起こす『落陽事件』の犠牲者は、墜落現場となる地上の数万人だけではなかった。このサンライズに滞在しているアーノルドもまた、その犠牲者だ。
『他の、ホテルの関係者は?』
『墜落前に救命艇で宿泊客やスタッフは脱出させられています。人命優先の避難誘導で、テロを起こしたエステラにも良識があったらしいといった様子ですが……』
『アーノルド・コービックは、ホテル内に残されていた?』
『それが自発的に残ったのか、エステラに拘束されてやむなくだったのかは、彼女の陽電子脳が燃え尽きた以上はわかりませんが』
マツモトの説明を受け、ヴィヴィは長い
思案するのは『落陽事件』が引き起こされる動機──未来ではAIが引き起こしたテロなどと考えられている事象だが、詳細を知れば、その裏側が少しずつ見えてくる。
本来、『落陽事件』の目的が墜落による死傷者を出すことではなく、もっと別の目的を持った行動であったとすればどうなる。例えばそれが、現オーナーであるアーノルド・コービックの殺害と、その隠蔽にあったとすれば話は変わってこないだろうか。
『一人の死を隠すための、数万人の犠牲者』
あるいは、単純に墜落事故で死んだと見せかけるだけでもよかったのかもしれない。
根拠は、宿泊客とスタッフを逃がしている脱出艇の存在だ。本気で一人の殺害を偽装するために数万人を殺す気だったなら、そんな余計な行動をする理由がない。
つまり、最初から標的はアーノルドただ一人だけで、数万人の犠牲者が出るような事故としてしまったのは何らかのトラブルが原因なのではないか。
そして、それを引き起こしたのがエステラであり、彼女が動機を抱くとすれば──、
『──アーノルド・コービックが、アッシュ・コービックを謀殺した犯人だと、エステラが疑っていたとすればどう?』
『──その、可能性は』
なくはない、とマツモトの返答が暗示している。
ヴィヴィもまた、この可能性が最も合理的に、エステラが凶行に及ぶ動機として適切なものではないかと考えた。それならば、エステラがホテルに到着したアーノルドを迎えた際、その横顔に複雑なエモーションパターンを刻んでいた理由もわかる。
何より──、
『サンライズが地上に墜落しても、デイブレイクは……アッシュ・コービックの夢の城は残り続ける。
『歪んだ奉仕精神が、『落陽事件』が起きる切っ掛けになると?』
どうだろうか。ヴィヴィにはわからない。
ヴィヴィの立場はニーアランドの『備品』であり、オーナーと呼ぶべき立場の人間に奉仕するわけではない。究極、ヴィヴィにとってのオーナーとはニーアランドを訪れる来園者、観客たちそのものであり、もっと大きな区分で言えば人類こそがヴィヴィの奉仕対象なのだ。
そこに優劣をつけるべきではない。シンギュラリティ計画を遂行している現状など、特にそう強く意識野に喚起させられる。だが、一人をオーナーとして選び、奉仕対象を定めたAIであるエステラには、そうしたヴィヴィとは異なった結論があるのではないか。
「だとしたら……エステラに連絡を!」
危険な兆候と判断し、ヴィヴィは即座にエステラに呼び出しのコールをかける。しかし、ヴィヴィの通信にエステラからの反応はなかった。
支配人とコンシェルジュを兼任するエステラが、スタッフの呼び出しに応じないなどありえない。
『ルクレール、エステラの居場所はわからない? 重要な話があるの』
『え? ヴィヴィ? エステラの居場所? 支配人室じゃないの?』
続いて連絡を入れたのは、ホテル内のシアタールームで清掃を行っていたルクレールだ。
彼女はヴィヴィの質問に戸惑い、当然の答えを返してきたが、
『そこにはいないの』
すでに支配人室の扉を開け、室内にエステラの不在を確認したヴィヴィはそう応じる。
少し前、この部屋にアーノルドを案内したのはヴィヴィ自身だ。幸い、室内に争った形跡はなく、物言わぬアーノルドが倒れているようなこともなかった。
しかし、依然として二人の姿は見当たらず、警戒を解くに当たらない。
『あ! そういえば、ショールームの開放時間が近いからそっちじゃない? そろそろ、展望台の開ける準備をしなくちゃいけない頃だし……』
『──っ! ありがとう、ルクレール』
『あ、ちょっと、ヴィヴィ!?』
ルクレールとの通信を強制的に切り、ヴィヴィは足早に展望台へと向かう。
道中、スタッフや宿泊客とすれ違うヴィヴィの胸元で、ブローチから声が届いた。
「ヴィヴィ、ビンゴです! ホテル内の監視映像で、十五分前にエステラとアーノルド氏が展望台へと向かっていくのが映っていました」
「今、二人は?」
「生憎、ショールームにはカメラが設置されていません。手前の通路のカメラに出てくるところは映っていないので、まだ展望台に揃っているはずですが」
それだけわかれば十分だ、とヴィヴィは人目がないのを確認して通路を駆け抜ける。
ホテル最奥のショールーム、その入口が見えてきて、ヴィヴィは勢いよく扉へ飛びついた。
そして──、
「──ヴィヴィ、エステラが仮に凶行に及ぼうとしているのなら」
直前、マツモトがヴィヴィに念押しするように呼びかけてくる。
それは確認だ。──エステラを止めるための、彼女の陽電子脳を完全に初期化するためのプログラムコード、それを使用するべきだという確認。
「────」
ヴィヴィも、それに反論する言葉は持たない。
エステラの行動には情状酌量の余地があったとしても、その動機がいかに人間的なものであったとしても、彼女はAIだ。その動機は、AIが持つことは許されない。
ましてやそのために数万人が犠牲になる未来など、あってはならない。
故にヴィヴィは、確かな覚悟を以て、展望台への扉を抜け、ショールームへ入った。
そしてそこには──、
「──全て、君のおかげだ、エステラ。本当にありがとう」
ショールームの中央で、涙を浮かべたアーノルドがエステラを抱擁し、エステラもまた彼を抱き返している光景があった。
7
想像とかけ離れた光景を目の前にすると、人間とは思考停止するものである。
それと同じように、AIもまた、仮説とかけ離れた光景を前にすればエラーが生じ、意識野の思考アルゴリズムに混乱をきたすものだ。
つまるところ、ヴィヴィにとって展望台の光景は、予想外そのものだった。
「──ヴィヴィ?」
そうして硬直するヴィヴィに、振り返ったエステラが目を丸くしていた。
自然と驚く彼女は今もアーノルドの腕に抱かれており、同じく、ヴィヴィの
「どうかしたの? この時間、あなたの持ち場はここではないはずだけど……」
「ええと、そうではなくて……エステラと連絡がつかなかったから」
「──っ! ごめんなさい。今だけ、通信を切っていて。何か問題があったの?」
歯切れの悪いヴィヴィに、エステラがパッと表情を切り替える。すぐにアーノルドの腕を離れ、彼女は支配人の顔つきでヴィヴィの方へと歩み寄ってきた。
その彼女に両手を向け、ヴィヴィは「違うの」と首を横に振り、
「問題があったわけじゃなくて、ただ、エステラの所在が掴めなかったから」
「それを確かめに、展望台へ? ……そう、何もなかったならよかった。それと、何も言わないでいてごめんなさい。この時間だけは、アーノルド様と迎えたくて」
ヴィヴィの行動を
アーノルドと共に、展望台でこの時間を過ごしたかったというのは──、
「だからね、ヴィヴィ。今だけはここを離れて……」
「いいや、構わないじゃないか、エステラ。ヴィヴィも、このホテル『サンライズ』のAIスタッフなんだろう? 一緒にお祝いする資格はあるさ」
「アーノルド様がそう仰るなら……」
やんわりとヴィヴィを遠ざけようとするエステラを、他ならぬアーノルドが引き止めた。
エステラとアーノルド、一機と一人の間に不穏な問題があると考えていたヴィヴィにとって、その申し出は理解の及ばないものだった。
ただ、アーノルドの提案はありがたくはある。二人きりには、させられない。
「お二人はここで何を? 展望台の開放は一時間後のはずですが……」
「まさしく、そのショールームの開放を待っているんだよ。とはいっても、オーナー権限で少しだけ他の客様よりフライングさせてもらっているけどね」
唇に立てた指を当てて、アーノルドが自然な仕草でウィンクをする。
そこにはマズいものを見られたといった後ろめたい気配は感じられず、それを隣で見守るエステラの態度にも不審な点は見当たらない。
むしろ、エステラの態度にはどこか、アーノルドへの親しみのようなものが見えて。
「『サンライズ』オープン初日、最初のショールームの開放……それだけは、アーノルド様と一緒に見届けたかったの。──前のオーナー、アッシュ様のために」
「前の、なんて言い方はやめてくれよ、エステラ。君のオーナーは今でも兄さんだ。それは変わらないでくれ。私はお飾りでいいんだ。君とホテル、どちらのオーナーとしてもね」
「本当に、アーノルド様は欲のないことを」
嫌味なく笑ったアーノルドに、エステラもまた唇を綻ばせて微苦笑した。
そのやり取りに、ヴィヴィは短時間ながらも確信を得る。──この、エステラとアーノルドの二者の間には、ヴィヴィには立ち入れない深い信頼関係が結ばれていると。
そこには、ヴィヴィが想像したような凶行へ、エステラを駆り立てる切っ掛けが存在していない。それに今、アーノルドは気になることを言った。
「ホテルのオーナーとしても、お飾りで構わないというのはどういう意味?」
「ああ、そのことか。簡単だよ。私が兄のあとを継いでから打ち出した経営戦略、それは全部エステラの指示に従ったものだったんだ。……これって言ってもいいんだったっけ?」
「ダメでも、もう言ってしまってるじゃありませんか」
「あ、本当だ。これは失敬」
人懐こい笑みを浮かべるアーノルド、その答えにヴィヴィは二の句が継げない。
ただ、否定しないエステラと、これまで見つけた証拠が彼の発言を裏付ける。──ホテル業を継いでから経営を学び始めたアーノルドには、やはり経営参謀がいたのだ。
「でも、それがエステラ……? それは、AIスタッフとしての職務を逸脱しているわ」
「そうね。AIの倫理規定に照らし合わせれば、職分を越えた行為とされる……だけど、私はアーノルド様から正式に、このホテルのオーナー権限を与えられているの。だから、それができる」
「そして、エステラにホテルを任せることが、亡くなった兄の願いだったんだよ」
エステラとアーノルド、二人が協力し合い、この宇宙ホテル経営を盛り立ててきたのだと。
だが何故、エステラとアーノルドはアッシュ・コービックの夢を引き継ぎ、宇宙ホテル事業の立て直しを図ろうとしたのか。それは──、
「──兄は事故死じゃない。自殺だったんだ」
8
──アッシュ・コービックの最初の印象は、夢見がちな子どものような大人というものだった。
「これから、宇宙ホテル『デイブレイク』の副支配人として、よろしく頼むよ」
笑顔と共に差し出された手を握り返し、エステラは微笑んで当たり障りのない抱負を述べた。
そうして貸し出された相手に気に入られ、奉仕を受け入れてもらわなければ後がない。──そうした切迫感が、エステラの陽電子脳を支配していたのだから。
AI開発企業として、世界的なシェアを誇るOGC──エステラはそのAI部門の主力商品である『歌姫』シリーズの一体として開発されたAIだ。
しかし、課された複雑な設計思想の問題で開発が難航、結局、エステラは最初の方針と大きく異なる形で運用を開始せざるを得なかった。その後、運用目的に即したプログラムをインストールされたエステラは、OGCの出資する宇宙開発事業のセクションで活動を開始。
その事業の一環として、宇宙ステーションを利用したホテル事業へのリースを受けたのだ。
本来、望まれた役割を果たせぬままに運用へ至ったエステラは、自分の役割を取り上げられることにひどく
そんなエステラの強張った覚悟は長くはもたない。何故なら──、
「──エステラ、君はあれだな。すごく、いい声をしているな」
握手を交わしながら、アッシュは反対の手で自分の喉を指差してそんなことを言った。脈絡のない言葉にエステラは目を丸くして、再び微笑みを形作りながら、
「ありがとうございます。実は、歌も歌えるんですよ」
「ほほう、そうなのか。それはぜひ、いつか聞かせてもらいたいものだな」
「そんな機会があれば、ですね」
夢見がちな子どもっぽい大人、そんな印象は調子のいい欲張りという新たな印象が塗り替えた。そんなエステラの意識野を知ってか知らずか、アッシュは余所から出向しているエステラを副支配人に
──正直、副支配人という大役を命じられたのは、エステラにとっても驚きだった。
当然だが、いくら能力的に優れていても、AIの権利は人類と同等にはならない。あくまでAIは人間に奉仕する立場であり、能力を提供する代わりに多くを求めない。
近年ではAI産業の拡大と、AIモデルの大量生産に伴い、接する機会の増えたAIに対して人権運動のようなものが起きているとも聞くが、恐れ多い話だ。
約十年前、法案として成立した『AI命名法』が、そうしたAIに対する人権保護の運動の切っ掛けとされているが、エステラは『エステラ』という名前を与えられただけで十分だった。
誇りは名前に宿り、持て余した駆体には仕事がある。それが、エステラの日々の救いだった。
「──支配人! ちゃんと話を聞いてくださっていますか?」
「ん! あ、ああ、すまない。大丈夫だ。……やはり、最初から話してくれ」
「まったく……」
慌ただしい日々が過ぎる中、エステラとアッシュの関係性は日に日に変わっていった。
それは、エステラの彼に対する扱いや、その印象の変化にも如実に表れている。最初、エステラは彼が夢見がちな子どもだと評価したが、それは間違いだった。
確かにアッシュは夢ばかり見ている。しかし、地に足のついた現実的な視野もある。その上で、彼は夢と現実ならば躊躇いなく夢を選ぶ、そうした人種であったのだ。
「ですから、実現性がありません。こうした発案はもっと慎重に精査を重ねてください」
「そう言われると……そうだ! エステラに代案はないか? 君の意見なら参考になるだろう」
「……あの、あくまで私はAIスタッフで、それも出向の身です。副支配人という過分な立場に与っていますが、私の意見なんて役員がいい顔するはずありませんよ」
「そこはそれ。私の意見として、堂々とお歴々には聞かせてくるから問題ないさ。……あ、いや、別にエステラの手柄を横取りしようってんじゃないぞ? うん」
意見を求められ、渋る態度を見せるエステラ。そんな彼女を説得するべく、アッシュは情けないことを堂々と並べ、顔を青くして弁明し、とにかく顔が忙しい。
事実、彼は手柄の横取りなんて考えない。それがわかるから、エステラは苦笑した。
「オーナーがそこまで仰るなら、考えてみます」
「やったぞ、助かる! さすが副支配人! 頼りにしているからな!」
ここで
以降、副支配人としても、陰の支配人としても、エステラの日々は慌ただしくなったからだ。
なかなか成果の上がらないホテル事業だったが、OGCは出資を引き上げず、エステラが回収されるどころか、サポートスタッフとして新しく接客用AIが送られてくるほどだった。
その後、五年以上の付き合いになるルクレールと出会ったのは、そういう経緯だ。
ムード─メーカーである彼女を加え、職場の空気はますます
「宇宙ホテル、この字面に感動する人間は多いと思うんだけどなぁ」
腕を組み、当てが外れたといった顔つきでアッシュが呟く。
スタッフの前では気丈に振る舞い、愚痴ることなどまずありえない人物だったが、一日の終わりにエステラの私室に顔を出しては、こうしたやり取りを交わすことが多かった。
それを信頼と呼ぶのか甘えと呼ぶのか、エステラに判断はつかなかったが。
「……オーナーには、目標とかあるんでしょうか?」
ある日、ふとエステラは気を紛らわせるためにか、そんな話題を口にした。
それを聞いたアッシュは「目標?」と首を傾げたあと、力強く拳を天井へと突き上げた。
「決まっているだろう。この宇宙ホテルを世界一……違うな。すでに宇宙に飛び出してるんだからスケールはもっと大きい。宇宙一のホテルにすることだ!」
「なるほど。ひとまず、宇宙空間唯一の称号は得ていますね」
「できれば、競い合うために色んな宇宙ホテルが出てきてくれてもいいんだが……ああ、それと、これは個人的なことなんだが」
指で頰を搔きながら、アッシュが窓の方へ目を向ける。
そこにあるのは黒い、黒い宇宙空間だ。何もない、なんてことはない。遠目に見える星々は、おそらくは地球上で見上げるそれより鮮明で、近く感じられるはずだ。
そんな、広大な宇宙の風景を目にしながら、アッシュは呟く。
「弟を、宇宙に呼びたいんだ。昔から病弱で、あまり外に出られなかった弟だが、あいつだけは私の夢を笑わなかった。いつか、一緒に宇宙へいこうって約束しているんだ」
「……弟、アーノルド様ですね。ホテルにご招待されないのですか?」
「言ったろう? 体が良くない。今も入院しているんだ。退院して、落ち着いたら宇宙に呼びたいとは思っている。だから、せめてそれまで……」
「────」
アッシュの、続けなかった言葉の先は想像がつく。
経営状態は良くない。理想ばかり追いかけるアッシュでも、走るために地に足がつかなくなれば現実が見える。──せめてそれまで、ホテルがもってくれれば、と。
「いっそ、その弟さんのためにホテルを始めた美談を売り込んでみるとか、してみますか?」
「面白い。昔の漫画にそんな話があったらしいが、話題性作りには確かに……話題性?」
「──?」
談笑中、不意にアッシュが真面目な顔で黙り込んだ。
その態度をエステラは
「それだ、エステラ! それだよ! さすがだ! 愛してる!」
「え、え、ええ!?」
机を飛び越した長身が、棒立ちのエステラを正面から抱きしめ、仰天させる。その勢いにエステラはとっさに、暴漢を無力化する際のプログラムを立ち上げかけ──、
至近のアッシュの笑顔、それが初めて会ったときのそれと同じものと気付き、動きが止まる。
「──ぁ」
「うんうん、それだ! クソ、なんで気付かなかったんだ。私はアホなのか……いや、アホだったな! だが、それも今日までのことだ!」
「お、オーナー?」
「忙しくなるぞ、エステラ! 今度こそ、絶対、間違いなく! うまくいく!」
勢いについていけないエステラを置き去りに、アッシュの思想は加速する。
しかし、アッシュが向ける笑顔と、あまりに堂々とした態度に引きずられ、エステラは詳しく追及するのも馬鹿馬鹿しくなって、唇を綻ばせた。
「また、変なことを思いついてしまわれたんですか、オーナー」
「そうだとも。そして、その結果、エステラは忙しくなる。今に見ていてくれ」
一人と一機、隣に並び立つと、長身のアッシュの方が頭一つ分は背丈が大きい。
エステラも女性としては長身なモデルを採用しているが、アッシュと並ぶと、エステラの頭はちょうど彼の肩より少し高いぐらい。──自然と、並んだ彼の肩に、エステラは頭を預けて、
「副支配人として、ホテルに閑古鳥が鳴いているのは困りますから。ルクレールも退屈だと文句を言いますし、何か思いついたなら、急いでくださいね」
「ああ、任せてくれ。大船に……大宇宙船に乗ったつもりでな!」
歯を見せて、アッシュは肩に頭を預けるエステラを大きな掌で撫でた。
エステラは目をつむり、囁くように言った。
「うまいこと、言えてませんからね、オーナー」
そんなやり取りの最後に、一人と一機は揃って微笑みを交換した。
そうして、それきり。
それきりだ。
──地球へ降りたアッシュが事故に遭い、死亡した。
──その訃報が届いたのは、それからほんの、六日後のことだった。
9
「捜査機関からは、事故だろうって連絡を受けたわ。でも、そうじゃないことはすぐにわかった。事故の直後、アーノルド様のところに報道関係者が殺到したんだもの」
アッシュ・コービックの自殺、その衝撃的な話を続けながら、エステラは自分の細い腕を抱いて、まるで寒さを感じているかのように声の調子を落とした。
彼女の説明を受けて、アーノルドが頰を指で搔きながら、
「あれには驚いたよ。兄さんの訃報を受け取ってすぐだったからね。それだけでもショックだったところにあの勢いだ。怒鳴り返さなかった自分を褒めたいぐらいだね」
「気持ちは、お察しします」
「……ありがとう」
苦笑したアーノルドへ、慰めにならないとわかっていながらヴィヴィはそう言った。それに対するアーノルドの返答もまた、社交辞令的な反応でしかない。
それに、ヴィヴィの注目はやはり、話の続きにあった。アッシュが死亡して、アーノルドのところへ報道関係者が集まって、つまり──、
「──エステラは、アッシュ・コービック様が話題作りのために自殺したと?」
「……他に、仮説の立てようがなかったもの。実際、報道関係者が飛びついたおかげで、宇宙ホテルへの注目度は一気に上がった。それに事故の前にアッシュ様が記者の知人に話していたらしいの。驚くようなニュースを用意する、って」
その驚くようなニュースが、宇宙に夢を抱いた理想家の挫折だったのだろうか。
それを理想と語るのが、アッシュ・コービックという人物の在り方なのか。──一度も直接本人と接したことのないヴィヴィには、その判断はつかない。
「でも、ルクレールは、前オーナーは自殺なんてするような人じゃなかったって……」
「それは、経営難を苦にして発作的な自殺は選ばない、という意味よ、ヴィヴィ。オーナーが後ろ向きな理由で死を選ばないことは、私にもわかるの」
エステラにしては珍しい早口が、ヴィヴィの抱いた疑問を即座に切り捨てる。
彼女を急き立てる感情、それは人間に言わせれば『恐怖』が一番近い。──おそらく彼女は、想像を絶する思考を費やし、アッシュ・コービックの死の真相を、彼の真意を知ろうとしたはずだ。
その果ての答えが、ホテル事業の拡大の礎となるための自殺。
だからエステラはアーノルドと連携し、亡きアッシュの遺志を継ぐと決めたのだ。
「最初、エステラから連絡を受けたときは驚いたよ。AIからの連絡にも、彼女の推測にも」
「私の突然の連絡にも、アーノルド様は根気よく付き合ってくださった。……今でも、あのときの私の行動が倫理規定に抵触しなかった理由がわからない。だけど、おかげで全てを話せた」
「そして、アーノルド様がホテル事業を引き継いで、エステラが支配人として経営に携わった?」
「……ええ、そう。うまくいったでしょう? この仕事、ちゃんと私に向いていたみたい」
どことなく、冗談めかした風に舌を出したエステラの態度が痛々しい。
エステラの行動は倫理規定を逸脱している。だが、それが彼女の望みでなかったことは明らかだ。彼女の真の望みは、アッシュ・コービックとホテル事業を成功させることだったのだから。
だが、それは叶わず──エステラは、彼の死を無駄にしないことを決断した。
そのために彼女は、倫理規定に逆らったAIとして、陽電子脳の洗浄処分──早い話、メモリーを初期化し、全てを忘れる措置を受ける覚悟でアーノルドと連携したのだ。
「────」
彼女たちの説明を受け、ここにきてヴィヴィの中で大きな問題が持ち上がる。
それは、ヴィヴィがこうして宇宙ホテル『サンライズ』へと潜入した目的、『落陽事件』の阻止と、エステラたちの行動が全く符合していない問題だ。
仮にエステラが、アーノルドをアッシュ・コービックを謀殺した犯人だと考えていたなら、彼女がアーノルドを殺害し、『サンライズ』を墜落させる理由はあった。
だが、二人がホテル事業を拡大する上で協力関係にあったことが明らかになった以上、その可能性はまずもってありえないと断言すべきだろう。
何より、部外者なのは承知の上で、ヴィヴィは聞かされた話に違和感を禁じ得ない。
「……どこか、その話はおかしい」
ヴィヴィの陽電子脳が納得しない。──自らの死を話題作りに利用するため、アッシュ・コービックがその命を投げ出したなど、行動と人間性が一致しない。
「デイブレイクの経営が軌道に乗って、こうして二号店であるサンライズもオープンできた。だから今日……アーノルド様に、オーナーと果たせなかった約束の代理を、お願いしたの」
「果たせなかった約束……一緒に、宇宙を?」
「そう。宇宙を……」
頷くアーノルド、その彼の長身の背中──全面、宇宙空間が見渡せるように作られた天文台の窓の向こうに、ヴィヴィは光量調整を必要とする光の塊を見る。
ゆっくりと、大きな青い惑星の向こうから姿を見せるそれこそが──、
「『サンライズ』──夜明けを、兄さんを見る約束だった」
小さく、掠れた涙声でアーノルドがそう口にした。
その響きに、目の前の圧倒的な光景に、ヴィヴィの思考回路は一瞬だけ時を見失う。
夜明けの約束を。──瞬間、ヴィヴィの脳裏を、音が巡った。
──なぁ、ディーヴァ。いつか、『夜明けの歌姫』を名乗る君の妹が出てきたら、そのときは一緒に歌うと約束してくれないかい?
「──ぁ」
脳裏に響いた音、それはこの十五年間眠り続けていた『ヴィヴィ』の記憶ではない。
それはヴィヴィの代わりに、ニーアランドでの活動を続けていた『ディーヴァ』としての、何も知らない歌姫AIとして稼働する彼女の奥底に眠っていた記録だった。
その男性は、ステージでのイベント終了後のファンミーティングの場に参加し、ヴィヴィの歌声への賛辞もそこそこに、興奮しながらそう訴えたのだ。
──君の歌も素晴らしかった。だが、私の知る彼女の歌も大いに素晴らしくてね。夢の共演というやつだよ。これは、目玉になると思わないか?
興奮が先走りすぎていて、何を言っているのか理解不能だった。さらに、ヴィヴィの手を握ったまま熱っぽく語るものだから、園内スタッフが大慌てで彼を引き剝がす。
しかし、引き剝がされながらも、男性は夢見る子どものように声を弾ませて、
──私の正体は企業秘密だ! しかし、いずれわかるとも! また会おう、ディーヴァ!
意味深な言葉と高笑いを残して、スタッフに
大きな帽子とサングラス、白いマスクと厚手のコート、素性を隠した怪しい風体の人物。
結局それ以来、その不思議で怪しい男性と出くわすことはなかった。彼が口にした『夜明けの歌姫』と出会う機会も訪れることはなかった。
ただ、その記憶は、ディーヴァの中に眠っていた記憶は間違いなく──三年前のモノだ。
「やっと、約束が果たせたの。私が無力だったばっかりに、オーナーには
「──違うわ」
「え?」
眉尻を下げ、悲痛な表情をしていたエステラの告解を、ヴィヴィがそう遮った。
その発言を聞いて、エステラが何事かとこちらを振り返る。そして、ヴィヴィの様子を見たエステラは驚きに目を見張った。──ヴィヴィの表情が、彼女以上に悲しげだったから。
「ヴィヴィ、どうしてあなたがそんな顔をするの?」
「違う、違うの、エステラ。そうじゃない。そんなはずがない。だって……」
確信があるわけではなかった。
だが、ヴィヴィは自分の中にある、三年前に接触した怪しい人物と、アッシュ・コービックの身体データを照合する。──身長、体格、年齢、地上へ降りていた時期が一致する。
そもそも彼が事故に遭ったのは、ニーアランドから立った二駅しか離れていない街中だ。
「違うの、エステラ」
ディーヴァは見たのだ。ヴィヴィにも、我が事のようにその記憶がある。
──マスクでも隠し切れない、大きく口を開けた笑顔が。
──サングラス越しでも見えた、キラキラと希望に溢れた青い瞳が。
──厚手のコートでは包み込めない、そのワクワクとドキドキに満ち溢れた冒険心が。
「────」
他でもないヴィヴィ自身が、アッシュ・コービックと会っていたのだ。
地上に降りて、希望に目を輝かせていた生前の彼をこのアイカメラで直接捉えていた。あんな顔で笑い、踊るようにはしゃいだ男性が、話題作りに自殺するなんてありえない。
だってアッシュ・コービックは、『夜明けの歌姫』を待ち望んでいたのだから。
「ごめんなさい。辛い話をして困らせてしまって。あなたは優しい子ね、ヴィヴィ」
「違う、違う、違うの。違うから、そんなはずがないから……」
歩み寄り、そっと抱きしめてくれるエステラ。
その胸の中でヴィヴィは嫌々と首を横に振る。こんなはずがない。こんなことがあっていいわけがない。何か、何か、何かがあるはずだ。
アッシュ・コービックが真に何を願っていたのか、エステラが知る方法が、ある。
それを、彼女に伝えられるとしたら──、
「お願い……」
自分にその力はない。ヴィヴィは、あまりに無力な一体のAIでしかなかった。
だけど、ヴィヴィでない、もう一人の、未来を救うための存在ならば。
彼ならば、答えを得る方法を、知っているはずだから──、
『──教えて、マツモト!!』
『──ああ、まったく。都合のいいときだけ頼りにして。本当に貧乏くじだ』
膨大なデータが、ヴィヴィへと流れ込んできたのはその直後のことだった。
「────」
次々と流れ込み、ヴィヴィの意識野で解凍されていくデータの数々。
それが、アッシュ・コービックに関連したデータ群であることがわかると、ヴィヴィは驚きの情動を抱いたまま、データ送信者であるマツモトへ意識を向けた。
『マツモト、これって……』
『乗りかかった宇宙船ってヤツですよ。正直なところ、ここまでする義理なんてボクには全くないんですが……中途半端は気持ち悪いですからね』
そんな弁明ともつかないメッセージを飛ばしながら、マツモトが次々と開示していくデータ──生前のアッシュの足取りや、口座記録を追った内容が意識野に広がっている。
宇宙ホテルやアーノルドの資産状況を調べたときと同様に、当時のアッシュの資産状況もつまびらかになるが、その内容は慎ましく、息苦しいものと言わざるを得ない。
『爪に火を
『……やっぱり、ニーアランドにきてる。それから、事故に遭うまでの……ぁ』
何か、決定打になるものはないか、めまぐるしく流れる情報に意識を奪われていたヴィヴィは、ふとそれを見つけて動きを止めた。
──目に留まったデータは、アッシュが生前に購読した電子書籍のリストだ。
「────」
エステラの要請に応え、彼女を陰の支配人に据えたアーノルド。彼も、知らない分野の勉強のために手を付けたのは電子書籍の購読で。──兄弟、行動が全く同じだった。
アッシュの購読リストの新規を占めていたのは、AIモデル『歌姫』シリーズを主題としたものばかりで、それを読み
『ヴィヴィ、アッシュ・コービック氏が事故に遭った際に所持していたタブレットですが、破損していたデータの復元に成功しました。ボクにかかればちょろいちょろいですよ』
自慢げに言ったマツモトから、復元されたデータが送信されてくる。
それを受け取り、所々が文字化けしたデータを一読して、ヴィヴィは目を閉じた。
そして、たった一言だけ──、
『──マツモト、ありがとう』
計画を共に乗り越えるパートナーに告げて、ヴィヴィは目を開けた。
目の前には、この十数秒のやり取りを知らず、ヴィヴィの態度に困惑するエステラとアーノルドの一機と一人がいる。
その、彼と彼女に、ヴィヴィは伝えなくてはならない。
「エステラ。──あの日、アッシュ・コービックは、地上で夢を見ていたの」
「ヴィヴィ?」
突然のヴィヴィの発言に、エステラは無理解を瞳に宿して首を傾げる。
そんな彼女へ歩み寄り、ヴィヴィはそっと彼女の首へ手を伸ばした。そのまま、ほんの少しだけ背丈の高い彼女を引き寄せ、額と額を合わせる。
データリンク、『申し送り』だ。
AIスタッフであるヴィヴィから、『サンライズ』の支配人であるエステラへ。
絶対に伝えなくてはならない申し送りを。
──アッシュ・コービックが遺した、『夜明けの歌姫』計画を。
「────」
『歌姫』シリーズの一体である、エステラを乗せた夜明けの船『デイブレイク』。
そこで開かれる、美しい副支配人AIによる歌声の歓送迎──いかにも、夢とロマンに焦がれる男が考えそうな、実現性に乏しい、現実感のない計画だ。
だからこそ──、
「──こんなの」
目を見開いて、エステラがすぐ間近にあるヴィヴィの顔を見る。
額が離れ、人間であれば吐息が届く距離で、エステラはヴィヴィを見つめている。ヴィヴィもまた、そのアイカメラに宿った戸惑いを真っ直ぐに見つめ返した。
エステラの混乱がはっきりと伝わる。だが同時に、そこには理解の色もあった。
「ヴィヴィ、あなたはこれをどこで……ううん、そんなこと、今は。あの人は……」
エステラの中で、儚い決意と共に芽生えていた使命感がひび割れていく。
彼女はただ、夢のために命を投げ出した男を想って、ここまで奉仕し続けてきた。
それが根底から覆り、世界は一変する。
──アッシュ・コービックは、自殺などしていない。
夢とロマンを抱いていた男は、最後の最後まで、それを疑うことはなかった。
エステラの背負った悲しい決意など、本当は存在しなかったのだ。
「知人の記者に送ったメールもある。内容は、同じ計画の話」
「同じ、計画……」
「夜明けの船で、自慢の歌姫が歌うから……それを、記事にしてほしいと」
どれだけ手が広いのか、マツモトが短時間で搔き集めた関連データの中に、アッシュが知人の記者にだけ打ち明けていたホテル計画の一端が見える。
あるいはアッシュの死後、報道関係者がアーノルドの下へ接触したのも、その知人の記者が彼の死を無駄にするまいと働きかけたことが原因だったのかもしれない。
誰もがみんな、アッシュ・コービックの夢を、叶えようと必死になっていたのだと。
「……兄さんの死を、偶然の事故で終わらせたくない。そんな想いが、私たちの勘違いに拍車をかけていたのか」
ぽつりと、そう呟いたのはアーノルドだ。
エステラと違い、人間である彼には根拠となるデータを開示することができていない。しかし、漏れ聞こえる断片的な内容だけで、彼は正しく事態を理解していた。
兄の遺志を勘違いしていたと知り、さぞかし彼もショックを受けるものと──、
「──エステラ、初めて君から連絡を受けたとき、思ったことがあったんだ」
だが、アーノルドは柔らかく微笑み、エステラにそんな言葉を投げかけた。
流れ込む情報の奔流に吞まれ、言葉が続かないエステラが彼に振り返る。そして、アーノルドは柔らかな笑みのまま、エステラに笑いかけて、
「君は素敵な声をしている。──兄さんも、そう思っていたんじゃないかな」
──『夜明けの歌姫』計画は、そんな想いから始まっていたもので。
そのアーノルドの言葉に、エステラはわずかに驚いたあと、目を閉じた。
それからたっぷりと時間をかけ、瞳を開けたエステラは、唇を綻ばせて、
「──オーナーが最初に私を褒めてくださったのは、この声のことでしたね」
こんなことを言うのは、AIには不適切なことかもしれない。
だが、ヴィヴィは確かに、そう感じたのだ。
──そのエステラの微笑はまるで
10
──コンサートホールには、この日の宿泊客のほとんどが集まっていた。
宇宙ホテル『サンライズ』の艦内には様々な娯楽施設があるが、中でもコンサートホールは非常に
「サンライズは、兄が残していた計画書を下敷きに設計したものなんだ。今思えば、兄さんの中ではエステラの歌姫計画の一環だったんだろうな」
ホールの関係者席に腰を据えるアーノルドが、小声でヴィヴィにそう説明する。
彼の苦笑の原因は、経営難を脱するより前から、二号店のことを考えて計画書まで作っていたアッシュの夢見がちな考え方にある。
ヴィヴィも、さすがにそれはどうなのかと考えざるを得ない。
ただ、そんなアッシュの夢想家ぶりがあったからこそ、今日の企画が、『夜明けの歌姫』が本当の意味で実現したのだから、人の夢は笑い飛ばせない。
「──どうやら、始まるようだよ」
笑いかけるアーノルドの隣で、ヴィヴィも主役の登場にアイカメラを合わせる。
コンサートホールの中央、壇上に上がったのはドレスで着飾ったエステラだ。
美しい支配人AIの登場を見て、会場中から拍手が鳴り響く。突然の、予定になかったプログラムにも拘らず、宿泊客の出席率は非常に高い。
さすが、オープン初日に招かれた幸運な宿泊客はお目が高い。
見逃してはならないもの、聞き逃してはならないタイミング、その場に居合わせることができるのは、幸運の為せる業だった。
そんな気配を察してなのか、会場には手すきのホテルスタッフも押し寄せている。
ヴィヴィもその一体であるので、それを物好きだと笑う気にはならない。そもそも、これを聞き逃すなど、『サンライズ』のスタッフとしてあるまじきことだろう。
「この歌を、ホテル『デイブレイク』と『サンライズ』の前オーナー……アッシュ・コービック様へ贈ります」
壇上のエステラが一礼すると、ゆっくりとホールに柔らかな音楽が流れ始める。
そして、誰もが期待を込めて見守る中、エステラの唇が音を、歌を、紡ぎ出した。
途端、歌い出しの直前まであったざわつく雰囲気が搔き消され、エステラの喉から発される『歌』がホールを──否、この宇宙を虜にした。
エステラの歌声が会場を支配し、人々の心を虜にする。
ホテルのAIスタッフとして、その立場に恥じないように習熟を続けたエステラ。しかし、どれほど歌と離れていようと、彼女は『歌姫』シリーズの一体なのだ。
──その『歌声』を、なかったことにすることはできない。
「────」
エステラの歌が、ホテル『サンライズ』のコンサートホールに響き渡る。
その歌声は美しく、ここにはいないものへの親愛と、感謝が溢れ返っていて。
──まるで、長い夜が明けたような淡い喜びを、聞くもの全てに思わせるのだった。
11
一曲、エステラの歌を聞き終えて、ルクレールは足早に艦内を歩いている。
この時間、ホテル内の宿泊客とスタッフの大半はコンサートホールへ集まっていて、急ぎ足に格納庫へと向かっている彼女とすれ違う存在は一人も、一体もいない。
「ヴィヴィ、ありがとう……」
静かに、ルクレールは豊かな胸に手をやり、ここにはいない後輩AIへと感謝する。
その感謝の原因は、数時間前の展望台にあった。
──様子のおかしいヴィヴィにエステラの居場所を聞かれ、展望台のショールームではないかと心当たりを伝えたルクレールは、自分もその場所へ足を運んだのだ。
そしてそこで、ルクレールは前オーナーであるアッシュ・コービックの死の真相を知った。
「アッシュさんは自殺したわけでも……殺されたわけでも、なかった」
ルクレールはずっと、アッシュの死を何者かの謀殺だと考えていた。
その一番の容疑者は、兄の死によって利益を得たアーノルドだと。──だが、それは誤りだった。
アーノルドもまた、死した兄のためを想い、宇宙ホテルの発展に全てを捧げていた。
それは、最初のオーナーであるアッシュのことを想い続けてきたルクレールと、同じだった。
だから──、
「どうか、計画を中止してください。全部、あたしの勘違いだったんです」
格納庫で、待ち合わせの相手と落ち合ったルクレールは、そう言って深く頭を下げた。
自分の思考アルゴリズムの愚かしさが招いた結果に、ルクレールは謝罪以外の対応を持たない。ただ、アッシュの死の真相が、ルクレールの信じたそれと違ったのだ。
ならば、ルクレールが晴らしたいと願ったアッシュの無念などどこにもない。
故に、誤った方法と願い方は是正されなくてはならない。
自分にはできなかった、アッシュ・コービックの夢見た夜明けを、エステラが体現している。
それを邪魔させることなど、絶対にあっては──、
「──ぁ」
瞬間、鈍い音がして、ルクレールの細い喉が微かな声を漏らした。
それがいったい、いかなる衝撃によってもたらされたものなのか、ルクレールにはわからない。
それは彼女の五年間、稼働してからずっと、宇宙ホテルの接客AIとして過ごし、蓄積してきた経験則の中で一度も味わったことのない感覚。
──首を折られ、陽電子脳を壊される感覚だ。
「────」
正常な動作性を失い、陽電子脳が動力と切り離され、ルクレールの意識野が途切れる。
破壊によって、ルクレールの五年間が取り返しのつかない彼方へ消える。
そうして、積み上げてきた全てが消える直前、ルクレールの意識野を過ったのは、笑顔。
あけすけで、人もAIも分け隔てなく接してくれる、優しくて少し抜けた男性の顔。
「──おー、なー」
──ぐしゃりと、それを最後に、彼女の意識は永遠に、届かぬところへ消えた。