そのプログラムコードが起動した瞬間、『ヴィヴィ』は全てを思い出した。

 正確には思い出したわけではない。

 AIの性質上、それらの記録はメモリーの中に常に保存されていて、この瞬間まで暗号化ファイルとしてクローズド領域に隔離されていただけだ。

 そのクローズド領域が暴かれると、暗号化ファイルが凄まじく複雑なコードによって紐解かれ、眠らされていた記録がメモリー上に解凍される。

 ──瞬間、ヴィヴィは自らの使命と、その途上で起きた出来事を鮮明に把握した。

「あら、どうしたの、『ディーヴァ』? どこか調子でも悪い?」

「────」

 システムが極々短時間のフリーズを起こし、即座の再起動が行われる。

 ほんの数秒のことではあったが、隣を歩いていたニーアランドの女性スタッフに違和感を持たれるには十分な時間だ。

 しかし、ヴィヴィは振り返った彼女に唇を綻ばせると、

「いいえ、何でもありません。ほんの少しだけ、今のステージのログの整理を」

「ああ、反省会……でも、そんな必要あるかしら? あんなに素敵なステージだったのに……私も、もう百回以上も見てるはずなんだけどね」

 そう言って、ちろっと舌を見せるのは付き合いの長いスタッフだ。

 彼女がニーアランドに勤め始めたのは十年以上前──新卒で入社した当時は初々しかった彼女も、結婚してなおも仕事を続ける今やベテランの風格だ。

 無論、ヴィヴィの勤続年数はそれを上回っているわけであり、ニーアランドのメインスタッフとしては古参も古参、長老の域に突入しているわけだが。

「ありがとうございます。ですが、初めてステージを見にこられるお客様にとっては、私が何度目のステージであっても関係がありません。いつ何時も、自分の最高のパフォーマンスを発揮しておきたいのです」

「うーん、立派だわ。……そうよね。今のは私の方がいけなかったわ」

 ヴィヴィの受け答えを聞いて、女性スタッフはしんみりと感心した風に呟く。

 ともあれ、こうしたいわゆる世間話もAIプログラムの習熟には有意義なのだが、現状はあまりそれにタスクを取られているわけにもいかなかった。

「じゃあ、最高のパフォーマンスを発揮するためにも、明日からは頑張ってらっしゃい」

 一瞬、女性スタッフに投げかけられる言葉にヴィヴィは停滞を得る。

 明日から、の言葉にいささかの引っかかりがあった。何か用事があったろうかと考え、しかしそれ以上の停滞を嫌い、ヴィヴィは顎を引く。

「──。はい」

「まぁ、あんまりディーヴァ自身が頑張ることってないとは思うけど」

 そんな言葉を残して、同行した女性スタッフとは控室の前で別れる。

「────」

 ヴィヴィに与えられた控室は、ニーアランドの中央にあるプリンセスパレスの最上階だ。

 園内の歌姫であるヴィヴィには相応の部屋を、と用意された一室であり、天蓋付きのベッドや、王族もかくやというような化粧台、色とりどりのドレスがかけられたクローゼットなど、まさしくプリンセスのためにあつらえられた部屋である。

 もちろん、ヴィヴィにはベッドで体を休める必要も、人間が施す化粧に頭を悩ませる必要もない。ドレスには、それなりに拘りもあるが。

 ただ、今はいずれのアイテムも重要ではない。必要なのは籠の鳥のお姫様のための退屈しのぎではなく、AIとしての活躍へと通じる電子媒体だ。

 長年、使い続けているコンピュータ端末は、ヴィヴィの控室がこれほど豪華な一室となった今も、変わらないパートナーとして部屋の片隅に置かれている。

 その端末へ歩み寄り、手前に引いた椅子に腰掛けるヴィヴィ。そのまま右耳──イヤリング型の接続端子をコンピュータと繫いで、ヴィヴィは右耳に手を当てた。

 端末に接続端子を繫ぎ、耳に手を当てて目をつむるのは人型AIに共通した姿勢だ。

 その姿は人の目には、イヤホンで音楽を楽しんでいる最中に眠りに誘われてしまったようにも見えるため、『うたた寝』などと呼ばれて親しまれている。

 余談であった。──ヴィヴィの意識が、コンピュータ端末へと流れ込んでいく。

 向かう先は『アーカイブ』、AIの集合データベースとされる巨大なサーバーのようなもので、全てのAIたちがオンラインで接続された、いわゆる電子世界だ。

「────」

 そのアーカイブへと没入した途端、ヴィヴィの意識は奇妙な感覚を得る。

 本来ならば存在しないはずのボディの感覚、それに伴い、不可思議な光景の中に立ち尽くしている自分の姿──それは、木造の学舎、譜面台やピアノの置かれた音楽室の光景だった。

「この場所は……」

「──なかなか、気の利いた演出でしょう? アーカイブ内ときたら、どこもかしこも味気ないものばっかりで気が滅入るとはまさにこのことですよ。それがあるので、ちょっとした小粋な空間をご用意しました。お気に召しましたでしょうか?」

「────」

 床を踏みしめ、軽く周りを見回したヴィヴィにかけられる軽妙な声。いっそ軽薄と言い換えても問題のない声音は、ヴィヴィにとって忘れていたはずの声だ。

 おおよそ十五年の空白、AIにとって記録の劣化は無縁の話であり、数年前だろうと数秒前だろうと情報に剝離はない。──しかし、事実としてヴィヴィは彼の声を完全に忘却していたのだ。思い出した、という表現も満更間違いではなかった。

 故に、ヴィヴィはよみがえった記録を辿るように、その形のいい唇を震わせて、

「──マツモト」

「はい、ボクですよ。実に久しぶりですね。ああ、その嫌そうな顔、豊かなエモーションパターンが健在なようで大変よろしい。切れ味がある」

 振り返り、声をかけてきた相手の名前を呼ぶヴィヴィ。その瞳が細められ、眼球の奥にあるアイカメラが動作、それを目の当たりにし、首を傾げる。

「……その姿は?」

 疑問を口にしたヴィヴィ、その正面にあるのはキューブ状の物体だった。

 マツモトの姿は見当たらない。元々、ただのプログラムコードでしかなかったマツモトには本体がなかったが、さてはて、彼はどこにいったものか。

「おーい、そんな反応されると寂しいですよー。おっかしいなぁ。これ、結構、ボク的には勝負フォルムというか、イケてると思ったんですけどねえ」

 そんな懐かしの声がキューブから漏れ出ていることに、ヴィヴィはしばらく、意識的に意識を向けなかった。



「そんなわけで、ヴィヴィ。──シンギュラリティ計画の再開ですよ」

 譜面台の上に乗ったキューブ状の物体は、もったいぶった口調でヴィヴィにそう告げた。

 その言葉を聞くヴィヴィもまた、グランドピアノの前に置かれたピアノ椅子に座り、楽な姿勢でマツモトと対峙している。

 再会の最初の衝撃も薄れ、キューブと化したマツモトの存在も受け入れたあとだ。

 元々、ヴィヴィにはマツモトに対するパーソナルデータの持ち合わせがない。実体を持たないプログラムデータに過ぎなかった存在が、仮想空間に仮のボディを得ただけだ。

「前回、ボディがないことの不便さを痛感しましたからね。やはり、仮想空間だろうと仮組だろうと、タスクを実行するボディの有無は重要ですよ。とはいえ、歴史への影響を最小限にする関係上、ボクも第二ポイントまでの時間の大半を休眠して過ごしましたが」

 そのマツモトの説明に、ヴィヴィはわずかに首を傾ける。仮想空間上、仕草としては意味のない行為だが、人を模したAIとして自動化された仕草の一つだ。

 ただ、見るものにせきりよう感を抱かせる仕草、それを行うには十分な理由がある。

「……前回の、シンギュラリティポイントから十五年」

 そう、そうなのだ。

 前回のシンギュラリティポイントから十五年、それだけの時間が経過している。無論、時間経過による影響は、ヴィヴィの駆体には絶無と言っても過言ではない。

 OSのアップデートや、駆体のメンテナンスは定期的に行われており、ヴィヴィの陽電子脳や駆体の状態は万全を保ち続けている。

 今も、十五年前と同じ──否、それ以上のパフォーマンスを発揮できるはずだ。

 その事実を、マツモトは満足げに受け入れる。キューブの側面には丸いアイカメラが設置されていて、マツモトはその防護用のシャッターをまぶたのように開閉させる。

 シャッターを閉め切らないで止めるところなど、いかにも、半眼の装いで。

「わかっていたことではありますが、アナタの存在がうっかりお払い箱になっていなくてよかった。アナタにはこれからも、計画のために秘密裏に活動してもらう必要がありますからね」

「その前に聞きたいことがある」

 十五年ぶりでもマツモトの態度は軽々としたままだ。ただ、そうして次なる計画へと話を進めようとするマツモトに、ヴィヴィは問い質したいことがあった。

 それはプログラムの再起動があり、自分の行いと、その結果を合わせて判断することが可能となった今だから浮上した問いかけだ。

「マツモト、前回のシンギュラリティポイントは修正されたはずじゃなかったの?」

「────」

「前回、あなたは相川議員の襲撃を事前に防ぐよう私に指示した。実際、相川議員を襲撃から救出に成功して、目的は達された。それなのに……」

 一拍、ヴィヴィは言葉を溜め、続ける。

「消えるはずだった、『AI命名法』の法案が成立したのはどうしてなの?」

「──それは、計画に対する疑問を抱いたということですか、『ディーヴァ』」

 不意に、マツモトが軽々とした態度ではなく、静かな声音でヴィヴィを呼んだ。ただしそれは別名──否、本来ならば、ヴィヴィはそれを正式名称と呼ばなくてはならない。

 何故ならば──、

「『AI命名法』が成立した翌年、六十万通の一般公募の中から選ばれたA−03の正式名称『ディーヴァ』、それがアナタの本当の名前だ。それが不満ですか?」

「そんなことない。ニーアランドで活動中、私はディーヴァであることを強く自覚している。ただ、シンギュラリティ計画の最中は……」

「ヴィヴィと、そう呼んでほしい? そうですね。計画の保全性を考えても、シンギュラリティ計画の活動中はそちらの名前を使用する方が賢明でしょう。アナタの名前は良くも悪くも有名になりすぎました。──十五年前、定着しなかった愛称なら最適だ」

「────」

 マツモトの受諾を得て、しかしヴィヴィの気分は晴れない。

 そこには十五年前の、シンギュラリティ計画のために見過ごした一つの事象がバグとして引っかかり続けているからだ。

 それにマツモトはいまだにヴィヴィの質問には答えてくれていない。

 何故、計画を実行したにも拘らず、『AI命名法』は成立してしまったのか。

「ヴィヴィ、歴史には修正力というものがあると考えられています」

「修正力」

「本来、そうなるはずであった歴史──人類が火を使い始めて進化したように、鉄器を使い始めるように、電気を発明したように、ボクたちAIを作り出したように。今、こうしてあるものは歴史の上に成り立っていますが、その歴史は必然であったと」

「つまり、マツモトはこう言いたいの? 『AI命名法』も、その歴史の修正力によって消えることなく成立した。だとしたら……」

「人類の滅亡は防げないのではないか、ですか? 安心してください。そうはなりませんよ。確かに歴史の修正力は侮れない。しかし、その強固さも完璧ではない」

 ヴィヴィの疑問に、シャッターを何度も開閉しながらマツモトが答える。

 彼は「いいですか?」と前置きした上で、

「以前も説明しましたが、シンギュラリティ計画は複数のシンギュラリティポイントを修正することを目的としている。それは、それらの歴史的特異点を変えなければ、いずれかの事象が人類滅亡へのカウントをスタートさせるからです。逆を言えば、それら全てのポイントを修正して初めて、ボクたちの計画は成功する」

「全部のシンギュラリティポイントを潰し終えたなら、人類滅亡の未来は回避される?」

「ええ、その通りです。幾度も打つことで立ちはだかる壁を壊す。道理ですね」

「計画を、全て遂行する。そうすれば──」

「──?」

 その先の展望、浮かび上がったメッセージをヴィヴィは形にしなかった。

 それを口にすることが、AIの判断として正しいと思えなかったことも一つだが、それを口にすることで、マツモトからどんな反応があるか、それを確かめたくなかった。

 ただ、ヴィヴィはこう続けたかったのだ。

 そうすれば、十五年前に見過ごした赤々としたあの光景が、無意味でなかったと言えるのかと。

「────」

「では、無事にコンセンサスも取れたところで話を進めましょう。今回のシンギュラリティポイントは、前回とはまた違った形で厄介な内容になります。そのために、アナタにはまた遠出してもらうことになりますよ」

「遠出。──次の、目的地は?」

 早口に語り出したマツモトに、ヴィヴィは目的意識に切り替えながら問いかける。それを受け、マツモトはアイカメラの駆動音をさせながら、再びシャッターを半端に閉じた。

 それがヴィヴィには、半眼でこちらを見ているように感じられて──、

「──次の目的地は、宇宙ですよ、ヴィヴィ」

「────」

 ──続いたマツモトの言葉への反応が、一瞬だけ遅れた。

 いささかスケールの大きい話に、ヴィヴィの意識野にわずかな停滞が生まれる。しかし、立て直しにかかる時間は一秒に満たない。

 即座に姿勢を正して、ヴィヴィは美しい眉を顰め、「宇宙?」と聞き返した。

「宇宙で、シンギュラリティポイントに関わる問題が?」

「ええ、発生します。スケールで言えば、おそらく計画上最大と言える問題が。これを防ぐことで、最終目的へと与える影響は非常に大きい。重要課題ですよ」

 マツモトの返答を聞きながら、ヴィヴィは『宇宙』の単語でデータを参照する。

 地球の大気の外にある宇宙、その存在は今の時代、それほど縁遠いものではない。

 数十年前と比べ、人類の科学技術は飛躍的な進歩を遂げた。

 その恩恵を最も強く受けたのはAI研究の発展といわれているが、宇宙開発事業もまた、そうした技術革新の恩恵を大きく受けた分野の一つだ。

 各国が競い合い、国家事業として宇宙開発に躍起になっていた時代は終わった。

 今では多くの民間企業が宇宙事業に参画し、民間人の宇宙旅行も手が出ないほどの夢ではなくなってきている。無論、いまだに恵まれたものが優先される世界ではあるが──、

「──そう遠くない未来、宇宙は限られた人間だけのフロンティアではなくなる。まぁ、そんな時代の到来が予感される頃ではありましたね」

「ずいぶん、意味深な言い方」

「他意はありません。ボクも、必要な情報以外は引き出せないようロックがかかっている立場ですから。ただ、その必要な情報だけで、今回の問題の重大さは十二分に把握できると思いますよ」

 目を細めるヴィヴィにそう応じて、マツモトはカメラのシャッターを閉じた。

 すると、空白の譜面台の一つに一枚の譜面が現れる。仮想空間ならではの特殊な演出だが、その譜面に描かれるのは音階や音符ではなく、映像データだ。

 ──そこに、宇宙空間に浮かび上がる巨大な人工物が映し出されている。

「人類初、宇宙ステーションを利用した大気圏外宿泊施設──宇宙ホテル『デイブレイク』です」

「……名前は知ってる。園内でも、一時話題になっていた……みたい」

 控室の前まで同行してくれた女性スタッフも、一時は話題にしていた記憶がある。

 ただし、それもずいぶんと前の話で。

「ホテルが開業したのは、今から六年前?」

「ですね。当初は敷居の高さや、地上のホテルとあまりにかけ離れた環境であることから運営が不安視されましたが、それを乗り越え、順調に軌道に乗りました。宇宙だけに」

「……続けて」

「反応が悪くて残念。ともあれ、そうして順調に経営が軌道に乗ったデイブレイクなのですが、業績拡大のために二つ目の店舗を出店する計画がありまして。今まさに、その新店のオープニング準備に追われている真っ最中なんですよ」

 譜面の映像が切り替わり、表示されていた『デイブレイク』とは別の宇宙ステーション──同型の、新造宇宙ステーションが映し出される。

 これが、マツモトの説明してくれている宇宙ステーションなのだろう。

「デイブレイクに次ぐ、宇宙ホテル二号店『サンライズ』です。ヴィヴィ、アナタにはこのサンライズの、オープニングAIスタッフとして潜入してもらいたいんですよ」

「……簡単に言ってくれるけど、それは難しい」

 話の流れから、宇宙へ上がる必要があることは十分に想定されていた。しかし、それをした場合、問題になるのはニーアランドでのヴィヴィの活動だ。

 シンギュラリティ計画のために協力するのは現在のヴィヴィの主目的だが、『歴史への影響を最小限にとどめることを優先する』はマツモトの口癖でもある。

 宇宙へ上がれば、最短でも一週間近い拘束時間が発生するはずだ。その間、ニーアランドにはヴィヴィが存在しない、空白の期間が生まれることになる。

 だが、マツモトは「ご心配なく」とヴィヴィの不安を一蹴する。

「すでにボクの手で、アナタのここ一ヶ月の動態ログをかいざんしました。長年の酷使による経年劣化が進んでいて、今すぐにオーバーホールが必要なくたびれ具合ですと、データ上は記録されています。すぐにでも、緊急メンテナンスのために外へ連れ出されますよ。もちろん、オーバーホール中のアナタの公演は全て延期になります。安心してください。公演を目当てにしていた来園客には、しっかりアフターサポートがありますから」

「────」

 あれよあれよと、ヴィヴィが黙っている間にマツモトは準備を進めてしまったらしい。反論の余地なく、経年劣化してボロボロの状態であると濡れ衣を着せられたヴィヴィ。

 正直面白くないが、それをこの未来からきた心ないAIに言っても無意味だろう。

「おやおや、ヴィヴィ、何か問題でも?」

「ロートル呼ばわりはやめて。歌姫のイメージに傷が付くから」

「──はは、了解しました。園内掲示やHPに掲載される謝罪文からは、『ディーヴァ』のイメージが損なわれるような一文が入らないように留意しますよ」

 言っても無意味と思ったが、意外と的確な対応をされてますます不満が募る。

 とにかく、準備がそこまで進められているのなら、ヴィヴィとしてもマツモトの意見に反論する理由はない。すでに、賽は投げられているのだ。

「では、十五年ぶりの活動です。──張り切って、課外活動といきましょうか」

 そのマツモトの宣言に、ヴィヴィは表情を消して立ち上がった。

 普段は右耳に付けた接続端子用のイヤリング、それを左耳へと付け替える。特に機能的な意味はない、無意味な行為ではあった。

 しかし、それをすること自体に、きっとヴィヴィなりの意味があったのだった。



 新造宇宙ステーション『サンライズ』の連絡通路で足を止め、ヴィヴィは窓の外──どこまでも続く暗闇、宇宙空間にそのアイカメラを向け、目を細めた。

「────」

 軌道エレベーターを利用して宇宙空間へ上がるのは、宇宙開発が進んだ今では最も手軽で安価な移動手段だ。軌道エレベーターの到達地点である中継施設を港として、宇宙旅行者の多くはそこから目的地へと宇宙ロケットで移動する。

 ヴィヴィもまた、新造されたサンライズへと運搬ロケットで到着したばかりだ。

 長時間の移動であり、人体であれば結構な負担であったはずだが、幸いにもヴィヴィの駆体には気疲れといった機能はなく、すぐに活動は可能な状態にあった。

 故にこうして、到着した直後の船内案内を受けていたところだったのだが。

「──ヴィヴィ、物珍しい?」

 と、窓の外を眺めるヴィヴィを、前を歩いていた長身の人影が呼んだ。

 艦橋へ向かう途中の通路だった。ホテル用の宇宙ステーションではあるが、さすがに外観を華美に飾り付ける余裕はなく、無骨で洗練された見た目は他の機体と変わらない。その反面か、内装は十二分に趣向を凝らした装飾と展示品で彩られており、足裏には一流ホテルの看板に恥じない赤いじゆうたんが敷き詰められているほどだった。

 ステーション内には疑似重力が発生しているため、体感Gは地球上のそれと同等だ。

 無重力に苦労する必要がないのは利便的であると同時に、遊び心がないとされて宇宙へ上がった実感に欠けるとの意見もあるそうだが。

 ともあれ──、

「ヴィヴィ?」

 考え込むヴィヴィの前で、たおやかな仕草で振り返った金髪の女性が首を傾げる。ふわりと裾丈の長いスカートが揺れ、仕草一つ一つに淑女然とした計算が仕込まれている。

 同業機であるヴィヴィすらも、その駆動には素直な感心と、その動体パターンを自分のルーチンに取り入れるべきだろうと結論が生まれた。

 そうした試算が一瞬で行われる中、ヴィヴィは呼びかけに首を振り、

「ごめんなさい。宇宙は初めてだから」

 内心を誤魔化すような返答だが、あながち全部がまんでもない。

 すでに型番号A−03としてのヴィヴィの運用年数は長く、二十年以上の活動実績がある。当然、その間に蓄積、集積された情報データは膨大で多岐にわたるものだ。

 その中には宇宙に関する情報もあり、人類が有している知識の大半はヴィヴィの擁する陽電子脳内に保存されていると言っても過言ではない。

 それなのに、不思議とヴィヴィの意識野は、暗い宇宙にき付けられた。

「そうよね。みんな、最初はこの光景に驚くの。AIなのに不思議よね」

 言って、金髪の女性AI──エステラがヴィヴィへと微笑みかける。

 AI同士の関係だ。人間と対峙するようなエモーションパターンは本来必要ないはずだが、それでもエステラは人と接するのと同じようにヴィヴィに接する。

 そしてそれはヴィヴィも同じこと、AI同士、理念に従った結果であった。

「他のAIスタッフも、同じ反応をするの? エステラも?」

「ええ、私も。どうしてなのかしらね。疑似重力のおかげで地上と環境は変わらないはずなのに、『違う』という事実がAIの私たちの足を止める。オーナーはこのことを、宇宙の持つ魅力が為せる業だ、なんて仰っていたけれど」

 口元に手を当て、くすくすと笑いながらエステラは応じる。

 自然で、優れたエモーションパターンだ。ヴィヴィのそれも決して劣っているとは思わないが、匹敵するものであると素直に受け取ることができる。

 こうしたエモーションパターンの習熟と発展は、主な活動目的に接客も含まれるAIモデルのヴィヴィたちにとって欠かすことのできないデータ集積に当たる。

 人間は、より人間に近い反応をAIに求める。それが統計的データであり、そうした反応をするAIの方が長く、大切に扱われることも周知の事実だ。

 どんな役割を与えられていようと、ヴィヴィたちAIは人類に奉仕するのが至上目的。そのための試行錯誤は、常に意識野の端に置かれていなければならない。

 そうした意味では、ニーアランドで日々膨大な数の来園者と接し、キャストとして絶大な人気を集める『ディーヴァ』は、最も優れたAIモデルの一つだろう。

『だからこそ、AIモデルとして圧倒的な支持を集めた歌姫シリーズの生産は拡大……シスターズなんて系譜が誕生することになるわけですから』

『……黙って』

 一瞬、エステラの微笑に『れる』に近い動作反応があったヴィヴィ、その意識野に直接響くのは、暗号化された通信で語りかけてくるマツモトだ。

 前回同様、今回も計画への直接的な参加ができない彼は、宇宙へ上がったヴィヴィを遠く、地上からサポートする形で待機している。当然、活動中の言行は全て彼に筒抜けであるので、ヴィヴィとしてはシステムの休まる暇がなかった。

 ともあれ、気になることがあるとすれば──、

『シスターズって、私の後継機のことでしょう?』

『歌姫『ディーヴァ』をファーストモデルとした歌姫シリーズ……とはいえ、目の前のエステラがそうであるように、その役割は歌姫だけに留まりません。それは今後も発売される後継機を見ればおのずとわかることですが……ちなみに、長女として歳の離れた妹を見るのはどんな気分ですか?』

 揶揄するようなマツモトの物言いに、ヴィヴィは眼前のエステラの全身を眺めた。

「──?」

 背丈が高く、胸部とでん、主に女性的な身体的特徴の現れる部分が大きく丸みを帯びている。ヴィヴィと比較するとボディラインのふくよかさは26~7%ほど向上しており、並び立てば頭部パーツの半分ほどはあちらの方が上背があった。

『俗っぽいことを言えば、アナタの方が姉とは考えにくい雰囲気ですね』

『しばらく黙ってて』

 デリカシーに欠けるマツモトの発言に冷たいメッセージを返し、ヴィヴィは首を傾げるエステラに微笑を返した。

 それから直前の会話を振り返り、エステラが口にした単語に目を付ける。

「オーナーは、『デイブレイク』の支配人だった、アッシュ・コービック様のことね」

「そうよ。私の最初のオーナーで、この宇宙ホテルを始めた野心家……なんて言われているけれど、子どもっぽい夢を忘れない冒険家だった人」

 ヴィヴィの問いかけに、眉尻を下げながらエステラが答える。話題に上がった人物、アッシュ・コービックが過去形で語られるのには理由がある。

 人類最初の宇宙ホテルを始めた開拓者、アッシュ・コービックはすでに故人だからだ。

 ホテルの開業は六年前だが、アッシュは事業が軌道に乗り始める直前、三年前に地球上で自動車事故に巻き込まれて事故死している。

 宇宙に焦がれ、夢を追いかけた男の身に起きた悲劇は、一時センセーショナルな話題として世間を騒がせたものだった。その彼の死が切っ掛けとなり、宇宙ホテルに大きな注目が集まったことが経営難の脱出と、今日のサンライズ開業に繫がるのだから、皮肉という他にない。

「支配人であり、オーナーでもあった彼と過ごした年数は驚いてしまうくらい少ない。それでも、私には託された使命がある。こうして『デイブレイク』に続いて『サンライズ』の開業に関われるのは、本当にAI冥利に尽きると思っているわ」

 豊かな胸部に手を当てて、エステラは「だから」と言葉を継ぐと、

「ヴィヴィ、あなたにもしっかりとオープニングスタッフとして頑張ってもらいます。地上で受けた研修とは勝手が違うから、指導AIの私の言葉には従ってね」

「──ええ、任せて。こちらこそ、よろしくお願いします」

「よろしい」

 冗談めかした風に胸を張り、それからエステラが艦内設備の案内を再開する。その後ろにゆったりと、手すりを掴みながらヴィヴィはついていく。

 前を行く背中、穏やかな語り口と表情、それらをメモリーに保存していきながら──、

『──本当に彼女が?』

『ええ、そうですよ。彼女です』

 通信越しのヴィヴィの問いかけ、主語の欠けたその内容に、すぐに返事があった。

 黙っていろと言われたことへの不満もなく、マツモトは淡々と告げる。シンギュラリティ計画へ集中したとき特有の、普段の彼らしからぬ端的さで。

『彼女が、宇宙ステーション『サンライズ』を地上へ墜落させ、数万人の犠牲者を出した『落陽事件』を引き起こす史上最悪のAI、エステラです』



 ──宇宙ステーションの地上への落下により、数万人の死傷者が発生する最悪の宇宙災害。

 通称『落陽事件』の阻止、それが今回のヴィヴィに与えられた任務の内容だ。

『落陽事件は、宇宙ステーション『サンライズ』が突如としてコントロールを失い、制御不能状態のまま地上へ落下、数万人規模の犠牲者を出した最悪の事件です。様々な事件検証の結果、原因はサンライズの制御システムへのアクセス権を持つエステラ──ホテルの支配人業務を担当していた接客用AIによるテロではないかとの推測が』

『AIがテロを? そんなの、現実的じゃない』

 事件の概要を説明され、ヴィヴィは形のいい眉を顰めて反論する。

 自分の後継機と聞かされたエステラ、それを庇い立てするための意見ではない。もっと大きな、AIとしての見地からの意見だ。

 そもそも、AIには原則として、人類に危害を加えられない措置が為されているのだ。

 AIは人の命令に逆らえず、人に危害を加えることはできない。

 原則、これらだけはいずれのAIにも組み込まれた措置であり、これに逆らうことはいかなるAIにとっても不可能であるとされる。

 故に、大勢の人命を損なう可能性のあるテロに、AIが関わることは不可能だ。

『ですが、どんなルールにも例外はある。前回のシンギュラリティポイントで、アナタが相川議員を守るために、襲撃者たちを武力で以て無力化したように』

『──第零原則』

 第零原則、それは三原則の適用対象を人間ではなく、『人類』とした視野へ広げることで優先度を書き換え、個人に対する三原則の適用をじ曲げ、禁止行為さえ実行させる禁じ手だ。

 もっとも、これを盾にすればどんなAIであろうと人間に危害を加えられる──などと、易々と行使できる原則ではない。それこそ、今のヴィヴィのように、人類救済といった途方もない使命を負って初めて可能となるような原則だ。

 それをエステラが──否、テロに加担するAIが行使できるはずがない。

『しかし、事実としてエステラはサンライズを地上へ墜落させた。落下地点から発見された遺留品には、エステラであったはずの部品がいくつも発見されています。また、サンライズの墜落前に避難艇へ乗せられた乗客たちも、実行犯はエステラだったと証言を』

『────』

『その結論に不満があるんですか?』

『ただ、不自然だとそう感じるだけ』

 マツモトが並べ立てる情報は、どれも未来からもたらされた確定情報の数々だ。

 その確度と精密さ、マツモトの優秀さは前回のシンギュラリティポイントでのサポートと、こうしてヴィヴィをサンライズへ潜入させた手際からも疑いようがない。

 すでにヴィヴィはホテル『サンライズ』のオープニングAIスタッフの一体として登録されており、そのことに疑問を抱く存在は人とAIの双方に皆無な状態だった。

 だから当然、マツモトの意見に従い、発生する事件を食い止めるべきなのだが──、

『エステラは、前オーナーであるアッシュ・コービックの命令を遵守している。その彼女がこの宇宙ステーションを、ホテルを地上へ落とすなんて』

『ヴィヴィ、ヴィヴィ、ヴィ~ヴィ~』

 ヴィヴィの思考を遮るように、マツモトの粘着質なメッセージがヴィヴィを呼ぶ。暗号化通信で嫌がらせをする高度な技術の無駄遣い、それをしたマツモトは疑問を抱くヴィヴィに『いいですか?』とあきれ気味に続ける。

『事実は事実である、それを認めてください。アナタが、この短い時間でエステラに対してどんな印象を抱いたかはわかりませんよ。ただ、アナタの推測がどうあれ、エステラはサンライズを地上へ墜落させる。どんな動機か原理か不明でも、確実に』

『……言い切る根拠は』

『ボクが、エステラがサンライズを墜落させた未来からきたからですよ』

 端的に、マツモトはヴィヴィの抱く疑問をバッサリと叩き切る。それを言われてしまえば、ヴィヴィから出せる反論など何の効力も持たない。

 そうして、ヴィヴィが言葉をなくしたのを受けると、

『ですが、事前にこれだけのことがわかっていれば問題はありません。一番の難関と思われた船内への潜入も、ボクと時代の技術格差であっさりとクリア。あとは、シンギュラリティポイントの直接の原因を排除するだけでいい』

『──原因の排除』

『はい。サンライズの墜落、その原因がエステラにあるのが明白な以上──エステラを排除してしまうのが、最も確実で合理的な解決方法ですよ』

 マツモトの冷たい方程式、その説明にヴィヴィは全身の駆動を一度止めた。それからゆっくりと、今のマツモトの発言を反芻する。

 しかし、短いメッセージを何千回と精査しても内容の解釈に変化は生まれない。

『エステラを、排除するの?』

『それが一番確実です。ああ、排除といっても武力で制圧しろだとか、修復不可能なまでに破壊しろだとかそんな無茶は言いませんよ。そんなゴリゴリの暴力沙汰に手を染めなくても済むように、ボクの方であらかじめ手段は用意しておきましたから』

 そうマツモトが言った直後、暗号化通信でヴィヴィにファイルが転送される。受信して中身を確認したところ、異常に複雑なコードで組まれたプログラムファイルだ。

『これは?』

『痕跡を残さず、AIに内蔵されたメモリー、記録情報、その他日常で集積した様々なデータをまつしよう、初期化するウイルスプログラムです。破壊したり、陽電子脳を使い物にならなくするのではなく、フォーマットで済ませるのは人道的見地からも高評価されるべきでは? まぁ、ボクたちAIがAIに対する行いに人道的も何もないんですが』

『────』

『ホテル業務であれば、申し送りのためのデータリンクは頻繁に行われるでしょう? その隙に紛れて、エステラにウイルスを仕込んでください。心配しなくても、エステラ以外には効果がないように組んであります。無事にエステラが初期化されたなら、貨物に紛れて地上へ戻る。あとは仮の身分であるAIスタッフ『ヴィヴィ』の記録を消去して、メンテナンスを終えて復活した歌姫『ディーヴァ』として復帰。それで、シンギュラリティポイントの修正は完了します』

 前回の反省を踏まえてなのか、あるいは前回の活動である程度の信頼を得たのか、マツモトからもたらされる情報が今回は格段に多い。

 修正計画の内容を明かされ、ヴィヴィは自分の左耳のイヤリングに触れた。端末への接続端子である装飾品だが、今はその役割を求めての仕草ではない。ただの、『衝動的』な動きだ。

 エステラの記憶を、データを完全に消去する。

 そうすれば、彼女が未来でサンライズを墜落させるに至った原因は排除される。仮にそれが何らかの思考の結実だとしても、初期化された彼女はその考えに及びようがない。

 マツモトの配慮というべきか、考えにも一理ある。

 ヴィヴィとて、自分の後継機であるエステラを破壊したくはない。陽電子脳を初期化することで個体が残るなら、エステラという存在が消えることは──本当に、そう言えるだろうか?

『……ヴィヴィ?』

「ごめんなさい、マツモト。ホテル業務があるから、一度通信を切るわ」

『ちょ──』

 半ば一方的に、ヴィヴィはマツモトとの通信回線を遮断した。

 そうして認識を現実へ戻せば、マツモトと会話していたのは極々短時間のことだ。しかし、その間、ヴィヴィの活動が止まっていたことは事実。

「……急がないと」


 ──眼前、割り当てられた客室の清掃と点検業務は始められてすらいなかった。



「これは、なかなかの大型新人が入ってきてしまったみたいね」

「……ごめんなさい」

 とは、予定時間を過ぎても戻らなかったヴィヴィと、それを迎えにきた指導AIであるエステラとのやり取りだ。

 現在、二人は宿泊客用の客室の点検と、清掃作業に追われている。本来ならばこの部屋を含め、十五の部屋がヴィヴィの担当だったのだが、マツモトとの長話やヴィヴィ自身の不慣れもあって、その大部分をエステラに手伝わせた形だ。

 オープニングスタッフとして即戦力を期待されていただけに、ヴィヴィのなさはエステラにとって計算違いだったことだろう。

 それはヴィヴィにとっても、ある程度は同じことだった。ニーアランドでの活動もあり、接客業務には自信のあるつもりだったが、客室係がこうも回らないとは。

 無論、そこにはエステラと行動を共にしたい、そんな打算があったのも事実だが。

「基本ルーチンはインストールされているはずだし、地上での研修も受けているのに……ヴィヴィは、ずいぶんと『個性的』なのね」

 苦笑気味のエステラの言葉に、ヴィヴィは眉尻を下げて俯く。

『個性的』とは、AIたちだけに通じる独特のスラング──人間同士で通用するそれとは違った、一種の皮肉に近い物言いだ。

 人間と違い、AIは大量生産が可能で、その造りは本来画一的であるはずだ。

 決められた部品を使い、同じOSを入れて、造りの同じ陽電子脳を搭載し、均一な能力を持つようにAIは生産される。同型であれば、どんな場面でも同じようなパフォーマンスが発揮できる。それがAIに期待される最低限の働きと言える。

 そうした考えが一般的な中、他のAIとは異なる挙動、能力、パフォーマンスを発揮する機体があればどうか。──それを、AIたちは『個性的』と呼ぶのである。

「あ、ごめんなさい。私、また言ってしまったのね」

 しかし、その柔らかな毒を受けたヴィヴィに、当のエステラが口に手を当てて謝罪してきた。

 何事かと彼女を見れば、エステラは「ええと」と言葉を続け、

「私たちにとって、『個性的』があまりいい言葉じゃないのは知っているの。ただ、私にとってはそうじゃなくて……だから、つい口にしてしまうのよね」

「エステラにとっては特別じゃない? ……悪口ではないの?」

「感覚としては、人が人に対して言うような……AIらしくないって怒られてしまうかしら」

 ちろりと舌を模した部位を見せ、エステラが恥ずかしげに頰を染める。そうした仕草の完成度には目を見張るものがあり、ヴィヴィは感心し通しだ。

 これでも、ヴィヴィにはニーアランドの看板であり、AIモデルの花形としての誇りがあった。それが、後継機の優れた機能にことごとく敗北感を味わわされる。

「所詮、私はロートルなのかも……」

「ヴィヴィ、どうしたの? 落ち込んじゃった?」

「反省ルーチンを起動していただけ。それにしても……」

 そこで言葉を切り、ヴィヴィは作業中の部屋の中をぐるりと見回す。

 高級ホテルと銘打ってはいるが、地上と違ってスペースが限られるのが宇宙空間だ。ステーション内には全体で四十ほどの客室があるが、高価な値段に見合った広さがあるとは言えないだろう。その分、環境の特別性で値段を担保するわけだが。

 とはいえ、新造の宇宙ステーションであるサンライズはオープン前であり、点検はともかく、ヴィヴィたちが清掃作業を行う必然性が感じられない業務ではあった。

「どうして、開業前に清掃を?」

「あら、その考えは捨てることね、ヴィヴィ。艦内にはすでに人間のスタッフが入って生活しているし、私たちAIスタッフの衣類もある。部屋には寝具が持ち込まれているから、疑似重力で環境を地上と同じに設定してある艦内には、汚れやほこりが溜まる土壌が出来上がってしまっているの」

 丁寧に言いながら、部屋の隅へと歩み寄ったエステラが床の上を指でこする。すると、白魚のような彼女の指先に、ほんのわずかではあるが黒い汚れが付いた。

 環境は地上と変わらない。それならば、こうして汚れが募るのも道理だ。

「それに、開業後に新しく入ったスタッフの技量を確かめることなんてできないでしょう? ヴィヴィの作業の遅れだって、お客様が入る前だから取り返しもつくけれど」

「反省の意……」

 そう言われるとぐうの音も出ないと、ヴィヴィは壁に手を当てて頭を下げた。

 ニーアランド内で活動するキャストの一体、ヤマアラシをモチーフにしたハリィのお得意のパフォーマンスだ。ヴィヴィはこれでも園内活動も欠かさないキャストであるので、園内で他のキャストと接触するケースも多い。こうした芸風も、一種の勉強だ。

「ふふっ、なぁにそれ。ヴィヴィったら変な子ね」

「仕事のミスをあいきようで取り戻そうと思って」

「あ、イケない子。そんな悪い子には特別な指導が必要ね。さ、次の部屋!」

 胸の前で手を合わせて、室内の点検を終えたエステラが扉へ向かう。自動開閉式の扉が無音でスライドし、二機は揃って客室を出た。

「────」

 隣を歩くエステラ、その横顔を窺い、ヴィヴィは今の業務の間のやり取りを精査する。

 エステラの言動に不審な点はなく、業務としての活動にも一切のよどみは見られない。

 最初の艦内案内で話題に出た通り、彼女は宇宙ホテルの支配人としての役割に誇りを持ち、十全に仕事に打ち込んでいる様子だ。

 ますます、マツモトの語った『落陽事件』の原因、その印象とは遠ざかる。

 未来の記録では、サンライズから避難した乗客たちは、エステラが宇宙ステーションを墜落させたと証言したそうだが、本当にそうなのだろうか。


 ──彼女は、ホテル業務を使命と考え、受け止めている。

 ──それは、『歌姫』であるヴィヴィの、『歌』への想いと何も変わらないものだ。


 それを疑わなければならない状況が、どうにもヴィヴィにはに落ちなかった。

 そして、その不自然が是正されない限りは──、

「これを、エステラに使うつもりはない」


 ──左耳のイヤリングに触れて、ヴィヴィは誰に聞こえるはずもない呟きを、自分に言い聞かせるように呟いたのだった。