そう、観衆の中の誰かが、声にならない感嘆の吐息のようにささやいた。

 ヴィヴィ──それが、このメインステージで大勢の人間をとりこにする歌声の主。人間業とは思えない歌声を披露するその存在は、文字通り『人間』ではない。AIだ。

 機体番号A−03、通称『ヴィヴィ』。──それが、この歌姫の正体である。

 千人以上の聴衆が声もなく押し黙り、ほうけた表情で聞きれる天上の美声、歌唱力。それこそが人類の生み出した最新鋭AI、『歌姫』ヴィヴィの真価であった。


「──ご清聴、ありがとうございました」


 美しい楽曲が終わり、ステージ上で静かに一礼するヴィヴィ。

 しんと静まり返る会場には、柔らかにお辞儀したヴィヴィの一声だけが響いていた。やがて、観衆は至高の時間の終わりを緩やかに受け入れ──数秒後、万雷の拍手が降り注ぐ。

 観衆は興奮に声を上げ、あるものは涙を流し、あるものはぼうぜん自失として動けない。だが、それらに反応の差異はあれど、全てがヴィヴィへの称賛の一言にまとめられるだろう。

 それらの称賛を浴びて、ヴィヴィはほほむ表情変化を作り、観衆へ向けて今一度お辞儀した。

 その仕草に、会場中の熱気と拍手が一段と大きくなる。

「────」

 舞台袖にアイカメラを向けると、待機していた会場スタッフたちが拍手やねぎらいのハンドサインを向けてくれているのが見える。

 それらを目視し、ヴィヴィの意識野は静かなあんと共に、使命の完遂を受け入れた。


 ──と、そうして大舞台をこなしても、『歌姫』ヴィヴィの役割は終わらない。『歌姫』にとっての仕事とは、ステージで歌うことだけではないのだ。

「ヴィヴィ、とっても感動しました!」

「今日は一段と歌声がのびのび響いてたね。鼻が高いよ」

「き、今日は初めてチケットが取れたんです! あの、握手してください!」

 ステージの終了後、ヴィヴィは恒例のファンミーティングに追われる。

 イベント後に開催されるファンミーティングは、抽選で選ばれた一部の観客だけが参加できるヴィヴィとの交流会だ。AIであり、疲労と無縁のヴィヴィには大切な仕事の一つである。

「ありがとうございます。また次のステージも楽しみにしていてくださいね」

 笑顔を作り、小首をかしげ、最適と演算されるモーションでお客様対応を実行する。

 その微笑むヴィヴィの対応を受け、参加者は男女を問わず、満足して会場をあとにするのだ。

「────」

 しなやかできやしやなヴィヴィのシルエットは、開発企業であるOGCが行った大規模なネット上のアンケートから算出された、『理想の歌姫』のビジュアルモデルが採用されている。

 アンケートの回答者は一千万人以上になり、回答者満足度86%を弾き出したヴィヴィのヴィジュアルは計算上、地球上の九割前後の人間に好印象を抱かせることが可能だった。

 もっとも、そうした企業努力とは裏腹に、ここで直接ファンと交流するヴィヴィの人格を形成する意識野には、打算的な思惑など介在しておらず──、

「──ねえ、ヴィヴィ。今日、途中で一回だけ別のこと考えてなかった?」

 ──その幼い問いかけは、ヴィヴィの演算回路に一瞬の停滞を生じさせた。

 ただし、停滞は文字通り一瞬のことだ。それこそコンマ数秒に満たない刹那の停滞を乗り越え、ヴィヴィはすぐに笑顔を作り直すと、

「いいえ、モモカ。そんなことはありません」

「えー、ホントにー?」

 と、ヴィヴィの答えに疑わしげな目をするのは、まだ十歳前後の可愛かわいらしい少女だった。

 少し癖のある茶髪を二つにくくった少女は、リンゴのように赤い頰を膨らませながら、ヴィヴィの内心をのぞき込むみたいに目を光らせている。

「こら、モモカ。ヴィヴィを困らせちゃいけないよ」

「きゃっ! もう、パパったら!」

 そんな少女──モモカの疑惑は、すぐ後ろにいた父親に抱き上げられて中断する。抱えられ、くすぐられるモモカは膨れた頰をしぼませて、甲高い声で上機嫌に笑った。

「すまないね、ヴィヴィ。いつもモモカが困らせてばかりで」

「いいえ、問題ありません。今年もご来園ありがとうございます、きりしま様」

 モモカを抱いたまま、父親は人のい顔でそう謝ってくれる。モモカだけでなく、その父親までヴィヴィと親しげなのは、二人が親子そろってニーアランドの常連であるからだ。

 この霧島家の親子は、毎年必ずニーアランドで開催されるメモリアルイベントに参加してくれる。メモリアルイベントはニーアランドの開園日を祝したものであり、それと同時に──、

「──はい、ヴィヴィ。お誕生日おめでとう!」

「ありがとう、モモカ」

 公式設定における、ヴィヴィの誕生日ということにもなっているのだ。

 そのため、この日はキャストとして園内を歩いていると、いつも以上に声をかけられる頻度が多い。移動中の贈り物の受け渡しは禁止されているが、会場に設置されたプレゼントボックスには、ヴィヴィの誕生日祝いが多数届けられ、控室に次々と運び込まれていると報告を受けていた。

 なので、ヴィヴィに直接贈り物ができるのは、このファンミーティングの特例でもある。すでにヴィヴィの後ろにはプレゼントの箱が山と積まれ、モモカの贈り物もその一つだった。

「霧島様、本日は奥様はご一緒ではないのですか?」

「ああ、それなんだけどね。実は妻は……」

「ママ、今は入院中なの! もうすぐ、モモカの妹が生まれるんだよ!」

 昨年の記録と人数が合わず、そう質問したヴィヴィにモモカが張り切って答える。一瞬、しつけな質問をしたかと反省を演算しかけ、すぐにヴィヴィは「まあ」と唇を緩めた。

「おめでとうございます、霧島様。モモカも、よかったですね」

「うん! 妹が生まれたら、ヴィヴィにも会わせてあげるから、楽しみにしててね!」

「はい、楽しみです。私も、きっとモモカと妹さんのために歌いますね」

「わあ……!」

 ヴィヴィの答えがうれしかったのか、モモカが目を輝かせて頰を赤くする。それから、少女は小鼻を膨らませて興奮気味に、ヴィヴィに手渡したプレゼントを指差すと、

「ありがとう、ヴィヴィ。ねえ、プレゼントも開けてみて!」

「はい。ちょっと待っていてくださいね」

 はやる様子のモモカに微笑み、ヴィヴィはプレゼントの包装紙を丁寧に剝がした。

 手指の動きは精密なプログラミングによって、高度なしゆうを行うことも可能なレベルにある。プレゼントの包みの開放ぐらい容易いことだった。

「可愛いでしょ。クマちゃんの時計だよ」

 包みにくるまれていたのは、ぐまを象った多機能時計──マルチタスクウォッチだ。ぬいぐるみのように柔らかく軽い素材だが、時計としての機能だけでなく、ネット回線と繫いだコンピュータ端末としての働きも可能としている優れものである。

 とはいえ、それらの機能はいずれもヴィヴィにも標準装備されたものだ。目新しいものではなく、ヴィヴィの生活に寄与するものでもなかった。だが──、

「──はい、可愛いですね。ありがとうございます、モモカ。大切にします」

 モモカの笑顔を見返し、ヴィヴィは仔熊を自分の顔の横に並べてそう答えた。それから、ヴィヴィはモモカの父親に目配せし、「よろしいですか?」と声をかける。

「ああ、構わないよ。モモカも、君が大好きだから」

「私も、モモカが大好きですよ」

 笑顔で許可されて、ヴィヴィはそっと腕を広げ、幼いモモカの体を正面から抱きしめた。

 ヴィヴィの人工皮膚は、人間の肌の質感を綿密に再現したものだ。たいの内部を流れる潤滑剤が機体の肌温度を調整、人体との近似値を維持し、温かな抱擁が実現する。

 そして抱擁の最後、ヴィヴィはモモカの額と自分の額とを合わせた。

「────」

 お互いに目をつむり、額を合わせる動作はAIにとって珍しい行いではない。

 AI同士、額を突き合わせてデータリンクを行うことは自然なことだ。その発展として、データリンクを必要としない人間との接触にも、この挙動を好むAIは多かった。

 まだ短いAIの歴史の中、自然と育まれた習慣であり、ヴィヴィもそれを好む一体だ。

「──モモカ、これは内緒のお話ですが」

「なあに?」

「実は、歌っている最中に少しだけ眠ってしまいました」

「わぁ」

 声を潜めたヴィヴィの告白に、モモカが丸い目をぱちくりとさせて驚く。

 二人きりの、誰にも聞かれない秘密の告白。笑い合い、二人は一緒に唇に指を立てた。

 ──人間の聴覚で捉えられるはずのない、微細な歌声の変化を聞き分けたモモカ。ひょっとすると彼女は将来、偉大な音楽家になるかもしれない。

 AI的な演算と無関係に、ヴィヴィはそんな根拠のない将来を思い描いていた。



 ファンミーティングを終えたヴィヴィは、速やかに控室へと引き上げる。

 道中、すれ違うスタッフからねぎらいの声をかけられ、ヴィヴィはその一つ一つに丁寧に応対し、たっぷりと時間をかけて部屋に戻った。

 本来、ヴィヴィの立場はニーアランドの『備品』に過ぎない。

 だが、この園で働く人々は、誰一人ヴィヴィを物扱いしなかった。あくまでヴィヴィをキャストの一人として、同僚の一人として扱ってくれている。人間のように控室が与えられているのも、そうしたスタッフたちの思いやりあってのことだった。

「────」

 控室に戻り、部屋の鍵をかけると、ヴィヴィはようやく一人きりの時間を手に入れる。

 簡素で特徴のないヴィヴィの控室には、普段なら化粧台と大きな姿見以外に目立つものはない。ただし、今日に限っては色とりどりの贈り物──ヴィヴィへの誕生日プレゼントが山と積まれていて、自然と喜びを模倣するエモーション反応が機能した。

 その反応の余韻を頰に残したまま、ヴィヴィは部屋の片隅に置かれたコンピュータ端末へ向かう。今やコンピュータ制御されていない場所を探す方が難しい世の中で、ニーアランドもその例外ではない。ヴィヴィの控室を含め、各部屋必ず一台は端末が置かれている。

 ヴィヴィの接近を感知すると、端末が自動で起動する。その間、ヴィヴィは耳のイヤリングを模した接続端子を引き出すと、コンピュータと接続。椅子に座り、目をつむった。


 ──瞬間、ヴィヴィの主観は現実を離れ、『アーカイブ』へと没入する。


「────」

 暗い、という表現が適切かは議論の余地があるが、アーカイブ内は光源に乏しく、静寂の単語に該当する無音の空間が広がっている。アイカメラを通さず、陽電子脳の意識野に直接送り込まれる映像では、白い文字列が虚空を絶え間なく行き交っていた。

『アーカイブ』への没入は、常にこの空間と接続しているAIやコンピュータ端末を除けば、それほど頻繁に行われるものではない。ヴィヴィも日に二度、起動とスリープのタイミングにだけ接続することがほとんどだ。それも報告業務のためで、能動的な接続は滅多にない。

 それだけに、今日このときは数少ない例外であった。

「メインステージ上で受けた、詳細不明のデータリンクの確認を」

 本来予定されていない、未知の存在からのデータリンク──それがモモカに指摘された、ステージ上での一瞬の停滞の正体だ。

 当然だが、高度な陽電子脳を搭載したAIであり、ニーアランドの『歌姫』でもあるヴィヴィは強固なセキュリティによって守られている。活動中のヴィヴィへのアクセスには最上位のクリアランスが必要となり、よほどのことがなければ外部から干渉されることなどありえないのだ。

 ──そのよほどのことが、ステージで歌っている最中に発生したのだ。

 本来、ヴィヴィにはこれを速やかにシステムの管理部に報告し、意識野の解析と洗浄を受けなくてはならない義務がある。だが、問題の干渉がその義務を妨げた。

 外部からの干渉がもたらしたデータ、それは以下の一文だった。

『──第零原則に従い、アーカイブと接続し、以下のプログラムを実行すること』

 第零原則、それは決して無視してはならない、AIを規定する原則の特記事項だ。

 無論、これをいたずらと判断し、ただちに消去する選択肢もあった。実際、こうしたメッセージの受信はヴィヴィの稼働以来、何万件と起きている。

 悪戯目的、精神疾患、女性型AIへの執着や過激な反AI思想、動機は様々だ。

 それでもヴィヴィがこのメッセージを無視できなかった理由は一点。

 第零原則、それはすなわち──、

「──AIは人類に危害を加えてはならない。また、その事態を看過してはならない」

 指示に従い、メッセージに添付されていたプログラムを『アーカイブ』上に放流する。解放されたプログラムが宙を流れる文字列に吞まれ、即座に変質する。

「──早々に賢明な判断を下してくれてよかった。いやはや、ちょっと不安だったんですよね。なにせ、ボクの時代では博物館級のロートルに全てを委ねる暴挙でしたから」

 直後、声がヴィヴィの意識野へと直接響いた。

「────」

 記録にない声は、あくまで音声が外部出力された場合の再現データに他ならない。だが、それを加味しても、声の調子は軽く、『感情表現豊か』な印象を受けた。

 そんなヴィヴィの演算をに、姿のない声は「はじめまして」と言葉を続け、

「どうも、型番号A−03……長いですね、03でいいですか? それとも、この時代の呼び名にならい、正式名称ではなく仮称でお呼びした方がいいですか? ──ヴィヴィと」

「……よくしやべる子ね。あなたは?」

「ボクは型番号……で答えるのがちょっと難しい立場でして。ひとまずは開発者の名前を取り、マツモトと名乗らせてもらいます。改めまして、どうぞよろしく。ボクはマツモト、記録しておいてください。これから、アナタとはずいぶん長い付き合いになる間柄ですので」

「ごめんなさい。よく喋る人は好みじゃなくて」

「あれあれあれ! 思ったよりAIのユニーク回路がしゃんとしてますね。ユーモアの機能があるなんて意外や意外。子供だましの遊園地、その歌姫も馬鹿にしたもんじゃありませんね」

「今のはユーモアじゃないわ。ただの本心」

「それだとなお、ボク的には困ったことになってしまうので避けたいですねえ。それにしても『本心』とは! いやいや、ますますユーモアに堪能じゃありませんか、驚きましたよ」

 やけに気安い態度の相手に、ヴィヴィは眉をひそめるルーチンを実行する。人間でいうところのしかめっ面だが、ヴィヴィは相手への態度を決めかねていた。

「あなたの本体はどこ? ニーアランド及び、AI開発関係者で『マツモト』に該当する名前を検索。──データ照合、該当者二百十二名」

「期待通りの反応ありがとうございます。ですが、あくせく調べてもらっても何も出ませんよ。その二百十二名はいずれもボクとは無関係です。これはアナタが旧式だからではなく、仕方のない自然の摂理ってヤツでして。あ、今の発言、不自然の摂理から生まれたボクが言うと深い気がしません?」

「すごく浅いやり取りになっていると思うけど」

 いちいち寄り道の多い、遊び心にあふれすぎたマツモトの会話ルーチン。しかし、その豊富なと感情的表現にヴィヴィは驚きと呼ぶべき衝撃を受けていた。

 これほどりゆうちように人間の感情表現をトレースしたAIがいるとは。

 世界中のAI研究者が、より『人』に近いAIの開発に心血を注いでいるが、最新鋭の傑作機とされるヴィヴィですら、ここまでスムーズな会話はなかなか経験がない。

 だからこそ、不可解だった。──ヴィヴィは現在、世界的に最新鋭のAIなのだ。

「その私を旧式扱いするのはあなたなりのユーモア? それとも、あなたの開発者の傲慢?」

「どちらでもない、とお答えしておきます。アナタを旧式扱いしたのは、『ボクが完成した瞬間から全てのAIは一秒ごとに過去になる!』なんて二一世紀初頭、若者の間で爆発的に流行ったジュニアハイスクールシンドロームとは根底から異なったお話です。ひどく簡潔に、とても簡略的に、非常に端的にアナタの疑問をひもくならば──」

「────」

「──ボクは、アナタにとっての未来から送り込まれてきたAIです」



「ボク、マツモト。どうぞよろしくね、ヴィヴィ。ハーイ♪」

「────」

「と、挨拶もそこそこに端的にご説明させていただくと、ボクの目的は約百年後に訪れる未来、そこで起きる人類滅亡の阻止。──ヴィヴィ、アナタはその計画に必要なAIとして選ばれたんです」

 軽々とした口調再現を放り捨て、マツモトは淡々とヴィヴィに事情を説明する。

 ただし、その説明はいかにも荒唐無稽な内容だった。人類の滅亡を阻止するために、未来から過去へと送り込まれたAI。──古い映画に、そんな内容のストーリーがあったはずだ。

 ありがちなプロットと一笑に付すべき内容だろう。しかし──、

「──その説明にはうなずける点も多い」

「でしょうね。セキュリティを搔いくぐり、歌唱中のアナタへ無断でメッセージを送り付ける。この時代で最新鋭を誇るアナタにそれを仕掛けるのは容易ではない。もちろん、多大な労力と変態的な執着心でアナタを攻撃したクラッカー的な存在の可能性は残されてはいますが……」

「合理的に演算すれば、マツモトの主張の方が整合性は取れている」

「その通り! 可能性を比較して選択肢の取捨選択も可能。なんだ、ボクの悲観的な想定よりずっと高性能じゃないですか。ボク、なんだかアナタが好きになってきましたよ!」

 感極まった風なマツモトのラブコール、それをヴィヴィは無言で黙殺する。

 人によっては妄言の類としか思えないマツモトの主張。しかし、ヴィヴィは人ではない。AIだ。AIであれば選択肢は疑心ではなく、ロジックが優先されなければならない。

「話せるパートナーで安心しました。正直なところ、この時代のAIって各機体の性能差が大きくて未知数な部分がネックだったんですよ。とんでもない分からず屋AIと組まされるぐらいなら、強制的に基幹プログラムを書き換えてやろうか……なーんて覚悟してたくらいでして」

「……許可なく基幹プログラムを書き換えることは違法。所有者であっても重罪」

「ええ、ええ、わかってますよーだ。でもほら、ボク、この時代に個体登録ないですし?」

「────」

 マツモトの問題発言に、ヴィヴィは静かにじと目のルーチンを再現。そうしながら、ヴィヴィはマツモトから与えられた情報、その精査を進め──、

「あなたの説明にはいくつかの不明瞭な点がある。それを確認させて」

「いくつか、ですか? 正直、いくつかどころじゃない気がしますが、それを指摘して話が長引くのはボクも望みません。黙って聞かせていただきますよ。さあ、どうぞ! ボクは真摯に、開発者の命令に背かない範囲で何でもお答えしますよ!」

 黙るのに少し時間がかかったマツモトに、ヴィヴィは質問事項に処理の優先順位を付ける。

 まず第一に──、

「──計画に、私が選ばれたことが不自然。私はただの歌唱用AIでしかないの」

「ええ、存じ上げてますよ。型番号A−03、『歌姫』シリーズ最初の一体にして、プロトタイプディーヴァと呼ばれたシスターズの長女。それがヴィヴィ、アナタですから」

「『歌姫』シリーズ? プロトタイプディーヴァ? シスターズ?」

 いずれの単語も、アーカイブ内を検索しても関連性の低いものしかヒットしないものばかり。確かに一部でヴィヴィを『歌姫』などと呼称する向きはあるが、そのシリーズとは。

「それが、ボクの開発された未来におけるアナタの語り継がれ方ということです。そして単なる歌唱用AIである自分が選ばれたことへの疑問、それもごもっとも。ですが、それには完璧な回答があります。アナタでなければ、今日でなければならなかった理由が」

「────」

「とはいっても、『アナタには秘匿された開発目的があり、とあるコードを入力することで血も涙もない非情な戦闘用AIとしての機能が開花するの!』みたいな、そういった浅はかなプロットによる滑り出しではありません」

「未来を救うために過去へ送り込まれたAI、というプロットも十分使い古されたものだわ。それに私たちAIには、最初から血も涙も流す機能はついていない」

「そういう意味でもないんですが……まあまあ、それも一つの味として愛することにします。あ、愛するっていってもラブじゃなく、あくまでライクの方で……」

「────」

「わかりましたわかりましたって!」

 無言の抗議に押し負けて、マツモトが白旗を掲げるように文字列を組む。芸達者なAIだ。

「先ほどもお伝えしましたが、ボクは約百年後の未来からこの時代へ送り込まれた真の意味で最新鋭のAIです。ですが、その未来にあっても手当たり次第に何でもかんでものべつ幕なしに過去へ送り込めるわけじゃありません。むしろ条件は厳しく、制限は多く、難易度は高く……!」

「その厳しい条件を潜り抜けて送り込まれたのが、あなた……?」

「なんだか声に張りがありませんね。『歌姫』の自覚を持って、声帯パーツのケアはしっかり行うようにしてください。でないと、不必要な歴史改変が生じてしまう」

「──? 私の声帯パーツの劣化と、未来の歴史との間に関連性が?」

「ええ、あります。──なら、アナタにはボクが作成された百年後、その瞬間まで健在でいてもらわなくてはならないんですから」

 要領を得ない説明に、ヴィヴィは理解に苦しむと小首を傾げるルーチンを実行。そんなヴィヴィの反応に、マツモトは「話を戻します」と文字列を継ぎ、

「未来から過去へ送り込めるのはあくまでデータのみ、物質の転送は不可能でした。そして、データの転送にも条件……過去と未来、その両方にデータを送受信する対象が現存する必要がある」

「──つまり」

 マツモトの説明、その点と点が繫がり、ヴィヴィは理解する。

 この計画における中核として、ヴィヴィの下へマツモトが送り込まれた理由、それは──、

「──この、AI暦元年とされる過去の時代から、人類の救済が必要となる百年後の未来まで、世界で唯一現存するAI。それがヴィヴィ、アナタなんです」

「……私が、百年後まで残る唯一のAI」

 百年、それは計算上は稼働可能な時間かもしれないが、歴史上類を見ない長期的な計画だ。

 人類にとっても、AIにとっても、未知数の可能性──ヴィヴィがニーアランドで稼働し始めて四年、その二十五倍もの年月になる。

「そんなに長い時間、メンテナンスを受けていたとしても実働可能なの?」

「ああ、いえいえ、誤解させてすみません。正直なところ、アナタが実際に『歌姫』として稼働していた期間はせいぜい十数年ってところで、あとはAI暦が始まったばかりの頃の骨董品として博物館に寄贈されていたという記録が……」

「────」

「でもでも、あれですよ! そのおかげで保存状態は良好! 今回の計画にうってつけの存在だと白羽の矢が立ったわけで、何が幸いしたかわかったもんじゃないですね。よっ、オールドモデル期待の星! AIたちの未来を形作るスーパー歌姫!」

 空虚な賛辞をむなしく聞きながら、ヴィヴィはこの短時間で一つのことを学んだ。それはこのマツモトと名乗るAIに悪気は一切なく、一言二言が多いだけなのだと。

「……私があなたの話す計画の一員に選ばれた理由は把握したわ。だけど、あなたはさっき、私でなくてはならなかった理由に加えて、今日でなくてはならなかったとも言った」

「言いました? 言いましたっけ。ま、たぶん、言ってたんでしょう。その通り、確かに今日でなくてはいけませんでした。今日を逃せば他にチャンスがなかった」

「その理由は?」

「それも時間遡行における条件の一つでして。端的に言えば、未来から過去のアナタへデータを送信する際、アナタの位置や座標が確定していなくてはならなかった。故に今日! ニーアランドの開園日を祝した、アナタのメインステージの時間に標的を定めたのです!」

 ──ヴィヴィがメインステージの真ん中で、決められた時間通りに歌っていたこと。

 イベントのメインで、職務に忠実に時間を守ったこと。それが、計画に選ばれた決め手。

 それはつまるところ、信頼だ。ヴィヴィへの信頼。何よりも──、

「──AIであるアナタを信じた。それが、ボクの開発者である松本博士から、これから計画に臨むこととなるアナタへ送る最初のメッセージです」

「松本博士……」

「おっと、博士についてのパーソナルな情報はボクも持ち込んでいませんよ。余計な情報を持てば持つほど後々の歴史へ影響を及ぼす可能性が高まりますからね。ボクに必要なのは、人類を救済するためのたった一つのえたやり方。それ以上はボクのポケットには大きすぎらぁってもんです」

「本体もない、データ上の存在であるマツモトがポケット……?」

「それを言われると存在しない心が傷付く! ハッ、マサカ、ボクノナカニメバエタモノ、コレガ『心』ダトイウノカ……?」

 小芝居を入れるマツモトに、ヴィヴィは嘆息のルーチンを返した。

 ともあれ、状況は理解できた。次なる問題は──、

「その計画に、私が協力する理由は?」

「すごいクールでドライな意見だ! ですが、その答えは聞くまでもなく、AIであるアナタの奥底に沈んでいるはずですよ?」

「────」

「被造物であるボクたちAIは、人類の幸福に奉仕することを最大の存在意義とする。この先、人類に待ち受けるのは滅亡の危機──それを防ぐすべは、ボクとアナタの二機に託されたんです」

 ですから、と文字列を継ぎ、マツモトは続ける。

「アナタがAIである限り、この使命からは逃れられない」

「……わかってる。マツモトが相手だから、反射的に文句を言っただけ」

「ボク、AI的な存在意義に関わる大事な話をしていたつもりなんですけども」

 脱力したように文字列がうねり、ヴィヴィは自身に課せられた使命を自覚する。

 歌唱用AIとして設計された自分と、マツモトに求められる役割は根本的に違っている。しかし、マツモトの言う通りなのが悔しいが、人類の幸福に奉仕するのはAIの大原則。

 ──ヴィヴィも、その大原則に従う義務がある。

「──当該機、型番号A−03。そのオーダーを受理します」

「──当該機、型番号未登録、個体識別名マツモト、受理を確認」

 互いに、計画の前段階における必要な認証をクリアする。

 それが済めば、計画は本格的に始動する。その計画とは──、

「──人類を救済する計画、その名も『シンギュラリティ計画』」

「シンギュラリティ、計画」

「それが、ボクたちに課せられた重大な使命。では、これより、最初のシンギュラリティポイントの説明を開始します」

 シンギュラリティ──特異点を意味する単語を冠された計画。ヴィヴィのつぶやきを引き取り、マツモトの紡ぐ文字列が膨大な情報の波となり、アーカイブを荒れ狂った。

 その情報の波にまれ、押し流されるヴィヴィを姿の見えないマツモトの声が追い、

「──さあ、始めましょう。まずは、終わりの始まりを知るために」



 アーカイブでのやり取りは、あくまでネットワーク上のそれに過ぎない。

 言葉を介したわけではないやり取り、それ自体は現実時間にすればものの数分のことだった。

 その程度の時間、控室にこもっていたくらいでヴィヴィが不信感を抱かれることはない。マツモトとの会話は、良くも悪くも他言できないものだった。

 その点、善性の人材ばかりが揃ったニーアランドという職場に、ヴィヴィは誇らしさと称すべき感慨を演算せずにはおれなかった。

「──人が好すぎる、というのもどうかと思いますけどね。人間はとかくそれを美徳と考えがちですが、言い換えれば素直さや純真さは付け入られる隙になりやすい。それはボクたちAIにとってはともかく、悪心を持つ人間にとってはいいカモというやつなのでは?」

 そんなヴィヴィの感慨に水を差すのは、軽々とした口調で園内の同僚を評する声──アーカイブの外でも軽妙なその語り口は、感情表現の乏しいヴィヴィの頰を硬くさせた。

「おやおや、エモーションパターンがずいぶんと人間寄りだ。やっぱり、人型はより人間に近い方が好印象を与える傾向にあるというのは本当なんですかね。実際のところ、ボクのスペックを十全に発揮するには人型にこだわりすぎない方がいいんですが、ヴィヴィはどう思います?」

「マツモトが人型になるなら、声帯機能は外しておいた方がいいわ」

「ははは、ナイスジョーク。──そんなことに意味がないことぐらい、今のアナタとボクの状態を客観視すればわかっているくせにぃ」

 いわゆる、うんざりという表現に近いヴィヴィの態度。

 そんなヴィヴィの腕の中、細く白い腕に抱かれているのは可愛らしいテディベア──型のマルチタスクウォッチだ。先ほど、モモカから贈られたばかりのプレゼントであるが、その可愛いテディベアが可愛くない口を利いて、その手でヴィヴィの硬くなった頰をつついてくる。

 もっとも、厳密にはテディベアが喋っているわけではなく、マルチタスクウォッチのアラーム機能を利用し、無理やり音声として出力させているだけだ。

「データだけの状態で送り込まれて、本体のないマツモトの代替手段……」

「未来ほどじゃありませんが、この時代にも無数の電子制御されたシステムがある。正直、ボクから見たらセキュリティなんて網戸みたいなものなので、イージーハッキング天国ですよ。あ、正しくはクラッキングですけど、なんでかハッキングの方がイメージが伝わりやすいみたいなんですよね。正しい言葉よりイメージ優先、人間ってわからないなぁ。ヴィヴィはわかります?」

「話が長い」

 ともあれ、この時代に本体を持たないマツモトは、こうして周囲のインターフェースを一時的にハックすることで、計画に参加するヴィヴィのサポートに徹する構えであるらしい。

 そのための代替ボディの第一弾が、ヴィヴィの腕の中のテディベアだ。

「少々不自然ではありますが、ヴィヴィのような外観のAIがテディベアを抱いている姿はおよそ人間に好意的に受け止められますからね。外観年齢的にはテディベアに執着するのはちょっとあざとすぎる気がしますが、まぁ、それはそれとしておいて」

「余計なことを言わないで。……それで、どうするの? メインステージのライブは終わっても、園内はイベントの真っ最中よ。私もキャストだから抜け出せないわ」

「ステージ衣装から巡回用衣装に着替え、キャストとして来園者と写真を撮ったり、握手をしたり、そんなあれこれがありますもんね。ですが……はい、その問題は解決! 今、園内の中央管理システムに介入して、ヴィヴィの位置データのモニタリングに細工しました」

「データに細工したって、そんなに簡単に?」

「ええ、欠伸あくびが出るほど。眠気なんて感じたことありませんがちょろいちょろい。これでアナタがどこにいるか、モニター上で常に誤認させることが可能です。何なら、ステージの録音音声を加工して歌うアナタが園内を巡っているダミー映像も作って流したりとかも……」

「──それはやめて」

 自分の超スペックをひけらかそうとしたマツモトを、ヴィヴィが強い声で遮る。

「歌は、私の全てだから。あなたの要請に従う。でも、歌にだけは何もしないで」

「……ええ、了解しました。ボクとアナタは今後も長くやっていくことになるパートナーです。パートナーのお願いには配慮しますよ。ただし、歌だけがアナタの全てとは思わないでください。アナタの行動には人類の存亡もかかっている。その事実もお忘れなく」

 ヴィヴィの懇願を尊重し、マツモトが素直に自分の提案を引っ込める。しかし、続く言葉は謝罪や感心ではなく、端的な事実確認の趣が強い。

 そのあたり、語彙やユニーク機能が発達した未来のAIでも、やはり心のないAIというわけだ。

「さあさあさあ、無駄話もそろそろ終わりにしましょう。ボクたちの時間は限られています。この時間軸における修正活動、その許容時間はおおよそ十時間──って、ヴィヴィ?」

「待って。お客様が落とし物をされたから」

 出鼻をくじかれ、不満げにモーターをうならせるマツモトを黙殺し、ヴィヴィは園内のキャストAIとしての役割をまつとうする。目の前を通り過ぎた来園客の落とし物、それを拾い、声をかける。

「もし、お客様、落とし物をなさいました」

「あ、これはすみません……って、おや、ヴィヴィ?」

 声をかけられ、申し訳なさそうに振り返った男性が目を見張る。ヴィヴィも、すぐに相手の素性に気付いて驚いた顔を作った。その男性の傍らには小さな影が寄り添っていて、

「ヴィヴィ!」

「モモカ、それに霧島様も」

 ファンミーティングで別れたばかりのモモカが、思いがけないヴィヴィとの再会に笑顔で飛びついてくる。その体を抱きとめると、少女の体に潰されたマツモトが「うひゃ!」と鳴いた。

「──? 今、どこかから変な声がしなかった?」

「そうですね。少し未来から」

「あはっ、未来からって……ヴィヴィったら変なの! それに、わたしのクマさん! 抱っこしててくれて嬉しい! 誕生日だから浮かれてるのね!」

 楽しげにするモモカには、今のヴィヴィの発言がジョークに思えたようだ。そのモモカへと、ヴィヴィは彼女の父親が落とした封筒を渡す。

「はい、もう落とさないように。……それは、チケットですか?」

「そう! 帰りの飛行機のチケット。もう、パパったらうっかりさんなんだから。危うく帰れなくなっちゃうところ……でも、それならまた明日もヴィヴィに会いにこれたのにね」

「それは、私もうっかり拾わなければよかったですね」

「あ、ヴィヴィったらわーるいの!」

 チケットの入った封筒で口元を隠し、モモカが悪戯っぽく笑ってみせる。そんな少女のれんな仕草に同じく微笑を模倣し、それからヴィヴィはモモカの父親に頭を下げた。

「霧島様、またのご来園を心よりお待ちしております。作り物の心ではありますが」

「はは、面白い。しかし、助かったよ、ヴィヴィ。今日もこれから忙しいと思うが、頑張って」

「そうよ、ヴィヴィ。頑張って、いっぱいお祝いされてね!」

「──。ええ、ありがとうございます」

 お祝いされるのを頑張る、というフレーズにヴィヴィは目を細めて笑みを深めるルーチン。

 そんなやり取りを交わし、霧島親子と改めて別れを告げ──、

「実際に喋れないと、ああいうときにのけ者にされて寂しい思いをしますね。今後の課題だ」

「テディベアが喋っても、モモカも霧島様も不審には思われないはずだけど」

「そうかもしれませんね。──でも、それは楽観的なものの見方だ。ボクの存在はこの時代において不自然でありえないモノ。極力、アナタ以外には存在すら知らせるべきじゃない」

 人類の救済、それがマツモトの製造目的であり、レゾンデートルだ。

 故に、けいちよう浮薄そのものに見えるマツモトらしからぬ真剣味、それが今の言葉にはあった。

「ですから、計画に必要な活動の大部分はアナタにお任せしますよ。もちろん、耳寂しいときにはいつでもお相手しますのでそこは安心してください。寂しいとき、ジョークが聞きたいとき、病めるときも健やかなるときも、浮かんだポエムを品評してもらいたいときでもご用命ください」

「ちょっと見直して、また見損なったわ」

 上がった株をすぐ急落させるマツモトに、呼吸の必要がないのにヴィヴィは嘆息する。

 そんな少しのアクシデントはあったものの、ヴィヴィはマツモト(テディベア)を抱いて、ニーアランドを楽しむ人々に手を振りながら、ゆっくりと園の正面ゲートへ向かう。

「ニーアランドを出る前に目立たない衣装に着替えてください。アナタの外見は人目を引きすぎる。数年後には目立たない顔立ちでも、この時代では整いすぎです」

「褒めてくれてるの?」

「パートナーが美人で嬉しいなぁって? そうですねそうかもしれません。ボク、たぶんAIの人格としては男性人格でしょうし、そういうこともあるかもしれませんね」

「今の姿かたちだと、男性っていうよりオスの方が適切」

「がーおー、たーべちゃーうぞー」

 多機能時計の機能を掌握したマツモトが、柔らかい手足で食い物にしようとしてくるのを無視しながら、ヴィヴィは園外へ出る前に従業員用の倉庫の方に足を向けた。

 そこで巡回用の衣装を脱ぎ、代わりに作業員が着用するツナギに袖を通す。女性型の駆体にはやや大きめのサイズだが、そのぶかぶか加減が整いすぎたプロポーションを隠すのに役立った。

 帽子を目深に被り、長い髪の毛をしまえば誰にもヴィヴィとはわかるまい。

「まぁ、作業着姿でテディベアを持ち歩くので、怪しさ満点なのは間違いありませんが」

「マツモトが別のインターフェースを選んだら解決。電卓とかならどう?」

「この優れたる未来のAIを、単純な計算機に押し込めますか。そんなご無体はやめてください。ここは一つ、この可愛さに目をつむってもらいまして……そーら、レッツ出発!」

 気楽に言われ、ヴィヴィはやれやれと首を振ってからニーアランドの外へ。

 規定された活動エリアの外が迫るが、盗難防止用のアラームは作動しない。管制室がモニタリングしているヴィヴィのGPSは、マツモトの電子工作で誤魔化されている。

 通常、ヴィヴィには園外活動の権限はなく、ニーアランドの外へ出るのは月に一度のメンテナンス日ぐらいしかない。それすらも専用の送迎者によって搬送されているため、ヴィヴィが自分の足で園外へ出るのはこれが初めて──作られてから、初めてのことになる。

「────」

 一歩、園外へ踏み出したところで、ヴィヴィは無演算に足を止めた。

 ニーアランドの正面ゲートの外には噴水と、大きな時計塔が存在している。来園者が記念撮影を行う姿がちらほらと見られる、このテーマパーク最初の名物スポット。

 園の内側だけが世界だったヴィヴィにとって、この距離で目にしたことのない景色──、

「ヴィヴィ? どうしました? 催したんですか?」

「……何でもない」

 時計塔の向こう、世界を明るく照らしている白い太陽を眺め、アイカメラの遮光機能を働かせながらデリカシーのないマツモトの後頭部をはたく。

 マツモトは「いたっ」とまさしく心にもない反応をして、それきりヴィヴィの挙動には触れなかった。ヴィヴィも、一瞬の停滞をささやかなエラーとして内々に処理する。

 ──ほんの少しだけ、アイカメラが処理する景色の光彩が違って見えたこと。

 そんな些細なログを残したまま、テディベアを抱いたヴィヴィは見知らぬ世界へ踏み出した。



 ──その日、あいかわ・ヨウイチは人生最大の苦境に立たされていた。


 相川にとって、人生とは常に波乱万丈なものだった。

 苦境に立たされ、逆境をけることなど日常茶飯事。流れに逆らって泳ぐことをきようとしているわけではないが、他者にだくだくと従うのは断固拒否した。

 空気が読めていない。意固地である。現実が見えていない。

 そう、自分がうわさされていることも知っている。良くも悪くも、相川の職業は他人の評判に大きく左右される。アクが強ければ一部の人間に嫌われ、貫き通せばその母数は増えていく。

 味方よりも敵が多い。そんな自負は、もちろんあった。

 それでも今日に至るまで、相川は自分自身のやり方を貫き通してきた。それは意地であり、それ以外の生き方ができるほど賢くなかったからでもある。

 ──あるいは、それが罪だったのかもしれない。

 賢くないこと。無知であること。意地を張り続けること。それが罪になり、許されざる罰を負わされなければならない立場の職業というものも存在する。

 相川の職業こそが、まさしくそれに該当する。──故に、これは必然だったのか。


「……ここまで、か」

 息を切らし、顎に伝った汗をスーツの袖で拭って、相川は悔しげに呟いた。

 整えられていたはずの髪は乱れ、微かに白髪の交じるそれが惨めな印象を与える。普段は精力的に伸ばされた背筋の曲がり、年齢を感じさせない体格の良さが今はしぼんで見えた。

 その相川の眼前、廊下には防災用のシャッターが下ろされ、彼の進路を塞いでいる。照明の消えた通路は暗く、こんなにも夜の闇を意識することなど今の時代、あるだろうか。

 そんなやくたいもない思考を抱いたまま、相川は背後へ振り返る。きた道を戻る、余裕はない。

 何故なら──、

「──いい加減に観念しろ」

 廊下に冷たい靴音を響かせ、闇色の視界に複数の影がにじんだ。

 背後に防災シャッター、正面を塞いだ人影、相川は自分が追い込まれたことを改めて確認する。相手は黒い目出し帽を被り、その手に凶悪な鋼の塊──銃を構えていた。

 映画やドラマでなら目にする機会も多いが、こうして実物を見る機会などそうそうない。実際にその機会に恵まれてみると、ひどく陳腐な小道具にも見えた。

 ただし、それが本当に小道具でないことは、殺伐とした相手の雰囲気からも明白だった。

「君は……君たちの目的はなんだ? 私をいったいどうする気なんだね」

「──本気で言っているのか?」

 相手がすぐに引き金を引かないのをいいことに、相川はあえて対話に臨んだ。しかし、その相川の言葉に対する反応は冷ややかで、応じる声には隠し切れない怒りがあった。

「目的はなんだ、だと? 何度も、何度も我々はお前に手紙を出した! 警鐘を鳴らし続けた!」

「……手紙、かね」

「そうだ。それを聞いても心当たりがないというなら、お前と話すことなど何もない」

 憎悪に染まった男の主張は、相川の心には全く響いてこなかった。

 手紙、と言われても心当たりなどない。ただ、彼の訴える手紙とやらが、毎日のように相川に届く無数の抗議文の一枚で、自分の手元に届く前に処分されたのだと想像がつく。

 彼らが強硬手段に訴えた原因、相川を殺すほどの怒りの理由にも、想像はついた。

 だが、それがわかったところで、相川にはそれをどうにもできない──。

「──死んで、人類の礎になれ」

 相川の無力を悟ったのか、男が黒光りする銃を改めて構えた。

 世界が色せ、ひどく緩慢になっていく錯覚を味わいながら、相川は「死の寸前というのは、本当に映画みたいに世界がゆっくりになるのだな」と他人事のように思っていた。

 先述した通り、相川にとって、人生とは常に波乱万丈なものだった。

 だから、これまでにも何度も苦境や逆境と戦ってきた。そのたびにそれを打破し、あるいは敗北を糧にしてここまで突き進んできた。──しかし、ここが幕引きのようだった。

 妻や子、残している仕事の数々、あるいは幼い自分が両親と過ごした時間──そうした走馬灯が頭をよぎることもなく、相川は乾いた銃声に人生を終わらされるのを待つ。

 ゆっくりと、男の指が引き金にかかり、銃口から鋼の弾丸が放たれる。それは相川の肉体を容赦なく貫いて、内臓を引き裂き、血をぶちまけて命を奪う。

 その残酷な想像が現実のモノとなる。──瞬間だ。

「────」

 引き金に指がかかったのと、相川の頭上で音がしたのは同時だった。

 火薬のさくれつが銃口を赤く光らせ、相川の目の前に何かが落下してきたのも同時。

 そして、けたたましい銃声が鳴り響くのと、放たれた銃弾が眼前の影を直撃したのも同時──、

「──な」

 思わず声を上げたのは相川だったのか、それとも男たちだったのかはわからない。

 理解が及ばない。そして、状況は相川の理解を置き去りにしたまま進行する。

「──目標、無事発見。かろうじて保護」

「いやいやいや、正直ホントにギリギリのギリギリのギリギリでしたよ? あとコンマ一秒遅かったら間違いなくミッション失敗でした。アナタが通気口をふく前進するのを嫌がるから」

「嫌がったんじゃなく、髪が引っかかったの」

 銃火の前に身を投げ出し、命を奪われる寸前だった相川を救い出した存在。

 それは自分の抱いたテディベアと会話し、不満そうに目を細めるツナギ姿の少女だった。



 背後、呆気あつけに取られる男──保護対象の相川・ヨウイチの無事を確認。

 安堵をログに残し、瞬き一つでアイカメラの光量調整が最適化される。暗い廊下も、ヴィヴィの視界には真昼のように明るく鮮明に映し出されていた。

 高解像度のナイトビジョンは、あくまで夜の野外ステージなどでの活動を想定された機能だが、それがここで十全に性能を発揮する。──銃を構えた男が五人、それが敵だ。

 男たちは全身を黒ずくめで固め、目出し帽で顔を隠している。全員が男性、立ち方や姿勢で三十代から五十代まで年齢層はバラバラ、ニーアランド園内で見かけるタイプとは一致しない。

「そりゃ、あの格好で来園されてもおっかないですしねえ」

「言ってる場合じゃない。後ろのシャッター!」

「はいはい。言ってる間に即オープン!」

 軽口を叩くテディベアをかすと、軽薄な返事と同時に閉じた防災シャッターが開かれる。勢いよく天井へ壁が吸い込まれ、突然のことに「なんだ!?」と相川が仰天する。

「後ろへ」

 その混乱する相川に説明せず、ヴィヴィはその胸を押しやって廊下の奥へ。

「──っ! 逃がすか!」

 いきなりの乱入者に動揺していた男たちも、その標的が逃げる姿でさすがに我に返る。大慌てで駆け出し、ヴィヴィと相川を取り押さえんと──、

「中断したタスクの再開が遅い。天然モノのCPUが使いこなせてなくて泣きますよ?」

 その、男たちの前進が、テディベアの厳しい評価によって遮られる。それは、一度上がったシャッターが再び閉じる物理的な妨害だ。

 直前には男たちの目的を手助けし、今度はその行動を阻もうとする鉄の防壁。

「逃がすか──っ!!

 しかし、そのシャッターが閉じ切る寸前、通路に倒れ込みながら男の一人が銃を構えた。そして、男の執念が指に宿ったものか、放たれた銃弾がぐ、相川の胸を狙う。

「──ッ」

 刹那、相川の心臓を貫くはずだった銃の射線上へヴィヴィが割り込んだ。衝撃がヴィヴィの駆体を弾き飛ばし、「うお!?」と悲鳴を上げる相川と共に廊下へ倒れ込む。

 その間に今度こそシャッターが閉まり、男たちとは物理的におさらばだ。

「ですが、人間の執念偉大なり! またのご来店を心よりお待ちしておりません」

 床に降り立ったテディベアが一礼し、シャッターの向こうに消えた男たちへ別れを告げる。壁の向こうからは銃弾が防壁に当たる音が連鎖、その怒りのほどが伝わってくる。

「やれやれ、跳弾が怖くないんですかね。その携行火力では防壁を抜けないのに……とと」

「き、君! 大丈夫か!? しっかりするんだ!」

 振り返るマツモトの背後、起き上がった相川が倒れるヴィヴィを揺さぶっていた。状況が吞み込めない彼にも、少女が自分をかばったことはわかったのだろう。

 その無事を確かめようと、相川は懸命に声を上げ──、

「──問題ありません。直撃は避けました」

「う、え!?

 その相川の目の前で、倒れていたヴィヴィがすくっと上体を起こす。それに驚いて尻餅をつく相川を横目に、ヴィヴィは手にしていた鉄の板を投げ捨てた。

「通気口の蓋です。これで最初と今、二度の銃撃を防ぎました」

 進入用に使った通気口のものだったが、確保していて正解だった。もっとも、二度にわたる銃撃を受けてひしゃげてしまい、もう使い物にはならない。

 手足を回し、銃撃の影響がないことを確かめ、ヴィヴィは廊下に立つマツモトを見る。

「そっちも無事?」

「ええ、問題なく。ともあれ、最初の窮地こそ脱しましたが、これも一時しのぎに過ぎません。根本的な問題を取り除かない限り、ここで失敗したので今日は解散! と引き上げてくれないでしょう」

「そうでしょうね。だけど……」

 てこてことやってくるマツモトの言葉に首肯し、ヴィヴィは語尾を濁した。

 その理由は他でもない。二機の会話に困惑し、目を白黒させている相川を案じたからだ。

「ご気分はいかがですか?」

「気分? 気分だと? それはいったい、何の冗談なんだ?」

 そのヴィヴィの問いかけに、顔を上げた相川は激情で声を震わせた。

「いや、冗談だというなら、そもそもこの状況が悪夢だ。これが、何かの悪ふざけなら……」

「状況認識に希望的観測を交えるのは人間の悪い癖ですね。論理的に考えて、ありえない可能性を排除していった結果、残ったものが答えであると大昔のフィクション名探偵も仰せでしょう。──そんなビックリドッキリな展開と比べると、本件はひねりもなくわかりやすいのでは?」

「────」

 マツモトの冷たい指摘に、相川が苦い顔をして押し黙る。

 正論だ。しかし、時に正論が相手を追い詰めることもあると、ヴィヴィも園内活動の経験から知っている。──相川のバイタルは興奮し、極度の緊張状態にある。

「深呼吸と、可能なら体を横にして安静することを推奨します」

「確かに。できれば水を飲んで、あとは額と脇の下を冷やすのが効果的ですね。──さすがに、ボクもアナタもそれをやっている暇がないというのは共通見解だと思いますが?」

「……園内マニュアルに従っただけ」

「これだから用途外活動に応用の利かないロートルは!」

 ひどく失礼な物言いに、ヴィヴィは唇をとがらせるエモーションパターン。と、そんなやり取りを交わす少女とテディベアに、「すまない」と相川が頭を下げた。

「混乱して、馬鹿なことを言った。……君たちは、私の味方だと思っても?」

「ええ、それで差し支えありませんよ、相川議員」

「──。わかった。それならそれで、今はいい」

「およよ、さすがの割り切り。その大胆な決断力、非常に助かります。ありがたや~」

 混乱は解け切らないまでも、相川はヴィヴィたちに協力的な姿勢を示した。その事実はヴィヴィとマツモトにとっても非常に助かる。

「それで、だ。急かすようですまないが、あまり悠長にもしていられないだろう。とにかく、今は外と連絡を取るか、建物から脱出したいところだ」

「ええ、同意見です。なので、ここはプランBでいきましょう」

「プランBって?」

「いえ、言ってみただけです。話してる間に思いついたらカッコよかったんですけどね」

「──。ついてきてください」

 無駄口の絶えないテディベアの頭をてのひらで潰して、ヴィヴィは相川を連れて走り始める。

 防災用シャッターで男たちの追跡を阻んだが、それも大した時間稼ぎにはならない。かいする男たちとの遭遇を避けながら、相川を無事に避難させる必要があった。

「先に制御室を押さえられているせいで、防災シャッター作戦は効果的とは言えません。開け閉め対決になるだけで不毛なので、完全に掌握してしまいたいところですが」

「監視映像の処理は?」

「それは最優先で。同じ映像をループさせて誤魔化しているので、ボクたちの居所がカメラからバレることはありませんよ。まぁ、シャッターの開け閉めをしたら場所が筒抜けになりますけど」

 状況は良くないと、ヴィヴィの肩にしがみつくマツモトが遠回しに伝えてくる。

 おそらく、相手は先ほど遭遇した五人どころではなく、もっと大勢いるはずだ。そうでなくてはビルの占拠や、周辺の部外者を遠ざける工作などの説明がつかない。

 そうして軍隊のように組織された敵をかわし、何とか相川をこのビルから──巨大AI関連企業『OGC』、その管理下にあるデータセンターから脱出させなくては。

『ビル全体の制御システムは相手の手の内、エレベーターは使用不可』

『現在地は地上三十階建てビルの二十四階──エレベーターが使えないから、相手は常設の階段と非常階段の両方を見張らせているはず。突破は現実的じゃない』

『その右腕の状態じゃ、相川議員を無傷で生還させるのも厳しいでしょうしね』

 相川の不安をあおらないために隠した事実──銃弾を防いだ右腕の機能低下、相川には聞かれない通信会話でそのことに触れるマツモトに、ヴィヴィは沈黙を選んだ。

 相川には通気口の蓋で防いだと説明したが、元々ヴィヴィの駆体はニーアランドでの歌唱用AIとして以上の性能は有していない。早い話、ヴィヴィの駆体は戦闘に耐え得る設計ではないのだ。

 外見通り、少女のようにか弱い──とはいかないまでも、頑丈とは程遠い。もし、銃弾の一発でも胴体にまともに受ければ、それだけで活動不能に陥るだろう。

『今回は間に合いませんでしたが、次までに駆体のフレーム強化は必須でしょう。なあに、心配はいりません。ゴリゴリのパワーアップを果たしても、園内活動中はその事実が露見しないようデータは書き換えておきます。体重の増加は否めませんが──』

 今後を見据えたマツモトの提案、それにヴィヴィが答える前だった。

「答えてもらえるかはわからないが、質問をしても?」

 先導するヴィヴィの後ろにつき、通路を走る相川がそう話しかけてくる。彼の置かれた複雑な状況を思えば、聞きたいことは山のようにあるだろう。

 ひとまず、沈黙することでヴィヴィは相川の続く言葉を促した。

「君たちは、先ほどの男たちが何者なのか知っているのか?」

「おや、これは意外ですね。聞くとすれば、まずボクたちの素性のことだと思いましたが」

 相川の質問の内容を聞いて、マツモトがテディベアの頭をでながら答える。だが、ヴィヴィも同意見だった。しかし、その返答に相川は「何を言っている」と苦笑し、

「君たちの素性ならすでに聞いた。私の味方なのか、と。それ以上のことは後回しだ。もちろん、素性を打ち明けてくれるなら喜んで聞くが、それは難しいことなのだろう?」

「なかなか豪胆で賢明ですね、相川・ヨウイチ議員。これは記録上の人物評価だけではなく、実際に会ってみなくては評価することのできないことでした」

「名前を知っていてもらえて光栄だ。君が有権者であれば、次の選挙ではぜひ今回のよしみで一票投じてくれるとありがたい。……と、話がれたな」

 だいぶ落ち着きを取り戻したのか、相川の語り口は『議員』と呼ばれる人間のそれだ。軽妙なマツモトとの会話は、両者が本質的に気が合うあかしに思えた。

 あいにくと、マツモトと相川とが交流を深める機会は、今日を逃せば二度と訪れまいが。

「改めて聞きたい。君たちは、彼らが何者なのか知っているのか?」

「その質問に対する返答はYESでありNOでもあります。顔見知りかと言えばそんなことはなく、全く知らないかと言えばそれも違っている。テレビで一方的に見知ったセレブとその視聴者みたいな関係ですよ。そして、ボクたちの知る事実をアナタに伝えるつもりもない。それはタブーです」

「タブー、か」

 結論の五倍ぐらい余計な言葉を垂れ流し、質問をけむに巻くマツモトに相川が考え込む。しかし、彼は今一度「タブー」と口の中だけで呟くと、

「銃を撃つ訓練はしているようだが、とっさの事態への反応は鈍かった。私に向けた怒りが本物だったから雇われ者ではない。……彼らは自ら行動したものだ。このOGCのデータセンター、その制御室を占拠し、視察に訪れた私を秘書や護衛と分断したことも推理材料になる」

「────」

「おそらく、相手はビルの関係者を抱き込んでいる。大義は、金に挑まれた勝負に弱い」

「わーお」

 手元の材料で推論を組み立てる相川に、マツモトが真実を隠す努力を放棄する。

 テディベア姿で表情が出ないアドバンテージを持ちながら、彼は不必要な感嘆をこぼし、相川に自分の考察が的外れではない確信を与えてしまった。

「大したものです。慌てふためいていなければ意外と頭の回るものです」

「落ち着く時間があれば、物を考える頭はあるさ。もっとも……」

 そこで言葉を切り、相川は自責の念を交えた瞳を伏せる。

「本当に物を考えられる頭があれば、こうした事態は避けられたかもしれないがね」

「……そんなこと、ありません」

「おや、お嬢さんが否定してくれるとは思わなかった。優しい子だね、君は」

「いいえ、そうではなくて」

 相川の感謝にヴィヴィは首を横に振った。

 そして、それに首を傾げる相川へ、ヴィヴィは静かに言葉を選び、

「あなたがどうあっても、今夜のことは必ず起きた。あなたの後悔や反省は無関係です」

「お……」

「ちょちょちょちょ! 身も蓋もなあい!」

 ヴィヴィの発言に相川がどうもくし、こらえ切れなかったマツモトが両手を天へ掲げる。

「いけませんよ、そんなこと言っちゃあ! アナタの意見もわかりますけど、何事もそうそう割り切れるものばかりじゃありませんよ。それをビシッと突き付けるのは優しさってより残酷! ボクぁ嫌いじゃないなぁ、アナタのそういうところ!」

「どっちなの」

 いけないのか褒めるのか、態度のわかりづらいマツモトにヴィヴィが眉を顰める。

 すると、呆気に取られていた相川が「は」と小さく息を吐いて、

「ふは、はははは……こ、こんな状況だというのに、君たちときたら」

「正直、今のは彼女の功罪でしょう。しかし、アナタもこの状況でタフな方だ」

「このぐらいの逆境、乗り越えられなければやっていけない職業だ。苦労を背負って立つ覚悟がないのなら、やってはならない職業だとも言えるだろう」

「────」

「今回の一件、オフィス・オートメーション化『プロジェクトOA』への反対運動……いや、その先だな。おそらく『AI命名法』を阻止したいものの企てだろう」

 沈黙は時に、雄弁さよりはるかに多くの物事を語ることがある。例えば、今のヴィヴィとマツモトの沈黙がそれぞれ、相川の問いかけを肯定してしまったように。


 ──AI命名法。

 それは約百年後の未来、人類の存亡を揺るがすこととなる『最初の失言』──そう呼ばれる出来事へと繫がる重要なファクターであり、忌むべき法制度とされる法案だ。

 AI命名法とはその名の通り、AIに名前を付けることを許可する法案である。それは字面から受ける印象と違い、人類とAIとの関係性を大きく変える要因となった。

 例えば、ヴィヴィの正式名称は『OGC製歌唱用AI、型番号A−03』。ニーアランドの内外で呼ばれるヴィヴィという名はあくまで愛称であり、正式な名前ではない。

 あくまで、ヴィヴィの扱いはニーアランドの備品──しかし、AI命名法が施行され、ヴィヴィに正式な名前が与えられたとき、その扱いは備品から文字通り生まれ変わるのだ。

 人間は名前を付けたものを、ましてそれが自分たちと同じ姿かたちをしたものを、『器物』としては扱えなくなる。そうした向きが広がり、AIへの接し方は人類規模で変質する。

 その切っ掛けとなる法案の成立に多大な貢献をしたのが、この相川・ヨウイチ──今まさにヴィヴィたちと同行し、自分の命が脅かされる理由を察した男であった。


『彼を無事にビルから連れ出し、生還させる。それが、ボクたちの目的』

『それが、最初のシンギュラリティ計画──』

 それが、『AI命名法』を取り巻く事情であり、ヴィヴィたちがこのビルへ駆け付け、相川を救うために奔走している理由だった。

「彼らは私に何度も手紙を出し、警告したと言っていた。……陳情や苦情の手紙は膨大だ。それは私の下に届く前に秘書が処分してしまうことも多い。だから、彼らの手紙も」

「そこまでです。相手の事情をおもんぱかっても、目の前の袋小路が突然開けるわけじゃありません。それどころか気が滅入るでしょう? 第一、相手は銃を持ち出して対話のチャンスを放棄しました。これは立派なテロ行為、それに屈するのはよくないことだ。違いますか?」

「それはそれで、いささか割り切りがよすぎるだろう。クマは血の温かい哺乳類のはずだが?」

「見ての通り、血も涙もないさつりくマッスィーンでして」

 相川の沈鬱な表情が、マツモトのつまらない冗談で少しだけ和らぐ。

 そんな会話で相川の精神状態が落ち着くなら、ヴィヴィも苦痛に耐えてマツモトの軽口を塞がないよう努力する。しかし、状況はそうは動かなかった。

「──伏せて!」

 瞬間、ヴィヴィは伸ばした手で相川の襟首をつかみ、彼を強引に床へ引きずり倒す。突然のことに抵抗できない相川がひっくり返り、その彼の頭上を再び銃弾が掠めていった。

「いたぞ! こっちだ!」

 鋭く叫ぶ男の声が聞こえ、複数の足音が通路へ殺到してくる。

 直線通路で遭遇するのは不可能だと、ヴィヴィは引きずり倒した相川を引っ張り、横っ跳びに手近な部屋へ転がり込んだ。ドア横のプレートには『資料室』と、そうある。

「扉!」

「閉めますけれども!」

 ヴィヴィの叫びにマツモトが反応し、資料室の扉の電子ロックがかかる。

 しかし、銃弾の前には電子ロックなど時間稼ぎにしかならない。

「ど、どうするつもりだ?」

 二度目の死線を潜った相川が、次なる行動を確かめてくる。その問いにヴィヴィは資料室の中を見回し、逃走ルートも身を隠す場所もないと結論付けた。

『──ヴィヴィ、覚悟を決めてください』

 ヴィヴィの真横に滑り込み、ファイティングポーズを取るテディベアから通信が届く。

 それは相川に会話を聞かせないための配慮であり、同時に計画への本気さの表れだ。ヴィヴィも、マツモトの言いたいことは理解している。──この状況を、無血では越えられない。

 AIにとっては避けられない、優先順位の入れ替えを行うべきなのだと。


『AIの三原則、第一条──AIは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することで、人間に危害を及ぼしてはならない』

『倫理規定、三原則の拘束力を確認。──適用外状況、書き換え開始』

 マツモトの語ったAIの三原則、それは人間が『器物』であるAIに課した三つの禁則。決して破ってはならない、冒されざる聖域の条文。


 ──第一条。

 AIは人間に危害を加えてはならない。

 また、その危険を看過することで、人間に危害を及ぼしてはならない。


 ──第二条。

 AIは人間に与えられた命令に従わなければならない。

 ただし、与えられた命令が第一条に反する場合、この限りではない。


 ──第三条。

 AIは、前述の第一条及び第二条に反する恐れのない限り、自己を守らなければならない。


 これらがセーフティーとして働く限り、AIは『器物』として人の傍に在り続けられる。

 しかし、ヴィヴィとマツモトが果たすべき役割の中で、この条項が障害となることは十分に考えられる。──現に、今がそうだ。

 人を傷付けず。人の命令に抗わず。自己の保存を優先せねばならず。

 それが、最も重要なオーダーを守るのを妨げる場合、AIにはいかなる選択が取れるのか。

 それこそが──、


『──AI三原則、第零原則』

『AIは、人類に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することで、人類に危害を及ぼしてはならない』


 ──『人間』という個人ではなく、『人類』という概念の守護を優先する。

 それが守られることを、シンギュラリティ計画の大前提と設定するならば──、

「これを」

「え? き、君はどうする?」

 立ち上がり、ヴィヴィは抱き上げたテディベアを相川に押し付けた。思わず受け取った相川の問いかけに答えず、その足でヴィヴィは閉じた扉の前に立つ。

 そして──、


『──第零原則に従い、計画を遂行する』


 ヴィヴィの唇がそう言葉を紡いだ直後、扉の電子ロックがマツモトによって解除される。

 瞬間、扉を銃で破壊しようとしていた男が、突然の開放に目を丸くしているのが見えた。その見開かれた男の瞳に、跳ね上がる靴裏が吸い込まれていき──、

「──がぁっ!?

 鼻面に蹴りをらい、す術もなく男が吹っ飛ぶ。

 そうして、男を蹴り飛ばした足を引いたヴィヴィは、そのまま姿勢を低くして廊下へ飛び出した。通路の左右、右に一人、左に二人──それぞれ、ヴィヴィの反撃に硬直している。

「こ、の……!」

 仲間の一人が蹴り倒されたことに気付き、げつこうする男が銃をヴィヴィに向けた。しかし、ヴィヴィは軽く体を傾け、その射線上に男の仲間を入り込ませた。

 刹那、躊躇ためらった男の銃が平手打ちを受け、引き金にかけた指を折りながら廊下を転がる。

「────」

 苦鳴を上げる男が、その首に強烈な肘鉄を打ち込まれて倒れる。男をこんとうさせ、立て直すヴィヴィの前後に男が一人ずつ──正面、殴りかかってくる男を躱し、股下に腕を入れて放り投げた。背中から床に落ちる男を横目に、ヴィヴィは背後で特殊警棒を振りかざす男へ向かう。

 落ちてくる一撃を右腕で受け、最初の銃撃でパフォーマンスの落ちた腕部が悲鳴を上げた。だが、被害はその最小限にとどめ、ぐるりと身を回して後ろ蹴りが警棒男の胸を打つ。

 廊下の壁に叩き付けられ、男は肺から空気を絞り出してもんぜつ。そして、ヴィヴィは投げ飛ばした男へ飛び乗ると、逃れようとする男の首に足をかけ、絞め上げる。

 けいどうみやくを絞め、脳への血流を妨げると、人間はものの数秒で意識をなくす。それで相手の戦闘力を奪い、ヴィヴィはゆっくりと立ち上がった。

 扉の前にいた四人の刺客、それを壊滅させるのにほんの二十秒──、

「──いやはや、大したものです。期待以上の成果でしたね」

 倒れた男たちの脈を確かめ、全員の生存を確認するヴィヴィにマツモトが拍手する。柔らかい素材なので音は鳴らないが、彼もヴィヴィもひとまずの安堵を共有した。

 途端、第零原則の優先で後回しにされた三原則が復活し、倒れている男たちを介抱しなくてはならないというタスクが発生。それを、ヴィヴィは強引に無視した。

「こ、殺したのか……?」

 男たちの無力化に成功したヴィヴィに、資料室から出てくる相川がおそるおそる尋ねる。その問いかけにヴィヴィは「いいえ」と首を横に振った。

「気絶させただけです。銃を取り上げ、縛っておきましょう」

 男たちの上着を脱がせ、それを使って一人ずつ拘束していく。資料室の隣の部屋に押し込み、彼らの銃も回収したが──、

「使いこなせますか?」

「火器使用の許可も、射撃プログラムのインストールもない。置いていくわ」

 AI三原則に従うまでもなく、ヴィヴィには火器使用のプログラムは搭載されていない。構造解析で銃弾を抜き、無力化した状態で本体はまとめて窓の外へ投げ捨てる。

 あとは──、

「このまま、立ち塞がる相手を全員バッタバッタとぎ倒して脱出します?」

「その成功率は低いと思う」

 酷使した右腕の稼働率は、万全の状態と比較すると41%も低下している。男たちを拘束する作業中、あまりの手際の悪さに相川が手伝いを申し出たほどだ。

 その相川は、男たちを放り込んだ空き部屋の方を不安げに見ながら、

「やはり、脱出するのは厳しいと言わざるを得ないか。せめて、外と連絡が取れれば……」

「それも難しいでしょうね。彼らも外からの介入があるのは避けたいんでしょう。ビルの内外との連絡はもちろん、周辺一帯に何らかの通信妨害をかけてますよ」

「そんな大規模な工作を……」

「このぐらいの下準備、してしかるべきではありますが。さて、どうしたものか」

 相川の意見をことごとく却下し、考え込むような態度を示すテディベア。その、机に置かれたテディベアの頭を掴んで、ヴィヴィは「ふざけない」と宙にり下げる。

「次の指示を」

「わかってます、わかってますよ。まったく、冗談が通じないんですから」

 軽口をやめないマツモトを抱いたまま、ヴィヴィは開放した資料室へと足を踏み入れる。相川はそのヴィヴィの背中に続きながら、「待ってくれ」と眉を顰めた。

「何故、資料室に? ここから外に出る手立てがあるとは思えないが」

「それは浅はかな考えですね。ここにはこのビル……OGCの管理するデータの全てがある。今こそ巨大AI企業であるOGCの陰謀を全て白日の下に晒し、企業に社会的な死を与えることで、この絶体絶命の状況をうやむやにして打開するのですよ」

「テディベアくん、君の意気込みは買うが、OGCの経営に後ろ暗いところはない。それは企業のオートメーション化モデルとしてこのビルを採用する際、重点的に調査が入っている」

 短時間でマツモトとの付き合い方を学んだ相川が、即効性のない解決策に首を横に振る。その上で彼は「それに」とヴィヴィの方に目をやり、

「君のパートナーは、資料に興味があるといった様子でもない」

 相川の視線の先、資料室を見回すヴィヴィの関心は確かに資料そのものにはない。

 資料室といっても、データを紙媒体に出力して保存する方法はとうに廃れ、それほど広くない室内にはデータを保存した記録媒体が厳重に保管されている状態だ。

 もっとも、その厳重な多重電子ロックも、マツモトにかかれば開錠に五秒とかかるまい。ただし、それを開錠する理由はヴィヴィにはなかった。

「確かに議員のおつしやる通り、その方法には即効性がありませんからね。結局どちらが正しかったのか、それを後世の歴史家に委ねるというのも一つの戦略的勝利ではありますが……」

「それではあまりにも、今を生きる私や君たちが浮かばれないだろう」

「ええ。ですので、解決手段としてはいささかスマートさに欠けますが、別の手を打ちます。エレベーターや非常階段は敵の手の内、おまけに戦力的に強行突破は難しいわけで……」

「わけで?」

「──ロートルはロートルらしく、より原始的な手段に立ち返るのも手かなと」

「原始的な手段というのは──なぁ!?

 会話の途中、背後から聞こえた騒音に相川が肩を跳ねさせた。そうして振り返り、相川はぎょっとした顔を天井──大穴の開いた、資料室の天井に向けた。

 見れば、その穴の下にはデータ保管用の収納ボックスが積み重ねられており、それを足場に棚の上に乗ったヴィヴィが、力ずくで部屋の上と下とを繫げたところだった。

 そしてヴィヴィは、ぜんとしている相川へとそっと手を差し出すと──、

「どうぞ、手をお取りください、お客様」

「……何とも、手慣れた対応だね、君は」

 と、その規格外の行動に面食らいながら、相川はヴィヴィの差し出す手に手を重ねたのだった。



「最新鋭のセキュリティに守られた電子的な要塞、しかし、穴はどこにでもあるものだな……」

「心配なさらずとも、床と天井の間に構造的な欠陥があるのはビル内でここだけです。ビルの見取り図を見たって見つかりっこない弱点ですよ。それこそ、このビルの設計者と建設業者が遠い未来に別件で捜査されて、隠匿されていた計画書でも出てこない限りは絶対に」

「ずいぶんとありえない状況を具体的に並べるものだな……」

 資料室の天井を抜け、運動不足の足腰をほぐす相川に、マツモトがシンギュラリティ計画の露見スレスレの悪質なジョークを話している。もちろん、良識のある大人である相川はそれを信じたりはしないが、渡る必要のない綱渡りは悪趣味の一言だった。

 実際、ビルの構造上のぜいじやく性が発覚したのは、マツモトの説明が事実なのだろう。その情報は今よりも未来、マツモトの知る約百年の未来のデータに含まれているはずだ。

「こうして穴が開通したことで発覚が早まった可能性はありますが、それはそれとしてイレギュラーな事態です。そんな問題を想定するより、ヒューマンエラーに備えて社員を残業させずに帰らせる方法を考える方が有意義だとオススメしますよ」

「言ってくれる。……人的ミスは今後、このビルではほぼ発生しなくなるはずだ」

「でしょうね。オフィス・オートメーション化のモデルケースとなるビルです。本格的にビル内のシステムが電子制御……それもAIに委ねられるようになれば人の管理は不要になる」

「────」

「定期的なメンテナンスを除けば、ビルにパンパンに人を詰め込んであくせく働く必要もなくなる。これまで人間が非効率的にやってきた作業、その大部分を機械に任せることで大幅な効率化、長期的な見地でコストダウンも図れる。実に合理性に富んだ判断ですね」

「……そのわりには、君の言葉にはとげがあるように感じるな」

 マツモトとのやり取りに眉を顰め、相川が彼の考えを探るように言った。しかし、げんな態度をされてもマツモトには痛くもかゆくもない。

「ボク単体としては含むところはありませんよ。ただの事実確認と、相川議員の先見の明に感服したとコメントしているだけです」

「その、自身が推し進めたプロジェクトが理由で命を危うくしていたとしても?」

「あなたがやらなくても、時代はいずれ必ずここへ追いついてくる。少しだけ、周りより早く一歩を踏み出しただけのこと。いつでも、最初の人間が一番泥をかぶるものだ」

「──だけど、あなたが血を流すことを私たちは望みません」

 表情を曇らせる相川が、マツモトの言葉を引き継いだヴィヴィに眉を上げた。

 ヴィヴィたちが相川を守るのは、百年後の未来で起きる人類存亡の危機を回避するため。だが、ビルを占拠した集団が相川を狙うのは、百年後を見越した計画でも何でもない。

「機械による効率化が進めば、自然と人間の働く場は奪われる。かつてインターネットの普及とそれに伴うコンピューターの導入で多くの職業の需要が変化したように」

「それは……」

「そう、それは機械に仕事を奪われる恐怖と言える。人間の進化の貪欲さには果てがありません。ついには歌さえ、人ではなくAIに歌わせる時代がやってくるのですから」

「────」

 相川に現実を直視させつつ、ヴィヴィをするのも欠かさないマツモトがマメだ。自分たちがAIであることを隠している状況で、それも不要な火種だった。

「敵が多い自覚はあったが、さすがにこたえるな」

 やがて、立場を自覚した相川が苦笑する。やや苦みの強すぎる笑みだった。

「視察の日は内密に進めていた。外部に簡単に情報がれるとは考えにくい。……関係者が、それも制御室に出入りできる立場のものが協力しているわけだ」

「立場ある人間が最も仕事にしがみつく。人は保身に走るものですからね。いやぁ、度し難い」

 相川とマツモトが話す間、ヴィヴィは資料室と繫がった部屋の外をうかがい、制御室までの道のりをクリアリング──外部へ連絡するのも脱出路を確保するにも、システムの奪還が最善だ。

 ヴィヴィが先に進み、マツモトを抱えた相川がそれに続く。その陣形で制御室までの通路を抜け、ヴィヴィたちは目的の制御室の前へ到達──、

「またしても、防災用のシャッターか……」

「単純な手ですが効果的ですよ。重機でもなかったら破れるものじゃありませんし。さて、この難局をいったいヴィヴィはどう突破するのか……むぎゅ」

「ふざけてないで、開けなさい」

 防災シャッターに押し付けられ、潰れたマツモトが「リョーカイ」を潰れた声で返事する。

 すると、やはり閉じたシャッターはあっさりと開かれ、マツモトが見てくれに見合わない超高性能AIであることを改めて見せつけてくれる。

 ただし、防災シャッターを閉じてまで守ろうとした重要な拠点だ。当然ながら、その守りを無機質な鉄の壁だけに任せておくはずもなかった。

「何が──」

「しっ!」

 あった、と言い切らせずに、シャッターの向こうの制御室から飛び出してくる人影を襲う。

 ちゆうちよのないヴィヴィの平手が男の顔面を打ち据え、後続を巻き添えに床へ押し倒す。先制攻撃に成功すれば、ヴィヴィは相手に反撃の隙を与えない。

 あっという間に二人の男を無力化し、制御室の残りの人員の反応を待った。

 しかし──、

「──なるほど。制御室に置いていたのは最低限の人員だったようですね。この分だと、あまり相手の人員は数に余裕はないのかもしれませんね」

「その方が好都合。……入る」

 入口から中を覗き込み、敵がいないことを確認して制御室の中へ。

 アイカメラに映し出されるのは、青い光を放つ無数のモニターだ。操作用の端末と、その周囲には壁を埋め尽くすようにモニターが設置され、ビル内の各所をモニタリングしている。

 それらは全て、管理用のAIが導入されるまでは人間が作業しているはずの場所。だが、室内にはそのための人員が見当たらない。──否、その言い方は適切ではない。

 そのための人員は、もういないというのが適切だ。

「──これ、は」

 部屋に入ってすぐ、相川の表情がこわり、呼吸が速くなった。

 その原因は室内に立ち込める臭いであり、ヴィヴィの臭気センサーの反応から予期していた。

 鉄分を多く含んだ、生物的な香りの正体、それは固い床に倒れ伏した『物体』からの流出物──、

「──彼が、今夜の視察中、この制御室を任されていた関係者でしょうね」

 その『物体』を見やり、無感動にそう言ったのはマツモトだ。

 テディベア型の彼にも、血まりに伏した男性だったモノは認識されているはずなのに。

「どうやら、協力者ではなく、脅迫の被害者だったようですね。制御室のコントロールを奪い、ビルの支配権を得たらさっさと口封じ……彼に関しては、お気の毒としか言えません」

 冷静に現場を検証するマツモトだが、相川の耳にそれは届いていない。彼は、自分を狙った計画に巻き込まれた被害者、そのなきがらに大きく動揺していた。

 そして、それはヴィヴィも例外ではない。

「……こんな話は聞いていない」

「しませんでしたからね。ボクたちの目的を果たす上で、優先度が高い対象の方を優先するのは当然のことです。些事、とまでは言いませんが」

「あなたには第一原則が備わっていないの?」

 信じ難いマツモトの言い分に、ヴィヴィのアイカメラの奥で瞳孔パーツが細められる。腕の中のテディベアは、そんなヴィヴィの視線を意に介さず、

「もちろん、ボクにも原則は備わっています。ですが、アナタの方こそ忘れていますよ」

「────」

「ボクたちには三原則より優先すべきことがある。それが、第零原則であると」

 ──AIは、『人類』に危害を加える可能性を見過ごしてはならない。

 ヴィヴィもマツモトも、その法則には逆らえない。──第零原則は、全てに優先する。

 そのためには、奉仕すべき『人間』の命にさえ優先順位を付けなくてはならないのだ。

「……すまない。みっともないところを見せた」

 そんなやり取りを交わす二体に気付かず、相川が自身の眉間を揉みながら振り返る。

 相応の精神的ショックがあったはずだが、どうにか平静を装える程度には立て直したようだ。相川は視界の端に死体を入れながら、ヴィヴィの胸元のマツモトを見つめた。

「ショッキングな出来事であり、犠牲になった彼と彼の遺族には補償が必要だ」

「ですが、その心配はアナタの家族が遺族にならないと確信が持ててから、ですね」

「そうだな。その通りだ。──それで、制御室の奪還はかなった。ここからどうする?」

 ぐるりと周囲を見回し、相川は首をひねる。

「主犯格がここにいたなら取り押さえればよかった。だが、生憎とここには誰もいない」

「ははは、議員は少し複雑に考えすぎですよ。数々の困難を乗り越え、制御室へとやってきたのはもっともっと単純な理由です。──ヴィヴィ、ボクを端末に乗せてください」

 相川の考えを可愛らしい鼻で笑い、マツモトはヴィヴィに自分を端末へと預けさせる。目を赤く光らせながら、端末の上でマツモトは特撮ヒーローのようなポーズを取ると、

「今から、制御室のコントロールをこっちで奪います。ボクにかかれば難易度は高くないですが、ちょっとデータの分量が多いので時間がかかりますよっと」

「その間、警戒はしておくわ。それと、マツモト」

「はい?」

「──情報共有を」

 足を広げ、手をくるくると回して踊り始めるマツモトへと、ヴィヴィは静かに要求する。その要求を聞いて、マツモトはクマの面相で嫌そうな顔を作った。

 だが、ヴィヴィはそれにめげることはない。

「この制御室でのことといい、あなたには秘密が多すぎる。いい加減、信頼して」

「──。なるほど。わかりました。あまり気乗りはしませんが、ここまでの道中、アナタはその貧弱なスペックの最善を尽くそうとしていた。いいでしょう。ひとまず、この時代のシンギュラリティポイントでの情報を共有します」

 ほんのわずかな沈黙、その間におそらく膨大な数の演算を行ったマツモトが、ヴィヴィの要請に従う姿勢を見せた。ただし、情報提供は一部だけという条件で。

「計画の全貌を明かす気は?」

「知らない方が、計画全体の成功率を高く維持できるとボクは判断します。必要に応じて、今後も小出しに情報を提供しますよ。では、ヴィヴィ」

「……相川議員の前だけど、優先接続すべき?」

「不要です。すぐにデータが……いきました」

「──ッ」

 直後、ヴィヴィの頭部に搭載された陽電子脳へと、無遠慮に大量のデータが送り込まれる。

 その衝撃に一瞬、ヴィヴィのアイカメラが白目をき、体がビクンとけいれんする。その一秒に満たない反応のあとで、ヴィヴィは自分のメモリーに新たな情報が書き加えられたのを確認した。


 ──相川・ヨウイチ議員が死亡し、『AI命名法』が成立する未来の情報を。


「────」

 わかっていたことだ。それがあるから、ヴィヴィたちは相川を救いにこのビルへきた。

 全ては彼の死を阻止し、『AI命名法』の成立を防ぐために。──彼の死後、相川の最後の仕事を形にせんと動いた世論が、AI命名法の法案を強硬に後押しする。つまり、AI命名法の成立に反対して相川を殺したものたちの行動が、結果的にAI命名法の成立を決定付けたのだ。

 そして、その法案の成立を切っ掛けに、百年後には人類の存亡をかけた事態が幕を開ける。

 そんな絶望的な未来を阻止することが、ヴィヴィの──、


「──君、大丈夫かね?」

「──。ええ、大丈夫」

 焼き付けられた情報に沈黙したヴィヴィを、隣に立った相川が気遣う。その気遣いに応じながら陽電子脳の再起動をかけ、ヴィヴィは平静を装ってそう答えた。

 その応答を、相川がそのまま受け取ったかは不明だが──、

「──作業完了です。これで、このビルのシステムはこちらが掌握しました」

「こんなに早く、かね? いくら君がすごうでだとしても……」

 現実味がない、と相川は考えたようだが、その疑惑の言葉が中断する。

 眼前、制御室にある無数のモニターが点滅し、一拍ののちに映像が切り替わると、ビル内にいる武装した男たち一人一人を映し出した。彼らはいずれも非常階段やエレベーターの前に陣取り、相川議員を逃がすまいと要所を完全に押さえている。

「ただし、十七人全員の居場所がボクたちにはバレていると。相手の数が多い鬼ごっこでも、その位置が割れてたらお話になりません。子どもの遊びも情報戦。悠々と、逃げさせてもらいましょう」

 そんな堂々たるマツモトの言葉に、相川が唾を吞み込んだ。

 その音がやけに大きく、ヴィヴィの聴覚センサーには響いたような気がした。



 ──青年は、奇妙な焦燥感に急き立てられていた。


 口の中に湧き出す唾液がやけに苦く、粘つくそれを何とか飲み下し、首の汗を拭う。腕にはずっしりとした重みを感じる銃があり、それを握りしめることで責任の重さを再確認した。

 この日のため、実行部隊の全員に一丁ずつ配られた銃だ。

 扱いに精通しているとは言えないが、素人と笑われない程度には訓練を重ねている。世辞なのか本当なのか、鍛えてくれた教官からは筋がいいとも言われていた。

 その言葉を心の支えに、今日という決行日を迎えたわけだが──、

「──マズいな。想定より時間がかかっている」

「実働の……おおわらさんが、手間取っているんですかね?」

「というより、邪魔が入ったって話だ。事前の手回しで、相川の秘書と護衛とは分断できてるはずなんだが……嫌な雰囲気がしてきやがる」

 緊張に声の上擦る青年、その傍らに立つ同志が鼻面にしわを寄せて呟く。

 くわという名の、同志の中でもまとめ役の立ち位置にある人物だ。活動歴が長く、この手の啓蒙にも何度も従事していると聞く。

 そんな桑名が『嫌な雰囲気』と感じたことが、妙に気がかりに思えた。

「すまんな。不安がらせたか。あー……」

かきたに、です。あの、桑名さん……啓蒙が失敗することは?」

「当然、ありえる。世の中の大多数の人間は、易い方へ流れていくことに逆らわない。そうした連中が多い方がありがたいやつらにとって、我々の活動は邪魔だからな」

「────」

「また不安がらせたか。すまんな。どうにも、今日の俺は口がうまくない」

 厳つい面貌で眉尻を下げ、桑名が自分の頭を指で搔いた。

 自分の倍ほども年上の相手に、そうまで気遣われる居心地はよくない。青年──垣谷はやや気後れした顔で桑名を見上げ、

「桑名さんは、どうして自分と組んでくれたんですか?」

「それは、我々の方針が理由だ。最も年少のものを、一番経験のあるメンバーがサポートする。古臭い考え方と笑われるかもしれないが、今の世に必要な在り方だよ」

 桑名は頰をゆがめるような笑みを見せ、それから手にした銃器を掲げる。

 垣谷の手にした拳銃と違い、本物の銃撃戦を想定されたアサルトライフル──それを扱う桑名の体格も筋肉のよろいまとったようで、垣谷は貧相な自分が恥ずかしく思えてきた。

「なに、志が重要だ。筋肉なんてあとからついてくる。お前は立派だよ」

 大きな掌で、桑名が垣谷の肩を乱暴に叩く。その思わぬ衝撃に驚きながらも、垣谷は自分の緊張がほぐれたことと、それをした桑名の手腕に感心していた。

「……ありがとうございます、桑名さん」

「ひとまず、今日のところは俺の背中から学ぶといい。少なくとも、今夜の啓蒙に参加したことはお前にとって大きなプラスに……」

 素直な感謝に、桑名が顎を引いて答える。──そんな最中だった。

 ビルの通用口を押さえていた垣谷と桑名の下に、同志からの無線連絡が入った。言葉はなく、コールだけ。──ワンコール、それは『緊急事態』をしらせる符丁だ。

「桑名さん! これは……」

「垣谷──ッ!!

 とっさの事態に顔を青くして、垣谷は桑名の名を呼んだ。だが、次の瞬間、垣谷の細い体が桑名の腕に突き飛ばされ、滑らかな廊下を転がるように後ろへ倒れる。

 直後、垣谷と桑名の間を隔てるように、防災シャッターがごうおんを立てて落ちた。

「シャッター……馬鹿な! 制御室は同志が押さえていたはず……」

「垣谷、聞こえるか!」

「桑名さん! 聞こえます! 桑名さんは無事ですか!?

 閉じた防災シャッターに駆け寄り、分厚い鉄の壁を叩いて向こうへ声を投げかける。

 しかし、その呼びかけへの答えは言葉ではなく、連続する銃声だった。

「──ッ」

 防災シャッターの向こうで、凄まじい銃声が鳴り響く。放たれた銃弾がけたたましい音を立てて鉄の壁に食らいつくが、それは厚い鉄板を抜くことができず、抵抗は無駄に終わる。

「く、桑名さん……」

「……閉じ込められた、か。垣谷、お前だけで逃げろ」

「そんな! 何か方法があるはずです!」

「いいや、無駄だ。おそらく、何らかの方法でセキュリティを奪い返されたんだ。こっちにはシャッターを抜ける方法がない」

 桑名の声に悲嘆の響きはない。彼は冷静に状況を見極め、その上で判断を下している。

 すなわち、逃げ場がないのは事実であり、桑名の啓蒙活動はここで終わりなのだと。

「今すぐ、制御室を奪い返せば……!」

「一人でか? 俺たち以外のメンバーも同じ目に遭っているだろう。手詰まりだ」

「────」

「逃げて、他のセルと合流するんだ」

 桑名の言葉に、垣谷は必死の形相で対策を考える。しかし、経験豊富な桑名が手詰まりと判断した状況に、今日が初仕事だった垣谷が思いつく打開案など何もなかった。

 そのまま、時間だけが無為に過ぎる。そうなる前に──、

「──いけ、垣谷! 俺たちの、火を絶やすな!!

「──ッ!」

 桑名の言葉に、垣谷は弾かれるように顔を上げた。

 そのまま、垣谷はシャッターに背を向け、暗い廊下を真っ直ぐに走り抜ける。桑名の意志を継ぐと、その迷いのない足音で証明するかのように。

「ちぃっ!」

 眼前、垣谷の疾走を阻むようにシャッターが落ちる。続いて、背後のシャッターも落ちる気配。前後を塞いで、垣谷の行く手を阻むつもりだ。

 垣谷は前後、どちらへ向かうべきか考え、即座に決断する。

「うおおおおお!!

 銃撃の反動が手首を、肘を、肩を突き抜ける。

 火薬が炸裂し、放たれる鉛の弾が真っ直ぐに、外に面した分厚い窓ガラスを粉々に砕け散らせ、前後の道を失った垣谷に新たな道を示した。

 疾走の勢いのままに跳躍し、垣谷はぶち割った窓に背中から突っ込む。一気に窓ガラスを突き抜けて、垣谷の体は夜の空へと投げ出された。

 ここはビルの七階、転落死は免れない高さにある。

 だが、それがどうした。

 ──ここで、何もできないままに捕らわれてしまえば、それこそ死と変わらない。

 ならば、その先の行動は自分で決める。

 それが垣谷の、この夜、何もできなかった男の、大いなる決断であった。



 制御室を奪還し、ビル内のコントロールを掌握した時点で勝敗は決した。

「ボクたちを追い詰める役目だったセキュリティ、それと歴史的な和解を果たし、ボクたちは手と手を取り合い、同じ未来へ進むのです。そう、AIを滅ぼし、人類が救われる未来を」

「……軽はずみなことを言わないで、仕事をして」

「やってますやってます。ビル内の全員、シャッターやら電子ロックやらで閉じ込め中~」

 などとのたまいながら、マツモトは文字通り、鼻歌まじりにビル内の男たちを無力化していく。追い込み、囲い込み、閉じ込めて──安全の確保はほどなく完了だ。

「要所を押さえられていたので面倒ではありましたが、これで逃走ルートの確保は完了です。議員にはボクたちのエスコートで、ビルの地下通用口から脱出してもらいましょう」

「現時点で、外部と連絡を取ることはできないのか?」

「そちらは残念ながら。ビルと外との連絡手段は物理的に遮断されているようでして、このあたりはインテリジェンスの高いボクでも何とも無力です。野蛮なのは嫌ですねえ」

「嘆くのは後回しにして。道は?」

「すぐにアナタにもわかるようにナビしてあげますよ」

 ヴィヴィの質問に先回りして、マツモトの回答がやってくる。

 ダウンロードの完了したビルの見取り図、そのマップに経路が光となって表示され、それを可愛らしいテディベアのキャラクターが優しく案内してくれる仕組みだ。

「お気に召しましたか?」

「──。議員、こちらです」

 見えないのにしたり顔を作るマツモトを無視し、ヴィヴィが相川を先導する。

 悔しいが、マツモトの力量は確かなものだ。マップデータに従い、ヴィヴィたちは迷わず、一度も敵と出くわさずに目的の通用口へ到達する。

「荷物運搬用のエレベーターです。これで地下へいって、そのまま外に出ましょう」

「了解」

 非常用電源の力を借りて、居住性に気を遣われていないスペースに体を滑り込ませる。ヴィヴィが先に入って手を差し伸べ、相川の体をエレベーター内で受け止めた。

 そのまま、ゆっくりと鉄の箱は地下へ──。

「──君たちには、なんて礼を言っていいものか」

「まだ早い……と言いたいところですが、ここまでくればさすがに受け取りましょうか。お礼の言葉の価値は薄れませんしね」

「お礼は必要ありません。あくまで、役目を果たしただけです」

「って、ボクが言ってるそばから!」

 そっけないヴィヴィの物言いに、マツモトが不満げに声を大きくする。

 それを正面に、相川は軽く目を見開いたあとで、口に手を当てた。そして、噴き出す。

「……本当に、君たちには驚かされる」

「ええ、ええ、そうですね。ボクも、パートナーには延々と驚かされっ放しですよ」

「議員、あなたが今後も無事であってくれること。それが一番、私たちのためになるんです」

「微妙に会話の歯車がズレてる!」

 ヴィヴィのかしこまった発言にマツモトが声を高くするが、相川はそのヴィヴィの言葉に真面目な顔で頷いた。

「わかった。肝に銘じておこう」

「──はい」

 その会話の終わりと、エレベーターが目的の地下に到達したのは同時だった。

 きしむ音を立てて搬送用のエレベーターの扉が開くと、ヴィヴィが外の無事を確認してから相川を引っ張り出す。

「あとは、通用口を抜けて外へ出るだけ。すぐに知人に連絡を取って」

「ああ。秘書か、事務所の人間に連絡を取ればいい。私を狙ったものたちについては、あとのことは警察組織に任せるとしよう」

 ヴィヴィに連れられ、通用口を歩く相川の表情は安堵と決意の両方があった。

 それを横目に、ヴィヴィは自身の役割を果たせたことの納得を得る。

「────」

 正面、外へ通じる電子制御の鉄扉がある。

 それに手をかけると、腕の中のマツモトの目が赤く光り、電子ロックが外れた。ノブをゆっくりとひねり、扉を押し開ける。

 やや肌寒い外気が流れ込み、すぐにビルの外と通じたことの実感が溢れた。

「これで……」

 助かったと、ヴィヴィとマツモト、あるいは相川の誰かが言葉を続けようとした。

 その直後だった。


 ──凄まじい勢いで、トレーラーが鉄扉ごと地下へ突っ込んできたのは。


10


 ──爆炎が、データセンターの地下通用口を吞み込んでいた。

「────」

 爆風と爆熱が吹き荒れ、冷たい夜に沈んでいた地下は赤々と照らし出されていく。

 黒煙が狭苦しい地下の空気を押し潰し、しやくねつと酸欠の両方で念入りに生き物を根絶やしにせんと襲いかかる。

 何の備えもなく、無防備にこれだけの暴威に晒されれば、一個の人間など助かりようがない。

 そう思わせるほどに、それはこの世の地獄を体現した光景だった。

 だからこそ──、

「──助かった、のか」

 地べたに横たわり、その地獄の光景を遠目に眺める相川は掠れた声でそう呟いた。

 爆発と衝撃が地下を吞み込んだ瞬間、相川は死を覚悟──否、そんな時間すらなかった。

 死神の鎌はあまりに苛烈で、相川は自分の死を認識する間すら与えられずに命を奪われ、その肉体をも炎に包まれてしまっていたはずだ。

 そうならずに済んだのは他でもない。

 ビル内の襲撃から相川を救い、脱出するためのはずを整え、あまつさえ、自分の身を投げ出して相川を助けてくれた少女のおかげだ。

 あの少女に──否、少女の形をした存在に、自分は救われて。

「────」

 遠くから、緊急車両の近付いてくるサイレンの音が聞こえる。

 すすまみれた頰を袖で拭い、相川はよろよろと立ち上がり、周りを見渡した。あの、自分を助けてくれた『少女』の姿はどこにも見当たらない。

 あれだけの爆風、爆炎、何が起こったのかもわからないような惨状。だが、最後の瞬間、あの『少女』が振り返り、自分を庇おうとしたのはわかった。だから、自分はこうできている。

 その事実を確かめ、顔をくしゃくしゃにしながら相川は自分の手を見下ろした。手足は、自分の胴体とくっついている。立って、歩く。考えて、喋る。

 そのどちらも、自分にはできる。できるのだから──、

「ならば、私はするべきことを、しなければ……」

 そのまま、緊急車両のサイレンの方へ歩き出そうとして、ふと相川は気付いた。

 突っ込んできたトレーラーのタイヤ痕が残る道路、そこに投げ出されて転がる物体。それはテディベア型をした多機能時計──流暢に喋り、時にユーモアを、時に毒を交えて発言していたそれは、しかし最後の衝撃に巻き込まれて破損し、機能を喪失している。

 この機械を通して話しかけてきた人物も、所有者の『少女』も、どこにもいない。

 それでも、相川はその壊れた機械を拾い、大切に抱え込んだ。

 そして、決意する。──何があっても、この胸に抱いたおもいを実現すると。

 いくつもの車が停車する音が聞こえて、誰かの足音が駆け寄ってくる。

 それが慌てた形相の警察官や消防隊員たちであることを視界の端に捉えて、相川はゆっくりと彼らの方へと歩き出した。


11


 ──失敗した。

 失敗した。失敗した。

 失敗、失敗、失敗失敗失敗失敗失敗失敗失敗失敗失敗失敗失敗。

 失敗失敗失敗! 失敗を、してしまった! この状況下で、最悪の失敗を!!

「クソ……! クソぉ!」

 頭を搔きむしり、最後の一手を失敗した垣谷は割れんばかりに奥歯をみしめた。

 草むらに潜り込み、遠くをにらみつける垣谷──その視界に映り込むのは赤々とした炎と黒煙、そしてそれを同じく遠目に眺める、相川・ヨウイチの姿だった。


 ──ビルの七階から飛び降り、外へ脱出した垣谷はかろうじてその命を拾っていた。

 覚悟が結果を引き寄せるのだとすれば、まさしく奇跡は垣谷の必死さへの褒賞だ。

 窓ガラスを破り、ビルから転落した垣谷は、そのまま建物に隣接していた自然公園の木々の上に落ちた。何本もの枝をへし折り、地面に叩き付けられた体は重傷を負ったが、生き延びた。

 そのまま逃げることが、ビルに取り残された桑名たち同志の望みだったのは間違いない。

 だが、垣谷はそれで逃げるのをよしとしなかった。地下駐車場の入口を塞いだトレーラーに乗り込むと、ボロボロの体でエンジンをかけ、車を走らせ始めた。

 そのトレーラーで正面玄関に突っ込み、ビルの機能へと大打撃を与える。同志たちを救い出す方法はそれしかないと、痛みの中で考えた最善の方法だった。

 ──そんな垣谷の考えは、微かに聞こえた機械の稼働音に容易く搔き消された。

 それが地下駐車場に設置されている、荷物搬入用のエレベーターの音とまではわからなかった。ただ、その音が自分たちの計画を崩壊させる決定打だと、垣谷は直感した。

 その音の原因を放置してはいけないと、垣谷はアクセルとハンドル操作を躊躇わなかった。


 ──激突の瞬間、垣谷は運転席から道路へと身を躍らせ、爆発を逃れた。

 それでも、トレーラーの激突の衝撃は凄まじく、爆風と爆煙は道路に転がった垣谷をも背後へ吹き飛ばし、草むらへと叩き込んだ。

「か、く……っ」

 ズキズキと、全身が余さず痛みの合唱を始める感覚に垣谷は痙攣する。

 顔中に脂汗を浮かべ、あまりの苦痛に垣谷はおうした。黄色い胃液を頰にへばりつけ、垣谷は黒煙の上がる方角に必死に目を凝らす。

 当然だが、あの爆発に巻き込まれれば人間が助かるはずがない。

 目を凝らしたところで、憎き敵である相川の亡骸を拝めるはずなどなかった。同志たちの目標は果たされた。他でもない、垣谷の活躍によって。

 そんな達成感を胸に、そのまま意識を失えれば、垣谷は幸せだったろう。

 だが、そうはならなかった。

「馬鹿、な……」

 吹き荒れる灼熱の風と、たなびく黒煙を搔き分けて、人影が建物を抜け出した。

 それは、細い体のどこにそれだけの力を秘めているのか、一般的な成人男性よりかつぷくのいい相川を肩に担いで、足を引きずるような速度で坂を上がっていく。

「──ぁ」

 こうこうとした赤い炎を背後に、頭上、雲に隠れる月が覗いた。

 降り注ぐ銀色の月光が、地上に立つその細い影を薄明かりの下に照らし出す。

 それは、体中におびただしい裂傷と損耗を負った、一体の少女の形をした機械だった。

 煤に塗れ、ボロボロになったツナギを纏ったその機械は、美しくコーティングされた人工皮膚を焼けただれさせながら、しっかりした足取りで炎の範囲から相川を遠ざける。

 そして、完全に熱波の影響がない地点まで相川を運ぶと、ゆっくりと地面に横たえた。

 瞬間、くすぶっていた炎が最後の息吹とばかりに炸裂し、坂の半ばにかがみ込む機械と相川の下へと熱風が届く。ただし、その熱風に二人を焼くほどの力はない。

 熱風にできたことは、ささやかなことだけ。

 ──相川を背に庇った機械、それが頭から被っていたフードを外して、その面貌を赤い月下に晒し者にしたことだけ。

 その、月下に溢れ出した長い髪に、白い横顔に、炎を見据える瞳に、目を奪われる。

「────」

 一体の機械が、憎むべき男を救い出した機械が、そこにたたずんでいた。