──歌が聞こえる。歌が流れている。歌が、響いていく。


「はっ……! はぁっ……!」

 息を切らして、歌声が響き渡る館内を必死に男が駆けていた。

 額に汗し、懸命な形相だ。それでも遅い。姿勢は悪く、日頃の運動不足がたたった走り方なのは素人目にも明らかで、今にも足をもつれさせて転びかねない。

 しかし、男は必死だった。懸命だった。人生で、一番早く走った。

 少なくとも、その意気込みだけは本物だった。

「ぐっ!」

 曲がり角に差しかかり、曲がり切れずに壁に激突する。ぶつけた肩がひどく痛んだ。骨にヒビの一つぐらい入ったかもしれない。構わない。勢いが死ななかった幸運に感謝する。

 そのまま、転がり込むように正面、突き当たりの部屋へと飛び込んだ。

「シャッター、下ろせ!!

 しやがれ声で叫んだ直後、かかとかすめるような勢いで部屋の入口にシャッターが落ちる。

 本来、安全装置が働くはずの機構を完全に無視した挙動。だが、男はそれに目もくれずに立ち上がり、前へ、部屋の奥へと向かった。

 背後、閉じたシャッターの向こうからはいくつもの銃声が聞こえている。

 防災シャッターは分厚く強固に作られているが、それでも破壊を目的にした攻撃にさらされ続ければ長くはもたない。

「構わん。時間はかけない……」

 ──すでに、準備は完了している。

「────」

 ただし、万全とは言えない。

 あくまで必要最低限の準備を整えただけ。それが動かし難い現状だ。だとしても、ここまで辿たどり着くだけでも並大抵のことではなかった。多くを犠牲にした結果だ。

 世間に背を向け、石を投げつけられ、誰からの理解も得られず、独りで走り続けた。

 ただ一つの約束と、人としての使命感──最後に一片、父親としての意地のままに。

「システム起動、実行シークエンス……オールグリーン」

 目の前の端末に指をたたきつけ、膨大な量のデータを処理していく。

 それは明らかに人域を超えた行いだ。当然、男が一人で処理可能なタスクを超過している。それ故に男は一人ではない。ここまで、一人で辿り着くことはできなかった。

 今はここにいない、たった一人の──否、たった一体の協力者が、この場に男を辿り着かせるための無茶を買って出てくれたおかげだ。

 施設のシステムを掌握し、男の鈍足がここへ辿り着けるようにサポートしてくれた。それが片道切符に過ぎず、今生の別れになる可能性を知っていても。

 ──本当に、父親失格だと、自分で自分が呪わしく思えてくる。

「時空座標、固定。プロジェクト『シンギュラリティ』──第一段階、コンプリート」

 内心の落胆と裏腹に、男の肉体は自身に課していたタスクの九割を終えていた。

 眼前、男が端末を叩くたびに様変わりするモニターには、無数の数字と文字列が入り乱れ、人類の科学技術を結集した、『奇跡的愚行』を実現しようとしている。

 実際に、その机上の空論を実証したものはいない。

 何もかも手探りの果てに辿り着いた、全てぶっつけ本番の一発勝負──。

「────」

 目をつむり、息を整えた。

 眼前のモニターは、最後の一押しを──エンターキーが押される瞬間を待っている。

 それを押せば、全ての答えが出る。

 自分の選んだ道のりが正しかったのか、間違っていたのか、それが証明される。

「……いや、そんなことに意味などないな」

 証明したいのは、自分の行いや信念の正誤ではない。

 そもそも、正誤の答えならすでに出ている。──自分は、大いに間違っていた。間違い続けた。

 だから、求めるのは正誤ではない。ただ、正誤の境界にない別の答えだ。

 多くを間違い、大部分を誤り、大半が正しく在れなかった人類。そうして愚かな選択をし続けた知性は、しかし、それでもあらがおうと必死にき続けた。

 求めるのは、その結末。抗った先にあるのが、終わりと始まりのどちらであるのか。

 ──今、男はキーボードの形をした審判の扉に手をかける。

「────」

 背後、けたたましい音を立て、銃火器の乱射を浴びていたシャッターがはじけ飛んだ。防弾性に乏しい扉は容易たやすく吹き飛び、もうもうと硝煙が室内に流れ込む。

 ひどく金属質な物音と共に、多数の器物が室内へと足を踏み入れるのが気配でわかった。

 振り返りもしない。

 ただ、男は──まつもとおさむはエンターキーに指をかけて、

「──人類を。未来を頼んだぞ、ヴィヴィ」

 松本の指が、エンターキーを押し込んだ。

 モニターに表示される無数の文字列と数列がすさまじい勢いで入れ替わり、『シンギュラリティ』と表示されるプログラムを起動する。

 それはネットワークを介し、世界につながり、膨大な電力の力を借りて、時空に穴を空ける。

 こじ開け、ねじ込み、流れ込み、遡る。──情報の奔流が、爆発する。

 それは、光の姿を借りた反撃の一矢だった。

 放たれた矢は真っ直ぐに、松本の手を離れ、世界のくびを逃れ、その場所へとほとばしる。

「これで……」

 満足げに唇を緩め、松本はうつむいた。

 背後、銃火器の照準が自分へ向けられる。振り返る暇もない。

 銃声が連続し、硝煙の香りが強く室内に立ち込める。


 ──今、さいは投げられた。