喜劇役者・たちばなじゆんめんぼくやくじよ、と二十二年後にして思う。笑うしかないところでおおになる十五歳の私は、素晴らしい喜劇役者だった。顔面をそうはくにし、手を震わせ、とことん大真面目に大真面目だった。

 チャップリンいわく、人生はアップで見ると悲劇だが、ロングで見ると喜劇である。ここでいったんロングに引いて、橘淳子の名演を別の角度からたんのうしてみよう。

『私は本当はそういう人じゃないの』だの『これは特別だから』だのと言われて、はどう思ったことか。へえ、そうなんだ、そういう人じゃないのに特別にセックスしてくれるの、それはありがたくて涙が出そうなお話だこと、恩に着るわ、めぐふだをどうぞ──ただそれだけのこと。苦笑いして反省すればそれで済むこと。

 こんな喜劇役者につきあってくれた真名のしんぼう強さに、あらためて感動する。ありがとう、真名。



             



 私はそのめぐふだをつかみとった。短冊の束ねてあるところが破れて切れる。

「お持ちになりますか?」。は平然と言った。

 筆ペンのインクもまだ乾かないその恵み札を、二つにちぎり、さらに重ねて二つにちぎる。

 なにか言いたくて、でもなにも言えない。私は黙らされていた。完全に。

 私は理解した。真名は、月の荒野なんか妄想しない。この地上で、この過去と未来のあいだで、ゆかりの目をえぐり、恵まれさんを勤め、私とセックスする。

 真名が生きている世界はひとつ、たったひとつ、この地上しかない。地上から遠く切り離された月の荒野なんか真名は妄想しない。真名は常にこの地上にいる。真名が生きている時間はひとつ、たったひとつ、過去と未来のあいだしかない。永遠の現在なんか真名は妄想しない。真名は常に過去と未来のあいだにいる。

 私は確信した。真名は、お金を隠し持ったりしない。真名は常に恵まれさんをしている。恵まれさんを勤めることも、私とセックスすることも、どちらも同じこの地上で、同じ過去と未来のあいだでなされる。だからあんな恵み札を書けるのだ。例外も、特別も、妄想もなく、真名はたったひとつの現実とたったひとつの自分だけを生きている。

 本物だ。真名は、本物の恵まれさんなんだ。

 私は逃げ出した。玄関で靴をはこうとしたら、ロングブーツだからもどかしくて、はかずに手につかんでソックスのままで外に出た。エレベーターの前まで小走りに歩き、エレベーターを呼んで、乗って、一階につくまでのあいだに靴をはいた。よろよろと建物から歩み出る。そこで立ち止まる。

 ……私、今、なにをした?

 出てきたばかりの建物を振り返り、六階にある真名の部屋のあたりを仰ぎ見る。

 真名にしてみれば、私が鹿なことを言うから、お返しに馬鹿なことをしてみせただけ。私が笑ってごめんと言えばそれで終わりだったはず。

 恵み札を破いたのも、逃げ出したのも、私の勝手な思い込みが原因だ。真名はお金を隠し持っているはずだと、月の荒野のような妄想をしているはずだと、私は決めつけていた。真名はただの一度だって、そんなそぶりを見せたことさえないのに。自分ひとりの勝手な思い込みをひっくり返されて、そのショックを真名にぶつけてしまった。

 戻って、謝らなくちゃ。私はきびすを返した。

 でも、足がすくむ。真名が、怖い。

 空は青からのうこんに変わろうとしている。街灯には明かりがともり、星もちらほら見える。着たばかりのコートは冷たく、はいたばかりのロングブーツは重たい。息が白い。

 逃げることはできない。戻ることもできない。この地上の、過去と未来のあいだに立って、私はどこにも行けず、ぼうぜんとしている。



             



 ある日、私は娘と一緒にバスに乗っていた。娘を歯医者に連れていった帰りだった。まだ日の暮れない午後、空席の目立つバスの中、二人掛けのシートに陣取り、娘を窓側に座らせていた。娘は九歳になったばかりだった。動物のあどけなさを日に日に失ってゆく一方で、人間らしさはまださるの域を出ない。

 そのとき、娘が私にたずねた。幼稚な意地悪をしかけるつもりの顔で。

「どうして空は青いの?」

 父は、『いや空は黒い』と言った。は、相手の目をふさいで『まだ青い?』と問い返した。

 私には父の真似はできない。誰の目にも毎日のように見えている現象を、こんなにあっさりと無視していいのなら、科学は必要ない。

 真名の真似は、もっとできない。それに真名だって、この場合にはあんなことはしないだろう。なら、どう答えただろうか。わからない。真名は今でもこうしてなぞを投げかけてくる。

 十六世紀、デンマークの名門貴族ティコ・ブラーエは、こんな謎にとらわれた。「星の世界はどうなっているの?」。彼以前の人々は、書物のなかに、つまり先人の説に、答えを求めた。先人の説は、現実の天体の動きとは食い違ったけれど、彼以前の人々は誰もそれを解決できなかった。そこでティコ・ブラーエは、名門貴族として受け継いだ私財を投じて、巨大な天体観測装置を建造した。彼は、星に答えを求めたのだ。

 私はティコ・ブラーエの示した道を歩んでいる。大気の光学現象を調べることで大気という邪魔物をつらぬき、宇宙望遠鏡にもまさる精細な像を得る、それが私の仕事だ。せいの輪さえ見えなかったティコ・ブラーエの時代から、エッジワース・カイパーベルト天体が見える今日に至るまで、私たちはずっと同じことをしている。「星の世界はどうなっているの?」。その答えを求めて、星のささやきを聞き分けようと、耳をそばだてている。

『どうして空は青いの?』。わかっている、娘は本当は空そのものには興味がない。でも、だからといって、違う答えを返すわけにはいかない。これは私自身、私の現実だ。

 私は答えた。

「お空にいてごらんなさい」

 娘は、ちぇっ、という顔をして黙り、バスの窓の外へと顔を向けた。