「お茶、どうぞ」
言って、ちゃぶ台に置く。私は起き上がる気になれず、仰向けに体を伸ばしたままで、ふたたび空に目をやった。青空。
その青空を、かつて父の言ったように、真っ黒な暗闇だと思うことにする。
砂漠のような果てしない月の荒野を、思い描く。大気のないこの世界では、目に見えるすべてが刺々しいまでに鮮明だ。暗闇の空に浮かぶ太陽、その深すぎるコントラストは、地上にはありえない。
果てしない月の荒野に、真名と私だけがいる。過去もなく、未来もなく。
……妄想だけどね。
こんな妄想にひたるのも無理はないと思う。だって、このシチュエーションは、よく似てる。縁が真名に両目を傷つけられたときと。あのとき縁は真名の部屋で、こうして仰向けに横になって、青空を見ていたという。
果てしない月の荒野に、真名と私だけがいる。私のこの妄想は、私だけのものなんだろうか。縁の目を傷つけたときの真名も、まさか月の荒野ではないとしても、過去もなく未来もない、罪もなく罰もない世界を、思い描いていたんじゃないだろうか。
真名の宗教論を思い出す。『宗教は、それらしく見えないところにもある。空気に水蒸気が含まれているみたいに』。でも月には空気がなく、だから水蒸気もない。
……妄想、妄想。
でも、ごくごく単純に、興味がある。ああしたら、どうなるんだろう?
ここは本当は月の荒野ではなく集合住宅の一室で、真名には傷害罪の過去があり、恵まれさんを勤めあげて両親のもとに戻るという未来がある。でも事件の前にも過去と未来はあったはずなのに、真名はあんなことをした。もしかすると真名は今度も同じようにするかもしれない。でも、そうなりそうになったら、その前に逃げる。事件のときの縁とは違って私は、不意打ちにされるわけではないから、事の成り行きを知っているから大丈夫、逃げられる。
私は言った。
「ねえ、真名、どうして空は青いの?」
*
突然ですがここでクイズです。このとき真名はどんな顔をしたでしょうか? 三択です。
一番、目を伏せた。
二番、微笑んだ。
三番、表情を変えなかった。
さて正解は──わからない。そのとき私は空を見ていたから。
真名は黙って立ち上がり、仰向けに横たわっている私に馬乗りになり、私の眼鏡を外し、手のひらで私の両目を覆った。目をふさがれる瞬間には、見つめあっていた。真名は、おそらく、緊張していたと思う。
真名の手は柔らかくて冷たい。真名の体の重みは、のしかかるようではなく包み込むようで、気持ちがなごむ。
いつもより低い声だった。
「君が僕を」、その先の言葉はなく、真名は身をかがめ、唇で私の唇に触れた。
*
過去もなく未来もない。
「もっとする?」
あるのかもしれないけれど、思い出せない。
「もっとって、何」
だから罪もなく罰もない。
「NGワードその一」
永遠の現在だけがある。
「いいよ」
感覚だけがある。
*
だから妄想だっていうのに。
真名は私の上からどくと、カーテンを閉め、部屋の明かりを消し、押し入れから布団を出した。そのあいだに私は正気に戻った。真名とNGワードその一、って、私はそういう人じゃない!
「ね、──」
言いかけて、ためらう。舌の根も乾かぬうちに、とはこのことだ。カッコ悪すぎる。
「なに」
「私は本当はそういう人じゃないの」
眼鏡をかけなおそうとして、さっき真名が外してそのままだと気づく。どこ? ちゃぶ台の上にあった。
「そういう人、って?」
「女の子と、こういうことする人」
眼鏡をかける。どうせすぐ外すのに。って、本当にするの? だって今から逃げるなんてカッコ悪い。
「なら、やめる?」
「する、するけど」。言っちゃったよ。ええい、カッコつけだけが人生さ。「そうじゃないんだってこと、わかっててほしくて」
「そう」
「これは特別だから」
「そう、ありがとう」
真名は私のカーディガンのボタンに手をかけた。
「待って、全部私がしてあげる、してもらうんじゃなくて」。二人ともするほうをやりたがって、じゃあやめる、ってなことにならないかなと期待した。けれど真名はあっさり手を下ろして、
「そう」
逃げ場なし。
私は眼鏡をかけなおし、ちょっと迷ってから、外した。
*
真名は目を覚ますと、すぐに起き上がり、服を着た。
カーテンの隙間から漏れてくる光は、もう夕方のものだ。暗い部屋のなかで、真名の腕や背中が白く輝く。