話を元に戻そう。
真名は、仰向けに横になっている私の上に、馬乗りになって──」
いくら『そういう感覚がない』とか言い訳されても、こんな話、面白いわけがない。といっても私にそういう感覚がわかるわけじゃなく、いや、まあ、わからないでもないけれど、現実問題としてありえない。そして現実問題としてありえないからといって嫌な気分にならないってものでもない。
私が頭の中で言い訳がましくしているあいだにも、縁はしゃべりつづけた。
「──手のひらで私の両目をふさいだ。
『まだ青い?』と真名は尋ねた。
『そりゃ、青いよ』
『この目がもう二度と見えないとしたら?』
『青いに決まってる』
『なら、試してみて』
真名は私の両目に指を突っ込んだ」
*
淳子、最初にあなたに予告したね。『きっと、このトンネルが貫通するまでのあいだに、私はなにか別のものになるだろう』って。どうやら、そういうことになったらしい。出しゃばらせてもらうよ。
気持ち悪い言葉を投げかけられたとき、真名は相手を黙らせようとした──私がそう主張したら、それをあなたは矛盾だの軽薄だのと言った。そんなことを言われたら、私にも言いたいことがある。
真名のこの行動を、ほかにどう思ったらいい?
私は前に、こう言ったよね──『真名は気持ち悪い言葉をかならず排除する。そのためなら、恐怖を感じることもないし、どんな手段にでも訴える。どんな手段にでも、だ』。真名のこの行動を、ほかにどう理解しようがある?
もしかすると、我が創造主どのには、わかるのかもしれないね。あなたには私にない感覚がある。でもあなたの理解を私に押し付けないでほしい。違う感覚を持つ人間は、違う宇宙に住んでいて、違う理解をするんだよ。
このとき真名が私に教えようとしたのも、そういうことじゃないかな。「空は青い」という私の認識が、私の視覚と切り離すことのできない、ほかの宇宙では通用しないものだと、教えようとしたんじゃないのかな?
*
「おや、顔色がすぐれないね。お腹が減ってるんじゃないかな。もうひとつケーキセットを頼もうか。ずいぶん長居もしていることだしね」
女子校の王子様はウェイトレスを呼び止めると、私のぶんまで勝手に注文した。
「目は──」
それだけ言うのがやっとだった。
「ご覧のとおり見えてるよ。運がよかったのか、真名が手加減したのか、人間の体が丈夫にできてるのか、まあ全部だろうね」
「大問題になった?」
「なった。退学に保護観察」
どうして転校の理由を秘密にしているのか、よくわかった。めったなことではこんな話は聞かせられない。
「退学はそれだけで済む話だけれども、親子に退学はない。動機が理解不能だっていうんで、真名のご両親が大変困惑なさってね。真名はああいう性格だから、私が真名を弁護するような格好になった。この長広舌が役に立ったよ。私が今日したような話をして、真名とご両親の関係をとりなしたわけさ」
「どうしてそこまで」
「友達だもの」
「あんなことされても?」
「困った話ではあるけれど、縁を切るほどのことじゃない」
そのとき、さっき縁が注文したケーキセットがやってきた。私は、それがどんなケーキかさえ見ないままフォークで切って口に放り込み、甘いかどうかさえ味わわないまま飲み込んだ。
なんだ、やっぱり、あんたら、デキてるんじゃん。結局はノロケ話か。くそっ、くそっ、くそっ。
「ご両親との関係をとりなしたといっても、最小限のものだよ。未知の怪物に対するような恐怖感を取り除いた程度だ。
そこで第二幕、『いかにして真名は恵まれさんになったか』だ」
女子校の王子様は第二幕を開演した。
保護司という仕事がある。犯罪者(少年を含む)の更生を助けるボランティアだ。仕事の性質上、僧侶や牧師がよく保護司をしている。真名を担当した保護司も、ある寺の僧侶だった。その僧侶が、コムズ白山の経営陣のひとりと親しかった。
コムズ白山の経営陣のあいだでは何年も前から、恵まれさんを勧請したい、という話があった。話題性があるし、空きテナントも活用できる。問題は恵まれさんの人材だった。恵まれさんは、お金に触ってはいけないし、一人暮らしでなければならない。そんな不便で孤独な暮らしをしようという人、しかもコムズ白山のイメージをよくしてくれそうな人、そのうえ恵み札を書ける人、という条件の揃った人材が見つからなかった。
真名は、条件が揃っていた。
真名は両親に対して、「まともになるための修行をしています」というところを見せる必要がある。修行をやりとげれば「まともになった」ということで、両親との関係が修復される、という筋書きだ。恵まれさんの不便で孤独な暮らしは修行というわけだ。
派手なところのない真名の性格や雰囲気は、同年代には地味なだけと思われがちで受けないけれど、子供がショッピングセンターで使うお金なんてたかが知れているからどうでもいい。大人の、たくさんお金を持っていて使う層には、真名の落ち着いた雰囲気は受けがいい。しかも真名は書道を本格的にやっていて、くずし字まで書ける。
「こうして真名は恵まれさんになった。
そして第三幕、『いかにして私は執事になったか』だ」
「執事ぃ?」
*
女子校の王子様はずいぶん長いこと、クックックッと笑っていた。
執事って、西洋の貴族のお屋敷のもんでしょ? 縁のどこが執事? でも考えてみると、登下校のときには縁は真名のそばを離れない。お金に触ってはいけない真名にとって、縁はなくてはならない存在だ。執事っぽい、とは言えるかもしれない。
縁はようやく笑い止むと、説明を始めた。
「執事というのは古い言葉なんだ。平安時代の朝廷には、執事という官職があった。大きなお寺だと、宗派によっては、今でも執事という役職がある。出家せずにお寺の事務をする人の役職だ。──というのは、真名を担当した保護司さんからの受け売りだけどね。
この話を聞いたとき、出家せずに、というところが気に入ってね。執事を名乗ることにした。講──恵まれ講の役職名として採用してもらったよ。昔はこの役目は『財布当番』と言って、持ち回りでやっていたらしいけど、持ち回りじゃないのに『当番』はおかしいだろう?」
縁も恵まれ講の関係者なのか。そういえば、真名のためのお金、つまり講のお金を預かっているんだから、講と無関係なほうが不自然だ。
「命名の経緯はこれでわかったかな? それじゃあ次は、なぜ私が、って話だね。
なぜだと思う?」
縁は私の返事を待った。
答えたくない。真名に「あなたでなきゃ嫌」と泣いて頼まれたから、とでも言わせたいのか? ノロケるのもいい加減にしろ。くそっ、くそっ、くそっ。
縁は私の返事を待ちつづけた。とうとう私は根負けして、
「……友達だから?」
「最大の理由だね。でも、それだけじゃない。
こんなことを言ったら奇妙に聞こえるかもしれないけれど──私は、責任を感じてるんだ。もし私が真名に近づかなかったら、真名はあんなことをしなかった」
どれだけノロケりゃ気が済むんだこの女!
「でも、おかしいと思わないか?」
「何がよ」
「近づいたことが悪かったのに、離れようとしないだなんて。
最後に一言。真名はおそらく同性愛者だ。私はそうじゃない」
女子校の王子様は伝票を持って席を立った。
*
『竹取物語』。かぐや姫は月の世界の罪人で、罰として地上に流されてくる。でも、かぐや姫の罪がどんなものだったのか、『竹取物語』のどこにも書かれていない。
真名を、かぐや姫になぞらえてみる。
真名は罰として恵まれさんをしている。その罪は、わけがわからない理由で友達を失明させかけたこと。『なら、試してみて』、そう言って両目をえぐろうとする真名。それは許されない恐ろしい罪だ。「わけがわからない」ために許されない、恐ろしい罪。罪人を、人間ではなく、未知の怪物に変えてしまう罪。
でも、この地上ではひたすら恐ろしいことが、月の世界では別の色合いを帯びる。
家族と暮らす集合住宅の一室のかわりに、砂漠のような果てしない月の荒野を舞台にしてみる。真っ黒な空には地球と太陽が、大気に和らげられることなく厳しく輝く。空が青くないことも、呼吸する空気がないことも、二人がどこから来たのかも、どうでもいい。この月の世界には、「わけがわからない」ことは存在しない。二人のほかに誰もいないから、わかる必要のある人もいない。
この月の世界で、『なら、試してみて』、そう言って両目をえぐろうとするのなら──
その感覚を思い描く、というより、その妄想にとりつかれる。
過去もなく未来もない月の世界では、命さえ惜しむ意味がない。ましてや身体の傷は、ただ感覚だけの出来事にすぎない。両目をえぐる・えぐられるという未知の強烈な感覚は、それを与える者と与えられる者を、深く結びつけるだろう。
でも、かぐや姫のいた月の世界には、罪と罰がある。なら、きっとそこは、この地上とあまり変わらない世界だ。真名に両目をえぐられたのはあのおしゃべりな縁で、彼女は過去と未来を饒舌に語る。砂漠のような果てしない荒野、過去もなく未来もない世界は、私の妄想にすぎない。
私の──でも、私だけの?
真名はどんなつもりで、あんなことを。過去と未来、罪と罰のある世界のなかで、どうしてあんなことができたのだろう。
過去も未来もない荒野は、真名の妄想でもあるかもしれない。そしてこの「かもしれない」という理性的な留保は、私の妄想のなかでは溶けてしまい、真名は私と同じ荒野にいるということになってしまい、私はそこから抜け出せない。
縁が最後に言った、『真名はおそらく同性愛者だ。私はそうじゃない』、あれは、ものの喩えなのかもしれない。二人のあいだにはなにか重大な食い違いがある、と言いたかったのかもしれない。真名は過去も未来もない荒野にいて、自分はそこには入れない、と縁は言いたかったのかもしれない。
あらゆる「かもしれない」は妄想のなかで溶けて、縁の入れない荒野で真名は私の両目をえぐる、その瞬間の前もなければ後もない永遠の現在のなかで。
*
それはそれとして。妄想は妄想、真名は真名。
あんな話を聞いてあんな妄想をしたせいですごい夢を見た、なんてこともなく、平凡な目覚めと平凡な朝、いつもどおり学校へ行くバスに乗り、コムズ白山の近くのバス停で、真名とおまけが乗ってくる。おまけが真名のPASMOカードを持っていて、「これはこの子の定期です」と言いながらタッチする、毎朝の見慣れた光景。
「おはよう」と私。普段どおりのなにげない挨拶の、次の瞬間、真名と目が合う。
あ。
えっと、その。
別に、なんでもないの。
ほんと、ぜんぜん、なんでもないから。
声には出さず心のなかで、ごまかしと言い訳が爆発する。あんな話を聞いてしまったこと、それであんな妄想をしたこと、どちらも別に悪いことではないはずだけれど、なぜか言い訳したくてたまらない。妄想は妄想、真名は真名、そう割り切ろうとしても、割り切れない。眼鏡をかけなおそうとすると、視野が震えた。指がかすかに震えているせいだった。
真名の涼やかな一重まぶたの目が、まるでただの人のようにごく普通に愛想よく笑う。
「おはよう」
それはいつもどおりの『おはよう』なのに、なにもかもお見通し、と言われているような気がする。
私はうろたえながら口を開いた。
「真名って実は」お金、隠して持ってるんでしょ──『実は』のところまで言ってしまってから、口を閉じる。
自分のしていることに、呆然とする。わけがわからない。どうして今、口を開いたの? どうして途中で口を閉じたの? わからない。でたらめだ。
私の不審なそぶりに真名も気づいたらしく、不思議そうに首をかしげている。でも、本当に首をかしげてる? なにもかもお見通しで微笑んでるんじゃないの?
ひとつ確かなこと、それは、訊きたくてたまらない、ということ。実はお金を隠して持ってるんでしょ? そうだ、もうひとつ確かなことがある、それは、訊きたくてたまらないのに訊けない、ということ。
訊けばいいのに。それでたとえ真名を怒らせてしまっても、このくらいのことならきっと許してもらえる。でも訊けない。
頭がぐらぐらしているところへ、真名が言った。
「縁から聞いた」
すかさず縁が、
「おや、いきなりだね。あとのお楽しみに取っておけばいいのに」
「縁はしばらく黙ってて」
真名にしては珍しく強い口調だった。そして、
「私が怖い?」
「どうして」
私はなにも考えずに、というより考えることのできる状態ではなく、素直に返事した。真名が怖い? まさか。怖がるようなことなんて、あったっけ? 思い出せない。
「傷害事件の加害者だから」
「危ないんだろうけど、怖くない」
これも素直な返事だった。真名は危ない、でも怖くはない。
「そう」
真名は微笑んだ。もし野生動物が笑ったらきっとこんなだろう、と思えるような、生々しい微笑み。
縁の言葉が耳に甦る、『真名はおそらく同性愛者だ。私はそうじゃない』。もしかしたらあれは、ものの喩えなんかじゃなくて。
「じゃあ、これを預かってくれないかな」
縁はカバンから財布を出した。真名のためのお金やPASMOカードが入っている財布だ。
「ずっとじゃない、とりあえず明日、学校で会うまででいい。こいつのせいで、通学時間が長くなって辛いんだ」
私なら通学時間は変わらない。お安い御用、と財布を受け取ろうとして、気づく──これを預かっていれば、真名がお金を隠し持ってるかどうか、わかるんじゃない?
どこまでも都合のいい妄想がたちまちわいてくる。たとえば、夜、コムズ白山が閉まったあとで、真名は突然おでんが食べたくなる。遠くにいる縁をおでんのために呼びつけるのはさすがに気がひけるけれど、近所にいる私ならと思い、コンビニに出かける支度をしながら私に電話をかける。でも私はあいにくお風呂に入っていて出られず、真名は留守電にメッセージを残す。コンビニに着いてから何度かかけなおしてみても、やっぱりつながらない。待ちくたびれる真名、目の前にはおでんが煮えている。客も店員も、真名のことを見知っている様子はない。それで真名は、隠し持っているお金でおでんを買ってしまう。私はお風呂から出ると、留守電メッセージを聞いて、真名にかける。すると真名は、秘密という意識もなくあっさりと、隠し持っているお金で買ったからもういい、と私に告げるのだ。
というような妄想を繰り広げるあいだ、私は固まっていた。
「ああ、すまない、身勝手なお願いだったね」
縁は財布をひっこめようとした。私はそれをあわててつかんだ。
「やる」
財布に触れた瞬間、感電でもしたように手が震えた。両手で財布をつかんで、やっと手の震えが止まる。こんな私の、どう見ても動揺しまくりの様子を、二人はどう思っているだろう。真名の過去を知ったときのショックがまだ尾を引いている、とでも思っているんだろうか。
そのとき突然、思いつく。きのう、縁が別れ際に言った、『近づいたことが悪かったのに、離れようとしないだなんて』、あれは、もしかして──
「──明日まででいいの?」。尋ねながら私は、縁の表情をけっして見逃すまいと、目を皿のようにした。
「今日のところはね。ちゃんと返してもらうよ」
女子校の王子様は、人をからかうように微笑んでいる。その微笑みの向こう側を見透かしてやろうと、じっと見つめていると、縁は真面目な顔になり、うなずいた。私もうなずき返す。
きっと縁は近いうちに、真名から離れるつもりだ。
*
だからって、いきなり二人きりにしないでよ。
「この財布のなかのお金が、いわばお小遣い。真名と私の裁量で使っていいお金だ。このお金で買ったものも恵み札になるから、あまりたくさん使い込むとバレるよ。それと、急な出費に備えて、できるだけ倹約」。縁はそれだけ説明すると、同じバスに乗り合わせていた同級生のところに行ってしまった。ちなみに財布のなかの現金は二千円ちょっとだった。
おまけがいなくなってせいせいする、はずなのに、落ち着かない。なにか言いたいのに、なにも思いつかない。枯れ木も山の賑わい、あんなのでも少しは役に立っていたらしい。
やっと言うことを見つけて、尋ねる。
「ご両親はお元気?」。って、あああ、さわやかな朝になんて重たいことを。真名はご両親と離れていわば流刑中の身だというのに。
「ええ。淳子は?」
「父は元気。母はもう亡くなってて」。すると真名は悲しそうにうつむいて、
「そうだったの。悪いこと訊いてごめんなさい」
ダブルで重たい! といっても私には重くないけど、訊いてしまったほうには重いものらしい。
訊きたいこと──本当はお金、隠して持ってるんでしょ? って、それは訊けない。
「真名が今住んでるところって、コムズの近くだよね? 私のうちからそんなに離れてないよね? 今日、もし夜中におでんとか食べたくなったら、電話して。このお財布、持っていってあげる」
さっきのおでん買い食い妄想にもとづいて、おためごかしを言う。言ってしまってから、自己嫌悪。下心って嫌だわ、相手には見抜かれなくても。
「……さっきから淳子、ちょっと変」。見抜かれていたかもしれない。
「悪かったわね!」って逆ギレかよ私! 言った先からあわてて手を振って頭を下げ、「ごめんなさい、私、今日ちょっとおかしいんだわ」
真名はくすくすと笑った。
「え、ここ笑うところ?」
真名は微笑んで黙っている。
「そういえば笑うところかも?」
真名はやっぱり黙ったまま、思わせぶりに首をかしげる。
バスを降りても学校に着いても真名は口をきかず、一時間目の授業が始まって別れるまでずっと、私がなにか言っても、黙ったままうなずいたり、笑ったり、そっぽを向いたり、首をかしげたりしていた。
その場では、真名がなんのつもりかわからなくて、じれったかったし、いらいらした。でも授業が始まってから、口をきかない真名のしぐさや表情を思い出してみると、じれったくもないし、いらいらもしない。それどころか、その、なんというか、かわいいとかいうのじゃなく、とはいえ、かわいくもあるのだけれど、それどころじゃなく、ああ、もう、どうにもこうにも。
そりゃ真名は、かわいくもあるし、美しくもある。でも私はそうは言いたくない。どちらの言葉も、腰が引けている。どちらも客観的なことを表わしているから、自分以外の人が見たらどう思うかが問題になってしまう。私のこれは、自分以外の人が見たらどう思うかなんて、全然関係ない。
ほかに言いようがないし言いたくない、たったひとつ私に忠実な言葉、それは『かわいい』や『美しい』ではなく、『惹かれている』でもなく、『好き』。
*
ストーカーから片思いへ。これは改善なのかそれとも悪化なのか。じゃあ両方ってことで。
だって真名のお金のことは今でも気になる。どこか怪しいところに真名を連れ込んで裸にひん剥いて服とカバンを調べたら一石二鳥ですっきりするだろうな、とか思うくらいに。そんなことをしたら当然、徹底的に嫌われ避けられる、警察沙汰になるかもしれない、それが、すっきりする。
そうやって悪魔になる以外、真名になにすりゃいいのよ。怪しいところで普通するようなことなんか別にしたくない。どうして世の中のオスメスどもは、好きな相手とデートだ旅行だセックスだと盛り上がれるんだろう。不気味だわ。あっちからしたら私が不気味なんだろうけど。
お昼休みになって、やっと真名は口を開いた。
「もう平気?」
「たぶん」
そこへ女子校の王子様がやってきて、
「やあ淳子、調子はどう?」
「調子っていっても、財布、まだ使ってない」
「それじゃなくてさ、今朝のあなたはだいぶおかしかったから」。普通は『ちょっと』とか言うところを(真名だって『ちょっと変』と言った)、『だいぶ』だなんてぬかすのが、いかにも縁らしい。
「人生っていろいろあるのよ。縁は違うの?」
「想像はつく。でも実感したことはないな。じゃ、またあとでね」
女子校の王子様は去っていった。
さて、おまけ抜きで真名とお弁当だ。弁当箱を開けると、真名が言った。
「今朝の、おでんの話」
真名がコンビニで買い食いするっていう妄想にもとづいたあれね。下心のある発言を蒸し返されて、自己嫌悪で胸がきしむ。でも、あれはなかったことに、っていうのもおかしい。
「おでんじゃなくてもつきあうよ」
「おでんがいい。でも、コンビニのじゃ嫌」
「ファミレスとか? おでんなんてやってるの?」。私はめったにファミレスに行かないから、どんなメニューがあるのかよく知らない。
「作って」
誰が作るの。って、私か。
あ。(〇・一秒経過)
あ。(〇・二秒経過)
あ。(〇・三秒経過)
突然ですがここでクイズです。
第一問、真冬の夜中に、近所のコンビニでおでんを買ったら、どこで食べるでしょうか? (答え、自分の家)
第二問、そのおでんを買ってくれるためにわざわざ駆けつけてきてくれた友達がいたら、どうするでしょうか? (答え、家に招いて一緒におでんを食べる)
第三問、「夜中に駆けつけておでんを買ってあげる」と下心ありげに言われたら、なにを企んでいると推理するでしょうか? (答え、家に招かれて一緒におでんを食べて、さらに何かしたい)
第四問、縁の話によれば真名はそういう人だそうですが、さて、「そういう人」とはどんな人? (答え、おそらく同性愛者)
第五問、真名は今朝、『縁から聞いた』と言いました。さて縁は、第四問の件を真名に告げたでしょうか? (答え、その可能性は充分ある)
第六問、もし第五問の答えがイエスだとすると、第三問の答えの「何かしたい」は具体的にはどんなこと? (答え、友達とは普通しないようなこと)
それ違うよ! 全然違う!
……でも、考えてみれば。(〇・五秒経過)
真名の家に招かれるなら願ったりかなったりだ。このあいだの日曜日には真名を我が家に招待した、それは、あとでお返しに真名の家に招いてもらうため。自分の家なら油断しているだろうから、お金の痕跡──コンビニのレシートや通販の段ボール──がそのへんに転がっているかもしれない。
これはタナボタ? 待った、ちょっと待った。(〇・七秒経過)
真名がそんなことを思わないうちに事が進むんならともかく、あっちから誘ってきている。もしそういうことを求められたら私は逃げ出すけど、逃げたら「じゃあなんで来たの」ってことになる。もし私が本音(お金の痕跡を探したかった)を言わなければ、真名は私を不審に思うだろう。
……でもそんなの、考えすぎじゃないの?(〇・九秒経過)
だって、真名も私も女で、はっきり好きと言ったり言われたりもないし、そういうことをほのめかしたりされたりも(たぶん)していない。縁の話によれば真名はそういう人らしい、たとえそれが本当でも、女なら誰でもいいってことはないだろう。ただの友達のつもりで誘ったんじゃないの?
って、思い出した。(一・一秒経過)
そういえば、学校で初めて真名と口をきいたとき、『私のこと嫌い?』って訊いたら『好き』って言われたよ! でもあれは友達の好きだよね? たとえ実はそうじゃないとしても、決定的な証拠はまだなにもないし、そのことは真名もわかっているはず。とりあえずこの場は友達ということで押し通して──でも昼間ならともかく夜中に急におでんを作りに行くって、ただの友達づきあいとしては考えにくくない? 私はそれもありだと思うけど、たとえば父なんかはそうは思わないかもしれない。
そうだ父だ。(一・三秒経過)
夜中に外に出るんだから、父に理由を言わなきゃいけない。もし、おでんを作れるくらい長いこと外にいたら、途中で電話がかかってきて、誰と一緒にいるか訊かれて、その誰かを電話に出せと言ってくるだろう。そして父は真名のことを危険人物だと思っている。
この場を切り抜ける口実、それは父だ! 一・五秒の大長考の末、ついに私は言った。
「ごめん、夜中にあんまり長いこと外にいると、父がうるさいの」
「そう」
真名は箸を動かさず、じっと私の目を見る。
一・五秒の大長考はちょっと不自然だったかな。『ちょっと』どころじゃない、『だいぶ』だわ。私は目をそらして、真名が箸を動かすのを待った。
*
「これはこの子の定期です」
おまけのいつものセリフを私がしゃべる。変な感じ。
朝、学校へ向かうバス。私はあらかじめバスの前のほう(このバスは運賃一律先払いで前のドアから乗る)にいて、コムズ白山のそばのバス停で真名が乗ってくるのを待った。
佐間ニュータウンは地形が険しい。主な道路は谷を通っているので、バスの車窓からはいつでも斜面ばかりが見える。たいていの斜面には木が植えてあり、ごく一部、傾斜のきついところだけコンクリートで固めてある。だから、主な道路から佐間ニュータウンを眺めると、緑がたくさんあるように見える。航空写真で見るとそれほどでもないのに。
ここにくる前に真名がいた場所は、どんなところだったんだろう。佐間ニュータウンのことをどう思ったか訊いてみよう。真名はずっと、昔のことを訊かれたくなさそうにしていたから、これまでは訊けなかった。真名の秘密を明かされた今なら、嫌がらずに答えてくれるかもしれない。なんてことを考えながら、真名が乗ってくるのを待っていた。
コムズ白山のそばのバス停に近づくと、通勤通学客の列のなかに、真名はおまけを連れずに立っていた。
目の前にいるとあまり感じないけれど、こうしていろんな人と並んでいるのを遠くから見ると、真名の体があんまりにも小さいのに驚く。背が低いだけじゃなく、肩も腰も頭も小さい。一人だけ遠近法がおかしいんじゃないの、ってくらいに。小さいだけで、弱々しくはない。密度が高いぶん、エネルギーが詰まっているようにも思える。
唐突に強く思う。絶対に、隠して持ってるよね、お金。
バス停に並んでいる人たちと、このバスに乗っている人たち、それどころか今この佐間ニュータウンで通勤通学中の何万人の人たち、さらにそれどころか今この地球上でバスや電車に乗って通勤通学中の何千万人という人たち、その人たちは全員、お金を持っている。現金でなくても、クレジットカードや定期券を持っている。なのに真名ひとりだけがお金を持っていないだなんて、そんなこと、あるはずがない。
バス停の客が乗り込んでくる。真名の前の客がPASMOカードをタッチしたら、私はすかさず横から例の財布を出して、「これはこの子の定期です」と運転手に告げてタッチする。真名は運転手に軽く会釈して運賃箱の前を通り過ぎ、私に微笑んで、「おはよう」と挨拶した。
ああ。
なんていうか、その、あれだ、好きだわ、私は、真名のこと。
すごく好きだから、隠して持ってるお金を見せてよ、と頭のおかしいことを考えながら、「おはよう」と挨拶する。「あなたのこと好きだから××」とか「私のこと好きなら××」って最悪だよねー頭おかしいよねー。今、自分でやっちまったけどさ、口には出さなかったけど。
「真名がこっちに引っ越してきたのって、いつ頃?」
「十二月の中頃」。おお、一歩前進。これまでは、真名は昔のことを訊かれると、黙って顔をそむけていた。
「もうすぐ二か月か。じゃあ、このへんのこと、だいぶわかってきた?」
「あんまり出歩かないの。見るものもないし」
真名の言うことが全然ピンとこない。
「道路とか建物とか、面白いよ?」
地形が険しいのと、歩行者専用道路が多いせいで、佐間ニュータウンにはユニークな道路と建物が多い。馴染みのないところへ行くと、必ず「へー」と思うようなものに出くわす。まっすぐな道路といえば、谷を通っている主な道路くらいのもので、たいていの道は曲がりくねっていたり、峠になっていたりして、見通しがきかない。そのため佐間ニュータウン全体が巨大な立体迷路みたいなもので、知らない脇道に入ると、どこに出るか見当もつかない。
というようなことをしゃべると、今度は真名が私の話にピンとこないらしかった。
「ここって、お稲荷さんが全然ないのね。びっくりした」
「あるよ?」
私の家からだとバスと電車を乗り継いで約二十分のところに、ちゃんとした稲荷神社がある。端っことはいえ佐間ニュータウンの中だ。それを説明すると、
「そういう、ちゃんとしたのしかないでしょう」
「ちゃんとしてないのって?」
「一戸建ての家の庭に、これくらいの高さの鳥居と祠があるようなの」
真名は膝くらいの高さを示した。ミニチュア?
「なにそれかわいい」。すると真名が目を丸くして、
「見たことないの?」
話を聞くと、どうやら真名の実家のまわりには、そういうのがたくさんあるらしい。でも、五分も歩けばひとつは鳥居が見つかる、ってそれは大げさじゃないの、いくらなんでも。
「恵まれさんなんて欲しがるのは、こういう街だからかな、って思った」
「関係あるの?」
真名はなぜか微笑んだ。愛想のいい笑顔ではなく、私を惹きつけてやまない、あの生々しい微笑み。
「宗教が足りない」
*
宗教って。そりゃ言われてみれば恵まれさんも宗教……、なのかな?
バスは今、佐間ニュータウンの幹線道路、佐間通りを走っている。佐間通りをしばらく進んでから南に折れ、これまた谷底を通る道(路線バスが走るような主な道路はみんな谷を通っている)をしばらく上り、峠のバス停で降りる。そこから徒歩で五分くらい上ると、私立佐間清沢女子学園の正門に辿りつく。
この佐間通りには、ファミレス、コンビニ、レンタルビデオ店、ガソリンスタンドなどなどが等間隔で並んでいる。幹線道路沿いは日本じゅうどこでもだいたいこんな風景だろうと思う、あんまり車に乗らないからよく知らないけど。
「宗教って、教祖とか教義とかあるもんじゃないの?」
「なにが宗教で、なにが宗教じゃないかは、それこそ宗教問題。
たとえば、シンクロナイズドスイミングのオリンピック選手が、こんな思い出話を書いてた」
その選手が小学生のときの話だという。シンクロを始めたばかりの頃、柔軟体操で体を柔らかくしようと頑張っていた。ひとりでやるのではなく、大人のコーチに手伝ってもらいながら。そしてある日、コーチ三人に羽交い締めにされて、筋膜を切られた。
「はあ?」
筋膜って。切られたって。どんなのだか知らないけど、怖い。
「切った瞬間はすごく痛かったし、その後も痛くて内出血もして、ろくに歩けなかった、って書いてあった」
次の日、あまりの痛さに病院に行くと、安静にするようにと言われ、練習は見学にしようとしたら、せっかく筋膜を切ったのに動かさなかったら意味がないとコーチに言われ、練習させられた、と。
「よほど重大な理由がないかぎり、小学生にこんなことをしたら犯罪。たとえば、病気を治すためにほかに方法がない、くらいでないと。病気の辛さがいつまでも続くより、何日か痛いだけのほうがいい、そういう比較で許される。
スポーツにはそういう比較は成り立たない。痛い思いをするだけの価値があるかどうか、決められるのは本人だけ。
でも、小学生が自分の意思でこういうことを決めても、ほとんどの場合、犯罪かどうかの判断には無関係」
ここまでは私も、ふんふんとうなずきながら聞いていた。が。
「たとえば、満十三歳未満がセックスしたら、本人の意思とは無関係にそれは強姦とされる」
耳から牛乳! 鼻からどころじゃない耳からだ! だってここ、朝の混んでるバスのなかだぞ! そこで『セックス』だの『強姦』だのって、真名の羞恥心はどうなってんの!
なにがなんでも、やめさせなければ。とはいえ、真名は頭ごなしに言われるのを嫌う。試したことはないけれど、そんなの試すまでもない。だから、
「真名、悪いけど、NGワードを二つ指定させて。理由は聞かないで。いい?」
私は真名の耳元に口をよせて、聞こえるかどうかぎりぎりの小さな声で、
「NGワードその一、──」
……恥ずかしくて口に出せない! くだらないおしゃべりの最中なら平気で言えるのに、今はどうしようもなく恥ずかしい。
私が言えずにいると、
「ごめんなさい、聞こえなかった」。どうしても言わせるつもりか。羞恥プレイ? 上等じゃないの、羞恥プレイのつもりで言ってやる。
「……セックス」。言いながら、真名とすることを想像してしまう。続けて、
「その二、強姦」。こっちは別に恥ずかしくない。真名とするとは思えないし。
「わかった」
「ありがと。……なんの話だったっけ」
「小学生の意思が無視されるかどうかの話。
NGワードその一では無視されるのに」置き換えか! 「スポーツでは無視されない」
「そりゃ、スポーツとそれじゃ全然違うもん」
すると真名は目を伏せた。気持ち悪い言葉を聞いたときの反応だ。
「子供と大人は『全然違う』?」
うっ。これは、イエスでもノーでもない。十三歳の誕生日の午前零時に、全然違う人間に変身する、なんてことはない。私が答えられずにいると、さらに真名は追い討ちをかけて、
「男と女は?」
女同士では子供はできないけれど、そういうことはできる。真名と私でも。……って、そういうことばかり妄想しすぎだ私。
私の妄想なんか知るはずもない真名は話を続けた。
「『全然違う』で説明がつくのなら、この世のなにもかもがすべて、『全然違う』の一言で説明がつくことになっちゃう。淳子はそうしたい?」
突き詰めるとそれが本当なんじゃないの。でもそうすると、真名の日本語と私の日本語も『全然違う』んだから、英語と中国語では会話が成り立たないように、真名の日本語と私の日本語では会話が成り立たない、ということになる。
「……わかった。続けて」
「NGワードその一では無視されることが、スポーツでは無視されない。なにかがこの違いを作り出しているはず。
そのなにかは、宗教と関係がある」
「スポーツは宗教だってこと?」
それならよくわかる。なにが楽しくて汗水たらして駆け回ったりするの、意味がわからない。汗水たらすくらいならまだしも、さっきのシンクロ選手の話とか、いったいなんの淫祠邪教よ。
「かもしれない。
それとも、宗教なのはスポーツじゃなくて、『子供』のほうかもしれない」
わからなくなってきた。子供が宗教?
「『大人』が宗教なのかもしれないし、NGワードその一が宗教なのかもしれない」
NGワードその一が宗教、うん、それもわかる。布団の上でくんずほぐれつして喜んでるオスメスどもは宗教をやってるんだ、そういうことにしよう。心が安らぐわ。
「さっき淳子が言ったみたいな、教祖と教義のある宗教団体だけが宗教で、それ以外は宗教とは無関係、なんてことはない。
宗教は、それらしく見えないところにもある。空気に水蒸気が含まれているみたいに。教祖と教義のある宗教団体は、雨みたいなもの。空気中の水蒸気とつながってる。
この喩えでいえば、恵まれ者は、霧みたいなもの」
途中の話はあまりわからなかったけれど、結論はよくわかった。宗教団体が雨で、恵まれさんは霧ね。確かにそんな感じ。
バスはもうすぐ峠のバス停に着く。このあたりの道路沿いには公園や大学が並んでいて、葉を落とした桜の木ばかりが目に入る。春には一面の桜だけれど、今は寒々とした眺めだ。
真名は話を締めくくった。
「この街には、霧が足りない」
ミニチュアのお稲荷さんとかが足りない、って言いたいんだよね、それは。でも、そういうのがないのを『足りない』って言われても、全然ピンとこない。
それに、
「真名はあんまり、霧って感じじゃないけど」
真名のいうミニチュアのお稲荷さんは、『風来包丁』に出てくる恵まれさんみたいに、いい加減でゆるゆるなものなんだろう。ちゃんとした神社を維持するには、ちゃんとした宗教団体が必要で、あまりいい加減にはなれない。
真名は、ゆるゆるな感じがしない。父が言っていたみたいに、モバイルプリンタで恵み札を印刷したりすれば、ゆるゆるだ。真名はちゃんと自分の手でくずし字を書く。きっちりしている。
そんな私の感想に、真名は目をそらして口をへの字にした。真名がこんな顔をするのは珍しい。そこまで嫌なこと言ったっけ? それに真名は、不愉快なことを言われたら、なにか言い返さずにはおかない。
「……そうね」
自覚があるらしい。
でも、お金くらい隠して持ってるんでしょ? と思わず言いそうになる。他人の目に触れないところまで完全にきっちりしてるわけじゃないんだから、そんなに嫌がることないじゃない、と。
でも、もし本当に、カバンのなかにも家にも、一円たりとも持っていなかったら?