ここで私の筆はしばらく止まっていた。それで、やりかたを変えることにした。

 ここまでのやりかたは、たとえてみれば地上に道路を作るようなもので、それでうまくいっていた。しかしここにきて、行く手に山がある。山は険しく、とうげ越えの道路を作るのは難しい。だから、トンネルを掘ることにする。

 正確さというものを仮に、裁判の証拠に求められるような正確さと考えるのであれば、私の書いているこれは、正確さなど目指していないし、また結果としてもまるで正確ではない。私が目指しているのは、忠実さだ。事実に忠実なのではなく、私に忠実であること。これは、不正確という意味では、うそをつくことになる。

 嘘はおうおうにして、嘘をついた本人を裏切る。だが私がここでつく嘘は、私を裏切らない。ここまで書いてきた数々のひそやかな嘘も、また、ここからいわばトンネルとして書くことになるはなばなしい嘘も、みな私に忠実である。

 では、トンネルに入ろう。このトンネルのなかでは私は、がわゆかり、女子校の王子様になる。



             



 やあ、じゆん、久しぶりだね。

 こんな形であなたと再会するだなんて、不思議な気分だ。気がつくと自分が人間じゃなくなっていた、だなんて、びっくりするじゃないか。

 私は人間じゃない。あなたの頭のなかにある一個のもんがた、「女子校の王子様」だ。ただし今のところは、と言うべきかな。きっと、このトンネルが貫通するまでのあいだに、私はなにか別のものになるだろう。淳子、あなたがそこまで辿たどりつけることを願っている。

 あいさつはこれくらいでいいかな。本題に入ろう。

 私があなたに渡したあのカギ、『どうして空は青いの?』の意味を、説明してほしいんだね。いいよ、どこから始めようか。

 私が思うに、どうやら、転校の直後から始めるのがよさそうだ。時は西暦二〇〇九年一月八日午後三時過ぎ、場所は私立せいたく女子学園の中学三年一組──



             



 二人の転入生はあまりにも秘密主義で、転校の理由さえ秘密にしている。最初は冗談かと思っていたが、どうやら本気らしいとわかってきた。そこで、私とを囲んでいる同級生のなかの誰かが言った、

「なんか普通じゃないよね」

 一瞬のを置いて、真名が言い返す、

「それ、誰に向かって言ってるの?」

 すると、同級生たちは押し黙る。

 ……このやりとりを、どう思う? 一見ごく当たり前の、ちょっとした口論だ。ところが真名にとっては、もうひとつ別の意味がある。

 このやりとりの、言葉どおりの意味を読み取ろうとしてみてほしい。

 まず、「普通」ってなんだろう。「平均」なら数学で定義されている。でも「普通」にそういうしっかりした定義はあるかな? ない。だから「普通」については、論理的に正しい判断というものがありえない。「一から十までの自然数の平均は五・五」と主張すればそれは論理的に正しいけれど、「普通の人間は六十歳くらいまでは生きる」と主張したら異論の余地がある。実際、アフリカの貧しい国々では全然そんなことはないしね。

 ここで思考実験──「栄養のある食事をしていればエイズウィルスには感染しない」「アウシュビッツ強制収容所では誰も殺されなかった」と信じている人のことを考えてみよう。全然「普通」じゃない人だ。この人があなたに向かって、「普通の人なら私と同じように考えるはずだ」と主張したら、あなたはどうする? 困ったもんだ、ってところだろう。

 思考実験の結論、「普通」じゃない人に「普通」を主張されても困る。

 さて、『なんか普通じゃないよね』というセリフは、言葉どおりに読み取るなら、同意を求めるものだ。誰の同意を? まさか、「普通じゃない」はずのの? だから真名は問い返したんだ、『それ、誰に向かって言ってるの?』。

 理屈は通っているけれど、そんなのが相手に通じるわけがない? そりゃそうさ。真名だって、理屈をわからせようとしたわけじゃない。『それ、誰に向かって言ってるの?』をごく当たり前に聞いたら、静かにすごんでるセリフだ。理屈と同時にそういう意図もこめて、『それ、誰に向かって言ってるの?』と真名は言ったんだ。

 凄みをきかせるセリフに理屈が通っていても意味がない? でも、あなただって、『どうして空は青いの?』と言いかけたとき、口のなかで感じただろう、心にもないことを言うときの気持ち悪さを。真名はそういうのに大変敏感でね、聞くのも嫌だし、口にするのは絶対に嫌なんだ。

 心にもない言葉、気持ち悪い言葉──『なんか普通じゃないよね』というセリフもそうだ。自分がなにを言ってるのか理解していない。こういう言葉を、真名は嫌う。猛烈にね。

『なんか普通じゃないよね』──この言葉は、あまり穏やかでもないけれど、気持ち悪さのことを忘れるなら、ちょっとしたいらだちの表明にすぎないじゃないか。わざわざ凄んでみせなきゃならないほどの罪でもない。あのとき、まわりの同級生たちが黙ったのは、真名の反応に共感できなかったせいでもあるだろう。感性の違い、というやつだね。

 気持ち悪い言葉に対して、『それ、誰に向かって言ってるの?』、そして沈黙──私にとっては退屈なやりとりだ。『それ、誰に向かって言ってるの?』と問い返すのは、真名のいつものパターンだ。ほとんどの人は、いつものパターンから一歩も出ないうちに黙ってしまう。私は前の学校でそれを見てきた。



             



『それ、誰に向かって言ってるの?』といえば「筆箱事件」だ。

 それは私とが中学二年生になったばかりのときに起きた。当時すでに真名は名だたる変人で、いっぽう私は女子校の王子様だった。そのときまだ私は真名の友人ではなかったし、クラスも違ったから、この事件は人の口づてに聞いただけだ。

 なにがきっかけか知らないが、真名の同級生のひとり──仮にA子としよう──が、真名をじよくした。

「バッカじゃねーの」

「それ、誰に向かって言ってるの?」

 たいていの相手はここで黙る。あなたも知ってのとおり、真名には妙な迫力がある。ところが、このときのA子は違った。

「お前だよ」

「そう」

 真名はうなずくと、机にあった筆箱を、自分の頭にのせた。

 この行動について事件の後、真名は説明した。「誰かが鹿かどうかを、馬鹿が判断して答えても意味がない。だから、答えるまでもないように、馬鹿なことをしてみせた」。もちろんこれは理屈だ。もうひとつの意図は、言うまでもないだろう?

 不幸なことに、事件当時その場にいたのは、真名とA子だけじゃなかった。聴衆が数人いた。真名のそばにいるだけあって、彼女の行動にこめられたもうひとつの意図を、すぐさま理解できる人々だった。私にこの事件の話をしてくれたのも、この人々だ。

 おそらく聴衆は、真名のもうひとつの意図を、A子に教えただろう。もちろん言葉を使わずに、視線と表情でね。それに対してA子も言葉を使わなかった。机を激しくばして、真名を床に転がした。A子は停学。

 A子は別に、暴力をふるうような人ではなかったというけれど、相手が悪かった。真名は気持ち悪い言葉をかならず排除する。そのためなら、恐怖を感じることもないし、どんな手段にでも訴える。どんな手段にでも、だ。私はそれを体験した。



             



 説明がずいぶん長くなってしまった。申し訳ない。もうちょっとだけ続くよ──と予告したときには、その先のほうが長くなるものだよね。

 でもここから先は、長くなっても許されるんじゃないかな。ここから先は、伝聞や目撃じゃない、私の体験だ。

「どうして人を殺してはいけないの?」

 は一瞬目を伏せてから答えた。

「君は誰を殺したいの?」

 これが私の初体験だ。真名の『君』の初体験。

 筆箱事件の一年後、中学三年生になったばかりの春だった。私はずいぶん前から、真名のことが気になっていた。

 といっても、あなたのような興味ではないよ。あいにく私には同性愛はわからない。そういう感情に共感する能力がないんだ。

 人間という生き物は、自分が共感できないものに対しては、どこまでも残酷になれる。私がこんな風に女子校の王子様ぶるのも、そういうのにかれて寄ってくる人が笑えるからさ。ラブレターをもらうのが楽しみだったよ。恋をすると人は詩人になるだなんて言うけれど、私に言わせれば、詩人じゃなくてお笑い芸人だね。ああ、もちろん、ひとりきりで読んだよ。オーベロン・クウィンいわく、「たった今おっしゃられたあの素晴らしいひと言について、ちょっと考えてみたいのです。『公共の』、そう『公共の利益のために』というやつです。こうした甘美な言葉のしんずいを味わうには、しばしの孤独が必要です(※2)」。まったく同感だね。

 人をからかうこと、それが私の病気だ。

 それがなぜいけない? とたずねたら、真名ならどう答えるだろうね。きっと、なにも言わないだろうな。これは真名の嫌うような、気持ち悪い言葉じゃない。

 こんな病気を抱えた私にとって、真名は、いじりがいのあるオモチャに見えた。からかいやすいじゆんぼくな人は、そりゃ誰もいないよりはマシだけど、やっぱり単調だもの。筆箱事件みたいに切り返してもらえたら、刺激的だろう?

 そう思っていたら、中学三年生のとき、私は真名と同じクラスになった。そのとき私は女子校の王子様、軽薄なアイドルだった。お天気の話と同じくらい当たりさわりのない話題、それが私だった。真名は、影の番長、と言ったらおかしいかな。当たり障りだらけで気軽な会話なんか絶対にできない、政治やセックスのような話題、それが真名だった。

 影の番長がどんな感じかというと、たとえば、二年のときに真名と同じクラスだった人にいてみたことがある。

とう真名ってどんな人なの?」

「え……、普段はおとなしい人」

「『普段は』ってことは、そうじゃないこともあるの?」

「いつもおとなしいと思うけど……」

とうさんのことが怖い?」

「怖いっていうんじゃないんだけど……」

 ほら、まるでセックスの話をしてるみたいじゃないか? ──なんてことを、しゃべってる最中に気がついたものだから、笑いをこらえるのに苦労したよ。

 かくして軽薄なアイドルは、影の番長に接近した。

 最初はじんじようにお付き合いさせてもらった。「実はあなたのことが前から気になってたんだ」とかね。このとき微笑ほほえんで、「そう、ありがとう」と答えた。あなたも知ってのとおり、真名はあいそうだが付き合いやすい。

 一か月くらい過ぎて、そろそろころあいかな、と思って、たずねてみたんだ。

「どうして人を殺してはいけないの?」

 真名は一瞬目を伏せてから答えた。

「君は誰を殺したいの?」

 おそらくは真名の意図したとおり、そして私も予期していたとおり、私は絶句した。

 でも、どんなに絶句させられても話を続けよう、と私は決心していた。

「いや、別に誰も」

「そう、よかった」

「私の質問に答えてよ」

「答えは、この床」

 真名は教室の床を指差した。

「なに? なんのこと?」

「その答えも、この床」

 真名はふたたび教室の床を指差した。

「なんのことかって──」

 真名は今度は黙って床を指差した。私はついに言葉を失った。

 私はその夜、くやしくて眠れなかった。からかわれるより、なお悪かった。真名は、からかうどころか、おおだった。壁にハエが止まっているのを見つけて、ねらいすましてハエたたきを振り下ろすときみたいにね。真名にとって、気持ち悪い言葉は、ハエみたいなものだ。ハエを叩こうとしてうっかりテーブルをひっくり返してしまう、なんてことがあるだろう。あの事件は、そういうことなんだ。

 なぜ眠れないほど悔しかったのかって? 難しいことをくね。あなたの同性愛が私には共感できないように、私の悔しさがあなたには共感できない。これも感性の違いというやつだ。同じ人間同士ならなんでも共感できるはずだというのは、ごうまんな思い込みだよ。