ここで私の筆はしばらく止まっていた。それで、やりかたを変えることにした。
ここまでのやりかたは、たとえてみれば地上に道路を作るようなもので、それでうまくいっていた。しかしここにきて、行く手に山がある。山は険しく、峠越えの道路を作るのは難しい。だから、トンネルを掘ることにする。
正確さというものを仮に、裁判の証拠に求められるような正確さと考えるのであれば、私の書いているこれは、正確さなど目指していないし、また結果としてもまるで正確ではない。私が目指しているのは、忠実さだ。事実に忠実なのではなく、私に忠実であること。これは、不正確という意味では、嘘をつくことになる。
嘘は往々にして、嘘をついた本人を裏切る。だが私がここでつく嘘は、私を裏切らない。ここまで書いてきた数々の密やかな嘘も、また、ここからいわばトンネルとして書くことになる華々しい嘘も、みな私に忠実である。
では、トンネルに入ろう。このトンネルのなかでは私は、長谷川縁、女子校の王子様になる。
*
やあ、淳子、久しぶりだね。
こんな形であなたと再会するだなんて、不思議な気分だ。気がつくと自分が人間じゃなくなっていた、だなんて、びっくりするじゃないか。
私は人間じゃない。あなたの頭のなかにある一個の紋切り型、「女子校の王子様」だ。ただし今のところは、と言うべきかな。きっと、このトンネルが貫通するまでのあいだに、私はなにか別のものになるだろう。淳子、あなたがそこまで辿りつけることを願っている。
挨拶はこれくらいでいいかな。本題に入ろう。
私があなたに渡したあのカギ、『どうして空は青いの?』の意味を、説明してほしいんだね。いいよ、どこから始めようか。
私が思うに、どうやら、転校の直後から始めるのがよさそうだ。時は西暦二〇〇九年一月八日午後三時過ぎ、場所は私立佐間清沢女子学園の中学三年一組──
*
二人の転入生はあまりにも秘密主義で、転校の理由さえ秘密にしている。最初は冗談かと思っていたが、どうやら本気らしいとわかってきた。そこで、私と真名を囲んでいる同級生のなかの誰かが言った、
「なんか普通じゃないよね」
一瞬の間を置いて、真名が言い返す、
「それ、誰に向かって言ってるの?」
すると、同級生たちは押し黙る。
……このやりとりを、どう思う? 一見ごく当たり前の、ちょっとした口論だ。ところが真名にとっては、もうひとつ別の意味がある。
このやりとりの、言葉どおりの意味を読み取ろうとしてみてほしい。
まず、「普通」ってなんだろう。「平均」なら数学で定義されている。でも「普通」にそういうしっかりした定義はあるかな? ない。だから「普通」については、論理的に正しい判断というものがありえない。「一から十までの自然数の平均は五・五」と主張すればそれは論理的に正しいけれど、「普通の人間は六十歳くらいまでは生きる」と主張したら異論の余地がある。実際、アフリカの貧しい国々では全然そんなことはないしね。
ここで思考実験──「栄養のある食事をしていればエイズウィルスには感染しない」「アウシュビッツ強制収容所では誰も殺されなかった」と信じている人のことを考えてみよう。全然「普通」じゃない人だ。この人があなたに向かって、「普通の人なら私と同じように考えるはずだ」と主張したら、あなたはどうする? 困ったもんだ、ってところだろう。
思考実験の結論、「普通」じゃない人に「普通」を主張されても困る。
さて、『なんか普通じゃないよね』というセリフは、言葉どおりに読み取るなら、同意を求めるものだ。誰の同意を? まさか、「普通じゃない」はずの真名の? だから真名は問い返したんだ、『それ、誰に向かって言ってるの?』。
理屈は通っているけれど、そんなのが相手に通じるわけがない? そりゃそうさ。真名だって、理屈をわからせようとしたわけじゃない。『それ、誰に向かって言ってるの?』をごく当たり前に聞いたら、静かに凄んでるセリフだ。理屈と同時にそういう意図もこめて、『それ、誰に向かって言ってるの?』と真名は言ったんだ。
凄みをきかせるセリフに理屈が通っていても意味がない? でも、あなただって、『どうして空は青いの?』と言いかけたとき、口のなかで感じただろう、心にもないことを言うときの気持ち悪さを。真名はそういうのに大変敏感でね、聞くのも嫌だし、口にするのは絶対に嫌なんだ。
心にもない言葉、気持ち悪い言葉──『なんか普通じゃないよね』というセリフもそうだ。自分がなにを言ってるのか理解していない。こういう言葉を、真名は嫌う。猛烈にね。
『なんか普通じゃないよね』──この言葉は、あまり穏やかでもないけれど、気持ち悪さのことを忘れるなら、ちょっとしたいらだちの表明にすぎないじゃないか。わざわざ凄んでみせなきゃならないほどの罪でもない。あのとき、まわりの同級生たちが黙ったのは、真名の反応に共感できなかったせいでもあるだろう。感性の違い、という奴だね。
気持ち悪い言葉に対して、『それ、誰に向かって言ってるの?』、そして沈黙──私にとっては退屈なやりとりだ。『それ、誰に向かって言ってるの?』と問い返すのは、真名のいつものパターンだ。ほとんどの人は、いつものパターンから一歩も出ないうちに黙ってしまう。私は前の学校でそれを見てきた。
*
『それ、誰に向かって言ってるの?』といえば「筆箱事件」だ。
それは私と真名が中学二年生になったばかりのときに起きた。当時すでに真名は名だたる変人で、いっぽう私は女子校の王子様だった。そのときまだ私は真名の友人ではなかったし、クラスも違ったから、この事件は人の口づてに聞いただけだ。
なにがきっかけか知らないが、真名の同級生のひとり──仮にA子としよう──が、真名を侮辱した。
「バッカじゃねーの」
「それ、誰に向かって言ってるの?」
たいていの相手はここで黙る。あなたも知ってのとおり、真名には妙な迫力がある。ところが、このときのA子は違った。
「お前だよ」
「そう」
真名はうなずくと、机にあった筆箱を、自分の頭にのせた。
この行動について事件の後、真名は説明した。「誰かが馬鹿かどうかを、馬鹿が判断して答えても意味がない。だから、答えるまでもないように、馬鹿なことをしてみせた」。もちろんこれは理屈だ。もうひとつの意図は、言うまでもないだろう?
不幸なことに、事件当時その場にいたのは、真名とA子だけじゃなかった。聴衆が数人いた。真名のそばにいるだけあって、彼女の行動にこめられたもうひとつの意図を、すぐさま理解できる人々だった。私にこの事件の話をしてくれたのも、この人々だ。
おそらく聴衆は、真名のもうひとつの意図を、A子に教えただろう。もちろん言葉を使わずに、視線と表情でね。それに対してA子も言葉を使わなかった。机を激しく蹴飛ばして、真名を床に転がした。A子は停学。
A子は別に、暴力をふるうような人ではなかったというけれど、相手が悪かった。真名は気持ち悪い言葉をかならず排除する。そのためなら、恐怖を感じることもないし、どんな手段にでも訴える。どんな手段にでも、だ。私はそれを体験した。
*
説明がずいぶん長くなってしまった。申し訳ない。もうちょっとだけ続くよ──と予告したときには、その先のほうが長くなるものだよね。
でもここから先は、長くなっても許されるんじゃないかな。ここから先は、伝聞や目撃じゃない、私の体験だ。
「どうして人を殺してはいけないの?」
真名は一瞬目を伏せてから答えた。
「君は誰を殺したいの?」
これが私の初体験だ。真名の『君』の初体験。
筆箱事件の一年後、中学三年生になったばかりの春だった。私はずいぶん前から、真名のことが気になっていた。
といっても、あなたのような興味ではないよ。あいにく私には同性愛はわからない。そういう感情に共感する能力がないんだ。
人間という生き物は、自分が共感できないものに対しては、どこまでも残酷になれる。私がこんな風に女子校の王子様ぶるのも、そういうのに惹かれて寄ってくる人が笑えるからさ。ラブレターをもらうのが楽しみだったよ。恋をすると人は詩人になるだなんて言うけれど、私に言わせれば、詩人じゃなくてお笑い芸人だね。ああ、もちろん、ひとりきりで読んだよ。オーベロン・クウィン曰く、「たった今おっしゃられたあの素晴らしいひと言について、ちょっと考えてみたいのです。『公共の』、そう『公共の利益のために』というやつです。こうした甘美な言葉の真髄を味わうには、しばしの孤独が必要です(※2)」。まったく同感だね。
人をからかうこと、それが私の病気だ。
それがなぜいけない? と尋ねたら、真名ならどう答えるだろうね。きっと、なにも言わないだろうな。これは真名の嫌うような、気持ち悪い言葉じゃない。
こんな病気を抱えた私にとって、真名は、いじりがいのあるオモチャに見えた。からかいやすい純朴な人は、そりゃ誰もいないよりはマシだけど、やっぱり単調だもの。筆箱事件みたいに切り返してもらえたら、刺激的だろう?
そう思っていたら、中学三年生のとき、私は真名と同じクラスになった。そのとき私は女子校の王子様、軽薄なアイドルだった。お天気の話と同じくらい当たり障りのない話題、それが私だった。真名は、影の番長、と言ったらおかしいかな。当たり障りだらけで気軽な会話なんか絶対にできない、政治やセックスのような話題、それが真名だった。
影の番長がどんな感じかというと、たとえば、二年のときに真名と同じクラスだった人に訊いてみたことがある。
「絵藤真名ってどんな人なの?」
「え……、普段はおとなしい人」
「『普段は』ってことは、そうじゃないこともあるの?」
「いつもおとなしいと思うけど……」
「絵藤さんのことが怖い?」
「怖いっていうんじゃないんだけど……」
ほら、まるでセックスの話をしてるみたいじゃないか? ──なんてことを、しゃべってる最中に気がついたものだから、笑いをこらえるのに苦労したよ。
かくして軽薄なアイドルは、影の番長に接近した。
最初は尋常にお付き合いさせてもらった。「実はあなたのことが前から気になってたんだ」とかね。このとき真名は微笑んで、「そう、ありがとう」と答えた。あなたも知ってのとおり、真名は無愛想だが付き合いやすい。
一か月くらい過ぎて、そろそろ頃合かな、と思って、尋ねてみたんだ。
「どうして人を殺してはいけないの?」
真名は一瞬目を伏せてから答えた。
「君は誰を殺したいの?」
おそらくは真名の意図したとおり、そして私も予期していたとおり、私は絶句した。
でも、どんなに絶句させられても話を続けよう、と私は決心していた。
「いや、別に誰も」
「そう、よかった」
「私の質問に答えてよ」
「答えは、この床」
真名は教室の床を指差した。
「なに? なんのこと?」
「その答えも、この床」
真名はふたたび教室の床を指差した。
「なんのことかって──」
真名は今度は黙って床を指差した。私はついに言葉を失った。
私はその夜、悔しくて眠れなかった。からかわれるより、なお悪かった。真名は、からかうどころか、大真面目だった。壁にハエが止まっているのを見つけて、狙いすましてハエ叩きを振り下ろすときみたいにね。真名にとって、気持ち悪い言葉は、ハエみたいなものだ。ハエを叩こうとしてうっかりテーブルをひっくり返してしまう、なんてことがあるだろう。あの事件は、そういうことなんだ。
なぜ眠れないほど悔しかったのかって? 難しいことを訊くね。あなたの同性愛が私には共感できないように、私の悔しさがあなたには共感できない。これも感性の違いという奴だ。同じ人間同士ならなんでも共感できるはずだというのは、傲慢な思い込みだよ。