かつて私にこの問いを投げかけられたとき、父はこう答えた。

「は? お前、なに言ってるんだ。空は黒いぞ。真っ黒なくらやみだ」

「でも……」

 私は言いよどんだ。もし、空が青いということを主張してしまったら、それはもはや動かせぬ事実ではなく、ただの主張へと格下げされてしまう。

 父はりきみかえって言った。

「だまされるな。空は黒い。人間の頭の上には、真っ黒な暗闇がのっかってるんだ」

 父は自由な人間だった。父にかかっては、動かせぬ事実などひとつもなかった。空の色さえも。



             



「は?」

 私は空を指差した。

「あれが青い?」

 指の示す先には、なまり色の空がある。そういえば昨日は晴れていた、と思い出す。

 ゆかり微笑ほほえんだ。

「素晴らしい」

 どうやら正解だったらしい。カギを渡すための条件とやらは、この曇り空のことか。

「なにがどう?」

 縁は私の質問には答えずに、

「これがカギだよ。『どうして空は青いの?』。にこの質問をしてみるといい、ただし、私のいないときに」

「わけがわからない」

「そう? これを見て」

 縁はカギを一本取り出した。家の玄関に使うようなカギだ。それも、ニュータウンのものじゃない。この場所で生まれ育った私は知っている、ニュータウンの家に使われているカギは全部で三種類、でもゆかりの見せたカギはそのどれでもない。

 と縁は自分の住所を秘密にしている。それでも私は今までずっと、縁は佐間ニュータウンのなかに住んでいると思っていた。毎日、真名の登下校につきそっているのだから。でも、そうじゃないとすると──

「このカギのおうとつ、これはわけがわかる?」

 自分がはからずも秘密のいつたんを明かしてしまったことに、縁は気づいていないようだった。私もらぬ顔で、

「つまり、『どうして空は青いの?』っていうのは、パスワードみたいなもの?」

「ある意味ではね。でもそれだけじゃない。

 あなたがカギを手に入れたお祝いに、内緒のことをひとつ、教えてあげる。

 私の家は、この近所にはない」

 それは縁がカギを見せた瞬間に見当がついていたことだった。

 佐間ニュータウンは広い、バスで横断すると二、三十分はかかる。二人が毎朝バスに乗ってくるバス停は、コムズはくさんの近くで、佐間ニュータウンのほぼ中央にある。

 つまり──

「私は、真名の登下校につきそうために毎日、片道三十分かけてここに通ってる。どう思う?」

 そんなに深い仲だとでも言いたいのか。でも尽くすだけなら犬にだってできるし犬のほうがけなでかわいい。犬が自慢してるときってどうすりゃいいの、頭でもなでるの?

 なんてことを言ったら完全に負け惜しみなので言わない。

「そりゃ大変ね」

「そう、大変なんだ」。縁はうなずくと、

「カギは渡したよ。あとは、あなた次第だ。じゃあね」

 と言って、軽く手を振り、バス停のあるほうへと歩いていった。

 私はなんの感動もなく、ただ「けっ」と思うだけだった。縁のもったいぶった言葉のすべてが、ひたすらうさんくさかった。それがあながちとらではなく、時として中身のあるものだとは、私はまだ知らない。

『どうして空は青いの?』。この問いの恐ろしさを、私はまだ知らない。



             



 今年は二月一日が日曜日だ。くそっ、くそっ、くそっ。

 二月一日、それは、うちの学校が入学試験をやる日。この日が平日なら学校が休みになるのに、今年はならない。

 ちなみに、東京で中学受験をした人なら、試験日が二月一日というだけで、うちの学校のことが少しわかると思う。この日は、東京の私立女子中学の二大きよとう、雙×(ブランドりよくナンバーワン)と桜×(東大進学率ナンバーワン)の試験日だ。だからうちの学校は、二大巨頭のすべり止めには使えない。もちろん二大巨頭と張り合うような名門校でもない。中学受験に血道をあげる人とは別路線の、いわゆるお嬢様学校でございますの(と急に語尾がお嬢様口調)。

 その二月一日、朝食のあと、家でごろごろしていると、父が突然言った。

「パンダを見てくる。明日帰る」

 そして出ていった。突然旅に出るという習性が父にはある。突然とはいっても海外には行かず、三日以内に帰ってくる。

 パンダ? ジャイアントパンダだよね、白黒の。パンダって今どこの動物園にいるの、そもそもうえ動物園だけじゃなかったんだ、とか考えていたら、ふと思いついた。

 これから一日、父が家を留守にする。ということは今日は、を家に招いても、真名とのつきあいが父にバレない!

 チャンス、チャンス、チャンス! ごろごろしてる場合じゃない、私は起き上がって、部屋の中をうろうろと歩き回りながら、知恵を絞った。

 それがなぜそんなに重大なチャンスなのかというと、真名をいっぺん我が家に招いたら、真名も私を家に招くだろうから。たとえ向こうにその気がなくても、こちらから招けと要求する。そして、真名の家にあがったら、お金のこんせきを探す。通販の段ボール、宅配のピザの箱、コンビニのレシート、銀行のATMの明細票、そういうものがもしあれば、強力な証拠になる。自分の家の中ではいんぺい工作もたるんでるはず、もしかするといきなり机の上に貯金箱があったりして、などと例によって笑えるほど都合のいい妄想で頭を一杯にする。

 妄想しつつ知恵を絞ってみたものの、別になんの作戦も出てこなかったので、普通に真名にメールしてみた、『今日うちに遊びにこない?』。すぐに返信、『お昼をごそうしてくれる?』。出す出す、食い物で釣れるなら安いもんだわ。そういえば真名は毎日毎食、自分で作ってるんだよね。大変そう。

 というわけで、我が家に真名がきた。



             



『どうして空は青いの?』

 このカギは最後に取っておいた、というか、それまで忘れていた。女子校の王子様が教えてくれたうさんくさいじゆもんなんて、たいして興味もなかったし。

 は日曜日だから私服で、濃い灰色のコートに同系色のマフラー、えりの高いオフホワイトのシャツと焦げ茶のネクタイの上に緑のVネックのセーターを着て、足は黒のコットンパンツ。いつも制服姿を見慣れているから、まるで真名がいきなり大人になったようで、ちょっと緊張して眼鏡をかけなおす。

 そういえば、

「私服だといつも上に緑色の着てない?」。真名はうなずいて、

「お客様が覚えやすくて見分けやすいように、そうしてるの」。なるほどねえ。

 リビングにゲーム機があるのを発見すると、真名は飛びついた。めぐまれさんを始めてから、ゲームができなくなったという。

「ゲーム屋さんがこうに入ってくれなくて」

 講というのは恵まれ講のこと。講に入っていない店の商品は、おを頼んではいけない。そういえば、あの店はメンバーリストになかった。コムズはくさんの電器店はゲームを置いてない。

 お昼は宅配のピザにした。友達が遊びにきたときは、宅配のピザを食べるチャンスなのだ。

「うちのパパはこういうの食べないし、ひとりで食べようとすると一枚で二食か三食になって飽きるでしょ?」

「宅配のピザって初めて。うれしい」。ふーん、出前を取るほどわきは甘くない、ってことか。

 お昼のあとは、真名はまんがを読みふけった。まんがは、お布施を頼むときにしきが高い、という。ゲームもなし、まんがもなし、恵まれさんってつくづく大変だわ。

「家でヒマなとき何してるの?」

「図書館で借りてきた本を読んでる」。そんな手があったとは。図書館ならお金にさわらずにすむ。

 帰りぎわ、真名は、短冊をじた束と筆ペンを取り出した。なにかと思ったら、

「お昼を恵んでくれたでしょう」

「あれは友達にごそうしたんだよ、恵まれさんにお布施したんじゃなくて」

「そういうわけにはいかないの」

 あまりにもきっぱりとそう言うので、それ以上強くは言えなかった。なにがどうしてそうなるのか、さっぱりわからないけれど、紙切れ一枚のことで押しもんどうしても鹿鹿しい。

 慣れた手つきで書き終えると、

「こちらになります」

 おおっと。

 くずし字もカタカナは読みやすくて、おかげで今度は品名が途中まで読める、「昼食 ピザ」まで。その先はアラビア語同然のひつかくが二、三文字。その読めない部分を、うっとりと見つめてしまう。れい

「お持ちになりますか?」

「おやしろに──あ、だめ、もらう」。私はめぐふだを受け取った。社にっておいて、もし父に見つかったら、とのつきあいがバレる。

「では、ありがとうございました」

 なんとなく調子がくるって、そのとき、思い出した。女子校の王子様が教えてくれた、うさんくさいじゆもんのことを。

「話は変わるけど……」

 あまり興味もなく期待もせず、軽い気持ちで口を開いたのに、呪文を唱えようとしたとたん、私は口ごもってしまった。唱えたら口が腐りそう、あんまりにも気持ち悪い言葉だから。唱えてみようとする瞬間まで、そんなことはちっとも感じなかったのに。

「なに?」

「どうして空は青いの?」



             



「君は誰?」

 真名はほとんどなにもしなかった。

 眼光をピカッと光らせたりもしなかったし、バックに集中線が描かれたりもしなかったし、ロングソバージュの髪を重力に逆らって立てたりもしなかった。顔色を赤くも白くもしなかったし、目を丸くもしなかったし、舌打ちもしなかった。

 ただ、困ったようにまゆを寄せ、視線を床に落とした、それだけだった。次の瞬間、面倒くさそうに真名は言ったのだった、顔をあげて、これといった表情のない顔で、君は誰? と。