絵藤真名のPASMOカードを、背の高い女が持っていた。恵まれさんはお金に触ってはいけないから? PASMOカードは買い物もできるから、お金みたいなものだ。父は『そんなの、まともに生活できないだろ』、だからありえない、と言っていた。絵藤真名は、そのありえないことをしている? あの背の高い女に助けられて?
どうにもこうにも。ああ、もう。
心が騒ぐ。おとといと昨日、恵まれさんはああいうものだと納得したのが、ぐらぐらと揺れる。絵藤真名は、本当に二十四時間年中無休で、お金に触らずにいる? なんのために? 父の言ったような『恵まれさんごっこ』でも、誰も責めたりしないだろうに。わからない。テレビの仕組みがわからないようなわからなさとは全然違う、腹の底でぐるぐると渦を巻くような、わからなさ。
あの背の高い女は何? うちの学校に転入ということは帰国子女? どちらも気にはなるけれど、そのうちわかるだろう。実際、そうなった。けれどあのとき私の心をなにより騒がせていたのは、そういう答えのある謎ではなく、真名が通りすがりに投げかけた一瞥だった。
教育や家庭環境のような目に見えやすいものが、人間の運命に与える影響はごく限られたもので、予測や制御どころか観測さえできないくらい小さな偶然のほうが、はるかに根本的に人間の運命を左右する、と聞いたことがある。真名のあの一瞥は、そういう小さな偶然だったかもしれない。もし真名が私に気づかずに通りすぎていたら、なにもかもが違っていたかもしれない。あの一瞥に比べれば、真名と縁が私と同じクラスになったことなど、たいしたことではなかったかもしれない。
そう、絵藤真名とあの背の高い女は、私と同じクラスになった。二人しかいない転入生同士が同じクラスになるだなんて、これもなにか事情があるとしか思えない。
担任は絵藤真名のことを、「恵まれさんをしているので、お金に触れません」と紹介しただけで、転入の事情はなにも説明しなかった。背の高い女は、長谷川縁。こちらも事情説明なし。
この学校では、始業式のあとは授業が普通にある。二人のことは転げ回りそうなほど気になっていたけれど、そうなるとかえって気軽には近づけない。それで私は、休み時間に二人を取り囲む人の群れには加わらず、友達からの話やメールを通して、二人の様子をうかがった。
最初は、「コムズ白山って、るっち(私のあだ名)の近所だよね?」。次は、「転校の理由は秘密だって」。最後は、
「なに訊いても秘密ばっかりだから、飯田(同級生)が軽くムカついて、『なんか普通じゃないよね』って言ったら、絵藤さんがね、『それ、誰に向かって言ってるの?』って。
ギャグじゃない、目が本気。でも長谷川さんは、当たり前でしょって顔して黙ってんの。それでみんな、しらーっと黙っちゃった」
そうこなくっちゃ。私は嬉しくなった。野生動物にうかつに手を出したら、ひっかかれるのだ。ぐっとくるセリフじゃないの、『それ、誰に向かって言ってるの?』。ぐっとくるけれど、私はやられないようにしよう。
学校からの帰り道にも、あの二人には近づかず、別のバスで帰った。家に着くと、例のチラシの写真が見たくなり、しまってあったのを出した。
学校では、明るい茶髪のロングソバージュがひときわ目立っていた。うちの学校では茶髪は禁止のはずだけれど、恵まれさんをやるために必要だからと許可を取ったんだと思う。それなりに印象的な格好をしないと、お客に覚えてもらえない。
絵藤真名の顔、化粧っ気のない、超然とした、生々しい微笑み──どうにもこうにも。どうにもこうにも。どうにもこうにも。
今朝の一瞥が、頭の真ん中に居座って、私は落ち着いていられない。落ち着かない気持ちそのままに、十秒に一度は眼鏡をかけなおし、立ったり座ったり寝転がったりしながらチラシを眺めていると、
「ただいま」
父が帰ってきた。私はリビングに迎えに行き、
「おかえり」
険しい顔をして父は言う、
「淳子、神は死んだ」
*
小学校のときに宿題で、両親の仕事について作文を書いた。学校で教えられたとおり、私は父に取材した。
「パパのお仕事は?」
「芸術家だ」
「なにをするの?」
「太陽を作り出すんだ。真実という巨大な炎を燃やすんだ」
私は父の言葉をできるだけ忠実に原稿用紙に書き取り、最低の評価をもらった。
父の活動分野は多岐にわたる。現代詩と洋画が主で、俳句、彫刻、写真もやっている。十五年前に芸大を出てから今日まで、父はほとばしるような情熱をもって芸術活動に取り組み、そして今日に至るまで、一円たりとも収入を得たことがない。父と私は、祖父の遺産で暮らしている。
さて、『淳子、神は死んだ』から再開。
「ふーん、神は死んだの。パパは?」
「生きてる。たぶんな。だがそれは問題じゃない。
コムズ白山の恵まれさん、このあいだチラシを持ってきたあれな、社がオープンしてた。あれは、本物じゃないか。神は死んだ」
「本物って?」
「偽物の恵まれさんが神を生かすんだ。神が生きていることと、偽物の恵まれさんが存在することはイコールなんだ。それが本物だなんて、神は死んだんだ」
「パパが生きてれば別にいいし」
「わかってないな。俺はこの問題に取り組まなきゃならない」
父が『問題に取り組む』というとき、それは作品を作ることを意味する。
父はやっと演説を終えて、買ってきた食料品を冷蔵庫にしまいはじめた。私が自分の部屋に戻ろうとしたとき、
「淳子、お前の名前の恵み札があったぞ。
あの恵まれさんには近づくな。危ない」
言われるまでもなく、そんなのとっくにわかってる、という気がした。
おととい絵藤真名にお布施したことを、父には黙っていた。いいことをしたと自慢するみたいで嫌だとか、いろいろ理由はあった。でもこうして警告されてみると、父を心配させたくない、という理由もあったような気がする。自分がなにか危険なものに近づいていることを、私は感じていた。絵藤真名が危険なのではなくて、私が彼女から、あるいは彼女が私から、なにか危険なものを引き出してしまうのではないかと。ひっかかれてあわてて手をひっこめるだけではすまないような、なにかを。
「はいはい」
私は自分の部屋に戻り、例のチラシを眺める。
どうにもこうにも──じゃない、この気持ちがなんなのか、今はわかる。恐怖。私は、怖じ気づいている、危険だから。
絵藤真名。この名前にぐっときた、ということにはもうできない。
それを認めるのはなぜだか悔しくて、そのままずいぶん長いこと固まっていたけれど、どうしても、認めないわけにはいかない。
私は、彼女に惹かれている。
*
ありえない。
お金に触らない生活を、二十四時間年中無休で続けられるわけがない。
『風来包丁』に出てくる恵まれさんは、こっそりお金を使っていた。きっと昔からあれが恵まれさんの実態なんだ。うちの学校は、佐間ニュータウンに住んでいてコムズ白山で買い物をする生徒も多いから、おおっぴらにはお金を使えない。でも、知っている人の見ていないところでは、きっとお金を使ってるはずだ、そうに決まってる。
絵藤真名にお布施したとき、私はいったん納得した。恵まれさんはああいうもので、私はああすればいいのだと。でも今はその納得は消え失せてしまった。相手のことがわからない、だから危険を感じ、恐怖を感じる。
もし彼女がこっそりお金を使っているのなら、私はまた納得できる。そうしたらもう危なくない、怖くない、彼女は私と同じ人間だ。そのことを、確かめたい。
そんなわけで私は──当時は自分のしていることを自覚していなかったけれど──絵藤真名の行動をマークするようになった。
冷静に考えると、学校内でお金を使う場所といったら、自販機コーナーと購買の二か所だけだから、チャンスはほとんどない。でも冷静じゃないので、あきれるほど根拠のない都合のいい妄想がいくらでもわいてくる。自販機でコーヒーを買う絵藤真名の姿が、でたらめな説得力で脳裏にわいてくる。
ストーカーですか私は。はい、きっぱりばっちりストーカーです。危険に近づくというのは、自分自身が危険人物になる、ということでもある。
奇妙な転入生二人のまわりにできていた人垣は、三日目にはゼロになった。友達からの情報が入らなくなっても、私は遠くからの観察を続けた。将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、背の高い女、長谷川縁も観察対象だ。PASMOカードの件から考えるに、長谷川縁がそばにいるかぎり、絵藤真名はお金を使わない。でも私の観察によれば、二人はいつも一緒にいるように見えて、実はちょこちょこと単独行動もしている。
四日目の昼休み、絵藤真名が長谷川縁を置いてひとりで教室を出た。私はその後を追った。
彼女は階段を一階まで降り、自販機コーナーのあるほうへと歩いてゆく。五~十メートルの距離を保ってついてゆく。気づかれていそうな様子はない。自販機コーナーが近づく。胸が高鳴る。
こんな私の様子を後ろから眺めていた縁にとっては、さぞ見物だったにちがいない。
「こんにちは、橘さん」
硬直。
ギギギときしむ音を立てて振り向くと、長谷川縁がいた。
「あ……、なに?」
私は眼鏡をかけなおした、緊張したときの癖で。わきの下から冷や汗が一筋、つーっと流れ落ちるのを感じる。
長谷川縁は、なんでもお見通しとでも言いたげに微笑みながら、思わせぶりに首をかしげて、
「いや、別に?」
ハスキーな声が、からかうように弾んでいる。
「そう」
まだ絵藤真名を見失ったわけではないけれど、尾行はあきらめたほうがよさそうだ。私は教室に戻った。
私が尾行していたことはバレてもその目的まではバレていないはず、と例によってあきれるほど都合のいい妄想をふくらませつつ、五日目の昼休み。昨日に続いて今日も絵藤真名は、長谷川縁を置いてひとりで教室を出た。私はもちろん追いかける。
彼女は今日も階段を一階まで降り、自販機コーナーのあるほうへ──
「こんにちは、橘さん」
硬直。
私がギギギと音をたてている最中に、長谷川縁は言葉を続けた。
「橘さんに、お願いがあるんだ」
その声は楽しげだったけれど、からかっているようには聞こえなかった。
*
真名のことを懐かしくは思わない。彼女の記憶は今も、身を切られそうなほどに生々しい。ちょうど、彼女の微笑みがそうだったように。真名は今でも色あせず、型にはめることができず、謎を投げかけてくる。私は今でも、彼女に少しでも似ていると思える人を、ひとりも知らない。絵藤真名という人間のことを、私は今でも納得していない。
縁のことは、懐かしい。
彼女は、女子校の王子様として完璧だった、少なくとも私の記憶のなかでは。すらりと背が高く、手足と首が長かった。顔の輪郭が少年のように鋭く、その唇からはハスキーな声が放たれた。いつも、なにか冗談を思いついたときのように楽しげで、彼女の怒った顔など一度も見なかった。
彼女のなにもかもが、「女子校の王子様」という紋切り型にはまってしまう。あんなことをする人間だったと知っているのに、型の呪縛は強く、あのことさえも「女子校の王子様」という型で捉えてしまう私がいる。
おそらく私は彼女のことを、ろくに知らない。真名のおまけ、それが私にとっての縁だった。また、彼女自身がそうであることを望んだのかもしれない。
*
絵藤真名のおまけ。
クラスの友達に言わせれば、絵藤真名のほうが長谷川縁のおまけだ。長谷川縁は謎を秘めた王子様で、その王子様をなぜか独占しているチビが絵藤真名、だと。そのせいで、絵藤真名の情報があんまり入らなくてムカついた。
「橘さんに、お願いがあるんだ」
「なに?」
ギギギ。眼鏡をかけなおす。
「真名の友達になってみてくれないかな」
*
絵藤真名は私のことを覚えていた。
「先日はありがとう」
「どういたしまして」
それっきり絵藤真名は黙って、ただ私の顔を見ている。私は眼鏡をかけなおしながら、
「……絵藤さんは、どうして恵まれさんになったの?」
黙って横を向く絵藤真名。代わっておまけ(長谷川縁)が、
「ごめん、真名はそういう質問は嫌いなんだ」
おおっと。
なにが「おおっと」なのかといえば、黙って横を向くその態度が。そりゃ私にだって、されたくない質問くらいある、「お父様のお仕事は?」とか。でもその態度はすごくない? 嫌いじゃないけど、「おおっと」だわ。
「じゃ、どういうのがいいの?」
「そうだね、たとえば、あの本は役に立ってる? とか」
お布施したものが本だと知っている、じゃあ、絵藤真名はこのおまけに、私のことをしゃべったのだ。どんな風にしゃべったんだろう。気になるけれど、さすがにそれは訊けない。
「あの本は役に立ってる?」
「ええ」
そしてまた沈黙。負けないぞ!
「お料理するの?」
「ええ」
「三食ずっと自分で作ってるの?」。絵藤真名は毎日お弁当を持ってきている。
「ええ」
「一人暮らし?」
「ええ」
『ええ』しか言わないのかこいつは。じゃあ、
「私のこと嫌い?」
絵藤真名は微笑んだ。
「好き」