おおっと。
おおっと。
おおっと。
大切なことなので三度言いました。ついでにもう一度、おおっと。
明るい茶髪のロングソバージュは、実物だと目立つ。七分袖の緑のボレロは、新しい立て看板の写真で着ているのと同じもの。ボレロの下は黒のワンピース。携帯電話とIDカードを、ポールスミスっぽいマルチストライプの紐で首からさげている。
実物は、背が低いのに、大人っぽい。ワンピースのラインのせい? じゃない、頭が小さいんだ! 写真ではわからなかった。
彼女は料理書のコーナーで本を立ち読みしている。そこへ、
「あの、恵まれさんですよね?」
ひとりの勇者が現れて声をかけた。どんな勇者かと思ったら、私でした。まじかよ。すごいね私。
「はい」
彼女は、ごく当たり前に愛想よく、にっこり微笑んだ、思いがけないことに。チラシで見た、野生動物のような超然とした微笑みが頭にあったから、こんなに愛想よく笑うだなんて思わなかった。
「あ、あの、もしお仕事中じゃなかったら、ごめんなさい」
私は緊張したときの癖で、眼鏡をかけなおした。
「店内におりますときは仕事中です。
これを恵んでくださいませんか?」
さっき立ち読みしていた本を、彼女は差し出した。初心者向けの薄い料理書だ。
恵まれさんに声をかける、イコール、なにかお布施したいという意思表示。そりゃそうだ。
料理書を受け取り、値段を見ると、おおっと。でも、出せない額じゃない! 私はうなずいて、その本をレジに持っていった。
「はいどうぞ」
まわりからの視線を感じる。
「ありがとうございます。お名前のわかるものはなにかお持ちですか?」
私はあのチラシについていたカードを出した。彼女は肩にかけていたトートバッグから、筆ペンと、短冊を綴じた束を出す。
「橘淳子さま、くずし字をご希望ですね?」
社にあった恵み札はすべて楷書だった。彼女はどんなくずし字を書くんだろう。
ほとんど手首を動かさず、字を書くというより楽器を奏でるような手つきで、短冊に筆ペンで書き込んでゆく。やがて、
「こちらになります」
おおっと。
おおっと。
おおっと。
おおっと。
おおっと。
自分の名前はなんとなく読める、三文字だし。本のタイトルのなかの「今」という字もわかる、「と」みたいなあれだ。あとは全然読めない。アラビア語とどう違うのってレベルで。
読めない、でも、綺麗。
はわわわわ。すっごいわ。有難味で鼻血が出そう。
私が感動していると、
「お持ちになりますか?」
「もらっていいの?」
「ええ。ただしその場合、社には貼り出されません」
こういうのって、自分で持っているより、社に貼ってあるほうが綺麗で有難味があるんじゃないかな。でも記念にもらっておきたいし……、でも、もらってしまったら、領収書みたいで寂しい。
「お社に貼ってください」
「かしこまりました。では──」
彼女が別れの挨拶をする前に、私は眼鏡をかけなおしながら早口で、
「さっき、お社の恵み札を見たんだけど、冷蔵庫とかあったよね。一人暮らしなの? 学校はどこ、何年生?」
彼女はあいまいに微笑みながら、けれど口調はきっぱりと、
「プライベートなことはご容赦ください」
「あ……、ごめんなさい」
「では、ありがとうございました」
彼女は去っていった。
まんが雑誌三冊分のお金と引き換えに、私は勇気を出し、感動し、納得した。次の日、社には食料品や雑貨の恵み札が増えていて、そのなかには私の恵み札もあり、それを見て私は確認した。恵まれさんはああいうもので、私はああすればいいのだと。
もしこれで私と彼女の物語がひとまず終わり、二十年後にばったり再会するのだったら、お行儀がよく、わかりやすく、分類しやすい短編小説になる。人生の一面を切り取って鮮やかに描き出す三〇ページ。
けれど、『どうして空は青いの?』という問いが手ごわいのと似て、私と彼女のあいだにあったことは、話の糸口をつかむことさえ難しい。しばしば喜劇のようにふざけたことが起こり、そんなときも私と彼女は喜劇役者のように大真面目で、だからすべてを喜劇ということにしたくなるのだけれど、かく語る私自身がその喜劇役者なのだから、やっぱり喜劇役者らしく大真面目にならざるをえない。こみあげる笑いを噛み殺して仏頂面を無理に装う素人のようにではなく、笑うに笑えない当事者としての立場を自覚し引き受ける本物の役者のように。
次の糸口は、翌日。『中三の三学期に、転入生がやってきた』。
*
中三の三学期に、転入生がやってきた。
うちの学校は私立なんだけど。帰国子女しか転入させない、って聞いてたんだけど。
始業式で校長から紹介された、とかならまだ事情の説明もありそうだけど、この場合はそれもない。
というのも、始業式の朝、学校へのバスに乗っていると、あるバス停で、私と同じ制服を着て、絵藤真名が乗ってきた。
*
どうにもこうにも。
私は今朝の出来事を思い返す。腹の立つような、胸やけのような、やつあたりしているような、拗ねているような、ああ、もう、どうにもこうにも。
バスに乗ってきた転入生は、絵藤真名ひとりではなく、その後ろにもうひとりいた。絵藤真名は運賃箱の前で立ち止まり(このバスは運賃一律先払い)、後ろのもうひとりが横から手を出して、PASMOカードをタッチした。
「これはこの子の定期です」
後ろのもうひとりがハスキーな声で言う。手足の長い、すらりと背の高い女だ。
「これは私のです」
背の高い女はもう一枚、PASMOカードを出してタッチした。こんな妙なやりかたにも運転手は口を挟まず、二人はバスの後部座席へと歩いていった。
私はその様子を、前から三番目左側の座席に座って見ていた。
通りすがりざま、絵藤真名は私に気づいたらしく、一瞥をくれた。気のせいか、微笑んでいたように思えた、野生動物のように超然と。でも、よく思い出してみると、そんなのは気のせいだったような──ああ、もう、どうにもこうにも。
制服のネクタイは私と同じ臙脂色のピンストライプ、だから私と同じ中学三年生だとわかった。この制服は学年ごとにネクタイの色と模様が違う。背の高い女のほうも同じネクタイだった。
転入生は帰国子女しか受け入れないはずのうちの学校に来たということは、帰国子女? 同じバス停から二人連れということは、姉妹かなにか? でも姉妹にしては、二人の学年が同じだし、顔がちっとも似ていない。絵藤真名は一重まぶたのネコ科じみた丸顔で、美人だけれど地味といえば地味だ。背の高い女は彫りの深い面長の二重まぶたで、いかにも美形という要素が揃っている。