作品中のメタバースは、VRゴーグルを被って体験する三次元のオンライン仮想世界で、アバターの姿でたくさんのユーザー同士がコミュニケーションすることができます。VRゴーグルの再現する視覚と聴覚により、ユーザーはまるで実際にそこにいるかのような体験をすることができます。この作品ではアバターや仮想世界の土地の売買など、仮想世界の中で経済が成り立っていることが一つの特徴で、そういう意味でも現在語られているメタバースの概念を彷彿とさせます。本書冒頭で紹介した、現在私の体験しているソーシャルVRの世界そのものですね。1992年といえばWindows95が発売される3年前。インターネットどころかパソコンが一般的になる前の時代に現在のメタバースの世界を予言しているのは驚きです。

ただし、アバターは現実の自分を模した姿でなければならないルールがあるなど、異なる点もたくさんあります。また、現在「メタバース」と言うときは、必ずしもVRゴーグルを用いた体験のみに限定しないと語られることが多いです。作品内に登場する「メタバース」と現在のメタバースの定義とは切り離して考えた方が良さそうです。

とはいえ、現在のVR開発業界には『スノウ・クラッシュ』から大きく影響を受けたと公言する人物が数多くいます。Metaが買収したVRゴーグル開発企業「Oculus(オキュラス)」の創業者パルマー・ラッキーもその一人です。そうした経緯から「メタバース」という言葉が「フィクションではない、本物の仮想空間」という意味合いで使われるようになっていきました。

COLUMN

フィクションが育んだメタバースの概念

「メタバース」は『スノウ・クラッシュ』で突然生まれたわけではなく、もっと昔からSF作品で試行錯誤されてきたさまざまな仮想世界の文脈の延長線上にあります。有名なものでは「サイバースペース」「マトリックス」「電脳空間」など、SFファンにはこれらの言葉の方が馴染みがあるかたが多いのではないでしょうか。

「サイバースペース(Cyberspace)」はカナダの巨匠ウィリアム・ギブスンのSF小説『クローム襲撃』(1981)に登場するもので、今ではオンラインの仮想空間を表す広い意味の言葉として定着しています。ギブスンはそのアイデアをさらに練り上げ、小説『ニューロマンサー』(1984)で「マトリックス(Matrix)」として描きました。これは脳に埋め込んだ電極で接続し、意識ごと全感覚で没入(フルダイブ)できる仮想空間です。相手の脳へのハッキング攻撃やそれに対するセキュリティシステムなど、斬新な概念が多数登場します。とても刺激的で面白い反面、非常に難解な小説です。

その『ニューロマンサー』の難解な世界観を一般人にも理解できるかたちで、ビジュアルで美しく表現することに成功したのが、士郎正宗先生の漫画『攻殻機動隊』(1991)に登場する「電脳空間」です。そしてそれを映像化したのが世界的に高い評価を受けた押井守監督のアニメ映画『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995、Windows95発売の年!)さらに、それにインスパイアされて生まれたのがアメリカのウォシャウスキー姉妹による仮想空間アクション映画の金字塔『マトリックス』(1999)です。

フィクションの世界で我々が抱き、いま遂に現実のものになろうとしている仮想世界「メタバース」のイメージには、日本のSFアニメや漫画の影響も色濃く反映されているのです。