「――でさ、聞いて。ほんと最低なの」
喫茶店の席に着くなり、加奈は肩を怒らせて詰め寄った。
私はそれをメニューで防いで、仕方なく続きを促すことにする。
「急に家に帰ってきたと思ったら、仕事辞めてきた――とか言ってもう。何回目かわかる? 五回目。なんでアルバイトさえまともにできないのよ、最悪」
「合わないってこともあるし」
「ちょっと。生活かかってるんだよこっちは。あ、すみませんアイスティー」
「アイスコーヒー、ガムシロ抜きで」
近くを通りかかった店員に注文を済ませると、加奈は深くため息をつく。
「大変だね」
私は呆れた笑みをこぼした。それが精一杯。
難しい顔をした加奈は、水を一口飲んで椅子に背中を預けた。
「一緒に暮らすの、やめればよかった」
「大変そう。というか」
「うん」
「伊織さんと付き合って、大変そうじゃないの見たことないかも」
私は笑って、到着したアイスコーヒーをすすった。
加奈はますます難しい顔をして、がっくりと頭を垂れる。
「だよねえ」
「別れないのが不思議だよ」
「そこはまあ、好きだし」
「そっか」
私は力なく笑った。
空調が涼しい。外は日差しがきつくて、これくらいがちょうどいい。
喫茶店は名古屋文化だってよく聞くけれど、東京はどうしているんだろう。
少しだけ、昔のことを思い出す。
「そういえば」
私はふと顔をあげて、加奈の顔を見つめた。
アイスティーを飲みながらスマートフォンを弄っていた彼女は、視線を伏せたまま「なに?」と返事した。
LINEをしている。きっと相手は伊織さんだろう。
「何年だっけ。付き合いはじめて」
「伊織と?」
「そう」
私は伸ばした髪を耳にかけながら、考える素振りをした。
「えっと、何年だろ」
加奈もすぐには、答えを出せないようだった。
ひとつ。ふたつ。みっつ――指を折っていく。薬指には指輪があった。
数えは片手で足りた。手のひらはすべて広げられていた。
「五年だ」
「長いね」
「ほんとだね」
私と加奈は笑い合った。
高校を卒業して、私たちはもう大人になっていた。
加奈は社会人で、私は未だに学生なんてやっている。デザイン事務所でアルバイトをしていたけれど、加奈の苦労に比べたら子供みたいなものだ。
伊織さんと暮らす彼女は、最近すっかり所帯じみてしまっていた。
「茜の髪さあ」
「ん?」
「切りなよ、いい加減」
加奈はじっと私の髪を見ると、両手でジェスチャーした。
「あたしがやってあげよっか」
「えぇ? 嫌だよ」
「きてよー。やらせてよ」
「いいってば」
加奈は駅前のサロンで働いていたけれど、私は一度も行ったことがない。
そもそも、高校を卒業してから、ほとんど髪を切っていない――腰まで届く私の髪は、すぐ引っ掛かるし手入れも面倒だ。
「ほんと茜って」
「うん?」
「変わったよね」
「やめてよ。昔の話をするのは」
「話振ったのそっちじゃん」
加奈は悪戯っぽく笑うと、上目遣いで私を見た。
「僕」
「こら」
私は手をあげて怒る振りをして、ため息をついた。
二〇二三年、八月五日――令和という元号になっても、東京オリンピックが終わっても、私たちの日常はなにも変わらない。
あの頃から、なにも。
しばらく話して喫茶店を出ると、約束していた映画館に向かった。
伊織さんがバイトの面接だとかで、私が加奈をエスコートすることになっていた。内容は、恋愛映画だったと思う。タイトルは忘れてしまった。
名古屋駅の地下街を伝っていきながら、加奈は欠伸をしてスマートフォンを弄っていた。LINEをしている。相手は誰だろう。
「――ねぇ、茜」
加奈は突然、私の袖を引いた。
私は眉をあげて、目を見開く加奈を覗き込んだ。
「なに、どうしたの?」
「来週の土曜、空いてる?」
「え、なに。そりゃあ空いてるけど」
「帰ってきたって」
「は、誰が?」
私はすぐに思いつかなかった。
「理子先輩」
だから、眩暈がした。
「え、ちょっと待って。誰がそれ」
「伊織だよ。急に連絡が来たんだって」
「は、面接は?」
「あ――」
私たちは地下街の雑踏のなか立ち尽くした。
伊織さんと電話しはじめた加奈を余所に、私はふらつく頭を押さえた。
高梨先輩が、帰ってくる? 今更――どうして。
私は俯いたまま、奥歯を噛みしめた。
私は〝僕〟だ。
もう誰も知らない。思い出話にあがるだけ。
一過性の中二病だったと、笑い話にするだけ。
僕の身体は女になった。
胸は膨らんで、制服は失われた。
もう誰も、僕が〝僕〟であることを知らない。
お前は男なのか。
お前は女なのか。
本当のところは、未だにわからないでいる。
それでも僕は頷いた。
あの日からすべてが変わった。
僕はだんだん〝私〟となっていった。
髪を伸ばして切ることを止めた。
女の服を纏って化粧のすべてを覚えた。
海へ行った。山へ行った。知らない世界を旅した。
そして自らの冷たい指先を、身体の奥深くに突き刺した。
たとえ間違っていたとしても。
今、僕は〝私〟だ。
「ねぇ、終わったよ。映画」
「あ」
「観てなかったでしょ」
明るくなった映画館で、加奈が笑った。
私は唇を尖らして、鼻息を漏らした。
「やっぱり気になる? 理子先輩のこと」
「そうだね。気になる」
「だよねえ。なんで帰ってくるんだろ。嬉しいけど」
「卒業式、以来だよね」
「うん」
映画館の帰り道、地下鉄に揺られて私たちは頷き合った。
高梨先輩は、あのひとが学校から去ってもふつうだった。
なにも言わずに、楽しそうに笑って、穏やかに日常を過ごしていた。
けれど、卒業式を境に一切の連絡がつかなくなった。
高梨先輩は、別れの挨拶もなく消えていった。
「なにがあったんだろうねえ」
「そうだね」
私は知っているけれど、なにも言わなかった。
「来週さ、一応あたしが幹事でいい?」
「いや、私がやるよ。一番暇なの私だし」
「ほんと? 助かるー」
来週の土曜日は、ちょっとした同窓会になりつつあった。
早速LINEで伊織さんと連絡を取ると、夜九時に電話が鳴った。
伊織さんだ。
彼女はいつもどおりの、ぼんやりした声をしていた。
『茜ちゃん、大丈夫? お店決められる?』
『LINEでいいじゃないですか、それ』
『ダメよ。わたし心配で。加奈は任せればいいっていうけれど』
『私サークルで幹事やってるんで大丈夫ですよ』
私はベッドに横たわりながら、ノートパソコンを開いた。
『お洒落なところがいいですか?』
『それがね、理子が居酒屋がいいって』
『え、そうなんですか?』
『そうなの。それを伝えようと思って』
伊織さんは申し訳なさそうに声を絞って、ぼそぼそと呟いた。
LINEでいいじゃないか――とは二度も言うまい。
私は唸ると、名古屋駅の近郊を〝居酒屋〟で検索してみる。
『大丈夫? 決められる?』
『大丈夫ですって。それより、面接大丈夫なんです?』
私が呆れた声音で言うと、伊織さんは電話越しに呻いた。
『加奈には、怒られたわ』
『そうでしょうね』
『そうなの。ねぇ、聞いて茜ちゃん――』
私は『はいはい』と声をあげながら、机に置いてあった漫画を掴んだ。
最近また読みはじめている、バスケットボールの青春モノだ。
『――それでね、加奈ったら面接についていくって言い出して』
私は漫画を開いて眺めながら、伊織さんの愚痴にため息をついた。
かつて物語のように活躍した彼女も、今では友達の恋人で、友達だ。
あのバスケットボール部のエースは、もういない。
どこに行ってしまったのだろう?
それとも、こちらが本物だったのかもしれない。
名古屋駅はあれから五年経った今、高層ビルに覆われていた。
私たちも変わった。学生の頃は、用事がなければ来ることはなかった。
今は足繁く通っている。栄は名古屋駅の高層ビル群が機能しはじめると、急速に衰退していった。
今、名古屋駅エントランスの金時計はひとで溢れかえっている。なので私たちは、太閤通口側の銀時計の外で待ち合わせることにしていた。
時計の針は既に集合時刻を過ぎていた。
私は喧噪の最中を見渡し、加奈と伊織さんの姿を探す。
「あ、茜。こっちこっち」
「いたいた。こっちも混んでるね」
「改装されてから余計にねー」
私は加奈と手を合わせると、伊織さんに頭を下げた。
「茜ちゃん。久しぶりね」
「電話で話したばかりですが」
「会うのは久しぶりでしょう」
伊織さんはくすくすと笑って、身を引いていった。
私は瞬いた。なんだろう。周囲を見渡した。
加奈と伊織さんが、笑っている。
「ふーん、髪長くしたんだ」
視界をアッシュブロンドの短い髪が流れた。
小柄な少女だと思っていたその髪の持ち主は、眼鏡越しに私を見つめていた。
私は、あまりのことに目を見開いた。
「え、まさか」
「久しぶり。脇坂さん」
涼やかにステップを踏んだ童顔の女性は、眼鏡を直しながら笑った。
あの高梨先輩は、どこに行ってしまったのだろう。
こちらが本物なんてこと、あるのだろうか。
「ええと」
私は自分の髪を弄りながら、何故か赤面していた。
加奈が吹き出した。伊織さんが口に手を当てて微笑んだ。
「なにぼけっとしてるの、脇坂さん大袈裟すぎない?」
「いや、だいぶ驚くでしょう。こんなの」
「髪の色?」
高梨先輩はボブカットの髪をさらりと払った。
「いえ、雰囲気っていうか?」
「雰囲気ぃ? なにそれ」
高梨先輩は、輝く唇をにんまりと曲げて笑った。
「私は私だよ」
それはいつかの――あのひとと同じ言葉。
私は肩を震わせた。
その向日葵みたいな笑顔を、直視できなかった。
「――え、じゃあ今カメラでお仕事されてるんです?」
「そうそう。趣味だったんだけどね。代理店と契約してやってるの」
「すごいわね。手に職って感じじゃない」
「伊織はすっかりダメになったね」
「あ。いいですよ理子先輩。もっと言ってやってください」
「はやく就職しなさいよー? 結婚式、するんでしょ」
「わ、わかってるわよ」
三人の会話を尻目にスマートフォンを弄りながら、私は吐息をついた。
一旦カフェに入ろうという提案は、高梨先輩に却下されていた。
「私、コーヒー飲めないの。立ち話しようよ」
彼女は、きっぱりとそう言って、語りはじめてしまった。
「脇坂さんは、学生?」
「そうです」
いつの間にか、小さな身体がひょっこりと目の前に現れた。
私はLINEから目を離した。聞きたいことがあった。
加奈と伊織さんがふたりで話しているうちに、私は口を開くことにした。
「高梨先輩は」
「うん?」
「なんで今更、帰ってきたんですか」
「なんか棘ある言い方」
「なにも言わずに出て行ったじゃないですか」
私は憮然として、髪を弄った。さっきから隣をひとが通るたびに、引っ掛かる。
かつての高梨先輩も、きっと悩んでいただろう。髪が長いと大変だ。
「うーん、趣味でね。写真やってるの」
「それと関係が?」
「そうそう。故郷をね、そろそろ撮ろうと思って」
高梨先輩はジェスチャーを交えながら、私に微笑みかけた。
「私なりの、追憶の旅路って感じ?」
追憶。その言葉に、少し引っ掛かるものを感じた。
どこかで、似たような名前の写真集を見たことがある。
どこだったか――私は記憶を探って首を傾げた。
「あのさ、なにも言わなかったのは悪いと思ってる」
「そうですね、心配しましたよ」
率直に言うと、高梨先輩は笑った。
「また仲よくしてくれる?」
手を差し出して言うので、私はそれを握った。
「いやー帰るもんだね、たまには」
高梨先輩はにやーっと笑って、そっと手を離した。
「ねえ、茜そろそろじゃない」
加奈がこちらを見て手を振った。
銀時計を見る。制限時間まで、あと数分――私はLINEを送る。返答はまだない。
「行こうか、学校の話とか聞きたいなー?」
アッシュブロンドの高梨先輩は、私の顔を覗き込んだ。
加奈と伊織さんは手を繋いで、見つめ合っていた。
窓越しの銀時計が、刻々と時を刻んでいた。
私は奥歯を噛みしめると、スマートフォンを鞄に突っ込んだ。
「すみません、ちょっと」
「ん?」
「どうしたの?」
「先に行っててください。LINEに店のこと送っておきました」
「茜、どうしたの?」
加奈が首を傾げた。私はなにも答えずに走り出した。
「あ、ちょっと――」
もう居場所はわかっていたんだ。
待ち合わせに銀時計の外を選んだのは、私の作戦のひとつだった。
居場所を特定するための――何故なら銀時計の外には喫煙所があって、彼女は極度のヘビースモーカーだった。
私は喫煙所に駆け込むと、なかを覗き込む。
「やっぱり、ここにいた」
私はため息をつくと、喫煙所に踏み入った。
何回LINEを送っても、電話をしても、返事がなかった。
それでも私は知っていた。全部ここから覗いていたんだ。
「悠美」
私が名を呼ぶと、彼女は紫煙を吐いて答えた。
「来るだろうと思ってたよ」
悠美は嫌そうな顔で私を見ると、短くなった煙草を灰皿に投げこんだ。
新しい煙草を摘まもうとするのを、にらんで止める。
「なに。行けっての?」
睨み返す悠美の瞳は揺れていた。本当は行きたいのだ。わかっている。
「謝ってないでしょうが。あのこと」
「――今更」
「ずっと悩んでるくせに」
私は手を差し伸べた。
悠美の目が見開かれた。
「あんた、本当のクズになるつもり?」
私は嘲るように鼻を鳴らすと、指先を曲げて挑発した。
さあ、行くよ。
犯した罪は消えない。
過ちなんて二度と拭えない。
独り善がりでも不正解でも、人生は刻まれていく。
一体、いつまでそこにいるつもり?
私たちはもう子供じゃない。
悠美を見つめて、私は手を差し伸べる。
彼女は私の瞳を覗き込むと、ふと唇を歪めた。
「その手は握らないよ」
「――だろうね」
私は呆れて笑うと、手を引っ込めた。
喫煙所を出る間際、真夏の風が紫煙とまざり、思わず咳きこむ。
そんな私を残して、悠美は身勝手に進んでいく。
「行くよ」
悠美が手のひらをあげて振り向いた。
その手は残念ながら、まだ私のものじゃない。
後悔と苦悩が、彼女を縛り続けている。
「遅い」
「待ってよ」
私は悠美の背を追いかけて、夕闇に染まりつつある空を見あげた。
高校を卒業したら〝卒業〟できるって思っていた。
なのに未だ掴めない。
むしろ足早に、私の前を横切っていく。
「悠美――なの?」
「理子」
私は立ち止まった悠美の影を踏んだ。
それはすぐにすり抜けていく。
私たちはその影を、いつまでも追いかけている。