伸ばされた指は、福音を奏でていた。
真っ直ぐに開かれた視線は、虹色に輝いていた。
アタシは勝った。想像していた形とは違ったけれど、選ばれていた。
その手を握れば、理子との素晴らしい未来がはじまる。
その手を握れば。
なのにアタシは、理子の瞳から目が離せなかった。
なんて――きれいな目をしているんだろう。
顔、声、匂い、味、触り心地。五感だと思っていた。
全部、勘違いだった。
アタシは、その瞳が好きだったんだ。
理子はアタシを見つめていた。
いつだって、その瞳にはアタシが映っていた。
どんな困難を抱えても、ふやけるくらい熱くなっても、海に行っても山に行っても、買い物をしても映画を観ても――理子の瞳のなかで、アタシは笑っていた。そんな笑顔があるなんて知らなかった。
アタシはもう、もらっていたんだ。
虹色の感情を、理子に与えられていた。
離れるなんて嫌だった。
倫理なんて、常識なんて、要らなかった。
その真っ直ぐな瞳のなかに、いつまでも映っていたかった。
「――悠美?」
沈黙を続けるアタシに、理子が笑いかけた。
手を伸ばし直す。それは福音じゃない。死に神の鎌だった。
真っ直ぐな視線がアタシの身体を突き刺した。
心が、凍った。
ダメだ――伸ばさないで。
その手を、アタシに与えないで。
だってアタシは、ゲームをしていたはずなのだ。
理子の心を壊して、孤立させて、選択肢を狭めて、選ばせる。
最低で、最悪の未来を描いたはずだった。
「理子、アタシは」
アタシは、理子が好き。
手に入れたかったのは、その瞳だった。
好きなひとが、アタシを見てくれる。そんな幸せな未来を続けたかった。
ずっと。ずっと。
求めるものを、もらっていたのだ。
なのに、アタシはそれを求め続けて――
好きなひとを、絶望の海に沈めた。
「悠美、手を握って?」
理子は手のひらをかざして、真っ白な吐息をついた。
アタシは瞳に輝く虹色を、茫然と見つめていた。
夕闇と絶望が煌めくなか、アタシと理子の時間だけが止まっていた。
アタシは、目を伏せると手のひらをかざして――
理子の指先を、そっと押し戻した。
「握れない」
その手を握れば、理子は人間の屑と恋人になってしまう。
アタシの好きなひとが、穢れていなくなってしまう。
そんなの耐えられない。アタシは間違っていた。
間違っていたんだ。
「そっか」
理子は鞄を握りしめた。
その瞳から、虹色がすぅっと消えていった。
涙はなかった。
泣いているのはアタシだけだった。
「理由、聞かないんだ」
俯いて問いかけると、理子は困った顔をした。
「わかるよ。悠美、顔に出るもん」
もう全部、最初からわかっていたんだ。
「さようなら」
理子は力なく笑うと、背を向けた。
遅れて差し伸べた手は、空を切った。
迷いのない足取りで、理子はアタシの前から遠ざかっていった。
小さくなった理子の背中が、一瞬震えた。
アタシは目を見開いて、
「どうして――追いかけてこないのよ」
奥歯を噛みしめる音を聞いていた。
アタシはなにもできなかった。絶望のなかで、恐怖に震えていた。
夕闇のなかで、顔を覆って泣いていた。
すっかり辺りは暗くなってしまった。
公園の時計が十八時、十九時、二十時――時を刻んでも、アタシは立ちあがることができなかった。涙は枯れて、嗚咽だけが手のひらの隙間からあふれた。
車のライトが、断続的に視界を横切った。風が吹いて、スカートがはためいた。足元に投げ捨てた鞄が、街灯を反射して鈍く光っていた。
アタシはふと顔をあげた。
静かだった公園の奥底に、違和感を覚えた。
耳を澄ませる――ボールのバウンドする音が聞こえた。
スマートフォンを取り出すと、数件の通知をどけて時刻を見た。
二十二時。こんな時間に、誰だろう。
アタシはベンチから立ちあがると、木々が茂る公園のなかへ足を踏み入れた。
ところどころで光る街灯を頼りに、奥へ進んでいく。
広場に影があった。それはボールを弾ませ、遠くに見えるバスケットボールのゴールへ飛びあがった。ダンクシュートだ。でも届かない。
影は地面に倒れて、ボールはアタシの足元へ転がった。
「いてて」
ボールの主が声をあげた。
ソイツはスカートをだらしなく捲りあげて、擦りむいたらしい膝を抱えていた。聞き覚えのある声だった。見間違えようもなかった。
「脇坂?」
「あれ、斉藤先輩?」
ボールを拾って近づくと、脇坂はきょとんとした顔でアタシを見あげた。
咄嗟に顔を背けても遅かった。
「その目――」
脇坂は茫然とアタシの顔を見つめていた。
「なんでもないよ」
「なにかありましたね」
言葉は同時に出た。
アタシが嘆息すると、脇坂は鼻息を漏らした。
「話、聞きますよ」
脇坂は立ちあがって、広場脇のベンチを親指で示した。
「聞かなくていいよ。それより、アンタはなんで?」
アタシは首を振って手のひらでボールを弄ぶ。
脇坂は眉をあげて、口をもごもごと動かした。
「ダンクシュートを」
「練習?」
「えぇ、まあ」
「ご苦労なこって」
そういえば、バスケットボール部は三学期から再開だったか――
アタシは思い当たって頷いた。ボールを脇坂にパスする。
「おっと」
「はやく帰んな。補導されるよ」
「先輩こそ」
「アタシはいいんだ」
薄く笑うと、脇坂もにやりとした。
なんだコイツ。アタシは急に楽しくなって、パスをせがんだ。
脇坂はボールを繰り出すと、ゴールへ向けて走りはじめた。
地面は雑草だらけで、アタシたちは制服だった。
それでもボールは強く弾んで、互いの影は重なり合った。
「やば、先輩うまい」
「はあ? やったことなんてないよ」
アタシたちは息を切らせて、ボールを奪い合った。
脇坂は我慢できずに跳びあがり、シュートを打つ。アタシはポストに阻まれたボールを奪い返すと、そのまま後ろに跳びあがって一点を先取した。
「なまってんね」
「くそお」
肩で息をする脇坂を、アタシは鼻で笑った。冗談じゃない。
今のでアタシも汗だくだった。冬の夜になにやってんだ、アタシたち。
「斉藤先輩」
「なに」
アタシは袖で喉を拭いながら、脇坂を見つめた。
「その目、どうしたんですか」
脇坂は真剣な顔で、アタシをにらんだ。
「なに怒ってんの」
「答えてくださいよ」
「なんでアンタなんかに」
返答の代わりにパスを繰り出したけれど、脇坂は付き合わなかった。
ボールは明後日の方向に逸れて、広場の奥へ消えていった。
「――別れたんですね」
脇坂は押し殺したような声で呟いた。
アタシは目を見開くと、脇坂の襟を掴んだ。
「見てたの?」
「見てませんよ。でもわかるんです」
「なにがわかるのさ」
アタシは苛立って、青色のタイを捻りあげた。
「斉藤先輩、顔に出るから」
それは――別れの言葉だった。
アタシのなかで、なにかが音を立てて崩れた。
気づくと、脇坂の頬を思いきり殴りつけて、地面に押し倒していた。
「やっぱり。そう言われたんですね」
「脇坂、アンタいい加減にしな」
「話してくれたっていいじゃないか」
「なんでアンタに」
身体が反転して、お腹に脇坂が乗った。
手が喉に伸びる。代わりに指先で髪を掴んだ。
「ずるい。斉藤先輩は持ってたじゃないか。どうして捨てたんだ」
「アンタになにがわかる。捨てたんじゃない。握れなかったんだ」
「同じじゃないか」
「違う」
脇坂の背中を膝で蹴りあげる。
それでも動じず、脇坂はアタシの首を掴んだ。
「なんで捨てたんだ」
「アタシは――」
「あんなに傷ついてたじゃないか。高梨先輩は、あんなに耐えていたじゃないか。あんな噂。嘘なのに。なのにどうして捨てたんだ。どうして――」
視界が潤む。なんでコイツなんかに、泣かされなきゃいけない。
アタシはがむしゃらに髪を引っ張りながら、口を開いた。
今それを言っても、どうにもならない。
そんなことはわかっていたのに、アタシは我慢ができなかった。
「噂を流したのは、アタシだ」
脇坂は目を見開いていた。
「――アタシなんだよ。だから握れなかった」
頬に固い感触が当たった。後頭部を思いきり地面に打ちつけた。
「あんた最低だ」
殴られたと気づく前に、脇坂が吐き捨てた。
互いに息をつき合った。睨みあって、奥歯を噛みしめていた。
「アタシは――間違えたんだ。理子が、そばにいなくなるのが怖かった」
「だからってどうして。やっちゃいけないことくらい、わかるだろ」
脇坂は泣いていた。ぼろぼろと涙をこぼしていた。
アタシは力を抜いて、痛む頬をさすった。
歯の隙間から血の味が漂っていた。
「わかってたさ。全部、わかってた」
「なのにやったのか」
「孤立すると思ったんだ」
「あんた、最低だ」
「アンタになにがわかる」
脇坂をどかして、アタシは立ちあがった。
転がった鞄をひったくって、肩で息を吐いた。
「――わからないんだ」
脇坂は茫然としていた。
「わからない。なんでそんなことができるんだ」
「アンタにはわかんないよ」
「あんたになにがわかる」
「さあね」
アタシは肩をすくめた。
「――僕は羨ましい。皆、そういう感情を持ってる」
「恋すりゃ誰だって持つよ。アタシは、間違えたけど」
「高梨先輩だって、加奈だって、間違えてるじゃないか」
「違う。アタシのは最悪だ」
「でも、僕は羨ましい」
脇坂はスカートを握りしめて、顔をしかめていた。
まるで勝負に負けて悔しがるような顔だった。
本当にわかっていないのだ。
脇坂には、なにもない。
「アンタさ、前に〝僕〟だって言ったよね」
「わからないだろ、あんたには」
脇坂は、彼でも彼女でもない。それさえない。
アタシはそれを知っていた。けれど、首を振った。
「わかんないね。アタシはアタシだよ」
脇坂が目を見開いた。
アタシは胸に手を当てると、持たざるものを笑った。
「そんなこともわかってなかったの、アンタ」
「でも、僕は」
「まわりがどうとかじゃない」
本当に、脇坂はなにも持っていない。
器がないヤツに、なにを言っても無駄だ。
「アンタはアンタでしょうが」
アタシは踵を返すと、血のまじった唾を吐いた。
時間の浪費だ。それでも幾分、気持ちはマシになった。
アタシは最悪の人間。そういう女。
男子なんて置物だ。先生なんて獣だ。愛するのは、最愛の同種たち。
なにも決められないヤツに用はない。
「――先輩。待って」
「なに、なんでついてくんの」
「いや送ってくださいよ。こんな時間ですし」
「はあ? なんでよ」
「なんでって。いいじゃないですか」
追い縋るように駆けだした脇坂を見やると、アタシは顔をしかめた。
ソイツはアタシの隣に並ぶと、アタシを見て呟いた。
「先輩」
「なに」
「僕は僕、なんですよね」
「だからなに」
「いや。いいんですよ」
脇坂は顔を背けて、しきりに髪を弄り出した。
アタシは諦めて目を閉じると、去り際の理子を思い出した。
「さようなら」
涙も見せずに、彼女はそう言った。
その瞳は虹色の代わりに、夕闇を映していた。