Ⅳ/Ⅲ 斉藤 悠美

 

 

 

 伸ばされた指は、福音を奏でていた。

 真っ直ぐに開かれた視線は、虹色に輝いていた。

 アタシは勝った。想像していた形とは違ったけれど、選ばれていた。

 その手を握れば、理子との素晴らしい未来がはじまる。

 その手を握れば。

 なのにアタシは、理子の瞳から目が離せなかった。

 なんて――きれいな目をしているんだろう。

 顔、声、匂い、味、触り心地。五感だと思っていた。

 全部、勘違いだった。

 アタシは、その瞳が好きだったんだ。

 理子はアタシを見つめていた。

 いつだって、その瞳にはアタシが映っていた。

 どんな困難を抱えても、ふやけるくらい熱くなっても、海に行っても山に行っても、買い物をしても映画を観ても――理子の瞳のなかで、アタシは笑っていた。そんな笑顔があるなんて知らなかった。

 アタシはもう、もらっていたんだ。

 虹色の感情を、理子に与えられていた。

 離れるなんて嫌だった。

 倫理なんて、常識なんて、要らなかった。

 その真っ直ぐな瞳のなかに、いつまでも映っていたかった。

「――悠美?」

 沈黙を続けるアタシに、理子が笑いかけた。

 手を伸ばし直す。それは福音じゃない。死に神の鎌だった。

 真っ直ぐな視線がアタシの身体を突き刺した。

 心が、凍った。

 ダメだ――伸ばさないで。

 その手を、アタシに与えないで。

 だってアタシは、ゲームをしていたはずなのだ。

 理子の心を壊して、孤立させて、選択肢を狭めて、選ばせる。

 最低で、最悪の未来を描いたはずだった。

「理子、アタシは」

 アタシは、理子が好き。

 手に入れたかったのは、その瞳だった。

 好きなひとが、アタシを見てくれる。そんな幸せな未来を続けたかった。

 ずっと。ずっと。

 求めるものを、もらっていたのだ。

 なのに、アタシはそれを求め続けて――

 好きなひとを、絶望の海に沈めた。

「悠美、手を握って?」

 理子は手のひらをかざして、真っ白な吐息をついた。

 アタシは瞳に輝く虹色を、茫然と見つめていた。

 夕闇と絶望が煌めくなか、アタシと理子の時間だけが止まっていた。

 アタシは、目を伏せると手のひらをかざして――

 理子の指先を、そっと押し戻した。

「握れない」

 その手を握れば、理子は人間の屑と恋人になってしまう。

 アタシの好きなひとが、穢れていなくなってしまう。

 そんなの耐えられない。アタシは間違っていた。

 間違っていたんだ。

「そっか」

 理子は鞄を握りしめた。

 その瞳から、虹色がすぅっと消えていった。

 涙はなかった。

 泣いているのはアタシだけだった。

「理由、聞かないんだ」

 俯いて問いかけると、理子は困った顔をした。

「わかるよ。悠美、顔に出るもん」

 もう全部、最初からわかっていたんだ。

「さようなら」

 理子は力なく笑うと、背を向けた。

 遅れて差し伸べた手は、空を切った。

 迷いのない足取りで、理子はアタシの前から遠ざかっていった。

 小さくなった理子の背中が、一瞬震えた。

 アタシは目を見開いて、

「どうして――追いかけてこないのよ」

 奥歯を噛みしめる音を聞いていた。

 アタシはなにもできなかった。絶望のなかで、恐怖に震えていた。

 夕闇のなかで、顔を覆って泣いていた。

 

 

 

 すっかり辺りは暗くなってしまった。

 公園の時計が十八時、十九時、二十時――時を刻んでも、アタシは立ちあがることができなかった。涙は枯れて、嗚咽だけが手のひらの隙間からあふれた。

 車のライトが、断続的に視界を横切った。風が吹いて、スカートがはためいた。足元に投げ捨てた鞄が、街灯を反射して鈍く光っていた。

 アタシはふと顔をあげた。

 静かだった公園の奥底に、違和感を覚えた。

 耳を澄ませる――ボールのバウンドする音が聞こえた。

 スマートフォンを取り出すと、数件の通知をどけて時刻を見た。

 二十二時。こんな時間に、誰だろう。

 アタシはベンチから立ちあがると、木々が茂る公園のなかへ足を踏み入れた。

 ところどころで光る街灯を頼りに、奥へ進んでいく。

 広場に影があった。それはボールを弾ませ、遠くに見えるバスケットボールのゴールへ飛びあがった。ダンクシュートだ。でも届かない。

 影は地面に倒れて、ボールはアタシの足元へ転がった。

「いてて」

 ボールの主が声をあげた。

 ソイツはスカートをだらしなく捲りあげて、擦りむいたらしい膝を抱えていた。聞き覚えのある声だった。見間違えようもなかった。

「脇坂?」

「あれ、斉藤先輩?」

 ボールを拾って近づくと、脇坂はきょとんとした顔でアタシを見あげた。

 咄嗟に顔を背けても遅かった。

「その目――」

 脇坂は茫然とアタシの顔を見つめていた。

「なんでもないよ」

「なにかありましたね」

 言葉は同時に出た。

 アタシが嘆息すると、脇坂は鼻息を漏らした。

「話、聞きますよ」

 脇坂は立ちあがって、広場脇のベンチを親指で示した。

「聞かなくていいよ。それより、アンタはなんで?」

 アタシは首を振って手のひらでボールを弄ぶ。

 脇坂は眉をあげて、口をもごもごと動かした。

「ダンクシュートを」

「練習?」

「えぇ、まあ」

「ご苦労なこって」

 そういえば、バスケットボール部は三学期から再開だったか――

 アタシは思い当たって頷いた。ボールを脇坂にパスする。

「おっと」

「はやく帰んな。補導されるよ」

「先輩こそ」

「アタシはいいんだ」

 薄く笑うと、脇坂もにやりとした。

 なんだコイツ。アタシは急に楽しくなって、パスをせがんだ。

 脇坂はボールを繰り出すと、ゴールへ向けて走りはじめた。

 地面は雑草だらけで、アタシたちは制服だった。

 それでもボールは強く弾んで、互いの影は重なり合った。

「やば、先輩うまい」

「はあ? やったことなんてないよ」

 アタシたちは息を切らせて、ボールを奪い合った。

 脇坂は我慢できずに跳びあがり、シュートを打つ。アタシはポストに阻まれたボールを奪い返すと、そのまま後ろに跳びあがって一点を先取した。

「なまってんね」

「くそお」

 肩で息をする脇坂を、アタシは鼻で笑った。冗談じゃない。

 今のでアタシも汗だくだった。冬の夜になにやってんだ、アタシたち。

「斉藤先輩」

「なに」

 アタシは袖で喉を拭いながら、脇坂を見つめた。

「その目、どうしたんですか」

 脇坂は真剣な顔で、アタシをにらんだ。

「なに怒ってんの」

「答えてくださいよ」

「なんでアンタなんかに」

 返答の代わりにパスを繰り出したけれど、脇坂は付き合わなかった。

 ボールは明後日の方向に逸れて、広場の奥へ消えていった。

「――別れたんですね」

 脇坂は押し殺したような声で呟いた。

 アタシは目を見開くと、脇坂の襟を掴んだ。

「見てたの?」

「見てませんよ。でもわかるんです」

「なにがわかるのさ」

 アタシは苛立って、青色のタイを捻りあげた。

「斉藤先輩、顔に出るから」

 それは――別れの言葉だった。

 アタシのなかで、なにかが音を立てて崩れた。

 気づくと、脇坂の頬を思いきり殴りつけて、地面に押し倒していた。

「やっぱり。そう言われたんですね」

「脇坂、アンタいい加減にしな」

「話してくれたっていいじゃないか」

「なんでアンタに」

 身体が反転して、お腹に脇坂が乗った。

 手が喉に伸びる。代わりに指先で髪を掴んだ。

「ずるい。斉藤先輩は持ってたじゃないか。どうして捨てたんだ」

「アンタになにがわかる。捨てたんじゃない。握れなかったんだ」

「同じじゃないか」

「違う」

 脇坂の背中を膝で蹴りあげる。

 それでも動じず、脇坂はアタシの首を掴んだ。

「なんで捨てたんだ」

「アタシは――」

「あんなに傷ついてたじゃないか。高梨先輩は、あんなに耐えていたじゃないか。あんな噂。嘘なのに。なのにどうして捨てたんだ。どうして――」

 視界が潤む。なんでコイツなんかに、泣かされなきゃいけない。

 アタシはがむしゃらに髪を引っ張りながら、口を開いた。

 今それを言っても、どうにもならない。

 そんなことはわかっていたのに、アタシは我慢ができなかった。

「噂を流したのは、アタシだ」

 脇坂は目を見開いていた。

「――アタシなんだよ。だから握れなかった」

 頬に固い感触が当たった。後頭部を思いきり地面に打ちつけた。

「あんた最低だ」

 殴られたと気づく前に、脇坂が吐き捨てた。

 互いに息をつき合った。睨みあって、奥歯を噛みしめていた。

「アタシは――間違えたんだ。理子が、そばにいなくなるのが怖かった」

「だからってどうして。やっちゃいけないことくらい、わかるだろ」

 脇坂は泣いていた。ぼろぼろと涙をこぼしていた。

 アタシは力を抜いて、痛む頬をさすった。

 歯の隙間から血の味が漂っていた。

「わかってたさ。全部、わかってた」

「なのにやったのか」

「孤立すると思ったんだ」

「あんた、最低だ」

「アンタになにがわかる」

 脇坂をどかして、アタシは立ちあがった。

 転がった鞄をひったくって、肩で息を吐いた。

「――わからないんだ」

 脇坂は茫然としていた。

「わからない。なんでそんなことができるんだ」

「アンタにはわかんないよ」

「あんたになにがわかる」

「さあね」

 アタシは肩をすくめた。

「――僕は羨ましい。皆、そういう感情を持ってる」

「恋すりゃ誰だって持つよ。アタシは、間違えたけど」

「高梨先輩だって、加奈だって、間違えてるじゃないか」

「違う。アタシのは最悪だ」

「でも、僕は羨ましい」

 脇坂はスカートを握りしめて、顔をしかめていた。

 まるで勝負に負けて悔しがるような顔だった。

 本当にわかっていないのだ。

 脇坂には、なにもない。

「アンタさ、前に〝僕〟だって言ったよね」

「わからないだろ、あんたには」

 脇坂は、彼でも彼女でもない。それさえない。

 アタシはそれを知っていた。けれど、首を振った。

「わかんないね。アタシはアタシだよ」

 脇坂が目を見開いた。

 アタシは胸に手を当てると、持たざるものを笑った。

「そんなこともわかってなかったの、アンタ」

「でも、僕は」

「まわりがどうとかじゃない」

 本当に、脇坂はなにも持っていない。

 器がないヤツに、なにを言っても無駄だ。

「アンタはアンタでしょうが」

 アタシは踵を返すと、血のまじった唾を吐いた。

 時間の浪費だ。それでも幾分、気持ちはマシになった。

 アタシは最悪の人間。そういう女。

 男子なんて置物だ。先生なんて獣だ。愛するのは、最愛の同種たち。

 なにも決められないヤツに用はない。

「――先輩。待って」

「なに、なんでついてくんの」

「いや送ってくださいよ。こんな時間ですし」

「はあ? なんでよ」

「なんでって。いいじゃないですか」

 追い縋るように駆けだした脇坂を見やると、アタシは顔をしかめた。

 ソイツはアタシの隣に並ぶと、アタシを見て呟いた。

「先輩」

「なに」

「僕は僕、なんですよね」

「だからなに」

「いや。いいんですよ」

 脇坂は顔を背けて、しきりに髪を弄り出した。

 アタシは諦めて目を閉じると、去り際の理子を思い出した。

「さようなら」

 涙も見せずに、彼女はそう言った。

 その瞳は虹色の代わりに、夕闇を映していた。