Ⅳ/Ⅱ 高梨 理子

 

 

 

 その場所にとって、本は世界だった。

 音楽は空気で、甘い香りがした。

 雑貨たちは、カーニバルをはじめていた。

「どうしたの?」

 悠美に袖を引かれて、私は瞬いた。

 いけない。ぼうっとしていた。

 私は返答の代わりに、目を逸らして周囲を眺めた。

 見渡すかぎり、本。本。本。漫画。小説。写真集――

 その隙間を、音楽と雑貨が埋めていた。服や鞄が、壁にぶら下がっていた。

 視界は混沌として定まらない。

「こんな場所があるなんて」

 私は思わず吐息をついて呟いた。

 学校から歩いて二十分。ふだん通り過ぎていた青いガレージのなかは、まるで玩具箱だった。私と悠美は身を寄せあって、狭い通路におさまっていた。

「来たことなかったんだ」

 悠美が馬鹿にしたように笑うので、私はムッとして眉をあげた。

「ないよ。教えてくれればよかったのに」

「ここなら本も音楽も探せるよ」

「逆にわかんないよ、こんなにあると」

 私はため息をついて、赤い梯子のかかった高い天井を見つめた。

 放課後になったら〝寄り道〟しよう。

 私は悠美と約束していた。

 参考書が欲しかった。ついでに音楽も探したかった。大事な話もしたかった。

 それなのに悠美はこんな場所に連れてきて、しきりに袖を引いた。

「感覚で選べばいいんだよ」

「感覚っていっても――」

 私は途方に暮れて、再び首を巡らせた。

 スチールラックを組み合わせた棚に、漫画がずらりと並んでいた。かと思えば、隣の棚には画集があった。振り返ると古びたCDプレイヤーから、聴いたことのない音楽が流れていた。その音楽に合わせて、ぶら下がったぬいぐるみが踊っていた。どこからか甘い香りが漂う――もう滅茶苦茶だ。

「わかんないよ」

「だろうね。一緒に見て回ろ」

 悠美は頷くと、ふらふらと棚の間を歩いていった。

 ちょっと待って――私はそれを追いながら、棚を眺めて回った。

 まるでここは、あらゆる文化の異世界だった。

 悠美は案内人で、私は旅慣れぬ迷い人。

「小説はこの辺かな」

「あ、これ。知ってる」

 私は指差された棚から一冊の本を手に取った。

 黄色いPOPがついている。『ひたすら面白い!』と書かれていた。

 私は思わず笑ってしまって、悠美の顔を覗いた。

「面白いでしょ」

「うん、面白いかも」

 私たちは笑い合うと、すべてがひしめく世界を進んでいった。

「なんか今かかってる音楽、いいね」

「どこから聴こえてくるんだろう?」

「探してみよう」

 気づけば私は、目をぎゅっと見開いていた。

 悠美が気に入った音楽は、今まで聞いたこともない言葉で歌われていた。

 悠美が指差したぬいぐるみは、まったく知らない顔をしていた。

 悠美が買おうとしている漫画は、私たちが買ってはいけない指定がされていた。思わず止めて、くすくすと笑う。

「ダメだよ、それは」

「流石は、元生徒会長」

 冗談めかして肩をすくめる悠美を、私は軽く叩いた。

 すっかりと魔法にかかっていた。

 知らない世界が、こんなに近くに――そうだ。ここにはあるはずのものがない。境界線がないんだ。すべてが同列に存在している。〝ふつう〟も〝ふつうじゃない〟も、すべてが共存している。

 私は瞳を輝かせて、一冊の本を棚から抜き出した。

 それは知らないひとの、知らない本だった。

「これ、買おうかな」

「写真集? 高いよそれ」

「うん。でも」

 なんか、これいいかも。

 本を開くと、風景の写真が一枚一枚、丁寧に配置されていた。

 なにを思って撮影したのかは、わからない。

 けれど本のタイトルには『追憶』とあった。

 きっと過去に置き忘れたものを、探し続けているのだ。

「いいね。楽しみ方がわかってきた?」

「うん。なんかここ、好き」

 私はその写真集を胸に抱えた。

 いつもこうだ。私は、悠美に新しい世界を教えてもらっている。

 海だって山だって、私は行ったことがなかった。悠美は私のはじめてばかりを奪っていった。この場所もそうだ。こんな場所があるなんて、知らなかった。学校の近くにずっとあったのに、私は見向きもしなかった。

 悠美がいなければ、知らないままだった。

「もう少し見てもいい?」

「うん、いいよ。一緒に見よう」

 私は笑みを浮かべると、悠美に肩を寄せた。

 悠美は安心したように吐息をつくと、顔を背けてしまった。

 せっかく、近かったのにな。顔――それを残念に思う間もなく、悠美が声をあげた。なにかを見つけたのか、ふらふらと棚の隙間を漂って、行ってしまう。

 もう、仕方ないんだから。私は呆れて、そのだらしのない背を追いかけた。

 青いガレージを出る頃、空はすっかり夕闇に染まりはじめていた。

「結局、こんな時間だね」

「ごめんね、付き合わせちゃって」

「ぜんぜんいいよ」

 通学路に戻ると、あの異世界のことが夢のようだった。

 いつもの道。いつもの交差点。いつものコンビニ。いつもの――日常は、変わらず時を刻んでいる。私たちの久しぶりのデートは、少しそこから飛び出しただけだった。

 でも、それだけで世界は変わる。

 私たちは新しいものに出会って、進んでいく。そう思った。

 なんで今までわからなかったんだろう。

 私は自分が恨めしい。全部、人任せにしてきた。私がやらなくても、誰かがやってくれた。生徒会長になっても、それは変わらなかった。

 私はなにをしたいの?

 これからを、どうしたいの?

 私は向き合わないといけなかったんだ。

「ねぇ、悠美」

「なに?」

 私は隣を歩く悠美の横顔を見つめた。

 どこか暗い顔をしていた。私は目を伏せると、胸の鼓動を押さえた。

「今日、バイト休みだよね?」

「――いや、今日は」

 悠美は慌てた声で私を遮ろうとした。

 けれど、私はもう知っていた。

「休みだよね?」

 私は昼休みの間に、伊織と連絡を取っていた。

 冷蔵庫に貼ってあるシフト表を、確認してもらっていた。

 悠美はなにも言わなかった。

 ――本当に、不器用なんだから。

 買い物にわざと時間をかけて、嘘をつこうとしていた。

 私はため息をつくと、通学路の脇にある大きな公園を見やる。

 最初から、そこで話そうと私は決めていた。

「ちょっと寄ろう。大事な話があるの」

 悠美の袖を引っ張って、公園の広場にあるベンチを目指した。

 沈黙が続いた。隣り合わせて座っても、悠美はなにも言わなかった。

 ただ苦々しい顔をして、視線を背けていた。

 私は悠美を残してベンチを立った。

 向かい合って、鞄を握りしめる。

「ねぇ、悠美。聞いて」

「――なんの話?」

「進路の話」

 ようやく私を見てくれた悠美に私は頷いた。

 鼓動が、どんどんはやくなる。鞄のなかの写真集が、音を立てて傾いた。

 私は言葉を探しながら、口を開いた。

「あの日から、話してなかったんだけど」

 悠美は無言で先を促した。私は震える吐息とともに頷いた。

「私ね、東京に行くよ」

 私が選んだ最初の選択――東京に行くって、私は決めていた。

「でも模試が」

「あんなの、どうだっていいよ」

「でも、大学は」

「わかってる。でもそうじゃないんだ」

 私は力なく笑うと、追い縋る悠美に首を振った。

「東京に、探しに行くよ。私のこれからを」

「理子」

 悠美は涙を浮かべて、やがて項垂れた。

 唇からあふれる互いの吐息は、真っ白に染まっていた。

「私たちの約束、覚えてる?」

 躊躇うように声をかけると、悠美は顔をあげた。

「高校を卒業したら」

「卒業、しよう」

「うん。そう約束してた」

 卒業式は、別れになるはずだった。

 私は東京へ行って、悠美はこの街で暮らす。

 遠距離なんて、女同士なんて続かないってわかっていたから。

 だけど。

「その約束、やめよう」

 私は手を伸ばした。

 悠美の目が見開かれた。

 風が少し凪いで、私の髪は夕闇に散らばった。

「新しいこと探したって、悠美がいなかったら意味ないよ」

「理子」

「遠距離になる。皆と同じじゃない。私たち、女同士。だけど」

 私は選択した。これからの未来の形を。

「一緒にいたい。悠美、私は貴女が――好き」

 差し出した手のひらを、翻した。

 背は低くて髪は長いけど、今の私は王子様。

 泣いてるお姫さまに、選択肢を与える。

「この手を握って。悠美」

 私は悠美を真っ直ぐに見つめて、震える指先を伸ばした。

 新しい未来が、はじまろうとしていた。