その場所にとって、本は世界だった。
音楽は空気で、甘い香りがした。
雑貨たちは、カーニバルをはじめていた。
「どうしたの?」
悠美に袖を引かれて、私は瞬いた。
いけない。ぼうっとしていた。
私は返答の代わりに、目を逸らして周囲を眺めた。
見渡すかぎり、本。本。本。漫画。小説。写真集――
その隙間を、音楽と雑貨が埋めていた。服や鞄が、壁にぶら下がっていた。
視界は混沌として定まらない。
「こんな場所があるなんて」
私は思わず吐息をついて呟いた。
学校から歩いて二十分。ふだん通り過ぎていた青いガレージのなかは、まるで玩具箱だった。私と悠美は身を寄せあって、狭い通路におさまっていた。
「来たことなかったんだ」
悠美が馬鹿にしたように笑うので、私はムッとして眉をあげた。
「ないよ。教えてくれればよかったのに」
「ここなら本も音楽も探せるよ」
「逆にわかんないよ、こんなにあると」
私はため息をついて、赤い梯子のかかった高い天井を見つめた。
放課後になったら〝寄り道〟しよう。
私は悠美と約束していた。
参考書が欲しかった。ついでに音楽も探したかった。大事な話もしたかった。
それなのに悠美はこんな場所に連れてきて、しきりに袖を引いた。
「感覚で選べばいいんだよ」
「感覚っていっても――」
私は途方に暮れて、再び首を巡らせた。
スチールラックを組み合わせた棚に、漫画がずらりと並んでいた。かと思えば、隣の棚には画集があった。振り返ると古びたCDプレイヤーから、聴いたことのない音楽が流れていた。その音楽に合わせて、ぶら下がったぬいぐるみが踊っていた。どこからか甘い香りが漂う――もう滅茶苦茶だ。
「わかんないよ」
「だろうね。一緒に見て回ろ」
悠美は頷くと、ふらふらと棚の間を歩いていった。
ちょっと待って――私はそれを追いながら、棚を眺めて回った。
まるでここは、あらゆる文化の異世界だった。
悠美は案内人で、私は旅慣れぬ迷い人。
「小説はこの辺かな」
「あ、これ。知ってる」
私は指差された棚から一冊の本を手に取った。
黄色いPOPがついている。『ひたすら面白い!』と書かれていた。
私は思わず笑ってしまって、悠美の顔を覗いた。
「面白いでしょ」
「うん、面白いかも」
私たちは笑い合うと、すべてがひしめく世界を進んでいった。
「なんか今かかってる音楽、いいね」
「どこから聴こえてくるんだろう?」
「探してみよう」
気づけば私は、目をぎゅっと見開いていた。
悠美が気に入った音楽は、今まで聞いたこともない言葉で歌われていた。
悠美が指差したぬいぐるみは、まったく知らない顔をしていた。
悠美が買おうとしている漫画は、私たちが買ってはいけない指定がされていた。思わず止めて、くすくすと笑う。
「ダメだよ、それは」
「流石は、元生徒会長」
冗談めかして肩をすくめる悠美を、私は軽く叩いた。
すっかりと魔法にかかっていた。
知らない世界が、こんなに近くに――そうだ。ここにはあるはずのものがない。境界線がないんだ。すべてが同列に存在している。〝ふつう〟も〝ふつうじゃない〟も、すべてが共存している。
私は瞳を輝かせて、一冊の本を棚から抜き出した。
それは知らないひとの、知らない本だった。
「これ、買おうかな」
「写真集? 高いよそれ」
「うん。でも」
なんか、これいいかも。
本を開くと、風景の写真が一枚一枚、丁寧に配置されていた。
なにを思って撮影したのかは、わからない。
けれど本のタイトルには『追憶』とあった。
きっと過去に置き忘れたものを、探し続けているのだ。
「いいね。楽しみ方がわかってきた?」
「うん。なんかここ、好き」
私はその写真集を胸に抱えた。
いつもこうだ。私は、悠美に新しい世界を教えてもらっている。
海だって山だって、私は行ったことがなかった。悠美は私のはじめてばかりを奪っていった。この場所もそうだ。こんな場所があるなんて、知らなかった。学校の近くにずっとあったのに、私は見向きもしなかった。
悠美がいなければ、知らないままだった。
「もう少し見てもいい?」
「うん、いいよ。一緒に見よう」
私は笑みを浮かべると、悠美に肩を寄せた。
悠美は安心したように吐息をつくと、顔を背けてしまった。
せっかく、近かったのにな。顔――それを残念に思う間もなく、悠美が声をあげた。なにかを見つけたのか、ふらふらと棚の隙間を漂って、行ってしまう。
もう、仕方ないんだから。私は呆れて、そのだらしのない背を追いかけた。
青いガレージを出る頃、空はすっかり夕闇に染まりはじめていた。
「結局、こんな時間だね」
「ごめんね、付き合わせちゃって」
「ぜんぜんいいよ」
通学路に戻ると、あの異世界のことが夢のようだった。
いつもの道。いつもの交差点。いつものコンビニ。いつもの――日常は、変わらず時を刻んでいる。私たちの久しぶりのデートは、少しそこから飛び出しただけだった。
でも、それだけで世界は変わる。
私たちは新しいものに出会って、進んでいく。そう思った。
なんで今までわからなかったんだろう。
私は自分が恨めしい。全部、人任せにしてきた。私がやらなくても、誰かがやってくれた。生徒会長になっても、それは変わらなかった。
私はなにをしたいの?
これからを、どうしたいの?
私は向き合わないといけなかったんだ。
「ねぇ、悠美」
「なに?」
私は隣を歩く悠美の横顔を見つめた。
どこか暗い顔をしていた。私は目を伏せると、胸の鼓動を押さえた。
「今日、バイト休みだよね?」
「――いや、今日は」
悠美は慌てた声で私を遮ろうとした。
けれど、私はもう知っていた。
「休みだよね?」
私は昼休みの間に、伊織と連絡を取っていた。
冷蔵庫に貼ってあるシフト表を、確認してもらっていた。
悠美はなにも言わなかった。
――本当に、不器用なんだから。
買い物にわざと時間をかけて、嘘をつこうとしていた。
私はため息をつくと、通学路の脇にある大きな公園を見やる。
最初から、そこで話そうと私は決めていた。
「ちょっと寄ろう。大事な話があるの」
悠美の袖を引っ張って、公園の広場にあるベンチを目指した。
沈黙が続いた。隣り合わせて座っても、悠美はなにも言わなかった。
ただ苦々しい顔をして、視線を背けていた。
私は悠美を残してベンチを立った。
向かい合って、鞄を握りしめる。
「ねぇ、悠美。聞いて」
「――なんの話?」
「進路の話」
ようやく私を見てくれた悠美に私は頷いた。
鼓動が、どんどんはやくなる。鞄のなかの写真集が、音を立てて傾いた。
私は言葉を探しながら、口を開いた。
「あの日から、話してなかったんだけど」
悠美は無言で先を促した。私は震える吐息とともに頷いた。
「私ね、東京に行くよ」
私が選んだ最初の選択――東京に行くって、私は決めていた。
「でも模試が」
「あんなの、どうだっていいよ」
「でも、大学は」
「わかってる。でもそうじゃないんだ」
私は力なく笑うと、追い縋る悠美に首を振った。
「東京に、探しに行くよ。私のこれからを」
「理子」
悠美は涙を浮かべて、やがて項垂れた。
唇からあふれる互いの吐息は、真っ白に染まっていた。
「私たちの約束、覚えてる?」
躊躇うように声をかけると、悠美は顔をあげた。
「高校を卒業したら」
「卒業、しよう」
「うん。そう約束してた」
卒業式は、別れになるはずだった。
私は東京へ行って、悠美はこの街で暮らす。
遠距離なんて、女同士なんて続かないってわかっていたから。
だけど。
「その約束、やめよう」
私は手を伸ばした。
悠美の目が見開かれた。
風が少し凪いで、私の髪は夕闇に散らばった。
「新しいこと探したって、悠美がいなかったら意味ないよ」
「理子」
「遠距離になる。皆と同じじゃない。私たち、女同士。だけど」
私は選択した。これからの未来の形を。
「一緒にいたい。悠美、私は貴女が――好き」
差し出した手のひらを、翻した。
背は低くて髪は長いけど、今の私は王子様。
泣いてるお姫さまに、選択肢を与える。
「この手を握って。悠美」
私は悠美を真っ直ぐに見つめて、震える指先を伸ばした。
新しい未来が、はじまろうとしていた。