Ⅳ/Ⅰ 脇坂 茜

 

 

 

 布が擦れる音が聞こえる。

 僕は何者かに組み敷かれ、身体を貪られている。

 両脚は強い力で拡げられていた。灼熱の痛みが背筋を這った。

 悲鳴をあげる間もなく、僕の唇は長細い手のひらで塞がれていた。

 吐き気がした。呼吸ができない。

 喉は潰れて、焼けた胃液の味がした。

 制服はとうに破り捨てられていた。

 づぶづぶ。ぐぢゅぐぢゅ。ぶぢぶぢ。下腹部から、あの音が響く。猥雑な水の滴る音が。肉の裂ける悲鳴が。頭が割れそうだ。痛い。痛い。痛い。

 僕は助けを求めて、闇のなかで何者かの顔を覗いた。

 そいつは伊織先輩の皮をかぶっていた。

 栗色の髪が闇を舞い、優しい面影を隠していた。

 気づく。

 これは夢だ。

 夢。

 僕は見てしまった。

 加奈と伊織先輩の、一部始終を。

 あの夜の行為は、僕の常識を覆した。

 づぶぢゅぶ。ぐぢゅにぢゅ。あの音が響く。気持ち悪い。気持ち悪い――闇に溶けながら、僕は頭を振った。水気が脳に響く。匂いが肌を撫でる。鉄錆の味が。生々しい埃の感触が。心臓を打つ。

 夢だ。

 これは夢。

 夢。

 だから僕は、気づくと教室にいた。

 窓の外を見ると、青空が眩しい。

 真っ白なカーテンが視界を泳いでいた。

「次、脇坂」

 先生の声がして、僕は立ちあがった。

 周囲を見渡すと、生徒は男子ばかりだった。

 視線があった。声があった。ひそひそ。じろじろ。

 僕は見られている。

 制服はとうに破り捨てられていた。

 膨らんできたふたつの胸が、最近恨めしい。

 そうだ。いつもこうやって見られている。

 背が高いせいで、僕は目立つ。制服なんて意味ない。

 その視線が細まるたび、僕は〝僕〟でないことを思い知る。

「お前は男なのか」

 先生が問うので、僕は首を振った。

「お前は女なのか」

 先生が問うので、僕は首を振った。

 どちらでもない。

 どちらでも在りたくない。

 同じにはなりたくない。

 けれど、その目で見られるのは耐えかねる。

 僕は〝僕〟で在りたかった。

 そうでなければ、あのおぞましい行為の餌食になってしまうから。

 僕は首を振り続けた。

 教室は次第に消えていった。

 気づけば、なにもかもを見失っていた。

 

 

 

 光を感じて、まぶたを開く。

 見渡すと、僕は図書室にいた。

 窓の外には鮮やかな夕焼けが描かれていた。

 どうやら、居眠りしていたらしい。

 手のなかにはバスケットボールのルールブック。

 足元には鞄と、体育倉庫から拝借したボールがひとつ転がっていた。

 僕は本を鞄に入れて、ボールをくるくると回転させながら教室を後にした。窓に映る自分の姿は、まるでバスケットボールの選手のように見える。

 なんだか格好いい。

 〝青春〟をしている気がする。

 単なるイメージだ。それでもよかった。

 僕はひとも疎らな昇降口で靴を履きかえると、砂まじりの風を受けて校門へ歩いた。茜色に光る校舎から逃げ出して、いつもの通学路を彷徨っていく。

 こんな時間まで学校に残っていたのは久しぶりだった。

 もう残る理由もない。

 部活動は三学期から再開を予定していたけれど、部員が戻ってくるかどうかはわからなかった。少なくとも、伊織先輩が戻ってくることはないだろう。

 僕にバスケットボールを教えてくれた女神は、もういない。

 僕が〝恋愛〟だと思っていた感情は、羨望が生み出した妄想だった。

 あの日生徒会室で、天啓を得たはずだった。

 身体に羽が生えたようで、運命を感じた。

 ダンクシュートができるって、そう思った。

 全部、勘違いだった。

 僕はバスケットボールの選手にはなれなかった。

 練習試合の話は騒動のなかで消えてしまったし、想像した伊織先輩は実在しなかった。

 本物もあっという間に友達に取られてしまい、いくら練習しても、ルールブックを開いても、ダンクシュートを決めることはできなかった。

 僕にはなにもない。

 ひとり通学路を歩く、冷たい影があるだけ。

 加奈と高梨先輩が持っている、あの虹色の感情――僕にはそれがない。

 あれはなんだろう。

 不思議だった。あのおぞましい行為さえも許容するほどの、強い感情。

 喜怒哀楽の四種では説明できない、複雑奇怪なプリズムの輝き。

 あれはなんだろう。

 僕には、きっとそれがない。

 交差点の赤信号で立ち止まって、僕は考え続けた。

 空は夕闇に染まりつつあった。