布が擦れる音が聞こえる。
僕は何者かに組み敷かれ、身体を貪られている。
両脚は強い力で拡げられていた。灼熱の痛みが背筋を這った。
悲鳴をあげる間もなく、僕の唇は長細い手のひらで塞がれていた。
吐き気がした。呼吸ができない。
喉は潰れて、焼けた胃液の味がした。
制服はとうに破り捨てられていた。
づぶづぶ。ぐぢゅぐぢゅ。ぶぢぶぢ。下腹部から、あの音が響く。猥雑な水の滴る音が。肉の裂ける悲鳴が。頭が割れそうだ。痛い。痛い。痛い。
僕は助けを求めて、闇のなかで何者かの顔を覗いた。
そいつは伊織先輩の皮をかぶっていた。
栗色の髪が闇を舞い、優しい面影を隠していた。
気づく。
これは夢だ。
夢。
僕は見てしまった。
加奈と伊織先輩の、一部始終を。
あの夜の行為は、僕の常識を覆した。
づぶぢゅぶ。ぐぢゅにぢゅ。あの音が響く。気持ち悪い。気持ち悪い――闇に溶けながら、僕は頭を振った。水気が脳に響く。匂いが肌を撫でる。鉄錆の味が。生々しい埃の感触が。心臓を打つ。
夢だ。
これは夢。
夢。
だから僕は、気づくと教室にいた。
窓の外を見ると、青空が眩しい。
真っ白なカーテンが視界を泳いでいた。
「次、脇坂」
先生の声がして、僕は立ちあがった。
周囲を見渡すと、生徒は男子ばかりだった。
視線があった。声があった。ひそひそ。じろじろ。
僕は見られている。
制服はとうに破り捨てられていた。
膨らんできたふたつの胸が、最近恨めしい。
そうだ。いつもこうやって見られている。
背が高いせいで、僕は目立つ。制服なんて意味ない。
その視線が細まるたび、僕は〝僕〟でないことを思い知る。
「お前は男なのか」
先生が問うので、僕は首を振った。
「お前は女なのか」
先生が問うので、僕は首を振った。
どちらでもない。
どちらでも在りたくない。
同じにはなりたくない。
けれど、その目で見られるのは耐えかねる。
僕は〝僕〟で在りたかった。
そうでなければ、あのおぞましい行為の餌食になってしまうから。
僕は首を振り続けた。
教室は次第に消えていった。
気づけば、なにもかもを見失っていた。
光を感じて、まぶたを開く。
見渡すと、僕は図書室にいた。
窓の外には鮮やかな夕焼けが描かれていた。
どうやら、居眠りしていたらしい。
手のなかにはバスケットボールのルールブック。
足元には鞄と、体育倉庫から拝借したボールがひとつ転がっていた。
僕は本を鞄に入れて、ボールをくるくると回転させながら教室を後にした。窓に映る自分の姿は、まるでバスケットボールの選手のように見える。
なんだか格好いい。
〝青春〟をしている気がする。
単なるイメージだ。それでもよかった。
僕はひとも疎らな昇降口で靴を履きかえると、砂まじりの風を受けて校門へ歩いた。茜色に光る校舎から逃げ出して、いつもの通学路を彷徨っていく。
こんな時間まで学校に残っていたのは久しぶりだった。
もう残る理由もない。
部活動は三学期から再開を予定していたけれど、部員が戻ってくるかどうかはわからなかった。少なくとも、伊織先輩が戻ってくることはないだろう。
僕にバスケットボールを教えてくれた女神は、もういない。
僕が〝恋愛〟だと思っていた感情は、羨望が生み出した妄想だった。
あの日生徒会室で、天啓を得たはずだった。
身体に羽が生えたようで、運命を感じた。
ダンクシュートができるって、そう思った。
全部、勘違いだった。
僕はバスケットボールの選手にはなれなかった。
練習試合の話は騒動のなかで消えてしまったし、想像した伊織先輩は実在しなかった。
本物もあっという間に友達に取られてしまい、いくら練習しても、ルールブックを開いても、ダンクシュートを決めることはできなかった。
僕にはなにもない。
ひとり通学路を歩く、冷たい影があるだけ。
加奈と高梨先輩が持っている、あの虹色の感情――僕にはそれがない。
あれはなんだろう。
不思議だった。あのおぞましい行為さえも許容するほどの、強い感情。
喜怒哀楽の四種では説明できない、複雑奇怪なプリズムの輝き。
あれはなんだろう。
僕には、きっとそれがない。
交差点の赤信号で立ち止まって、僕は考え続けた。
空は夕闇に染まりつつあった。